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山崎房一氏の「心がやすらぐ本」(PHP研究所)の79ページに、「小さな幸せ ほんとうの幸せ」というのがあります。この世の中には二つのタイプの人間がいます。その一つは大きな幸せの中にいながらその中の小さな不幸のみを見つめていつもブツブツ言いながら不幸せに生きている人もう一つは大きな不幸の中にいながらその中の小さな幸せだけを見つめていつも幸せに生きている人です宇野千代さんも同じようなことを言われています。幸福のかけらは幾つでもあるただ、それを見つけ出すことが上手な人と 下手な人がある山崎房一氏も宇野千代さんも、日常の生活の中で小さなことで感動できるような人になりませんかと提案されています。私もこの考え方に大賛成です。普通は大金を使い刺激的な大きな感動を追い求めていることが多いのではないでしょうか。時々カンフル剤的な興奮や楽しみや喜びを追い求めるのも人生の醍醐味の一つです。それを否定する理由はなにもありません。ここで言いたいのは、そのような興奮、楽しみ、感動を味わうだけではなく、日常生活の中でごく小さな感動や喜びを感じることができないと、人生はむなしく味気ないものになってしまうということです。日常生活の中で何か問題点や改善点はないかと注意や意識を向けていると、様々なことに気づきや発見があります。物事本位の生活の中で小さな成功体験を積み重ねることができます。そういう生活を続けていると、感覚が鋭くなって、路傍のコンクリートの割れ目から小さな可憐な花を咲かせている植物にも感動できるようになると思います。水槽の中を勢いよく泳いでいるメダカを見るとつい嬉しくなってしまう。ベランダで咲き乱れる季節の花、丹精込めた自家用野菜の生育などもかけがいのないものになってきます。
2025.12.01
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諏訪中央病院の名誉院長の鎌田實先生のお話です。人生は面白いこともいっぱい与えてくれるけれども、一方ではどんなに恵まれた人にも必ずどこかで苦難を与えられるんじゃないかと私は思うんです。そして、その人生が与えた苦難に対して敬意を払えるか、握手することができるかが、生きる意味になってくるのかなと思います。(人間学を学ぶ月刊誌 致知 2024年11月号 18ページ)この言葉には、共感、感動しました。私は対人恐怖症で随分苦しみました。今でも苦しんでいます。会社での人間関係で躓いて、胃潰瘍になりました。病気で緊急搬送されて、入院したこともありました。私の周りには、ガンや難病で闘病中の人が多いです。離婚して孤立し、経済的に困窮している人もいます。認知症になったり、生活習慣病を抱えて四苦八苦している人もいます。老々介護で生活がままならない人もいます。そんなときどうして私だけがこんな目に遭い、七転八倒しなければならないのかと、運命を呪うようになるのではないでしょうか。不平不満、愚痴の一つでも言いたくなります。親、境遇、環境、運命を否定し、人生に対して投げやりになります。現実を否定しているとますます惨めになるばかりです。自分だけではなく、周りの人にも悪影響があります。考え方を変える必要があるのではないでしょうか。鎌田實先生の言葉に対して私は次のように思います。順風満帆な人生を送ってきた人は、一見幸せな人生を送ってきたように思いますが、果たしてそうでしょうか。取り組むべき課題や目標が何もなかったということは、悩むことがないかも知れませんが、人間として成長することはできませんし、人生の喜びや楽しみも味わうことができません。苦難を受け入れて、打開策を探して立ち上がった人は、困難を乗り越えて人生の醍醐味を味わうことができるかもしれません。好むと好まざるにかかわらず、人生には苦難はつきものです。苦難を非難、否定しないで受け入れ、打開策を求めて立ち上がるしかありません。たとえその途中で力尽きたとしても、苦難に立ち向かったという事実は残ります。森田で言う「努力即幸福」というのはこのことをいうのではないでしょうか。鎌田先生の言葉は座右の銘として大事にしたいと思います。
2025.12.02
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柏木哲夫医師のところに39歳の女性が子宮がんの末期で入院してきた。その方には10歳の女の子と4歳の男の子がいた。衰弱が進み、残り時間が少なくなったときに、子どもにお母さんに面会させるかどうかが問題になった。ご本人も、ご主人も、叔母さんも面会することには反対だという。私立の中学受験を目指して、塾通いをしながら勉強している女の子にショックを与えたくないと言うことらしい。父親は最終的には私が責任をとりますと言い切った。子どもたちには、お母さんは病気で入院して治療を受けているが、治療が終われば退院できるからと説明していた。その1週間後容態が急変して母親は亡くなった。女の子は「お母さん、お母さん」と大声で叫びながら、お母さんに取りすがって泣き出し、いつまでも泣きやまなかった。それから1ヶ月、女の子は学校を休んでいたという。受験どころではなくなった。その後精神科医の治療やカウンセラーによる箱庭療法で2ヶ月経って学校に行き始めた。柏木医師は、「心の準備なしに母親の死に直面することは、10歳の女の子にとって、あまりにも告であると思う。死が近いことを告げることはつらいし、それを知ることはつらいけど、そのつらさよりも、心の準備なしに母親の死を迎えることの方がずっとつらく大変だと思う」(死にざまこそ人生 柏木哲夫 朝日新聞出版)最終的に向き合わざるを得ない悲しい事実に対して、当たり障りのない対応で先延ばしして、その事実を突然突きつけられると、心の準備ができていないので、いつまでも悲しみが消えていかない。むしろ、その悲しみはますます増悪して立ち直るのに時間がかかることになる。時には立ち直ることができなくなる場合もある。この女の子の場合も、病院に行って病気と格闘しているお母さんを目の当たりにしていたとすれば、その間少しずつ心の準備ができたのではないだろうか。悲しい感情は、事実に向き合い、普段から涙を流して悲しむことで少しずつ浄化されてくるという。それは涙にはストレスの原因となるマンガンを体外に排出する作用があるからだという。眼をそむけたくなるような、悲惨な事件や自然災害はいつどこでも起こりうることです。普段からリスク管理をすることが大事ですが、それでも対応不可能なことはいくらでもあります。人事を尽くした後は、好むと好まざるにかかわらず、潔くその事実を受け入れるしかありません。特に悲しみという感情は、事実から目を背けないで、きちんと向き合い味わうことです。
2025.11.30
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阿久悠さん作詞の「北の宿から」を、森田理論を踏まえて考えてみたい。あなた変わりは ないですか日毎寒さが つのります着てはもらえぬ セーターを寒さこらえて 編んでます女心の 未練でしょうあなた恋しい 北の宿吹雪まじりに 汽車の音すすり泣くよに 聞こえますお酒ならべて ただ一人涙唄など 歌います女心の 未練でしょうあなた恋しい 北の宿あなた死んでも いいですか胸がしんしん 泣いてます窓にうつして 寝化粧をしても心は 晴れません女心の 未練でしょうあなた恋しい 北の宿この歌詞について、歌手の淡谷のり子さんが怒っていたという。「何なのよ、あれ、別れてしまった男のセーターをまだ編んでるなんて、みっともないでしょう」辛口審査員として鳴らした淡谷のり子さんらしいコメントです。阿久悠さんは、このコメントを聞いて、全く反論しなかったという。普通この歌詞を見ると、別れた男性に未練たらたらで、なんとかよりを戻したいという耐える女性を連想させます。私の思いを推し量ってどうか私のもとに戻ってきてください。私はどうしてもあなたのことをあきらめきれないのです。どうか私の願いを聞き届けてください。私はいつまでもあなたが私のもとに戻ってくるを待っています。この見解に対して、阿久悠さんは「饒舌の世代と寡黙の世代」と題するシンポジュームで反論している。この女性がセーターを編むのも、寝化粧をするのも、徳利を並べるのも、すべてセレモニーなのだ。