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※先日は母から伝え聞く話を掲載しました。父からの話もこうして絶やさないことが務めだと思って掲載します。(2006年当時の多摩火薬廠のリンク先の方の考証をどこかに書き留めておけばよかった、と後悔。戦争を語る声を風化させない努力をしていかなければと身にしみて思います。)======今朝、小泉首相がテレビに映し出される頃は泪雨かと思っていたのに、その後、体調の気になる子どもをウチからはちょっと遠くにある小児科まで連れ出していく頃には空は青々としてじりじりと照りつける太陽。61年前もそんな日だったのでしょうか。東京都下出身で、戦争当時旧制中学に通っていた父は、学徒動員体制下にあって、稲城の多摩火薬廠で働いて(火薬への爆弾の充填作業というのか?)いました。他に、工女、工専からもたくさんの勤労学生がやって来ていたといいます。今でも中・高生が通学するには大変な距離だというところを、毎朝4時起きで2時間以上かけて働きに行っていたそうで、工場に居る間も、往復の通勤の間も、いつ死ぬか分からないという状況に幾度となく直面してきたようです。今回ブログに載せるにあたってアクセスしてみた『稲城の多摩火薬廠』でリンクした戦跡の紹介文には、父から聞いた話をそのまま内包していたので実に驚きでした。(以下、略)======稲城の多摩火薬廠(通称:多摩弾薬庫)について、当時リンクした先が既にリンク切れでweb上では父の話ほどに触れているものは見つけられないので補足します。父は旧制二中(新制:都立立川高校)の出身です。この工場で最も危険な作業にあたっていたのは朝鮮人労働者の方たちで、父が居た時間帯に起きた爆発事故のために4,5人が亡くなり、ご遺体は跡形もなかったといいます。~死への最前線には父より少し上の若者たちが駆り出され、国内でも危険な仕事を中学生や労働者が引き受け・・・戦争は未来を継ぐ者の芽を根こそぎ奪っていく兇器・凶器・狂気以外の何物でもない~(道中では最も怖かった機銃掃射の追手から逃げて側溝に隠れて命拾いした時に、傍らで機銃掃射に撃たれた人のむごい死を目の当たりにしています。背中から入った時の弾は小さくてもぐるぐる回転しながら貫通するので臓物が全て出てしまうのだといいます。)終戦の報を受けて火薬づくりもこれでおひらきと思いきや、また来るべき時?!に備えて「敵に見つかる前に早く隠せ!」との命に、稲城の丘の中腹に弾薬を急ピッチで移動させたそうです。やがてこの一帯は米軍に回収され始末へ。終戦翌日にはまだ戦争は終わっていないというデマが一瞬流れたそうで、士官の下に生徒たちはまだ戦争を続けられる!と勇んで歓喜の声を上げたといいます。(涙が出そうだ・・・・)このデマが流れたという話。昨年、息子の小学校時代の友だちが夏休みの作文の宿題のために父から話を聞きたいと言って実家まで来て父が話してくれた際に私も初めて耳にしたことでした。弾薬移動とデマと、時系列でどちらが先なのか確認しないとわかりませんがデマの出所は海軍だと聞いた、と。ん?!陸軍のテリトリーの話だから自作自演かも。+++++こうして、人の死をあちこちで目にして、毎日を空腹に耐えながら、怖かった陸軍士官の命令に従い働き、次は自分が特攻隊にとの憧れを持つ、多感な年頃の子どもたちを洗脳してきた環境は、その後のかじ取りによっては、もっと混乱する社会に向かわせていく危険を孕んでいます。少なくとも当時の日本では、世界情勢の様々な時の運が作用したのか、国柄・国民性だったのか、表にでない闇も当然抱えながらも、復興に向かって一気に集結していった稀有のパワーの凄まじさがあったように思えます。これは、途中、国家主義的な色彩の教育がインプットされた世代がありながらも、それまで脈々と先人から受け継いでいく「教養」の高さを誇れる国民性だったからではないかと想像します。昔を美化するわけではないけれど、ダントツの識字率の高さを継いできて、また、大事にされてきた教育の観点が戦後変わっています。自分自身もそのレールの上に居た一人ですが、教育の中から教養がどんどん欠落していき、皮肉にも質を確保できないのが日本の現状ではないかと心底危機感を抱いています。教育の改革の歴史を辿れば、何を見落としてきたのかが教育界の素人でもなるほど、と分かる点があります。専門の人、行政の人、責任もって見直してください。私自身がささやかながらできることでは、就学前の子どもと子どもに伝えていく親の存在に重きを置いての講座を開いています。【参考】現在でもなお、世界では1億7500万人の未就学児が学べる場すらない現状にあります。2018年秋、UNICEFにより未就学時期の子どもたちへの教育の重要性・緊急性とともにこの数字が公表され、2019年4月には政府当局に向けて就学時前教育への資金配分の重要性が唱えられています。日本国内でも7人に1人の子どもが貧困の窮状にあって教育格差も深刻化しています。国内の格差是正にもいずれつながるよう、就学前親子をターゲットとした教育従事者の教養を磨いて層を厚くすることはとても重要だと認識している所以です。
Aug 12, 2020
