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【超高速!参勤交代】「我らは武芸百般を極めし雄藩。おめえらのような野良侍どは違う!」「んだ!我らは一人一人が一騎当千!そのような人数で来るどはかたはら痛いわ!」「飛んで火にいる夏の虫とは貴様らのごどだ!」昭和を舞台にした作品がすでに古典的なものになりつつある昨今、時代劇なんてなおさら古めかしく感じられるのが現状だ。ところが『超高速!参勤交代』は、そういう既成概念を取り払ってくれる新しさがある。内容がコミカルでユニークだからという理由だけではない。しっかりと練られた脚本、視聴者に安心感を与える演出、癒しのある風景、全てのバランスが良いあんばいに調和されていたと思う。ついでと言ってはなんだが、学校で習った“参勤交代”を実感できるのもありがたい。こんな大がかりな大名行列が、年に一度とはいえ、時間とお金をかけて国もとと江戸を往復するのだから、それはもう弱小藩にとっては財政逼迫のガンであったに違いない。中央には絶対逆らえないようにしくみを構築されているのだから、どうしようもない。とはいえ、これが徳川泰平の世を長く持ちこたえさせた理由でもあるのだが。 あらすじはこうだ。磐城国の小藩・湯長谷藩の一行は、江戸での勤めを終えて帰ったばかりだった。ところがその後、徳川八代将軍・吉宗の治める江戸幕府老中・松平信祝より命が下る。それは、「5日以内に再び参勤交代せよ」というものだった。藩主・内藤政醇はよくよく考えた末に、策士である家老の相馬に対策を講じさせた。結果、少人数で近道して走り抜け、幕府の監視がある宿場のみは、これ見よがしに大名行列をくんで、大人数に見せかけることにした。さらに、戸隠流の忍び・雲隠段蔵を雇うことで、近道の案内役を任せるのだった。 この作品の見どころは、幕府から無理難題を押し付けられた東北の田舎侍たちが、いかにして逆境に立ち向かっていくかであろう。地方で細々と田畑を耕し、武道を重んじ、日々を切磋琢磨して生き抜いていく侍たちが、中央のパワハラを知恵をしぼって交していくしたたかさは、見ていて清々しいし、爽快である。また、出演者たちの個性あふれる演技には目を見張るものがある。単なるドタバタ劇になっていないし、漲る若さとエネルギッシュな演出に脱帽だ。主役の佐々木蔵之介、この役者さんは30~40代の女性から大変な支持をされていて、ファン層が厚い。イヤミはないし、素朴でまじめそうな雰囲気は庶民の味方たる藩主役に相応しい。京都の造り酒屋を実家に持つ佐々木蔵之介は、その出自から言っても品が良く、優雅。人気があるのも肯ける。ヒロインにはフカキョンが採用され、なかなかのハートウォーミングに一役かっている。 「時代劇はちょっと苦手」という人にも、全く問題なさそうな時代劇ドラマに仕上げられていた。 2014年公開【監督】本木克英【出演】佐々木蔵之介、深田恭子、伊原剛志
2015.03.14
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【山桜】「お母さま・・・房叔母さまは本当はおしあわせだったのかもしれませんね。きっと、その方のことをずっと慕っていらっしゃったのですね。私とは・・・違うのですね。」「いいえ、あなたはほんの少し回り道をしているだけなのですよ。」時代小説とは思えない純文学の世界観をかもし出す作品である。原作者の藤沢周平は、若かりしころ結核を患い、右肺の切除手術を受けサナトリウム生活を余儀なくされるという経験の持ち主だ。また、療養後にはめでたく結婚しているが、妻が長女を出産後まもなく急逝している。 そういったことが藤沢作品に暗く影を落としたのかどうか、とにかく初期のころは暗く、陰鬱な作風である。藤沢周平は山形県鶴岡市出身ということもあり、作品の舞台は専ら庄内藩をモチーフにした小説が多いことで有名だ。この「山桜」においても、海坂藩という東北地方の架空の藩を舞台にしたストーリー展開になっている。海坂藩の下級武士、磯村庄左衛門の妻・野枝は、叔母の墓参りのため久しぶりに嫁ぎ先から外出を許された。野枝が墓参りを済ませ実家に立ち寄る途中、見事な山桜が咲き誇っているのを目にする。 思わず背伸びをして山桜を一枝手折ろうとするが、もう少しのところで手が届かず断念。 そこへそっと近づき、山桜を手折る武士・手塚弥一郎。実は弥一郎は、野枝にとって磯村との縁談がある以前に申し込みのあった相手だった。 「山桜」は、とても静かで上品な作風であった。東北ののどかな田園風景と、風光明媚な山並みが実に美しく優雅に映し出されていた。 元少年隊の東山紀之も、舞台で鍛えた明朗な発声と演技力で好演。行間に味わいのある藤沢作品を、甘美で清貧な映画に仕上げていた。2008年公開【監督】篠原哲雄【原作】藤沢周平【出演】田中麗奈、東山紀之※名句『山櫻』はコチラから。
2014.05.01
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【桜田門外の変】「関さん、何事ですか?」「井伊直弼が大老になった」「斉昭様をとことん封じ込めるつもりだ!」年の瀬になると、必ず『忠臣蔵』が放送されていたのは、すでに昭和のことか?それに代わるものとして取り上げて良いものかどうか分からないが、お正月特番として『桜田門外の変』を放送したら、かなり視聴率をとれるのではなかろうか?『桜田門外の変』は、吉村昭の同名小説を映画化したものだが、この歴史的事実が日本のその後を大きく変えることになる。映画では、桜田十八士の一人である関鉄之介の視点によって描かれている。関鉄之介というのは、幕末の勤王志士で、水戸藩士である。(ウィキペディア参照)桜田門外の変では、実行部隊の指揮官を務め、この暗殺計画の全てに立ち会っている人物なのだ。さらに、本人の性格的な几帳面さからか、事件の全貌を語る日記なども多く残しているようだ。映画では、この関鉄之介役に大沢たかおが抜擢されている。なんとなく線が細く感じられるが、若い人にも歴史に興味を持ってもらうためには、このぐらい垢抜けた役者さんをキャスティングする必要があったのだろう。演技そのものは、可もなく不可もなくと言ったところで、作品全体に影響を及ぼすほどの鋭い演出は見受けられなかった。舞台は幕末の江戸。安政の大獄による尊王攘夷派志士に対する弾圧が、過酷を極めていた。弾圧の首謀者は、大老井伊直弼。水戸藩改革派の先鋒である高橋多一郎、金子孫二郎らを中心に、井伊直弼の暗殺計画を練る。安政7年3月3日、関鉄之介は桜田門外において、井伊直弼襲撃の指揮を執る。見事その首をとることに成功した関鉄之介は、事件の全てを見届け、まずは薩摩藩を頼って逃亡する。だが門前払いされ、結局は故郷の水戸藩領内を転々と潜伏することになる。映画では、水戸藩士が頼りにしていた薩摩藩の挙兵と、京へ上るまでの計画が不成功に終わり、失意のうちに次々と藩士たちが捕らえられていく悲哀が描かれている。ドラマチックにするためには、このあたりの絶望的な状況をもっと過酷で壮絶なものとして表現すれば、あるいはクライマックスにふさわしいストーリー展開になったかもしれない。吉村昭原作ということもあり、資料に基づいた、地味な歴史小説なので、その後の脚本化は大変難しかったことが想像できる。これを『忠臣蔵』のような世界観にまで高めれば、『桜田門外の変』も大型時代劇ドラマと成り得るような気がした。しかし地味ながらも、歴史に概ね忠実な作品なので、評価したい。2010年公開【監督】佐藤純彌【出演】大沢たかお