一時は分かれの悲しみに身をやつそうとも、セレモニーを終えれば、悲しみと決別して新しい人生に旅立っていく。すべてこの女性は自分で判断し決断し、過去の人生をリセットするのだ。この歌詞の中で、「女心の未練でしょうか」とは書いていません。「女心の未練でしょう」と書いている。ここがポイントです。歌詞に「か」があるのとないのは大きく違う。歌詞に「か」が入ることで他者に答えを求める依存する女になるが、「か」がなければ自己判断する女性になる。ここでは、「女心の 未練でしょう」と自己判断する自立した女性をイメージしているのです。一度でも心を通い合わせた男女が分かれることは、辛いことだと言っているのです。特に女性の場合はそうです。阿久悠さんは、この女性を決して過去の男性に未練たらたらで、悲壮感に満ちた女性として描いているのではない。セーターにしたところで、編み上げたらポイとだれかにあげて気持ちにケリをつけることを想定していた。心の整理をつけ、けじめをつけたいという女性を想定していた。今までの楽しかった彼との生活にきっぱりと決別するためにはセレモニーが必要だったということです。すべての過去を断ち切って、新たな人生を切り開いていくための儀式を一人で行っていたということです。彼女の頭には、いまだに断ち切りがたい思いも確かにある。しかしそれにすがってばかりでは、自分の人生は終わってしまうかもしれない。切なく苦しいけれども、彼との関係は終わったという事実を改めて受け入れて、明日からは新たな旅立ちにしたい。そういう内容の歌詞なのです。淡谷さんのように表面的なところだけ見ていると、この歌詞に含まれた深い内容は分からないのです。森田理論と突き合わせてみましょう。彼とはどういう理由で分かれることになったのかはわかりません。性格の不一致、自分勝手な行動、金銭トラブル、生活の行き詰まり、相手の背信行為など様々な原因が考えられます。このような場合、普通は相手の非を訴えて示談にする。あるいは家庭裁判所の審判を仰いで、慰謝料で解決という流れになるかもしれません。自分のことは棚に上げて、相手の上げ足をとって、自分の有利な展開に持ち込むことばかりを考えるようになります。最終的にはそういうことも必要になるでしょう。ただここで森田が言いたいことは、別れることになったという事実にどう立ち向かっているかということです。将来の生活や子どものことを考えると、受け入れがたい事実かも知れません。でもそういう現実をつけつけられたとき、覚悟をきめ、けじめをつけて、その理不尽な事実を受けいれることができるかどうか。ここが運命の分かれ道です。その事実を受けいると、相手を罵倒し続け、いつまでも相手に未練を抱いたりすることはなくなります。そのエネルギーを自分の将来の生活設計、子供の養育などに振り向けることができるようになります。離婚という試練を乗り越えてもう一回り器の大きな人間として成長できることになります。下降ばかりの人生が、事実にきちんと向かい合うことで、上昇に転じるというきっかけとなります。反対に事実に反旗を翻すことになりますと、自分の人生は恨みつらみで暗澹たるものになります。(阿久悠 詞と人生 吉田悦志 明治大学出版会 159ページ参照)
2021.04.21
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山崎房一氏の詩のご紹介です。経済的に破綻すれば、誰も助けてはくれない他人に対する親切も、自分を確立してこそできる自分の人生は、自分のためにあるだからどんなに犠牲を払っても、自分の生活基盤は自分の力で確立しなければならないひとは、自分中心に生きるのが自然だ利己的に生きるのではない自分中心に生きないから集中力を失い他人の思惑に支配され、自己統一ができない自分中心に生きることが罪悪だと思っていた私は他人と自分との板挟みになって苦しんできたしかし、自分中心に生きるのは当たり前のことだと知って私はようやく自分をつかむことができたのです他人からも自由になって自立できたのです(心がやすらぐ本 山崎房一 PHP研究所 151ページ)山崎房一氏は他人中心に生きるのではなく、自分中心に生きていくべきだと言われています。まずは自分と自分の家族の生命を維持し長生きすることが最大のミッションとなります。依存して生きていくのではなく、自立して生きていくことが肝心です。そのためには最低限の必要な食料を確保することが欠かせません。食料はできるだけ延命を図りたいと願っている動植物の命を頂くことです。命を奪われる動植物にとっては理不尽なことですが、すべての生き物は食うか食われるかというギリギリの攻防の中で生を紡いでいるのがまぎれもない事実です。そういう相矛盾する関係の中で、他人や他の動植物とどう折り合いをつけていくのか、人間に問われているのだと思われます。次に、他人の気持ちを思いやることは尊いことですが、その前に自分を思いやることが大事になります。自分の気持ち、感情、気分、思考、欲望、欲求、夢などにきちんと向き合うことが肝心です。しかし自分の気持ちなどを優先すれば、利己的で、自己中心的で、わがまま放題のことばかりして、人間社会は大混乱に陥ってしまうと考えがちです。歴史を振り返ってみると、人間は戦いや戦争を繰り返してきました。このままの状態が続けば、人類の滅亡から逃れることはできません。これについて森田理論では、両面観の考え方が重要になると言っています。いくら自分の気持ちを優先したいと思っても、目の前の相手を無視して押し切ることはできません。森田では自分の気持ちは「主観的事実」と言います。これに対して、他人の気持ちや考え方は「客観的事実」と言います。森田では主観的事実を大事に取り扱うことはもちろんですが、他人の客観的事実を無視してはいけない。両者の間に隔たりがある場合は、話し合いによって妥協点を探ることが必要になります。用意に溝が埋まらない場合は、性急に結論を出さない方がよい。時間の経過が薬になるという考え方をとったほうが賢明です。時には譲ったり、時には譲られたりの関係を築くことが肝心です。自分の気持ちを抑圧して、相手に合わせてばかりというのは、アドラーのいう支配ー被支配のタテの人間関係に陥ってしまいますので注意が必要です。森田の両面観、バランス、調和の維持という考え方は、森田理論の核となる考え方の一つです。
2025.11.10
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イスラエルの建国後、キブツと呼ばれる農業共同体で、ある革新的な子育てが試みられた。子供たちは子供の家で暮らし、専門のスタッフが昼も夜も交代で子供たちの世話をしたのだ。母親は授乳の時間にだけやってきて、それ以外は職場に戻って働いた。開墾や農作業などに多くの人手を必要としたため、女性の労働力が子供に奪われないように、子育ては効率化されたのだ。ところが、この試みは、思ってもみない副作用を生むことになる。愛着が不安定な子供が急増しただけではなく、大人になってからも同じ傾向が見られたのだ。愛着が不安定な人では、対人関係の問題を抱えやすく、情緒不安定な傾向や親密な関係を避ける傾向が見られた。専門の職員が交代で世話をするといった方式は、効率的ではあるが、子どもの側の事情を無視したものだった。子どもに必要なのは特別な存在との関わりだった。必ずしも親でなくてもいい。特別の存在が、その子が必要とするとき、いつでもそばにいて、その子の求めに愛情を持って答えてくれさえすればよいのだ。キブツの教訓は決して遠い国の話ではない。日本でも生活のため、あるいは何らかの理由で母親が働かざるを得なくなって、生まれてすぐに子供を保育園に預けるというケースが増えている。その結果、子供と一緒にいる時間が少なくなっていく。このことが子供達のその後の成長過程の中で、神経症を発症させたり、うつなどの神経障害、パーソナリティー障害、発達障害などの問題を生じさせている可能性がある。ハリー・ハーロウは愛着の形成が子供の成長や発達において、命にかかわるほど重要な問題だということを示した。アカゲザルの子供は、母親がいないとほとんど育たず死んでしまうしかし、母ザルの人形を作って与えると、子ザルはその人形に抱きついて、どうにか育つことができる。抱っこしてつかまれる存在が、生存のために栄養と同じくらい必要なのだ。ハーロウは、柔らかい布でできた人形(ソフトマザー)と、固い針金でできた人形(ハードマザー)を作り、どちらにでもつかまれるようにした。