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いつも思うが教養ある女性の話は非常に気興味ぶかい。今日も片瀬女史のお話から感想を述べさせていただければ、視点が非常に優しくもあり、かつ、シビアな視点だということ。「女々しい男でいこう」のタイトルにも魅かれたが、実は男とか女とかそんなレベルの話ではなくビジネスパーソンでいかなければいけない人間への応援歌なのだと思う。そう思いながら読みつづけると、なんとなく優しくなれそうな気がするのは僕だけではないだろう…以下新年早々私ごとで恐縮ですが、私はノンポリです。極右論壇誌にも左寄週刊誌にも仕事でお世話になったことがあります。しかし、どっちにも沿えるし、どっちにも染まらない。と、調子よくカッコつけてる女なのです。 ノンポリのうえ、何が政治家の資質だとか総理大臣としての格とはこういうものだということも、よくわからない。そういう愚かな、私は人間です。 しかしこんな私にとっても、昨今の政局は面白い。正しくは、政治の世界で活躍する男性たちが、これがなかなか女々しかったりそうでなかったりで、目が離せません。 麻生太郎さんは、私の印象では、まあまあそこそこの期待をされて総理になった方です。手元にある朝日新聞によれば、麻生内閣発足当時の支持率は48%でした。 ところで、調べてみると、内閣発足当時の支持率は小泉さん78%、安倍さん63%、福田さん53%(いずれも朝日新聞調べ)と、時期が遅くなるにつれて下がっている、まるで後になると高得点の出ないカラオケのようで、次にマイクを持つ人はやりづらいことでしょう。 さて、麻生さん。 趣味は射撃で男性向けのマンガを好んで読み、歯に衣着せぬ物言いで有名な、硬派で洒脱なダンディ。 そういうイメージで見ていました。 蓋を開けてみると度の過ぎる放言と開きなおりが目に余り、そして漢字を読むのが苦手ということで、世の中の評価は手厳しいものがあります。 すると、こうなるのです。「なんだ、たいしたことのない男だな」と。 女なら、「なんだ、たいしたことのない女だな」とも言われるかも知れませんが、その前に、「やっぱり、女はたいしたことがないな」と言われることの方が多い。 本コラムもこれで4回目。ここまでお付き合いくださっている皆様なら、私が、そう言われることが言うことが、そしてそれを受け入れることがいい悪いということを論じたいのではないことは、すでにご理解くださっていることでしょう。 言い訳ついででもう一つ。これは男として見えている部分を論じているだけで、政治家として総理としてどうなのかを、私は言うつもりはありません。 私がしたいのはただ、そういうような気がするのですが、あなたの周りではいかがですか、という問いかけです。 で「たいしたことのない奴」です。 たいしたことがないという烙印が押される前提が、「予想通り」よりも「思っていたほど」の方が、押された方のダメージが大きいような気がします。本人が受けると言う意味でも、押された本人を眺める周囲が受けると言う意味でも。 例に出すまでもありませんが、ひとつ。ダークホースの金メダルの話は、みんな大好き。でも、国民的ヒーローが決勝に進めなかったなら、小さく舌打ちするでしょう。 どうも麻生さんも、この悲劇の国民的ヒーローのような気がします。初回の内閣支持率は右肩下がりの延長上にありましたが、「でも、なんとかしてくれるんじゃないか」 けれどもなかなかそうではなかった。 すると、これだからおぼっちゃま育ちは、これだから学習院は、これだから金持ちは、と、総理にさえならなければ言われなかったであろう具体的な枝葉が繁るのです。これだって、おぼっちゃまなら、学習院なら、金持ちなら、という期待の裏返しだと私は思うのですけれど。 もし、こうだったらどうでしょう。趣味は刺繍でハーレクイン・ロマンスを好んで読み、日舞仕込みの立ち居振る舞いで有名な、女々しいところもあるダンディ。 ※刺繍やハーレクイン・ロマンスや、日舞が悪いということではありません。 そうだったなら、ここまでは叩かれますまい。 ちょっと変わった人に対して、ひとは優しいからです。 変わった人、いましたよね。 変人と呼ばれていたその人の趣味はオペラや歌舞伎鑑賞。X JAPANの大ファン。そう、小泉純一郎さんです。これ、どちらかというと、女っぽい嗜好ですよね。 小泉さんは、サブからトップになってもなおその魅力を保てた、最近ではあまりいないタイプの総理でした。 小泉さんの後、安倍さんも福田さんも、それから麻生さんも、総理になったとたん支持を失ったと思いませんか。 安倍さんは副総理時代、彼が総理になれば北朝鮮に拉致された日本人はその場ですぐにすべて奪還できるような気持ちにさせていた。福田さんは人を食ったようなあの態度で、マスコミはもちろん諸外国にも臨んでくれそうに見えた。 でも、なかなかそうはいかなかったですね。 さっき見たWikipediaの「小泉純一郎」のページに「小泉旋風は具体的な政策論議よりも小泉自身のキャラクターや話題性に依存する面が大きく、敵対勢力からはポピュリズム政治であるとの評価がしばしばなされる」とありました。 政治家にしても何にしても、女性は、顔やメイクやファッションを論評されることが多く、政治家としてどうなのかはあまりよく伝わってこない。 小泉さんも、そうだったような気がします。 語り継がれる名文句、「私の政策を批判する者はすべて抵抗勢力」「自民党をぶっ潰します」にしたって、the reason why、how toのところをすっ飛ばして言っているわけです。 「アタシああいうこと言う人みんな嫌い」「今にあの男たちを見返してやるから」と同じです。 意識してなのか無意識なのかわかりませんが、小泉さんは、このコラムで言うところの女々しい総理でした。 いやはや、少々極論だったかもしれません。 でも、政治家が、男らしい政治家として勝負をしようとするとなかなかうまくいかない。女であったり、女々しい男であったりすると、それ以前のところで、なんとかなることもある。これくらいは言っていいですか? それは政治の世界が長く男性によって作られてきて、今も大半の部分がやはり男性によって動かされているからでしょう。 ビジネスの世界も、同じです。 男社会であるからこそ、男らしくあって当たり前で、そういうものさしで見られがちで、だからしょうもないところで挙げ足取ったり取られたりするんです。 女という対岸から見ていて、本当に大変だなと思います。頑張っているのにね。 愚痴っていてもしかたありません。打開策を考えましょう。どうしたらいいか。周りを変えるのは容易ではない。ならばあなた自身が、そういう物差しでは測れない人になってしまえばいいのです。 メジャー(多数派の意)にいた方に、マイノリティへ転向しろというのは、少々酷な話かもしれませんね。 でも、わりと居心地いいものですよ。 では、どうすれば? 一歩踏み出すために背中を押してくれる手は、書店にあります。私の大好きな大型書店のひとつである東京・神田神保町の三省堂書店本店へ、ぜひ行ってみてください。「男らしい趣味」と言われて思い浮かぶあれこれに関する書籍は、各フロアの端の方に配されています。 端ではなく、それよりほんの少しだけ、センター寄りで平積みされている本を見てください。そうです。あなたが普段、ケッと思って素通りしているあたりです。あるいは、まったく関心を払っていないあたり。 混んでいて疲れるだけだと思い込んでいたディズニーリゾートへ行ってみませんか。 肉も魚もなくてこんなの食ったって力が出やしねえと決めつけていたマクロビ(マクロビオテック)を試してみませんか。 芝居の途中で歌い出しやがってちゃんちゃらおかしいやと観たことないのに鼻で笑っていたミュージカルを観てみませんか。 ※ディズニーリゾートやマクロビやミュージカルが、悪いということでもなによりも素晴らしいということでもありません。 やってみると結構楽しくなってしまうものです。 あなたの外見の男らしさからはちょっと想像できない女々しい趣味が周囲に知れると、質問攻めにあうかも知れませんね。 でも、なんで好きなのか、どこが楽しいかを、説明する必要はありません。no reason、love is allです。 ひとつ忠告。女性の前でその経験を開陳するときは、慎重に。決してツウぶらないこと。「ちょっといいなと思ってやってみたんだけどね」というスタンスを忘れずに。女性は“にわか”に敏感ですので。 ご健闘を祈ります。 蛇足ですが。 麻生さんを、新幹線のホームで見かけたことがあります。まだ外務大臣のころでした。思っていたより小柄でしたが、スリムで、襟を立てたトレンチコートがお似合いで、お連れの方と談笑している限りでは、そのころ既に指摘されていた口元のゆがみも気にならず、男大好きな私は例によって例の如く「あら素敵」と思ったものです。 政治って難しいですね。素敵な男性ががっくりと肩を落としているのを見ると、なんだか悲しくなってしまいます。* * * さあ、木曜日。 2009年の幕開けに、あなたの肩はがっくりしていませんか。もし万一そうなら、その姿はきっと、見ている近くの女性を少し悲しくさせています。 あのねえ、アンタみたいに男好きな女は俺の周りにはいないの。 そう思う方もいるでしょう。でも、多くの男性は「俺ほどスケベな女好きもいない」と、小さな声で言います。 逆もまた真。そういうことです。
