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2025-11-1 中部(岐阜など)行 3日目 郡上八幡観光 (記録用)9:20 郡上八幡博覧館のⓅに。 9:45長良川電鉄:郡上八幡駅の駅舎などを見学。桝形地蔵を観る。10:23 慈恩禅寺 荎草園を見学。 10:10 郡上八幡博覧館の館内展示(2F)を観る。 12:20~13:50 ガイドのMさんと合流、街歩き。大正時代の古い町並みの「職人町・鍛冶屋町」、名水百選「宗祇水」、清流吉田川と宮ヶ瀬橋、やなかの小径、いがわの小径、郡上八幡旧庁舎記念館、清流吉田川と川遊び場「新橋」、大正時代の古い町並み「柳町」など・・・ 15:15~ 昨日、入湯したやまと温泉:やすらぎ館に、また入浴。 16:55ホテルに戻る(連泊) 今日の走行距離は、36Kmだった。
2025.11.01
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意見の違いを、暴力(ゲバルト)で、解決するという、なんとも稚拙な(お遊び)が、1970年安保闘争前後から始まって、100人以上の学生が殺され、数千人の学生が、障がい者になったりして、貴重な人生が奪われた。 なんともやりきれない出来事だったが、僕はその中にいて、多くの事例を見続けてきた。未熟な若者たちが、少し背伸びしただけの結果で、かくも悲惨な事態を招くとは・・・・ ほとんどの学生たちは、自身の立ち位置が、ようくわかっていなかったことが、後日、明らかになっていて、悲しみはさらに深まった・・・ 皆さんは、これをどう考えるか? (はんぺん)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー学生運動の内ゲバ (ウィキペディアより)内ゲバ(うちゲバ)とは、内部ゲバルト(ないぶゲバルト)の略。ゲバルトは「ドイツ語: Gewalt、威力・暴力」の事で、同一党派または同一陣営などの内部での暴力を使用した抗争のこと。一般的には、左翼党派内または左翼党派間、特に日本の学生運動や日本の新左翼党派間での暴力を使用した党派闘争を指す場合が多い。逆に機動隊などの国家権力に対する暴力を用いた抗争は外ゲバとも呼ばれた[1]。内ゲバの年表[編集]1950年[編集]日本共産党が所感派と国際派に分裂し、両派のテロリンチが繰り返される。学生運動での初めての内ゲバとなっていく[3]。1951年[編集]東京大学で、国際派の学生らが国際派内部の反対派学生らをリンチ[3]。これは当事者が後に有名人になったため安東仁兵衛『日本共産党私記』、高沢寅男『寅さんの生いたち』などにも書かれているが、記録に残らないリンチも多かったと推定される。1952年[編集]6月 - 全学連五回大会で、所感派系の学生が国際派の反戦学生同盟メンバーをリンチ。立命館事件[3]。1961年[編集]7月 - 全学連第17回大会で、革共同系学生(マル学同)と、ブント・解放派らつるや連合の間で乱闘衝突。学生運動史上初めての角材を使用した内ゲバであり、セクト間の武装部隊による本格的内ゲバの初めとなった[6]。1963年[編集]9月11日 - 清水谷公園で、中核派、解放派ら連合4派250名の集会に革マル派150名が押し掛け、角材で乱闘[7]。清水谷公園乱闘事件。1964年[編集]7月2日 - 革マル派の拠点早大に、中核派・解放派・構改派の3派が殴りこみ[7]。7・2早大事件1967年[編集]10月 7日 - 法政大学で、中核派が解放派の高橋幸吉などへリンチ。[8]8日 - 羽田闘争において中核派、解放派は内ゲバに備えて角材とヘルメットで武装する。[9]この武装は現場で対機動隊に転化され、初めて機動隊を打ち破った。1968年[編集]2月12日 - 九大教養部学館で中核派と社青同解放派が乱闘、1人重傷。[10]6月24日 - 法大で、革マルと中核派学生が乱闘。[10]7月20日 - 反帝全学連大会でブントと、解放派・ML派の両派が乱闘。[11]9月9日~11日 法政大で中核派と民育系が乱闘。[12]11月 11日 - 静岡大法経短大学部で、民青系(代々木系)と反代々木系学生が乱闘、40人が負傷。[13]12日 - 東大図書館前で全共闘と民青系(代々木系)学生が角材で乱闘、約70人が負傷。[14]14日- 東大教養学部で代々木系と反代々木系の学生の衝突を教官が阻止。[15] 26日 - 東京教育大で反代々木と代々木系学生が乱闘。[10]29日 - 東大図書館前(本郷)で全共闘と日共系が衝突を繰り返す。[16]下旬 - 早大で、革マル派が解放派にテロ、早大を追われた解放派は東大駒場へ移動し革マル派と武装対峙する。後に戦争状態となる解放派と革マル派の内ゲバの始まり。