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昼食は麺類が多い我が家。最近、昨夏の残りの冷麦をストーブをつけた部屋で食べるのが、マイブーム週一くらいでしょうか思い出したのが、11月に例の友人3人で会ったとき食べた『へぎそば』です。銀座ニューメルサの小嶋屋さん。薄緑色のおそばの食感が忘れられません。蕎麦のつなぎには、通常小麦粉が使われますがへぎそば発祥の地は、新潟県魚沼地方だそうでこの地方では小麦の栽培は行われておらず、そばのつなぎにはもっぱら山ごぼうの葉や自然薯などを使っていました。 ただ、この地方は織物の産地であり、織物の緯糸(よこいと)をピンと張るためにフノリ(=布海苔)という海藻を使っていましたので、このフノリは容易に入手できる環境だったのです。フノリを使ってそばはできないだろうか」と研究を重ね、現在のフノリそばを完成させたのでした。品質向上の為、よりよいフノリを捜し求め、下北半島をはじめ、全国の厳選した地域から仕入れております。フノリは、いつでも買える物ではなく、年に1回の入札で売買が行われます。買うチャンスも年に一度。品質を見極めての真剣勝負なのです。 webサイトよりネットスーパーで売られていたので、食してみました。お店で食べたのとは、ほど遠い味でしたが、不味いとは言えませんでした。今度はお取り寄せしてみようかと
2013.01.29
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遠い国で悲劇が起きました追い打ちをかけるように、夫にショックな知らせが・・・それは、『寒中お見舞い申し上げます』と始まっていました。ご子息からの友人逝去の知らせでした。確かに年賀状は来なかったのですが、こちらから喪中の知らせを出していたので、夫も気にしていなかったのですふるさとで小中学校の同級生でしたが、中学校を卒業後は夫は東京の旧制高専へ友人は水戸の旧制高等学校を経て大学の医科へ進み、道が別れました。地元で開業医となられ、お宅の屋号から『ヤマヨの先生』と呼ばれていました。夫、50才のころ、私たちも夫の実家の近くに家を建て、交流が再開しました。Mrs.サマンサも、ティンママも、何回か診察を受け、帰宅すると「眼鏡が、何時鼻から滑り落ちるかって、心配になっちゃうよねえ」とか「○○(夫の名)ちゃんとこの子ケ?(かい?)だって訛ってるよねえ~~」と、俗に『箸が転がっても可笑しい』年頃の娘達はキャッキャッ笑い転げていたものでした年齢を重ねられる毎に、貫禄が出て、恰幅もよく堂々たる名士になられました夫、70才のころから、同窓会を開いてくださるようになり、企画も、出欠も、会計も一手に引き受けての上のことでした。夫は、何時も駆けつけていました。酔った同級生が「おい、ヤブ」と呼び捨てにし、夫が「失礼なこと言うな」と嗜めるのを、ご本人は豪快に『ワッハッハッ』と笑い飛ばしていたそうです。昨年は、同窓会のメンバーの方も亡くなられ、これで、ふるさとに『友』と呼べる方がいなくなりました加齢は寂しさを連れてきますね。 合掌
2013.01.23
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前回、思い出したことを少し書いたらもう少し覚えているいることがあったようで・・・でも4才未満のときのことなので、後々の両親の思い出話を覚えているだけかも知れません突き当たりの川の柵の近くが音ちゃんの家で、隣が私の家。次が直ちゃんの家で、同じ間取りの家に住み、3人は同い年でした音ちゃんの名前がオトキチで、音吉と書くのを知っているのは、多分両親の思い出話を聞いたからでしょう昭和12・3年頃です。私と直ちゃんは、洋服を着ていましたが、音ちゃんは、黒っぽい着物に白いエプロンをしていた記憶があります。音ちゃんの家の2階には、日本舞踊の稽古のための小さい舞台が設えられていて、おばあさんがお師匠さんでした。時々三味線が聞こえました。幼い3人は、自分たちだけで何処かへ行くことも出来ず、家の前の道で三輪車に乗って遊ぶのが精一杯だったと思います。大抵は、それぞれの家に上がりこんでいたようです。お稽古のお弟子さんが来ていないときは、舞台が格好の遊び場でした。