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【3時10分、決断のとき】「ここまでだ」「(お前を)汽車に乗せる」「誰も見てない。(俺を逃がせ)」「息子が見ている」「頑固だな。片脚が無事なうちに帰れ」「・・・(俺には)誇れるものが何もない。この脚だって退却の時に味方に撃たれた。事実を話したら息子たちはどう思う・・・・!?」最近のアメリカ映画を観て、“これぞハリウッド”などと短絡的に決め付けてはならない。アメリカ映画のルーツは、ひとえに西部劇にあると言っても過言ではない。西部劇を鑑賞することなくして、“自分は専ら洋画嗜好だ”などとかぶられては、本来の映画ファンに申し訳が立たない。アメリカ映画の代表的なジャンル、それこそが西部劇なのだから。本作「3時10分、決断のとき」は、リメイク版であるらしいが、オリジナルを知らないせいか見事な西部劇に仕上がっているように思える。ストーリー展開にもムダがなく、南北戦争で片脚を失くした主人公の苦悩や、揺るぎない父子関係、強盗団リーダーの心境の変化が順を追って、しかもすんなりと受け入れることが出来る。南北戦争後のアメリカにおいて、退役軍人のダンは、牧場を細々と経営していた。ある日、ダンは息子二人を連れてビスビーの町へ行く道すがら、強盗団と遭遇し襲撃された駅馬車を見つける。一人生き残った男を助けたところ、襲った強盗団は、その名も悪名高い無法者のベン・ウェイド率いる一団であることが判明した。作品の見どころとしては、やはり、退役軍人のダンが脚を引き摺りながらも強盗団のリーダーであるベン・ウェイドを護送していくシーンであろう。道中、何人もの犠牲者を出しながら、刑務所行きの汽車に乗せるため死にもの狂いで護送するのだ。その銃撃戦は、観る側を熱くさせる。発砲する人とされる人、それが交互に映されて西部劇はガンアクションにまで高められた。また、出演している役者陣も素晴らしい。クリスチャン・ベールは英国人俳優であるが、すっかり西部劇の一員としてその役割を担っている。チョイ役だがピーター・フォンダの圧倒的な存在感も、震えるほどに伝わって来る。本作を鑑賞すると、決して西部劇が死んでいないことを実感するのだ。2007年(米)、2009年(日)公開【監督】ジェームズ・マンゴールド【出演】ラッセル・クロウ、クリスチャン・ベール、ピーター・フォンダ
2014.02.07
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「なぜ保安官のおれが・・・こんな最期を・・・(家を)新築してたのに」「貴様こそ本当の悪党だ」「地獄で(お前を)待ってるぞ」「荒野の用心棒」や「夕陽のガンマン」で、クリント・イーストウッドのポンチョ姿に見慣れた感があったが、本作ではポンチョは着ていない(笑) 当然だ。やっぱり正統な西部劇はアメリカ人の手によって作られるべきであり、それこそがアメリカ国家建国の誇りにもつながるというものであろう。本作「許されざる者」は、アカデミー賞最優秀作品賞や監督賞を受賞した、クリント・イーストウッド渾身の作品なのだ。ガン・アクションを基調とする西部劇は、どうしても相手を倒してナンボの世界であるため、血生臭さは拭えない。そこで作品に何らかのテーマ性を持たせることで、より知的でグレードの高い西部劇へと変革させたのが、この「許されざる者」であろう。もともとクリント・イーストウッドの得意とする“正義と暴力”、あるいは“権力の横暴”などを西部劇に盛り込むことで、銃器という映画的小道具のあり方を肯定させるのだ。だが、イーストウッド監督の見事な演出は、そんな銃を使用しての殺人が決して生易しいものではなく、一生頭から消えず、夜も眠れないほどにまつわりつく罪悪であることを暗に示しているところだ。1880年のワイオミング州でのこと。しがない農場主であるウィリアム・マニーは、幼い二人の子どもを育てながら貧乏生活を余儀なくされていた。ある日、マニーのもとへキッドという若いガンマンがやって来る。キッドは、伯父から「ウィリアム・マニーという凄腕のガンマンがいる」と聞かされ、一緒に賞金稼ぎをしようと誘いにやって来たのだった。それは、娼婦の顔に酷いケガをさせた二人のカウ・ボーイで、仕留めれば1000ドルもの大金を手に入れることが出来るという。マニーは、妻と出会って悪の道から足を洗ったものの、今はその妻も亡くなり、二人の子どもを抱えて貧困に喘いでいた。マニーは一度は誘いを断ったものの、やはり再び銃を持つことを決意するのだった。本作の見どころは、リトル・ビル(保安官)に扮するジーン・ハックマンの権力に物を言わせた横暴なやり方、憎々しげな態度、そういう強者に群がる情報屋や酒場の店主ら(長いものには巻かれろ主義的弱者)の存在。あるいは、いざ人を撃った瞬間、自分のしてしまったことの恐ろしさに我を失いそうになったキッドの動揺ぶり。さらに、11年間のブランクがあっても、一たび銃を手にするや凄腕のガンマンへと変貌を遂げたマニーと、相棒であるネッドとの絆。どのシーンを挙げてもキリがないほどだ。“最後の西部劇”と言わしめた所以が凝縮された、秀逸なのだ。1992年(米)、1993年(日)公開【監督】クリント・イーストウッド【出演】クリント・イーストウッド、ジーン・ハックマン、モーガン・フリーマンまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2011.05.20