2009.01.08
学生時代、英単語を覚えるのに「継続は力なり」とよく言われたものだ。確かに三日坊主でやめるのではなく、比較的長期に続けていれば次第に実力がついてくる。 健康管理でも長期に少しずつカロリー制限してみたりと、自分に適した強度の運動をしていくと、じんわりと健康効果が見えてくる。問題は、やり続けること自体が難しいということだ。 新年など生活の転換期に新しく決意する人も多いが、心の中に留めておくだけではなかなか続かない。そういう時は、意思継続カレンダーを作るといい。具体的に目に見える形で進捗状況を専用カレンダーで管理する方法だ。 お勧めは小さめのカレンダー。達成できた日には、ペンで印を付ける。シールを貼ってもよい。文具店などに販売されている小さいカラフルなシールを利用すると楽しい。 さらに数値で達成が分かるならその結果を書き込んでおく。ポイントはカレンダーを一日一回くらいなんとなく目に触れるところに置いておくことだ。 意志継続カレンダーにはもう一つポイントがある。「挫折チェック日」をあらかじめ書き込んでおくことだ。 なにをやっても三日坊主という人なら開始3日目に「継続見直し」と書き込んでおく。2週間くらいはできそうだなという人は2週間目くらいに「継続見直し」を設定する。ゆるく1カ月でもかまわない。 こうした挫折チェック日で状況を見直し、2度、3度と挫折するなら、継続すべき目標自体を変更する。継続する意志は、ある意味で惰性に近くなり自然にできる状態でもあるからだ。自分に適した無理のない意志を持つようにしたい。 意志継続カレンダーで便利なのは、1カ月の行動・進捗がパッと見てわかりやすいことだ。対象によっては2週間に1回、あるいは1カ月に1回でもやっていた場合でも継続したことにする。1カ月に1回でも年間12回になる。それなりに継続したといえる。 低空飛行的にでも継続しているなら、それなりに継続しているということにして、ピッチを上げたいならカレンダーで過去の経緯を振り返って計画を見直そう。 それと大事なのは、意思継続カレンダーは普段使うカレンダーとは別のものにすること。専用カレンダーでないと、1カ月に1回の実行は記憶から消えて、挫折と同じことになってしまいがちだ。 意志継続カレンダーを専用に用意するのではなく、システム手帳などで一元管理した方が効率的という人も多いだろう。一元的でなくても「Google カレンダー」のようなサービスを使って、用途によってカレンダーを切り分けたほうが便利だという人もいる。 自分に適した方法で管理できるならそれでもよい。専用にするのはあくまで継続したいという意志の形をくっきり見て、自分を励ますためだからだ。今年こそがんばっていきましょう!僕も今年は日記形式で食事や歩いた歩数、飲んだお酒の記録までいろいろ書きこむ手帳を一冊用意して1月1日から記録を始めました。僕の目標はカロリー摂取と消費を逆転することです(笑)
2009.01.08
「18世紀の禅の高僧、白隠慧鶴は、禅の始祖達磨を描くのにどれだけの時間を要したかを聞かれて、80年と十分と答えた」(『すでに起こった未来』) ドラッカーは、レンブラントの最後の自画像や、モネの光や、カザルスのバッハが、80年の歳月を要したと言えば、西洋では、技術の水準を達成するために80年の練習が必要だったという意味になると言う。 だが、日本人が80年を要したと言えば、達磨を描ける人間になるための精神的な修行がそれだけ必要だったということになると言う。 さらにドラッカーは、禅では、達磨は自画像だと言う。何十年も修行をしなければ、達磨を描ける人間にはなれない。 ドラッカーは、一つの仕事に秀でた芸術家や職人に与えられる称号として、人間国宝の制度を紹介する。日本では、技能は高原に達し、そこで止まるという西洋流の習熟曲線の理論は受け入れられない。高原を突き抜け、次の高原に達すると考える。 学習とは、自己啓発による精神の錬磨であって、技能習得のためだけの行為ではない。それは人間を変えるものである。 そのドラッカーが、今日の日本では、洞察と英知が危機に瀕していると危惧する。 「はたして日本は、今なお精神的人物画としての達磨を描き『どふ見ても』と言えるようになるための学習を取り戻し、学習を本来あるべきものとすることはできるだろうか」(『すでに起こった未来』)本当の意味で日本での教育を原点から見直していかないと近い将来、国力は最低、世界からの落ちこぼれになること間違いないだろう…早くすべてにおいて改革を実現すべきだ!
2009.01.07
「ムーンライトながら」臨時列車化へ大衆的鉄道文化の終焉を惜しむ 東京~大垣駅間を結ぶ夜行快速「ムーンライトながら」。かつて「大垣夜行」と呼ばれたこの終夜列車は鉄道ファンのみならず、多くの日本人にもお馴染みの列車である。特に青春18きっぷ(季節限定でJRすべての普通列車・快速列車が1日中乗り放題になる切符)のシーズンは、多くの旅行客で溢れ返ったものだ。 しかしJR東日本とJR東海は、本年度末(2009年3月14日)をもって「ムーンライトながら」の定期運行を取りやめ、多客期のみの臨時列車とすることを決定した。それは近年になってブルートレインなどの長距離夜行列車が相継いて廃止されていることとも何らかの因果関係がありそうだ。今回はいち鉄道ファンの偏った意見だけではなく、客観的視点から見た利用状況、並びに社会的背景を覗いてみよう。「ムーンライトながら」の人気はコストと快適性「ムーンライトながら」は、青春18きっぷのシーズンが近づくと指定席券が早々に売り切れてしまうことで知られている。JRの規定では、指定券の発売は乗車日の1カ月前と決まっている。まさにその1カ月前の午前10時過ぎにはもはや指定席券が取れないという人気ぶりなのである。この人気を支えているものは2つある。「ムーンライトながら」ならではの安い移動コスト、そして快適性である。 青春18きっぷは5枚綴りの販売で、1セット1万1500円だ。つまり1枚のチケットは2300円。切符の有効期間は改札を通った日の夜12時までなので、日付が変わる小田原駅までの乗車券として1450円(東京駅から乗車する場合)、そして座席指定券の510円の合計4260円で大垣駅まで座って行ける。 その後も普通・快速列車を乗り継げば、驚くことに当日中に(つまり1円も追加料金を支払うことなく)熊本まで到達できるのだ。東京~熊本間の片道乗車券は1万4700円もかかることを考えると、4260円は破格の値段である。また「ムーンライトながら」はJR東海の特急型車両を使用しているため、乗降口は車両の両端にしかない。だから夜風に晒されることもない。更にリクライニングシートまで備えているので、まったく快適な一夜が約束される。つまり「ムーンライトながら」はこれだけの安い料金で(青春18きっぷを使うことが前提だが)、素晴らしいサービスを誇る名列車なのだ。 惜しむらくは、乗客で溢れ返るのはまさに青春18きっぷの利用期間だけだということだ。期間以外となるとその利用状況は惨憺たるものである。一つの車両に数人程度ということも珍しくはなく、さながら空気を運ぶだけの回送列車のようだ。