2013.12.25
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【小川の辺】「私は若旦那様のご武運をお祈り申し上げるしかありません。しかしながら田鶴様は・・・この斬り合いに関わらせてはならぬと、ずっと考えておりました」「それがうまくできれば言うことはないのだが・・・田鶴は討手が兄と知って大人しく夫を討たせるような女ではない。その場にいれば間違いなく厄介なことになる」藤沢周平の原作ということもあり、時代劇としては充分に見ごたえがある。藩命を受けた朔之助が、親友であり妹の夫でもある佐久間を討たなければならないという難しい立場を、主人公の静かに考え込むシーンや佇む姿などを通して、淡々と描いている。ネックになるのは、主人公の妹・田鶴の存在だ。田鶴は幼い頃より負けん気が強く、何かと兄には反抗的な態度を取っている。映画では表現されていないが、実際は、田鶴をそうさせてしまうような高圧的な態度で妹を押さえつけてしまうものを、朔之助が持っていたのかもしれない。田鶴は、女に生まれてしまったことを後悔するように、男にも負けないほどの剣術を身につけている。だが、いくら足掻いたところで女は女。家命によって決められた相手と結婚し、武士の妻としてどこまでも夫についていかねばならない。だが、田鶴には幼い頃より思いを寄せていた新蔵という戌井家の奉公人の存在があった。 無論、身分の差から田鶴と新蔵は、結ばれることはない。この辺りの背景を、もっと丁寧に表現するべきではなかったか?この物語の主人公は、朔之助のようであって実はそうではない。身分の違い、お家制度、女という弱い立場から生じる様々な障害を抱えながら生きる、田鶴の物語なのだ。だから田鶴役に扮した菊地凛子は、もっと女としての底知れぬ強さと優しさとそして可憐な演技で望むべきだったのでは?田鶴は単なる男勝りの生意気な女というキャラではないと思うからだ。この藤沢作品の根底に脈々と流れる言いようのない批判精神を、我々は真摯に受けとめるべきだろう。事なかれ主義がまかり通る時代、命をかけて国民のための改革を推し進める政治家がいるだろうか?自分より弱い立場の者を、権力によって押さえつけていることはないだろうか?小川の辺で男たち二人が剣を構え、命を懸けて一方が他方を討ち果たすのだが、その傍らを流れる小川は淀みなく流れている。その時代を生きる者たちの、どうしようもない嘆きをも飲み込んで、サラサラと流れていくのだ。2011年公開【監督】篠原哲雄【出演】東山紀之、菊地凛子、片岡愛之助~ 藤沢周平作品 (過去記事) ~ ■山桜■必死剣鳥刺し■隠し剣 鬼の爪■蝉しぐれ■武士の一分
2013.09.15
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【火天の城】「お屋形様、天主に吹き抜けなどあらば、その吹き抜けは炎の道となりまする。お屋形様は天主にお住まいになられると申されました。さればお屋形様のお命をお守りするお城を作ることが、我ら番匠の務めにござりまする。炎の道など我が身に代えましても作ることはできませぬ。ご容赦くださりませ」「又右衛門の天主なら落城するにしても・・・ゆるりと舞を楽しむ暇があるのう・・・」 このところの歴史ブームを背景に、昨今は空前の城郭ブームのようである。牽引するのは「女子」だそうだ。時代を振り返り、歴史に秘められたロマンを探るのも一興であろう。本作「火天の城」も、時代は織田信長が天下統一に意欲を燃やしている真っ只中である。 だが、主人公は歴史上著名な人物でなければ武将でもない。宮大工の岡部又右衛門というしがない職人である。実在の人物であるか否かは定かではないが、要は、職人として一つのことを命を賭してやり遂げることの素晴らしさ、言わば揺るぎない魂を表現しているのだ。作品冒頭部の、鉋で木材を薄く削り上げるシーンは見事なものである。紙のように削られた木屑が宙を舞うところなど、幻想的であった。職人の心意気を、序盤から見せ付けられたような気がする。天正4年、織田信長は国土のちょうど中央に位置する安土の地に、五重の天主、西洋の吹き抜けの構造を持つ城の建立を決意した。城の設計に関しては、金閣寺を建立した京の池上家、奈良の大仏殿建造を担った中井一門、そして熱田の宮大工・岡部又右衛門の三者にて争わせることとなった。そんな中、又右衛門のみの設計は、信長の意思を無視した吹き抜けのない図面であった。 五層七階の楼閣安土城が、もしや現代に奇跡的にも残されていれば、間違いなく世界遺産に認定されていたに違いない。歴史的価値やその壮大なスケールから言っても、姫路城の比ではなかったであろう。主人公の岡部又右衛門役に扮した西田敏行は、実に味のある役者さんで、安心して観ることが出来た。様々な代表作に彩られ、どの映画・テレビドラマにおいてもハズレがない。演技に奥行の感じられる素晴らしい役者さんなのだ。本作においても、しがない宮大工としての職人の役を、堂々としていて意固地にならず、それでいて謙虚な物腰のキャラクターに仕上げている。匠であることの誇りと存在感を表現した作品なのだ。2009年公開【監督】田中光敏【出演】西田敏行、大竹しのぶ、椎名桔平
2013.02.01
