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為末大さんのお話です。2001年と2005年の世界陸上で銅メダルをとった人だ。競技は400メートルハードル。為末氏は小学生のころ50m徒競争に出場した。独走だった。見物人の驚きと注目を一身に浴びた。自分が走るだけでこんなにも人を驚かせるというのはすごいことだと思った。この風景は為末氏の走る原点となった。その後走れば走るほど記録がでた。毎日毎日走るのが楽しくて仕方がなかった。中学3年生の時には100mと200mの短距離走で日本一になった。勝てた、喜びがある。みんなが賞賛してくれた。自信になった。その時代は走ること自体が楽しい、嬉しいという状態だった。走りたいから走るという状態だった。ところがそのうち「走ると女の子にもてる」「走ると進学ができる」「プロになればお金が儲かる」「勝てば名誉が手に入る」「有名人になれる」という世界に変わっていった。そしてとうとう、そうした「手に入れたものを失うのが怖い」と言う心境になっていった。世界陸上で銅メダルをとったあと「徹子の部屋」に呼ばれた。次もまたメダルを期待されるようになった。今度は金だ、銀だと周囲の期待はどんどん膨らんでいった。すると為末氏の心の中に「勝ってほしいと言われるとその声に答えなくては」「勝つために確実な練習をしなくては」と言う気持ちが湧いてきた。日の丸を背負って勝ってメダルをとることが自分の使命だ。それが僕に与えられた責任だ。どんなことがあっても、何が何でも勝たねばならないという悲壮な状況に追い込まれた。最初は欲もいささかの邪心もなかった。とにかく走ること自体が楽しい。どんどん成績が伸びてみんなを喜ばすことがうれしい。そして「走ると女の子にもてる」「走ると進学ができる」「プロになればお金が儲かる」「勝てば名誉が手に入る」「有名人になれる」と考えた。多少の邪心がでてきた。でもこれはまだよい。その気持ちを「てこ」にしてさらにモチュベーションを高めることができたのだから。ところが「手に入れたものを失うのが怖い」という気持ちは、手に入れたものを失ってはならないという「かくあるべし」からの発想である。その後何が何でもオリンピックでメダルをとらねばならないに結びついてしまった。走ることが楽しくなくなったのである。この点アメリカの選手は自分自身が中心軸だから、オリンピックでもとことん楽しむことができる。「私がアメリカを代表しています」という責任感は、日本人に比べると格段に少ないという。自分が普段練習してきたことを100%出せばよい。それで負けるのなら相手が1枚上手だったということだ。正直に負けを認めて、相手を称えてあげよう。つまりオリンピックでは適度な緊張感の中で、自分の実力以上の力を出せる要素があるのだ。それに引き換え日本人は「国の代表である」という意識に圧倒されてしまい、100%の力をそのまま出し切ることは難しい。練習ではよい成績を出しても本番では70%、80%の力しか出せなくなってしまうのだ。競技をする前から自分に負けてしまっているのだ。「かくあるべし」はスポーツの世界にも弊害をもたらしているということだろう。我々は森田理論で「かくあるべし」という世界から「事実本位」の世界に転換することをめざしているのである。森田理論の体得でその方向へ向かうことができるので是非本気になって取り組んでもらいたい。(「遊ぶ」が勝ち 為末大 中公新書参照)
2015.05.05
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あるお母さんの話です。子供が幼稚園に入りました。お母さんは朝早くからお弁当作りをしていました。お母さんが作る弁当はとても手が込んだものでした。他の子どもたちのとはちょっと違っていました。自分の体具合が悪くても、必ず早く起きて弁当を作っていたのです。そのお母さんが言われるには、「それをしなければいけない」というモードに入ると、それをしないとどうしてもだめ、そうしなければと思うと確信的に考えて行動してしまうのです。子供が健康でいるためには、三度三度の食事をきちんと完璧にしなければいけないと考えてしまい、死に物狂いで頑張ります。ところが緊張の糸が切れてしまうと「どうでもいいや」と思い、ごはんとゆで卵だけの日が1週間も続く。あるいはごはんとウィンナーだけの弁当になってしまう。極端になってしまうのです。そうなると自分ではどうすることもできないのです。そして自己嫌悪、自己否定、罪悪感でさいなまれるのです。そして落ち込んでしまうのです。これは完璧主義、完全主義の人が陥りやすい認識の誤りの一つです。やることは完璧にしなければならないと思ってしまう。完全にできないと思うと全くしなくなる。0か100、白か黒、極端なのです。完璧にするために計画は綿密に立てようとします。しかし計画を立てる段階で気が重くなり、全く行動に移すことができなくなってしまいます。森田理論学習では、完全主義は「かくあるべし」という認識の誤りからくるといいます。「かくあるべし」思考から、事実、現実、現状重視の生活態度に変更することが大切であるといいます。そのためにはまず森田理論学習によって「かくあるべし」の成り立ちをよく学習することです。「かくあるべし」は、森田先生も言われているように、一つには教育の弊害があります。もう一つは「生の欲望の発揮」に向かう意志が希薄で途中ですぐにくじけてしまうことにあります。それを自分の場合にあてはめて自覚を深めていくことから始めます。次に「かくあるべし」という認識の間違いを改めて、現実にどっしりと足をついた生活をするための手法を学習しましょう。それを現実の生活の中に応用していく。玉ねぎの薄皮をはがすように変化していく。そのための手法としては、まず事実をよく観察すること。事実に基づいて具体的、赤裸々に話す。両面観で物事を見ていく。精神拮抗作用の理解と応用。事実を4つに分けてみる視点を持つ。事実を価値判断しない生き方の習得・応用。事実を受け入れて、事実に服従する生き方を身につける。「純な心」の生活への習得・応用。私メッセージの習得・応用などがあります。その他森田理論活用ノウハウが13項目あります。これらはすでに解説してきました。ここはとても奥が深いものがあります。森田理論学習の核心部分です。これは私の「森田理論習得3カ年計画」の2年目、3年目で取り組むべき課題となります。しんどいところです。でも一旦身につけてしまうと残りの人生が光り輝いてくると思っています。
2015.04.14
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本日の投稿で「是非善悪の価値判断の弊害は森田理論の常識である」と書いた。ある方から連絡をいただき、そんな森田理論学習は聞いたことがない。いい加減なことを書かないでほしいとの意見をいただきました。さらに、それが事実ならもっと丁寧に説明すべきではないのかとのご意見でした。そう言われてみれば、確かに森田理論のスタンダードな見解とは言い難い。舌足らずなことを書いて申し訳ありませんでした。深く反省しております。そこで弁解がましいのですが、もう少し説明させてください。森田先生は、治るということの説明をされています。その中に中学卒業程度の治り方について次のように書かれています。「事実から逃げたり、ごまかしたりしないで事実をそのままに認めることができる。このように「事実唯真」の動かすべからざることを知れば、いまさらいやなものを朗らかにしたり、無常を恒常のものに見替えたり、相対を絶対にしたりする不可能な精神葛藤が無くなるから、ただそれだけで非常に安楽である。」つまり自然な感情の事実に対して、その事実を受け入れて、自然に服従していく生き方の重要性を説かれています。ところが治るという意味では、中学の上に大学卒業程度の治り方もあると言われています。「善し悪しとか苦楽とかいう事は、事実と言葉との間に非常な相違がある。この苦楽の評価の拘泥を超越して、ただ現実における、我々の「生命の躍動」そのものになりきって行く事が大学卒業程度のものであろうか。」私はこれこそが是非善悪の価値判断をしない生き方のことを言われていると思います。つまり思想の矛盾を打ち破ることの大切さは中学卒業程度の学習でよく理解できているのです。ところが普段の生活では、問題が発生するとすぐにまた「かくあるべし」に翻弄されてしまうのが現実です。つまり生活の中にしっかりと根付いて、あるがままの生活態度が実践できているわけではないのです。理論はよく分かっているが、生活に応用することは難しいという段階です。ここまでの学習を積み重ねている人は数多くおられます。ところが大学卒業程度となるとぐっと少数になります。これはなぜそうなるのかというと、是非善悪の価値判断をしているからなのです。この部分は森田理論の中でも核心部分にあたると考えています。是非善悪の価値判断は、他と比較することから始まります。比較の対象は3点あります。まず頭の中で考えた理想や完璧な状態と現実のふがいない事実を比較して価値判断しています。次に、他人のよいところと自分の悪いところを比較して価値判断に持ち込んでいます。さらに過去のよかった時のことと現在の悪い状況を比較して価値判断しています。価値判断するに当たっては、よいと判定した考え方を支持しています。悪いと判定した考え方を排除しようとします。さらに悪い方をよい方に変化させようとする傾向にあります。どうにも変化させることができないと、悪い方を批判したり、無視したり、否定してしまいます。私は比較してもよいと思っています。比較して両者の違いをはっきりと認識するだけなら比較することはよいと思うのです。ところが普通は比較だけではすみません。いい悪いと価値判断をするのです。比較だけにとどめて価値判断には持ちこまないというのはとても難しいところです。強い意志が必要です。でもこれを続けていたら、いつまでたっても思想の矛盾の打破は不可能ではないかと思うのです。これは森田理論の核心部分ですが、集談会のなかで、みんなで学習したり議論することはありませんでした。もしよかったらこれを機会に各地の集談会の学習項目として取り上げてみてください。ぜひお願いします。
2015.02.14
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葬儀社の人が教えてくれました。昔の遺体は軽かった。まさに枯れ果てたという感じがしていた。最近の遺体は重い。棺桶に入れるのも難儀をする。いいものを食っているからだろうか。そうではない。特に身体が不自由になり認知症のあるような老人が、そんなにがつがつと食べるとは思えない。その原因は亡くなる前の病院での治療にあるのである。病院で死を迎える前は完全看護である。皆さんも家族や知り合いが入院されている病院に見舞いに行かれることもあると思う。すると患者は酸素マスクをつけられ、何種類もの点滴をうたれ、ビニールチューブをいくつも装着されている光景を見せられることになります。ものが食べられなくなると完全な医療措置が施されているのである。つまり物言わぬ患者に代わって、医師があらゆる手段を使って水や栄養や酸素を与えていくのである。2011年2月の老年医学会で85歳以上のものがのどを通らなくなったアルツハイマーの患者にどう対応しているかという調査があった。1554人の医師の答えはこうだ。何もしない10%、胃ろう(腹に穴をあけて、そこからチューブを通して、水分や栄養を補給する)21%、経鼻チューブ(鼻から胃までチューブを通して水分や栄養を送る)13%、手や足からの点滴注射で水や栄養を補給する。51%である。点滴注射は絶対に必要だという医師は38%であった。これらの処置をしないと医師は家族からどういわれるか。医師が患者を見放した。手厚い医療を施してくれなかった。藪医者だ。極悪非道の医師というレッテルを張られて隣近所に言いふらされるのである。そんなことをすれば医師の死活問題になる。また医師の方も、家族がもうこれ以上の処置を望まないというと、「餓死することになります」「殺人罪にあたりますがそれでもよろしいのですか」と言われることもあるそうです。これに異を唱える医師がいる。中村仁一医師である。人間というのは、死に際というのは何らかの医療措置をおこなわなければ、夢うつつの気持ちのいい、穏やかな死を迎えるようになっているのだ。それが自然の仕組みとしてもともと備わっているものなのです。側で見ていて、苦しんでいるようで見ていられないというのは認識の誤りだというのだ。それはなぜか。栄養を与えないと飢餓状態になります。また酸素マスクをつけないと酸欠状態になります。すると脳の中では脳内モルヒネが分泌されます。脳で分泌されるモルヒネというのは痛みを和らげる物質です。また水を与えないと脱水状態になります。脱水状態になると意識が遠のいて、夢うつつの状態になります。そして、呼吸困難になりますと、炭酸ガスが体外に排出されなくなり体内にたまります。炭酸ガスは麻酔作用があります。そのおかげで側ではつらそうに見えていても本人はほとんど痛みと苦しみはないのです。自然死というのは理にかなっているわけです。ところが医療措置をすればするほど患者に痛みや苦痛を与えていることになるのです。例えば経鼻チューブというのは違和感があり、患者さんは嫌がるものだそうです。無意識にチューブを引き抜こうとするので、今度は手足を縛って対応するのだそうです。これは一種の拷問ではないでしょうか。水、栄養、酸素を与えるということは、脳内モルヒネの分泌を抑制し、五感を刺激して、七転八倒の痛みや苦しみを感じやすくしてしまっているのです。患者さんは正味痛みや苦しみと闘っているのです。それは最愛の家族に対して、「今まで散々迷惑をかけてきから、せめて死ぬ時ぐらいは楽に思い通りにはさせないぞ。苦しみぬいて死なせてやる。」と言っている事と同じことなのです。これは医者も家族も事実を知らないで、「かくあるべし」に取りつかれている結果だと言えます。森田で言う事実をよく確かめるというのは死に臨んでも言えることです。(大往生したけりゃ医療とかかわるな 中村仁一 幻冬舎参照)
2015.01.26
