Pastime Paradise

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80年代に丸々青春時代を過ごし、未だ昭和の思い出にどっぷり浸りきってます。 今更誰も興味がないことばかりを、だらだらと綴っております。
2025.11.26
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カテゴリ: 史跡巡り
いよいよ鹿児島最終日。2日間お世話になったホテルアービック鹿児島でチェックアウトを済まし、鹿児島中央駅のコインロッカーに余分な荷物を詰め込んでから向かった先は、鹿児島本線で20分足らずのところにある伊集院駅。駅を降り立つと関ヶ原の敵中突破をイメージしたと言われる 島津義弘 の銅像が出迎えてくれる。おおッ、格好いい!御年65歳とは思えぬ雄姿!
 伊集院駅のある日置市は戦国島津ゆかりの地としても知られ、義弘は天文4年7月23日(1535年8月21日)、島津家第15代当主・ 島津貴久 の次男として日置市にあった 伊作城 で誕生した…が、遠いので行けない。駅から歩いて向かったのは義弘の菩提寺である 妙円寺 。自分の菩提寺に妙円寺を指定した義弘は、生前に京都より仏師・ 康厳 を招いて自らの姿を彫刻させ、その木像を生きている義弘と思い弔うよう指示して妙円寺に500石を与えたという。妙円寺に電話で確認を入れると御住職がいらっしゃるとのことなので、急ぎ足で向かった。
 本堂に上がらせていただき、御朱印をいただいたうえ丁寧にお寺の説明までしていただき、有難き幸せに存じ奉り候。戦国島津位牌堂には島津4兄弟(貴久の4人の息子。長男の島津家第16代当主・ 義久 、次男・義弘、三男・ 歳久 家久 )と、家久の長男で関ヶ原の戦いにおける島津の退き口で捨て奸(すてがまり。退却する途中で小部隊を留め置き、追ってくる敵と死ぬまで戦って足止めして本隊を逃がすという、壮絶すぎる戦法)となって討死した 島津豊久 の位牌が並んでいたが、これらの位牌は義弘公没後400年祭の時だったかに作られたものだそうで(うろ覚え)、それらとは別に義弘だけは流石菩提寺だけあって「元和五年七月廿一日薨去 妙圓寺殿松齢自貞庵主 義弘公尊位 享年八十五」と記された当時の位牌も祀られていた。

 鹿児島の有名な行事に 妙円寺詣り というものがある。かつての鹿児島城の城下町である鹿児島市から島津義弘が祀られている 徳重神社 を詣でる行事だそうで、江戸時代から続いているという。関ヶ原の戦いで敵中突破して奇跡的な生還を遂げた義弘を偲び、泰平の世に士気を鼓舞して心身の鍛錬をするため、鹿児島城下の武士たち(庶民は明治以降)は関ヶ原の合戦前夜の9月14日(旧暦)、往復40kmの道のりを鎧・兜に身を固め、夜を徹して義弘の菩提寺である妙円寺に参拝し始めたのが始まりなのだとか。何故現在は妙円寺ではなく徳重神社を詣でるかというと、明治2年(1869年)の廃仏毀釈により妙円寺は廃寺となり、当時の住職は義弘の位牌などの宝物を持って避難。その跡地へ明治4年(1871年)に創祀された神社が徳重神社なのであった。妙円寺は明治13年(1880年)に以前の寺地の近隣に再興されたものの、かつて義弘が自分だと思って弔うようにと仏師・康厳に彫らせた木像は徳重神社に御神体として祀られたままになっているそうな。
 そんな徳重神社は妙円寺のすぐ近くにあり、こちらも参拝させていただいた。御祭神は勿論、精矛厳健雄命(義弘の神号)。境内西側には島津義弘公殉死者13名地蔵塔が並んでおり、当時は薩摩藩で禁止されていたにもかかわらず義弘を慕う家臣たちが殉死してしまったため、哀れんだ 忠恒 (家久。島津家第18代当主にして薩摩藩初代藩主)が寛永9年(1632年)に建立したものらしい。拝殿の横には弓道場があり、妙円寺詣りの行事として行われる大会でも使用されるとのこと。御朱印をいただきたく呼鈴を鳴らすと、離れた場所にある社務所からわざわざ書置きを持ってきてくださった。有難うでごわす。

