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よく神経質な人を見て、「あなたはプライドが高い人だ。」「彼はプライドが高いから、話をする時うかつなことをいうと、あとが恐ろしい。」とかいうことがある。本来プライドという言葉は、「誇り、自尊心が高い」という良い意味もある。しかし反面、「うぬぼれが高い、思い上がりが強い、傲慢で自己中心的である」という悪い意味もある。今日ではこの言葉は後者の意味合いが非常に強い。そこで「プライド」を仮に「自己中心性が強い」に置き換えても意味が通じる。「あなたは自己中心性が強い人だ。」「彼は自己中心性が強いから、話をする時うかつなことをいうと、あとが恐ろしい。」元来プライドが高い人は、負けず嫌いである。また常に人と比較して少しでも上になりたい、優越感を味わいたい人である。ところが普段の生活の中では、いつも勝ち続けることはない。また人間長所があれば、必ず短所も持ち合わせており、優越感も劣等感も感じるようになっている。プライドが高い人はいつも人からよく思われたい、一目おかれたい気持ちが強いのである。ところが現実は自尊心を高く持ちたいと思いながらも、確固たる自信がなく、ちょっとしたことで自尊心がグラグラと崩れやすいのである。その崩れやすいプライドを必死になってなんとか崩れないようにといろいろやりくりをしているのである。苦しんでいるのである。そこでこの危ういプライドが、他人によって脅威にさらされると途端に過剰反応を示す。他人から批判、否定、無視、バカにされる、からかわれる、悪口をいわれるようなことがあった時、強い怒り、敵意が丸出しになって実力行使に及ぶことがある。周りでみていると一理あるように思える見解でも、反論のためのむきになっている感情が半分ぐらい見え隠れしているのである。本物のプライドを持っている人は、自分にある種の自信を持っている人ある。そうゆう人は人から批判、否定、無視、バカにされる、からかわれる、悪口をいわれる事があっても、自分を守ろうということがない。苦笑はしても腹を立てることはない。また自分の欠点や弱みをネタにして笑い話にしてしまうように心のゆとりが見られる。
2013.03.01
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小売りのスーパーの責任者で、「顧客は所詮素人、自分たちは商売のことがよく分かっている玄人」だと思っている人は売上を伸ばすことはできないそうです。たとえば、惣菜を売る時、少量でも欲しいだけ売ってもらえる方が顧客にとっては都合がよいが、売り手側にとっては、手間暇がかかり、その分コストが増える。そんなとき自分は小売りの専門家と思っている人は、「お客は割安感を求める」という過去の経験に固執して「パック詰めの刺身を割安にした方が顧客の支持を得られる」といって、実際は、手間を省きたいという売り手の都合をお客様に押し付けてしまっている。「お客様のために」とはいうが実際は「お客の望んでいる立場」からはほど遠いものになってしまっている。これはセフセンイレブンの鈴木敏文氏の考えであるが、我々が学ぶべき点がある。森田でも、自分のやり方は絶対に正しいと思っている人は、事実はその反対になるという。いわゆる「思想の矛盾」が発生してうまくゆかなくなるのである。小売りの世界でもそういうことをいっている人がいるのである。自分のやり方を相手に強制することは、「かくあるべし」の押しつけである。そのやり方では、実際には相手は決してそのように動いてはくれないのである。森田理論を勉強していないと自分が正しいと思っているから、修正の方法を見つけることができなくなるのである。
2013.03.01
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「一流選手必ずしも一流監督ならず」とよくいわれます。一流選手は選手時代の成功体験を持っています。自分のやってきたことをそのまま真似をすれば、誰でも一流選手になれると思っています。でも人間一人ひとり違います。能力も筋力も柔軟性も癖も、考え方も性格も違います。その選手の特徴をよく見極めて、適性に合わせた指導をおこなうことが大切です。「俺がこうして成功したんだから、お前たちもこうすべきだ」というのは「かくあるべし」のおしつけになります。また監督の中には、「あいつはどんなに叱っても、私のいうことはすべて受け入れてくれる」と自慢する人がいます。それは考え違いです。どんな選手でもいつも叱られていれば、憂鬱になります。自分を否定されているばかりだからです。こうした「かくあるべし」の指導は最悪です。その選手の自主性の目を摘んでしまうからです。試合には何が何でも勝たないといけないと必要以上にはっぱをかける監督がいます。ある程度の緊張感や戦闘意欲は必要だと思いますが、度を過ぎると、選手が必要以上に緊張したり、固くなってしまい実力の半分も出せないという結果になってしまいます。勝利至上主義という「かくあるべし」は選手たちにとって大変なプレッシャーとなります。本番の試合において、そのプレッシャーのため練習の6割ぐらいしか力を発揮できないとしたら、とても残念なことです。
