全12件 (12件中 1-12件目)
1
私の母親は、小学校4年で両親を亡くしています。本人が腸チブスで入院していた際に、どうも母親が(私の祖母ですが)お百度参りをして、身代わりに帰天したようです。同じく腸チブスを急に発症して、一週間でみまかりました。急遽退院した(私の)母親は、死に目には間に合えませんでした。顔を覆う白布を取除くと、遺体が、パアッと血を吐いたそうです。心残りのある家族が枕頭に駆けつけると、血を吐く、とは聞いたことがありますが、我家の歴史の中にあるというのには驚きました。たしか、三浦綾子の小説、「泥流地帯」にも、遺体安置所に置かれた妹(姉だったかな)を見つけだしたら、妹の遺体が血を吐いた、という記述があったはずです。どういうシステムになっているかは知りませんが、もしかしたら、結構ポピュラーな現象なのでしょうか。でも、生きることも良く分かりませんが、死ぬことはもっと分かりません。それなのに、脳死を人の死として、臓器を摘出しようというのですから、本当に無理があります。医学も人類も、もっと謙虚になる必要はあるでしょうね。少なくとも、合理主義だけでは割り切れない現象があるということを、広宣流布していく必要はあります。科学技術が進んだからといって、無批判に進めてはならないこともあるはずです。こと、死生の問題には、謙虚に謙虚にあたる必要があると思うのです。
2005.11.29
コメント(0)
「常に最高の自己を差し出す」という教えがあります。聞いた時に、身の震えがくるほどの感動だったのを記憶しています。しかし、この教え、実践するのはすこぶる困難です。ボーイスカウトには「三つの誓い」があります。元来は英国のものですが、私たちが立てる日本語の誓いとは、多少異なります。英語では、「私は、名誉にかけて、最善をつくします」であるのに対し、日本語では、「私は、名誉にかけて、実行を誓います」です。「最善を尽くす」と、「実行を誓う」こと。ほんの少しの言い方の違いですが、実は、天地ほどの開きがあります。実は、「実行を誓う」には、ウソが入るのです。スカウトの「三つの誓い」を完璧に守れる人がいたら、それこそ仏教的には阿羅漢です。ある意味で完成者、悟った存在です。しかし人類皆、修行者です。完璧な人間など、居はしません。しかも、心の修行なんか考えたこともない、スカウトとリーダーじゃありませんか。建前では誓いを立てても、「できっこない」「机上の空論だ」と、棚上げしてしまうのです。でも、「最善を尽くす」だったらどうでしょう。ウソが入る余裕もなければ、今は出来なくとも、戒を立てて努力することも可能となります。しかし、その修行の道は、厳しく、限りのないものです。一切の言い訳を排されるものでしょう。かつてネルソンの時代の英国海軍の士官は、艦を失うと軍法会議にかけられました。それは、「最善を尽くしたかどうか」を問われたのです。私たちには軍法会議はありません。しかし、それよりなにより、神仏がご存知です。「実行を誓う」、とウソを入れていないか。そして何より、「最善を尽くしたか」「常に最高の自己を差し出す」ことは尋常なことではないと、常に自戒していきたいと思います。
2005.11.27
コメント(0)
昨晩帰宅後に、犬の散歩にお付き合いしました。日付の変わる直前の、半時間ほどのことです。仕上げはいつも、人気の無い公園です。リードはつけたままですが、少しだけ放して自由に駆けさせます。おとといと違って、昨晩は風もなく、あれほどザワザワとゆれていた木立も静かです。もう晩秋から初冬に向かっているのでしょう。すでに色づいた木々の中に、少し前から気になっている木があります。その木の、ほとんど紅葉した気分はどんなものかと、近寄っていって、思いをはせてみました。「いやー、子供たちの楽しく遊んでいる姿を見れて、君はけっこう幸せだねえ」と、問いかけてみました。すると、どうもこんな返事が来たような気がするのです。『楽しいだけではないよ。遊んでいても、心を悲しみでいっぱいにしている子も多い』 「そうか、確かに色々な人生があるからね。子供たちも悲しいことも多かろうね」それは確かに本当だ。この時代には悲しい子は多いかもしれません。そこでまたその木が続けました。