2011年01月16日
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カテゴリ: 幕末人物伝



それほど知名度は高くないのですが、それでも、結構、多彩な経歴の持ち主で、
意外と歴史の表舞台にも顔を出してきたりします。

主な略歴としては、

幕末期、尊王攘夷活動に参加するも、やがて幽閉され、
維新後に釈放されてからは、一転して、自由民権運動の立ち上げに参画。
板垣退助らが主唱した「民撰議院設立建白書」を起草し、
日本初の政党「愛国公党」の結成にも加わりました。
その後は、実業界へと転身、
鉄道や銀行、郵船など、いくつもの企業を興しました。

という感じで、
まさに、幕末・明治という時代を生きた典型であるかのような、
激動と変転の生涯であったといえます。

今回は、この小室信夫の生涯を、少し追いかけてみたいと思います。


小室信夫が生まれたのは、天保10年(1839年)の9月。
丹後国与謝郡岩滝村(現在の京都府与謝野町)で、
生糸縮緬商を営む豪商・山家屋の家に生まれました。
信夫というのは明治以後の名で、この頃は利喜蔵と名乗っていたそうです。

やがて、山家屋の京都支店の監督責任を任されることとなり、京都に在住することになります。

ちょうど、この頃は、幕末の尊王攘夷運動が高まりを見せはじめていた頃で、
いつしか、小室も、尊攘派の志士たちと交わり始めました。


そうした、小室が歴史の表舞台に出ることになったのが、
文久3年(1863年)の「足利将軍木像梟首事件」。
この事件は、平田派国学の有志を中心とする尊王過激派がひきおこしたものなのですが、
小室は、この事件の主要メンバーの一人として加わっていたのです。

「足利将軍木像梟首事件」というのは、
京都・等持院に安置されていた、歴代の足利将軍の木像のうち、
足利尊氏・義詮・義満、三体の木像が持ち出され、
三条河原に獄門台を据え、この木像の首が梟首(さらし首)されたという事件。

木像の脇には、高札が立てられて、
そこには、足利将軍は「逆賊」であると記され、
この木像の首をはねて梟首することにより、
大義名分を明らかにするものである旨が記されました。

これは、足利幕府になぞらえて、現在の徳川幕府を非難したもので、
将軍・家茂が、近々に上洛する予定になっていることに対して、
プレッシャーをかけるという意味合いもありました。

そして、この高札の文章を起草した人物が、
小室信夫であったと言われています。

ちょうど、この頃は、
松平容保が京都守護職に着任して間もないころのことで、
この事件を聞いた松平容保は、激怒したといい、
早速、この件についての、徹底的な、捜査・捕縛を行うよう指令が出されました。

小室信夫は、追われる身となり
その後、四国・九州などを転々とする日々を送ります。

しかし、結局、最後は、逃げおおすことを断念。
そこで、逃げ込んだ先が、徳島藩邸でありました。
これは、一緒に逃げていた同志が、たまたま徳島出身であったためで、
結局、小室は京都の徳島藩邸に自首して出ることになります。

ところが、自首された側の徳島藩にすれば、
これは、全くいい迷惑で、その取り扱いに困りました。
幕府に伺いをたてますが、
その回答は、「貴藩にて預かれ」というもの。

犯行から時間も経過していて、もう、ほとぼりが冷めていたということもあるのでしょう。
結局、徳島藩は、この二人を、そのまま藩邸に幽閉することになります。

こうして、5年ほどの間、小室は外出も許されない幽居生活を送ることとなりました・・・。


ところが、明治維新となり、その状況が一変します。

維新後は、討幕に功があったものが重用される風潮となり、
明治政府からも、有用な人材を出仕させるようにという指示が、各藩に出されます。

ところが、旧幕時代、ずっと佐幕派であった徳島藩には、
薩長に橋渡しが出来、明治政府と関係が保てるような適当な人材が全くいません。

そこで、目をつけたのが、幽閉中の小室信夫でした。
何せ、彼は「足利将軍木像梟首事件」という、
討幕派からすると、輝かしい経歴を持っています。

徳島藩は、小室を釈放するや否や、
彼に、一躍、藩の家老級の待遇を与え、徳島藩士として新政府に出仕させます。

こうして、彼の人生は、急展開していくことになりました。

明治5年には、元阿波藩主・蜂須賀茂韶に同行して、
イギリスへと渡り、各国を視察して帰国。

これが、さらに、彼の経歴に箔をつけ、さらなる次のステップへと導いていくことになります。


1874年(明治7年)
前年、征韓論論争に伴う政変により政府を去った、板垣退助・後藤象二郎・江藤新平らが、
政府に対して、民選議会(国会)の開設を要望。
世に言う「民撰議院設立建白書」が提出されます。

これが、後の自由民権運動の端緒となっていくわけですが、
この「民撰議院設立建白書」の文案を起草したのが、小室信夫でありました。

当時、英国視察から戻ってほどない小室がヨーロッパ事情に詳しい、
ということを聞きつけた後藤象二郎が、小室に声をかけ、文案の起草を依頼したもの。

小室は、同じく帰朝組の古沢滋とともに、この起草に携わったのでありました。

この「民撰議院設立建白書」では、
板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣・由利公正など
錚々たる明治の顕官経験者とともに、小室信夫も連署に名を連ねることになります。

また、この頃、小室は、
日本初の政党である「愛国社」の創設にも参加。
さらに徳島を地盤とした新たな政党、「自助社」を設立したりもしています。

このように、草創期の民権運動・政党創設の中心人物として活躍を見せていた小室信夫。


しかし、その後、彼は、何故か政治家としての道を進もうとしませんでした。
実業界へと転身。
そちらで活躍を見せることになります。

第百三十国立銀行、奥羽鉄道、京都鉄道、小倉製糸、共同運輸、等々
多くの会社を起業し、その社長や重役を務めました。

小室信夫、明治31年6月に死去。
享年、59才でした。



以上が、時代の波に翻弄されたともいえる小室信夫の生涯。

尊王の志士であり、官僚であり、また、自由民権活動家でもあり、実業家でもあり、
彼の肩書は、様々に表現することが出来ます。


ただ、それだけ多彩な経歴を持っている人物である割には、知名度も低く、
また、逆に、色々なことをやりすぎたためなのか、
焦点が絞りにくい人物であるという印象も残ります。

しかし、彼が最終的に実業家の道を選んだということからして、
もともとが豪商の出身でもあり、彼が本当にやりたかったのは、
実業の道だったようにも思えてきます。

そう考えると、起伏が激しかった彼の生涯も、
最後は、自分が望む道を進むことが出来た、納得の人生だったといえるのかも知れません。





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最終更新日  2011年01月16日 21時19分40秒 コメント(15) | コメントを書く
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