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あまりにもご無沙汰過ぎて、ここでお友達になって下さっていた方々にも長らくすみません(-_-;)お蔭様で元気に過ごしています。もはや自分でつくったトップページさえ触る機能までなくなってしまってます(何年か前にそれらしきリマインドがきてましたわね)が、ちょこっと絵文字や脚色を入れられる機能が健在しているのはいいですねホッとします。こちらは育児日記としてサンバくんにプレゼントするつもりで勝手に始めて勝手に封印しておりました。が、やはり今日は大事な日だと思い、このタイトルで久々の投稿です。SNS、ブログ等は他でいろいろやっているのと毎年相変わらずこの時期は超多忙なので、これは彼へのプレゼント追加編ということで、勝手ながらまたしばらくは投稿なしだと思います・・・🙇被爆75年、広島の声再来、母から伝え聞く話(2006年8月6日の日記)再掲+母と自分の今テーマ:戦争反対テーマカテゴリ:伝えていくこと今日で広島原爆投下から61年。小さい頃から両親から伝え聞いた戦争の話を、いずれ息子にも伝えるために―今日は母が伝えてくれたことをここに記録しておきます。昭和一桁生まれの母の故郷は広島です。といっても広島市内からは車で2時間はかかるような場所に生まれ育ちました。戦時中、広島市の爆心地からさほど遠くない場所には、祖父の兄夫婦、私にとって大叔父夫婦が住んでいました。原爆投下の朝、大叔父は朝の一仕事を終えて縁側に出たところで、空が猛烈に光ったのがみえたので、咄嗟に「危ない!」と大叔母に声を掛けて食卓の下に潜り込んだといいます。何が起きたのか分からず、とにかく何事かが過ぎたと思って食卓から這い出してみると、恐らく台所の火を止めに走って行った大叔母さんは食器棚の下に挟まれて身動きできず息が絶え絶え(か、即死か、大叔父自身語りたくない部分だったようで不明)であり、火が迫ってきていたので「堪えてくれよ」と手を合わせて家を後にしたのだといいます。大叔父が実際に、その一瞬でどれほど負傷していたのかも定かではありませんが、とにかく火の手から逃げるための両足はどうにか無事でした。しかし、逃げていく間にも、火の手が一旦消え去ったと思うとまたどこからともなく火が走ってきて、近くの川の水中に身体を埋めては熱さから逃れて命からがら市内を脱出したようです。一方で、祖父は兄夫婦がともかくどうなっているのか心配だったので、三日後くらいにどうにか運行していた区間の電車と徒歩をつないで市内に入って探しに行ったといいます。祖父が何も見つけられずに帰宅して、原爆投下から一週間ほど経ったある晩に、大叔父が母たちの家まで自力で辿り着きました。まさか大叔父が生きていたとは夢にも思っていなかったので、家族皆本当に驚き、それからは祖母が傷口(主に火傷だったようですが―)の手当てをしました。数日は母の一番下の弟を抱っこしたり遊び相手になったりしたといいますが、間もなく髪を梳いたら抜け落ちていくようになり、やがて身体の汗腺からか?あちこちから血のような膿のようなものが噴出してきて、拭っても拭っても治まらなかったといいます。一体これはナンだろうと皆が思っている間に、8月20日過ぎに大叔父は帰らぬ人となったそうです。日毎にナニモノかに蝕まれていき、身体の変調も著しく、恐らく相当な痛みも伴って気が狂いそうな状況下で、大叔父は死期を悟って最期まで毅然としていたといいます。玉音放送を耳にしたときも、これはかなり聞きづらかったと父母共に言っていますが、既に聴力まで弱っていた大叔父は、それでも戦争が終わったことを即座に聞き取ったようだったといいます。その後61年が過ぎる中で、祖母は昭和20年代前半に若くして亡くなり、後に残されて今でいう被爆者健康手帳を手にした祖父は94歳まで現役の書家活動を続けて天寿を全うしました。長く生きただけに辛い人間関係も経験したようですが…。それが宿命人には宿命というものがあるのかも知れませんが、今でも尚、世界では戦争・紛争が続く中で、必ず大量の犠牲者を出し、その犠牲者として巻き込まれることが宿命だ、とは、到底理解できません。そうした思いはあっても、この瞬間にも逃げ惑う人が世の中にいる…地の底から突き上げるような60余年前の戦争犠牲者の魂の声を聞いて、世界平和につなげるにはどうしたら―?答えはまだ見つかりそうにありません。ただただ、今はせめて息子に伝える役目を引き受けること。その後、14年が経過しています。私が知る限りの広島出身の母の日常には、今年米寿を迎える年齢でもなおピアノ講師として教室を運営しながら、かねてからの日課である神仏へのおつとめに、短歌人としての歌詠みに、そして数年前からの色々な方々への呼びかけで折鶴を折り集める行為に(今年も広島と長崎に千羽鶴を送らせていただきそれぞれ先方より御礼のお手紙を頂戴しています)と、気づくだけでもこれらを挙げられます。今日は初めてリアルタイムで平和祈念式典の放送を視聴しました。唯一の被爆国民としてもっともっと声を上げていくことがあると思う中で、14年前と変わらず揺るがない想いとしてあるのは、ひとりひとりが伝える役目を引き受ける立場にいるということ。自分自身、未だに僅かな営みですが、当時は親子サークルを通じて、現在は親子レッスンを通じて、平和への思いを込めて地道な次世代育成支援活動を行っています(今週と来週のテーマは二週連続「平和と公正をすべの人に」)。
Aug 6, 2020
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