「ムーンライトながら」を本当に必要としている人の声はJRに届いているか このような状況になった背景には、やはりJRによる新幹線への意図的な乗客の誘導がある。なにしろJR東海は東京~新大阪間を最速2時間25分で結ぶ新型車両のN700系を持っている。こちらのほうが顧客単価は数倍も高いし、輸送力だってケタ違いだ。効率からすれば夜行列車の存在意義などなきに等しい。「4000円かそこらのはした金で熊本まで行かれてはかなわん」といわんばかりだ。 いや、JRの考えもわからないではないのだ。夜行列車というものは深夜に停車する駅にも業務が生じるため、合理化の妨げになる(これは同じ時間帯に走る寝台列車にも当てはまる。長距離を走るために遅延しやすく、朝の混雑する電車のダイヤにも影響を及ぼすという致命的な弱点がある)。 また、前述した「ムーンライトながら」ならではのメリットにしても、こと「ビジネス用途」という視点で見ると微妙になってくる。京都・大阪まで行ってくれるのならまだしも、終着駅は大阪まで150kmもある大垣駅だ。しかも到着時間はまぶたも重い早朝だ。「だったら新幹線で行こう」「安くあげたいなら片道5000円の夜行バスでいいや」となるのは自明の理である。これは、近い将来にリニア新幹線の開通を見込んでいるJR東海にとっては「渡りに舟」といったところだろう。リニア新幹線の開通コストは、一説には5兆円ともいわれている。JR東海としては、短時間で高収益が得られる新幹線へと乗客の流れを振り替えることで、いささかでも資金を確保しようという思惑があるのだと思う。 それはそれでいい。ただし私が問題だと思うのは、その思惑があまりにもあからさまに見て取れるということである。「ムーンライトながら」が本当になくなったとして、では貧乏な学生や所得の低い若者がようやく里帰りを得る機会を得たらどうか? そこには大金を払って新幹線に乗るしかないという状況しか私には思い浮かばないのである。 普通列車を乗り継いでいけばいいって? しかし、仮に東海道本線の普通列車に乗ると、東京~大阪間で6回以上の乗り換えを要する(東京駅を出る時間帯によって多少異なる)。だから鉄道ファン以外にとってはあまり現実的な手段ではない。 つまり「ムーンライトながら」を臨時化しようというJR東日本・東海には、純然たる利用者である「お客様」の声は届いていないのだ。ましてや私のようなや生産性のない気まぐれな旅人の気持ちなど、端(はな)から考えようとする気持ちなど持ち合わせてはいまい。これが公共交通事業者としての使命よりも、営利目的を優先させようとする一企業の姿だ。経済効率を優先して鉄道網を軽視すると国が滅びる 私は近い将来、日本中の赤字ローカル線が廃止になり、大都市間を結ぶ新幹線とその周辺地域の通勤電車しかない鉄道になってしまうことを危惧している。これは地方の過疎化を更に進行させ、いずれ日本全体の国力を衰退させてしまうと考えている。誇張と思われるかも知れないが、明治時代の文明開化以来、この日本という国の繁栄と経済成長は鉄道が造った歴史に他ならないからだ。話は変わるが、私は全国の田舎に点在する、利用者の少ない「秘境駅」を訪ねて旅をしている。現在は広島に越してしまったが、東京に住んでいた頃は「ムーンライトながら」は旅行プランの本丸としてしばしば利用したものだ。当時は自由席があり、ハイシーズンにはあまりの混雑にデッキへ追いやられたが、自然と周りの鉄道ファンと親しくなり、豊橋や名古屋までの時間があっという間という楽しい時間を過ごした。 一日の会社が終わって東京駅に着くと、いつもの列車が待っていてくれる。ビールとつまみを片手に乗り込めば、まるでそこは我が家のように暖かいソファーみたいな座席があった。発車して暫くすると、並行して走る京浜東北線の乗客と思わず目が合う。彼らは家路、私は旅先。大衆列車ではあったが、奇妙な優越感さえ覚えたものだ。そんな思い出が詰まった列車が消えて行くのは、やはり寂しい。 時代の流れとは、人々の心と裏腹な方向へと突き進む運命なのであろうか? 次の世代を担う鉄道ファンに向かって「その昔、夜行列車というものがあってな」「とても混雑して疲れたが、その先に待っていた線路を乗りつぶすのが何よりも楽しかった」などと、懐かしそうな顔をして話している自分の未来が、少しばかり曇りがちに見え始めて来ている…。牛山 隆信(うしやま・たかのぶ) 1967年生まれ。サラリーマンと並行して旅行作家としての活動を続ける。「秘境駅」(深い山奥や無人の原野に存在している利用者の少ない駅)という言葉の考案者。現在も積極的に秘境駅を訪問して記録を取り続けている。著書は『秘境駅へ行こう!』(小学館文庫)など多数。実はこの著者とは以前の勤め先(出版社)でお会いしたことがある。同僚の紹介だったが、同年代の彼とはウマも合い、なによりお互い鉄道の旅が大好きであることが幸いした。この国の一番便利な乗り物はどう考えても列車である。飛行機も大好きだが、列車旅と比べるとやはり物足りない…飛行機や新幹線はやはりビジネスユースな乗り物なのだろう・・・。今回のダイヤ改正に物言いしたいのは、牛山氏とまったく同じ理由からだ。鉄道の旅が自由にできるように少しばかりのローカル線や長距離列車を残してもらいたいなあ…JRの役員さんたちに切にお願いしたい…。
2009.01.07
ショッピングと買い物は本来同じ意味だと思うが、微妙に使い分けられているようだ。前者のほうが楽しみの度合いが高い。デパートに「ショッピング」が似合うように、スーパーマーケットには「買い物」が似合う。スーパーでの買い物はやや苦痛を伴うようで、買い物している人の顔もあまりニコニコしていない。義務感で来ているというようで。さて、そういうスーパーの中で美人はとても際立つ。どう際立つかといえば、「ショッピング顔」なのである。義務感ではなく、楽しみに来ている。スーパーなのに「ショッピング」だ。その動きを見てみよう。まず、計画的である。メモを持っていることも多い。だから、きちんとした流れで動ける。スーパーでの流れを無視して逆流している人がいるが、悲しいことにその瞬間「美人のもと」がなくなっていることにも気づいていない。そして、モノを真剣に選ぶ。いいものを発見しようとする目が優しい。いいものとの出会いを楽しむかのように。例えばキャベツを見比べて、選ばなかったほうを棚に戻す時でもやさしく置く。「ごめんね」と。義務感さんはネガティブチェックだけして、失格となったものを投げるように置く。キャベツが泣くぞ。いいものを見つける姿勢は本当にいいものを見つける。掘り出し物や珍しいものを発見する。義務感さんは自ら発見する機会を失っている。モノに対する優しさを育てたい。その方法は簡単である。挨拶だ。スーパーに入り、店員さんに「いらっしゃいませ」と言われてそれに応えることである。笑顔で「こんにちは」でいいのだ。その瞬間に「美人のもと」は成長する。挨拶のやり取りだけでも店での優しさが芽生えるのだ。優しさを持つと、自然とカゴの中も整理されて、入っていく。美人のカゴの中はきれいに並んでいる。それを見ているだけでも気分がよくなる。そしてレジ。もちろん、ここでも挨拶。カゴの中が整理されているので、会計もスムーズだ。美人はきちんと計算をする。提示された金額に対し、なるべくスマートな金額を渡す。レジの人もおつりがシンプルでうれしい金額だ。そして財布を太らせない。財布まで美人になる。昼になると、人気のレストランの前は行列ができる。楽しいランチだ。お弁当屋さんやコンビニでも行列ができる。中食派だ。オフィスなどでお弁当を食べる。これも楽しいひとときだ。お弁当を楽しく食べよう。これだけで「美人のもと」が増えていく。その楽しさを追求するだけで、ずいぶん違ってくる。重要なポイントは、買う時。迷いすぎない。迷いすぎると行列の回転が悪くなる。その迷いとは実は小さな迷いであることを自覚しよう。それなのに「悩んじゃう」などと大袈裟な表現をする。「悩む」とはもっと大きな問題の場面にとっておくべきだ。小さなコロッケが入っているかどうかで「悩む」ことはやめよう。どう選ぶか。並んだお弁当、もしくは写真を眺めて、輝いているものを選べばいい。輝いて見えるものが食べたいものだからだ。そして選んだことに喜びを感じよう。いつまでも迷っていると、結局迷う時間考えたことで、満足しないものを買うことになってしまう。