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「お前、金持ちになったな」「(おれだけじゃない)おれたち二人ともだ」「(金は)みんなお前にやるよ」「おれたち相棒だろ?」「・・・またな」セルジオ・レオーネ監督のピークは、もはやこの「夕陽のガンマン」を置いて、他にないだろう。今さらという気もするが、本作は名実ともに優れた作品なのだ。鳴かず飛ばずのレオーネ監督も、前作の「荒野の用心棒」の大ヒットにより一躍有名になった。映画製作費用も、前回の低予算とは比較にならないほど上乗せされ、今や順風満帆と言った時代だ。そんな安定感、充足感が作品の隅々から味わえる、充実したマカロニ・ウェスタンなのだ。主役のクリント・イーストウッドのキャラクターとは対照的な、リーヴァン・クリーフも大変すばらしかった。クールで上品で、それでいて他を寄せ付けない鋭い眼差しを持つ男というキャラクターは、他の役者さんでは代わりが効かないのではなかろうか。このキャスティングは、ノリにノッテいるレオーネ監督ならではのひらめきだったかもしれない。(というのも、この作品に出る前のリーヴァン・クリーフは、落ちぶれた無頼派的役者だったようだ)この二大俳優の共演により、イタリア的西部劇はもはや本場さながらの風合いを備え、重厚さを増し、視聴者のハートを鷲掴みすることに成功したのだ。モーティマー大佐と呼ばれる初老で上品な身のこなしの男は、インディオと呼ばれる凶悪犯を追っていた。インディオの首には2万ドルという大金の賞金が懸けられていたのだ。一方、モンコという早撃ちの名手も、賞金稼ぎとして名を馳せ、インディオを追っていた。ある日、大佐とモンコは、お互いの共通の目的を知ることで打ち解けあい、インディオらを共同で捕まえることにした。もちろん、賞金は山分けということで手を打った。そんな中、モンコは、大佐にとってインディオという男が何やら因縁めいた相手であることに気付くのだった。本作の優れた点は、西部劇でありながらどこか日本の人情話的ストーリー展開を遂げているところであろう。モーティマー大佐が、大切に持ち歩く懐中時計のフタを開けると、やさしいオルゴールが鳴り響く。一方で、大悪党であるインディオも、やはり同じ懐中時計を持っている。そこにどんな意味合いがあるのか、途中で薄々は気付きはするものの、ラストのシーンで胸のすくような心地は隠せない。武士の果し合いにも似た、マカロニ・ウェスタン最高峰の一作なのだ。1965年(伊)、1967年(日)公開【監督】セルジオ・レオーネ【出演】クリント・イーストウッド、リーヴァン・クリーフまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2011.05.16
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「この金を持って逃げるんだ。そして国境を越えろ。少しでも遠くへ行け」「感謝の言葉もありません・・・」「ロホスたちが追って来る前に行け」「なぜ(私たちに)親切にして下さるのですか?」「昔、あんたのような女がいた。だが誰も助けなかった」急激な衰退を見せた西部劇は、90年代に入って古き良き西部劇へのオマージュとも取れる作品を、ケヴィン・コスナーによって次々と発表された。だがどうだろう。評価はもう一つだったような記憶が残っている。そもそも西部劇というのは、比較的歴史の浅いアメリカが、そのフロンティア精神を物語にすることで、アメリカ建国のいわば“古事記”にしようと試みたものだった。そういう意味で言うと、日本の時代劇とは根本的に違う。だが西部劇そものが風化してしまっても尚、現代映画のアクションモノやSFモノの中に活かされることで機能しているのだ。60年代、そんな西部劇に脚光を当てたのは、なんとイタリア人監督のセルジオ・レオーネであった。いわばマカロニ・ウェスタンの登場である。しかしセルジオ・レオーネという監督は、日本の黒澤作品に傾倒しており、そのサムライ文化に大きな衝撃を受けたという経緯があるのだ。さらには、映画人として生活のために稼がなくてはいけないという使命もあった。そんなハングリー精神は、見事に功を奏した。本作「荒野の用心棒」は、そんな中、誕生したのだ。アメリカとメキシコの国境近いとある田舎町。そこはロホとバクスターの二大暴力集団が横行する、無法地帯だった。ある日、アウトローのジョーが酒場にやって来る。人の好い店主から町の荒んだ状況を聞かされ、「悪いことは言わないから早くこの町を去れ」と助言される。だがジョーは、一計を企てるとロホに取り入り、悪者たちを一掃しようと試みる。ジョーは拳銃を持たせたら、早撃ちの名手だったのだ。さすがの吟遊映人も、若きクリント・イーストウッドのカッコ良さにグッと来た。しかしながら、イーストウッドのポンチョ姿にくわえ葉巻といういで立ちには驚いた。 いくらなんでもアメリカ人がポンチョを着るというのは、どうなんだろうか・・・。それはまるで西欧人が、日本映画には必ずニンジャが登場すると思い込んでいるようなものではないだろうか。やはりこればっかりは、イタリア人の製作した西部劇であるという背景を拭えない。だがラスト、ポンチョを脱いだところで「なるほど、そういうわけでポンチョが必要だったのか」と納得する。全体を通して、名作と言われる所以をそこかしこからかもし出してくれる、マカロニ・ウェスタンの金字塔なのだ。1964年(伊)、1965年(日)公開【監督】セルジオ・レオーネ【出演】クリント・イーストウッドまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2011.05.12
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