文豪のつぶやき

2010.07.04
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カテゴリ: 文学
戦後

間崎雄一はいつものように運転手つきの車の後部座席に乗り、市ヶ谷駅の横を抜け、靖国神社の南門の前を通った。
去年定年間際の59才でかろうじて重役に昇進した雄一にとっては運転手つきの車がなにより自慢である。
今も、後部座席の窓から靖国通りを歩くサラリーマンを眺めながら優越感に浸っている。
車の窓の外には疲れたようなサラリーマンが冬の寒さの中、肩をすくめながら帰宅に足を急がせている。
(敗北者たちはみじめなもんだな)
雄一は心の中でせせら笑った。
年をとってもサラリーマンはこれから満員電車に乗って遠い家まで帰る。
(それに比べて俺は)

雄一の口からは笑みがこぼれた。
しかしその瞬間、雄一は道を急ぐサラリーマンたちの中に小さな女の子を見た。
その女の子は、赤いちゃんちゃんこを着ていた。
少女、というよりまだ3才になるかならぬかの幼女であった。
幼女はじっと雄一を見ていた。
(美也子)
雄一は心の中で叫んだ。
「止めろ」
雄一は運転手に命じ、車を止めさせた。
運転手はあわててブレーキを踏んだ。
雄一は勢いよく外へ飛び出て、女の子がいた方を見た。

(美也子、美也子だ)
「常務どうしたのですか」
運転手があわてて降りてきた。
雄一の耳には運転手の声は聞こえなかった。
ただ、「美也子!」とひたすら叫びながら雑踏の中に女の子を追った。

赤いちゃんちゃんこはちらちらと揺れながら、靖国神社の南門から中の方へ消えていった。
雄一はつんのめりながらも必死で追いかけた。
やがて雄一は靖国神社の本殿の裏の樹々の中に迷い込んだ。
雄一は息を切らせながら立ち止り、何度も美也子、美也子と叫んだ。
(痛い)
突然心臓に痛みが襲ってきた。狭心症の雄一は胸を抑え、思わずしゃがみこんだ。
意識がもうろうとしてきた。
(おれは死ぬのかな)
2月だというのに体中から汗が噴き出てきた。
その時、雄一の前にある大きな杉の木の陰から、女の子が顔を出した。
「美也子」
「おにいちゃん」
それは、まぎれもない妹の美也子だった。
「美也子、許してくれ。にいちゃんは。にいちゃんは」
美也子と呼ばれる女の子はただ笑っている。

昭和12年、当時三歳の雄一は満州鉄道の技師だった父と母と三人で、中国大陸にある満州帝国に渡った。
満州帝国は旧日本陸軍が中国東北部に建国した偽物の政権である。
やがて昭和16年に太平洋戦争がはじまり、昭和17年を過ぎると戦況は日本にとって不利になり満州帝国も危うくなってきた。
そのころである。雄一に妹の美也子が生まれたのは。
研究技師の子供であった雄一と美也子は、幾多の中国人を使用人にして王子、王女のように育てられた。
ただ、父は家に帰ってることが少なくなり、会社に寝泊まりするようになっていた。
そしてときおり夜遅くに帰って来ては、母と茶の間で沈痛な面持ちで話をしていた。
雄一は寝ないでそっと父母の話を聞いていた。
父はときどき、
「日本は負ける」
「満洲国はつぶれる」
と言っていた。
その話の内容は、当時小学校に上がったばかりの雄一にも十分にわかった。
(これからどうなってゆくのだろう)
雄一は怖くなって、隣ですやすや寝ている乳児の美也子の手をそっと握った。

昭和20年8月、日本は戦争に敗けた。
その数日前ソ連軍が満州になだれ込んできた。
その日の昼、会社に出勤していた父が突然帰ってきて、玄関のところで大声でどなった。
「逃げろ。おれはまた職場に戻る」
母が玄関に出た時は父の姿はすでになかった。
職場に戻った父はそれきり所在が分からない。
のちに聞いた話では、ソ連軍に囚われ、シベリアに送られ亡くなったという。
母は雄一の手をとり、美也子を背にしょって同じ満鉄の社員だった妻子たちと逃げた。