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NHKで「サイレントプア」というテレビ番組を見た。「サイレントプア」とは、物言わぬ心の貧困の蔓延というような意味だろうか。現代の時代をうまく表現しているような気がする。50代の引きこもりの人の話だった。男性である。自分の部屋にずっと引きこもり、本を読んだり、パソコンゲームをして過ごしてきた。かれこれ30年になる。家族と顔を合わせることはめったにない。食事は母親が作り自分の部屋の前まで運ばせて、自分一人で食べている。この方のお父さんは、自分たちが亡くなったあと、その子が生きていけないのではないかと大変心配しておられた。そのことを子どもにもろにぶっつけていくので絶えず喧嘩になる。大学受験に2回失敗したとき、父親から「お前は人間のクズだ」と言われた。また絵描きになりたいと言った時、父親は息子が今まで描きためていた絵画を勝手にすべて焼却した。美術大学に進学することが許せなかったのである。絵描きでは食っていけないと決めつけていたのだ。有名大学に入り、一流の企業に就職して、人がうらやむような人生をおくることが親の務めだと思っていた。息子と父親が第三者に会った時、息子に質問されたことにもいちいち父親が口出しをしていた。森田で言う「かくあるべし」で子どもを教育してきたのである。親の是非善悪の価値判断を子どもに押し付ける教育である。非難、説教、命令、指示、禁止、叱責のオンパレードである。反対に息子の味方になる、存在を認める、ほめるということはしない。だからいつまでも自分に自信が持てない。いつも父親の顔色をうかがう。そのつけが息子の長い長い引きこもりに影響を与えていたようである。ドラマの最後には、「お前の人生をめちゃくちゃにしてきたのは私だった。申し訳なかった」と父親が息子に謝っていた。そして、息子が小さい時初めて自転車に乗った時、転ばないように後ろでずっと荷台を支えていた。そうしないと倒れて怪我をするのではないかと思っていたのだ。でもある時手を離した時、息子はすいすいと自転車を乗り回していた。何もしないで見守っているだけでよかったのだ。それなのに父親は息子のすることなすことが気になって、何かにつけて口出ししてきた。今になって思えば、ガミガミと口出ししないで、見守っているだけにすれば良かった。としみじみと語っていた。父親が膝をついて謝罪したことで、息子も感極まって泣いていた。ついでに私ももらい泣きしてしまった。それから息子は絵を描きはじめた。両親から離れて一人で暮らすことにしたようでした。多分アルバイトでも始めるのだと思います。森田理論を思い出させるようなよいドラマでした。本日夜0時10分から再放送があるみたいです。
2015.01.17
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木村秋則さんは青森で肥料、無農薬のリンゴを栽培されている。きっかけは奥さんが農薬にとても弱く体に影響がでてきたからだそうである。でもこれは壮絶な戦いだった。虫の重さでリンゴの木がしなって垂れ下がっていたという。800本あった木は半分はやられた。それまでは1年に10回から13回は農薬を散布していたのだから無理もない。リンゴが全くならないのが8年続いた。生活できない。その間はアルバイトをして食いつないだ。そして村八分にあっている。かまど消しと言われていたそうだ。ご飯も炊けない極貧の家のことだそうです。もう死のうと思って山に行かれたそうです。するとそこに病気にもならず元気に育っていたドングリの木を見たそうです。どうして虫がつかないのだろうと思って見ていると、土だと気がついたそうです。手で掘るとほろほろと崩れるくらい柔らかいのです。木のまわりは絨毯の上を歩いているみたいにふかふかなんです。それまで私は、地上の上ばかり見て、目の見えない根っこの方、つまり土は見よとしていなかったことに気がついたのです。リンゴの木にすくすくと育ってもらうためには、まず、バクテリアが生息する豊かな土を作ることが大切だったのです。この話から森田では何を学ぶことができるのか。リンゴを人間の思うがままに育ててはいけないということだ。リンゴだけではない。人間もそうだ。他人を自分の「かくあるべし」で支配しようとしてはいけないという事だと思う。相手を自分の思い通りに操ろうとしても決してコントロールできるものではない。出来ることは相手をよく観察すること。相手の状況をよく把握すること。是非善悪の価値判断をしないで相手を認めていくこと。そして相手を受け入れていくこと。だと思う。さらに相手が意欲を持ったり、挑戦するきっかけを作ったり、積極性がでるようなきっかけづくりができれば最高だ。例えば木村さんはこんなことも言っている。「何もかも自然の力に任せておけばいいかというと、それは違います。」今、自然栽培といっても、リンゴの開花の時に一回、収穫期に入ってから1回草をかっています。リンゴの開花時土がじめじめしていると病気になる。また収穫期の草刈りは、リンゴに秋を知らせるのだそうだ。草を刈らないと土の中はいつまでも温かい。するとリンゴは秋が来たことが分からないので赤くならないのだそうです。きっと刺激を与えているのでしょう。吉田松陰の松下村塾からは多くの優秀な人材を輩出している。改革の戦士だけではない。実業家として成功した人も数多くいる。それは一人一人の目線に立ってそれぞれにやる気に火をつけていったことが大きいようだ。つまり「かくあるべし」を押し付けるのではなく、その人の個性や特徴を見いだして伸ばす教育を実践されていたようである。こういう指導者のもとで学習できる人は幸せだ。精神的な葛藤がないので、自他共にのびのびと生きることができる。
2015.01.11
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森田先生は、言葉は符牒であると言われています。つまり人間同士がコミュニケーションをとったり、思索するために作りだしたものである。現在頭が痛い。これは事実である。しかし頭痛が去ったあとに、この感じを思い出して頭痛と名づける。この時にはかつて経験した印象を外界に投影して、客観的に思い浮かべたものである。あたかも自分の顔を鏡に投影したような関係である。鏡の後ろの影はすでに自分自身ではないのである。この外界に投影した模型を事実と思いちがえる時に思想の矛盾が起きる、といわれています。ここが大事なところです。言葉は事実そのものとは相当乖離しているということです。(神経衰弱と強迫観念の根治法 白揚社 117ページ)難しいことを言われているようですが、少し整理してみたいと思います。これは要するに、言葉は事実とはぴたりと一致しないということをいわれているのです。リンゴを思い浮かべてみてください。真っ赤なリンゴを思い浮かべる人もいます。青いリンゴを思い浮かべる人もいます。スカスカの感触を思い出す人もいます。酸っぱい味を思い出す人もいます。ハウスバーモントカレーを思い出す人もいます。蜜の入った甘い味を思い浮かべる人もいます。岩木山のふもとの、真っ白い綿みたいなリンゴの花びらを思い浮かべる人もいます。フラン病にかかった痛々しいリンゴの木を思いうかべる人もいます。リンゴという言葉は、みんな一般的にはほぼ同じことを連想すると思いこんでいます。でもよく考えると、人によってそれぞれ連想することは違うという面もあるのです。つまり言葉とその時、その場で感じる事実そのものは違うということです。言葉は符牒であり、概念であるから100%信用してはいけない。それはあたかも地図を見て概略を理解する程度にとどめる。詳しいことは現地に赴いて自分の目や感覚で確かめることが大切です。地図では見えなかったことがリアルに見えてきます。百聞は一見にしかずということです。悩んだり、とらわれるということは、この信頼できない言葉を100%信用して使っているのです。そして苦悩に陥ったり、自己否定したりしているのです。信用できない言葉を使って、精神交互作用を起こして神経症に陥っているのは少しおかしくはありませんか、ということを森田先生は言われているのだと思います。言葉があるからこそ嫌な感情や不快な感情を増悪させてしまう面があるのです。始末に悪い面があるのです。過去を思い出してイライラしたり、腹が立ったり、人を憎んだりしてしまう。人と比べて劣等感に苦しむ。すべて言葉を使っています。だから不安、恐怖、不快な感情に襲われた時は、それらと向きになって付き合わない方がよいという面があります。これを逆手にとって利用するとよいのではないか。腹が立ったときには、それとは全く関係のないリズム感のある言葉を発するとよいのです。例えば、お寺の住職さんの読経です。これは意味や内容は全く分かりません。でも読経にはリズム感があります。これを口ずさむことによって、精神交互作用が遮断されるという面があります。ある人が、法事で読経を何度も聞いているうちに、読経のリズムに合わせて、こんなものを作りました。読経のパロディ版です。不謹慎だと思わずに読経に合わせて口ずさんでみてください。ニンジンゴボウ筑前煮ガンモや卵はおでんにせい寒い冬にはブリ大根暑い夏には生ビール飲み過ぎ食べ過ぎ即キャべジン精力減退養命酒疲労困憊アリナミン法事はたびたび開けお布施はたくさん包め寺への寄付を忘れるなチーン夫婦円満家内安全交通安全往生安楽国チーン 一同合掌腹がたったり、イライラする時は、トイレに行って一人この読経もどきを口ずさむのです。彼は宴会の席でもやっていました。その時は大きな玉のついた数珠のようなものを持っていました。意外に効果があるので、お試しあれというのです。うけるというより、あっけにとられてしまいましたが、後で考えると意外と「いいかも」と思ってしまいました。森田の理にかなっていたのです。
2015.01.06
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「かくあるべし」の中に完全主義というのがあります。私は完全主義の上司と一緒に仕事をしたことがありました。その人はノートを見ると5センチぐらいのところに縦に線を引いてそこに見出しをつけています。字を見ると印刷したかのようにきちんと書いてあります。それは見事なものでした。とにかく几帳面を絵にかいたような人で、世間話をすることさえ緊張感を覚えました。完全主義が自分だけならまだいいのです。完全主義を周りの人にも押し付けるのです。息が詰まるような重くるしい雰囲気がありました。その後その人は部長になられて本社に呼び戻されました。地方営業所の所長10名ぐらいを取りまとめておられました。毎月行われる営業会議はとても緊迫したものだったそうです。営業所長は月々の販売予算を持っています。それが達成されていない所長はやり玉に挙げられるのだそうです。罵詈雑言を浴びせられたのです。どうしてこういう結果になったのか。月の途中でどうして改善できなかったのか。今後はどうして立て直していくのか。重箱の隅をつつくように追い詰めていくのだそうです。所長に言わせると、それが分かっていれば誰でも実行しています。でも解決の糸口が分からなくて苦しんでいるのです。アドバイスはしないで、批難ばかりするのです。あまりに追い詰められて、会議で泣き出すような人もいました。耐えきれなくなって退職する人もいました。ついに所長たちは、連名で社長にその部長の理不尽さを直訴したそうです。するとしばらく経って、社長はその部長を子会社に出向させました。いわゆる左遷です。各営業所の所長は集まって祝杯を挙げたそうです。この方は、結局その後1年ほどで退職してゆかれました。この方の信条は完璧に仕事をこなすことです。販売予算は必ず必達というのが自分の課せられた使命であると思われていました。この視点で部下を見た時とても我慢がならなかったのでしょう。部下は部下で「かくあるべし」を平気で押し付ける上司は鬼のように思っていたのです。完全主義、完璧主義という「かくあるべし」は双方を不幸のどん底に陥れてしまいました。これが、予算が達成できないという現実、現状、事実から出発できたとしたら事情は大きく変わっていたのではないでしょうか。森田理論学習でなかで「ほどほど道」という話を聞きました。私はこれを「事実本位」と読み替えて理解しております。
2014.11.10
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最近のプロ野球の選手を見ていると高校卒ですぐに活躍選手がいる。昔と比べて豊富な知識を持ち、身体能力が上がり、技術も高い選手が増えたのである。それはそれで楽しいものである。ただ古田敦也氏は、そんな彼らに経験がまだまだ少ないといわれている。経験がなくて頭で判断して、やる前から決めつけてしまう人が多いといわれる。経験する前から頭の中で結論が出来上がっていて、それが固定観念となっている。だから「どうせ無理」「やっても意味がない」「時間の無駄だ」などと挑戦したがらないのです。例えば、「ここに投げてみろ。そうしたらバッターだって怯むんだよ」「次の球を活かすためにも、こういうことをやってみろ」という。すると、「そんなところへ投げると絶対に打たれますよ」「そこはデーター的に打たれる確率が高いから」とか、「それよりも自分の得意なコースに投げたほうが打ち取れる」「確率から言うと、この方法が正しい」と反論してアドバイスを試してみようとしない。そうやって自分勝手に未来を予測し、結論を出しておきながら、壁にぶつかってうまくいかないと悩む。そこでアドバイスしても、やっぱり頭で考えて行動しない。小手先の情報に振り回されているのです。人間のすることなど、実際にやってみなければわからない。まして野球は対人間。押したり引いたり、相手との駆け引きで結果は大きく変わります。主力打者だってど真ん中のストレートを見逃すことだってある。高卒の新人がそんな球で勝負してくるとは想定していないからです。頭でっかちの人は、それが恐ろしいのです。頭で組み立てた通りの結果が出ないのが恐ろしいのである。結果として逃げの気持ちになる。でもプロは弱みを見せるとそこにつけこんでくる。特に相手が強大であれば勝ち目はないのである。この話は森田理論の「かくあるべし」に振り回されることと関係があります。我々は頭で考えた理想を第一にして、現実の自分をその「かくあるべし」に合わせようとしているのです。古田氏はその考え方では、野球の世界でもうまくはいきませんと言われているのです。頭で考えた決めつけや思い込みをゼロベースで見直して、実際に経験・体験した中でつかみ取った知恵を優先するべきだといわれているのです。我々は森田理論学習の中で、現実、現状、事実をもとにして生活しましょうと学んできました。決して「かくあるべし」から行動・実践を起こしてはならないのです。思想の矛盾で葛藤を起こし、神経症を引き起こしてしまうからです。古田氏は新人に対して、体験を積ませるために、「もし打たれても君のせいにはしない」「監督には自分のサインミスです」と言うから思い切って投げてみろと助言したということです。そこまで言って吹っ切らないと、なかなか「かくあるべし」は乗り越えることが出来ないそうです。(「優柔決断」のすすめ 古田敦也 PHP新書参照)
2014.11.07
