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大学職員といっても日雇い契約(医員)の僕。食べていくには外の病院でのアルバイトは欠かせなかった。その日はリハビリ中心の病院での当直。落ち着いていることが多いのでのんびりテレビを見ていたら、電話が鳴った。”先生、○○さんけいれんが止まらないんです。日勤の終わりに主治医がセルシン使ったんですが、少しして興奮状態になったあと、今、すごく痙攣しています。すぐ来てください!”とまあー泣きそうな声の4階病棟の看護師さん。4階までの階段をダーッと駆けありながら(あの頃は若かったから)第一選択薬のセルシン=ディアゼパムを使って止まらない発作となると、場合によってはバルビタール昏睡=人工呼吸に持ち込む必要も・・・なんて覚悟もした。診察すると焦点発作で右顔面から上肢がガクガクけいれんしていた。”セルシン使ったの?”と僕。”はい、1A(10mgだ)筋注で!”と看護師さん。なるほどね。やっぱり情報収集は大事でした。てんかん発作に対する第一選択は セルシンの静脈内投与ーつまり静注です。教科書には10mg=1Aの静注と書いてあるものが多いですが、年齢の高い人の場合は1Aだと呼吸が止まってしまう人がいて、量を加減することが大事です。この時の事例のようなセルシンの筋注でのてんかん発作の対処に何回か遭遇しましたが、ほとんどの場合うまくいかないようでした。この時のように、血中濃度が十分なスピードで上昇しないためか、かえって興奮を起こしてしまう場合も時に見られました。静注は怖いですが、てんかんの発作を止めてあげるためには、よく準備をして(人工呼吸、挿管など)全身の状況がゆるすなら勇気をもってセルシンを静脈内投与を考えてあげてください。
2007.01.30
昨日からしゃべらなくなったという老婦人が家族に付き添われて外来に来た。放射線科にお願いして準緊急CTを行ったが、そのときははっきりした所見を発見できなかった。はっきりした麻痺はないものの、明らかに失語症があった。高血圧・糖尿病が併存していた。”一番疑われるのは脳梗塞ですが、今ははっきりしません。発症後間もないので、入院で対応したほうがいいと思います。まず内科管理で入院。必要に応じ脳外科も共診(2つの科が診療にあたること)します。”と申し上げて、内科Drに管理をお願いした。次の日、強い頭痛が出現。再度CTを行い、SAH(くも膜下出血)が見つかった。初めに見せてもらった時に、僕はSAHであることを見抜けなかったのだ。あとからよーく聞くと、受診の5日前に突然頭痛がしたらしい。その後、くも膜下出血の合併症として脳血管攣縮による脳血流低下が起こり、失語となって、大切な情報が聞き出せなかった。受診時のCTをみんなでみると、左こめかみの奥の脳表面にわずかに出血を思わせるような所見が見られていた。MRIーFLAIR画像なら出血を検出できていたかもしれないが、あの頃大学ではMRIは緊急で取れなかった。入院していたことや、入院時によく説明していたことも幸いして、ご家族からお叱りを受けることはなかった。患者も緊急手術で対応して何とかよい結果を出すことができた。脳卒中を疑うときは、たとえ歩いて来た人でも入院で対応するのがよいと思う。言葉がしゃべりにくい・強いめまい・突然の頭痛の三つの症状にはそれぞれ独立して十分な注意が必要だと思った。
2007.01.28
手術関連の公演は大成功。高級そうなレストランで宴会となった。その頃、中国でもよくビールがでたが、高級な料理店以外ではビールは冷えてなく室温ででてきていた。冷えたビールに慣れた日本人としてはちょっと閉口した。料理は実のところ、大連の小さなお店で食べた料理が一番おいしかった。あと、ホテル近くのこれまた小さな料理屋でたべた朝がゆ。貧乏口なんでしょうね。日本ではバーミヤンというお店でそれに近い朝がゆがたべられる。ここに行くたび教授との楽しい旅行を思い出す。 さて、話をもどそう。宴会でかなりお酒をのんでぐらぐらしていたら、どうも明日は午前三時起きで高速道路を走り、帰路に向かうという。低血圧で朝によわい僕。”ぜったい起きれません・・・”と半べそをかいたら。”僕がおこしたるわ”と教授。お酒の勢いも手伝って、”お願いします。(といったそうです)”ともちろんその日もうーーーしっかり起きましたよ。中国から帰ってから、同僚にしかられました。”教授にモーニングコールさせるなんて君だけやで”そうね。あまりにも甘えすぎました。でも、うちの教授ってやさしいでしょう?