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「きえ、俺といっしょに行ってはくれねぇか? お前と一緒だば、どげだつらいことでも我慢できる。俺がここさ来たなはの、それを言うためなんだ。どうだ、俺と夫婦になってくれねか。」「私そげだこと急に聞かれても・・・。」「何も難しいことはね。俺がお前を好きでお前が俺を好きだばそれでいいなや。・・・俺はお前を好きだ。」うならされた。さすがである。監督はやはり山田洋次であったか。無駄なセリフ、無駄なカット、無駄なBGMがなく、見事な完成度である。ややもすれば陰鬱になりがちな藤沢作品を、ものの見事に山田ワールドに演出し、ほのぼのとしたラストに導いていくものであった。また、それぞれの演技と個性を計算し尽したのか、キャスティングもすばらしかった。 端役一つ取ってもミスキャストはなかった。主役を演じた永瀬正敏の朴とつとしたイヤミのない演技は、視聴者を心地良く惹き付ける魅力が感じられた。実に好演であった。東北の海坂藩、下級武士の片桐宗蔵は、16歳より女中として働いていたきえが伊勢屋に嫁いだ後、息災にしているか否か気になっていたところ、偶然にも町の小間物屋で再会する。「幸せにしているか?」と問いかけたものの、きえはやつれ果てて顔色も悪く、寂しげな様子に思わず胸を痛める。その後、宗蔵は妹からきえの嫁ぎ先での酷い近況を聞き、やつれ果てたきえを伊勢屋から背負い、連れて帰ることにする。一方、江戸では一大事が起きていた。なんと、宗蔵と竹馬の友であった狭間弥市郎が謀反を起こし、切腹も許されず江戸から郷入りし、山奥の牢に入れられることになったのだ。やはり映画は、映像と演出とそしてストーリーの三位一体であろう。この三つがバランスよく成立した時、初めて映画は最も完成度の高いものに仕上がるのではなかろうか。突出した演技力は場合によってはイヤミに感じるし、大げさな挿入曲は作品を打ち消すことにもなりかねない。さらに、むやみやたらな風景映像は退屈さを増長する。それらを踏まえると、この「鬼の爪」は正に時代劇映画として感傷的過ぎず、ストーリー展開が巧みで最初から最後まで春の雪解けの清水のような清々しさを感じた。吟遊映人としては、これまで映画化された藤沢作品中、一席をつけたいと思う。実にすばらしい映画であった。2004年公開【監督】山田洋次【原作】藤沢周平【出演】永瀬正敏、松たか子また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2012.03.02
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「恥じゃ・・・恥じゃ・・・!」「お家を潰して役職を解かれ、ご簡略となる方が恥。決意のほどを内外に示すのです」 「噂が立てば、表も歩けぬ」「人の噂も七十五日・・・あ、それからもう一つ」「まだあるのか?」「我が家はこれから細かく家計簿をつけることにいたします」武士というものは、刀を振り回してナンボの身分である、というのは間違いである。民間の会社組織にしろ、公的な官公庁にしろ、それぞれに担当するものがあり、細分化されている。中でも専門職に就く者はプロフェッショナルであり、他の追随を許さない。特に組織の要となるのは経理部門であろう。その企業が繁栄するも、奈落の底に突き落とされるも、この部署へいかに逸材を配置するかで大きく左右する。本作「武士の家計簿」は、加賀藩に代々仕える、御算用者(経理係)を務めて来た藩士の物語である。帳簿とにらめっこし、算盤をパチパチとはじく姿は決して華やかなものではない。むしろ、武士道からは対極したところにあるようにも思える。だがこの作品を観ると、なんとも崇高で汚れのない精神性を垣間見ることが出来るのだ。 天保13年。加賀藩御算用者、猪山家8代目当主直之は、あまりにも膨大になってしまった借財をどうするかで苦悩していた。しかし、代々御算用者を務めて来た猪山家にとって、帳簿の整理は朝飯前。まずは借金返済のために、一切の家財道具から衣類までを売り払うことに決めた。そうすることで、借金の約4割を減らすことに成功するのだ。一方、時代は幕末から明治維新にかけての動乱期。直之の嫡男、成之も優れた事務処理能力を発揮し、新政府方の大村益次郎のもとで、算盤をはじくことになった。この物語がおもしろいのは、時代性を感じさせる算盤や、質素倹約といった武家気質、現代にも通じる交際費や娯楽にかける金銭の出入が、事細かに触れられていることだ。実際、この作品の出所となった入払帳の古書は、現代になってから神田神保町の古書店で発見されたというのだから、江戸時代末期のほぼ正確な物価であろう。余談になるが、作中に登場する大村益次郎は、明治維新の十傑の一人にあげられる長州藩出身の人物だ。司馬遼太郎の著書である「花神」に詳しいので、興味のある方はぜひ一読をおすすめする。本作は終始一貫して、そのタイトルどおり、幕末の武士の懐具合が分かる作品であった。 2010年公開【監督】森田芳光【出演】堺雅人、仲間由紀恵また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2011.07.13
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「大石内蔵助様の血をひく可音様、茶屋家として触りはござりませぬか」「大石内蔵助様は武家の鑑、そのご息女に何の触りがあるものか」「ありがたき幸せ・・・では、大石可音様のお言葉をお伝え致しまする。“可音は茶屋修一郎様に嫁ぎたい”と」個人的なことで恐縮だが、先日、吟遊映人には縁のある人物が急逝した。生前の口癖は、「自分が死んだら、高野山に埋めてくれ」であった。おそらく故人の遺言は、四十九日が過ぎたところで実現されるに違いない。奇しくも、赤穂藩大石内蔵助以下四十七士も、高野山の奥ノ院に眠っている。本作「最後の忠臣蔵」は、これまで映画化、舞台化されたような、赤穂四十七士による吉良邸への討ち入りを扱ったものとは一線を画す。どちらかと言えば、もっとドラマチックでやや感傷的なものだ。本作の主人公である瀬尾孫左衛門と、大石内蔵助の忘れ形見である可音との関係は、いわば「羊たちの沈黙」におけるFBI訓練生クラリスと、ハンニバル・レクターとの関係にも似ている。それは、父と娘の関係のようでありながら、純愛を秘めたほのかなラブ・ロマンスなのだ。寺坂吉右衛門は大石内蔵助の命をもって、赤穂浪士の遺族を捜して全国を渡り歩いていた。ある時、吉右衛門は、討ち入りの前夜突如として逐電した瀬尾孫左衛門を京の町で見かける。命を惜しんで逃げ出した卑怯者瀬尾孫左衛門と罵られ、世間から武士の風上にも置けぬと揶揄された者であったが、実は大石内蔵助の忘れ形見である可音を、男手一つで育て上げていたのだ。しかしその可音も十六歳となり、天下の豪商に嫁ぐことになった。物語は、人形浄瑠璃の曽根崎心中と同時進行のようにして展開していくが、おそらく、道ならぬ恋の行く末を孫左衛門と可音にオーバーラップし、その効果をねらったものであろう。メガホンを取ったのは「北の国から」シリーズの演出家として著名な、杉田成道監督だ。 道ならぬ恋とか、ほのかな純愛を扱った演出は、この監督の十八番と言っても差し支えない。セリフを極力少なくし、充分な間を空け、目で訴える訴求力はなかなかのものである。 本作は、時代劇の形を取ってはいるが、現代では失われた純愛をテーマにした作品かと思われる。サムライとしての生き様、生き恥をさらさぬ気高さのようなものは、ほんのりと味わうぐらいが適当かもしれない。涙なくしては観られない、時代劇ドラマであった。2010年公開【監督】杉田成道【出演】役所広司、佐藤浩市また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2011.07.05