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歳のあまり離れていない二人の男の子供がいたとします。お兄ちゃんはこうちゃんという名前です。弟はゆきちゃんといいます。3歳違いです。こうちゃんが仮面ライダーのテレビ番組を見ています。ゆきちゃんがお母さんの所へ来て、「お兄ちゃんが僕の好きなDVDを見せてくれない。」と言いました。さて親のあなたならどう対応しますか。「こうちゃん、ゆきちゃんにも見せてあげてちょうだい。」と言いますか。それとも、「今お兄ちゃんが見ているんだから、ゆきちゃんは後でね。今は我慢しなさい」と言いますか。どちらもパッとしませんね。子供のけんかに親が口出しているようなものです。森田では、まず弟のゆきちゃんに共感の態度で受け止めてあげるのがよいといいます。まず弟の言い分を理解してやるのです。親としての言いたいことは、一旦抑えて、子供の気持ちを聞き、理解していることを、言葉や身振りで伝えることが大切です。お母さん 「そう、お兄ちゃんがゆきちゃんの見たい番組を見せてくれないんだ。」ゆきちゃん 「そう。だからお母さんからお兄ちゃんに僕に見せるように言って。」ここでゆきちゃんの一歩的な味方になってはいけませんね。お母さん 「うん!でも今お兄ちゃんが見ているからね。」「ゆきちゃんだったらどうしたらよいと思う。」「お母さんにもどうしらよいかよく分からないよ。」といって、しばらくじっとゆきちゃんの出方を見守ることです。しばらくして、ゆきちゃんが言いました。「よし!お兄ちゃんに見せてもらうようにまた頼んでみよう」これはゆきちゃんにとって、一種の自立心の発露です。ところがしばらくして、ゆきちゃんがお母さんの所へもどってきました。「お兄ちゃんやっぱり見せてくれないよ。お母さんからお兄ちゃんに言ってよ」お母さん 「そうか。やっぱり見せてくれないの」「でもねえ、じゃ、ゆきちゃんはどうしたらよいと思う」「うーん」しばらく考えていたが、ゆきちゃんはついにいいことを思いついた。「夕方ある僕の好きな番組はお兄ちゃんに見せてくれるように頼んでみよう。」そういって、お兄ちゃんのところへ、次のチャンネル権確保のために交渉に行ったのである。これは、工夫創意が働いたということです。そして再度の交渉に向かったのです。これはお母さんがゆきちゃんに共感的に接して、しかも結論を子供にゆだねたということで可能となったことです。普通なら子供の言うことを聞いて、すぐにダメだと否定したり、すぐに子どもの要求をのんだりすることが多いのではないでしょうか。過干渉と過保護の繰り返しです。子供の自立心や創意工夫、交渉力の芽を最初から摘んでしまうことになります。子供の要求は理不尽なことも多く、親としてもどう対応したらよいか分からないことが多いと思います。こういう場合は、子供の思いをよく聞いてみる。言い分についてはよく理解してやる。次にどうしてよいか分からない時は、どうしたらよいか親も分かりかねているという態度をみせるしかない。それしか見せようがない。ああでもない、こうでもないと考えているうちに、子供の方から折り合いをつけてしまうものだと森田先生も言われています。最悪な対応は、親の「かくあるべし」を子供に押し付けることである。これは子どもを自分の分身のように扱うことです。これは神経症を作るもとになります。短絡的な対応はぜひとも避けたいものである。
2014.10.21
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昨日の続きです。シャロン伴野さんは、二つの選択肢を与えて「どっちがいい」「どっちにする」と子供に聞くことの利点を次のように指摘されています。1、 親が子供に一方的に押し付けずに、自分の行動について子供自身に選ばせることによって、子供の自立心が育ちます。つまり森田でいう「かくあるべし」を子供に押し付けることを回避できる。2つの選択肢を与えることで、目の前の出来事に集中できる。比較検討することによって感じが高まります。2、 どちらを選ぶかについては、当然、自分自身の頭で考えなければなりませんから、思考力も養われます。3、 自分自身で考え、それに基づいて下した結論によって行動するので、子供自身のやる気が出てきます。モチュベーションが高まってきます。4、 親にとって、子供がぐずったり、すねたりしなくなるので、子育てからくるストレスがなくなります。「ダメです」「早くしなさい」「親の言うことが聞けないの」という言葉は、子供が反発しやすく、親子げんかの原因になります。5、 子供は自分に選択肢を与えてくれる親を尊敬し、親は子供が自分で選んだ行動に責任をもつのを見て頼もしく思いますので「信頼関係」が深まります。森田先生は子どもがぐずり始めた時、機嫌をとって短絡的な行動をとってはいけないといいます。イライラしながら、ああでもない、こうでもないと考えながらじっと子供を見つめておればよい。そのうち子供は自然に泣き止むものだといわれています。よくありがちなのは、大人は自分のイライラした感情をなんとか無くしてしまいたいということです。しかし、自分の思いとは反対に事態は悪化してゆきます。そして最後には、自分の思うようにならなくて「お前の好きなようにしろ」と放任して突き放してしまいます。その時子供は、親の後ろ盾を無くしてしまいます。親の後ろ盾を無くした子供は他人が自分をどう扱ってくれたかに神経を使うようになります。これがゆくゆくは対人恐怖症に発展してゆくことがあります。暖かい人間関係の枠外に出されることは身体的および社会的な「死の恐怖」と直結するからです。そうならないために、シャロン伴野さんの「どっちがいい」「どっちにする」という接し方は応用してみる価値があると思うのです。
2014.10.12
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シャロン伴野さんは「子供を伸ばす魔法の言葉」(文園社)でおもろいことを言われています。「かくあるべし」を他人に押し付けるということと関係があります。ちなみにシャロン伴野さんはハワイで生まれ育ち、日本人と結婚されて、現在日本に住んでおられます。日本人は繊細でやさしくとてもいいところを持っています。けれども、一つだけ私から見て首をかしげたくなるのは、何も自分で判断しようとしない自主性のなさです。日常の些細なことから自分の人生にかかわる大事まで、周囲の顔色をうかがったり、誰かの同意を求めたりして、自分では決断できない人が、あまりにも多い気がします。その結果、自信が持てなくなり、「いったい自分の人生は何だったのだろう」と後悔するようになったら、あまりにも悲しいことではありませんか。ところが自分で考えて、選択した人生なら、たとえ失敗することがあっても、誰にも文句は言えません。何とか自分で立ち直ろうと努力しますし、常に前向きな姿勢で困難に立ち向かうことができます。こうして手に入れた人生は、かけがえのないものに違いありません。我々にはとても耳の痛い言葉です。その上で伴野さんは、子育てに、「どっちいいですか?」の活用を提案されています。これは、子供に二つの選択肢を示し、そのうちのどちらかを選ばせるというものです。例えば、大切なお客さんが来ているのに、子供がぐずって泣き出したとします。私は子どもにこう言います。「お母さんは今、お客様と大事なお話をしているの。もし、泣きたいのなら、玄関のところにいって泣きなさい。もし、お母さんたちと一緒にいたいのだったら、泣き止みなさい。どっちがいいですか?」子どもはしばらく考えて、どちらかを選びます。泣きたいと思えば玄関のところに行きます。玄関のところにいって泣いても誰も相手にしてくれませんから、つまらなくてすぐに泣き止みます。この場合自分で選んだことですので、小さな子供でも誇りを持って、再度泣き出すようなことはありません。子供は自分でどちらがいいかを判断して選び、そして自分が下した決定を守る能力と自尊心が育ちます。選択肢は2つにすることです。何でもかんでも自由にしなさいというと、子どもたちは右往左往します。また3つや4つでは多すぎます。集中できないのでダメです。また選択肢の中に脅しを入れてはいけません。こうしないと、ぶちますよとか、なにかをしてあげない、勝ってあげない、という形の選択だと、それは強制になって子供の自由意志を尊重することにならない。子供に対して叱責、強制、脅迫、指示、命令が日常茶飯事になっている人は、ぜひ応用して見られたらいかがでしょうか。これは子どもに「かくあるべし」を押し付けることをやめて、自分で考え、自主的に行動できる子育てに変わることができます。
2014.10.11
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小さい子どもは思いついたことをすぐに口にする。ほしいものがあればタダをこねる。泣きわめく。本能のままに行動する動物のようである。これをそのままかなえてやればわがままな子供になるのは目に見えている。そうかといっていつもダメですと言って叱るのもどうかと思う。森田先生はこんな時どう対応されているのか。子どもが無理な駄々っ子をいって泣くときに、どうすれば、これをやめさせることができるかと、判断ができず、見込みが立たないで、迷いながら見つめていると、いつの間にか子供が泣き止む。こちらで解決のできぬうちに、子どものほうで自然に解決がつき、泣くときに対する最も正しき手段も、自ら分かってくるのである。教育のない親、さては教育のあり過ぎる母など、でたらめに誉めたり、叱ったりする。子供は決して、思う通りにならぬ。あまり自分の考え通りにしようとするから、少しも子供の心理を観察することができないのである。(森田正馬全集第5巻 323ページより)森田先生は、どうしたらわからない時は子どものいうことをかなえてやろうか、ダメだと言おうか、どちらにしようかと迷っているほうがよいといわれている。こういう時は、早計に子供の機嫌をとっておこうと過保護にするのもダメ。そうかといってわがまま言うのはダメよと叱りつけるのもダメだといわれているのです。こんな時は右に行ったり左に行ったりして迷っていればよいのである。「やじろべい」がバランスをとるために右に揺れたり左に揺れたりしているのをイメージするとよいのです。森田理論でいう精神拮抗作用の応用ですね。我々はそれを無視して、性急にどちらかに態度を決めようとしますが、その態度は修正しないといけません。その態度は「かくあるべし」の押しつけとなります。それと買い物などに子供を連れてくときは、子供と話をして今日はあなたの欲しいものは買わない。100円までだったら好きなものを買ってもよい。これが約束できるのなら買い物についてきてもよいけど、守れないなら家で留守番をしていてほしい。などと話しておくことが大切なのではないかと思うのです。これは親業でいう勝負なし法の応用です。これも生活の中で大いに応用できると思います。
2014.08.17
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元オリンピック女子マラソンランナーの有森裕子さんの、「初めて自分で自分を褒めたいと思います」という言葉は2013年4月23日に投稿しました。この言葉を森田理論で再度検証してみたいと思います。自分で自分をほめるということは、自分の中に二人の自分がいるということです。一人は理想や目標を持っている自分がいる。もう一方は理想像からはかなりかけ離れた自分です。現実の自分です。二人の自分の間にはかなりのギャップがあります。有森さんはオリンピックでメタルをとりたいという目標に向かって、一歩一歩努力をかさねて階段を上りました。その結果としてアトランタ大会では銅メタルを獲得しました。その努力に対して「よくぞ幾多の困難を克服して目標に到達した。途中くじけることなく、生の欲望のままに努力で来た自分は、称賛してあげてもよいと思う。」目標を達成した今は、何とも言えない幸福と感動を味わっているという気持ちになっておられたことだろうと思う。この場合は目標を持った一人の自分が、現実で苦労しているもう一方の自分にいつも寄り添い、励ましてサポートをしている状態にあります。生の欲望の発揮に合致している関係です。理想的な関係にあります。ところが、往々にして二人の自分という場合、一人が「かくあるべし」を持つ人間で、もう一方が現実でのたうち回っているという関係に陥ります。この場合は大きな問題が起こります。もし有森さんがそういう二人の自分を抱えていたとしたら、メタルを獲得することはできなかったのではないかと思います。常に「かくあるべし」を持った自分が、現実で物足りない、成績の伸びない自分を叱責しているからです。オリンピックでメタルを逃すような自分であってはいけない。メタルを逃すと世間に顔向けできない。生きて日本に帰ることはできない。などと自分を追い込んでいくと、自己嫌悪、自己否定感が出てきます。そうなると自己内省化が起こり、相手と戦う前に自分との戦いに終始するようになります。ほとんど勝ち目がなくなってしまいます。一般の社会でも、「必ず○○大学に合格しなければならない」「今月の売り上げ目標は100%必達させなくてはならない」「新規事業は必ず成功させなければならない」などという目標を掲げることがあります。でも現実に有名大学に合格する人はごく一部です。また、会社でもノルマを常にクリアーしていく営業マンはごく一部です。まして新規事業ともなれば成功率はかなり落ちます。大部分の人は目標が達成できずに悶々とした人生を生きているのです。その時批判の刃が自分に向けられると大変なことになります。戦争のとき、命を危険にさらして、最前線で相手と戦っているとします。それなのに後ろにいる上官が、もっと前に出て攻撃しろと拳銃で脅しているようなものです。二人の自分の関係は現実の自分に寄り添うのか、突き放してしまうのか。その後の展開は全く違ってきます。森田理論学習の過程で、その関係がスッキリと理解されてきます。ここはしっかりと理解したいところです。
2014.07.03
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ヨーゼフ・キルシュナーという人は「人にふりまわされずに生きる13の法則」の中で次のように言われている。重大な決断をするときは選択肢を2つ以上用意しておくことが大切である。具体的に片思いの例で説明されている。ある男性が女性を好きになったとする。その女性がいない生活なんて考えられない。もしふられたら、絶望して死んでしまいたいと思う。女性は、この男性の一方的でしつこい誘いにうんざりしてしまう。そして男性は気を引くために女性の言いなりになる。気持ちの余裕を失うだろうし、やたら嫉妬するようになるかもしれない。女性はいろいろ口実を作っては、男性からの誘いから逃げようとする。逆に男性は必死になって、女性を引き付けようとする。そのうち、男性はふられたことに気づく。絶望だ、自殺さえ考えるようになる。そしてこんなことになったのは相手の女性のせいだと考える。あるいは「ぼくはそういう運命なのだ」と思い込むようになる。だがこの男性がこんなふうに思い込むようになったのは、そもそも「付き合いたい女性」「好きな女性」が一人しかいなかったせいだ。もし2つ以上の選択肢を持っていたらどうだろう。無意味に絶望しないですんだだろう。幸せな人生をおくりたいなら、あまり一つのことを思いつめないことである。