ハードマザーの方には、ミルクが飲めるように哺乳装置を取り付けた。にも関わらず、子ザルが圧倒的に長い時間を過ごしたのは、ソフトマザーの方だった。柔らかい感触を持った、居心地のいいスキンシップを必要としていたのだ。しかし、母ザルの人形に捕まってどうにか成長しても、母ザルに育てられなかった子ザルは、不安が強く、誰とも交わろうとせず、社会的行動を行うことができなかった。それでも、なんとか同年輩の子ザルと遊ばせることで、ある程度社会的行動を発達させることができたが、どうしてもうまく身につかないことがあった。それは、正常な異性愛や子育ての能力だったという。母親に育てられなかった子ザルは、成長して大人になっても性的な営みでつまずくか、万一子ザルが生まれても、育てようとしない。母親による養育は、単に心理的にとどまらず、生理的なレベルでも、子どもの発達に関わっており、それが欠けることは社会生活や子育てに必要な能力の発達を不十分なものにしてしまいやすい。(母親という十字架に苦しんでいる人へ 岡田尊司 ポプラ新書 82ページより引用)これらは、子供の成長にとって愛着の形成がいかに大事であるかということ示している。愛着の形成は0歳から1歳6ヶ月の間に形成されるといわれている。少なくともこの期間は母親は子供のそばにいて育児に専念するということが望ましいということである。子供ができれば、どこの家庭でもそうしているように思いがちであるが、最近は夫婦二人が働かないと生活が成り立たないという社会状況がある。1年も経たないうちに保育園に預けざるを得ないという家庭も増えているのではないか。そういう子供が青年期、大人になって、他人が信頼できず、情緒不安定で苦しまなければならないとしたら残念なことである。だからせめて子供と一緒の時は、精一杯一緒に過ごすことを心がける必要がある。しかし不幸にして愛着障害を抱えた人はどうすればよいのか。これについても岡田尊司氏が上記の本で説明されている。日を改めてご紹介していきたい。
2017.03.12
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「三業を整える」という言葉が仏教の中にあります。「三業」というのは「身業」「口業」「意業」の3つです。「身業」というのは身体を整えること。美しい立ち居振る舞いを心掛けること。健康な身体を維持するということです。「口業」というのは言葉づかいを表します。相手に対して怒りの感情をぶっつけたり、汚い言葉で罵ったりせず。いつも穏やかで思いやりのある言葉を心掛けること。この「身業」と「口業」が整って初めて「意業」すなわち心が整うことになるのです。心を整えるという言葉が流行しましたが、いきなり心を整えることはできません。心を整えるためには、まずは立ち振る舞いをただし、美しい言葉使いを心掛ける。その先にこそ「意業」がある事を忘れてはいけません。行動は多少乱暴でも、心の中は優しい。言葉づかいは荒っぽいけれども、本心ではそんなことは思っていない。周りの人たちはきっと自分の心を分かってくれている。そういう人がいます。しかしそれは違うと思います。暴飲暴食を重ねて、いつも傲慢な振る舞いをしている。怒りを前面に出し、部下を怒鳴りつけている。そういう人で心が整っている人を私は知りません。心穏やかに過ごしたいと思うのであれば、また周りの人たちからの信頼を得たいと思うなら、まずは自らの立ち振る舞いや言葉使いを見直すことです。(限りなくシンプルに、豊かに暮らす 枡野俊明 PHP研究所 168ページより引用)この話は、神経症の克服にも役立つと思います。神経症に陥っている人は、心が不安でいっぱいになり、居ても立っても居られない状態になっています。絶えず心がかき乱されているわけです。普通は、すぐにでもその不安を軽減、あるいは除去しようとする。薬物療法などがそうです。カウンセリング、様々な精神療法などもあります。しかし、これらの対症療法で、すぐに不安がなくなるかといえば大変難しい。多少の効果があっても、すぐにまたぶり返す。さらに新たな不安が出てくる。不安による生きづらさはほとんどなくならない。ここで枡野さんの話が参考になります。枡野さんは、「身業」と「口業」が整って、初めて「意業」すなわち心が整うことになるといわれています。これを森田理論で言い換えれば次のようになろうかと思います。不安に振り回される生活をなくするためには、まず規則正しい生活をする。衣食住を自ら整える。つまり日常茶飯事に丁寧に取り組む。運動を心掛けて、身体を鍛える。つぎに「かくあるべし」を自分にも相手にも押し付けるようなことをしないで、事実本位に生きていく。どんなに理不尽な出来事であっても、できる限りの対策をとったのちは、自然の流れに身をゆだねる。事実をあるがままに受け入れながら生きていくということです。人間関係の基本は、自分の「かくあるべし」を相手に押し付けないことだと思います。森田理論の学習と実践によって、そういう態度を養成していくこの二つは森田理論のかなめです。口で言ってしまえば、簡単なことですが、実践は大変難しい。奥が深いのです。横道にそれてもよいので、元の路線に立ち戻れる修正能力は身につけておきたいものです。それが森田理論の学習によって可能となるのです。
2020.11.14
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親戚の法事で次のような話が出ました。私のいとこで奥さんに先立たれて、今は一人暮らしをしている人の話です。70代の人ですが、農作業をしながら生活しています。趣味は競馬です。その人には3人の子供がいるのですが、いずれも家を出て生活をしている。その子どもたちは家には全く寄り付かない。連絡は完全に途絶えている。どこに住んでいるのか、見当はついているが、正確には分からない。それは子どもに厳しく当たってきたからだという。父親を鬼のような人だと思っているのだ。父親を毛嫌いして、もう実家には帰らないという決意を持って出ていった。そのつけが今頃になってやってきた。孫の顔を見てみたいが、かなわないだろうという。自分の子育ては完全に失敗だったと後悔の気持でいたたまれなくなる。私はその話を聞いて、それは子育てに失敗したのではなく成功したということではないか。すべての子供が親を当てにしないで自立できたということはたいしたものだ。後悔する必要はないと思う。自慢してもよい話ではないか。後悔しているというが、それは子どもに何かを期待しているやましい気持ちが見え隠れしているからではないのか。子どもが親を親とも思わなくなるというのは、寂しいものがあるが、親の務めは子どもが自立して一人で生きていけるようにすることだ。別に立派な親でなくてもよいと思う。だらしない親で、子どもから毛嫌いされるつまらない親であっても結構。子どもから反面教師にされるということは、子育てでは大切なことだ。身体を張って反抗するということは、子どもにとっては「あんな親だけにはなりたくない」という自立心の表れそのものだ。そんな子育てを貫いたということは、実感としては少し寂しいが、立派な子育てをしたということだ。あとは自分でやってくれと押し出してやればよいと思う。未練がましく、いつまでもなれなれしくしてはいけないと思う。テレビドラマの中で、どちらが親で、どちらが子供か分からないような友達関係のような親子が出てくるときがあるが、これは共依存の関係に陥っているのではないか。こんな親子関係では、子どもは家から出ていかない。いつまでも経済的に親に依存してしまう。その方が快適だからだ。経済的に自立できないということは、精神的に自立できないということと不可分の関係にある。2つの側面で自立できないと、社会の荒波を乗り越えていくことは極めて難しくなる。親が仮に亡くなってしまうと、太平洋の真ん中で羅針盤を失った船のようになる。親の援助を期待しないで、自分の力で生きているというのは素晴らしい。今の世の中を見ていると、子どもが自立したといっても、親の庇護のもとで生活している人がほとんどだ。子どもが生活に困ったと言えば、金銭的な援助をする。我が家でも子供が高速道路でやってくると高速代や燃料代は出してやっている。孫が大学に入るという場合は、多額の支援を当然のように期待している。家を建てると言えば、両方の親が相当入れ込んでいる。子どもは親の残した家や財産を相続するという前提で生活設計をしている。これではいつまで経っても、子どもは自立できない。そういう関係を続けていくことが本当に子どもにとって幸せなことなのか、今一度考えてみることが大切になる。キタキツネの母親は、子どもが赤ちゃんのうちは手取り足取り世話をして育てる。そして少しずつ狩りを教えていく。そして一人前になったと判断すると、母親は子どもを巣から追い出すという。子どもは名残惜しく巣の周りをうろついているが、母親は牙をむいて威嚇する。どうしようもなくなった子供のキタキツネは、断腸の思いで生まれ育った巣を離れて自立していく。これが自然界で繰り返されている現実なのだ。人間の子育てもこれに学ぶ必要があると思う。
