文豪のつぶやき

2008.07.18
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カテゴリ: 時代小説
 白井家からの帰り道、篠原は満天の星の下ゆるゆると歩いていた。
 白井への説得が不調に終わった今、最後の頼みの綱は宮下俊輔しかいない。
(宮下に説得をたのもう)
 篠原はそう思った。
 宮下は去年の橋姫の輿入れの時に護衛として同行したが、幕府が瓦解したため関東の政情が不安になり、橋姫警護のためそのまま武州毛呂藩に滞留している。
(宮下をつれもどろう)
 篠原はそう決意した。
 篠原は早速青木正和ら首脳を呼びよせるとそのことを打ち明けた。
「して誰が呼び戻しにゆきます」

「私が」
 ゆかねばなりますまい、と篠原は云った。
 宮下と同じ太子堂組にいた篠原が話がしやすい。年も同年である。
 それに、江戸に近い武州の毛呂藩にいる宮下に江戸の情勢を直接聞きたい。
 宮下は槍の名手というだけではなく、情報分析力もある。武州から送ってくる彼の情報は的確で、しかもそれに添えてある意見はいちいち正鵠を得ている。篠原が三田藩の舵をうまく操作出来ているのも宮下の力を得ているところが大きい。
 篠原は来週出立することを伝え、青木らに後事をこまごまと指示した。

 篠原が武州毛呂藩に着いたのは閏四月も終わろうとしている夕暮れ。
 供はない。
 異例というべきであろう。
 小藩とはいえ、一国の首相が単身他国へ出向かうということはありえない。
(仰々しい行列など無用だ)

 政務の補助としてはべとをおいているのみである。
 この一事を見ても篠原の合理さが伺える。
 篠原は、宮下が宿所にしている妙源寺に入った。
「おう、来たな」
 先に早飛脚で連絡をうけていた宮下は境内まで出ていて篠原の来るのをいまかいまかと待ちかねていた。

 篠原は馬から下りると手拭いで袴の埃を払った。
「単身ではさみしゅうてのう」
 宮下は男振りのいい笑顔をみせた。しみとおるような笑顔である。
 何せ、昨年の橋姫の輿入れから半年余、たった一人で異国に滞在している。
 「風呂を沸かしてある。とりあえず旅の埃を落とせ」
 宮下はそういうと篠原を中へ誘った。
(よく気がつくのう)
 篠原はくすくすと笑った。
 宮下も苦笑した。
「おめさんのいいたいことはよくわかる」
 宮下は男のくせに如才なく気がつくことを気恥ずかしく思ったのだろう。
 篠原は宮下の肩をぽんと叩くと、
「許せ、感心したんじゃ」