2013.02.25
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「ほこ×たて」という番組がある。この番組はどちらも力が拮抗していて、どちらが勝つかわからないという面白味がある。対戦前の話を聞いてみると大変面白い。だいたい自分が負けるとは思っていない人が多い。私はこの番組を見るとき、どちらが「かくあるべし」がより強いだろうという視点で見ている。「絶対に落ちない塗料」と「どんな塗料も落とす」という対戦があった。絶対に落ちない塗料を持ってきた人は、70歳ぐらいの人で自信満々であった。ナノレベルの塗料で小さい隙間に入り込むので絶対に塗料を取り去ることはできないといっていた。目つきはかなり挑戦的で殺気立っていた。どんな塗料もはがすといっていた人も自信ありげだったが、先ほどの人からみるとそれほど殺気立った様子は見えなかった。どちらかといえば挑戦して負けたら潔く負けを認めようとしているように見えた。私は勘で後者にかけた。勝負の結果は、どんな塗料も落とすという方が勝ちました。今回はなんとか当たりました。こういう視点でこの番組を見ると面白い。もしかすると間違っているかもしれないが、「かくあるべし」の強い人は、是が非でも勝ちたいという気持ちが強く、それが反対に作用することもあるのではないのだろうかと感じた次第です。つい思想の矛盾とダブらせてしまいます。
2013.02.17
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他人に対する「かくあるべし」の押し付けは、人間関係の軋轢を生む。子供や親、仕事の仲間、友人などに対して命令、指示、禁止、脅し、説教、非難などで対応することは「かくあるべし」の押しつけであり、決して自分の考えているように相手を動かすことはできない。親業では、親の子供への対応で「かくあるべし」を少なくする方法を3つ提案している。これは森田理論学習で、他人に対して「かくあるべし」を小さくして、良好な人間関係を築いていくために、大変参考になりますのでご紹介します。1、相手が話したことに対して、相手にこうしなさい、ああしなさいという前に、相手の気持ちを私はこう理解しましたと相手に話してみる。相手は間違ってなければ「そうだ」間違っていれば「それは違う」とさらに話を続けてくれるでしょう。2、相手の行動に対して、私がどう感じたかを相手に話す。私メッセージのことです。相手を自分の思い通りにしようとするのではなく、自分の感じたことのみを話して、その後の行動は相手に任せるということです。3、相手の要望や欲望に対して、自分の要望や言い分との調整を図る。相手の要望や欲望を全部飲むわけではない。自分の要求をすべて押し付けるわけでもない。相手と自分の要望の折衷点を探すということです。森田のいう調和をとるということにつながります。分かりにくいので簡単な具体例をあげてみましょう。1の具体例です。学校の先生が子供にたくさん宿題を出した。子供は「できないよ、こんなにたくさん」ブツブツ言って手をつけない。これに対してよくみられるお母さんの対応。「みんなもやっているんだからあなたもやりなさい」「やらなかったら成績下がるわよ」「大した量でもないのに、そんなこと言わないの。怠けることしか考えてないんだから」等等でしょう。これに対して子供は、「うるさいな、分かっているよ。そんなこと。」反発してきます。これでは子供のやる気を起こさせることはできません。親業を勉強したお母さんはたとえば、「先生がたくさん宿題だしてイヤになったんだね。」「あんまり宿題があると、イライラしちって手につかないわよね。」など。こんなふうに子供の気持ちを理解していることを示して、あとは子供に任せました。2の例です。夜勤明けの夫に、実父から至急実家に来てほしいと電話が入った。妻が、急ぐ用事でなかったら少し休んでいった方がいいんじゃない。(あなたメッセージ)夫は、うるさいな。俺が行くんだからほっといてくれ。妻は、そうね。でも一晩中寝てないで車を運転するのは危険だと思うの。事故でも起きたら私や子供たち、とても困るの。(私メッセージ)夫 そうだな。2時間休むからあとで起こしてくれ。3の例です。子供をスーパーに連れていくと、いつも何か買ってくれとせがむ。買ってあげることが多い。でも習慣になるのがこわい。親業で勉強して、子供に次のように提案した。1、 今日だけ買う。あとはお誕生日にも七五三にも買わない。2、 買う日を週一回土曜日とする。3、 買い物についてこない。4、 百円前後のものにする。あとはお祝いのときにする。提案後、子供にどれがよいか決めさせた。2と4を選んだ。子供は自分で土曜日と決めたことに喜び満足していた。私も「今日はどうしようかな」とまよわなくなりスッキリした。