すばやく選び、満足することが重要。そして、食べる。満足したものを食べる。当然、そのお弁当に正しく向き合える。おいしい。おいしいものに向き合って食べている姿は美しい。そして、食べる時間を楽しくしてくれる。視線は一緒に食べる仲間の顔と自分のお弁当が適度に行き来する。会話も楽しくなる。迷った結果、満足できないお弁当を食べることになった人は、視線が他人の顔ではなく、他人の食べ物ばかりに行く。「あれにしておけばよかったかも」。後悔しながらうらやましくも思う。お弁当を楽しむ美人はおいしそうに食べるからなおさらうらやましくなる。他人の食べ物ばかり見ていると、姿勢も顔もくずれていくのだ。背中が丸まって、異常に下顎が前に出てくる。そんな姿は「美人のもと」に悪い。自分の選んだお弁当にプライドを持とう。私はおいしいものを食べていると喜ぼう。そして、たまには自分で作ってみる余裕があれば、なお美しくなるはずだ。まさに美人になるたねには、いろいろな方法があるものです。女性だけでなく男性も、このように今年からはウルトラポジティブに過ごして自分自身や廻りの人たちも幸せになるように生活していけば世の中の不況風に負けずにすごせるのではないでしょうか?なんてことを考えながら昨日はデパ地下で買い物をしていました(笑)やはり美しい人は立居振舞から内面まですべて美しいのだ!写真の美人は確かスキーの選手だったかなあ…(笑)
2009.01.06
Friend-- I'm about to head to Grant Park to talk to everyone gathered there, but I wanted to write to you first. We just made history. And I don't want you to forget how we did it. You made history every single day during this campaign -- every day you knocked on doors, made a donation, or talked to your family, friends, and neighbors about why you believe it's time for change.I want to thank all of you who gave your time, talent, and passion to this campaign. We have a lot of work to do to get our country back on track, and I'll be in touch soon about what comes next. But I want to be very clear about one thing... All of this happened because of you. Thank you, Barack 友よ、私は今からグラントパークに集まっている人たちに話すために出かけるところです。でも、その前にまずあなたに最初にメールを書きたかったのです。私たちは今まさに歴史をつくりました。私たちがどうやってこれをつくったかをあなたに忘れて欲しくない。あなたは、このキャペーン期間中、毎日歴史をつくりました。毎日ドアをノックして、寄付をして、家族、友人、隣人に、なぜ今変革を信じるのかを語りました。私は、このキャンペーンに、自分の時間、才能、情熱を与えてくれた、あなたたちすべてに感謝します。私たちはこの国をあるべき姿に戻すために多くのことをしなければなりません。私は次にやるべきことについてすぐにまた連絡します。ただし、私はこの一つのことに関しては非常に明解にしておきたいのです。これが起きたのは、すべてあなたがいたからということです。ありがとう。バラクこれぞ民主主義の本質であると讃辞をおくりたい。応援してくれる支持者あてにメールでオバマ次期大統領から届いたメールの全文です。民主主義の選挙にはお金がかかるのは現実です。どこかの国ではお金のかからない選挙といっていますがどうやって選挙のポスターを刷りますか?どうやって集会の場所を確保しますか?みんなお金がかかることです。スタッフがボランティアで働いてくれてもその後の光がなくても候補者を応援しつづけていけますか?民主主義で選挙キャンペーンで勝つには、まさにオバマ次期大統領のような戦い方が本来の選挙の姿だったのです。そのことに改めて気付かされた選挙結果でした。これからアメリカ経済はまさに泥船のごとくの変革が必要でしょうが、民主主義の本質を貫いていけるアメリカならば数年で経済も立ち直るでしょう!この日本という国の未来の方が僕にとっては、よっぽど心配で危惧がぬぐえないのです。新年早々ですが本来の民主主義について考えました。
2009.01.05
以前M&Aをしているときに中国人のコンサルとも一緒に仕事をしたが、その時に彼らのビジネススタイルに大きな違和感をもっていた。なぜなら彼らはミスをまったく認めないどころか、あからさまに失敗事例に対してはパートナーに対して損害賠償すら要求しかねない歩とたちだったからだ!数年前に某有名家電メーカー(最近超巨大企業に買収されることになったが)の依頼を受け中国に売りにいったことがある。全部で300万台のカーナビだったが民間に売買するのは先のパートナーは万全だから任せと言っていた。ところが人民解放軍に賄賂を配らなければ売買できないと話にきた。当然日本では違法なので断ったら、その契約は跡形もなく消えた。数日後、そのパートナーは法外な違約金なるものを請求してきた。どう判断しても支払い義務がないので断ると、二度と中国ではビジネスができなくなるといってきた。まるで三流のやくざだ(笑)。実はその男はビザの関係で日本から国外退去になりそうな時に僕が役人時代のコネを使いビザを延長してやった。つまり恩人である僕にさえ、そのような態度をとるのが中国人のビジネスマン(笑)だ!その後、香港企業との共同作業で無事300万代のカーナビは人民解放軍に売ってきた(笑)。そんな昔の出来事を思い出した記事だった。以下にご紹介します。私が中国で働いていた時、まず最初に学んだことが「謝らない」ということでした。日本人は上司に怒られたらすぐに「すみません」と謝る傾向があります。以前の私もそうでした。その方が礼儀正しく、好感度も上がると考えていました。 ところが中国で働いてからはその認識が変わりました。同じ職場の中国人女性(25歳)は、自分のミスで上司から怒られても最後まで謝罪しませんでした。その時、彼女は上司から頼まれた取引先とのアポイントメントをダブルブッキングしていました。上司は、「どうしてこんなことになったんだ!」とカンカンに怒っていました。 この場合、いかなる理由があってもまず最初に謝るのが日本人だと思います。けれども、彼女は反論しました。 「部長がこの日にアポイントをとってほしいと言ったんです。その日はスケジュールがタイトだったので、アポイントが重なりました。そうなったことをメールで部長に連絡しましたよね。メールを確認して私に指示しなかったのは部長ですよ」 こう言われてその部長は自分の非も認め、それ以上は彼女を責めることはありませんでした。 この彼女の例は極端かもしれませんが、少しでも自分のミスがあれば謝るのが日本の常識ですが、中国では多少自分のミスがあっても、それを簡単には認めません。そういう事態が起きたのは、自分以外にも責任がある、むしろ自分には責任がないぐらいだ、という勢いで反論します。 これには、それなりの理由があります。 中国では、ミスを認めると全責任を取らされて会社を解雇される場合があります。解雇されるだけならまだしも、損害賠償を請求されることもあります。 日本では、何かミスをしても最後は上司や会社が守ってくれると考えがちですが、中国では上司や会社がなんとかしてくれるという甘い考えでは生き抜いていけません。 中国人は日本人に比べると、かなり仕事をシビアに考えています。このため、中国人は仕事をする時は、責任の所在を明確にします。また、「働く時間=金」と考えているので、何か問題があった場合は、その時間分の損害金額を考えることもあります。 