《櫻井ジャーナル》

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2013.05.03
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 5月3日は「憲法記念日」。アメリカ海軍のミズーリ号で日本政府全権の重光葵と大本営全権の梅津美治郎が降伏文書に調印したのが1945年9月2日のこと。それから1年2カ月後の1946年11月3日に日本国憲法は公布され、その翌年の5月3日に施行された。

 アメリカが主導する形で作られた憲法だが、そうせざるをえない事情もあった。日本側の支配層に民主化の意志はなく、その一方で連合国側では天皇の戦争責任を問う声が高まっていたのである。靖国神社を破壊し、天皇の戦争責任を問うべきだとする人は少なくなかった。

 日本へ帰る前、1946年に堀田善衛は上海で中国の学生から、「あなた方日本の知識人は、あの天皇というものをどうしようと思っているのか?」と「噛みつくような工合に質問」されたという。(堀田善衛著『上海にて』)「どう思う」ではなく、「どうしようと思う」と詰問されたのである。中国の学生にかぎらず、世界の人びとはそういう目で日本を見ていた。

 急がないとアメリカの支配層にとって好ましくない事態になる。つまり、ウォール街と手を組んでいた天皇制官僚国家体制が崩壊してしまう。が、彼らにとって「幸運」なことに、フランクリン・ルーズベルト大統領は1945年4月12日、ドイツが降伏する前の月に急死していた。

 ルーズベルト大統領の急死によってニューディール派/反ファシスト派は急速に弱体化、巨大資本がホワイトハウスで主導権を奪い返し、政策が劇的に変化していく。反ファシストから反コミュニストへ、巨大資本に対する規制から経済活動の自由化へ方向転換していたのだ。その影響は日本にも及ぶことになる。

 ルーズベルトの死によって、日本の支配層は「国体」が維持されると安心したかもしれないが、政策を瞬間的に変更することはできない。まだ、反ファシストの雰囲気も残っていた。

 そうした中、1945年9月26日に哲学者の三木清が獄死した。降伏文書への調印からすでに24日が経過しているが、政治犯は獄につながれたままだった。戦前の治安体制は続いていたのである。

 こうした事態に驚いたのは外国人。ロイターのR・リュベン記者は10月3日に山崎巌内相をインタビューしているが、その際、内相は特高警察の健在ぶりを強調、天皇制に反対する人間は逮捕すると言い切ったという。その日、岩田宙造法相は中央通訊社の宋徳和記者に対し、政治犯を釈放する意志はないと明言している。日本の状況を世界の人が知ることになった。

 政治犯は10月10日に釈放されるのだが、記事を受け、ダグラス・マッカーサー連合軍最高司令官が「政治、信教ならびに民権の自由に対する制限の撤廃、政治犯の釈放」を指令した結果である。



 つまり、「敗戦ショックの只中で、ろくに食べるものもないのに、こんなに優しくて叙情的な歌が流行っているというのは、なんたる国民なのかと、呆れてしまったんです」というわけだ。しかも、「明白な敗戦なのに"終戦"とごまかしている。この認識の甘さにも絶望しました」と書いている。(堀田善衛著『めぐりあいし人びと』)

 当時、民間でも民主的な憲法を作る動きがあったというが、国民全体はこうした体たらくだったのである。認識の甘さは今も続いている。

 民主化を謳いながら天皇制を存続させる目的でアメリカは日本国憲法を作った。短期間で作る必要があったので、ニューディール派の意向も反映され、民主的な要素が憲法に盛り込まれる一因になっただろう。天皇に関しては、「神」から「象徴」へと表面的な役回りは変化したが、その後も「神聖にして侵すべからざる存在」でありつづけている。

 それでも日本の支配層には第9条を懸念する人が少なくなかった。その代表的な人物が昭和(裕仁)天皇。コミュニストが日本を制圧し、自分を絞首台や断頭台の前に引きずり出すのではないかと恐れていたようだ。

 憲法が施行された直後、天皇はダグラス・マッカーサーに対して憲法第9条への不安を口にしたという。通訳の奥村勝蔵はその内容をメディアにリークした。マッカーサーは天皇に対し、アメリカが日本の防衛を引き受けると保証したというのだが、これは情報操作だった。

 奥村は会談の後半部分を隠していたが、そこでマッカーサーは違うことを主張している。つまり、「日本としては如何なる軍備を持ってもそれでは安全保障を図ることは出来ないのである。日本を守る最も良い武器は心理的なものであって、それは即ち平和に対する世界の輿論である」。(豊下楢彦著『昭和天皇・マッカーサー会見』)

 そして、1950年4月に池田勇人がアメリカ政府に伝えたメッセージにつながる。そこには、アメリカ軍を駐留させるために「日本側からそれをオファするような持ち出し方を研究」してもかまわないという内容が含まれていた。(豊下楢彦『安保条約の成立』)

 このメッセージは吉田茂からのものだとされているが、実際は天皇からのものだった可能性が高い。吉田が行っていた発言と矛盾するのである。そして6月22日、朝鮮戦争が勃発する3日前にジョン・フォスター・ダレスは東京で「夕食会」を開いている。日本側から出席したのは、大蔵省の渡辺武(元子爵で後の駐米公使)、宮内省の松平康昌(元公爵で三井本家家長の義兄)、国家地方警察企画課長の海原治、外務省の沢田廉三(妻は三菱合資社長だった岩崎久弥の娘)。戦前、アメリカの巨大資本と手を組んでいた人脈だ。

 現在、アメリカは軍隊の「アウトソーシング(外部委託)」を推進している。傭兵会社と契約、中東/北アフリカではサウジアラビアやカタールのカネで傭兵を雇っている。そのテータベースが「アル・カーイダ」。そして、自衛隊もアメリカの傭兵になろうとしている。日本国民がカネを出し、アメリカが命令する傭兵。そのためにも憲法第9条を変えたいとアメリカの支配層は考えている。安倍晋三首相たちが行おうとしているのは、「押しつけ改憲」である。





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最終更新日  2013.05.04 04:28:01


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