『つらいのは、子供たちばかりではない』『そこのベンチに座って、悲しみに満ちている大人たちも多いのだ』そうかもしれません。悲しみやストレスに打ちひしがれている人も多いでしょう。そして、公園の木々たちは、その悲しみを癒しているというのです。公園がオアシスの役割を果たしているというのです。彼らのような精霊が存在すること、そして見守っていてくれることを知りさえすれば、 傷ついた多くの魂は、どれほど癒されることでしょうか。ふと見渡した公園には、大小さまざまな木々が、凛として、皆、その職責を果たしています。「どうもみんな、毎日本当にありがとう」「これからも地域をよろしく。そして散歩でもお世話になります」心の底からの感謝を言って、私は公園を後にしました。これは無論、「そんな気がした」というだけの話ですので・・・
2005.11.21
コメント(0)
久方ぶりに熱を発し、床に伏した。 仏教で「色心不二」と教えているように、心と身体は相互に連関する。 不自由さは体のみならず、我が心も病んでしまったようだ。不平不満や怒りの毒、さらには苛立ちまでが心を蝕む。 ふと気が付いた。以前どこかで、こんな話を読んだことがある。 病の床に伏して、心の平安を鋭く追及していた一編だったはずだ。そう、それは確か宮沢賢治の詩であると思い、 熱に冒されながら、書棚を探してみた。 やっと見つけた賢治の詩集、その最後の方に、 記憶どおりにその詩は有った。 「病血熱すと雖も」である。 死期を前にした賢治が、 不自由、不快の極にある身体にありながら、湖面に映る月のような、透徹な心を抱き続ける。そうした、見事なまでの精進と悟りの名品である。修行者として、自らの心に雄雄しく立ち向かう、 宗教的な「悟り」そのものを感じる作品である。 病苦に冒されてもその「心の自由」を、 断固として守り抜く、勇者の話である。 時代は異なり、社会も変化した。 しかしその「心の王国」を、悟りの力で守り抜いた賢治の精神性は、決してその輝きを失うことはない。 この同じ国に、時代は違うといえども、このような非凡極まりない存在がいたことに、 私は心から感謝したいと思う。 さあ、賢治のその精神性の一端でも、私は具現することができようか。 偉大な賢治という先達が、すでに歩いた道のりである。 私にも可能性はあると信じたい。そしてその精進の道を、 坦々と歩み続けていこうと思っているのだ。
2005.11.19
コメント(0)
またもや増税で発泡酒が値上げされる。ビールと同じ税率になるはずだ。ビールと発泡酒との税負担の不公平さ解消のためなのだろうが、その実、これは税収をアップさせるための口実にしかすぎないだろう。しかし考えて欲しい。消費者は今まで好き好んで発泡酒を飲んでいたのではない。本当ならばビールを飲みたいのが山々なのに、不景気のせいで発泡酒へと変更を余儀なくされてきたのだ。そのニーズに答えて、酒造メーカーも智慧の限りを尽くして、新商品の開発にいそしんできたのだ。発泡酒は、庶民の悲しみとメーカーの智慧の結晶だといってもよいのだ。それが、ビールよりも消費量が増えたといって、税率アップするというのは許せない。ビールをあきらめる代わりに得た、庶民のささやかな楽しみである発泡酒にまで、なんで増税の魔の手を伸ばそうというのか。税務当局は後ろめたい思いを抱かないのだろうか。日本が大変なのはよく分かる。その痛みを我々庶民も分かち合うことにやぶさかではない。しかしそれには大前提があるのだ。行政府、自治体、各種特殊法人等が、血の出るようなリストラをすることだ。増税の前に経費を切り詰めるのは当たり前のことだ。物事には順逆がある。増税を納得するだけのリストラを期待したい。
2005.11.16
コメント(0)
