文豪のつぶやき

2008.07.30
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カテゴリ: 時代小説
 河井がたおれて長岡軍は士気が衰えたのか白井の前を長岡兵が城にむかって続々と退却しはじめた。
 白井はそれを呆けた表情で見ている。
「白井さん」
 城に向かう長岡兵の群れの中から声がした。
 白井は顔を上げた。
 そこには担架にのせられた河井が例の鋭い眼差しで白井を見ていた。
「先生」
 白井は転がるように河井の前に跪いた。
 河井の顔は蒼白い。

「なに大丈夫さ。左足をやられたよ」
 見ると左脛が銃弾に砕かれている。
「長岡もいよいよだ」
 いよいよ終わりということであろう。
 白井はうなだれている。
 河井は白井をじっと見つめると、
「いままでありがとう」
 本当にありがとう、と云った。
 そして、咳をひとつすると、
「おめさんは国へおかえり」
 と云った。

 帰るくらいならここで腹を切ります、私は三田の罪人です、おめおめとかえれません、と白井は云った。
 河井はそれには答えず、
「さっき報告があってな、伊藤も矢口も青木も加藤も皆死んだ。彼らは古い門閥の子じゃ。古い人間は幕藩体制とともに滅び、おめさんのように才覚で出世してきた人間が新しい時代を創っていくのじゃ」
 傷が痛むのか、河井はうーむと唸り、一息ついた。
「白井さん」

「おめさんは帰れば罪人じゃ。しかし命までは取られまい。何年か牢の中にはいって牢の中で勉強せよ。新しい世の中で民衆を導く勉強をせよ。これからは武士の世の中ではない。幸い、三田藩には篠原がおる。悪いようにはすまい。白井、剣は捨てよ。なっ、たのむ。生きてくれ」
「せっ先生は」
 白井は問うた。
 河井は白井にむかってにっこり笑った。しみとおるような笑顔である。
「わしは、古い人間じゃ。滅びゆくさ。それに」
 片目をつぶってみせ、
「あの世で矢口らが待っておるじゃろう。あいつらは閻魔様の手に終える相手ではないからの。わしが行かねばどうにもなるまい」
 河井は真顔になると、
「白井、きっと約したぞ」
 そういうと担架をもっている者に、
「行け」
 と命じた。
 担架は長岡城に向かってしずしず動きはじめた。
 白井はそれを見送っている。
 やがて白井は去り行く河井の方を向き直ると端座し頭をぺこりと下げた。
(わかりました。河井先生、私は帰ります。帰って、新しい世の中で民を救います)
 そう呟いた。
 そして、立ち上がると三田の方に向かって駆けだした。
 砲声はすでに止んでいる。





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最終更新日  2008.07.30 11:00:55
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