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「わしもおぬしも侍に生まれた。理由などわからぬ・・・いや要らぬ! その運命に従うまで」「おぬしが我らの仲間であらば・・・いや、せめて明石の家臣でなければどれほど事の成就がたやすいことか」「言うな! やせても枯れても、この鬼頭半兵衛は侍。むざむざ主君の首を差し出すと思うてか!? 新左、行きたければわしを殺して行け」本作は、海外での上映を意識してのことだろうか、セリフに“サムライ”という言葉が頻繁に使われている。サムライとはどうだこうだとか、自分はサムライであるからうんぬんとか・・・、とにかく四の五の言う。セリフも実にストレートだ。監督の意向なのか、それとも脚本家のポリシーなのか不明だが、言葉に奥行が感じられない。演技派が揃ったのだから、あまりセリフに頼らない方が重厚な武士道精神を垣間見せることに成功したのではなかろうか。メガホンを取ったのは三池崇史監督で、代表作に「着信アリ」や「クローズZERO」シリーズなどがある。ホラーにも定評があるが、何と言ってもバイオレンスを得意とするような作風が感じられる。江戸時代が間もなく終えんを迎えようとしている頃、一大事が発生。明石藩江戸家老・間宮図書が、老中・土井家門前で切腹して果てた。間宮の行為は、狂信的な残虐性を帯びた藩主・松平斉韶の横暴を諫めるための自害であった。当の明石藩主・松平斉韶の傍若無人と言ったらこの上もなく、その残虐さゆえ、尾張藩の木曽上松御陣屋詰の牧野の嫡男とその嫁を陵辱した上、殺害。さらには言われなき百姓の娘の両腕両足を切断し、その舌まで切り落とすという非道を犯したのであった。先行きを憂いた老中・土井は、信頼の置ける配下である御目付役・島田新左衛門に、ある密命を下したのだ。本作「十三人の刺客」で目を見張ったのは、両腕両足を切断された娘の役を演じた茂手木桜子という役者さんだ。ほんのチョイ役だが、このようなあられもない役柄を演じるのに、全身全霊を注いでいるのがひしひしと伝わって来た。素っ裸で、ヨダレを垂らし、血の涙さえ浮かべた表情は、実に見事だった。主人公・島田新左衛門に扮したのは、ベテラン俳優である役所広司だ。演技そのものに問題はなく、むしろ素晴らしい演出だったと思う。が、しかし一部気になるセリフがあった。松平斉韶の首がそれほどまでに欲しいかと問われた時、間髪入れずに「欲しい!」と答えたそのセリフ。いかがなものなのだろうか。ある意味、モダンな時代劇と言えるかもしれない。抽象さを排除し、明瞭にして分かり易いストーリー展開。“新しい”というのは、実はこういう映画のことなのかもしれない。邦画好きには必見の作品だ。2010年(日)、2011年(英)公開【監督】三池崇史【出演】役所広司、市村正親、稲垣吾郎また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2011.06.10
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「この話がまとまれば、(そなたは)嫁に行く身だ。男の背など流してはならん」「嫁になど行きたくはございません」「ばかを申せ! 女子は嫁に行き、定まる夫を持たねば幸せにはなれん」「私は嫁に行きましたが、幸せではありませんでした」「必死剣鳥刺し」は、藤沢周平の原作で「隠し剣」シリーズの一作である。藤沢周平という作家は、亡くなってからも益々人気が高まり、その著書である時代小説は次から次へと映画化され、興行的にも大成功を収めている。本作は、そんな藤沢作品の中の「隠し剣」シリーズと呼ばれる三作の一つである。三作品には「隠し剣鬼の爪」「武士の一分」があり、それらは山田洋次監督がメガホンを取っているが、本作「必死剣鳥刺し」は平山秀幸監督がメガホンを取っている。平山監督のヒット作と言えば、「学校の怪談」シリーズで、ミステリアスなドラマ仕立ての演出には定評がある。そんな先入観を持って観ても観なくても、何やら謎めいた人間模様のからくりに、最後まで目が離せない展開になっているのだ。海坂藩の藩主・右京太夫の側室・連子は、この世の栄華を誇っていた。それもそのはず、連子は類稀なる容姿に恵まれ、寵愛を注ぐ藩主を思いのままに操るのだった。右京太夫の藩政はしだいに連子の進言の影響を受け、城下の士気は低下していった。財政の苦しい最中、能楽が催された。中級武士の兼見三左エ門は、意を決して連子を刺殺するのだった。本作を観ていただいたらすぐに納得するキャスティングがある。それは、中老・津田役を演じる岸部一徳である。吟遊映人は、サスペンスモノを観てはすぐに犯人の見当をつけてしまうという得意技(?)がある。それとは関係ないかもしれないが、岸部一徳の登場により、「ははぁ、これには何かある」とすでに冒頭部から注意していたら・・・やっぱりそうだった(笑)他に、別家の帯屋隼人正という役に扮したのは吉川晃司であるが、この役者さんは光っていた。愛妾の存在で藩政に陰りが見えて来たところを、義を持って戒めるという役柄の良さもあったかもしれない。だが、もともとミュージシャンとしてデビューした、あの「モニカ」を歌って大ヒットした吉川晃司が、今や役者としても成功している姿は評価せずにはいられない。ちなみに吉川晃司の一族は、世が世ならやんごとなき身分のある家柄なのだ。なんと、誉れ高き毛利一門である吉川元春の末裔というのだから恐れ入った。そんなことでも頭の片隅に置いて鑑賞すると、また違った味わいのある時代劇作品に感じるのだ。2010年公開【監督】平山秀幸【出演】豊川悦司、岸部一徳、吉川晃司また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2011.04.25