 更に歩いてこの近くにあるという義久・義弘・歳久の生母・ 雪窓夫人 の菩提寺があった 雪窓院跡 にも寄ってみた。雪窓夫人の三十回忌に義久、義弘、歳久が連名で建立したという。
豊臣秀吉 による九州征伐が行われ、圧倒的な兵力差によって島津軍は敗北。翌天正15年(1587年)5月、当主・義久は雪窓院で剃髪して名を「 龍伯 」と改め、秀吉のもとを訪れて降伏したとのこと。義久は雪窓院の境内にあった座禅石の上で剃髪したそうで、その座禅石や雪窓院にあったと思われる仁王像頭部などが道路脇の歩道に置かれてあった。何という大らかな展示…。

 伊集院駅で義弘の銅像に別れを告げて鹿児島本線で中央駅に戻り、前日も乗車した日豊本線に再び乗り込んで帖佐駅へと向かう。昨日行った加治木駅の二つ手前の駅なので一緒に見て回ればよかったのだが、歩きすぎて足が痛かったので別日にした次第。
 帖佐にも 島津義弘居館跡 帖佐御屋地跡
 帖佐駅からタクシーで居館跡に向かう。今は稲荷神社となっているため行先をそう告げると運転手さんは若干怪訝そうな顔をされ、スマホを見せると地元では宇都神社と呼ばれているとのことだった。成程、姶良市デジタルミュージアムには確かに 帖佐宇都御屋地跡石垣 と出ていた。
 歴史を感じる石垣や大手門跡、「 惟新公邸址之碑 」と刻まれた立派な石碑などがあった。義弘は朝鮮からの帰国後、剃髪して 惟新斎 と号したため 惟新公 との敬称でも呼ばれていたという。この石碑も大正7年(1918年)の島津義弘公三百年祭に際して有志により建立されたものだそうな。地元の方々の義弘に対する敬愛っぷりが至る所でひしひしと感じられ、鹿児島は本当に素晴らしい。
 ちなみに「帖佐御屋地跡」とあるのは、義弘が帖佐から平松、そして加治木に移ったあと、帖佐の館には義弘の娘・ 千鶴 (御屋地様)が住んだためとのこと。

 帖佐駅から日豊本線で鹿児島中央駅に戻ってきたのが14時前。帰りの便までまだかなり時間があったので、鹿児島に到着した当初から気になっていたアレを目指し、意を決してアミュプラザへ。アミュプラザ鹿児島のシンボル的存在でもあり、建物の上にあるというビジュアルも印象的な、直径約60m、最大高91mの大観覧車・アミュランに乗ってみた。年をとってすっかり高所が苦手になったものの、どうしても鹿児島の景色を一望したかったのだ。2泊3日の短い鹿児島滞在中、ずっと目にしていた桜島の雄姿を最後に目に焼き付けたかった。
 一回転約14分半。あっという間に楽しい観覧タイムは終わってしまった。それでもまだ時間に余裕があったので、もう一度、今度は明るい時間に桜島を見ようと再度鹿児島港に向かう市バスを待っていると、鹿児島老マダムにいきなり首の辺りを触られてビックリ!どうやら首に湿布をしているように見えたらしく、首だか肩だかが悪いのならここを押すとよいと腕をグリグリ押してくださった。…いや、首も肩も全く悪くありませんけど… 老マダムは見間違いを詫びてくださったが、まぁ善意からのことなので無問題。鹿児島ってフレンドリーな方が多い土地柄?
 この旅2度目の桜島渡航。今となってはそれほど時間があったのならもっと他の観光名所に行けばよかったなぁと思うのだが、どういうわけかあの時はすっかり桜島に引き寄せられていた。 長渕 剛 さんの生霊にでも憑依されていたのかしらん…。

 今回は島津義弘公・重年公の旧址を訪ねる旅ということで鹿児島市、姶良市、日置市、そして霧島市ぐらいしか足を運ばなかったが、見て回りたい場所はまだまだあった。鹿児島がこんなに見所の多い、栄えた地だったとは!何度でも行きたいなぁ。

 伊集院駅 義弘公銅像

 法智山 妙円寺

 義弘公御位牌 新ver

 義弘公御位牌 旧ver 
向かって一番右側が義弘公の当時からの御位牌。中央の新しい御位牌は義弘夫人である実窓夫人のもの。その左側の御位牌は長州太守 大内家第10代当主・ 大内義弘 の息女のもので、妙円寺という寺号はこの御位牌にある法智妙圓霊位から。何と室町時代のものらしい。

 徳重神社

 島津義弘居館跡(帖佐御屋地跡)

 大手門跡(帖佐御屋地跡)

 アミュランから見た鹿児島市の風景





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Last updated  2025.11.26 18:10:23コメント(0) | コメントを書く


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