際限もなく広がるコウリャン畑を満州鉄道の社員の家族たちの集団が歩いていく。
ときおり、ソ連軍の飛行機が数機、集団の頭上にやってきた。
そのつど集団は背の高いコウリャン畑の中に入りじっとしていた。
ソ連軍のジープが通ることもある。
集団は息をひそめてジープの行きすぎるのを待った。
ジープが通り過ぎると集団はまた歩き出す。
数日の逃避行で母は動けなくなった。
もともと病気がちなところに来て過酷な逃避行である。
母は道端に横たわり、雄一の頭をなでた。
「雄ちゃん。これからいうことをよく聞いてね」
母は息絶え絶えの中からようやっと声を出した。
「雄ちゃん。あなたは男の子でしょ。美也子を美也子をたのむわね」
そういうと乳児の美也子を雄一に押し付けるように差し出した。
「かあさん」
母はそれだけいうと、ガクッと首を垂れた。
「かあさん。かあさん」
母はみるみるうちに冷たくなっていった。
雄一の腕の中では美也子が何も知らずに笑っている。

雄一が美也子をおぶって大連まで来た時、旧知の中国人に会った。
名前をチャンと言った。チャンは父の部下だった。
「私はあなたのお父さんに恩がある」
といって、手厚く扱ってくれた。
二人は、彼にかくまわれて一年を過ごした。

ある日、彼が飛び込んできた。
「雄チャン。イイ知ラセガアルヨ」
彼の言うことはこうだった。
チャンの友人が雄一を日本に送ってやるというのだ。
「タダシ」
とチャンは悲しそうな顔をした。
「雄チャンヒトリダケダケド」
チャンがいうには、美也子ちゃんはまだ小さいから足手まといになるという。
雄一は後ろを振り返った。
そこには、美也子がすやすやと眠っている。
「決行はいつですか」
雄一はチャンに聞いた。
「2時間後ノ午後4時デス」
チャンは雄一を見つめた。
雄一は思わず外を見た。
午後2時の冬の太陽はその向こうの山の上に照り映えている。

午後4時、チャンの友人が迎えにきた。
チャンの家のすぐ近くの駅から汽車に乗り込むのだ。
美也子はすやすやとまだ眠っている。
雄一はチャンの友人と駅から汽車に乗り込んだ。

家を出る時、チャンは、
「美也子チャンのことは大丈夫」
「必ず迎えに来るから」
と雄一はチャンの手を握った。

やがて汽車が動き始めた。
その時だった。
長い線路を3才の美也子が追ってきたのだ。
「おにいちゃん。おにいちゃん」
美也子は赤いちゃんちゃんこを着て、何度も転びながら雄一の乗った汽車を追ってきた。
美也子の赤いちゃんちゃんこは夕日に照り映えだんだん小さくなっていった。
(美也子)
雄一は心の中で叫び、汽車の窓を閉めた。そして耳をふさいで目をつぶって泣いた。
チャンの友人は雄一の肩を抱いた。
まだ少年の雄一はいつまでも泣きじゃくっていた。

それから、雄一は日本に戻り、親戚を頼って大学を出た。
大きくなったら美也子を連れもどす、と思っていた気持も年を重ねるごとに薄らいでいきやがて家庭を持ち、出世街道をなんとか歩んできた。
美也子のことはときどき思い出すが最近ではちょっと胸が痛むぐらいになってしまった。

「美也子」
美也子の背に大きな夕日がぽっかり浮かんでいる。
「美也子。許してくれ。にいちゃんは」
「おにいちゃん。もういいのよ。美也子は」
そういうと美也子は悲しそうな顔をした。
「美也子。許してくれ」
雄一の心臓がキュンとなった。
雄一は胸を押さえた。
「美也子。俺はこのまま死んでもいい」
「おにいちゃんは心臓が悪いのね」
「ああ、でもこれもお前を捨てた罰だ」
美也子は再び微笑んだ。
「私のたった一人のお兄ちゃんだもの。死なせやしないわ」
美也子はそういうと、雄一の胸に飛び込んだ。
「美也子。許してくれるのか」
やがて美也子は雄一の胸で消えていった。
「美也子。美也子」
雄一は美也子を抱きしめようとした。
しかし、美也子はやがて消えた。
最後に声だけが残った。
「おにいちゃん。おにいちゃんの病気は私が持って行くわ」
「美也子」
雄一は周りを見回した。
そこには誰もいない。
そして雄一の心臓の痛みはなくなっていた。






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最終更新日  2010.07.04 22:37:50
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