こういった考えの違いがあるために、中国人ビジネスパーソンは簡単にミスを認めることはしません。そして、一つひとつの仕事のやり方にも、自分を守るための工夫を凝らしています。この時は特に、「責任を明確にする」と「時間を大事にする」ことを重視します。 中国ではビジネスの世界において口約束はまず信用しません。すべてメールや文書できちんと証拠を残します。会社間の取り引きだけでなく、上司から依頼される細かい仕事でも考え方は同じです。何か問題が起きた時は、その証拠をもとに自分に責任がない、相手の方がさらに責任があると認めさせなければなりません。証拠があれば、「言った言わない」の水掛け論にはなることはありません。 例えば、「○○社にアポイントを入れてくれ」と上司に電話、または口頭で頼まれたとします。この場合、先方の会社にアポを入れる前に上司にメールで「16日に○○会社と当社会議室でアポイントを入れますが、いいでしょうか?」などと確認します。 日常的によく頼まれる仕事は、頻度が多いだけにお互いに言葉不足になりがちです。それでもメールを使って文書でやり取りを残しておけば、ミスが発生しても上司に一方的に責められることはありません。むしろ上司の確認ミスと責めることができます。 「分かりきったことをいちいちメールで確認してくるな」とうっとうしく思う上司もいるかもしれませんが、中国では自分を守るために仕事のために自分が動く時は、それをこと細かく上司にメールします。 仕事の進め方でも同じです。「頼まれた○○の業務を○○の方法でやります。これは○○時間かかりそうで、明日の○時から取りかかり、○日の午前中には提出します」と明確に上司に伝えます。“暗黙の了解”という考え方はありません。 手がける仕事をどうしてやるのか、なぜ自分がやるのか、といった理由も事前に上司に確認します。そして誰が結果について責任を持つのかも明確にします。 基本的に中国のビジネスパーソンは、責任だけ押し付けられる雑用は頼まれても拒否しようと考えます。「いくら部下でもただこき使われるのは嫌だ。すべての仕事には、理由と目的がある。これは、自分の貴重な時間を使ってすべき仕事なのか」と上司に問いただします。 常にキャリアアップを考えている中国のビジネスパーソンにとっては、会社の都合のいいように働かされることをよしとしません。「自分の時間はすべて次のキャリアアップにつなげたい」。だから時間を大切にするし、こき使われるのを嫌います。 当然ですが、失敗する確率が高く、責任を取らされそうな仕事はしません。中国では、残業をすることは仕事ができないことをアピールしているのと同じなので、なおさら面倒な仕事は引き受けません。 中国のビジネスパーソンは、とにかく仕事に対しての考え方がシビアで、常に自分を守りながら仕事をします。上司に理不尽な怒られ方をしても、逆に証拠をつきつけて文句を言います。 普通に考えれば、上司はそんな部下を使いづらいと思うことでしょう。ですが、こういった考えは中国だけではありません。ほかの多くの国のビジネスパーソンも同じ考えで働いています。 諸外国からは「日本人はすぐに謝るけど、同じ過ちを何度も繰り返す。謝罪をして一時的に反省もするが、根本的には何も改善されない」と、謝りすぎる日本人がバカにされたりもします。 会社は業績が悪化すると、直属の上司もトップから圧力をかけられていて忙しくなり、部下の扱いが粗末になったりします。こういった時に何か問題が起きると、部下に全責任をなすりつけるケースが増えていきます。 上司が常に自分を守ってくれるとは限りません。いざとなったら会社から切り捨てられてしまう意識を持って働かないと、本当に切り捨てられてしまう日が来てしまうかもしれません。日本のビジネスパーソンも中国と同じく、自分の身は自分で守らなければなりません。
2008.12.29
遥洋子氏の経験から感じ共感するのは、人間の社会適応性に学力は関係ないだろうということだ・・・結局は人間力の差、謝罪すべき時に謝罪できる人間性の持ち主かどうかで、人のもつ価値は半分以上決まってしまうということだろう・・・自身も反省し、かつ、それに見合わない愚か者には、なるべく関わらないようにしよう・・・耳が痛いと感じる人とは、きっと、この先も長い、お付き合いになるだろうし・・・そう思わない愚か者は関わることもないだろうが…(笑)以下、遥氏の感想・・・今年の後半はトラブル続きだった。駆け出しの働く女性から、ベテランの営業マンから、果ては、管理職のエリートキャリアウーマンに至るまで。恨みたくなるほど、多くの人たちとトラブッた。 これらいくつかの事例は既にこのコラムで紹介済みだ。一体どうしてこんなことに巻き込まれるのかと、じっくり考えてみた。特に、相手が女性の場合、問題が起きた背景になにか共通点がないか気になり検討してみると、いくつかそれはあった。 まず格闘して思ったのは、女性の自尊心の高さが硬い壁となって存在したということだ。それはキャリアの歳月の長短に関係ない。自尊心が自らを省みることを退け、自尊心が成長を止めているように私には映った。彼女たちに共通していたのはまず、自分の非を認めないというところだった。私はそれを許さなかったから彼女たちとトラブッたというわけだ。 自分自身の正当化や責任転嫁に、彼女たちは自尊心を総動員したような印象を受けた。だが、彼女たちがそこまでして強固に守り抜いた自尊心は、実は自尊心なんかではなく、「自分は自分が思うほど仕事ができる女ではない」と自覚できない、弱さ幼さの鎧にすぎない。 もしこれが、「あ、自分は正当化している」とか「私ったら責任転嫁してる」と自覚できていたなら、それほどまでに強固な主張はできただろうか。自覚できないからこそ、朗々と正当性を主張できたのではないか。そして、「自分は間違っていない」と死守するほどに、その人に成長は、ない。そこにあるのはそうやって生きてきた結果としての“幼さ”だ。 自分の非を認めるのは、辛いことだし落ち込むし惨めになるし自己嫌悪で救われない感情に苛まれる。そんなの私だって避けられるものなら避けたい。だが私の経験では、成長はその落ち込みからしか生まれないのだ。 これら一連のトラブルで得るものもあった。 トラブル解決のために登場した役員の男性社員がいた。問題を起こした女性の、上司にあたる男性だ。 彼は私に会うなり一度だけ深々と頭を下げて部下の不始末を謝った。それから私の話をじっくりとただ聞いた。私が、自分の話が男性に届いた、と自覚できたのは、その男性が私の話を聞くほどに、目に見えて落ち込んでいったからだった。「情けない」をその男性は何度か口にした。 話し終えた私に、「もうほかに僕が聞いておいたほうがいい話はないですか」とまだ聞こうとする姿勢を崩さなかった。そして「これですべてです」と言うと、別れ際によりいっそうに深々と頭を下げて、再度の詫びを言った。 部下には自尊心が邪魔をして届かなかった話が、より高い自尊心があっていいはずの上司にはストレートに届き、届くほどに彼は上司としての自己嫌悪に陥っていった。それを目の当たりにした私は、彼がなぜ組織の長になれたかを理解し、彼がおそらくこの問題を見事に解決してくれるだろう、と予感した。 また、まったく別のトラブルを起こした女性の上司である男性にも会った。 彼は私を見てまず部下の不始末を謝った。だが、そこから私が事情を説明しようとすると、話の途中でまた謝った。彼に謝られるほどに私は違和感を覚えていった。「謝る前に、まず、理解をしていただけませんか」と、彼が次に謝るのを私は止めた。 私がこの一連のトラブルで得た事は、“謝り方”の作法だ。 謝りに行ってもっと怒らせる人がいる。かと思うと、見事に相手の怒りをガス抜きする謝り方ができる人もいる。相槌のように謝るというのは最も避けたほうがいい。詫びはまず最初に1回。次に相手の話をじっくり聞き理解する。そして最後にもう1回。 まるで茶道のたしなみのように、自分の人生で誰かに詫びなければならない時がきたらそういう作法を身に着けようと、私はその見事な詫び方を心に刻んだ。 次に、トラブルは避けられただろうか、ということも検証してみた。私に反省点がないわけではない。その女性の肩書きや経歴を過信したということが一因としてある。キャリアの長さや地位などはその判断材料の最たるものである。 だが私が、その女性と仕事したときに最初に抱いた感触や空気感というようなものをもっと重要視していたら、トラブルは深刻なレベルにまで達することはなかったのではないか。その人に対する過信が、手前のささやかな「ちょっと待った」の警告を見逃させたとも言える。 そして発見したこと。 過去、私たち女性が、自尊心のお守に疲弊する相手は「おじさん上司」だった。だが時代が変ったと思う。私という働く女が、最も格闘したのは、同じ働く女であるキャリアウーマンの自尊心の高さであり、救われたのは、おじさん上司の謙虚さだった。 もちろん有能な働く女性が社会に満ち溢れているのは知っている。だが、その勢いに乗って、組織には未熟な女性が混じることもある。 「おじさんは・・・」とか、「女は・・・」とかでひとくくりにはできない時代とはこういうことを指すのか、と、苦々しく再確認した私の一年だった。 みなさんはどうでしょうか?自分が組織社会にいたときのことを思い起こし反省もすればあくまでも最近の女は…最近の若い奴は…と、まだ言ってみたくなりますか?(笑)