直ちゃんのお父さんは築地が仕事場だったようで、私たちが浦和に越してから間もなく、歩いて通える月島に越したそうで、中2のとき、お母さんと直ちゃんが訪ねて来ましたが、お互いに照れくさくて、殆ど話ができませんでしたこれは、紛れもなく私自身の記憶です音ちゃん一家はどうなったでしょうか?戦災を免れてくれているといいのですが記憶になくてアルバムにある恥ずかしいけどUPします。勿論、今は面影を残すべくもありません。~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~たまたま観た、朝ドラ『梅ちゃん先生』の敗戦の日の話。<被いをかけずに電灯を点けてもいい>シーンで、背景の家々の窓が煌々と輝いていました。当時の庶民の家庭では、60W~最大100Wの電球が各部屋に1つあるだけで、もっともっと薄暗かった筈です。敗戦は遠い日のことになったのですね
2013.01.13
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暮れから通算すると引きこもりも10日になります。月-内科・水-体操教室・木-リハビリ・土-英語講座こんな週は外出ストレスが溜まりますが、引きこもりも10日となると、さすがに出かけたくなりました6℃が続いていた気温も、きのうは11℃と報じられ、歩くのを嫌がる夫を残して、一人で富岡八幡宮へ初詣に行ってきました松の内だし、日曜日だし、混雑しているかと思いましたが、本当に適当な人出で屋台も多くてお正月気分を満喫しました。2礼2拍手1礼。家族の健康とティンコ♂の学業成就を念じました。古札を返納し、お守りと を『授与品』として購入。蛇と言うより鳥みたいだけど・・・☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆1才から3才半くらいまで、この富岡八幡宮の近くに住んでいました。今、ふるさとへUターンしているのかも知れません。父方の祖母との唯一の記憶は、境内で鳩と遊んだことと帰り道に床屋さんのサインポールが回っていたことです。点訳サークルでご一緒だったさわ子さん(故人)が深川生まれ、深川育ちだったので、あれこれ調べてくださいましたが、場所を特定することは出来ませんでした大通りにガス会社の営業所がありそこを曲がると、両側に数軒ずつの家が並んでいて、その中の一軒に、両親と私(後に早世した妹が加わり)父方の祖母と父の末の妹と暮らしていました。父は20代だったので、借家だったのだろうと思います。突き当たりの柵の下が川なっていました。木場が近いせいか、何時も材木が沢山浮かんでいました。おそらく運河の一つだったのでしょう。こんなおぼろげな記憶を後に、母の実家のから4kmの浦和(現さいたま市)市内に引っ越しました。種々の事情があったのでしょう浦和に移って間もなく、この祖母は他界しました。そして、一昨年自費出版した拙い『自分史』への始まりに繋がり、母方の祖母と、多くの思い出を作っていくことになりました。
2013.01.07
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あけましておめでとうございます今年もお付き合いをよろしくお願い申し上げます。例年のことながら、老人世帯は静かなお正月です。Mr.nanとMrs.サマンサには、1日に来てもらい、後はお友達とのお付き合い過ごしてもらうことになっています。昨年、義弟が亡くなっているので喪中です。お飾りも、おせちもなし代わりに、蟹とお酒を少し奮発しました。1,8キロの蟹を食べ切り、Mrs.サマンサプレゼントのシャンペン・八海山。我が家でプレミアムモルツ・久保田萬寿。夏に北海道余市のニッカ工場で買った15年物のウィスキー。Mr.nanはこれがお気に入りのようで、ボトルキープして、今後は専用とすることに種類は多くても、飲みきったのはシャンペンだけビールは1缶空けただけ。他のお酒も大半を残しました。これから、フルーティな萬寿は、チビチビと私。他は夫が嗜むでしょう。多くを望まず、出来るだけ健康で、娘たちに迷惑をかけないで暮らせればとしましょう。
2013.01.02
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