2022.09.17
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大原健士郎先生のお話です。動物は仮面をつけて仲間と接することはありません。人間は仮面をつけて人前に出ることが必須となります。すっぴんのまま平気で顔をさらす人は滅多にいません。女性は人前に出る時はそれなりに化粧をします。男性は無精ひげをそり、髪形を整えて、その場に合った服装で出かけます。また赤の他人と会話する時は、家族や友達とは一線を画し、言葉使いや振る舞いについて細心の注意を払います。大人の対人関係は、人格と人格との付き合いです。人格を英語で表すと、パーソナリティとなるが、このパーソナリティの語源は、ラテン語の「仮面」(ペルソナ)である。ギリシャ劇で俳優たちは仮面をつけて演技したといわれている。日本の能なども仮面をつけて演技している。心の中は大荒れでも、表面上は穏やかに取り繕っているのである。素の自分をそのまま人前に晒すことは、分別のつかない幼児並のふるまいです。顔色の悪い女性は頬紅や口紅をつける。葬儀に参列する人は喪服を着用する。あれもこれも仮面の一つである。「仮面を拒否する」生き方は、人間関係を険悪にし窮屈にするだけだ。自分の心をむき出しにするのではなく、隠してくれる「仮面を認める」ことで、人間関係はスムーズに運ぶのである。(「不安な心」と上手に付き合う本 大原健士郎 PHP 参照)とても参考になる話です。我々は人生という晴れの舞台で、仮面をつけて演技をしていると考えるのは如何でしょうか。大根役者と言われるよりも、拍手喝さいで味のある役者と評価されたいものです。そのためには、すっぴんで観客の前に姿をさらすことはできない。きちんと化粧をして、それなりの衣装を着けて、役になりきることが大事になります。森田理論に「感情と行動は別もの」として取り扱うというのがあります。人間関係に問題を抱えている人は、感情の赴くまま、不快の感情や気分に振り回された行動が顕著です。森田理論は「感情と行動を分離する能力の獲得」を目指しています。その方法はふんだんに用意されています。このブログでも再三取り上げています。みんなで切磋琢磨して、幼児から大人の人間へと脱皮していきましょう。
2025.11.24
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精神科医でマインドフルネスに詳しい藤井英雄先生のお話です。本やテレビを観ていて、そろそろ宿題をやろうかなと思っている矢先に、親から「早く宿題をやりなさい」と言われて、「今やろうと思っていたのに」とイヤな気分になったことはありませんでしたか。たとえ自分がやろうと思っていたことでも、人にやるように指示されると、反発してしまいやる気を失います。親が子どもにアドバイスを受け入れてもらえないのは、親が子どものあるべき姿を判断して、それを子どもに押し付けようとするからです。これは先生と生徒、上司と部下、監督と選手、カウンセラーとクライアント、集談会での先輩会員と初心者の関係においても同じことが言えます。相手の話を聞くときや相談にのるときにしてはいけないことが8つほどあります。例えば勉強をする気が起きないという子どもに対して、①指示をする・・・そろそろ本気を出さないと!②脅迫する・・・浪人することになるよ。③提案する・・・家庭教師を頼んでみる。④激励する・・・あんたならきっとできるはずだ。⑤質問する・・・どうしてやる気が出ないの。⑥分析する・・・研究者になりたいという気持ちがあやふやなんじゃないの。⑦叱責する・・・甘えたこと言っていないで勉強しなさい。⑧話をはぐらかす・・・深刻に悩まないほうがいいよ。(マインドフルネス「人間関係」の教科書 藤井英雄 Clover出版 132ページ)こんな対応をされると、相談しないほうがよかったということになります。反発して以後寄り付かなくなることが考えられます。話し手の言葉に耳を傾けて傾聴し、話し手を理解した時、聞き手は話し手を受容し共感できるでしょう。すると、聴き手に受容され共感された話し手は批判、非難、アドバイスなしに話を聞いてもらえるという安心感と、話を聞いてくれる相手への信頼感をもとに話を続けることができます。そしていつしか自分でも気づかなかった心の奥底、潜在意識の中に隠された気持ちに気づき(洞察)、癒しと解放が起こります。これが傾聴の効果です。傾聴で大事なことは、自分がアドバイスや批判をしたくなっているという自分に気づき、のど元まで出かかったその危険なアドバイスや批判を飲み込んで傾聴を続けることができるかどうかです。(同書 151ページ)ロジャーズの来談者中心療法というのがあります。ロジャーズはセラピストとして必要な条件を3つ挙げている。①患者を無条件に受け入れる姿勢で臨むこと(無条件の肯定的配慮)②患者の身になって感じ、それを伝えようとすること(共感的理解)③自分の感じていることを自覚し、言動に矛盾がない事(自己一致)(無意識の正体 山竹伸二 河出書房新社 174ページ)集談会などの学習会でも、森田理論を教えてあげるという気持ちよりも、その前に相手のことをより深く理解したいという気持ちを持っておくことが大事になります。
2025.05.14
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王貞治氏は、「悔しいという感情は味わうもので発散するものではない」と言われている。よくありがちなのは、チャンスで三振したとき、バットを叩きつけたり、ダックアウトに戻ってイスなどを蹴飛ばすような選手がいる。悔しい気持ちを自分では処理しきれないで、周りの人や物に吐き出して精神的に楽になろうとしているのである。こういう人は大成することはない。三振した原因を分析して次に活かすことをしないからである。王貞治氏は、チャンスで三振しても、まったく気にしない人も問題であるという。クールで冷静な人であるが、ある意味鈍感な人ともいえる。普通の選手はチャンスで打てないときは心中穏やかではない。悔しいという感情が湧き出てこないということは、怒り、不甲斐なさ、悲しみ、喜び、楽しさなどの感情に対しても鈍感ということになる。感情が活発に動き出さない人は、気づきがない、発見がない、問題や課題の発見能力に問題があると言わざるを得ない。王貞治氏は、自分に対して「あえて悔しがる」「敢えて怒る」ということが必要になるという。つまり悔しいという感情を自ら作り出し、それをじっくりと味わうことである。ただしそれを短絡的に外に向かって発散してはいけない。他人から軽蔑されるだけで何の効果ももたらさない。悔しさを次の対戦で絶対にリベンジを果足したいと考える人は、打てなかった原因を整理して研究する。さらに相手の配給を研究する。次は狙い球を絞って打席に入ることができる。悔しさを次に生かすことができる人は、プロ野球の世界で飯を食っていけるのである。「感情は味わうものであって、発散するものではない」というのは、感情の取り扱い方に問題を抱えている人にとっては耳の痛い言葉である。
2025.11.23
