終わりの始まり・・・我々が、直面している(目の前にある危機) 2025-10-17 はんぺん
強制連行の事実そのものを、消し去ろうという 歴史捏造の考え方 が、ここ数十年、日本でも、力を増している・・・・本来の リベラル派 の勢いが後退して、その分、民主主義の骨抜きが心配されている。
「かつて県内の鉱山や軍需工場などには、日本が植民地支配していた朝鮮半島から動員された人たちがいた。」(本文)
日本に、仕事を求めて、戦前から、多くの朝鮮半島人が、渡ってきたことも、事実だ。第 1 世ということになる。
その後、 ヒロヒト(裕仁)が、始めたアジア太平洋戦争 ・・・・労働力を補うために、半島から、多数の朝鮮人たちが、本土に集められた。
労働条件は過酷で、逃亡を防ぐために、タコ部屋のような場所に拘束され、働かされた者も多かったという。多くの人々が、飢えや過労、暴力で、亡くなったという。
その犠牲者を悼んで、慰霊碑が建てられたという・・・・・。 「県議会全党派が賛同し県有地に 碑が建立されたのは 2004 年 4 月のことだ。」(本文)
「碑の名前をどうするか。碑文にどう刻むのか。・・ ・・ 市民側は、 戦時中の日本の加害行為 を明瞭にするため 「強制連行犠牲者」 と刻みたかったが、県の許可が得られなかった。協議を重ねた末、 「記憶 反省 そして友好」の碑 と決めた。戦後ドイツにできた、ナチスによる強制労働の被害者を補償する「記憶・責任・未来」基金を意識したものだ。由来を伝える碑文にも 「強制連行」 のことばは使わず、 「労務動員」 と置き換えた。川口さんは「県有地に建てること自体に意義があったから」と語る。(本文)
しかし、その後、群馬県側は、建立されている朝鮮人追悼碑の代執行による撤去を模索し始める・・・・・
「 2024 年 1 月 29 日から公園を全面封鎖して撤去することを確認
日本が植民地支配した歴史を忘れず、朝鮮人の犠牲者を心から追悼するための碑だった。由来を刻んだ碑文こそ事前に取り外してもらったが、碑は公園から撤去された。」(本文)
歴史的事実を抹殺するような今回の事案を、弱体化しつつあるリベラル派 勢力は、押し返すことができなかった・・・! リベラル派が、総体として、日本の日常から、取り残されているように、僕は感じ続けている・・・・!!!
日本の全体としての右傾化 、それは隠しようもない世界的な右傾化の流れの一部でもある・・・これが (世界の破滅) の始まりのようにしか、僕には見えない。
この際、この種の(運動!)に関わるリベラル派の人たちの欠点を強く指摘しておきたい・・・・それは、彼らの多くが、 予断と偏見に満ち満ちていて、(社会主義)の(洗脳)の影響 を強く受け続けている事だ。
彼らの多くが、 北朝鮮の独裁政権 を非難しない。 日本人拉致問題 をスルーする。 核ミサイル開発や核による威嚇と挑発 に、見て見ぬ振りをする・・・こういう言動(妄動?)を繰り返す人々が、自分たちの意見を発出しても、多くの日本人の理解と支持を得ることはできないと思うのだ・・・・違うだろうか?
ダブルスタンダード( 2 枚舌) では、誰からも信頼されることは無い。
前から、この事が、気になっていた。いつ?真実に対して、真摯に向き合うのだろうか? それが、国民の信頼を取り戻すためには、不可欠なのだが・・・!!
皆さんは、どう思われるか? はんぺん
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跡形なく撤去された追悼碑 スマホに再現「記憶 反省 そして友好」 高木智子(前橋総局) 2025 年 7 月 14 日 朝日新聞
現場へ! 壊された朝鮮人追悼碑( 1 )
「これは、すごい」「ほら、追悼碑が見える」
戦後 80 年の夏を控えた 6 月 20 日、群馬県高崎市にある県立公園群馬の森で市民団体が開いたフィールドワーク。雑草が生い茂った荒れたエリアで、一行から歓声があがった。スマートフォンで、手元にある紙に印字された QR コードを読み取ると、その手元の小さな画面に、 群馬県によって撤去された朝鮮人追悼碑 が浮かび上がったのだ。
AR (拡張現実)の技術によって再現された碑。画面から目を外すと、そこには更地が広がるだけである。「物体としては失われましたが、ここにくればスマホでみることができるんです」と、案内役の元教員、川口正昭さん( 65 )が説明する。
スマホの画面に浮かび上がった碑には、「記憶 反省 そして友好」と刻まれたかつてのモニュメントが、はっきりと映し出されていた。
県議会全党派が賛同し県有地に 碑が建立されたのは 2004 年 4 月 のことだ。かつて 県内の鉱山や軍需工場などには、日本が植民地支配していた朝鮮半島から動員された人たちがいた。
そんな歴史を資料や証言から掘り起こした市民らが、犠牲になった人たちを悼むため、戦争を体験した世代の県議らにかけあった。 県議会の全党派が賛同し、碑を県有地である県立公園につくることが決まった のだという。
ところが、そこからが大変だった。 碑の名前をどうするか。碑文にどう刻むのか。