2013.02.14
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全日本女子柔道のS監督の暴力、暴言が問題になっている。オリンピック女子強化選手15名がJOCに訴えた。S監督は強い「かくあるべし」を持っていたと思う。オリンピックでは絶対に日本は勝たなければいけない。自分も指導者として名をあげなければいけない。そうした目で選手たちを見ていると、競技レベルがあまりにも低すぎる。練習時間に遅れるなど緊張感が感じられない。あらゆる面で理想とするレベルに達していない。そこで彼がとったのは選手の人間否定である。ダメ人間扱いして、暴言をはいたり、暴力を振るったのである。インタビューでは自己反省はあまりない。柔道を強くするためにはこうするのがよかったのだと思っている。かわいそうなのは選手たちである。恐怖心でおびえ、競技意欲の低下を招いた。彼女たちは、オリンピックの強化選手である。ある程度の力は持っている。その技をさらに磨きをかけて、オリンピック出場権を得て、メダルを取りたいという夢を持っていたはずである。監督やコーチは、その選手たちの夢を実現するために力を貸してあげる。手助けをする黒子になるのが仕事ではないのか。目標が高ければ、前に立ちはだかるハードルも高い。その過程で自信をなくして、柔道に背を向けることもあるだろう。技量の習得が遅々として進まないこともあるだろう。けがをして気が滅入ることもあるだろう。メンタル面で落ち込むこともあるだろう。その時に選手の力強い味方になるのが監督やコーチではないのか。その過程で選手を叱ったり、ほめたり、なだめたり、課題を与えたりたりして、選手がさらに発奮する材料を多彩に用意してゆくのが仕事ではないのか。本来は選手と一緒に大きな目標に向かって夢を追う素晴らしい仕事なのである。そうゆう監督やコーチは必ずしも輝かしい成果をあげられなくても、落ちこぼれの選手は作らないと思います。常に目標に向かって努力する本来の人間を作り上げるだろうと思います。この監督は森田でいうところの気分本位である。もっと悪いのは、自分ひとりで苦しむだけでなく、「かくあるべし」で他人を苦しめているのに、本人にはその自覚がないというのが問題なのである。
2013.01.31
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私は負けず嫌い、目立ちたがり屋、勝ちたがりの面があります。神経質者は多くの人がそうした一面を持っておられるような気がします。これを困った気質だという人がいます。私はこれ自体は持って生まれた気質ですから、悪いものではないと思います。むしろその素質は優れた面として活かしてゆく態度が大切だと思います。負けず嫌いの面があるからこそ、人に負けないように努力することができます。目立ちたがりの面があるから、完全欲でもって何事もおろそかにしないのだと思います。そうした素質を持っていない人は、努力してゆこうというエネルギーが湧いてきません。でも反面、そうした努力をしないで、そうならなければいけない。という「かくあるべし」と結びつくと自分も他人をも苦しめることになります。「かくあるべし」で自分や他人を価値判断することは大きな問題です。すべてを否定してかかるからです。劣等感は自分を否定することです。優越感は人を否定していることです。否定することからは将来の明るい展望は見えてきません。森田で言う否定ではなく、どんなに受け入れがたい事でもすべてを認めて、受け入れる事を大切にします。言葉を換えれば、すべてを肯定するというということから、将来の展望は開けてきます。私はふと頭に浮かんだ考え、他人に対して口出しそうなことは、それは「かくあるべし」ではないだろうかと一応自省しています。歯止めをかけているのです。すると、自分を責めたり、苦しい場面から逃げたり、他人を非難したり、命令したり、腹立たしさをぶっつけることはほとんど「かくあるべし」からでてきていることに気がつきました。「かくあるべし」は自分も人も自然も傷つけます。森田理論学習で「かくあるべし」がいかに自然な生き方から反したものであるかが分かると、次は具体的に「かくあるべし」をどんどんと小さくすることにエネルギーを注いでゆけるようになると思っています。「かくあるべし」がどんどん小さくなるとほんとにのびのびとした自由な世界が広がってきます。これは一人でそのような境地に達することは不可能だと思います。そんなときはそれを手にしている人から教えてもらうことです。これが自助グループの醍醐味だと思います。
2013.01.21