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田島隆宏さんは写真家だ。身体が不自由なため、電動椅子で仕事に出かける。それも常に横たわったままの電動椅子なのだ。この状態だと家の中でじっとして生活する人が多い。そして自分の不遇を嘆き、親を恨んだりする。田島さんはそんな生活ではない。田島さん曰く。身障者の一番悪い点は、周りの人に何でもしてもらっているうちに、だんだん自立心がなくなってくることだ。すると心まで身障者になってしまうことだ。田島さんは身体を動かすことができないが、頭で考えることができる。口や舌は自在に動かすことができると考えている。この3つを活かしてどんなことができるかと考えられた。目線が地面すれすれにあるので、健常者が気にもかけない生き物や草花と一体化できる。その生きざまを見ていて自分も励まされる。またその感動を写真にとって多くの人に伝えることができる。田島さんは、自分が持っているもの、自分ができることを最大限に活かして生活されている。人間生きていると、いろいろと解決しなければならない課題や問題が発生します。どうして自分だけがこんなことになるのだと運命を呪い、反発、非難、否定をくり返していると苦しくなり追いつめられてしまいます。それよりもこれは神様が私に問題を出して、どの様に解いていくだろうかとみておられるのだと考えるのは如何でしょうか。私たちは神経症で、のたうち回り苦しむという問題を出されました。それに対して神様はどんな答えを出していくだろうかを見てみておられる。答えを出して、日常生活や仕事に活かしている人は大きく評価されるだろう思います。仮にまたどこかで生まれ変わるようなことがあれば、人間のような高等生物として処遇して下さるのではないか。そして今度はもっと大きな課題を出される。せっかく人間として送り込んだのに、課題や問題点を無視する人は、次に人間のような高等生物として生を受ける道は閉ざされてしまうのではないか。森田先生曰く。運命は嘆き悲しむものできなく、運命は切り開いていくものである。たとえ目的が達成できなくても、真摯に取り組んだかどうかが評価の対象になる。
2025.11.29
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2025年9月号の発見誌に次のような記事がありました。森田先生の原著を読んでいるとき、掲載される箇所によって森田先生の言っていることが違う感じがして読む気がしない。具体的には次のようなケースです。とらわれたときはとらわれになりきればよいのです。悲しみは悲しいまま、苦しみは苦しみのままであるよりはほかに仕方がないように、とらわれはとらわれるより仕方がありません。(自覚と悟りへの道 白揚社 74ページ)別のところでは次のように話しされている。とらわれがなくなれば、神経症は全治する。とらわれから離れれば非常に便利で、生活が自由自在になります。(森田全集 第5巻 240ページ)これは不安などに「とらわれる」と神経症になるので、普段から「とらわれない」ように心がけて生活することが大事になりますというふうにとらえられます。森田先生の話は他にも矛盾しているのではないかと思われる箇所があります。しかしよく考えてみるとどちらも真理を突いておられます。「とらわれ」については次のように理解すると問題は発生しません。まず「とらわれ」ないようにするということですが、「とらわれない」というわけにはいきません。ただし、いつまでも不安や恐怖に注意や意識を向けていると目の前の肝心なことがおろそかになります。日常茶飯事に手を付けないと生活の悪循環が始まります。気になるものを一つ一つ解決した後で、次の不安案件に進むということは実用的ではありません。すぐに解決できる不安案件は、すぐに処理することがよいことは誰でもわかります。しかし実際には時間のかかるもの、自分一人ではどうすることもできないものもたくさんあります。それらはやむなく抱えたままで、とりあえず当面の「なすべき」課題に取り組むことが賢明です。森田先生が説明されているのは、不安を抱えたままの状態で、物事本位に行動しなさいと言われているのだと思います。つぎに「とらわれになりきる」ということですが、不安や恐怖を感じる場面は生活の中で次々と生まれてきます。苦痛を感じる場面から逃れたいと思うのは当然ですが、まず不安や恐怖にきちんと向き合うことが大事になります。「幽霊の正体見たり枯尾花」という句がありますが、夜道で慌てふためくと転倒して大怪我をしかねません。まずは事実にきちんと向き合うことが肝心です。事実を事実として認めて受け入れることが大事になります。その事実が良いとか悪いとか、正しいとか間違といった価値判断は不要です。事実を確認して、何ごともなければ注意や意識は、次の不安案件に速やかに移していくことが大事になります。これは車の運転をする人は誰でも無意識にやっていることです。交差点で右折する時は、信号、対向車、横断する人や自転車などの動向を慎重に確認しています。つまり注意や意識はどんどん移り変わっているのです。「とらわれになりきる」というのは、不安や恐怖と一つになって、不安の時は不安のままでやり過ごすということです。不安と格闘するとその不安はいつまでも頭の中に居すわり、昼夜強迫観念となって我が身を苦しめることになります。
2025.11.20
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私は良寛さんの生き方に傾倒している。しかし若いころの良寛さんには、こんなエピソードが残っている。岡山県玉島の円通寺で修業していた時に、仙桂和尚という20歳以上年上の僧のことを語っている。仙桂和尚は僧侶たちの食事を作ったり、菜園で野菜をつくる典座という役割であった。良寛さんは、当時仙桂和尚さんによいイメージは持っていなかったようです。良寛さんは、寺で参禅し、経文を読み、禅語録に触れることが修業であり、立派な僧になることであると思っておられたようです。台所で食事を作り、菜園を耕すなどの仕事をする人は下男か作男ぐらいにしか思っておられなかったのです。ところが、その後越後の国上の五合庵で暮らしている時こんな歌を詠んでいる。「仙桂和尚こそは、真の仏道者である。彼は黙して語らず、朴訥にしてうわべを飾らぬ人であった。30年間、国仙和尚のもとにあっても、参禅もせず、読経もせず、宗門の教えの一言も口にせず、ただ畑を耕して雲水たちに供養していた。円通寺当時、私は桂仙和尚を見ていながらも真の姿を見ていず、遇っていながらも真の心に遇っていなかった。ああ、今になって彼にならおうとしても、もはやどうすることもできない。誠に仙桂和尚は真に仏道を会得した人であった」森田理論の学習の深耕に明け暮れている人には衝撃的な話である。これを私なりに解釈するとこうである。森田理論をいくら深めて理論武装しても、森田の基本である規則正しい生活をしていない人は見るべきところがない。また日常茶飯事、雑事をいい加減にこなしている人には、森田理論は無用の長物であるといっているのである。そういえばがちがちの神経質性格を持ちながらも、神経質のプラス面を仕事、学業、家事、育児にいかんなく発揮している人がいる。その人たちは森田理論自体知らないし、また必要としていない。森田を勉強している人は、理論を深めるための学習をするのではなく、よりよい生活に変えていくための視点に早く切り替えてゆくべきではないでしょうか。森田の達人という人は、理論を深めた人の中にはいない。生活を変えていった人の中にしか現れてこないと思う。
2013.11.27
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森田で「純な心」を学習すると、初一念、つまり最初に湧きあがってきた感情は素直な感情であり大事にしなければならないと学びます。例えば、中学生くらいの女の子が連絡もしないで夜になっても帰ってこないと親はとても心配します。ところが無事に帰ってきた娘に対して、「親に心配をかけるのはいい加減にしろ」と叱りつけます。その発言から親子関係は険悪になっていく場合があります。この時、初一念を思い出して、「お父さんやお母さんは、とても心配で生きた心地はしなかったんだよ」と言えば、雨降って地が固まるではないですが、親子関係は良くなります。では次のような場合はどうでしょうか。やけに顔色が悪い人に対して、「あなた肝硬変や肝臓がんに罹っているかも知れませんよ。すぐに病院で検査を受けたらどうですか」という。化粧の濃いい女性に対して、「あなたのけばけばしい化粧顔を見ていると、周りの人が不快になります」という。医師が、物忘れが多くなった人に、「あなたは認知症ですね。車の免許は即刻返納しなければいけません」という。仕事のノルマを果たせない人に、「あなたは会社のお荷物です。寄生虫のような人は即刻退職してもらわなければ会社が持ちませんよ」という。