2014.06.01
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私たちはみんな頭の中にものさしを持っています。そのものさしで他人と比べる。平均点と比べる。理想と比べる、昔の良かった時と比べる。自分自身を価値判断しているのです。それはすぐれている、劣っている。正しい、間違っている。それはよい、悪いと是非善悪の判定を下しているのです。劣っているもの、間違っているもの、悪いと判定されたものはすぐに改善命令を出しています。自分の現実を受け入れることはしません。現状を拒否、無視、抑圧、否定しているのです。自分の存在価値というものは見向きもされません。ものさしで測りなおして、優秀判定に変わるまで叱咤激励が続きます。どうあがいても改善できない時は自己否定、自己嫌悪に陥り、最後はあきらめに変わってきます。こうした態度は自分自身に向けられるだけではなく、他人にも向けられています。他人をも自分の物差しで厳しく判定しているのです。基準以下の人に対しては批難、叱責、説教、強制、脅迫などで追い込んでゆきます。森田理論でいう「かくあるべし」の押し付けです。また他人はそれぞれに違う物差しを持っています。そのものさしで他人を測っています。つまり自分のしていることと同じことを他人もしています。製図で使う三角スケールは100分の1、200分の1、300分の1というように違う縮小倍率の物差しになっています。自分の価値観を押し通すことは、それぞれの違うものさしを振り回して、チャンバラをしているようなものです。かみ合わないので人間関係が悪くなります。物差しを使わない。事実や現実、現状を先入観や価値判断しないでありのままに見る。こういう方向に切り替えることができると神経症の悩みは解消されるのではないでしょうか。人間関係も途端に好転してくると思います。森田理論は事実をよく観察する、事実を受け入れる、事実に従うことを目指しています。自分や他人の「存在価値」を大切にして、生の欲望を発揮することを目指しています。
2014.03.15
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神経質な人は完全主義、理想主義の人が多い。子供に完全主義を強要していると子供も完全主義になってしまう。夏合宿で、ある小学生の女の子がベットのそばから離れずにシーツを見守っていたそうです。それは他の子がきて布団の上に足形をつけるので、そのたびにしわをのばしていたのです。その子のお母さんはお父さんが新聞を広げてトイレに行って戻ってくると、きちんとたたんで整理していたというのです。そういうお母さんは子供のやることなすことが見ていられなくなるのです。口をついて出るのは「早くしなさい」「そんなことしてはダメ」「ふざけてはいけない」などです。そしてついに「かしてごらんなさい」といって自分でさっさと済ましてしまうのです。自分のイライラを解消してしまうのです。その結果子供は社会習慣の自立が遅れ、自立心が育ちません。依存的な子どもになってしまいます。会社などで完全主義の強い人は自分仕事を何回もチェックして仕事離れが悪い人がいます。また人に仕事を任せるということができなくて、自分が多くの仕事を抱え込み四苦八苦しています。頑張っているうちはよいのですが、そのうちプツリとキレてしまったり、すべてを投げ出したりします。また完全主義の人は不完全でいい加減な人を許すことができません。いつも不満をぶつけていますので当然人間関係がよくありません。そうした「かくあるべし」は自分を追いこみしんどいことです。他人も迷惑しています。早く森田理論でその弊害に気づいてもらいたいと思います。そうした自覚を持つということが出発点となります。
2014.03.08
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面白い実験がある。ビギナーのゴルファーに3秒以内にパットを沈めるように言うとなかなかうまく入らないそうだ。いくらでも時間をかけてもよいといったほうがよく入ったという。ところがベテランゴルファーは時間無制限にするよりも、3秒以内に時間制限をしたほうがよく入ったそうである。次の実験は、スイングに集中するとともに、スピーカーから流れる音の数を数えることを指示して気を散らすようにした。ビギナーゴルファーは入りが悪くなった。しかしベテランゴルファーは逆の結果となった。ベテランはスイングに集中するとパットの精度が低下し、気を散らせば精度が上がるというのである。これはベテランにはパットを沈めるということに意識を集中させるということが、思いのほか逆効果をもたらしているということである。「なぜ直観のほうが上手くいくのか」によると、ベテランの運動スキルは脳の無意識の部分によって実行される。そのために、動作順序を意識して考えることが妨げとなり、パットの精度に悪影響を及ぼすのだ。時間制限を設けるのは、スイングについてあれこれ考えさせないようにすることなのだ。気を散らす方法も同じ意味がある。人間の意識的注意は一度に一つのことにしか集中できない。そういう状況を作り出してやればよい。時間を無制限に与えると、ボールのライン、芝目、カップまでの距離と角度を読み、体の動きなどいろいろのことに意識が分散して、考えなくてもよいようなことまで詳細に検討する。気になることはなんとかして解消しようとするのである。つまり意識化が起こるのである。無意識だったらなんでもなく簡単にできたことが、意識化されたことによって集中が分散され体の動きに変調をきたしたのである。症状で悩んでいる人は、気になることにとらわれて常に意識化された状態である。それを無意識化させてゆけばとりあえず、泥沼からは這い出すことができる。森田理論は意識化されたとらわれを無意識の領域に忘れ去ることを目指しているのである。
2014.02.23
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2014年2月のソチオリンピック。日本はフィギア団体戦で5位だった。メダル候補だったのに意外な結果だった。これは満を持して送り出した浅田真央選手が3位に終わったことも一因だったかもしれない。浅田選手はソチオリンピックでは体調、モチュベーションとも申し分ない状態だという。ところがオリンピックの重圧に苦しめられて、緊張感で体が思うように動かないのだという。ソチを自分の競技人生の集大成と位置付けているために、最高の結果を残したいという気持ちが強すぎるのかもしれない。一瞬の迷いが競技を左右してしまうのである。無心になって淡々と今まで練習してきたことをそのまま出すというのはとても難しい。むしろストレスはあって当たり前。多少ストレスがあったほうが良い結果がでることが多い。重圧を抱えたまま、最後には自分の体の動きを信じる。無意識に体が覚えていることを信頼する。途中で「もしうまくゆかなかったらどうしよう」という気持ちは沸き起こらないのではないかと思うが、意識を捨てて無意識の演技に身を任せることができるのか。これが勝敗を分ける大きな分岐点ではないのか。日本人は大きな大会に普段の力を出せずに涙を呑むことが多い。特に短期決戦、瞬発力を要求させる競技に弱いような気がする。これは意識を封印し、無意識の感覚に身を任せることができないことからくるのかもしれない。そうだとすると、ただ単に練習だけを繰り返すのではなく、たとえばイチロー選手など無意識の大切さを認識しているアスリートを臨時コーチに招いて、無意識を信頼する方法を伝授してもらうことではないだろうか。緊張感から解き放されて、普段の力をそのまま出せば、浅田選手は個人競技では金メダル候補だといわれている。浅田選手は大きな大会で修羅場を何度も経験している。いつものように平常心になって、無意識の演技ができることを期待している。
2014.02.12
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近藤千恵さんという方が子どもに「かくあるべし」を押し付けると、子どもは次のような対応をするという。反抗、恨む、仕返しをする、嘘をつく、告げ口をする、非難する、弱い者いじめをする、対抗する、柔順になる、ご機嫌とりになる、同調する、想像の世界に逃げる。親がいつも指示、命令、強制、脅迫で子どもに対応していると決していいことはありません。しだいに子どもは、親に無条件で従い、いつも親の顔色をうかがいながら生きていくようになります。また中学生ぐらいになると、乱暴で注意しても聞かなくようになり手に負えなくなることもあります。小さい時、柔順でおとなしくて、よい子は決してよいことではありません。親の意見に従っていても、自分で考える力や創造力は育っていないのです。これは大きな問題です。しだいに依存性を高めて、人の言うことしかできない、また人の言うことをまっているという人間になってしまいます。これは人間というよりもロボットのようなものです。「かくあるべし」を子どもに押し付けることはとても不幸なことです。こんな短歌があります。「学校に母がいたら便利だろ あれもやらして これもやらして」またこんな子供は反抗期になって親に反発するようになると、客観的に自分の意見を親にぶっつけて、正々堂々と自分の意見を主張するのではなく、反対のための反対をするようになるのです。そして親が右往左往するようになるのです。
2014.01.12
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他人に自分の「かくあるべし」を押し付けないために、リフレクションという手法があるそうです。とても簡単で自分の生活に応用できます。相手に不満を感じている人が、その不満を相手に話します。普通はあなたメッセージで話すことが多いかもしれません。「あなたはどうしてゴミをだしてくれないの。家事を分担してあげるとあなた言ってたじゃない。約束を果たしてよ」これでは喧嘩になります。その時「私メッセージ」で私を主語にして話します。例えば妻が夫に「あなたが私の代わりにゴミ出しを手伝ってくれたらうれしいんだけどね」といういい方です。次にこれを聞いた人の対応。相手が話したことの要点を掴んで、そのまま口に出して相手の話の内容を繰り返すということです。「僕がごみを出すと君は助かるんだね」と返すのです。これがリフレクションです。最初から自分の希望や気持ちは言わない。「僕だって朝は忙しいんだよ。」「それぐらい主婦の仕事だろ」なとどとは決して言わない。まずは相手の話す内容を繰り返すというだけのことです。こうゆう気持ちで相手に接しようという気持ちがあると、「かくあるべし」で自分の意見のおしつけということがいったん押さえることができます。相手の話を最後まで、よく聞いていないと適切な返答はできません。歌舞伎でも落語でも「間」を大事にしますが、この方法は人間関係の「間」にあたるものです。「間」を大切にすれば潤滑油の効いた機械のように人間関係は好転します。森田理論でいうと「かくあるべし」で指示、命令、強制などは差し控えるということです。
2013.11.26
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昔、西田敏行がでていたコマーシャルで、「今やろうとしていたのに言うんだもんな」というのがありました。西田敏行はユーモアに変えて返せるのでまだ救いがあると思います。普通は自分で今まさにやろうとしていたことを、突然親や先生に「早くしなさい」などと言われるとムカつくことがあります。反対に反発してやる気がそがれてしまい、そっぽを向けてしまうこともあります。これを森田理論で考えてみよう。もともと人間にはこうしなさいといわれると、それに反発して、反対の行動をとることがあります。パチンコ好きな夫に、「家計のことなんか考えずに、給料は全部パチンコで使ってもいいのよ」等といわれると、いくらパチンコが好きでも抑制しようという気持ちがでてくるようになっている。これは森田理論でいう精神拮抗作用である。もともと人間に備わっている精神の調整作用のことである。これが第一の理由。第二に、人間はちょっとした事件や出来事に遭遇すると、逃げたいとか何とかしたいという感情が湧き起ってくる。それに基づいて行動を起こすようになっている。事実に直面する。感情が発生することによって積極的、自主的行動につながっている。そういうプロセスを踏まない状況で、指示、命令、脅迫によって行動を強制されるということは、苦役以外の何物でもない。自主的、積極的、建設的行動には結び付かないのである。森田では「かくあるべし」を人に押し付けると、自分の思いとは反対の結果が待ち構えているという。まさにこのからくりなのである。
2013.10.25
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日本人は「頑張れ」という言葉がよほど好きなのだろう。日本語の「頑張れ」は、「耐えろ」「現状に甘んじるな」「休むな」という意味で使われることが多い。自分が自分を鼓舞している言葉ではない。他人が自分を脅している言葉である。ちなみに英語には「頑張れ」にあたる言葉はないそうです。自分で見つけた目標に向かって努力してときは、はたからみて頑張っているように見えているだけで、本人の気持ちとしては楽しんでいるのである。頑張れという言葉は、他人が「かくあるべし」という目標をその人に設定して、そこに無理やり追いこんでいるのである。その人を追いこむ言葉です。本人にしてみれば、自分自らやる気になったことや、楽しいこと、気力が満ちている時は頑張れるのである。反対に人から指示・命令されたこと、苦しいときや、意気消沈している時は頑張れないのである。それも自分の事実なのである。病院で余命いくばくもない人に「頑張って」と励ます。手術の前にも「頑張って」、麻酔が切れて痛みがでてきたのに「もう少し頑張れ」と言って励ます。頑張りたくても頑張れないのに、まだ頑張らなくてはならないのだろうか。私は頑張るか頑張らないかは本人に任せたらよいと思う。私たちのできることは、興味が起きるようにいろんなことを体験させたり、見せたり、聴かせたり、匂わせたり、味わったり、触れさせたり、情報を教えてあげることにとどめるほうがよいと思う。
2013.09.11
