《櫻井ジャーナル》

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2010.08.11
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 羽田空港発、伊丹空港行きの日本航空123便が群馬県南西部の山岳地帯に墜落し、乗員乗客524名のうち520名が死亡したのは25年前の8月12日のことだった。例によって、マスコミは叙情的な記事や番組で誤魔化しているが、この事件の真相は現段階でも明らかになっていない。隔壁が損壊し、尾翼が内部圧力で吹き飛ばされ、操縦系統も失われて墜落したとうシナリオが有りえないことだけは確認されている。

 このシナリオを主張しているのは運輸省事故調査委員会。武田峻委員長によると、「昭和53年(1978年=引用者注)大阪国際空港における事故による損傷の修理の際に行われた後部圧力隔壁の不適切な修理に起因しており、また亀裂が隔壁の損傷に至るまで進展したことは点検整備で発見されなかったことも関与していると推定いたしました」という。

 しかし、そうした事態になれば、客室で急減圧が起こり、酸素マスクをつけなければ手の痙攣、チアノーゼによる指先の紫色化などが起こる。ところが、異常が発生してから約9分後でも123便の機長は酸素マスクをつけていないにもかかわらず、手の痙攣や意識障害が起こった様子はうかがえない。つまり、隔壁は破壊されていない可能性が高い。

 尾翼が内部圧力で吹き飛ばされたというシナリオを実現するため、隔壁破壊を考えついたのだろうが、隔壁破壊がなかったとするならばい、尾翼は外部圧力で吹き飛ばされた可能性が高まる。その「外部圧力」とは何なのかを示唆する証言を1995年8月にアメリカ軍の準機関紙、星条旗が掲載している。日本のマスコミも伝えていたが、当然、重要な箇所は削られていた。

 ともかく、同紙の記事によると、事件当日、日航機のそばをアメリカ軍のC-130が横田基地に向かって飛行していた。その輸送機に乗っていたマイケル・アントヌッチが証言者だ。

 日航機と管制との遣り取りを最初に聞いたのは大島上空を飛行中で、最初の緊急コールは切迫している様子が感じられなかったという。ところが、18時40分のコールは叫び声のようで、明らかに異常だったため、横田基地の管制から許可を受けた上で日航機に接近を図っている。

 日航機は18時56分に墜落、その地点を米軍機は19時20分に特定し、報告している。運輸省に捜索本部が設置されたのは19時45分なので、捜索を始めた時点で日本政府は日航機の墜落現場を把握していたはずだ。少なくとも、アメリカ軍から情報は伝えられていたはずだ。地上でも目撃者から正確な墜落位置を知らされていたのだが、捜索隊は別の場所を探している。故意に発見を遅らせようとしていたとしか考えられない。

 ともかく、C-130が墜落現場に到着した直後、厚木基地から海兵隊の救援チームが現地に向かい、20時50分にはヘリコプターが現地に到着し、2名の隊員を地上に降ろそうとした。ところが、このときに基地から全員がすぐに引き上げるように命令されている。日本の救援機が現地に急行しているので大丈夫だということだった。それでもC-130は現場に止まり、21時20分に日本の救援部隊を乗せた航空機が現場に現れたのを確認してから米軍の救援チームとともにその場を離れている。

 ところが、自衛隊がこの時点で救援活動を始めた事実はない。この事件では4名の生存者がいたが、墜落直後には何人かの荒い息づかいが聞こえ、「おかあさん」と呼ぶ男の子の声や、「早く来て」という若い女性の声が聞こえたとする証言がある。日本の捜索隊が墜落現場に到着したのは翌日の8時半だが、迅速な救援活動が行われていたならば、もっと助かった人は多かった可能性がある。






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最終更新日  2010.08.11 15:16:31


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