森田全集5巻の中には、父親が家でたびたび賭けマージャンをしているのを見ていた子どもが交番に通報した。その結果、父親は踏み込んできた警察官に検挙されたという話がありました。たとえこれらは事実だったとしても、思ったことを素直に相手に伝えるのは如何なものでしょうか。正直な発言を心がけるというのは、大事なことのように見えますが、その不用意な発言によって相手は大きく傷つきます。森田先生は次のように言われています。論語にこういうことがある。「葉公が孔子に語りて曰く。我党に、身の正直を立てるものがある。その父羊を盗みて、子がこれを訴え出たと。孔子の曰く。我党の正直者は、これに異なり、父は子のために隠し、子は父のために隠す。正直と言う事は、その内にあり」と言うことである。この場合、人情から出発しなければならない。人情が道徳であり、人生観であり、哲学であるのである。子どもが親を訴え出ることができたら、その子どもは、低能か変質者かです。(森田全集 第5巻 290ページ)事実をごまかしたり、隠蔽することは考えものですが、相手がいる場合はそちらの気持ちをくんであげることが大事になります。森田では自分の気持ちを第一優先にする「自分中心の生き方」をお勧めしています。これは主観的事実を前面に出した生き方です。これに対して客観的事実もあるといいます。客観的事実は、相手の行動や考え方や感情のことです。これを無視した言動は自己中心的になりやすく、人格に何らかの問題がある人と言えます。森田では主観的事実と客観的事実がバッティングする時は、客観的事実に基づいて行動する方がうまく収まりますと言っています。これは広島湾の磯釣りで友人が釣り上げたものです。現在ブリがコノシロを追って回遊しているそうです。
2025.11.28
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昨日の引き続きです。子どもの反抗期は3つに分かれます。第1反抗期、中間反抗期、第2反抗期です。「第1反抗期」は2歳から3歳の頃です。そのような子どもは1歳台において「いたずら」が許容され自発性が順調に発達してきており、意欲的な子どもです。第1反抗期の特徴は「イヤ」という言葉が多くなることです。子どものイヤだという言葉を少なくするには、「お母さんは、○○をするとうれしいんだけどな」とか、「お母さんはそれをされるとイヤなの」などと私メッセージで対応することです。あとは子どもまかせるのです。すぐにいうことを聞いてくれないかもしれませんが、お母さんの気持ちは子どもに伝わります。そして、次からの行動が少しずつ変わってきます。思いやりの心が芽生えてくるからです。第1反抗期は「自分でする」と言って親たちの援助を拒否する言葉が多くなるものです。それは何もかも自分でやってみようという自発性・独立心の現れですから、子どもの言葉を尊重する必要があります。なかなか成功しないと、イライラして泣いたりします。悔し泣きです。「ほらごらんなさい」「できもしないくせに」と非難してはいけません。これらの言葉をあびせられた子どもは劣等感で卑屈になってしまいます。そんな時は「この次は頑張ろうね」と、再び挑戦してみようという意欲を刺激しておくことです。「中間反抗期」は7歳から9歳にかけてです。口答えが多くなります。理屈の多い言葉によって反抗する状態がはっきりと現れてきます。親にとってはなんでも反抗されては腹が立ちます。なんでうちの子は素直でないのだろうと思ってしまいます。しかし子どもの発達過程から見ると反抗するというのは、自己主張のできる子どもに育っているということです。普通親は子どもが自分たちの言ったことに素直に従ってくれることを望んでしまいます。これは子どもを親に服従させ、屈服させている状態です。登校拒否や神経症、心身症等で悩んでいる子どもたちの過去は、親に服従する形での素直であって、自分の気持ちに素直になっているわけではないのです。「第2反抗期」は思春期です。中学生の頃です。この頃はアイデンティティの確立。自我同一性、性同一性の確立時期です。つまり自分は何者か。自分はどう生きていけばよいのかを考え始める時期です。精神的に親から離脱していく時期を迎えているのです。それまでに親や教師から教えられたことが本当に人間として正しいことなのか。それらを疑い始め、自分なりの考えを持とうとします。その過程で、親や先生に言われて自分に取り入れてきた価値観を全面的に否定することから始めます。親たちに何か言われても、明らかに不快感を現し、黙秘したり、「うるさい」と言ったりして、反抗するようになります。親はどうしてこんな悪い子になってしまったのだろうと右往左往するかもしれません。心配は無用です。独立心があり、自発的で責任感のある大人に成長するためにどうしても通過しなければならない関所のようなものなのです。ここで慌てて、子どものいいなりになって甘えさせたり、命令、干渉、支配を前面に出して子どもをコントロールしようとしてはなりません。最近、無気力、無関心、無感動、無責任、不作法の五無主義の子どもが増加しています。これらは第2反抗期を乗り越えていなくて、自分が混乱している状態なのです。このように見てくると年齢に応じた反抗期は、子どもの発達にとって必要不可欠なものです。親は子どもの反抗期の持つ意味をよく理解する必要があります。親は子どもに「かくあるべし」を押し付けるのではなく、子どもの成長を見守っていくことが大切なのではないでしょうか。(子どもの能力の見つけ方伸ばし方 平井信義 PHP参照)
2016.05.30
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私たち日本人はグラッサーのいう生存や安全の欲求は完全といわないまでもおおむね達成されていると思います。ところが次の社会的所属の欲求は達成されているとは思えません。社会的所属の欲求というのは、自分の属している集団から自分を受け入れてもらいたいという欲求です。集団から離れると生きていけなくなるので、集団から見放されて孤立したくないという欲求です。温かい、ぬくもりのある人間関係の中に常に身を置いておきたいという欲求です。自分の所属している集団のすべての人に、自分を守ってもらいたい、信頼してほしい、認めてもらいたい、重要視してもらいたい、かまってもらいたい、保護してもらいたい、味方になってもらいたい、失敗やミスをしても大目に見て許してもらいたいという欲求です。これは生存や安全の欲求と同じように、本能的欲求といわれています。この欲求が満たされないと、次の向上発展の欲求に進むことはできません。この欲求は子供のときの親の育て方、特に母親の育て方によって満たされた人と、満たされることなく大人になってしまった人がいるようです。満たされずにおとなになった人は、小さいころからほめられるという経験が少なく、いつも母親に「かくあるべし」を押し付けられて、叱咤激励を受け続けた人です。つまり自分の存在を受け入れてもらえなかった人です。そういう人が大人になると、人間関係ではいつも対人的な不安、恐怖、不快感、おびえが付きまとい、さらに予期不安で逃げてばかりの防戦一方になりやすいのです。つまり不安定な基盤をなんとか安定しないと、自分が所属集団からはじき出されて、一人孤立の道を歩み、野垂れ死にすることの恐怖を常に感じているのです。こういう人は今後どのように生きてゆけばよいのでしょうか。2つの道があります。一つは自分の存在をあるがままに受け入れてくれるような人間関係を探して築くことです。親、兄弟、祖父母、親戚、地域の人、学生時代の友達、趣味などの仲間、学校の友達、会社の同僚、上司、部下、先生、集談会の仲間などから自分を比較的受け入れてくれる人を見つけることです。それもべったりの人間関係ではなく、少しの心地よい人間関係をたくさん作っていくことです。一つがダメになっても別の人間関係で立ち直れるようにした方がよいと思います。次に、自分も「かくあるべし」で他人に接するのではなく、あるがままの他人をそのままに認めてあげることです。事実をそのままに認めてあげることです。これは森田理論学習でよく学習してほしいと思います。これは心がけ次第で出来ることです。そうなれば、自分の容姿、素質、性格、弱点、自分の引き起こしたミスや失敗の事実も受け入れることができるようになるのです。社会的所属の欲求が満たされるように努力をしないと、いつまでも苦しみ続けることになります。