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帯広のジャガイモ、嬬恋のキャベツ、淡路島の玉ねぎ、蒜山の大根、島原のショウガ、鹿児島のサツマイモというふうに日本には代表的な野菜の産地があります。これって人間にとってはいいことかもしれませんが、野菜にとっていいことなんでしようか。野菜は同じ野菜を作り続けると連作障害が起きて、収量は減るし、土壌障害が起きます。それに対して土壌消毒という対症療法によって大産地は存続しています。人間がこの方法がベストだと決めつけて自然に働きかけることは、問題が発生し、その問題を解決しようとして、手を打てば、また次の問題を生み出すという悪循環を招いているような気がするのです。農業がかくあるべしから逃れるとすると、人間の都合ではなく野菜の立場に立って野菜作りをすることではないでしょうか。野菜の立場とは野菜の輪作を取り入れること。野菜がよく育つような土を作ること。これは森田でいう物の性を尽くすということと一緒のような気がします。物の価値や特徴をどこまでも活かすこと、人の特徴や能力を精いっぱい開花させようとする意思、そんなことを感じます。
2013.01.18
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水谷啓二先生のところで指導を受けられた山中さんがこんなことを話してくださいました。水谷先生は、「山中君は山中君自身として生きなさい」とよくおっしゃっていたというんです。これは「自分で自分をそのまま認める」ということだといわれています。理想的な自分を持たないということです。それで、それからはこの言葉通り、「私は私として生きればいいのか。」と思い、そんな方針でやってこられたそうです。おかげで、家庭でも職場でも、あまり役割に振り回されることなくやってこられたといわれています。つまりどんどん上の役職を得て、みんなから羨望のまなざしで見られるような人間にならなければいけないとは考えなかったのです。霞が関にはキャリアと呼ばれる役人がたくさんいます。その方たちは30歳を過ぎると熾烈な生き残り競争にいやおうなく巻き込まれるそうです。どんどんふるいにかけられ最後に次官に上り詰めていく人は一人だけです。もし自分はどうしても勝ち残らなければならないという「かくあるべし」を背負って仕事をしていたとしたら、他人を蹴落とすことも平気でやり、また脱落すれば自己否定に走り、苦悩に満ちた人生が待っているのではないでしょうか。山中さんの話は「かくあるべし」の弊害を教えてくれています。
2013.01.17
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一つには子供のころからそうゆう教育を受け続けてきていることがあります。もうひとつの原因があります。「生の欲望」の発揮には、苦労が伴います。頭を使っていろいろと創意・工夫して考えなければなりません。また体を動かして対象に働きかけ、一歩一歩努力を積み重ねていかなければなりません。決して楽なものではありません。その道は決して平たんなものではありません。でも「生の欲望」の発揮には、苦労することはつきものです。でも苦労をし続けるのはつらいものです。もともと人間は、よりよく生きたいという「生の欲望」を持っている反面、「休みたい、楽をしたい、人が見てなければさぼりたい」といった一面が前面に出ることがあります。つい努力を怠り、安易な方向へ流されてしまうことがあります。その方が楽だからです。立ち止まった時私たちの意識はどこに向かうでしょうか。一つには私たちが目的としていたもの、目標としていたものに向かいます。現実とはかけ離れた理想に目が向いてゆくのです。そして苦労や努力しないで目的・目標が達成できたらどんなにかよいだろうと考えます。努力をしないで目的物を手に入れようとするのです。もうひとつの目の行き場は、今現在の自分の心や体の状態、他人の発言や行動などに向かいます。目的・目標とするものからみると、何とも心もとない自分、ふがいない自分に向かうのです。また頼りない、物足らない他人に向かうのです。次に目的・目標と現実・事実を比較対照するようになるのです。そして目的・目標達成、理想主義から現実や事実を見るようになります。さらに現実の自分や他人を、理想の状態に早く持って行かないと大変なことになると考えるようになります。それは不可能なことに挑戦することですから、エネルギーだけ消耗して疲れ果ててしまいます。この時点では、「生の欲望」の発揮ということはもはや蚊帳の外になっています。このように「生の欲望」の発揮は、歩みを止めてしまうと、いずれ「かくあるべし」にすり変わってしまい、自分に刃を向けてくるものなのです。手段の自己目的化が起きているのです。神経質性格を持ちながらも、強い感受性を活かし、向上発展を常に目指している人は、森田にはまったく見向きもしません。学習する必要もありません。それは「かくあるべし」がないからです。「かくあるべし」がない人は現実とのギャップに苦しむことはありません。神経症から解放されるとまさにそのようになるのです。