2008.12.26
今回の日記は良書の紹介を(笑)毒と薬は紙一重。本書は地球の誕生から、現代までの、この紙一重の毒と薬の世界史となっている。太陽系の中で地球という惑星が現在の形を取り始めたのはざっと46億年前。灼熱した球体が次第に冷えて、地球上に微生物が誕生したのは32億年前。このとき同時に鉱物由来、微生物由来の毒も誕生した。 微生物から進化した生命はやがて植物や動物の形を取り始め、繁栄を始めた。この時期にすでに毒性物質が地上には溢れていた。 ところで、地球上に登場した何千億もの生命体の99.9%は絶滅してしまった。この厳しい生き残り競争の中で、現在もっとも繁栄しているのは人類(ホモサピエンス)である。 それでも、現今の地球上には何千万種とも言われる生命体が生き残っている。その中には生まれながらに毒性を持った生物が多いし、薬効を持った生物も多い。 毒性は使い方ひとつで薬に転じる。また薬は毒に転じる。 メソポタミア文明(チグリス川とユーフラテス川に囲まれた地域)では、その遺跡の発掘と、彼らの独特の粘土板に刻まれた楔型文字の解読によって、250種以上の植物性薬、180種の動物性薬、120種の鉱物性薬の記述があった。これらの薬は裏を返せば毒と言うことでもある。 メソポタミア文明は、そのままエジプト文明に受け継がれる。エジプト文明の記録はパピルスという、織線布に書かれたヒエログリフで伝えられた。なかでも、ドイツ人のエーベルが発見したエーベルス・パピルスには、700種もの動植物鉱物の薬の記録が書かれていた。もちろん毒も。 古代ギリシア時代の哲人ソクラテスは、死刑を言い渡され、毒殺による死を選んだ。このときソクラテスはドクニンジンの種子のエキスをあおいだ。その毒死の様子は弟子のプラトンによって、詳細に書き記されている。麻痺がゆっくりと足先から進行していき、その麻痺が心臓に達したら、それが死とされた。 自死を迫られたクレオパトラは、毒ヘビなどを調べ、死の苦悶のいちばん少ないと言われていたエジプト・コブラを選んだ。コブラはイチジクの盛り皿に隠され、イチジクを食べながらコブラに噛まれる手段を選んだという。 草木に含まれる毒と薬は、草木学と言う学問で大いに発展した。その嚆矢となるのは古代ローマ皇帝ネロの時代西歴77年に発刊された『マテリア・メディカ』だった。この書では動物薬80種、植物薬600種、鉱物薬50種と分類されている。本書には「毒は薬なり」という言葉もあるという。 本書は中世の錬金術に触れ、やがて、現代の薬物に及んでいく。最後は麻薬やドーピングの問題だ。毒と薬という切り口で、新たな視点の世界史をうまくまとめてある。 ソクラテスは日本人ならだれもがしっているだろうが、意外にその人物像は知られていないものだ・・・学生時代に哲学をおさめたひとならばわかるだろうが、その思想は弟子であるプラトンとの対比、あるいはアリストレスとプラトンの対比の中でしか正しく理解されることは少ないだろう・・・『嫉妬の世界史』山内昌之著 新潮新書 680円(税抜き) 男の嫉妬ほど恐ろしいものはない、と聞いたことがある。普通、嫉妬は女性の専売特許だろう、などと思うのは、もてる男のグチに過ぎない。世界史の碩学である著者が、人間の世界史を猟渉すると、男の嫉妬が遠因となった事件が多いのに驚かされる。 古代ギリシアの政治家テミストレクスは、ある時嘆いた。 「自分はまだ妬まれたことがない。何ひとつ輝かしいことをしていないからだ」 江戸城を築いた太田道灌は、才人だった。後花園天皇に、武蔵野の眺望を問われて、即座に和歌で答えた。 露おかぬ方もありけり夕立の空より広き武蔵野の原 我が庵は松原つづき海近く不二のたかねを軒端にぞ見る 道灌はその才が流麗であったが故に、主君に疎まれ、殺害された。このような和歌を詠んだことで、君主の妬みをかい、暗殺されたのだ。 個人的な怨念や妬みを公の世界に持ち込んだ独裁者ではスターリンを超えるものはいない。トハチェフスキーやトロツキーなど、自分より才能と人気のある男たちを妬み、次々と粛清していった。トロツキーに対しては、刺客をメキシコにまで差し向ける騒ぎだった。 げに、注意を払うべきは「男の嫉妬」であろう。みなさん、周囲をとくと御観察のほど。道灌ほどの多芸多才な人も現代では少なくなったと感じるが、僕は道灌には少なからずの親近感を覚えている。武家出身の家に生まれたからだろうが・・・文武両道、武芸百般と教育されたので彼のようにまだ国家として激変する時代にあって才能をいかんなく発揮したが故に暗殺されてしまうのは現代日本にも通じるのかもしれない・・・『ネアンデルタール人の正体 彼らの悩みに迫る』 赤澤威編著 朝日選書 1400円(税抜き) 前に聞いたことだが、ニューヨークの地下鉄に、髭を剃ったネアンデルタール人が背広を着て隣に座っていても、気付く人はいないという話。そのときは、本当かな、と思ったけれど、本書のカラー口絵にまさに、そのようなネアンデルタール人が掲載されている。 人種のサラダボウルと言われる、ニューヨークではよほど変な奴でなくては注意を引かない。本書に掲載された背広姿のネアンデルタール人は、そのまま、ロックフェラーセンターのオフィス街に連れていっても、立派にビジネスマンとして通用するだろう。 我らホモサピエンスと一緒に歩き始めたネアンデルタール人は、人類の世界史の中で初めて出会った仲間でもある。 1856年ドイツのデュッセルドルフにほど近いライン川の支流が刻んだ谷間から、化石人骨が発見された。その谷は「ネアンデルの谷」と呼ばれていた。人骨の出土はおびただしく、あっという間に人体を構成するだけの化石が発見された。この年はダーウィンが『種の起源』を刊行する3年前のことになる。 化石群が語り始めた物語は、ネアンデルの谷(ネアンデルタール)の人々は、当時、キリスト教神学で信じられていた『創世記』の内容を覆すものだった。アダムとイヴが住む楽園から、禁断の木の実(リンゴ)を囓って追放された時期は、紀元前6000年とされていた。 ところがネアンデルタール人の化石が眠っていた地層は20万年前から5万年前ほどの間に堆積された地層だった。『創世記』の記述にノーを突きつけた。それでも、学者の中には、発見された人骨はノアの方舟の時代に大洪水で溺れ死んだ人たちだ、という学者まで現れた。 さらにダーウィンがこともあろうに、現代のホモサピエンスの先祖は数百万年前にはチンパンジーであり、そこから枝分かれしてホモサピエンスに進化してきた、とまで言い出す始末だ。人類学や宗教学は、続けざまの強烈なパンチを食らった。 現代では、ネアンデルタール人はホモサピエンスと親類だ、とは言わない。ホモサピエンスとネアンデルタール、あるいはクロマニオンと言った、ヒトの種が同時並列的に発生し、競い合っていた。 そして、数万年前にホモサピエンスが出アフリカを果たし、その長い道のりの途上でネアンデルタールと出会い、クロマニオンとも出会い、生存をかけた戦いの結果、ホモサピエンスが生き残り、全地球に広がっていった。このシナリオは本書に詳しく論じられていて、DNAや脳などの研究の進歩によって、裏付けられている。 学校の教科書で学ぶ世界史のずっとずっと前に、もう1つの世界史があったのだ。みなさんもお子さんに「勉強しなさい」ばかりではく時には、こうした良書に親しむ姿勢をお子さんにみせれば来年からは優秀なお子さんに生まれ変わるかも知れませんよ(笑)