2013.03.13
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私は人に頼みごとをすることが嫌いである。その心理を考えてみた。まず人に商品を買ってもらうために、セールスをすることが嫌なのだ。それは相手にお金の負担をかけるからだ。たとえば以前専門書の訪問販売の仕事をしていたが、専門書を大学の先生等に勧めることが苦痛なのである。でも仕事だから仕方なくやっていた。それもさぼりながら、かつかつクビにならない程度の仕事ぶりであった。専門書というのは必要だと思う人が買えばいいという考え方だから、販売しようという意欲は湧いてこない。深層心理としては、断られて自分の自尊心がズタズタに切り裂かれることに耐えられないのである。それから集談会等で世話役になってくださいということが言えない。また、発見会の会員になってくださいということが言えない。それらは会を維持するためには必要不可欠だということは分かっているのだが、どうしても逃げ腰になってしまう。「できません」「会員になるつもりはありません」などと断られるのがイヤなのである。だからそんな役回りは他の人にお願いしている。考えてみれば以前の会社で業務の仕事の責任者になった時もそうだった。大まかな仕事は振り分けていたが、誰かが病気で休んだ時など、他の人に仕事を振り分けることができない。振り分けてイヤな顔をされたり、あからさまに「自分の仕事で手いっぱいなのでできません」などと断られるのがたまらなく嫌なのである。だからそんな時は自分で背負いこむことが多かった。そのために夜遅くまで残業をしたり、土曜日曜日も出勤することが多かったように思う。断られると自分のプライドや自尊心が傷つく。また自分の人格がダメだと否定されるような気がする。自分は自分で守らないと生きていけないように感じるのだ。相手には相手の都合があって断っているというのは言葉では分かるのだが、どうしても受け入れることができない。これはその後心理学を勉強して、幼児期の愛着障害が影響していることは分かっている。また子どもの頃、アルコール中毒の父親に暴力を振るわれていたため、大人になって他人から見捨てられるのではないかというトラウマに襲われるのである。いわゆるアダルトチルドレンなのである。回避性人格障害、対人恐怖症というのも根は同じである。次に人に頼みごとをすることが嫌いな人は、人から頼まれ事をされるとうまく断ることができない。私は以前の会社で、次の日に有給休暇で休むことになっていた前日に、ある営業マンから次の日にやってもらいたいという仕事の依頼を受けた。「明日は用事で休むので、他の人に依頼してください」といえばよかったのに言えなかった。でも断るとその営業マンから憎まれ口をいわれるのではないかと恐れたのである。そこで表面上快く依頼を受けて、他の同僚に頼んでおいた。ところが次の日その同僚がその依頼の仕事を忘れてしまっていたのである。あとでその営業マンから烈火のごとく叱られた。彼の信頼は全く損ねてしまった。一事が万事、私は人からの依頼事項を断ることが苦手である。この心理も、相手の依頼事を断ると、相手の機嫌を損ねてしまう。あからさまに嫌味を言われることもある。少なくともよく思われることはない。仲間外れにされたり、陰でいろいろと自分の悪口を言われることがたまらなく苦痛なのである。つまり物事本位ではなく、内へ内へと注意が内向して自己防衛本能のみが膨れ上がってしまうのである。これは手段の自己目的化で精神交互作用を繰り返し、神経症が固着していく過程と全く同じ現象が起きているのである。私の知り合いに稽古ごとの師匠をされている人がいる。その人はちょっとずうずうしいと思うぐらい頼みごとをしてこられる。このあいだもコンサートのチケットを半強制的に売りつけてこられた。またよく高額な懇親会を企画しては強制的に参加依頼をされる。自分の習い事の勧誘も言葉巧みに誘われる。この人の場合は「ダメでもともと」という気持ちがあるようだ。「うまくいけば儲けもの」というような気楽な気持ちであらゆる人に声を掛けている。手あたりしだい、数打つわけだから、ある程度の成果は出されているようである。だから我々のように殺気立ったところはない。断っても「ア-、そう、残念ね。じゃ今度はお願いね」で一見落着することが多い。根に持たれないので助かっている。これから言えることは、いつも自分の気分を問題にしていると、すぐに蟻地獄に落ちてしまう。頼みごとをするのにはそれぞれ理由がある。頼まれごとをされるときもそれぞれ目的を持ってされている。その目的や目標をしっかりと見つめて行動していないと、すぐにネガティブな自己防衛の罠に落ちてしまうような気がする。
2016.07.07
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為末大氏のお話です。あるところに、小さな杭につながれているゾウがいました。ゾウの力があれば、杭を引き抜いて抜け出すことができます。ですが、ゾウは逃げようとしません。なぜか。このゾウは子ゾウのときから、鎖でつながれていました。小さな子ゾウの力では、杭を引き抜くことはできません。何度も試みますが、どうしても杭は動かない。そのうちに、「杭を外すことは絶対にできない」とあきらめてしまいます。そして、二度と、杭を引き抜こうとは思えなくなった。「できない、無理だ」大きく成長した今なら、簡単に引き抜くことができるのに、そう思い込んでしまっていたのです。このエピソードは、思い込みが限界を決めていることを示唆しています。僕たちも、このゾウと同じ状況かも知れません。限界の檻から抜け出す力を持っているのに、いつの間にか「自分にはできない」と思い込んで、可能性を狭めています。(心のブレーキを外す 為末大 三笠書房 74ページ)為末大氏は、強い思い込みを持って何事も決めつけてしまう人は、自分の可能性を閉ざしてしまうと言われています。幼い頃に大きな犬に追いかけられて、怖い思いをした人は、大人になっても犬が怖いという気持ちで身構えてしまいます。危害を加えるとは思えないような犬を恐れているのですから、傍から見ていると随分滑稽に見えます。しかし怖いという思いにとりつかれているので本人はどうすることもできないのです。それは脳が何者かに洗脳されて、乗っ取られてしまっているようなものです。参考までに新興宗教が信者を洗脳する方法を見てみましょう。洗脳方法としては、まず狭い部屋に閉じ込めます。そして外部の情報を遮断します。睡眠不足にして精も根も尽きたような状態にします。大音響の音楽をなどを流して、逆らう気力を奪い取ります。次に暴力や強迫により恐怖感を植えつけて服従させます。そしてパニックになったところで、教祖様が優しい声掛けや援助の手を差し伸べます。正常な思考能力が発揮できない状態になって教祖様の言いなりになってしまうのです。このような手順で洗脳されてしまうと、人間の脳は簡単に他人に乗っ取られてしまうのです。事実に基づかない先入観、思い込み、決めつけなどで自分を窮地に陥れることは何としても避けたいものです。どんなことに注意すればよいのでしょうか。森田理論では他人のうわさ話を無条件に信用してはいけないといいます。またネットの情報をそのまま鵜呑みにしてはいけないと言われています。自分の目で検証したものだけを真実として取り扱う。自ら検証していないものを真に受けることは大変危険です。自ら足を運んで事実をこの目で確かめるという態度が重要になります。次に事実は大雑把に取り扱うのではなく、具体的に細かく見ていくことが欠かせません。もし、「みんながそうだと言っている」「それは社会の常識である」「以前からそういうやり方だ」「いつもミスや失敗を繰り返している」「絶対に間違いない」「それは絶対に正しい」などという言葉を頻繁に使っている人は要注意です。これらの言葉は事実を軽視ないしは無視しているのです。先入観、決めつけ、思い込み、早合点で事実と観念を混同してしまうと森田でいう「思想の矛盾」で苦しむことになります。
2025.01.21