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「市さんのお母さんは、いつも目の中にいるんですか?」「そう・・・時々いるんだ」「どんな人なんですか?」「菩薩様みたいな人さ」「菩薩様・・・」「座頭市」と言えば、海外映画界にずいぶんと影響を与えた、日本映画の代表格である。 最近では、猫も杓子と数多くのリメイク版も製作されているが、「座頭市」と言ったらやっぱりこの人、勝新太郎であろう。勝新太郎は、大映の二枚目スターとして市川雷蔵とともに売り出されたのだが、当初はさほどではなく、飛ぶ鳥も落とす勢いの雷蔵人気には到底及ばなかった。だが勝新太郎がそれまでの二枚目キャラを捨て去り、いわゆる汚れ役を演じるようになった頃から、にわかに脚光を浴び始める。そして「座頭市」という当たり役を得た時、勝新太郎は不動の人気を我が物にしたのだ。 本作「座頭市」が製作されたのは、正にバブル全盛期。豪華キャストの顔ぶれや、セットのすばらしさに思わず胸が躍る。だがこの作品には暗い因縁がまつわりつく。公開されることになっただけでも奇跡ではなかろうか。というのも、本作の撮影中、死亡事故が発生しているのだ。今でこそ忘れ去られてはいるが、勝新太郎の長男である鴈龍太郎が、真剣で、斬られ役の役者の首を斬りつけ、死亡させているのだ。故意によるものではなかったにしろ、大変な過失であった。さらには公開翌年、勝新太郎はコカイン所持で逮捕されており、「座頭市」の続編はもう二度と製作されることはなかった。つまり、勝新太郎にとっての本作「座頭市」が、製作作品としては最後の映画になってしまったという経緯があるのだ。百叩きの刑を受け、牢に入っていた盲目の按摩・座頭市は、ようやく釈放されると、田舎の知人を頼って行く。知人は親切にも座頭市に腹いっぱいの握り飯と酒を振る舞うと、いくらかの金を都合した。座頭市は、知人から受けた恩義を胸に焼き付けると、金を持って地元の賭場へ出向き、大金を稼いだ。座頭市は望まない揉め事に巻き込まれたり、刺客に命を狙われたりしたものの、己の旅を続ける。そんな中、座頭市は、孤児の世話をやく少女おうめと出会う。おうめは、健気にも一生懸命働き、子どもたちの面倒をみるのだった。勝新太郎という役者さんは、その愛嬌あるキャラクターゆえ、多くのファンから支持され、人気を誇ったが、その晩年は壮絶だった。莫大な借金、大麻不法所持による度重なる逮捕、息子の撮影中に起こした業務上過失致死罪など、それはそれはゴシップとスキャンダルにまみれたものだった。だが、「座頭市」と言えば勝新太郎の代名詞を持つ当たり役に恵まれたのは、人生最大の幸せだったに違いない。「座頭市」は、その後も日本国内はもちろんのこと、海外でもリメイクされ絶大な人気を誇るが、勝新太郎の打ち出した「座頭市」像は、誰にもマネが出来るものではない。日本の時代劇を世界に向けて発信した、最高の勧善懲悪ドラマなのだ。1989年公開 【監督】勝新太郎【出演】勝新太郎、樋口可南子、緒形拳、片岡鶴太郎 また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2011.04.21
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「月日貝でぇ」「美しい貝だ」「こっちが月で、そっちがお日さん・・・あげる」「なぜ?」「お日さんの方、大事にしてんな」この作品を観た時、激しいまでの作者のイデオロギーを感じたのは、吟遊映人だけだろうか?本作の著者は白土三平氏で、そのマンガを実写化したものが「カムイ外伝」なのだ。白土氏の父親というのはプロレタリア画家で、その影響もあるのか、被差別部落制度への疑問を投げ掛けているようだ。基本的な人権もなく、人が人らしく生きることを否定された非人が、一体どんな思いを抱えて生きて来たのか。今を生きる我々には想像を絶する世界である。自由、あるいは夢、そして希望を渇望する人々の魂の嘆きを聴いた時、人は尋常ではいられない。それは、職人によって絵画となり、あるいは文学となって社会に訴えられて来た。人はそれを芸術と呼ぶが、当事者にとっては神への糾弾であったのかもしれない。我々は先人の魂の叫びを心して聞き遂げねばならない。目を背けてはならないのだ。江戸時代には様々な階級があり、中でも非人という部落出身者はとりわけ貧しい生活を強いられた。非人出身のカムイは、貧しさ故に伊賀の忍びになるが、忍びの掟に馴染めず、抜け忍となる。だが抜け忍となったカムイを追い忍達がどこまでも追って来て命を狙う。そんな中、領主・水谷軍兵衛の愛馬“一白”の片足を切り落とした半兵衛という漁師に出会う。本作のメガホンを取ったのは崔洋一監督であるが、この人物も元々朝鮮国籍で、平成に入ってから韓国籍を取得している。在日という立場から様々な色眼鏡で見られて来たであろうことが想像出来る。本作のテーマからしても、この崔監督の手掛けた作品であるということに重大な意味がある。カムイの被ったような様々な艱難辛苦を、上辺だけでなくメンタルな部分からも表現するには、やはり崔監督でなければ不可能であったに違いない。難しいとされた実写化を、よくぞここまで見事な作品に完成させてくれた崔監督と出演者の方々に、盛大なる拍手を贈りたい。2009年公開【監督】崔洋一【出演】松山ケンイチ、小雪、小林薫また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2010.07.18
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「見えなかった境目が・・・見えてきた気がする」「一度堕ちた人間は二度と真っ当には戻れねぇんだよ・・・特に血の匂いが染みついた人間はなぁ」「・・・あんただけは許すわけにはいかない」座頭市といえば勝新太郎。そのイメージがあまりにも強くて、その女性ヴァージョンというのが思い浮かばない。 だが本作「ICHI」を観たことで、あのギラギラした男クサイ座頭市からスコーンと抜け出たような気がする。タイトルも横文字を使用していてモダンな雰囲気さえ漂う。盲目の女旅芸人なら、このぐらい粋でなくてはサマにならないというのも一理ある。内容的には悲恋モノかもしれない。だが、世間から虐げられて来た盲目の女旅芸人が、つかの間の優しさに触れ心を開いていくプロセスは、実に前向きである。生きるということがなかなかどうして一筋縄ではいかないことも、物語は厭味なく教えてくれる。盲目の三味線弾きである市(いち)は、万鬼の手下であるならず者たちから因縁をつけられる。そこへ、市を助けようと浪人・藤平十馬が現れるが、手が震えて刀が抜けない。そうこうしているうちに市は十馬の助けなど必要もなく、ならず者たちを一刀両断のもとにしてしまう。その後、二人はある宿場町へたどりつき、賭博場へ顔を出す。しかし、その町全体が万鬼一党に牛耳られ、精彩を欠いているのだった。女性が主人公ということもあり、作品は狂信的な暗さを避けようと、モダンで叙情的な流れにこだわっている。そんなわけで音楽も海外からリサ・ジェラルドを抜擢し、挿入曲として起用している。 リサ・ジェラルドは、「グラディエーター」の楽曲も担当しており、ハリウッド映画界の音楽の巨匠であるハンス・ジマーと共にゴールデングローブ賞作曲賞を受賞している。本作を音楽性からぐぐっと盛り上げているのも、彼女の見事な音楽性が効果を加味している。ヒロイン市役の綾瀬はるかも、けなげにこの大役に臨んでいて好演。ファン必見の映画なのだ。2008年公開【監督】曽利文彦【出演】綾瀬はるか、大沢たかお、中村獅童また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。 See you next time !(^^)