2008.12.26
気になる記事、男と女ってやっぱり全然違う生き物だよなあ・・・ドライとかウエットというよりは、生きる目的が生物学的にも心理学的にも違いすぎる(笑)だから理解しあえないものなんだろう・・・いつも読むコラムに以下のようなものがあった。別れ際の綺麗さ潔さを男を求め、女はそんなものには未練など微塵もなく別れられる!そういうものなんだろう(嘆)しかし、男でも泥沼のような別れをする奴をしっているし、そいつが女々しい男だったとは思えないんだけどなあ・・・今年気になったエッセイの一つ、クリスマス気分の抜けない私にはドカーンと響いた記事でした(笑)。決断力。男らしい言葉であります。優柔不断。これもまた、男性を形容するのに相応しい言葉であります。 矛盾はしていません。きっとこういうことです。優柔不断にだらだら結論を先送りした臨界点で、ドカンと決断する。 どうも雄々しい男性は、結論はひとり長考の果てに出すものと決めつけているように思えます。 考え抜かずあっさりと、もっと気楽にやっていいんですよ。 仕事の場では出来ていると思うのです。報・連・相。それぞれの時点での結論を、揉んでいるわけですよね。 でもプライベートとなると口を閉ざす。開いたとしてもイイコトしか言わない。奥さんの悪口や子供の愚痴を言ったとしても、そんな些細なことが問題になっちゃうような平和な俺ファミリーという枠組みありきの物語。 翻って女はどうか。トイレで更衣室で給湯室で、結論そっちのけで話していますよ。家族の話、男の話。もう一人の男の話。さらにもう一人の男の話。ついでに昔の男の話。 あわあわあわ。そんな話、上司に知れたらどうするのって?いいんです。彼女たちは、きっとどこかで知っている。 たとえ家庭で恋愛でうまくいっていなくても、それは会社での評価になんら結びつかないのだということを。それにそんなことに上司が言及したのなら、それはセクハラだと糾弾できるってことも、知っているんです。 もちろん、男はすべてこう、女は全部こう、という話をするつもりは、ありません。 けれど一般に男性も、もっとプライベートを報・連・相してみたらいいと思うんですよ。「いやあ俺、結婚しなきゃならなくなりそうなんだよね。既婚者なのに」とか。 ホントにこんなことあるんだ、と、私はモニタの前で固まり、そして関連ニュースを探しました。みなさまも記憶にあるでしょう。のっぴきならないわけあって、結婚式場に放火しちゃった男性の話です。 ある未明、結婚式場に火が放たれた。幸いけが人は出なかった。火を放ったのは、男。その日そこで式を挙げる予定の新郎だった。実は彼にはどうしても結婚できない事情があった。彼は既婚者だったのだ。いわく「式を延期して、妻か彼女かを選ぶつもりだった」。 男は、妻とは離婚したことにして、彼女にプロポーズをしていた。知人を自分の父親に偽装するなどして、なんとかそれまでしのいできた。その結果の、現住建造物等放火と建造物侵入での逮捕、起訴。 世の耳目を集めざるを得ない事件です。 彼と彼女が出会わなければ、そこに式場がなければ、などなど、事件の芽を摘める可能性はいくらもあるでしょう。 ここでは、彼がもし、いくばくかでも女々しければ、という見地で考察したいと思います。 女々しければ。 まずは、若い彼女にいい顔をしようとしなければよかったのです。 「最初に言うべきだったよな」とはある壮年の既婚男性です。「バッカだなーってたいていの人が思ったでしょう、あのニュース」まあ、そうかもしれませんが。で、最初に言っておけばよかったんですか。「それが最低限のマナーでしょ」と。 既婚者だと知っての付き合いであれば、まあそれはそれで大変でしょうけれど、今回のような末路にはならなかった。 でも、“最初”って?学生の頃は比較的はっきりしていましたね。「付き合ってください」と言って交際が始まっていましたから。でも大人はなんとなく付き合いが始まることはないですか? なんとなくだから最初がわからない。いつ言えと言うのでしょう。初めて目があった時? 「いや、そうは言わないけどさ。なんとなく話に登場させるんだよ『うちの妻が』なんてさ」 うーん、そうですね。でも『こりゃもうちょっとで落ちるな』と思った時には、隠したまま突き進んだりしませんか? 「いや、だって隠したままなんて無理なんだから」 いや、でもこの彼は、プロポーズしちゃったんですよ。 「だからバカって言うか、不器用なんだよ」 ああ、なるほど。 「女の子はうまいよね、さりげなく会話に『旦那が』『彼が』って入れるの」 おっと。語るに堕ちたふりをする、ということですね。ま、女はみな女優ですから。 しかしこの彼には、最初で躓いてもまだ、女々しくなるチャンスがありました。 ぶっちゃけたうえで、優柔不断を貫けば良かったのです。 「いやー、ぶっちゃけ、若い彼女ができたんだよね。どうしよっか~」「いやー、マジな話、女房がいるんだよね。どうする?」 と、相手の女に委ねてしまえばよかったのです。そのときは、すべての登場人物が、それなりのダメージを受けます。会社でも、よからぬ噂が流れましょう。 しかし、きっと女性同士で話がなされます。さてこの男、どうしてくれようかと。 奪い合いになるかもしれません、両方に愛想を尽かされるかもしれません、なんとなくうまくおさまるかもしれません。 それは投げ出した男には決められません。でも、自分の手に負えないのですから、それは当たり前のこと。 けれど彼はそうしなかった。私はそこに、すべての男性の内なる部分に眠っている「全能感」を見る。 俺なら、なんとかなるんじゃないか。 なりませんよ。 「棄ても失くしも/僕は出来ない/ただそれだけは/臆病なのさ」ってサザンオールスターズの「LOVE AFFAIR~秘密のデート」はその一瞬だけを切り出しているから切なく甘い胸を締め付けられるように自己陶酔できる物語ですが、結論には至っていない。 なら最後はどうなるかというと、古くはロミオとジュリエット、平成の世では失楽園や愛ルケをご覧くださいな。みーんな最後には死んでしまうではないですか。愛ルケの場合は男が殺人容疑で逮捕ですが。 放火で済んで、よかったのかもしれません(※放火も十分大罪です)。 俺なら、なんとかなる。この思考は、危険です。 永遠の少年にこういうことを申し上げるのは酷かもしれませんが、「なんとかなる」を夢見ていては、ダメなのです。物事は、自然のままではなんともなりません。誰かが「なんとかする」しかないのです。自分でそれができないのなら、女々しく他人に任せてしまいましょう。 さて、最初のさりげない告白でも躓き、優柔不断も貫けなかったなら。これが女々しくなる最後のチャンス。心を鬼にして、どちらかを切り捨てます。 女の人は、割とよくやりますよね。「私、結婚することになったから、あなたとはもう会えない」って。顔色一つ変えず、悪びれず。 あのですね。男はここで妙に綺麗に別れようとするからダメなんです。嫌われずに別れようなんて、甘い。星影のワルツを歌っている場合ではありません。もちろん、どちらかを選ぶというのは辛く厳しい作業です。しかしそこは一つ、男らしい決断力を一瞬発揮し、それから女々しさを全開にして、冷たい人間になりたいものです。 放火では済まない結論が、待っていたかもしれませんが。 馬鹿にしているように聞こえたらごめんなさい。そういう意図はないのです。 次回は、どれだけ男らしくて女々しいかをどう判断すべきか、己の器の大きさについて考えてみたいと思います。 それでは年内もう少し、お仕事がんばってくださいね。 そうそう。清算した方がいいものを抱えている方は、2008年のうちに、どうぞ。いやー、身につまされるか?笑えるか?人それぞれでしょうけどね…
2008.12.25
昨日は仕事終了後からクリスマスコンサート第3段前半はプロの演奏家後半は私も参加してキャロルや賛美歌マドリガルにクリスマス定番ソングと30数曲を演奏してきました晩御飯が23時になってそれから家でつまみつくって飲んだのでちょっと寝不足ですが今日もしっかり仕事に家事にがんばりますよ!寒くなりましたが5時ころの三日月がとても綺麗でした皆さま、お互い今日も一日がんばりましょうね!
