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2011年02月28日
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カテゴリ: カテゴリ未分類

第二次世界大戦の戦争中から敗戦後にかけて、食糧不足とともに、大多数の国民が悩まされたのが、 寄生虫 伝染病 です。

戦時中の燃料不足や戦災によって、入浴ができなくなったうえに、下着などの衣類が買えなくなって、何日も着替えできない日が続きました。京都のように戦災を受けていない町でも、銭湯は数日に一度営業するだけで、湯も不潔でした。

それに、勤労動員の寄宿舎帰りや、復員兵などの、寄生虫持ち帰りも重なって、ほとんどの人に ( シラミ )がつきました。

シラミ には、衣類に住み着く コロモジラミ 、頭髪に着く アタマジラミ ケジラミ の3種があります。私たち男子はに悩まされました。下着の縫い目に住み着いて、からだの血を吸うので、とてもかゆいのです。

学校で、休み時間に裸になって、下着の コロモジラミ を指先でつぶしている級友もいました。女性は コロモジラミ のほか、 アタマジラミ にも悩まされました。


シラミをつぶす人々
東京の道端で下着のシラミをつぶす人々

シラミ は血を吸ってかゆいだけでなく、 発疹チフス を媒介するので、日本人だけでなく、占領軍でも大きな問題でした。 シラミ 駆除のため、占領軍の係員が、日本人にも占領軍兵士にも、 DDT


シラミ・DDT散布

アタマジラミ(提供・ しらみなんてこわくない

今の時代、 コロモジラミ はあまり聞きませんが、 アタマジラミ はまだいるそうですね。

回虫 カイチュウ )の寄生は、戦前、かなり広がっていました。私たちの世代では、小学校で、年に1回検便があって、 回虫 蟯虫 ギョウチュウ )が寄生している者は、駆虫剤(虫くだし)を飲まされました。クラスの半分以上が虫を持っていました。


ギョウチュウと回虫
蟯虫                 回虫(メス)

昔、 回虫 の寄生が多かったのは、田畑の肥料として、人糞尿が広く使われていたからです。 回虫 の卵は野菜などに着いて、 蟯虫 の卵は駄菓子などに着いて、口から人の体内に入り、成虫となって腸の中に住み着くのです。

そのうち、 回虫 の寄生は、戦時中から一段と広がりました。扱いが不潔になった野菜からのほか、野菜不足を補うために、野草まで摘んで食べるようになったからです。駆虫剤の マクリ カイニンソウ ともいう。海藻の一種)は、なかなか手に入りませんでした。

汚い話で恐縮ですが、お尻から頭を出した 回虫 を、手でつまんで引っ張り出したことが、何度かあります。今の子供さんは、こんなのが出てきたらびっくりするでしょうね。

現代では、 回虫 の寄生はほとんどなくなりましたが、 蟯虫 は、幼稚園などで広がっているところもあると聞いています。

私の身内や近所では、 発疹チフス にかかった人はありませんでしたが、地域によってはかなり蔓延していたとのことです。 天然痘 は、横町の顔見知りのおばさんが罹患しました。

当時は、子どものときに、 種痘 を受けることが義務付けられていたので、当時の私のような若い年齢の者は心配ないと思っていました。しかし、 種痘 を受けてから年数の経っている年配の人は、 天然痘 を恐れていました。

天然痘 にかかったおばさんの家の前は、かなりの期間、通行止めになりました。回復して表へ出られるようになったおばさんを見ましたが、顔も首筋も、黒いポツポツがいっぱい出来ていました。

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占領軍は、日本の野菜は不潔として、野菜サラダ用の生野菜を栽培する ハイドロポニックス (hydroponics・水耕栽培・養液栽培)農場を各地に作りました。京都市のアメリカ軍兵士のキャンプは滋賀県大津市にあり、ここにかなりの規模の水耕農場が作られていました。

農林専門学校の行事として、この水耕農場を見学に行きました。たくさんの大きい水槽の上で、リーフレタスやハツカダイコンなどが育っていました。当時としては、とても珍しい野菜栽培法ですが、土耕と違ってずいぶん経費がかかるな、と思いました。

大津市の水耕農場の場長はアメリカ人でしたが、日本人の場長格の専門家として、 W博士 がいて、我々に水耕栽培法の説明をしてくれました。 W博士 は三重県出身、台北帝大卒。台湾や沖縄で試験研究に従事していましたが、敗戦で引き揚げ後、この水耕農場で栽培指導をしていました。

この W博士 と私は、後年、深いつながりを持つことになります。






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最終更新日  2011年02月28日 12時04分28秒
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