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自分がこれから勉強しようとしていた時に、突然親から、「テレビばかり見てないで、宿題しなさいよ」といわれると、急に勉強する意欲がなくなることがある。これはなぜだろうか。森田でいう「生の欲望」にのって勉強を始めればよいと思うのだが。これは指示、命令、批判されることに対して、人間は拒絶反応があるのだと思う。それは自分が今現在勉強をしていないという事実を否定されるからだと思う。自分の行動の事実を他者から否定されることは、そこに他者との間に軋轢を引き起こすのである。どうすればよいのだろう。一つの例として、この場合、「お母さんは、あなたが早く宿題を済ませてくれるとうれしいんだけどな」と自分の気持ちを伝え、あとは子供に任せる気持ちが大事だと思います。森田学習でいう私メッセージでの対応です。押しつけとか、体罰とか、義務感で行動をさせることはできても、継続することは困難です。自分が自ら目標に向かって努力しようと思わない限り、困難に打ち勝って前進することはできない。この例では、「かくあるべし」を子供に押し付けることによって、勉強しようという意欲を摘み取ってしまったのである。「かくあるべし」で叱咤激励すればするほど、才能は伸びてこない。むしろ本人をダメにしてしまう。肝に銘じておきたいことである。
2013.09.03
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自分の子どもや会社の部下、親や配偶者の話を最後までよく聞かずに、途中で話の腰を折ってしまうことがあります。聞いている本人は、最後まで聞かなくても相手の言いたいことは大体よく分かる。自分の方が経験も知識も豊富なのだから自分の方が正しい。聞くことよりも、是非善悪の判定をして、正論を教えてやる。指示、命令、禁止、強制でもって相手を導く。これらの気持ちが強いのでしょう。そうすると子供や部下はすぐに反発してきます。自分を理解しようとしない自分勝手な人だと思います。しだいに敬遠するようになるでしょう。こんな人は森田理論学習をして、応用してもらいたいと思います。まずそんな人は価値判断や是非善悪の判定の前にする事があります。自分いいたいことを言う前にまず「一呼吸置く」ようにすることです。相手に対して、「今言ったのはこういうこと」「私はあなたのおっしゃったことをこうゆうふうに理解しました。これで間違いありませんか」と確認するということです。相手の言葉を翻訳してみるといってもいいでしょう。オオム返しに確認するという態度です。これをはさむことによって、子供や部下に「かくあるべし」を押し付けることをとりあえず回避することができます。相手は「そうだ」「それは違います」というでしょう。相手には自分の考えをさらにまとめる時間的余裕が与えられます。話が途切れずに次につながってゆきます。これがなぜいいのかというと、本来人間の主体的行動というのは、段階を踏んで初めて可能になるからです。まず事件に遭遇したり、体験したりして事実をよく確認します。すると感じが起きてきます。感じが高まると、次に「こうしたい」という意思が働いてきます。その意志が高まることによって、最終的に行動へと結びついてゆくのです。他の人が行動を強制するとどうなるか。状況を確認し、感情の発生や高まりというプロセスを無視して、いきなり行動を迫るということになります。つまり主体的、自主的な行動に結びついていかなくなります。「かくあるべし」を押し付けることの弊害はここにあるのです。これは意識すれば修正できることです。
2013.09.01
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早川さんの提起した問題を私はこう考える。3つの視点から考えて見た。これはすでに投稿したものの再考である。一つ目は精神拮抗作用である。○○しなさいといわれるとそれに対して反対したい気持ちがでてくる。森田ではこれは元々人間に備わった自然現象であるという。確かに大酒飲みの夫に対して、奥さんが、「二日酔いになるぐらい好きなだけ飲んでいいのよ」などといわれると、いわれた本人はおいそれと飲むことはできなくなる。そういう反応が我々には元々備わっている。まず一つ目の理由によって、本人のやる気はそがれる。二つ目。本来人間の行動は、まずそのきっかけとなる外部の出来事があり、次にそれに対して感情が湧いてきて、最終的に自主的、積極的な行動へとつながります。たとえば、1「火事になった」、2「身の危険を感じた」、3「急いで逃げる」という流れになります。また、1「腹が減った」という出来ごとに対して、2「ご飯をたべたい」という欲求が湧いてきます。それから3「食事を作るか食べに行く」という行動が発生します。つまり「食べる」という行動には「腹が減った」という動機が関わっています。でも動機が直接的に行動へと結びついているわけではありません。あくまでも「ご飯を食べたい」という「自分の感情の発生や意志の力」が介在しているのです。ここで注目していただきたいのは、人間が生きていく上において、「動機の発生」、「感情の高まり」はとても大切なのです。森田理論で学んでいるとおりです。自主的、積極的、創造的行動においては、必要不可欠なものといえます。ところが「かくあるべし」でこうしなさい、ああしなさいと他人からの指示を受けて行動するということは、「動機の発生」もない、「感情や意志の力もない状態」で、いきなり「行動を押し付けられる」ということになります。本来は感情を介在させることで自主性や積極性が生みだされるのです。それが抜け落ちてしまうのです。これが早川さんの言う、人から言われてやる気がうせてしまう第2の理由です。三つ目。これが一番大きな原因だと思う。相手が自分で課題を見つけて、自然に動き出す前に、安易に指示、命令、批判、説教、非難、叱責をするということは、相手を自分の家来のようにして扱っているということです。私は相手のためを思って忠告しているのだといっても、客観的にみるとそうなっているのです。つまり主従関係にあるということです。主従関係は力の強いものが一方的に相手をコントロールしようとしている事です。このような人間関係は普通ではありません。いつかは破綻します。それはコントローされているほうにひずみがたまり続けるからです。地震のひずみの蓄積を思い出してください。いつか一気にそのひずみが解放されて、大惨事になることがあります。これが「かくあるべし」を会社、家族、子供、友人たちの人間関係に持ち込むことの3つの弊害です。「かくあるべし」は自分自身にとって神経症の原因を作りだし、自由で活き活きとした生活を奪ってしまいました。そういう人は他方で、「かくあるべし」を自分の縁のある人に押し付けて、多大なご迷惑をおかけしているのです。森田理論でそのからくりに早く気づいてほしいと願っております。
2013.07.21
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森田正馬全集5巻409ページより、森田先生の言葉早川君の話の中に、自分のしようと思っていることを、人から言われるといやになるということは、例えば、我々が、子供の時でも、自分が掃除をしている時に、親から、ついでにここも掃除するようにといわれるとか、あるいは、いま学校の復讐をしようと考えているとき親から同じことを指図されると、せっかく自分のしようと思っていたことが、すっかり張り合いがなくなってしまう、というような経験はいくらもある。これが「犬も頼めば、糞を食わぬ」という心理であって、当然自分の力でやるべきことを、それが人の力になり、その人の支配下に立つようになる。我々の生命の喜びは、常に自分の発揮にある。抱負の成功にある。富士登山を遂げて、歩けないほど足が痛くなったとしても、自分の損得にかかわらず、喜びと誇りを感ずるのは、「努力即幸福」という心境であるのである。これをもとにして、次の投稿では「かくあるべし」押し付けはなぜだめなのか。3つ方向から考えてみたい。
2013.07.21
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新潟大学の安保徹医師の免疫学の話はとても面白い。また役に立つ。素人にもわかるように文庫本をたくさん書かれていますので一冊読まれることをぜひお勧めします。安保先生は、薬は毒だといわれます。薬づけの医療が次から次へと病気を拡大させているとも言われます。また副作用のない薬はない。しかしほとんどの人は薬が病気を治してくれていると思っている。もし大学病院の医師ががんになったとしたら、自分のおこなっているがん手術、抗がん剤治療、放射線治療を選択するだろうか。手術をしなかったら余命6カ月。手術を受けたら5年以上といわれて、手術を受けても6カ月以内に亡くなる人が後を絶たないのはどういうことでしょうか。安保先生の本から森田に関連することを書いてみます。花粉症などのアレルギーの人に抗ヒスタミン剤が処方されます。もともと人間の体からヒスタミンがでてくるには理由があります。それは血管を開いて痒みを出したり、異物が体についたという異常を知らせる役割を担っているのです。異物を洗い出すために、ヒスタミンが血管を開きます。それがかゆみや腫れと言った症状です。つまり分泌物がでて鼻水がでたり、涙を出して洗い流すのがヒスタミンの役割なのです。ヒスタミンは決して悪いものではなく、体の防衛反応なのです。今の医療は抗ヒスタミン剤を使って対症療法をしています。そのいやなかゆみや腫れをとり、鼻水や涙が出ないようにしようとしているのです。抗ヒスタミン剤を使ってしまうと、せっかく出そうとしている反応を止めてしまいます。しかし治ったと思って薬を止めるとまた症状が出ます。また抑えにかかる。薬の耐性がなくなると、また強い薬で抑えにかかる。そうやって症状から脱却できない身体になってしまうのです。これは精神交互作用によって神経症が悪化する過程と一緒です。安保医師は、花粉症になりやすい人はリンパ球体質であるといいます。神経が過敏な状態です。つまり白血球の顆粒球とリンパ球のバランスが崩れているのです。リンパ球過多になっているのです。甘い物好きや運動不足がこの体質を助長しています。つまり最終的には生き方の問題です。生活を見直すことが大事です。といわれています。
2013.07.11
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○○したい、○○でありたいということと、○○であるべきだ、○○でなければならないという言葉はよく似ていますが、全く相いれない反対のことをいっています。天動説ほどの違いがあります。ここはしっかりと理解してほしいところです。まずこの言葉を発している人の立っている場所が違います。前者は現実の自分とともにあります。後者は雲の上のあたり、はるか上空に立っています。次に見ている方向が違います。前者は下から上を見ています。後者は上から下を見下ろしています。また前者は「生の欲望を発揮」して一つ一つ目標をクリアーして成長し続けることができます。後者は「かくあるべし」に縛られて、現実の自分や他人を否定してしまいます。そして葛藤や苦悩を作り出して神経症に陥り、生活の悪循環が始まります。これを「思想の矛盾」といいます。森田理論では多くのキーワードがありますが、その中でも、もっとも大事なキーワードの一つは、「かくあるべし」と「思想の矛盾」だと思います。森田理論の学習をされると、この大きな認識の誤りを正すことができます。
2013.07.09
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対人葛藤を生む原因の調査によると、次の4つがダントツであったそうです。1、相手が平気でルール違反をする。2、相手が全くの期待はずれである3、自分のプライドを損傷傷つけた4、相手のために欲求不満に陥ったまず2は子供が自分の思っていたようにしないと期待はずれとなる。また会社では部下がノルマを達成してくれないと、その部下は期待はずれとなる。「かくあるべし」が強い人は、他人が、自分の理想とかけ離れたことをすると期待を裏切ったとみなして、不満がたまっていく。そして指示、命令、叱責で相手をとことん否定してしまう。対人葛藤を減らそうとすれば、森田理論の学習をする必要があると思う。1のルール違反であるが、これも日常生活でいくらでも経験することである。無理な割り込みをする。約束を守らない。黄色信号、赤信号を無視する。借金を踏み倒す。貸してあげたものを返さない。挨拶を返さない。夜中に騒音を出す。ゴミ出しの決まりごとを守らない。町内会の役をすっぽかす。授業中に私語が絶えない。等々身近に癪に障ることはたくさんあると思います。身近な例をあげて考えてみましょう。約束の時間になっても友達が集合場所に現われないというのは、典型的なルール違反である。この約束違反は、場合によっては自分にとって期待していた楽しみや利益が失われるという事だから、損害を受けたという事になります。だが事はそんなに単純なものではない。それに加えて、3のプライドを傷つけられたという事がプラスされてとてもイヤな気持ちになるのである。むしろこちらの持つ意味が大きい。約束を反故にされたという事は、相手が自分のことを軽視している。大切な友人だとは思っていないという事の証明ではなかろうか。反対に相手を大切にして、重要視していれば30分前から集合場所に行って待つことは別に苦とは思わないはずだ。1は単独ではなく3と合体してなんともいえない不快感となるのである。つまりここでいいたいのは、いつも約束を破っている人は、他人の立場に立って物事を考えることができない人ということになる。という事は、「かくあるべし」を前面に出して、他人を非難、叱責、指示、命令で動かそうとしている傾向が強く、森田理論の核心部分の事実本位に相手を見ることはとてもできそうにもないということになります。他人にそのように接するという事は、自分に対しても自己否定の枠から完全には抜け出ないで停滞を余儀なくされるということになります。
2013.06.22