聞く態度として、三種類あると教えていただいている。一つは、岩に刻むように聞き二つめは、砂に書くように聞きそして三つ目は、水面に書くように聞くのだそうだ。人生は正に四苦八苦だから、物事はなるべくさらさらと受け止めるがよい。水面に書けば、書いたそばから消えていく。さらさらと過ぎ行き、後には何の残りようもない。個人の精神衛生上は最高だ。心の平静も、大事な幸福の条件だからだ。それが砂に書いたらどうだろう。心に残る波紋は、少しくらいの風が吹いただけでは元通りにはならない。さらに岩に刻みつけたらどうだろうか。バッチリと心に刻み込むのは、凍ったような心の瞬間ばかりだろう。そんなものを後生大事に墓場まで抱えていって、果たして幸福に生きれるかどうか、よくよく考えてみるがよい。忘れることはいいことだ。心に刻み込んだ傷がいっぱいある人ほど、全てを流し去る努力をなすべし。いいじゃないか、全ては過ぎ去った過去のことなのだから。そこから珠玉の経験と叡智を抽出すればよいのだ。そのエッセンスのみをかろうじて残し、後はきれいさっぱりと、水に流してしまうべし!なんといっても、個人の人生にも、時効は認められるのだから。
2005.11.14
コメント(0)
二ヶ月ほど前になるが、栃木の下野新聞が「欲しい子供の数」についての調査をした。本当に欲しい子供の数は3人だが、「経済的理由」により子供は2人までというのが実態だそうである。少子高齢化が、これほど将来のリスクとなっている現状では、一人でも多くの子供を育ててもらいたいのが、社会全体の渇望であろう。それが単に経済的な問題がネックとなって、本来は3人欲しいのだが、2人しか育てられないというのだ。両親の肩には教育費という重圧が、重くのしかかっているからである。昼間に通っている公立学校では学力が付かず、現実には「学力は夜に塾で」というダブルスクール化している。それゆえ、教育費がかかるのだ。公立学校の有用性が疑われている。昼間、学校で朝から夕方まで拘束されているというのに、なぜかそこでは学力が付かないという。学童、生徒の一人当たり、80万から90万の公費が支出されているというのに、それでも学力は付かない。保護者に経済的な負担をかけずに、「もう一人」の余地を獲得するためにも、「学力を付ける」という一点に絞った公立学校の再生が求められると思う。「義務教育」の「義務」に甘んじているのは、教育を受ける側ではない。教育を施す側にこそ、強い自己変革が迫られているのである。
2005.11.12
コメント(0)
バリ島の連続爆弾テロの報道に、深い悲しみと憤りを覚える。インドネシアには知人も多く、私自身、バリ島にも数度訪れたことがあるからだ。今回テロのあったクタにも滞在したことがあるが、インド洋に夕日の落ちる、雄大な眺望の楽園であった。バリ島は全島が観光地であり、特に外国人観光客の滞在する高級リゾート地帯は、インドネシア一般から見れば、羨望と違和感を感じさせる場所かもしれない。テロのはけ口となる遠因として理解できなくも無い。だが、どのような理屈をつけようとも、無辜の一般人を標的としたテロは、絶対に許すわけにはいかない。どのような世界宗教においても共通する教義は「不殺生」の教えであろう。それをさまざまな例外規定を設けて免責し、敵に対する攻撃、殺害を許容しているのが、各宗教の原理主義者たちの姿ではなかろうか。今回の爆弾テロにしても、外部から見れば一般人に対する無差別殺人にしか思えない。だが彼ら自爆テロ犯たちにとっては、この行為が「聖戦」だと規定されているはずだ。単なる無差別殺人ではなく「聖戦」であるがゆえに、自爆テロ犯たちは自分自身の死後、確実に天国への門が開かれるであろうことを固く信じているはずである。死後の厚遇を信じきっていればこそ、普通では考えられないこうした非常なる行為が可能となるのである。そこで、全世界のイスラム指導者の方々にお願いしたい。「自爆テロで一般民衆を無差別に殺戮した場合、天国に帰ることが可能かどうか」を、再検討していただけないだろうか。もし、イスラム世界全体で「聖戦であり天国への門が開かれる」という共同認識・規定ができないのであれば、逆にそれは自爆テロ犯に対しての確実な抑止力に繋がると思うからである。
2005.11.10
コメント(0)
