《櫻井ジャーナル》

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2014.12.13
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 今から77年前、1937年12月13日に日本軍は中国の首都だった南京を占領、女性や子どもを含む市民を虐殺、レイプ、略奪などを行ったと報告されている。その年の7月に日本の傀儡、冀東防共自治政府の保安隊を日本軍の飛行機が爆撃(誤爆だという)、それに怒った保安隊は北京近郊の通州で日本人を殺害、それに刺激されて日本兵が南京で暴走したとする見方もある。

 少し前にも書いたが、南京での出来事について少なからぬ日本軍の将兵が陣中日記の中で軍命によって捕虜を射殺したと記録している。また、支那派遣軍の岡村寧次総司令官は部下からの報告に基づいて「南京攻略時、数万の市民に対する略奪●姦等の大暴行があたのは事実」と書き残している。

 また、外務省の石射猪太郎東亜局長は「南京に於ける我軍の暴状」の報告があり、そこには「略奪、●姦目もあてられぬ惨状」と書かれていたと日記に記している。中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官だった松井石根大将が師団長クラスの退廃ぶりを嘆き、三笠宮崇仁が著書の中で「日本軍の残虐行為」や「毒ガスの生体実験」について触れたことは有名な話だ。

 松井は1878年の生まれなので、事件当時は59歳。一応、明治になってから生を受けたわけだが、まだ徳川時代の文化、伝統の影響を強く残していた。それに対し、退廃していたという師団長より若い人びとは明治政府によって作り上げたと言える。1890年に発布された「教育勅語」で「忠君愛国」と「儒教的道徳」がたたき込まれた人たちだ。

 事件当時、特務機関員として活動中だった中島辰次郎は、南京市内で「虐殺」と呼べる出来事があったことは間違いないと明言、総数については市内をくまなく調べたわけではないので総数はわからないとしたうえで、死体が山積みになった光景を見たと中島は話していた。

 虐殺がなかったという主張は論外として、殺害された市民の数を中国側は30万人、日本では10万から20万人と言う人が多いようだ。被害者側は攻略戦を含めて大きく推計、加害者側はできるだけ少ない数字を出してくるため、数字に開きがあるのは当然。

 例えば、1982年にイスラエル軍がレバノンへ軍事侵攻した際、虐殺事件があった。イスラエル軍が包囲していたサブラとシャティーラ、両難民キャンプでイスラエル軍の手先として動いていたファランジスト党の戦闘員が手を下したのだ。

 犠牲者の数をレバノン政府は460名としていたが、国際赤十字が確認した死体だけでも663体あるのでこれは論外として、イスラエルの報告書は700名から800名、PLOは死者と行方不明者を合わせて5000名から7000名、現地を取材したジャーナリストによると、ブルドーザーなどを使って隠されたり運び出された死体があり、それを加えると3000名以上が殺されただろうとしている。

 南京を攻略した際、憲兵隊が組織的に略奪を行ったとする報告もある。政府が保有する資産を奪っただけでなく、銀行や裕福な家に押し入って金や宝石などを奪ったというのだが、この攻略戦を指揮していたのは事実上、上海派遣軍司令官だった朝香宮鳩彦、昭和天皇の叔父にあたる人物で、松井石根は戦後、朝香宮の身代わりになって処刑されたと言われている。



(注)●:強





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最終更新日  2014.12.14 03:32:17


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