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部長で定年退職した人が、用事があって会社に顔を出したところ、以前の部下がそっけない態度をして腹が立ったという話を聞いた。受付で不当な対応を受けたというのである。昔の地位や権力の名残で、待遇に対して丁重に大事に扱われてしかるべきだという意識があったのだと思う。対人恐怖で苦しんでいる人は、いつもそんな状態を期待して現実とのギャップに苦しんでいる。我々は部長さんのように昔の栄光を持っているわけでもない。画家、音楽家、俳優、スポーツ選手のように能力を持っていて、注目されるのが当然というような存在でもない。それなのに自分はすべての人からどこまでも大切に扱われ、重要人物として一目置かれるように期待している。ここが普通の人と大きく異なるところである。普通の人は、その時対応する相手が、自分をどのように扱かうかという事を、事前に自然な行為として予測している。予測以上に対応してもらうと喜び、予測以下だと自尊心が傷つけられ、腹が立つのである。たとえば、社長室を訪ねた時、「ちょっと、その件はあとにしてくれ」といわれて腹が立つ人はいない。そのように対応されるかもしれないことを予測しているからである。反対に、部下が、「いま忙しいので、その件はあとにしてください」といわれれば途端に機嫌が悪くなります。部下は上司である自分を、何はさておき丁重にもてなしてくるべきだという予測を立てているからである。こんな例はいくらでもあります。普通の人は時と場合に応じて、自然に臨機応変に切り替えながら生活しているのです。それが当たり前になっています。これに対して神経質者はすべての人から丁重に扱われることを期待しています。こんな違いがなぜ発生するのか。これは神経質者が強固な「かくあるべし」を持っているからである。人から常に高評価をされなければならない。バカにされてはいけない。等と現実離れした高い自己評価をかってに設定して、そのように相手が自分を取り扱ってくれることを期待している。思想の矛盾に苦しんでいるのである。「かくあるべし」を減らして「事実本位」に少し切り替えてゆくことが大切です。
2013.06.20
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欧米と日本の「かくあるべし」教育は違いがあります。欧米の「かくあるべし」は、○○してはいけない。つまり「禁止」です。タブーを犯してはいけないという「かくあるべし」です。だから「禁止」された事以外は、基本的に何をしてもよいという考えなのです。目をつぶりますから、どんどん興味のあることには挑戦してみなさいという事です。自由の幅が大きいということになります。日本の「かくあるべし」は、○○しなければいけない。指示や命令に従わせるという「かくあるべし」です。指示された事以外はしてはいけないということになります。自由自在に手を出してみるという事は、基本的には許されません。そしてきちんと指示、命令に従って行動しているかどうか監視されています。日本の「かくあるべし」は身動きがとれなくなり、窮屈になります。ストレスがたまってゆきます。そのストレスをためたままにしておくと自己崩壊してしまいます。そのストレスを解放する過程で多くの問題が噴出してきます。欧米は対人恐怖の人は日本人に比べて少ないといわれています。また、日本に多いいじめの問題はないそうです。これは「かくあるべし」のちがいからくるのかもしれません。
2013.06.13
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森田では「事実本位」ということを口がすっぱくなるほど言います。だが森田理論を学習して「かくあるべし」体質を、「事実本位、物事本位」の体質に変えなければならないというような大それた考えはやめた方がよい。そんなことはできない。難しい。そもそも多くの人は「かくあるべし」体質は生まれてこの方20年以上もかけて身につけたものである。身体の芯から染みついているのです。過去を変えることができないのと同じように、自分の体質は変えることはできません。その体質を抱えたまま生きていくしか方法はないとのです。森田理論を学習する人はなんとしても症状を克服したいという強い意志を持っている。しかしその願いはかなえられることはないでしょう。ではどうしたらよいのでしょう。できることは、自分は変えることはできないという事実を認めることです。そうした状況を自覚することです。すると結果として自分を救うことが出来るのです。逆説的なことをいいますが、救われることはないという事実を正しく認識することが、結果として自分が救われるという事なのです。変な理屈かもしれませんが、これが真実なのです。事実本位でどんな事実も認める、受け入れるということができれば、「かくあるべし」はどんどん小さくなってきます。その方法論は事実を4つに分けて、それぞれの心構えやノウハウは今まで投稿してきました。しかし、それが先行しては、逆に「かくあるべし」がさらに強化されることになります。つまり「かくあるべし」を小さくしてゆくためには、強い「かくあるべし」を持っている自分がいるという自覚を深めるということが出発点です。基本的にはこの出発点に立たないと先には進めないということです。「かくあるべし」の実態、どうして「かくあるべし」が生まれてきたのか、そうした人間の特徴、葛藤や苦悩の現実等などの学習は欠かせません。
2013.06.10
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今日集談会に参加して二次会の居酒屋で貴重な話を聞きました。私はこの居酒屋での懇親会で役立つ話を聞くことが多く、欠かせないものとなっています。私は田舎に親が亡くなり、誰も住んでいない家を管理しています。その庭に芝生の庭が6坪ぐらいあります。さざんか、きんもくせい、かいずかいぶき、柊もくせい、ユズリハ、まき、つつじ、シャクナゲなどを植えています。どの木も大きくなりました。生垣としてレッドロビンを植えています。レッドロビンはすぐに成長しますが、剪定バリカンで何とか対処できます。でも芝生の雑草には手をやいています。管理できないのです。雑草を引っこ抜いたり、草刈り機で刈り取ったりしています。それでも次から次へと雑草が生えてきます。憎らしいぐらい生えてきます。私は当初芝生を植えてゴルフ場のような芝生、野球場のような芝生、ヨーロッパの庭園のような芝生をイメージして庭作りを考えていました。でも結局うまくいきませんでした。雑草に手をやいて、ついに芝生を止めてコンクリートで固めて、上に砂利を敷こうかと考えていました。今日聞いた話では、ゴルフ場の芝生は大変手入れもされてきれいにみえます。しかし実態は何種類もの除草剤を散布して、雑草を退治しているとのことでした。そのおかげで、周辺の住民はとても大きな被害を受けているらしいのです。それであんな芝生が保たれていたのか。初めて気がつきました。これはゴルフをする人も影響を受けないはずはないと思います。考えてみればヨーロッパのように植物があまり育たないところで、生命力の強い芝生を育てるにはよいかもしれません。日本のような高温多湿なところで、どこからでも雑草の種が飛んで来るところでは無理なことです。日本は初夏から秋にかけて雑草が次から次へと生えてくる土地柄です。そんなところでそもそも無理をしてヨーロッパのまねをして芝生を植える必要があったのかということです。人間の勝手な思いつきで、芝生を植えることは後でさまざまな問題を発生させて、植えた本人が苦しむことになるのです。日本で芝生を栽培することは少々無理があるということです。それならむしろ雑草を思う存分生やして、その中に我々の食料となる植物を植えて共生させればよいのではないのか。と考えさせられた次第です。まだ考えがはっきりとしたわけではありませんが、考えるきっかけをいただいたことに感謝したいと思います。
2013.06.09
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親鸞聖人の歎異抄に、「善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや」という有名な言葉があります。普通に考えるとこれは反対ではないのかと思います。これを私なりに森田理論で考えてみました。ここでいう悪人とは殺人犯人のような人のことではありません。浄土真宗でいう悪人とは、自分の力で仏になるべき能力や資質が備わっていない人のことを指しています。つまり浄土真宗はどんな教えかよく分からない人、あるいは理解できるような能力がないような人のことを言っています。これを森田の言葉で翻訳してみると、強力な「かくあるべし」を身につけて、なかなか事実を受け入れて、事実に服従することができない人のことではないでしょうか。そうゆう葛藤を抱え、現実の生活の中で苦しみ、のたうちまわっている人の方が救いようがあると言っているのです。言われてみればそうです。そういう自分を自覚することができれば一番に救われるといっているのです。自分や人に「かくあるべし」を押し付けて、感情を自分の思うままにコントロールすることに対して少しも心が痛まない人は、救う事はできません。救いようがありません。そうした自覚がないからです。森田の学習をしていない神経質者は、いつまでもこの自覚が育ちません。つまり救いようがないということです。森田理論を学習すると、自分は強力な「かくあるべし」を身にまとっている。それが我々の動きをがんじがらめにして、自由な動きをとめている。その自覚が芽生えてきます。もしはっきりとした自覚がないようでしたら、自覚を持てるように森田理論学習を深めてゆきましょう。必ず生きづらさの裏には強力な「かくあるべし」を持っていることに気づくと思います。「かくあるべし」はどのようなことをいうのか。「かくあるべし」はどのようにして発生してきたのか。「かくあるべし」にとりつかれた人間の特徴。「かくあるべし」と苦悩の始まりなどです。事実を受け入れる生き方などです。自覚したからといって、すぐに「自然に服従する」という態度が身につくわけではありません。しかしその自覚をはっきりと認識できるかどうかが、神経症から解放されて、事実本位の生活態度を身につけるための出発点となります。
2013.05.29
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私は保育所から大学を卒業し、その後趣味や資格試験までいろんな先生について学んできた。一番印象に残っているのは「社会保険労務士受験」のためお世話になった先生である。当時先生は73歳であった。今考えると「生の欲望」を発揮せずにはおれないような圧倒的な迫力があったのである。おかげでその一年はとても充実していた。その先生はガイダンスのとき、教科書をバラバラ分解して、パンチで穴をあけて二穴のファイルに綴じて来いと言いました。そしてバラバラにした教科書の間に白紙のノートをはさんで来いと言いました。そこに学習したことを書いたり、間違った問題を貼りつけたりするのです。そして最初の授業で指示したことをやっていない人の教科書を破りすてました。その人はとても腹を立てていました。その他にも私語をしている人にチョークは投げるし、指名されてモタモタしていると叱り飛ばされました。普通はそんな先生だと教育委員会に訴えてやると腹を立てると思うのですが、私は全然そんな気は起りませんでした。それは先生の我々を思う熱意が強く伝わってきたからです。他の人もそうだったようです。また、録音機を買って講義を録音して、通勤途中で聴くように指示されました。またFAXを持っていない人は設置するように命じました。するとFAXに試験問題をひっきりなしに送ってきて、すぐに送り返すように指示されました。生活指導も徹底していました。この一年間アルコールは口にするな。夫婦生活は控えろ。テレビは見るな。早朝の時間の使い方。昼休みの時間の使い方、夕方から夜の勉強の仕方。授業では必ずテストをして順位を公表されました。それが励みになりました。そのうえ名物講師だけに指導内容は素晴らしいものでした。終わってみれば、30名近くを合格させていました。合格者を集めて先生の自腹で「かに道楽」で祝ってくれたのが懐かしい思い出です。つい安楽な方に流されがちな我々を、常に目標からそれないように、ほめたり、なだめたり、叱咤激励したりそれはいままで経験した事のないような指導でした。一つの教育指導の在り方として、深く心に残っています。今の教育は体罰はいけない、勝利至上主義はいけないなどと枝葉末節な議論ばかりのような気がします。子供が育ち、自立してゆくために教育者はどんなお手伝いができるのだろうというような議論はできないのでしょうか。
2013.05.28
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世界選手権の男子400m障害で2度、銅メタルを獲得。シドニー、アテネ、北京五輪に出場し、2012年に引退した為末大さんの話です。スポーツ界には努力をすれば、必ず成果となってあらわれる。でも選手個人では努力し続けることは難しい。だから監督やコーチが選手を怠けないように管理することが大切だという考えがある。その考えのもとで指導者は、選手を管理していく。つまり指示、命令、叱責で追いこんでゆくのである。これは森田理論でいう「かくあるべし」の押しつけであると思う。為末さんの経験では、自発的に自分が苦しい練習に耐えた場合には成長があります。しかし、他人に押し付けられて耐えることは、「忍耐の習慣化」となり、成長にはつながらない。我慢してイヤイヤながらやった練習は、成果が上がりにくい。また、そうした選手は、他人がさぼったりして楽をしていると許すことができなくなる。自分がこんなに苦しんでいるのに、その人は苦しんでいないから腹が立つのである。為末さんは体罰禁止の流れが加速する中で、気になることがあるという。中央で決めた一方的な体罰抑止の方針がすごいスピードで現場に下りてくる。こういうふうに決めたからこれに沿って指導者は指導を改善し徹底するようにというやり方である。そうゆう上位下達の手法が体罰的ではないのか。つまり指導者、監督、コーチだけではなく、スポーツ界全体が「かくあるべし」の押しつけ指導の温床となっている。我々でいえばこれで神経症にならない方が不思議である。もっといえば家庭での子供の教育にしても、会社での上司の部下に対する対応にしても対して差はないのではないかと思うのである。
2013.05.27
