文豪のつぶやき

2008.07.22
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カテゴリ: 時代小説
 翌日、篠原は藩主に拝謁し、白井家断絶の許可を得るや早速書状を起草し、白井家に使者を立てた。使者は土田尚平、べとである。
 土田家はかつての白井家の上司にあたる。
 のみならず土田家のお慶は白井一馬の許嫁である。
 篠原は渋るべとに因果を含めて言い聞かせ使者として送り出した。
 やがて、べとは戻ってきた。
「もう、いやですよ。こんな役目は」
 べとは帰るなり愚痴った。
 べとの来訪にお幸は正装して玄関で三つ指をついて迎え入れた。その表情は普段とかわらない。
 お幸はべとを客間に請じいれると下座でべとの読み上げる書状を平伏して聞いた。

 しかし、お幸がそれを制するように、
「わかりましてございます。殿さまには白井家のためにここまでお目をかけていただきましたにもかかわらず当主一馬がこのような大罪を犯してしまいましたこと、誠に申し上げる言葉もございません。このうえは速やかにこの屋敷を去り、殿さまのお目の汚しにならぬよう密やかに隠れるつもりでございます。また本日は土田尚平様、名代としてのご足労ありがとうございました」
と云って再び平伏した。
 べとはとりつくしまがなく、お幸と門の外に出た。
 べとの配下の者がてはずどおり門に板を打ちつけ始めた。
 お幸はほつれ毛をそよ風になびかせながらそれをじっと見ている。
 やがて、作業が終わるとお幸はべとに一礼して風呂敷包みを脇に抱え、立ち去った。
その後を、下男らしき男が荷車を引いて行く。
 お幸は最初から最後まで涙一つ見せなかったという。
「そうか」
(辛かろうな)

「おぬしには辛い事ばかり申しつけてきた。しかし、世の中が安泰になるまでの辛抱じゃ。こらえて仕えてくれ」
「そんな事はいいですよ。しかし」
「どうした」
「林だけは許せませんね」
「・・・・」

 白井家の断絶が林の強弁によるものだということをべとは知っている。
「軽々しいことを申すな」
 篠原がたしなめた。
「しかし」
 べとは抗しようとした。
 篠原はそれをさえぎり、
「いいか、林は正しい。脱藩は大罪ぞ。それに、役人というものはああでなくてはならぬ。役人が人情で動けば藩の機能は停止する。役人は林のように杓子定規で動かねばならぬのじゃ」
 べとは納得がいかない。
「ではなにゆえ篠原様は藩首脳部のご子息は許されるのですか」
「私は役人ではない。政治家だ」
 政治家だから藩全体を考える超法規的な措置を行なうことが出来るといいたいのであろう。
「いいか、今回のこのことについては一切意見を言うな」
 篠原はこわい顔をしてべとに云った。
 べとはしぶしぶ承知した。

 お幸は屋敷を出ると、かな山の方にむかって歩いた。
 お幸の後から荷車を引いている竹蔵が、
「お幸さん、これから何処へ」
 と尋ねた。
「北野へ」
 お幸は答えた。
 北野村には遠縁にあたる百姓がいる。一馬脱藩をあらかじめ予想してお幸はすでにその百姓に農家を借り受けている。
「そこで近在のお百姓さんの小作でもいたしましょう」

 二人が妙法寺にさしかかった時、一人の娘が風呂敷包を抱え立っていた。
 お慶である。
「お慶さん」
 お幸は駆けよった。
「どうしたのですか」
「えへへ、家を出てきました」
 お慶はぺろっと舌を出すと、
「義姉さま、私は今日から白井家の嫁です。どうぞよろしくお願いします」
 と頭を下げた。
「でも」
 お慶はお幸の言葉をさえぎるように、
「私は婚儀が決まった時から白井さまの嫁になることを決意しております。家が断絶のなろうとも関係ありません」
 お慶は胸から懐剣を出すと、
「拒否されるなら私はここで死にます」
 すらりと抜き、喉にあてがった。その眼は真剣である。
 お幸は唖然として声も出ない。
「お幸さん、この人は本当に死ぬぜ」
 竹蔵が横から云った。
「連れていってあげましょう」
 竹蔵は首にかけた手拭いをはずしお慶のほうを向き直ると、
「お慶さん、私は竹蔵という白井一馬さんの友人です。白井さんからあなたのことはきいております。いやあ、私は久々に本物の武家の娘を見ました」
 と感心した風に首を振った。
 お幸もやむなく頷いた。
 お慶は、
「義姉上さま、ありがとうございます」
 そういうとそそくさと荷車の後ろにまわり、竹蔵をうながし荷車を押しはじめた。

 三人はあらかじめ借りていた北野村のはずれの農家の廃屋で生活をしはじめた。
 お幸と竹蔵は、田畑を耕し、お慶は近隣の百姓の子守りに出掛けた。
 ただ、竹蔵は夕方になるといつもいずこともなく姿を消し、決まって夜中に帰ってきた。

 越後の野に乱が起きた。
 五月十日払暁、長岡藩の軍隊は朝日山、榎峠の官軍に襲いかかった。
 小千谷官軍首脳部は藩閥人事の帳尻合わせのためか無能者ばかりが集まっている。
 そのため重要な戦略拠点であるこの地への官軍の軍備は薄い。
 朝日山、榎峠はいとも簡単に長岡藩の手に落ちた。
 山県は朝日山、榎峠陥落の報告をもう一方の官軍の本営である柏崎で聞いた。山県は戦略眼がある。かれは朝日山、榎峠をこの戦さの命運を分ける戦略地として見ていた。
 当然朝日山、榎峠には多数の軍隊をおいていると思っていた。ところが物見程度の数名しか兵を置いていなかった。
(やはり、岩村の小僧に小千谷なぞ任せるのではなかった)
 歯噛みしたがどうしようもない。
 山県はすぐさま単騎小千谷にむかった。
 山県が小千谷本営に飛び込んだ時、岩村ら幹部は遅い朝食を摂っていた。
 戦争中に箱膳で下女に給仕をさせている。
(なんという馬鹿者)
 山県は怒りで手が震えた。
 その中には白井小助ら山県の先輩がいる。
 山県は白井小助ら先輩を叱るわけにはいかず土足で部屋に入るといきなり岩村を殴りつけた。
「小僧、なんて事をしてくれた」
 殴られた岩村は膳とともに吹っ飛び頬を押さえて怯えている。
 下女は悲鳴をあげて部屋を飛び出た。
 山形は情けなくなった。
(こんな男をどうして)
 この重要な戦いの、それも軍監という最高の役職に据えたのだろう。
「時山はどうした」
 時山とは時山直八のことで山県とは長州松下村塾の同窓であり、小千谷官軍の唯一の有能な指揮官であるが藩閥、年功序列の人事のため身分の低い小隊長として組み込まれている。
 むろん、首脳のいる小千谷にはいない。前線に出ている。
 このうえは時山と相談して策を練るしかない、と山県は思った。
 圧倒された一人が慌てて浦柄にいます、と答えた。
 山県は岩村を蹴り飛ばすと、部屋を飛び出た。

 浦柄で時山と会った山県は朝日山を奪回するため意見をかわした。
 朝日山にいる長岡軍は兵が少ないので、山県が柏崎に戻り、援軍をつれてくる。そして時山の手勢とともに五月十三日を期して朝日山を攻撃をするということで話は決まった。





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最終更新日  2008.07.22 12:16:48
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