2013.01.16
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以前、高校の先生が家庭内暴力の絶えない長男を、包丁で刺し殺すという事件がありました。この事件は社会に衝撃を与え、そのルポは、「仮面の家」として単行本化されました。私はこの事件は、「かくあるべし」でがんじがらめになった家族が陥った典型的な事件として注目してきました。東京都精神医学総合研究所の斎藤先生は次のように分析されていました。規範にとらわれすぎた家族が陥った絵にかいたような事件です。普通の家族は、もっといい加減で、本音をむき出しにしたり、理想に燃えたりといったジクザグを繰り返しながらやっていくんですよ。殺すという結論に飛躍がありますね。じゅん先生は、父親や教師の役割を全うすることと、自分が好きなように生きることを、バランスを取りながらやっていけない人なんですね。また自分の女性性、いわゆる女らしさが嫌いだと思うと、抹消しないと気がすまない。それが極端になると、いい子活かす子、悪い子殺す子という二者択一の考えに陥ってしまう。長男もその性格を受け継いでいることが、彼女との関係で示されていました。長男は遊びとしてのセックスは可能なのですが、一対一の人間関係となると、できなくなる。それは相手がどう自分を評価するかということが、ものすごく気になる。失敗したら男として恥ずかしいといった緊張感が委縮させてしまう。普通はそんなに気にしなくていいんですが、泣いて「ごめん」と謝ったところが父親に似ていて、長男も外面的な男らしさにこだわり、しかも白か黒かの二者択一の思考方法に染まっていたんです。どうしてそんな考えになってしまうのか。親との関係での安心感、自分と一緒にいることを親が楽しんでいるという感覚、つまり親に愛されているという自信のある子は、親のネガティブな側面も受け入れることができるのです。そうした安心感がない子は、親が自分に関心を示しているのは勉強ができたからだといった感覚だけが強くなり、それが二者択一の思考方法を生む母体になる。そうゆう人は、いつも自分は有能で、役に立っていなきゃいけないと思いやすい。そうでなければだめだ、抹殺しなきゃいけなくなる。自分に厳しすぎると、他者と普通の人間関係を結ぶことができなくなってしまうのです。親が何を期待しているかを、いつも気にかけないといけないような育て方はかえって人間としての自立を困難にしてしまうのです。完全主義、理想主義のつよい「かくあるべしは」物足りない、ふがいない自分や親や子へと刃を向けてそのギャップを埋めようとして誤った努力を続け破滅してゆくのです。この親子は神経質性格を持ち合わせていれば、森田理論学習をすることによってその苦悩のメカニズムは理解できたと思われます。
2013.01.14
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大阪の市立高校で、バスケットボール部の顧問の教師から体罰を受けていた男子生徒が自殺した問題で、顧問が大阪市教育委員会の調査に対し、「強い部にするためには体罰は必要で、それによって生徒をいい方向に向かわせるという実感があった」などと話していた。この先生はこの高校のバスケットボール部を強くしたいという気持ちを強く持っていました。それに向けて生徒の力を把握して、少しずつ強くなるように努力を続ければよかったのですが、ある時点からそうした地道な生徒指導の熱意が「かくあるべし」にすり替わっていったのではないか。うちの学校は府内の強豪校である。変なプライドがあります。これは自分の指導で作ったものである。変なおごりがあります。これからも常に勝ち続けなければならない。○○しなければならないという「かくあるべし」があります。学校という閉鎖社会の中で、先生という権力を利用して独裁者のように「かくあるべし」路線で君臨してきました。そこで被害になったのは生徒です。「かくあるべし」というのは、「生の欲望」の発揮の手を休めたときに突然として問題が噴出するものです。高い完全主義と理想主義は、現実の中で、技術が未熟、やる気が見られない、ミスをした、指導通りの事をしないという事態に遭遇するととても大きな葛藤を生み出します。そしてはたから見ていると常識とは思えない異常な行動をとるようになります。その葛藤を取り去り不快感を払拭しようということは、神経症で苦しむ人が不安、恐怖を取り去ろうとするのと同じことです。この先生には、森田的観点から、「かくあるべし」教育は、自分も苦しく追い込みますし、他者(生徒)も巻き添えにして二重の苦しみを引き起こすのだということを伝えたいです。森田理論学習をしていると絵にかいたような「かくあるべし」の事例です。