2010.02.01
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「(頭を思い切りゲンコツで殴る)痛いかっ!?」「いてーが!!」「・・・どんな馬鹿でもな、男には義理というものがある。その義理を欠くんでにゃあぞ(お金を渡す)」「わかった」浪曲でお馴染の森の石松の墓は、静岡県周智郡森町は大洞院の門前に建てられている。 遠州の小京都森町は、白壁の土蔵や遠州瓦の家がそこかしこに点在する。そこは、火伏せの神として祀られる秋葉神社へ通ずる街道の宿場町として栄え、その名残りなのか今なお道幅が狭く、家並みが入り組んでいる。森の石松についての伝承は、諸説ある中で、現在の浜松市浜北区において騙し討ちに遭い死亡という線が有力である。酒飲みの博打好きだが愛嬌があり、次郎長からはとりわけ愛された侠客の一人であった。 余談になったが、清水の次郎長を語る時、その子分である森の石松もまた語らずにはいられない。駿河国は清水に一家を構えるようになった若き次郎長は、喧嘩の仲裁などにより徐々にその名を近隣諸国に轟かせた。参謀役の大政、法印の大五郎、森の石松、追分の政五郎など個性豊かな子分たちにめぐまれ、渡世修行に余念がなかった。本作「次郎長三国志」は、過去にも何度かリメイクを繰り返され、さして目新しさはないというのが正直なところだ。だが、時代劇の中でしか見られなくなりつつある人情話やチャンバラ、駑馬の風景などはかえって新鮮味があり、思わず惹き込まれてしまう。次郎長役の中井貴一は、さすがに貫禄があった。セリフの一つ一つを粋に言い回すところなど、まるで舞台俳優然とした潔さが感じられた。また、次郎長の右腕という設定である大政役の岸部一徳も、侠客らしからぬ高潔なイメージで飄々とした演技を披露してくれた。「次郎長三国志」は、古き良き近代日本の歴史と伝統に触れたような、義理人情にあふれた時代劇作品なのだ。2008年公開【監督】マキノ雅彦【出演】中井貴一、鈴木京香、岸部一徳また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.11.17
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「父がそのぅ・・・嫁をもらいたいと、こう申しておりますので。」「何、嫁?」「いい年をして何を・・・全く情けないと申しますか・・・恥知らずと申しますか・・・。」「あ・・・いや、してその相手のお方とはどのような・・・?」「それが・・・茶屋の女なのでございます。」作品を盛り上げるために、とりわけ効果的な手段の一つに音楽の挿入がある。例えば「スター・ウォーズ」では、ダースベイダーの登場とともに流れるダースベイダーのテーマ曲。あるいは「ゴッドファーザー」で流れるテーマ曲。このようなインパクトのある音楽の効果的な使用により、作品はより重厚で存在感のあるものに完成される。「鬼平」においてもエンディング・タイトルとして流れる曲は定番で、作中でもここぞという時に効果的なBGMとして使用されている。ジプシー・キングスの“インスピレーション”という曲なのだが、実に良い。フランスの音楽バンドで、根強いファンに支えられている。有名なところで、キリンビールのCMでお馴染の“ボラーレ”も、このジプシー・キングスの作曲なのだ。長谷川平蔵のいとこに当たる、三沢仙右衛門親子が平蔵宅を訪れる。何やら仙右衛門の長男が言うには、父親がいい年をして再婚したいとのこと。しかも相手は茶屋の女だと。相談を受けた平蔵は、ひとまず山吹屋という茶屋に出向き、仙右衛門が一目惚れをしたお勝の人柄を見て来ることを約束。さっそく平蔵は、家臣である木村忠吾を伴い、山吹屋に出向くのであった。久しぶりに吉田栄作を見たような気がした。今回の作品では、利八という盗人稼業から足を洗い、鬼平の配下で“狗”となって働く役柄として登場しているが、以前の印象とはだいぶ違って見えた。吉田栄作と言えば、世間がバブルに沸いたあの時代、ルックスとスタイルを買われてモデルから俳優に転身を遂げた、華々しい経歴を持つ人物だ。加勢大周・織田裕ニらとともにトレンディードラマの常連俳優であり、“平成の御三家”とも呼ばれていたこともある。そんな吉田栄作も、一時期廃れて芸能界から身を引き、渡米していたブランクもあるのだが、そういう充電期間をフルに活用して今の吉田栄作に変身を遂げたに違いない。「鬼平」においても、なかなか味のある役者として立ち回っていたように思えた。「鬼平」のすごいのは、そんな“脛に傷を持つ”役者らが一堂に会し、見事な時代劇を完成させていることだ。お茶の間で老若男女、時を忘れて楽しめる作品なのだ。2005年フジテレビ系列にて放送【監督】石原興【原作】池波正太郎【出演】中村吉右衛門、吉田栄作また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.01.21
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「親父、あの女に酒を。」「へい。」(夜鷹、被り物を脱ぎ、色目をつかう。)「ハハハ・・・俺も年でな、そっちの方はいけねぇんだよ。まぁこっちへ来て、体のあったまるものをゆっくり飲んで行きな。さぁさぁ・・・」「旦那・・・。」後に万感の想いで直木賞を受賞した池波正太郎だが、正統派歴史小説家として直木賞選考委員に海音寺潮五郎が名を連ねていた時は、その辛辣な酷評のもとに直木賞を逃していたのだ。しかし、池波作品は大衆から愛され、「読み易い」との定評があり、時代小説家として確固とした地位を確立した。池波正太郎の代表作に、「鬼平犯科帳」は言うまでもないが、「剣客商売」や「真田太平記」などがあげられる。「真田太平記」は天才軍師・真田幸村を扱った作品だが、機知に富み、天文・知略に通じた真田家の登場人物を生き生きと描いている。ちなみに真田家の居城は長野県上田市にあり、10年ほど前だったか“池波正太郎・真田太平記館”なるものが開館し、話題を呼んだ。老いてすでに盗人稼業から足を洗っていた九平は、故郷の加賀国へと向かっていた。途中、通り雨に見舞われて御堂で雨宿りをしていたところ、後から3人の男がやって来て軒下で何やら密談を始めた。それは、火付盗賊改方長官・長谷川平蔵の暗殺計画であった。3人は御堂の中の九平に気付かず、雨があがるとすぐに立ち去ってしまった。頑固で臆病者の九平は、その話を聞かなかったことにして、その1年後、江戸で居酒屋を開くのだった。やっぱり勧善懲悪の時代劇は安心して観ていられるから嬉しい。特に鬼平役の中村吉右衛門の圧倒的な存在感はどうだ!この人がいるからお江戸の町は安心なのさ・・・的な雰囲気さえ漂ってしまう。通りすがりの夜鷹でさえ鬼平に恋してしまうのだから、このキャラクターの魅力って一体・・・?極悪非道の網切の甚五郎という悪役は、大杉漣が好演。血も涙もない悪いヤツとして演じてくれた。「鬼平」を観た後のこの爽快感! これがまたたまらない。暗く陰鬱な時代劇なんか、どれほど芸術的価値があるか知らないが、やっぱりこうでなくちゃ。勧善懲悪、これにて一件落着!2006年フジテレビ系列にて放送【監督】井上昭【原作】池波正太郎【出演】中村吉右衛門、小林稔侍また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.01.19