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森田先生は、「善悪不離・苦楽共存」と言われています。(森田全集 第5巻 653ページ)「善と悪」「苦と楽」はあざなえる縄のように一体のものであり、切り離すことは不可能であるということです。私たちは別々のものとして区別してしまう傾向が顕著ですが、両面観で両方を見ていかないと正しい判断はできないということになります。それらを別々のもとして取り扱うと次のようなことが起きます。苦しいことや嫌なことにとらわれてしまいます。目の敵にしてなんとかして取り除こうとするか避けるようになります。精神交互作用で神経症を固着させてしまうことになります。森田先生によると、人生には苦しみや不安がつきものであり、それを排除しようとすれば、かえって苦しみを増悪する原因になると言われました。森田先生は、苦しみや不安をあるがままに認めて、その裏にある生の欲望に向かって努力精進する態度が肝心であると言われました。恐怖や不安をなくして楽になろうとすれば、自己嫌悪感、自己否定感が生まれてきます。どうにもならないことに関わりすぎると、疲れ果ててしまい、目の前の「なすべきこと」に取り組む気力・体力が萎えてしまいます。葛藤や苦しみはイヤなものではありますが、それを抱えたまま必要なことを必要な範囲で取り組んでいくと、観念的悪循環がなくなり、日常生活の好循環が生まれてきます。森田では善悪や苦楽といった価値評価の枠を乗り越えて、ただひたすら現実の「生命の躍動」そのものになって生きていくことを推奨しています。森田先生は、「不安心はすなわち用心の安心にして、失敗はすなわち改良の喜びである」と言われています。(森田全集 第5巻 652ページ)この言葉は、「不安は安心のための用心である」という言葉に言い換えることができます。不安は戦うべき相手ではありません。不安はあなたを強力にサポートしています。不安は、あなたに危険やリスク、問題や課題を教えてくれているありがたい存在です。いわば神様が我々に与えてくれた「ギフト(贈りもの)」のようなものです。解決可能な不安に取り組み、解決すれば小さな成功体験を味わうことできます。成功体験の積み重ねは、ステップアップした課題や目標への動機づけに繋がります。
2025.10.12
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アフリカのサバンナで小動物がライオンなどの肉植樹に追いかけられているとき、小動物たちは力の限り逃げ回ります。心臓や全身の筋肉は逃げるためにフル回転しています。人間も同じです。命の危険を感じたとき、頭で対策を考えるよりも、一目散に逃げ回ります。怒り狂っている人を見て、頭に血がのぼっているなどと言いますがこれは間違いです。本来なら冷静な判断ができるように、十分なグリコーゲンを脳に送る必要があるにもかかわらず、そうではありません。逆になっているのです。そのときのエネルギーは、呼吸を早め、心臓の拍動を早め、血管を収縮させて、筋肉にエネルギーの大半を補給して臨戦態勢を整えているのです。脳に糖分が送られていないということは、脳が機能不全に陥っていることを意味します。その結果として、脳の認知機能としては普段の30%程度に落ち込んでいるのです。普段は問題ない人でも、脳の機能障害が問題を引き起こしているのです。脳の働きが不十分になり、幼児並か酔っ払い状態にあるということになります。幼児や酔っぱらっている人とまともな会話はできません。本人もなにをしゃべっているかよくわからない。記憶になく支離滅裂です。そんな人の相手をしていると、突然暴力を振るわれケガをすることもあります。脳が機能障害を起こしていることが分かっていると対応方法が変わります。まず怒り狂っている人から、すぐに離れることができます。逃げられない場合は、まともに対応しない。のらりくらりとかわす。うわの空で聞くようにする。これから予定している楽しいことを思い浮かべる。そしてスキを見て逃げ出す。自分が怒りや腹立ちでいっぱいになった時はどうするか。脳にエネルギー不足が起きた。急いでエネルギー補給をしないといけないが、緊急事態発生のために、援助物資はすぐには届かない。事態が好転するまで、しばらく待つしかない。怒りが一山登るのは5秒とも10秒とも言われる。余裕を見て10分として、その間トイレに駆け込む。あるいは自販機でコーヒーでも買ってゆっくりと味わう。それだけでもエネルギーの配分が変わり、脳が60%から70%ぐらいに回復する。そうなれば、売り言葉に買い言葉で支離滅裂な対応を回避できる。あとで「しまった」と後悔することも回避できる。簡単な対応方法なのに、まともな対応をしている人はとても少ない。
2025.11.25
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西村貴好氏のお話です。共感する時は、共感に留めて、マイナスの同調まではしないことが大切です。「○○さんに、非難されました。私は腹が立ちました」「それはさぞかし辛かったでしょうね」これが共感です。「○○さんに、非難されました。私は腹が立ちました」「○○さんがそんなことをいったんですか。それは○○さんが悪いわ」これは共感ではありません。「マイナスの同情」にあたります。この2つはどう違うのでしょうか。最初の例では、○○さんに非難されたとき、お互いに辛くなるという不快な感情の事実の共有化が起きます。感情の共有化ができると、心が通じ合い、そのネガティブ感情を二人で認め合い受け入れることができるようになります。感情をともに味わうことができるようになると、感情の浄化作用が起きてきます。2番目の例では、感情の共有化は起きません。「マイナスの同情」は、相手がつらくて落ち込んでいる入ることが眼中にはないのです。怒りの感情に油を注いでますます火の勢いを強めているのです。注意や意識は不快な感情の原因を作った○○さんに向いています。一見相手に寄り添って慰めているように見えますが、その原因を作った○○さんに対して、これからどのように抗議し、言い返せば気が済むかをいっしょに考えて実行しましょうよとけしかけているのです。自分一人で、できないようなら私も加勢してあげますよと言っているようなものです。相手に喧嘩を売れば、人間関係は簡単に壊れてしまいます。一旦壊れた人間関係は、交通事故を起こしたと同様、その後の処理に時間がかかります。感情の共有化ができれば、非難された原因についてともに考えることができます。原因を冷静に分析できれば、貴重な経験として今後に活かすことができるようになります。そのためには、まずつらい感情の事実の共有化が欠かせないということになります。
2025.11.26
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今日は、偶数月の第2金曜日の19時30分から21時30分まで(2時間)、帚木蓬生氏のテキストを使ったZOOM学習会の紹介をします。帚木蓬生氏は「生きる力 森田正馬の15の提言」という本の中で15の森田のキーワードについて説明されています。内容は以下の通りです。どれも魅力があり話し合ってみたいテーマです。「一瞬一生」「見つめる」「休息は仕事の転換にあり」「外相整えば内相自ずから熟す」「いいわけ」「目的本位」「無所住心」「即」「なりきる」「自然服従」「生の欲望」「不安常住」「事実唯真」「あるがまま」「生きつくす」学習会ではその中の一つのテーマを取り上げてみんなで輪読しています。(15分程度)その後5名程度のグループに分かれて感想や意見や体験などを述べあう体験交流を行っています。(1時間程度)その後、全員集合して全体でテーマの深堀をしています。(30分程度)参加者には事前に「学習のプログラム」「話題提供」「参加のURL」をメール送信しています。希望者には、学習テーマの原文をメール送信しています。メールのあて先は、生活の発見誌の告知板のテーマ別懇談会の関西の欄の最後をご覧ください。参加に戸惑いのある方のために、顔出しOFF、発言OFF、視聴のみの参加もOKとしております。基本的にはテーマに沿った学習会ですが、分科会では、自分の神経症のこと、近況、生活上の問題などなんでもOKとしております。10月の参加者は13名でした。現在全国各地からの参加者を募集しております。12月12日(金)19:30~21:30のZOOM開催です。テーマは「一瞬一生」です。ぜひ全国の学習仲間との交流をお楽しみください。
2025.11.27
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