2007.01.26
中国への飛行機にのる前に教授と二人きりになった。飛行機をみながらふと、”きみ、留学せえよ。” とお勧めをいただいた。”はい!”と即答。留学先はわかっている。DrOが留学していた場所だ。留学をする場合は、たいてい大学の正職員になり(助手以上)、大学の援助をいただきながら外国で生活する。留学先から給料が出ないことが殆どだからだ。医局員のなかで誰にいってもらうかは教授の人選による。教授に声を掛けていただいたことはとても大きい。うれしく思うとともに、今回の外国公演の補佐の役割をしっかりやりとげることを成田の空に誓った。
2007.01.25
教授が中国人留学生の父に中国に招かれた。僕も是非つれてきてほしいといわれたとか?で? ”君も(鞄持ちで)いっしょに来い”と指名され、着いていくことになった。中国での予定は、中国の某大学での手術公演。 公演用のビデオの編集も指示され、またまた忙しくなった。 いまならアドービ社のプレミエとか、アップル社のクイックタイムプロとか使ってさくさく編集するのだろうが、その頃は手術室の片隅で手作業。教授のご自慢のビデオを何度も観戦、いや、勉強しながら教授の手術方針の特徴をまとめておいた。基本を守る。できることを確実にする=ファインプレーは凡ミスと表裏一体安全第一。=無理をしない、安全なところで撤退することも含めて安全を得るための苦労を惜しまない。人には誰でも絶好調の時があるらしいけど、1994年はその時だったかもね。
2007.01.22
研修医DrYSが僕らのチームに配属された。チームリーダーはDrWであるが、臨床のこまごました仕事の指導は僕がすることになるため、DrYSは僕にとって初めてのウンテンとなった。自分が研修医のときはただひたすら自分ががんばれば、それでまあ可だったが、指導医(オーベン)となるとそうはいかない。ましてやDrの技量は始めのオーベンの技量で決まるなーんて教授がおっしゃるものだから、プレッシャーがかかった。そんなら、なにも僕に任せなくても・・・と思った。人に教えるというのは大変なことだ。患者さんの病状もかかっているから、任せていけないことと任せてやってもらわなければいけないことの区別も難しい。とてもオーベンになってくれたDrYのように、”なんでもやっていい”なーんて言えなかった。指導にならなかったかもしれないが、何でも一緒にやり、一緒に悩むこととした。幸いなことにDrYSは僕よりよっぽどできのいいDrだから、乾いた砂が水を吸い込むように、知識・技術を吸収してくれた。どっちが先生でどっちが生徒なのかわからないから、めだかの学校のようだとも。君がオーベンとはなあ・・・とDrO。ウンテンを持ってみて、なぜDrHやOができの悪い僕を辛抱強く指導してくださるのかも判った気がする。指導医としての責任感もあるが、弟子(ウンテン)の技量が日々少しずつ上がっていくのが、自分のことのように嬉しいのだ。現在も最高の脳外科医であるDrHやOが僕のオーベンだって自慢できるのに、DrYSにはできないことは申し訳なく思っている。まあ、彼なら許してくれるだろう。それに、うちの医局の制度では僕だけがオーベンぢゃないかね。
2007.01.21
現在の上司であるDrWとグループを結成した。以前にも書いたように、うちの医局では一人のオーベン(指導医)の癖がついてしまうことを避ける目的で、色々な人とグループをくむのだ。 今回僕は三人のグループの真中で、下(ウンテン)には新しく加入する研修医がつく。DrWは当時四十??歳で医局では最年長の部類。もともと某旧帝国大学の医局に属していたが、地方に根づくため、うちの大学の医局に参加したDrなのだ。したがって、さまざまな点でうちの大学の流儀とは異なっていた。 以前の指導医 DrOやDrNなどは直接DrWに言えないものだから、結構僕のところにいろいろな注文をつけてきたが、不思議と僕はDrWの流儀が好きで、そういうことをいちいちDrWに伝えなかった。 いや、1度だけ治療方針についてDrOがおっしゃったことを伝えたことがあった。その時DrWは ”そうかーなるほど、なかなか言ってくれるな”と言っただけだった。もちろん方針も変えなかった。大きな人だなあと思った。この時いっしょに仕事をしたのが縁で現在一緒に仕事をしている。大学から関連病院に転勤した後も折にふれ、僕のことを気にしてくださっていた恩人である。