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【蝉しぐれ】「何事が起きたのかお聞かせ下さい。」「それは・・・いずれ分かる。しかしわしは恥ずべきことをしたわけではない。わたくしの欲ではなく、義のためにやったことだ。おそらく後には反逆の汚名が残り、お前たちが苦労することは目に見えている。だが文四郎は父を恥じてはならん。そのことは胸にしまっておけ。」原作を読んでいるだけに、映画を観てがっかりするのは避けたかった。「蝉しぐれ」を一気呵成に読んだ時、私の頬は涙に濡れ、胸の切なさを抑えるのに難儀したほどなのだから。藤沢作品の金字塔であるこの小説は、単なる時代小説などではなく、青春文学でもあり、純文学でもある。今回、機会があって映画化された「蝉しぐれ」をDVDで鑑賞したのだが、なかなかどうして侮れない。藤沢作品にふさわしく、格調高い仕上がりであった。当初、小説の中で展開される詩的とも言うべき風景描写を、一体どうやって映画の中で表現するのだろうかと疑問に思っていた。なぜなら、小説はあくまで幕末の、時間がゆったりと流れていく、たくさんの自然美に溢れた時代設定なのだ。『いちめんの青い田圃は早朝の日射しをうけて赤らんでいるが、はるか遠くの青黒い村落の森と接するあたりには、まだ夜の名残の霧が残っていた。じっと動かない霧も、朝の光をうけてかすかに赤らんで見える。』この辺りの描写は、限りなくそれに近い風景として、作中、見事な映像美となって表現されており、脱帽した。ああ、これこそが純文学の世界だと感嘆した。幕末の山形県庄内地方が舞台となっている。剣術に秀で、道場では期待の俊才である文四郎は、逸平や与之助と仲良し3人組。ある日、後継者問題が勃発し、藩内を二分する政変が起こる。文四郎の父もこれに巻き込まれ、切腹を余儀なくされ、牧家の家禄没収という厳しい運命に直面する。一方、道場では落第の与之助であったが学問に優れていたため、江戸へ旅立つことに。 また、逸平は城に勤め始める。密かに心惹かれていた隣家のおふくは、江戸藩邸に奉公するため国許を去る。若者たちは、それぞれの道を歩み始めるのだ。手も握ることなく、ましてや肌を寄せ合うこともなく、ただお互いの淡い恋心を胸に秘めて、過ぎ行く時を惜しむ気持ちがわかるだろうか?たとえ遠く離れていても、相手の息災を信じ、ただひたすら精進するのだ。そして一たび相手の身に異変があった際には、何を置いても駆けつけて守り抜く強靭な力。それは愛。しかも純粋で崇高な。今生で結ばれることは叶わずとも、来世はきっといっしょになりたいと痛切に願う想い。 あなたは本当に誰かを愛したことが、ありますか?純愛を信じますか?藤沢周平の作品には、清らかな泉のような潤いがそこかしこに感じられる。※先日、お亡くなりになりました緒形拳さんのご冥福を、心よりお祈り申し上げます。 2005年公開【監督】黒土三男【出演】市川染五郎、緒形拳
2008.10.24
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「二度とお前の料理は食えねぇとあきらめて、徳平のマズイ飯でずっと辛抱していたんだぞ。・・・どうした? うちを留守にしている間に舌なくしちまったのか?」「私がお分かりでがんしたか。」「アホだのぅ。お前の煮物の味を忘れるわけねぇ。」やっぱり山田作品は良い。とにかく安心して観ていられるからだ。藤沢周平の世界観とコラボして、見事な人間ドラマに仕上がっているではないか。山田監督が持つヒューマニズム思想のせいなのか、スポットがあてられるのは名もない下級武士の、しがない日常生活ではあるのだが、そこに潜む笑いとか哀しみがそこはかとなくドラマを盛り立てている。「ロン・バケ」や「あすなろ白書」等、テレビドラマのイメージが強いキムタクも、本当によく頑張った。山田監督の厳しい演出に充分応えていると思う。そのせいか、「HERO」の時のキムタクとはとても同一人には思えない演技力を発揮しているのだ。幕末、山形県庄内地方が舞台。藩主の毒見役を務める三村新之丞は、毒見の際に食べたつぶ貝の毒に中り、失明してしまう。本来なら失職し、家禄も奪われ路頭に迷うところなのだが、藩主のお目こぼしによりそれまでの三十石の家禄と家名は守られることになった。そんな折、新之丞の叔母から加世(妻)の不貞を聞かされ、加世がふしだらな女ではないことを信じつつも、一抹の不安を覚えるのだった。時代劇は、なにもお上の武勇伝を聞くためだけのドラマではない。もっと底辺のところでささやかなドラマが生まれているのだ。この作品を観ると、どういうわけだか、浅漬けのお新香とご飯が食べたくなる。しかも着物を着てお寺の参道をそそと歩いてみたくなる。あるいは障子のある部屋が欲しくなる。そしてなにより、「清貧」という生き方にますます憧れを強くするのであった。2006年公開【監督】山田洋次【出演】木村拓哉、笹野高史また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.07.24
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「今度もまた負け戦だったな。」「は?」「・・・いや、勝ったのはあの百姓達だ。わし達ではない。」黒澤作品の晩年の作品、たとえば「影武者」や「乱」などは、全体を通して重くズシリと感じさせる内容に仕上げられている。しかもラストは必ず視聴者に向け、何か問題を提示する余韻を残してエンディングタイトルが流れるのだ。だが「七人の侍」を久しぶりに観たところ、どうやらその傾向は黒澤作品の晩年に限ったものではないことがわかった。黒澤監督は、いつも何かを訴えようとしていた。それが一体何であるかを想像しながら作品を鑑賞すると、さらに黒澤映画の奥の深さに驚かされるのだ。「七人の侍」ではおそらく、したたかに生きる者の勝ちなのだ、と言わんとしているのだろう。また、いくら“○○流”を気取る武士であろうとも、一発の銃弾の前では無力なのだ、とも。無敵を誇った武田騎馬軍団も、織田勢の用意した種子島(火縄銃)の前に惨敗したのだから。「七人の侍」は、武家社会の終焉とも読み取れる作品であった。盗人が子どもを人質に納屋に立てこもる中、剃髪し、にわかに僧侶に化けた武士が見事子どもを救出した。