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本来人間の行動は、そのきっかけとなる外部の出来事があり、それに対して感情が湧いてきて、積極的な行動へとつながります。たとえば、「火事になった」「身の危険を感じた」「急いで逃げる」という流れになります。また、「腹が減った」という出来ごとに対して、「ご飯をたべたい」という欲求が湧いてきます。それから「食事を作るか食べに行く」という行動がでてきます。つまり「食べる」という行動には「腹が減った」という動機が関わっています。でも動機が直接的に行動へと結びついているわけではありません。あくまでも「ご飯を食べたい」という「感情や意志の力」が介在しているのです。だから、人間が生きていく上において、「動機の発生」と「感情の高まり」はとても大切なのです。ところが「かくあるべし」でこうしなさい、ああしなさいと他人からの指示を受けて行動するということは、「動機」もない、「感情や意志の力もない状態」でいきなり「行動を要請される」ということになります。本来は感情を介在させることで自主性や積極性が生みだされるのです。それが抜け落ちてしまうのです。最近の子どもたちは指示待ち人間が多いといわれます。それは親の「かくあるべし」教育が影響しています。「勉強しなさい」「早く風呂へ入りなさい」「部屋をかたづけなさい」などと親や先生が指示を出してそれに従がわせる教育がおこなわれています。一見素直でよい子が育つように思いますが、とんでもない間違いです。とても危険な兆候です。感情を介在させないために自主性や積極性が育ってこないのです。指示に慣れた子供は、指示がなくなった途端に何をしていいのか分からなくなってしまいます。これは人間の見世物として動物に曲芸を教えるようなものです。そうして子供を育てていると、子供自身自分の中の欲求や感情、判断力に信頼がおけなくなってくるのです。人の指示、命令に頼りおどおどした無気力、無関心、無感動な人間になってしまいます。指示、命令、批判で人を動かすことは、神経症の子どもを作り出すようなものだと思います。森田理論では「かくあるべし」の発生と苦悩の始まり、事実本位、物事本位の学習でそのことを深めて学習してゆきます。
2013.05.25
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ノミのジャンプ力はものすごく、人間でいうと霞が関ビルを軽く飛び越えてしまうくらいだそうです。その意欲、積極性、力を奪う方法があります。一匹のノミをガラスコップに入れて上にふたをします。ノミは逃げようとジャンプしますが、上のふたに突き当たって落ちてしまいます。ノミは必至で何回もジャンプします。ノミが上のふたにあたって、フラフラになり、小さな心を痛め、まさに落ちようとするときに、「何をやっているんだ」「おまえはなにをやってもだめだ」「これ以上救いようがない」と実にタイミングよく、ノミを批判して、軽蔑してやるのです。疲れたノミにさらに「もっと気力を沸き立たせて、何回もチャレンジしなさい」とけしかけてやるのです。イヤイヤながら飛んで落ちるだびに、さらに情け容赦なく罵声を浴びせかけるのです。それを継続するのです。そのうちノミは「ああ僕はダメだ。」意気消沈して、自己嫌悪で苦しむようになります。劣等感の塊になり、少ししか飛べなくなります。こうして自信を喪失して、不安でおろおろし猜疑心の強い人になってしまうのです。そうしておもむろにふたを取って自由に飛んでもいいよと優しく声をかけてみるのです。もう決して自由自在に飛ぶことはありません。飛ぶ力がほとんど残っていないのです。これはエピソードですが、このような調教を自分の子どもに強制したり、配偶者や親兄弟、他人などにしていることはありませんか。また第三者にその人のダメなところを面白おかしく話すようなことはありませんか。神経症の人は人からもしそのような対応をとられると、ものすごいストレスで生活が停滞してきます。でも人の心の痛みは無視して、平気で非難したり人に暴露したりすることがあります。痛みを感じることができないのです。ここは意識して態度を変えてゆきましょう。人に対して自分の「かくあるべし」は絶対に押し付けないという覚悟を決めて生活することが大切だと思います。今までの投稿で説明してきましたが、「かくあるべし」には4つの視点で見ていくことが必要です。その中でもこの対人的な「かくあるべし」を減らしてゆくのが一番取り組みやすいし、効果がでてくる部分だと思います。これが軌道に乗れば、不快な感情の事実、ふがいない自分自身の事実、理不尽な自然災害、経済変動などの事実によい意味で波及してきます。
2013.05.14
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さて本題に入りましょう。さて本題1は、自分自身で自己肯定、自己評価を高めること。そのためには、1、神経質の性格特徴の学習をして驚きました。私はずっと神経質性格はどうしようもないダメな性格だと思っていました。実際会社で採用担当の仕事をしていた時、性格診断で神経質性格は一番に落とすことといわれていました。でも森田理論の神経質性格の両面性を学習してみると、神経質性格ほどはぐくみあいのある性格はないと思うようになりました。これを理解すると自分もまんざら悪いところばかりではないと認識できるようになります。ぜひ性格特徴を学習して自分を再評価してください。2、趣味、目標、専門分野を持つ。趣味や大きな目標を持って生活すると、苦しいときの自分を救ってくれます。ぜひ、趣味や大きな目標を持ってもらいたいと思います。好奇心にそっていろいろと手を出していると、きっと見つかると思います。私もそうして、試行錯誤をしているうちに生涯にわたる趣味や目標を見つけることができました。これを実践すると、意識が内向した状態から外向的に前向きに変化してくるのです。次に高良先生は、10年一つのことに取り組んでいけば、ある程度その道の専門家になれる。そうなれば人間関係は気にならなくなるといわれています。3、今日一日に全力投球をする。生活の発見会の集談会で出会う人で、毎日同じ時間に同じ家事や仕事をするという人がいます。規則正しい生活をしている人です。その家事や仕事は森田先生の言われている「ものそのものになる」という実践を愚直に実践されています。その人の話や行動を見ているといつも感動を受けます。4、温かい、軽い人間関係を出来るだけたくさん築く。コップ一杯の人間関係よりも、コップに少しだけの人間関係をたくさん作るようにしてください。発見会の仲間、趣味の仲間、同級生、親戚、町内会、スポーツなど少し行動を広げれば多くの人と知り合う事ができます。利害関係の強い仕事などの人間関係ばかりだと、つまずいた時すぐに孤立してしまいます。次に本題2は、他人に対して「受容と共感」の態度を身につける。1、感謝をする。またたとえば内観療法を受けてみる。奥さんの誕生日に100の感謝の言葉を額におさめてプレゼントした人がいました。長年連れ添っているとお互いの悪い面が目についてきます。それを口に出していると、とても居心地が悪くなります。内観療法は「相手にしてもらったこと」「相手にしてあげた事」「相手に迷惑をかけたこと」を集中的に自己内省することです。これらは感謝を通じて「受容と共感」力が高まります。2、人の役に立つことをする。生きがい療法の伊丹先生は、人に温かい言葉をかける。ちょっとしたものをプレゼントする。物を貸してあげる。自分の労力を提供する。自分の持っている知恵、情報を提供してあげる。人の話を聞いてあげる。挨拶をする。等々小さいことをいつも探して実行することが大切だといわれています。森田先生も自分がいくら間抜けだといわれようが、人に役に立つことをする態度が大切だといわれています。3、私メッセージの活用。これについてはいろいろと投稿してきました。参考にしてください。「かくあるべし」人間から「事実本位」の態度を身につけるためには必須です。以上きわめて簡単ですが私が取り組んでいることです。この二つが自分の生活の中で定着してくると、自己否定が少なくなり、他人否定が少なくなります。これは結果として、やむなく足止めしたままの子供の成長の段階を追体験することになり、これらが少しでも身についてくれば、自分の気持ちの変化、生き方の変化が起きてきます。みなさんもぜひ体得してみてください。
2013.05.01
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先に説明した子供の3つの成長段階はもう一度やり直すことはできません。その前提に立ってできることはこれからできることは何か。それは社会適応を拒んでいる問題点を少しだけ減らしてやって、苦しみを軽減して、自立して社会の中で生き抜く力を得ていくことだと思います。全く社会生活から逃避してしまうのではなく、少し適応力をつけていくという事です。完全主義を目指すと、思想の矛盾で苦悩が発生してのたうち回るようになります。少し生き方を緩めてやる、そのスタンスでやっていくと生きていけるという力に変わります。ここで私が大切だと思う事は、次の2点です。まず自分を否定しないで、ありままの自分を認めてゆけるようになること。次に他人に対して、「かくあるべし」を押し付けないで、「受容と共感の態度」で接することができるようになること。なんとか社会から落ちこぼれないで、社会的役割を果たし、自立して生きていくために、森田理論学習から学んだことはこれです。私はこれを生活の中で実践することで、ずいぶん楽になりました。これ以外にもあるかもしれません。それはみなさん自身で整理してみてください。そして私にも教えていただきたいところです。本題に入る前に、私は人の上に立つことは不向きだと思っています。リーダーになったり、会社で部下を持つことは向いてないと思っています。いままでの書いてきたことで分かってもらえると思いますが、その資質がないのです。能力がない事は、努力で補う事はできません。実際管理職になってみて思ったことは、私は注意が自分に向きやすい。人から攻撃された時、いつも弱い相手には攻撃をする。実績の上がらない部下を攻撃していました。恐ろしい上司からはできる限り逃げていました。優れたリーダーを見ていると、その人もしんどいだろうなと思うときに、相手の立場になって考えられる。自分のきついのは横において、親身になって部下を指導したり、励ましたり、とことん付き合う事が出来るのである。どこまでも部下の味方になれるのである。自分を犠牲にするのはあたりまえ、人の喜ぶ姿、成長する姿を見るのが何よりも楽しみだという人が、いい管理職、よきリーダーだと思います。私みたいに自己中心で、自己保身にはならない。私みたいな人がリーダーになったりすると自分もしんどいし、それ以上に相手に迷惑をかけている。これは後から得られる能力ではないと思っている。だからどうにもならないことは手を出さない方がよいと思う。だから、そうゆう立場はなるべく避けている。森田理論学習の先輩にすごい人がいるが、その人ものらりくらりしながら断っているという。同じようなことを考えている人がいるのだなと思った。
2013.05.01
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子供の3つの成長の発達段階を踏んで大人になっていない人は、体は大人になっていますが、心理的には幼児のままというジレンマがあります。それは成長段階を乗り越えていないと、そこで足踏みをして先に進めなく、停滞してしまうからです。多くの親は子供の教育の学習はしていませんので、自分なりにそれぞれ思い思いに子育てをします。心身とも立派に成長して、社会に適応して、自立してくれればよいのですが、必ずしもそのようにはなりません。むしろ子育ての途中でいろいろと問題がでてきます。それが一般的です。私たちが神経症に陥った原因の一旦もあると思います。問題を抱えて大人になった人が、それにどう向き合っていけばよいのでしょうか。まず一番大切なのは、その事実をよく観察して、その過程を正しく認識することです。親の教育を非難することではありません。ましてや自己否定を深めていくことではありません。自分の立ち位置、状態を正しく掴んで自覚を深めていくという事です。3つの成長過程で親との関わりはどうであったのか。うまく関わりを持てて一つ一つクリアーできていたのか。問題があったとすれば、どの段階でどういう状態であったのか。その結果として現在噴出している現象はなんであるのか。以上をよく整理してみることです。私の場合について書いてみます。私の場合は特に父親との関係がうまくクリアーできていない。父親の私への接触は、非難、説教、命令、指示、禁止、叱責を前面に打ち出していました。そして中学生のころから、手に負えないと思ったのか、子供のことは一切母親任せで、放任主義を貫いていたようです。男の子の場合、成長過程における父親との接触は大変重要です。父親によって、男のたくましさを身につけます。社会への適応力、勇気、責任感、協調性、積極性の基礎を学びます。私にはこれらを学ぶ機会が閉ざされていました。その結果、いじめられても反発したり逆襲を企てたり、あるいは一杯喰わせたり、相手を懐柔させたりといった手練手管を用いることなく、ただ耐えるだけ、我慢するだけの人間になってしまいました。耐えて我慢する生活はストレスがたまります。そういうストレスが積もり積もって他人を怨むようになります。またそうした困難な状況から逃避するようになります。引っ込み思案になり、孤独な生活に甘んじるようになります。これでは協調性、リーダーシップは育ちません。大人になりある程度会社などで過ごしますと、責任ある立場に立たされます。そんな人にとって多くの人をまとめて、指導して育てて、組織の目標達成を目指すなどという仕事はとてつもなく苦痛になります。さらに親の後ろ盾がないと、何か問題が起きた時は、自分で自分の身を守らなくてはいけません。本来は目的に向かって突進して、問題を打開してゆくべきなのに、自分を守ることに汲々としてしまいます。親に見放された状態は不安です。積極的で自主的な行動にはなりません。意識が内向化して、自分のことに自信が持てません。つまり自己否定、自分嫌いに陥ってしまいます。親の指示命令でイヤイヤ動いていると、自分は我慢してやっているという心理状態になります。もし仮に他人がそれをやらないと、とても他人を許すことはできません。他人に「かくあるべし」を押し付けるようになります。他人との間に軋轢が生まれて、他人が嫌いになります。他人は敵。他人を怨むようになります。長くなるので、続きを書きます。
2013.04.30
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友達から次のような相談を持ちかけられた時、あなたならどう対応しますか。「中学3年生になった娘と昔みたいに話ができなくなって、なんだか気まずいんだよな」思い浮かぶ答えとして、「うちの子の場合もそうだったよ。」「だいたい、中学3年の娘が父親にべたべたする方がおかしいんじゃないの。」「態度が悪い子は、時にはガツンとやった方がいいんだよ。」「今は反抗期なのよ。放っておけばまた元に戻るよ。」「グレたり、非行にはしらないようによく見ておかなくてはね。」「お宅の子どもに限っては大丈夫でしょう。」同じ質問を銀座のナンバーワンホステスに聞いてみました。自分がその問題を解決してあげようとは思わないようにしているということでした。お客は、そんな話を望んでいないことをよく心得ているからだといいます。ただひたすら「そう」「それから」「で?」「ふーん」と相槌を打ちます。たまに「そう、娘さんがねえ」などと言います。いわゆる「復唱」、話を「促す」ことに力を入れます。上半身はきちんとお客に正対していて、少し前傾しています。お客は、その相槌だけで、話を聞いてくれるんだと感じ、親身になってくれているんだと感じます。お客は、最終的には、「まあ、もう少し様子を見てみるか、母親とはうまくやっているんだし、不良っていうわけでもないんだし」などと自分で勝手に「答え」を出して着地するのです。この対応は集談会でも応用したいことです。こちらからこうしらたよいと自分の考えを述べることは、それが正しいことであっても、相手が望んでいることではありません。相手は自分の話を受け入れて、耳を傾けて聞いてくれる人を求めているのです。話しているうちに自分で解決策を発見することができれば最高です。
