《櫻井ジャーナル》

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2010.02.05
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 横浜地裁は4日、「横浜事件」の元被告に対する刑事補償の支払いを決めた。この事件については本コラムでも何度か取り上げているので繰り返しになるが、あらためて事件の概要を確認しておきたい。

 日本がハワイの真珠湾を奇襲攻撃した翌年、1942年に世界経済調査会に所属していた川田寿が逮捕されて事件は始まる。川田は1930年にアメリカで結婚、41年に帰国してから外務省と密接な関係にある世界経済調査会に就職したのだが、アメリカ時代に共産党関係の活動をした疑いがかけられ、妻の定子とともに逮捕されたのだ。川田寿の交友関係から同調査会の益田直彦が1943年1月に、また高橋善雄が同年5月に逮捕され、さらに満鉄関係者へと捜査の手は伸びた。

 その一方、1942年には雑誌「改造」に掲載された論文「世界史の動向と日本」を書いた細川嘉六が検挙され、捜査の過程で写真が発見された。その写真は細川が書いた『植民史』の刊行記念で催された会食の際に撮影されたものだったのだが、特高警察はこの会食を「共産党再建準備の謀議」だと「想像」し、会食の出席者を逮捕していったのだ。

 横浜事件では、雑誌「中央公論」の編集者など60名以上が治安維持法に違反した容疑で逮捕され、30名以上が有罪判決を受け、そのうち4名が拷問で獄死している。釈放直後に獄中の心神衰弱が原因で死亡している人も何人かいた。

 特高の最高責任者は内務省の警保局長だが、「摘発」の最中、1943年には町村金五が局長に就任している。この人物は自民党の有力議員、町村信孝の父親だ。金五は1945年に警視総監となり、戦後になってからは政治家に転身した。つまり、1952年に衆議院議員、59年には北海道知事、71年には参議院議員となり、第2次田中角栄内閣では自治大臣に就任している。

 町村が警保局長として思想弾圧を実行していた時期に内務次官を務めていたのが東条英機の懐刀と言われた唐沢俊樹だ。唐沢も1932年から36年にかけて警保局長を経験している。戦後、1955年に衆議院議員に当選、岸信介内閣では法務大臣に就任している。横浜事件を戦後の自民党政権は反省していなかったわけだが、この問題を容認してきたマスコミも責任を免れない。

 今回、横浜地裁は横浜事件に関し、初めて特高警察、検察、そして裁判所の責任にも言及したが、これまで同事件について裁判所は捜査当局や裁判所の責任を回避してきた。そうした司法システムの実態が小沢一郎に対する攻撃であり、政党のビラを配った住職の逮捕、起訴、有罪判決にもつながっている。

 戦後、日本の警察や検察は刑事事件でいくつもの冤罪を作り出し、「日米同盟」にとって都合の悪い政治家や左翼活動家を排除してきた。これは捜査当局の「お家芸」であり、小沢一郎が初めてターゲットになったわけではない。

 昨年の春から検察は小沢を攻撃し続け、強制捜査も実行したのだが、結局は起訴できなかった。自民党は勿論、マスコミも同じことをされれば、起訴される理由を見つけられてしまうはずである。つまり、検察は小沢が「シロ」だということを証明したに等しい。朝青龍の騒動がなければ、検察の無様な姿はより明白になったことだろう。朝青龍の問題を燃え上がらせた某週刊誌に検察は感謝すべきかもしれない。






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最終更新日  2010.02.06 01:16:20


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