 風呂の窓からは木々の梢が見えた。
「どうですかのう、湯加減は」
 寺男らしい老爺の声がした。
「ああ、ちょうどいい湯です」
 篠原は湯船の中で大きく伸びをすると、
(こんなにゆっくり出来るのもいまのうちだな)
 と呟いた。
 国へ帰れば激務が待っている。
(せいぜいゆっくりするか)
 篠原は湯船を出ると頭を洗いはじめた。
 明日は毛呂の館に登城し、ご機嫌伺いのため橋姫に会うので身ぎれいにしなければならぬ。
 その時、後ろで声がした。
「お背中流しましょう」
 若い女性の声である。
「いや、拙者は」
 断ろうとするのをおかまいなしに女は垢すりに糠をつけ背中を流しはじめた。
「では好意に甘えて、たのむか」
「はい」
 女の動作はきびきびして小気味がよい。
「おめさんは背中を流すのが上手だが、こういう商売でもしているのか」
 女はくすくすと笑いながら、
「いいえ、あなたさまは特別でございますよ」
(かわった女だな)
 女は湯船の中から湯を汲みあげて頭からざぶざぶとかけ、
「はい、お粗末様でございました」
 と云った。
 篠原はすまないのう、とふりむいて、
 げっ、と声をあげた。
 橋姫である。
「ひっ姫様」
 篠原は慌てて、すのこの上で平伏した。
 橋姫はたすきをほどくと、にこにこと笑いながら、
「篠原殿、長い道中ご苦労さまでした。また、この度は江戸家老ご就任おめでとうございます」
 そういうと、丁寧に頭をさげ奥のほうに去っていった。
(橋姫はかわらぬのう)
 篠原は湯船に入り直すとそう呟いた。
 橋姫は今年で二十四になるが三田藩にいた時からああいう性格で、茶目っ気がある。
 国元にいる時も軽装で、陣屋を抜け出しては、百姓の家に入り込み赤ん坊のお守りをしたり、祭りの時なぞ町人の中に混じって団子を売ったりしている。
 そのせいか、三田の民百姓からは姫様姫様と慕われきた。
 橋姫の人気はすごいもので輿入れの時には、三田全領民が陣屋前から国境の沖見峠まで沿道に平伏し、橋姫の行列を見送ったほどである。
 篠原は風呂を上がると膳の前に座った。
「姫は帰られたか」
 宮下は頷きながら銚子をむけた。笑いを噛み殺している。
「姫もあいかわらずじゃな」
 篠原は、苦虫をつぶしたような顔をしている。
「まことにわが姫様は天下一じゃ」
 宮下は顔をほころばせつつ云った。
「三田の者はみな姫様が大好きじゃ」
「ところで」
 と篠原は杯を置いた。
「江戸の情勢はどうじゃ」
「うむ、緊迫しておる。」
 宮下は情勢を述べた。
 宮下の話によると、旧幕府系の彰義隊が官軍と一戦を交えるため、上野の山に籠もっており、そのため江戸に下ってきた官軍と一触即発の事態になっているという。
「いよいよはじまるな」
 篠原は緊張した顔で云った。
「うむ」
 破壊と創造がである。
「国もとはどうじゃ」
 宮下が聞いた。
 篠原は藩論を勤王に統一し、山県ひきいる官軍に恭順したことを話した。
「妥当だ」
 宮下は頷いた。
「だが」
 篠原は太子堂組が長岡藩の河井継之助を慕って脱藩するということと、べとの説得失敗を伝えた。
「馬鹿な」
 宮下は声をあげた。宮下は江戸に近い毛呂にいるため天下の情勢が手に取るようにわかっている。いまさら徳川に殉じたところで詮ない。
「河井先生に殉じたところでどうにもならぬ。それに」
 かれらは三田藩士ではないか、と唾をとばして怒鳴った。
 宮下は物事を巨視的に考える性格で、情義に流される事は少ない。かれは自身を三田藩士に定義している。自らの存在は自らを定義して初めて成立する。三田藩士として定義してこそ自分があるのだ。物事はそれを基準に考えればよい、とかれは思っている。その点で、篠原の考え方に近い。
 今回かれが太子堂組の面々から、脱藩の誘いをうけなかったのは、橋姫護衛の役目についていたということもあるが、そういう考え方の違いがある。
 宮下としてみれば、長岡藩留学は三田藩のためであり、河井はあくまでそのための技術教師にしかすぎぬ。
「彼らの決意は堅い」
 篠原は唇をかみしめながらうつむいた。
 ただ、太子堂組の脱藩慰留は絶望的だが白井はまだいくぶんかの余地がある、と篠原はつけくわえた。
「宮下」
 篠原は顔をあげると、
「おめさん、三田に戻ってかれらを説得してくれぬか」
 篠原は三田藩の宰相となっており、太子堂組とはすでに距離がありすぎる。
 宮下はその点、籍はまだ太子堂組にある。
 宮下もそのことはわかっている。
「わかった。白井さんだけでもなんとか慰留せねば」
 宮下は頷いた。





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最終更新日  2008.07.19 11:16:29
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