2013.01.13
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「かくあるべし」が強いと不安や恐怖、違和感はどんどん増幅されてゆきます。そして症状として固着することになります。私の葛藤や苦悩を振り返ってみます。・私は対人的な不安、恐怖、怯えのでそうな場面、人、場所を徹底して避けるようになりました。仕事はさぼりまくっていました。営業成績が上がらず怒られてばかりでした。・失敗やミスを恐れ、間違い探しを何回も何回もおこなっていました。時間が足りなくなり、毎日のように深夜まで残業という状態で、心身とも疲れ果てていました。・失敗やミスは、上司や同僚に見つからないように細工をして、うやむやにしていました。・自分の劣等感は人に見つからないように隠してばかりいました。劣等感で自分はダメだ。生きていても仕方ないと思っていました。・自分のことを軽くあしらわれると、弱い人には腹立たしさをぶっつけ、強い人には近寄らないようにしていました。・対人的な怯えに、四六時中とらわれてしまい、いつも憂鬱、苦しい。・対人的にいやなことがあると、その人の全部が嫌になり、すべての付き合いをやめていました。・そして体験不足になり、人との付き合い方、異性との付き合い方が分からないまま大人になりました。・なにか失敗すると、自分のすべてが否定されたように感じていました。・人は問題行動の多い自分をみて、きっとダメな人だと思っているだろうと決めつけていました。
2013.01.09
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完全主義、理想主義も神経症で悩む人によくみられます。みられるというよりも、ほとんどの人はそうでないといてもたってもいられなくなっているのです。そういう人は不快な気分を取り除き、完全な状態だと思えない限り、行動することができません。実際には完全であると確信を持てることは少ないですから、しまいには手も足も出なくなります。完全にやろうとしますが、できないと決めると何もしない。せっかくのチャンスをみすみす逃してしまうことになります。完全主義者は失敗を許すということができません。100に一つのミス、欠点、弱点を拡大鏡で覗いたように大げさに考えます。そしてすぐに、これを人生の一大事というような大問題に発展させてしまうのです。強い価値判断を持ち、その価値判断も極端です。いいか悪いか、0か100か、白か黒かで判断します。その場の状況に応じて臨機応変に、柔軟に考えることができません。なんでも完全であろうとすると、少しの不安があってもイヤになります。人間関係でもあまりにも完全を求めると、自分の首を絞めてしまいます。私は以前、友達はたくさんいなくてもよい。なんでも分かりあえ、相談できる親友が2~3人ぐらいいればよいと思っていました。ところが、その親友だと思っていた人が、わがままだったり、一回でも自分の意に沿わないことをすると、その親友から距離をおくようになりました。そんなことを繰り返すうちに、親友と呼べる人がいなくなりました。孤立してきたのです。生活の発見誌に、「人間は必要に応じて付き合ったり、離れたりしているのです。コップ一杯の親友を数名持つよりも、コップに少しだけの友人をたくさん持つ方がいいですよ。」とありました。その方が本来の人間の付き合いかもしれません。気が楽になりました。それは自分や他人の欠点を許せるようになったからです。誰にでもある不満、不安、怒り、失望、恐怖などのつらい感情を、なんとか持ちこたえ、それを自分なりに消化しながら、生きていく能力を身につけていくことを、森田理論の学習で学んでゆきたいものです。
2013.01.09
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目標や目的に向かって努力している状態は、「生の欲望」に向かって努力している姿です。好ましいことです。森田では「努力即幸福」と言います。努力しているその過程が大事なのであって、目的・目標を達成したかどうかが重要なのではありません。しかしそれが義務とか、何が何でも目的を達成しなければならないとなると、これは「かくあるべし」で自分を苦しめることになります。これはなにがなんでも、目的や目標を達成しないと気がすまないようになって、自分や他人を追いこんでゆくのです。野球やオリンピックで違法薬物を使用する人が後を絶ちません。薬物を使って筋肉を増強し、興奮状態を高めるのです。その背景には、個人名誉のため、国家の威信のためなにがなんでもかたねばならないと悲壮な決意があります。そうなりますと「かくあるべし」と一緒で、そうした決意の反面、もし勝てなかったらどうしよう、もう生きて国には帰れないなどといったプレッシャーとも戦わなければならなくなるのです。なにがなんでも絶対に勝たねばならない、どうしても目標を達成しなければならないというような、「かくあるべし」は、大きな葛藤を生みだします。