2007.01.16
脳外科医になってから6年がすぎ、学会認定の専門医を受ける権利が発生した。 今年専門医を受けたいと思っていたが、”臨床の経験をもっと積んでからの方がよい。”という鶴の一言でこの年は受験を見送ることになった。 振り返るに、この決断は正しかったと思う。脳外科の専門医試験の合格率は55%程度で、当時おそらく神経内科の専門医の次に難しい試験だった。大学院で4年も臨床から離れている身にはかなり重荷だったろう。しかも、大学は2名の留学者をだしており、意地をはってこの年に受験を強行しても通常もらえるはずの専門医試験のための休みはなかっただろう。難しい試験とはいえ、落ちるのはかっこ悪いしね。
2007.01.14
大学院での3つの仕事をまとめて有名脳関連雑誌に投稿せよとの御命令がでた。同時にそれらのデーターをDrOにすべて渡して任せろとも。これについては多少の不満があるが、しかたがない。大学院の仕事のほとんどはDrOの指導によるものだから。 その後原稿ができあがった。DrOが”おまえ原稿のチェックしてくれ”と原稿を見せてくれた。驚きましたよ。筆頭筆者はDrO、第二筆者がDrX。僕は3番目。DrK、・・・ 教授となっていた。どういうことをしたからこんな仕打ちを受けるのか、わからなかった。できるだけ平静を装いながらこう言った。”先生名前の順番が違います。 なにもしてないDrXがなんで2番目なんですか?、しかもDrHの名前がないです。”論文の名前の順番は大事だ。筆頭には実際に研究をし、論文を書いた人の名前がきて、2番目にはその仕事に大きくかかわった人の名前がくる。一番最後の名前はたいていその施設の長 たとえば教授とかの名前になる。筆頭に誰かさんそして2番目にそのゴーストライターという順番もある。すなわち、論文の名前は1番目と2番目と最後が大事なのだ!”わかった”とDrOは一言。結局論文の名前はDrO、僕、DrX・・・の順となった。僕の意見を一部通した結果だったか、DrHの名前は入らなかった・・・
2007.01.13
無事卒業となり、医学博士の学位を手にした。もう臨床のスタッフとして組み込まれているので、卒業式にも行かなかったが、学位記がしっかり医局に送られてきていた。4年間のうち1年半は関連病院で兼業、そして、最後の1年は大学病院のスタッフ(もちろん無給)もっとひどい身分の大学院生もいるらしいが、自分ながらよくやったものだと思う。人によっては学位が取れずに留年する人もいて、そうなるとそれもまた非常につらいものだ。そうならないための注意点をまとめておいた。1:大学院に入る前に、実験計画をよく練っておくこと。実験の結果がどっちにころんでも、それがノイエス(新しい知見)となるように計画しておくと、とても楽だ。2:臨床の医局から大学院に入るDrは、できれば基礎医学の教室に学内留学の形で出してもらうと良い。実はこれが一番お勧め。でも自分で努力して学位をとったという達成感は少し少ないか?3:実験に使う道具や試薬がどれくらいの値段なのか知っておくこと。できれば安く上がるようにしておくほうがよい。4:実験の手法はできれば使い古された、基本的な手法を使うほうがよい。できれば共同研究施設の技官の力が借りれるととてもよい。もし最新の手法に手をだすなら、1年程度は安定したデーターが出ないことを覚悟せよ。5:実験データーは成功したものはもちろん、失敗と思ったものもすべて記録しておくこと。また、一緒に取れるデーターはできるだけ沢山とっておくこと。
2007.01.11
大学院生活の最後をしめくくる学位論文発表会。DrOにみっちり鍛えていただいたから、構成はばっちり。発表はあまり得意でないから、原稿を読むだけでいいようにスライドも作っておいた。ただし、スライドを指し示さないといけないところもあり、この部分は蛍光ペンで印をつけておいた。でもそういう場面はできるだけ少なくした。面白みのない発表だったろう。でも、プレゼンテーションも大事だが、なんと言っても内容がもっとも大事。僕の論文には3人が博士号を取れる知見が盛り込まれていて、実際にこのネタで僕とDrXが博士号を取ったんだから・・・。発表を終えて質問に入った。質問は主にこっちの専門に関することだから、どうってことない。