絶対的安定多数を獲得した小泉政権に、一言申し述べたい。それは、強権的政治手法から、全体主義へとは絶対に流れていかないように、という提言である。そも、多数決による選挙型民主主義では、多数意見が少数意見を圧殺することは許されないはずだ。しかし、小泉政権では、郵政民営化法案が廃案になった際も、党内の反対意見を「解散」をちらつかせて封殺し、それでも反対を続ける議員に対しては、選挙に刺客を送りこむなど、普通では考えられない強権的な手法が目立つ。だが、いかなる団体・結社といえども、一枚岩であるはずがない。個々人の立場と信念は、異なっていてしかるべきだからだ。それを、「反対意見をもつ者は許さない」と、封殺し弾圧するというのだから、そこに全体主義のニオイを感じてしまうのは、私だけの偏見だろうか。世に自由ほど大事なものはない。それは裏返せば、少数意見の封殺される「全体主義」ほど恐ろしいものはない、ということになろう。小泉政権にくれぐれも言いたいのは、決して強権から全体主義への流れに乗らないで貰いたいということだ。一つの物事に対して、賛成反対が出て当り前だ。それを議論を尽くしてこその民主主義なのではなかろうか。
2005.11.08
コメント(0)
「艱難汝を玉にす」という言葉があったと記憶している。だが残念ながら、昨今のご時世では死語と化している様子だ。世はなべてパラサイトばやり。かじっても何とかなる、りっぱな脛を持っている裕福な親が、どうも多いようだ。ここまで豊かな時代では、ハングリー精神などは、どこぞに消えてしまったにちがいない。不景気などをものともせず、自主独立、独立不羈の精神で、あえて困難に挑戦し、人格を陶冶しようなどという奇特な青年には、そうめったにはお目にかかれないのが現状だ。しかし、親が子供を甘やかし放題であり、また、教育が制度として優しすぎることは正しいことだろうか。甘やかせば、前途有為な青年も人生を無駄に送りかねない。有能な人材を無駄にすることにつながりかねまい。やはり、「艱難汝を玉にす」であろう。苦難困難を乗り越え、精神力と智慧を得てこそ、人間は一流となるのだ。日本全体を有能で有用な人材でうめるか、はたまたパラサイト軍団に占拠された国家を選ぶか、その究極の選択が迫られている。それは、教育やしつけに「厳しさ」を選択できるかどうかという、親の世代の精神性そのものを問われていることであるのだ。
2005.11.06
コメント(0)
しばらく前になるが、学校で遊んでいたはずの小学生の長男が、半ベソで帰ってきた。集まった友達のそれぞれが、自分の持ってきた携帯ゲーム機をやっているだけで、みんなで遊ぶことができなかったというのだ。子供がせっかく外で遊ぶことがあっても、ゲーム機を持ち寄ってでは、一人の世界にこもったままだ。いかに人数がそろっていても、孤独に遊んでいるというのは、かなり異常に見える。子供にとって、遊びは対人関係を構築する重要な学習の場だ。しかし小手先の科学技術の発展は、子供を取り巻く環境を激変させている。ゲームのバーチャルな世界に浸っているだけでは、人間性の形成や対人関係を学ぶことは至難の技であろう。このままでは、社会全体の行方すら心配になる。少子高齢化を迎え、子供たちは国の宝となっている。育児や教育とは、その宝物である子供たちをたくましく賢く育て上げ、社会に有益で有用な人材とすることであろう。子供たちの未来のために、大人たちが智慧を振り絞るべき時代が到来したのだ。
2005.11.04
コメント(0)
最近では、高校生も堂々と喫煙をしている。悪びれる風でもなく、ごく当たり前の行為として喫煙しているのだ。一昔前であれば、大人の目を避けて隠れて吸っていたのに、今では誰もその光景をとがめようともしない。確かに、大人が吸っているのに、なぜ高校生が吸ってはいけないのかは、神仏でも持ち出さない限り説得力はなかろうが、だが高校生が喫煙して、よかろうはずもない。青少年の喫煙防止は大人社会の義務であるのだ。その際に気になるのが雑誌の広告である。考えてみれば、JT(日本たばこ産業)は、3分の2の株式を政府が保有してるという、きわめて公共性の高い企業のはずだ。青少年誌には広告を出さないという自主規制はあるはずだが、大人向けの雑誌の広告であっても、青少年に与える影響は無視できないはずだ。コンビニや駅の売店で堂々と陳列していればなおさらだ。青少年の目に留まることは確実だからである。マスコミ各社は、広告収入が入りさえすればいいという考えからは、どうか一線を引いてもらえないだろうか。社会、特に青少年に害をもたらす可能性のある「タバコの広告」掲載に対して、再考する英断を求めたいのである。
2005.11.02
コメント(0)
全12件 (12件中 1-12件目)
1