[17]12月 4日 - 早大で解放派と革マル派が乱闘。[18]5日 - 東大駒場寮で解放派と革マル派がお互いの拠点を襲撃しあう。[19]6日 - 東大駒場で解放派と革マル派が内ゲバ。[20]10日 - 東大教養学部(駒場)て革マル派と解放派の対立が激化、駒場寮前で約200人が衝突、45人が負傷。[21]11日 - 警視庁が東大学側に警告書[22]13日 - 東大教養学部で全共闘と代々木系学生・有志学生が衝突乱闘。[23]14日 上智大で代々木系学生と反代々木系学生が乱闘。[24]16日 東大駒場で、及び駒場東大駅ホームで革マル派と解放派が衝突。[25]法政大で反代々木系と代々木系の学生それぞれ200人が乱闘。[26]17日 - 東大駒場で反代々木系学生間でリンチ。[27]24日 - 東大で全共闘と民青系(代々木系)の学生が乱闘[28]1969年[編集]発生件数208件、死者数2人、負傷数1143人(警視庁 1974)。1月 9日 - 東大闘争勝利総決起集会後、民青系と全共闘が乱闘、重軽傷100人余。東大闘争での内ゲバで火炎瓶が初めて使用される[29]。10日 - 東大駒場で全共闘と民青が乱闘[30]。また、東大本郷でも安田講堂を占拠する全共闘と民青の間で乱闘[31]。9月 17日 - 中核派が埼玉大の反戦連合を襲撃[32]。18日 - 芝浦工大で反戦連合の学生が中核派を襲撃し、埼玉大中核派学生が死亡。内ゲバでの初めての死者となった[33]。11月 28日 - 日比谷野外音楽堂の集会で、中核派、解放派ら八派と革マル派が衝突[34]。12月 14日 - 日比谷野外音楽堂、糟谷君虐殺人民葬で中核派、解放派ら八派に対し革マル派が襲撃[35]。1970年[編集]発生件数175件、死者数2人、負傷数525人。[36]6月 - 豊島公会堂でのブント政治集会で各派が内ゲバ。[37]8月 - 中核派による東京教育大学生リンチ殺人事件1971年[編集]発生件数272件、死者数4人、負傷数521人。[36]4月28日 - 日比谷公会堂前でブント各派が乱闘。[38]6月19日 - 沖縄人民党・民青による革マル派町田宗秀リンチ殺害事件8月 - 京浜安保共闘による印旛沼事件12月~1972年2月 - 連合赤軍による山岳ベース事件12月 - 革マル派による関西大学構内内ゲバ殺人事件1972年[編集]発生件数183件、死者数2人、負者傷数338人。[36]11月 - 革マル派による早稲田大中核派シンパと疑われた学生内ゲバ殺人事件(川口大三郎事件) 1973年[編集]発生件数238件、死者数2人、負傷者数573人。[36]9月 15日 - 革マル派が革労協(社青同解放派)を襲撃するも、革労協が反撃し革マル派東大生と革マル派国際基督教大生を殺害。神奈川大学内ゲバ殺人事件[39]17日 - 革マル派と中核派が東京鶯谷駅で集団戦。国電鶯谷駅内ゲバ事件[40] 10月20日 革マル派が中核派のアジトを襲撃。中核派アジト襲撃事件。[41] 1974年[編集]発生件数286件、死者数11人、負者傷数607人。[42]1月 24日 - 東京で中核派が引っ越し作業中の革マル派活動家とその友人の東大生4人を襲撃、友人2人(22歳、21歳)を殺害。殺された2人は革マル派とは無関係だった。[43][44][45]この事件後に出た中核派声明を立花隆は「暴力論の一つの極点として、歴史に残る文書になるだろう」としている。[46]24日 - 中核派が革マル派神奈川大生(24歳)を満員の学生食堂内で殺害。横浜国大内ゲバ殺人事件[47][48] 2月8日 - 中核派が革マル派だとして琉球大生(21歳)を講義中の教室内で殺害。琉球大学内ゲバ誤認殺人事件[49][50]5月13日 - 革マル派が中核派東京都特別区職員(37歳)を、東京都千代田区の法政大学から出て国鉄市ヶ谷駅に向かう外濠土手下の路上で襲い殺害。[51]殺されたのは中核派東京東部地区委員長。[52]6月 7日 - 革マル派大阪産業大生(20歳)が大阪で殺害。[53] 26日 - 午前4時30分、法政大学に泊まり込んでいた中核派20名と学外から合流した50名の計70名を、法政大学内に潜んでいた革マル派50名が襲った。内ゲバ史上最大の激戦といわれ、2時間半にわたる大激突となったが、死者は出ていない。[54] 9月 10日 - 革マル派が中核派郵便局員(25歳)を東京で殺害。[53] 24日 - 革マル派が中核派大阪市立大生(25歳)を大阪で殺害。[55]10月 3日 - 中核派が革マル派郵便局員(30歳)を東京で殺害。[56]15日 - 革マル派が中核派工員を東京で殺害。[57] 12月1日 - 中核派が革マル派元高校教諭(30歳)を大阪で殺害。[58] 1975年[編集]発生件数91件、死者数16人、負傷者数192人[59]。