その侍こそ勘兵衛である。そのようすを一部始終見聞きしていた利吉たちは、急いで勘兵衛の後を追い、野武士退治を依頼する。だが、勘兵衛は無理な頼みごとだと一蹴する。まず、侍の人数が少なく見積もっても7人は必要だと言う。結局、百姓たちの窮状に胸を痛めた勘兵衛は、利吉たちの懇願を受け入れ、野武士退治に立ち上がるのだった。宮本武蔵や柳生十兵衛をモデルにしたと言われている久蔵というキャラクターは大好きだ。背後から銃弾を受けた際、それでもなお果敢にもう一太刀ふりかかろうとする様は、武士の魂を見た気がした。また、絶命するにしても前のめりで倒れる姿に、思わず目頭が熱くなった。黒澤監督の撮影技法についてだが、周知の通り、この作品の大掛かりなアクションシーンは複数のカメラを様々な角度に設置し、同時に撮影することで芝居を中断させなかったという逸話がある。この撮影技法を見事に生かした編集により、ラストの決戦シーンは歴史に残る大掛かりなアクションシーンとなったのだ。それは正に、ハリウッド映画を凌駕した一場の嵐だった。1954年(日)、1956年(米)公開【監督】黒澤明【出演】志村喬、三船敏郎また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.07.13
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「離れ家は三つ。部落の家は二十だ! 三軒のために二十軒を危うくはできん! また、この部落を踏みにじられて離れ家の生きる道はない! いいか、戦とはそういうものだ! 人を守ってこそ自分も守れる。己のことばかり考える奴は、己をも滅ぼす奴だ!」黒澤作品をつらつらと語るのは今さらという気もするが、やっぱり書かずにはおられない。とにかくこのそうそうたる役者陣の顔ぶれはどうだ!演技しているとは思えないほどの演技力ではないか。主役の勘兵衛を演じた志村喬だが、この人の味わい深い奥行のあるセリフの言い回しは何とも言えない心地良さがある。「男はつらいよ」シリーズでおなじみのさくらの亭主、博(ひろし)の実父役として、確か3度の出演作品がある。これがまたボクトツとしてそれでいて憂いがあり、とにかく存在感に溢れているのだ。 さらに、武士の中の武士とも言えるほどの圧倒的な強さを見せつけた久蔵役を演じた宮口精二だが、この人も「男はつらいよ」シリーズに2回ほど出演している。(当管理人は「男はつらいよ」の大ファンなので、あしからず。)マドンナ役の吉永小百合扮する歌子の父親役で出演しているのだが、小説家という設定ゆえか、口下手で神経質だがどこか知的な匂いのする雰囲気で視聴者を釘付けにする。そんな名優たちが黒澤作品において、同じ舞台で演じているのだからつまらないわけがない。野武士の群れが山間の小さな村をねらっていた。百姓たちは実りの時期を間近に、震えあがる。野武士たちは、ハイエナのように村にある穀物を強奪し、女たちをあさり、奪えるものは全て奪い尽くす集団だった。百姓たちは苦悩の末、村の長老の意見を聞き入れ、侍を雇うことを決意する。さっそく「腹の減った侍」を探すために町へ出た。利吉たち4人の百姓らであったが、なかなか腕の立つ侍など見つけられるものではなかった。そんな時、利吉たちは人だかりに出くわす。見ると、一人の浪人が僧侶に剃髪されているではないか。利吉たちは、事のいきさつを野次馬の一人に尋ねてみるのであった。黒澤監督のすごいところは、夏の入道雲一つ取ってもムダのない被写体であり、理由あっての構図として存在する点である。木の葉の影が風にそよいでゆらゆらと役者の顔に反映するシーンや、言葉はなくとも訴えかけてくるような妖艶な視線など、どれも見事な演出である。そんな「七人の侍」は、1954年にヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞を受賞している。日本映画が、世界を揺るがした瞬間であった。1954年(日)、1956年(米)公開【監督】黒澤明【出演】志村喬、三船敏郎また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.07.12
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「あなたは何だかギラギラし過ぎてますね。」「ギラギラ?」「そう、抜き身みたいに。」「抜き身?」「あなたは鞘のない刀みたいな人。よく斬れます。でも本当にいい刀は鞘に入ってるもんですよ。」やっぱり黒澤映画は文句なしにすばらしい。観ていて全く飽きないし、時代劇にもかかわらず古臭さが感じられないから不思議だ。 バッサバッサと人を斬り殺していくシーンは、ややもすれば殺伐として味気ないものになってしまいがちなのに、途中、妙に育ちの良い城代家老の奥方やその娘などの穏やかな物言いが、作品をやわらかく上品なものに仕上げている。入江たか子の格調高い雰囲気は、後光さえ射している。「あら、いけませんよ。そんな乱暴なことは。」(←まるで虫をいじめる子どもを諭すみたいに)そんなふうにたしなめられたら、どんな剣術士でもひるんでしまうに違いない。椿三十郎も例外でなく、一騎当千の豪の者でありながら、城代家老の奥方には全く逆らえないから不思議だ。深夜、朽ちた神社の社殿において、若き侍たちが人目を避けるようにして密談を交わしている。そこへ、奥の部屋から大あくびをしながらのっそりと現れる浪人、椿三十郎。若者たちは、自分たちの謀議を盗み聞きされたと、思わず息を呑む。だが三十郎はそんな緊張感などどこ吹く風とばかりに、若者たちにボヤくようにしてアドバイスをする。「菊井のほうこそ危ない」と。若き侍たちは、次席家老の汚職を城代家老に相談したところ、全く相手にされず、対して大目付の菊井に話してみると、「共に立とう」との返答を受けていた。しかし三十郎は言う。物事は客観的に捉えていると、その本筋が見えてくるものだと。若者たちは、三十郎をうさんくさく思いながらも、彼の手助けを受け、命がけで悪党に立ち向かってゆく。今さら三船敏郎を絶賛するのもおこがましいが、何と言うかこの存在感は天性のものなのであろうか。主役然として媚がなく、へつらいもない。堂々としていて、スター性に満ち溢れている。また、この限られたスクリーンの中で、役者を多いに生かして撮影に臨んだ黒澤監督の見事な演出。そして無駄のないセリフ。「世界の黒澤」たるを見せつけられた、すばらしい日本映画なのだ。1962年公開【監督】黒澤明【出演】三船敏郎、仲代達矢また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.06.24
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