2013.01.09
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「かくあるべし」の強い人は、すべてを自分のコントロール下におかないと気がすまない人です。自分の思い通りにコントロールしようとしています。感情の法則の中に「感情は自然現象であり人間の意志でコントロールできない」とあります。その感情を意のままにコントロールしようとすることは、不可能を可能にしようとして、不毛な挑戦をしていることになります。コントロールできないことは感情だけではありません。自分の性格や容姿、他人の言動、地震や台風などの自然災害などに対しても人間は無力です。松下幸之助は、「人間万事、天の摂理でできるのが90パーセント、あとの10パーセントが人間のなしうる限度である」と言っています。そこまで言うのかと思いますが、松下幸之助にとってみれば、それが事実なのでしょう。森田では、自分のできることと、できないことの区別をすることが大事であるといいます。それではできること、コントロールしてもよいものとは何でしょうか。それは人間が手をだすことによって、将来が今よりももっとよくなること、人の役に立つことの2点に集約されると思います。たとえば子供の能力を高めるためにいろんなことに挑戦させること、不慮の事故に備えて生命保険に入っておくこと、大地震に備えて家を補強する。家具の転倒防止施策を講じること。これらは不安を活かして行動に移してゆくことが大切です。気づいたなら積極的に素早く手をださないと大変なことになりかねません。それ以外のこと、たとえば私利私欲を満たす行為、問題を子孫代々に先送りすること、自然に反旗を翻すなどということは、次から次へと問題を作り出します。岩田真理さんは今までの苦しみは、内的自然に逆らって、感情を自分の思うようにコントロールしようとしたための苦しみだったのです。自然に任せていれば、心は瞬く間に変化し、流動し周囲と調和して動いてゆくといわれます。
2013.01.09
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まず自分という一人の人間の中に、相対立する2人の人間を抱えた状態です。一人は空高く雲の上のほうにいる自分。そしてもう一人は地上にいる自分です。主導権はいつも雲の上にいる自分です。地上にいる自分にいつも指示を出したり、非難したり、罵倒している自分です。地上にいる自分は奴隷のようです。苦しくていつもアップアップしています。二人が歩み寄れるとすれば雲の上の自分が天空から舞い降りてきて、地上の自分に寄り添って、その存在を認めてくれて、励ましいたわってくれることです。どんなにふがいない、ダメ人間だと思っても現実の自分をよく認識して、受け入れていくことです。
2013.01.09
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みなさんは下記のような思考パータンはありませんか。感情は意志の力で変えることができるはずだ。気分はいつもスッキリしていなければならない。人前では決して手や声が震えたりしてはならない。人の目をみて話さなければいけない。仕事や勉強の時雑念があってはいけない。いつも安全な状態でなければいけない。人前で緊張してはいけない。人前で赤面してはいけない。人前でどもってはいけない。夜はぐっすり寝なければいけない。不安な気持ちがあってはいけない。少しでも身体に違和感や異常があってはいけない。人から後ろ指をさされるような人間になってはいけない。人の話の輪の中に入っていかなければいけない。容姿が人より劣っていてはいけない。ミスや失敗、欠点は絶対に許されない。目標はなにがなんでも達成しなければいけない。意志を強く持たなければならない。理不尽なことはあってはならないことだ。これらは○○してはいけない。○○しなければならないがついています。神経質性格を持ち、こうゆう思考パターンになっている人は神経症に陥りやすいといえます。森田ではこれを「かくあるべし」と言っています。かくあるべしが強いとそれと現実、事実が食い違うことによって強い葛藤や不安が発生します。神経症というのはその不安や恐怖にとらわれるといってよいと思います。このことを森田先生は「思想の矛盾」といいました。神経症は思想の矛盾から起きると言っています。自分の症状の原因となっている「かくあるべし」を小さくすれば、神経症の苦しみは軽減できます。
2013.01.06
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