3月 6日 - 東京の路上で、中核派が革マル派幹部(33歳)を殺害。革マル派機関紙発行責任者内ゲバ殺人事件[60]。14日 - 埼玉のアパートで、革マル派が中核派の最高指導者(41歳)を殺害。中核派書記長内ゲバ殺人事件(本多延嘉氏)[61]。20日 - 東京のマンションで、中核派が、革マル派郵便局員2名を(25歳、28歳)を殺害[62]。27日 - 神奈川の路上で、中核派が革マル派川崎市役所職員(26歳)を殺害。川崎市女子職員内ゲバ殺人事件。[63]。 4月 1日 - 東京の喫茶店で、中核派が革マル派元全学連中央執行委員(27歳)を殺害[64]。26日 - 東京の喫茶店で、中核派が革マル派政治局員ら(32歳、23歳)を殺害[65]。 5月 7日 - 鹿児島のアパートで、中核派が革マル派高校教諭(41歳)を殺害[66]。25日 - 岡山大で、マル青同がノンセクトの岡山大生(18歳)を殺害[67]。 6月 4日 - 大阪市立大で、革マル派30数人と中核派約40人が衝突、革マル派の大阪経済大生3名(21歳、24歳、25歳)が死亡[68]。19日 - 東京の路上で、中核派が革マル派郵便局員(22歳)を殺害。[69]。24日 - 静岡で、革マル派が革労協数10人を襲撃、革労協の元九州大生(26歳)を殺害[70]。 10月 27日 - 革労協が革マル派東大生(22歳)を東京で殺害。[71][72]1977年[編集]発生件数41件、死者数10人、負傷者数47人[73]。2月 - 革マル派による革労協書記長内ゲバ殺人事件4月 - 革労協が、革マル派4人を自動車に閉じ込めて全員を焼き殺す[74]。浦和車両放火内ゲバ殺人事件。 1978年[編集]発生件数32件、死者数7人、負傷者数45人[75]。 1979年[編集]発生件数22件、死者数8人、負傷者数32人[75]。5月 - 中核派による津市内内ゲバ殺人事件[76]。11月 - 革マル派が東京、神奈川の革労協アジト3箇所を襲撃[76]。 1980年[編集]発生件数15件、死者数8人、負傷者数32人[75]。9月 - 革労協による東成区路上内ゲバ事件[77]。10月30日 - 中核派が革マル派学生5人を路上で殺害。大田区南千束路上内ゲバ殺人事件[78] 1981年[編集]発生件数9件、死者数2人、負傷者数6人[75]。7月11日 - 革労協による7.11渋谷区本町内ゲバ殺人事件[79]。 1982年[編集]発生件数6件、死者数1人、負傷者数7人[75]。2月24日 革労協が革マル派1名を殺害。2.24荒川区南千住内ゲバ殺人事件[80] 1983年[編集]発生件数3件、負傷者数5人[75]。 1984年[編集]発生件数11件、負傷者数12人[75]。中核派が第4インターに対しテロを開始した。[81]。 1985年[編集]発生件数12件、負傷者数22人[75]。革マル派が中核派に対し7年ぶりに攻撃姿勢に転じたとされる[82]。2月 - 革マル派による和光大事件 1986年[編集]発生件数9件、死者数2人、負傷者数10人[75]。1月20日 - 革マル派が中核派京大生(25歳)を京大内で殺害。京都大学教養部構内内ゲバ殺人事件[83][84]。9月 - 中核派が、革マル派だとして国鉄労組幹部を殺害。真国労大阪地本書記長内ゲバ殺人事件[85]1987年[編集]発生件数4件、負傷者数4人[75]。10月30日 - 革労協が革マル派だとしてJR東日本職員を襲撃。JR東日本赤羽駅構内内ゲバ事件[86]。 1988年[編集]発生件数2件[87]。3月 - 中核派が、革マル派だとしてJR労組幹部を殺害。JR東日本労組高崎地本委員長内ゲバ殺人事件 1989年[編集]発生件数6件[87]2月8日 - 中核派が、革マル派だとしてJR労組幹部を殺害。「東鉄労水戸地本組織部長殺害事件」[88]。6月25日 革労協狭間派が元最高幹部を殺害。革労協元幹部内ゲバ殺人事件[89]。12月2日 - 革労協狭間派が、革マル派だとしてJR組合幹部を殺害[88]。 1996年[編集]5月14日 神奈川県で、革労協狭間派が革マル派学生を襲撃し、1名を殺害[90]。 1999年[編集]5月 - 革労協狭間派が現代社派と赤砦社派に分裂し、以降殺人を伴う内ゲバの応酬を繰り返す。1999年は3名の活動家が殺害された。[91]。 2000年[編集]2月 - 革労協現代社派と革労協赤砦社派の内ゲバで2名が殺害[91]。 2001年[編集]5月 千葉県で、革労協赤砦社派が革労協現代社派の活動家を殺害[92]。 2003年[編集]6月2日 - 東京の路上で革労協現代社派が革労協赤砦社派の活動家を殺害[93]。その他、多数(合計1800件)の暴力事件
2015.08.18
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