楽々こなしていたら、最後に恩師S教授から鋭い質問が!”CA1のCAとは何の略か?” あまりにも基本的すぎて、度忘れで思い出せない!”CA1とは僕ら脳梗塞関連の研究をする研究者がもっとも関心をいだく脳内海馬の部分を示す言葉です。”・・・とわけのわからないごまかしをしながら、必死に記憶の糸をたぐった。実は海馬はこの記憶にも関係しているのだが、そんなことは今は必要ない、CA1が何の略号かが必要なのだ。あの時は本当に冷や汗をかいた。そして背中を伝った汗がパンツを結構ぬらした頃やっと、"CAとはcornu ammonis アンモン角の意味です。”(キャビン・アテンダントではないですよ)と答えたのでした。大学院生の皆様、略号を使うのはいいですが、その意味が何かはきっちり押さえておいてくださいね。
2007.01.09
大学院卒業に際して行われる学位審査会では審査会で発表する人の名前とテーマが大学内に張り出された。僕の名前が学内に出た時を同じくして、”GE5999は卒業アルバム委員(1988年当時)だったのに、アルバム作成費を集めておきながら、アルバムを作らず、その金を着服している。しかも写真を返していない”とのうわさが流れ始めた。このうわさには真実と嘘がうまく織り込まれているため、反論が非常に難しい。2つ言える事は、”1:僕はアルバム作成費をもらっていない””2:写真はいかなる理由があろうとも返却しないと断っている”ということだ。ここで言っておこう、確かに僕の家は裕福な家庭ではないが、大事な同級生のアルバム費を着服するほど金に困っていない。アルバムは卒業後取り掛かるつもりでいたが、相棒のDr.Aがある都合で一緒に仕事ができなくなったことと、僕自身もやめときゃいいのに脳神経外科というハードな医局に入局したため、アルバムどころではなくなっていたのだ。その後も何かにつけ、この噂を耳にした。でもアルバムができていないことは事実であり、悔しい思いをしていた。19年後の本日、同窓会の席でまた、この話がでた。怒っても仕方がないので、みんなの前で”お金は一切受け取っていない”と宣言した。少し名誉を回復できたかと思っている。
2007.01.07
応募していた科研=科学研究費のに当選したという通知がもたらされた。教室として何回も応募してきたが、なかなか当選しなかった科研にDrH、DrNそして僕の研究結果をまとめたものが当選したのだ。書類の体裁をまとめたのはDrOだから、本当はDrOの力によるところが大きい。でも、”ようやった”と何回も誉めてくれた。諸事情で研究費が乏しくなっていたが、これで一息つけることとなった。その頃僕の研究はもう一段落していたので、研究費は後輩たちが使えることになった。これで暫くは僕のようにお金がないから実験停止なんていうことが無くなるだろう。僕は僕でDrOにすごく誉められて、本当にうれしかった。
2007.01.04
年末ー>年始。流れている時間の中で、人が作った区切りに過ぎないのに、みんなそれぞれ休みたい時期。その頃僕の身分が大学院生で大学勤務・・・ということは大学からの給料はもちろん無給、それどころか授業料を払う立場。 どうやって生活費を稼ぐかというと”みんながやりたくないことを する”しかない。この年は救急病院の3連当直+日直+救急オプション。ぐったりしたいところだが、学位審査の準備もあり、マッキントッシュSE30を専用のラックに入れて持ち運び、仕事のまとめをしていた。かなり大荷物だが、一般にノートパソコンは値段が高いわりにスピードが遅く、画面も汚いので目が疲れる。キーボードのタッチが浅く、気持ちが悪い。そういうことで、じっくりした仕事に向かないと判断している。1月1、2日の日直当直などは、ほとんどすることはなく(患者さんも外泊していて入院患者さんの人数はかなり減っている)大学に出勤しているときのようにあちこちに雑用に行って時間を細切れにされることが無いのでとてもありがたい。しかも年末年始料金ということで、バイト料も1.5-2倍。仕上げましたよ、学位審査のスライド(パースウェーション)と発表原稿を。割り切って仕事すれば、この環境も楽し!
2007.01.01
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