市民側は、 戦時中の日本の加害行為 を明瞭にするため 「強制連行犠牲者」 と刻みたかったが、県の許可が得られなかった。協議を重ねた末、 「記憶 反省 そして友好」の碑 と決めた。戦後ドイツにできた、ナチスによる強制労働の被害者を補償する「記憶・責任・未来」基金を意識したものだ。 由来を伝える碑文にも 「強制連行」 のことばは使わず、 「労務動員」 と置き換えた 。川口さんは「県有地に建てること自体に意義があったから」と語る。
この日のフィールドワークで、川口さんは一行に公園内を案内した。ジョギングを楽しむ人、散歩する家族、ベンチで語らう人々……。市民が憩い、語らう場のそばには、 ダイナマイト発祥の碑や陸軍火薬製造所の跡、爆風を防ぐための土塁など がある。
歴史を知り友好結ぶ未来を託す
碑を建てた公園は、戦争にゆかりがある場所だった。日本人も犠牲になったから、同じ園内に朝鮮人を悼む碑を建てれば、戦争の悲惨さとその教訓を後世に伝えられるという願いをこめたという。
「群馬の森を散策しながら碑に出会い、過去にこういう歴史があったのだと知るきっかけになればと、碑に友好を結ぶ未来を託したのです」
この日、フィールドワークに参加した前橋市の女性( 36 )は、子どもたちと遊んでいた公園が、戦争にまつわる場所だと初めて知ったという。「つくづく歴史と向きあってこなかったと感じたので、歴史をひもとく語り部と共に、子どもたちとまた歩いてみたい」
一行がスマホをかざした更地の場所をたずねると、野の花が置かれていることがある。「いまも碑に心をよせてくれる人がいることがわかります」と川口さん。
この広大な公園の片隅に、たしかに碑はあった。忘れてはならないと誓いをたてた、「記憶 反省 そして友好」と刻まれた朝鮮人追悼碑が、 1 年半前までは。
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封鎖された夜の公園、重機が砕いた思い 相次ぐ「経緯知りたい」の声 高木智子(前橋総局) 2025 年 7 月 15 日 朝日新聞
現場へ! 壊された朝鮮人追悼碑( 2 )
2 年前のクリスマス。群馬県の山本一太知事( 67 )以下、副知事や担当部長ら 10 人が顔をつきあわせていた。
議題は、 県立公園群馬の森に建立されている朝鮮人追悼碑の代執行による撤去 について。年明け 2024 年 1 月 29 日から公園を全面封鎖して撤去することを確認した。
撤去の当日。現場となった群馬の森は、隅々まで 24 時間態勢で警備員が配置され、重々しい空気が漂っていた。
東京ドームが五つ以上入る広さがある公園の周りは全面的にシートなどで目張りされ、中の様子をうかがい知ることはできなかった。
朝日新聞社の情報公開請求で入手した資料によると、 重機が追悼碑を砕いていったのは 29 日の夜のこと。投光器で照らされたコンクリートの碑が解体されていく様子が写真に残っていた。
日本が植民地支配した歴史を忘れず、朝鮮人の犠牲者を心から追悼するための碑だった。由来を刻んだ碑文こそ事前に取り外してもらったが、碑は公園から撤去された。
「死者の尊厳をふみにじるもの」 。着の身着のままで連れてこられて働かされたという朝鮮半島出身の男性に話を聞いたことがある、元大学教員の加藤昌克さん( 77 )は唇をかんだ。
撤去費用 2062 万円の納付命令
後日、 県から市民団体の旧「追悼碑を守る会」のもとに届いたのは、代執行にかかった費用 2062 万 5833 円の納付を命じる書面 だった。朝日新聞社の求めで県が開示した内訳をみると、碑の撤去工事費 248 万 6 千円、シートで周りを囲った費用など撤去関連工事費 1234 万 2 千円、警備業務委託費 579 万 7833 円 ―― などとあった。
手弁当で集まる市民団体では、到底払える金額ではない。 追悼碑を守る会は解散した。請求された額にはほど遠いとはいえ、全預貯金が差し押さえられた 。クラウドファンディングなどを活用して再建を目指す声もあるが、身動きがとれない状態に追い込まれている。
戦後 80 年をむかえ、東京、奈良、沖縄、北海道、遠くは韓国・ソウルなどから、碑が撤去されたいきさつを知りたいとの声が、かかわってきた人々のもとに届く。
県の撤去を機に広がった危機感
群馬と同様、鉱山や発電所、軍需工場などで朝鮮人が犠牲になった歴史を伝える市民団体は危機感をもち、また多文化共生や移民、人権に詳しい学者、支援者らから講演やフィールドワークの依頼もあり、ネットワークが広がった。
若い人たちの目にはどう映るのか。コリアンタウンがある東京・新大久保で話を聞いた。会社員男性( 24 )は「地域住民には在日の方もいるのに、何を考えているのか。気持ちをくんだのだろうか」と憤り、女子大学生( 22 )は「埋もれている歴史を知るきっかけになるから、残せる道を話しあえばよかったのでは」と語った。
「群馬県が撤去して、かえって碑のことが世に知られた。皮肉なことだけれど」と、旧追悼碑を守る会の藤井保仁さん( 76 )は言う。
今年 5 月 17 日。新しい会が発足した。 かつて集めた戦争経験者らの証言や資料をもとに、負の歴史と向きあう活動を進めるという。
翌日、現場にいってみると、都内に住む元教員、岡田千枝子さん( 74 )の姿があった。梅雨の晴れ間、雑草をぬき、手にはタンポポや野の花を握っていた。碑という主を失った更地に花を置き、手をあわせた。祖国に帰ることができなかった人々を思って。
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