2013.04.29
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「かくあるべし」で相手の弱点や欠点、ミス、失敗などを指摘する人は刑事のような人です。いつも相手がぼろを出さないかと手ぐすね引いて待っている。それを見つけると自分の出番が来たかのように積極的に出動するのです。ぼろを掴むと今度は、相手の弱点や欠点、ミス、失敗などの是非善悪を裁判官になり変わって価値判断する。そして最後には罵倒したり、相手をこき下ろす。刑の執行官までかって出るのである。一人の人間が刑事、裁判官、刑の執行までするようになります。餌食になる人はたまったものではない。このように追い込まれれば水蜜桃のような人間の心はすぐに壊れてしまいます。無気力、無関心、人に対して不信感を抱き、人を恐れ、怯えるようになります。相手を責めれば責めるほど、相手はさかんに言い訳をし、弁解するのである。また、嘘をついたり、ごまかしてなんとかその状況を脱しようとする。これをもし仮に罪を許してあげると、叱られた相手は悪いことをしたという気持ちが残り反省してなんとか償って帳尻を合わせようとする。反対に罪を許さないで懲らしめたり罰を与えるということになると、最終的には罪は罰によって相殺されて、一件落着となる。そうすると、自分のしでかしたミスや失敗は棚にあげて、相手に叱られた事だけを恨みに思い、また同じようなミスや失敗を重ねるのである。これは森田先生が、皿を落として割った人がミスの言い訳をすると、自分が許してもらいさえすれば、その件は片がついたと思い間違いをして、また同じ過ちをおかすと言っています。
2013.04.18
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斎藤茂太さんが王貞治さんと対談された時のこと。「王さんはホームランを打とうと思って打つのか。それとも自然に打てるものなのか。」と質問された。王さんは、「ホームランは打とうと思って打てるほど簡単なものではない。ホームランを打とうと意識するとボールが見えなくなる。」といわれたそうです。ここでホームランが欲しいという場面がある。当然世界の王選手である。球場全体がホームランを期待している。でも、期待にこたえて、ここで一発ホームランを打とうという意識が強くなると、途端にボールが見えなくなる。ホームランはおろか凡打なってしまうことが多かったというのである。これは本来外向的注意が内向してくるからだと思う。これは森田でいう、「この場面ではホームランを絶対に打たなければならない」と自分にプレッシャーをかけて追い込んでいくと、その思いとは反対の結果がでるという「思想の矛盾」のことではないだろうか。反対に練習だけは十分にしておいて、ピッチャーの特徴を洗い出して、狙い球をしっかり絞り、これで駄目だったら仕方なしと割り切って打席に立つ方がよりよい結果がでるのではなかろうか。私は老人ホームの慰問でアルトサックスを吹いています。これは楽器の演奏でも同じであると思う。練習では徹底して100%の出来になるように、指使いを練習します。出来ないところは何回も繰り返します。そして問題がないか仲間にチェックしてもらいます。練習で100%出来ないものは決して本番ではやりません。その段階で本番を迎えます。本番前には必ずウォーミングアップを行います。これは、運動の選手が競技前に必ず行っているのと一緒です。そしていよいよ出番です。出番前はとても不安です。時には逃げ出したくなる心境になります。でも舞台に立つとそんなことは忘れています。ここまで準備をしても、悲しいかな本番で必ずしも完璧にできているかというと決してそんなことはありません。いつも80%から90パーセントの出来です。それが普通です。だから今では100パーセントの練習をして、あとは運を天に任せるという気持ちでやっています。それを以前はいつも完璧でないとダメだと思って、自分にプレッシャーをかけていたため、かえって結果がよくなかったのです。それは少しでも間違えると気が動転していたからだと思います。自己否定していたのです。今は失敗する自分も許すことができます。練習は完璧にして、本番は楽しむという心掛けがちょうどよいようです。
2013.04.13
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イチローのスランプ脱出方法が面白い。イチローはスランプのときベストの状態を思い出さないことだという。苦しいときに一番よい状態を思い出すと、理想の状態と現実との大きなギャップを感じて余計に苦しくなるという。これは森田でいう思想の矛盾の回避ですね。普通の選手は好調時のフォームなどをビデオに収録して、それを見ながらスランプ脱出の手掛かりにしているという。イチローの場合は、良くも悪くもない普通の状態、つまり中間地点を修正の参考にしているという。バットの状態が常に完璧でないといけないというような選手は、野球の世界では長くはやっていけない。外的要因によるそれなりの誤差に対応できる技術を備えるべきだという。我々に置き換えてみると、完全主義、理想主義で自分を追いつめてゆくと、現実とのギャップに苦しみ、手も足も出なくなってしまいます。目標は達成可能な少し努力すればできるところに置けば、やる気も出てくるし、達成すれば自信にもなります。かくあるべしに力点を置くのか、かくある自分に力点を置くのかの違いだと思います。
2013.04.04
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長野県諏訪中央病院に鎌田實医師がいる。チェルノブイリの救援活動のため全国を講演活動されているので、お話を聞かれた方もおられると思う。その鎌田医師の著書に、「がんばらない」という本がある。病院に知的障害者の書がかかっている。その中にこの「がんばらない」というのがあるそうです。僕ら医療者が重症な患者さんや末期の患者さんについ口に出してしまう言葉が、「がんばろう」「がんばりましょう」という言葉であるという。この言葉に勇気を奮い立たせる患者さんがいる半面、今まで精一杯頑張ってきた、そして末期を迎えた患者さんにとって、頑張れという言葉はやりきれない言葉である。こうこれ以上頑張れないときにこの言葉をいわれると絶望感が襲ってくるのである。お母さんが子供たちによくいう言葉の一つが、「もっとがんばりなさい」という言葉である。これは悪気はないのだが、頑張らなければいけないという、「かくあるべし」を患者さんや子供たちに押し付けているのである。ある患者さんから、この言葉は不思議な勇気を与えられるといわれたそうです。「あなたはあなたのままでいい」「競争しなくてもいいですよ」といわれているようだ。と言われたそうです。病気と闘わなければならないという「かくあるべし」重圧から解放されて、肩の荷が下りるそうです。確かに本人が目的や目標を見つけ出して、少しでもそれに近づこうとすることは大変意義があることです。その努力が生きるという意味かもしれない。ところが他人が、人に向かって、「あなたは頑張らなければいけない。」などと声高に叫ぶことは、「かくあるべし」の押し付けであって思想の矛盾に苦しむ。百害あって一利なしと心得たいと思います。
2013.03.21
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部屋の掃除をしようとしていたら、お母さんがきて少し部屋を掃除しなさいよといわれた。先ほどまでやろうとしていたのに急にやる気がしなくなることがある。風呂にそろそろ入ろうと思っていたのに、早く風呂に入れといわれると急に入りたくなくなる。この原因を考えてみた。3つほど分かったことがある。一つ目は精神拮抗作用である。○○しなさいといわれるとそれに対して反対したい気持ちがでてくる。森田ではこれは自然現象であるという。確かに大酒飲みの夫に対して、奥さんが、二日酔いになるぐらい好きなだけ飲んでいいのよ。といわれると、いわれた本人はおいそれと飲むことはできなくなる。そういう反応が我々には備わっている。二つ目。自分が自ら課題、問題点、興味の対象を発見して、行動を起こそうとすることはとてもうれしい。だから積極的になれる。自ら発見した楽しみを味わうことができるからである。ところが自分の思いついたことを、他人も発見していて、他人からその行動を強制されることは苦痛以外の何物でもない。たとえば囲碁や将棋をしていて、他人の指図通りさして仮に強い相手に勝ったとしても少しも喜びは起きてこない。また迷路遊びしていても他人が教えてくれた道をたどって出口までたどり着いたとしても全く嬉しさは湧いてこない。自力の発揮がないからである。反対に余計なお世話をしてと反発心がわいてくる。お母さんが、子供が難しい問題にぶつかった時、子供に先駆けてその困難を取り除いてしまうことは、子供の自力の発揮、自ら問題を見つけて乗り越える楽しみを奪ってしまうことになる。心しないといけない。3つ目。これが一番大きな原因だと思う。相手が自然に動き出す前に安易に指示、命令、批判、説教、非難、叱責をするということは、相手を自分の家来のようにして扱っているということです。相手を自分の思うようにコントロールしようとしている。相手を信頼して任せることができない。相手が問題点を見つけて、乗り越えようとするのを待ってやることができない。つまり相手を見くびって、言って聞かせないとダメでのろまでどうしょうもない人間であると決めてかかっているのである。普通の人は、そんなふうに自分のことを否定されて黙ってはいられないはずだ。本来人間は自分のことを大事に扱ってほしい。味方になってほしい。認めてほしいという強い欲求を持っているのである。その欲求をはなから否定されては立つ瀬がないのである。非行に走る子は中流家庭の子が多いそうである。その子たちは親に自分のほしい物を買ってほしいとせがむ。親は愛情の証として子供のほしいものを買い与える。それでも万引きをする子供がいる。それは子供たちのほしいものは実は品物ではなく、親の子どもに対する心遣いなのである。親の愛情なのである。そのことを物と勘違いしているために、多くのすれ違いが起きているのである。
2013.03.14
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先日ある女性の方がガソリンスタンドに行った。すると従業員がポケットに手を突っ込んでいた。すぐ飛んできて挨拶をしない。教育はどうなっているのかというのである。その人がスーパーに行った。レジの係の人の対応が無愛想でとても許せない。一言、「おたくはよくそれで仕事がつとまりますね」と皮肉を言ってやったというのです。よく聞いてみると、買い物に行っても、外食に行っても、旅行に行っても、係の人に横柄な態度をとっており、主人からさえもちょっとおとなしくしておれといわれることがあるという。この人を観察していると、住んでいるマンションの中で孤立していることが分かった。奥さん同士で話し相手が一人もいないのである。最近では被害妄想的なことを口走ったり、私はうつになりそうだなどと言う。私が感じるのは、その方はとても人からよく思われたいという気持ちが強い人だと思う。最初入居したときは出会う人と親しく世間話などをしていたのであるが、人から自分の言ったことを否定されたり、非難されたり、軽くあしらわれることが何回も続くうちに、自分は受け入れてもらえない、自分は孤立していることにとりつかれたのではないか。そうゆう不満をお金を払っているというお客という立場を利用して、ストレスを発散しているのではないか。そう理解すると、この人の取り組むことは、人からよく見てもらうように、できるところから少しずつ人の役に立つようなことをすることである。そうすれば将来少しはましになるはずである。人がわがままな自分を丸ごと受け入れてくれるべきだなどと「すねて」いるとますます孤立してくると思う。
2013.03.02
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土居健郎に「甘えの構造」という本がある。日本人の甘えの心理について的を得た説明である。ほめてもらいたいのにちょっとしたミスをして叱られた。こんなに頑張っているのに、評価してくれない。ねぎらいの言葉もかけてくれない。ミスや失敗をした時、慰めてくれない。説教され、挙句の果てには無能力者呼ばわりされた。自分の気持ちを察して、大目に見て甘えさせてほしいのだけれども、甘えさせてくれなかった。冷たく突き放された。被害者意識がある。ここには、自分自身や自分の引き起こしたミスや失敗を、ありのままに認めるという態度ではない。それらをなかったものとして受け入れてほしい。いや、受け入れてくれるべきだという気持ちが見て取れる。つまり虫のよい甘えである。さらにいえば、人から賞賛を浴びるために努力して成果を出す。何かを成し遂げるといった積極的な姿勢を見せることがない。ここに森田理論でいう「かくあるべし」と現実のギャップに悩む病理が発生するのである。最終的には、甘えたいのに甘えられないと、「すねる」「ひがむ」「ひねくれる」「うらむ」という心理が生まれ、そこに被害者意識が生まれるという。土居氏によれば、素直に甘えさせてくれないから「すねる」ことになる。「ひがむ」のは、自分が不当な扱いを受けたと曲解するわけだが、それは自分の甘えのあてが外れたことに起因する。「ひねくれる」のは、甘えることをしないで相手に背を向けることだが、それは自分の甘えの期待にこたえてくれなかったと感じることによる。甘えが拒絶されたということで相手に敵意を向けるのが「うらむ」である。人に甘えて依存することから、「生の欲望」に目覚めて、その流れに乗っていく立場が森田理論のよって立つ土台である。
2013.03.02
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