2008.12.24
クリスマスそれは紛れもなく主イエスキリストの誕生日である。この国では商業主義的なクリスマスになってしまってはいるが…ピューリタンが移り住んだ米国では軍隊でさえ多彩なイベントでクリスマスウィークを祝いイブには家族とともにすごし当日は教会へ行く人がほぼ9割に及ぶそうだ…そんな中僕の友人の米国人は今や無神論だと語るが30歳までは教会で過ごしていた…僕は40歳からクリスマスを教会で過ごすようになった…友人関係といっても思想信条はこうも違う…お互いの多様性(ダイバーシティ)を認めつつ平和を祈りたい…そんな日である…
2008.12.23
「女々しい」の対極にある言葉に、「男らしい」があります。昨今のはやりに乗って書けば「漢らしい」です。 何をイメージしますか。丼飯ですか、無精髭ですか。よく食べてワイルド。素敵です。うらやましくも思えます。いいなあ楽で、と。 しかし楽なだけではないのでしょうとも想像できます。その漢らしさを保つには、それ相応の努力が必要でしょうから。 丼飯を食べるには、腹が減っていないとなりません。最近食が細くなってさ、とか、昨日の酒が残っててさ、とか言っていられません。 また丼飯に合わせるおかずと言えば、脂っこいもの味の濃いものと決まっています。さっぱりしたものが食べたいなとか、あっさり済ませたいなとかいう弱気な姿勢では臨めません。 無精髭。これもまたいいものです。しかしいかがですか。歯磨き粉がついたりしませんか。ミートソースはどうですか。ナプキンで拭いてもなんだかすっきりしないですよね。 顔、洗っちゃいますか? 社会人たるもの、そんなに頻繁(はんざつ、ではなく、ひんぱん)に顔は洗えないでしょう。 もういいじゃないですか。 レディスランチ、頼んでみましょうよ。髭は四枚刃ですっきりと。その方が楽ですもの。 女の側から言わせていただくと、それはわりとどうでもいいことなのです。 見た目だけの話ではありません。精神面だって、そうです。 「俺がやらずに誰がやる」→必ずあなたの代わりはいます。誰かにやってもらいましょう。 「男は黙って耐えるもんだ」→いやいや、どんどん愚痴りましょう。意外とみんな、同じことを考えていたりするものです。 「ここで退いたらメンツがつぶれる」→つぶれませんって。とりあえずの試練を回避することも大事です。 「あいつだけには負けられない」→ではほかの誰になら負けられるのですか。いいじゃないですか、全敗で。 こういう持論を展開すると、だから日本男児は、この会社は、この国は、ダメになったのだと反論されることが予想されます。 一理ある、と思います。 ものすっごく女々しい男性か、雄々しさの呪縛から逃れられない男性か、どちらかしかいないような気がするんです。 女々しい方に突っ走ってしまっている男性陣は、もうこれは本当に女々しい。肌もつるつるでネイルケアもして、酒を飲まずにケーキを食べる。それはそれでいいのですが、闘争心がない、覇気がない。 見ていて非常に残念です。 その一方で、ガンとして男らしい方々がいる。そういう方々は、俺が女々しくなんてあってたまるかという姿勢でいらっしゃる。激務の間を縫ってわずかな時間を割き、日経ビジネスオンラインを、明日の仕事の糧にしようと眉間にしわを寄せてお読みになる。 私はそういう、古色蒼然とされている由緒正しい男らしい方々に、ほんの少しだけ女フレーバーを身にまとっていただきたいのです。なぜならば、楽になれるから。 それでも沽券にかかわりますか? でも沽券って、何なんです? 沽券とは、売り渡しの証文のことだそうですが。 女同士の会話には「彼(または夫)って、私の前ではこんななのよ」という、パートナーの子どもっぽさ自慢がつきものですが、本当に耳を疑って眉に唾したくなるような話に事欠きません。 「背中を掻いて」と家中、奥さんを追いかけまわすとか、語尾に「ニャー」をつけずに話ができないとか、ちょっと間違えればキモいと断罪されそうなことも、多々あります。 いやもちろん、職場で部下に背中を掻いてもらいましょうとか、コピー取ってもらえないかニャーと発言せよと言う話ではありません。 そういう部分も持ち合わせているのだということがわかるだけでも、女は少し安心するのです。 あ、そんなに違うわけじゃないんだな、と。 男性の多くは女が分からないと言う。 それと同じように、女だって男のことは分からないんです。だから、ちょっとでも分かると安心するんです。 安心させて、くださいな。そのためのレディスランチ、そのための四枚刃です。 こんなことがありました。 以前一緒に仕事をしていた壮年の男性の中に「俺はオカマが嫌いだ」と主張する方がいました。「テレビなんか見ててもオカマキャラなんか出てくるとチャンネル変えるね、俺は」 フンと鼻息が聞こえてきそうでした。 ビビりました。ジェンダーの話なんかされちゃったらどうしよう、と。そういう話が、あまり得意ではないものですから。 オカマが嫌いって、つまり女性的なものが嫌いなのかしら。ということは女性と仕事をしたくないのかしら。ということは私と仕事をしたくないのかしら。そんなのひどいわ傷ついちゃうわと不安スパイラルに陥ります。 おそらく多くの女性は、「なぜならば」の部分を自ら話すと思うのです。 しかし男性は、あまりそうでないような気がします。もちろんプレゼンなどでは別です。でも、こと個人的なことに関しては“男は黙って”が美しいとお考えのような気がします。 安心させて、くださいな。 論破されてもいい、ますます不機嫌になられてもいい。思いきって聞いてみました。なんでオカマが嫌いなのか。そうしたらこう言うんです。 「俺は女が好きなんだ。だからオカマは、紛らわしいから嫌なの!」 私は目から鱗でした。先方は顔が真っ赤でした。 そんな理由があるものか。あってもいいものか。 まったく予想していませんでした。 男好きを自認する私でも、「だからオナベ(って言うんでしょうか)を嫌い」にまで思考の軌跡が描けない。 しかし、です。 己を振り返ってみれば、「紛らわしいもの」への嫌悪感は理解できないわけではない。 ビールだと思って買って口をつけてあれっと思って表示を見たら「第3のビール」と書いてあったような、そんな気持ち。 もちろん第3のビールが悪いってわけじゃありません。でも、「ビールだと思ってたのに!」のその気持ちは、ご理解いただけますよね。 いーや、理解できない。 という方もいました。こちらも壮年の男性です。 「俺もオカマは嫌。でもね」 でも、何でしょうか。伺いましょう。そのココロは? 「それは、女の中にある見たくない部分を、戯画化してこれでもかと見せてくるから嫌なんじゃないかなあ」 おっと、まるで女性に夢を見ていたい少年のようですね。 いえいえ、馬鹿にしているんじゃありません。 そういう見方もあるんだな、と気づいただけなのです。ホントです。 で、きっと、見たくない部分であっても、本当の女にそれが垣間見えた時は、許してくれているんでしょうね。お互い様ってものですね。 「かもね」 その一言を、待っていました。 少し正直な言葉を補うことで、お互い理解が深まって、安心できる。 どうですか、女々しくなるっていいことではないですか。 ちなみに、「俺は女をすべて知ってるぜ」と言う男に限って全然分かっていないものです。 「あたし、もう男は充分」と言う女に限って、ぜーんぜん、そんなことを思っていないのと同じように。 さて来週は、男らしい優柔不断さについて考えたいと思います。男らしさなんて、自分自身勝手な思い込みでしかないのだろうとは思っている。しかし、あからさまに男らしさを捨てろと言われてもなあ…なんとなく今までの習慣から「男らしさって何?」って聞きたくもなるよなあ…逆に聞くけど、「女らしさって」何?教えてください。今でもよくわからないことが、あまりにもたくさんあって最近寝る時間がまたまた少なくなっている今日この頃です。一週間お疲れ様でした。来週も一週間、お互いに、お仕事や家事頑張りましょう!再来週の後半には2009年になっているんですね(笑)鬼が笑うか(笑)こういうことがわかっている女性からアドバイスされれば、素直に受け入れられるんだけどなあ(笑)
2008.12.22
When somebody is referred to as lacking “common sense,” it is usually all about the lack of “knowledge.” Parents scold their children’s disorderly behavior by telling them that they should know better, and that they should learn some common sense. Friends tease each other about the lack of “common sense” when the other does not know about something that is considered to be “common knowledge.” However, Eiichi Shibusawa felt that common sense was not about knowing or not knowing, but rather that “complete common sense is about the balanced development of knowledge, emotion, and will.” Eiichi thought that having a high level of knowledge did not assure common sense, unless that high level knowledge is well balanced with a high level of emotion as well as a high level of will. Of course without the anchor of knowledge or will, being too emotional is like being a piece of driftwood that swirls in the ocean tide. On the other hand, Eiichi thought that having too much will-power, without the perspectives offered by knowledge or emotional sympathy, just leads to stubbornness. The interesting thing about this definition of common sense -- a balance of knowledge, emotion, and will -- is that it implies there is not one single common sense that should be accepted by all of the diverse people in our society. However, if each were able to balance his knowledge, emotion and will, then each person would have his own common sense. If the world is filled with common sense people, Eiichi felt, then it is only natural to conclude that our world at large would also function with common sense. This obviously is an ideal, as there are countless cases where the world does not function as though there is common sense. However, this is certainly an important ideal that we should keep dear to our hearts. In his best-selling management book, “Good to Great,” author Jim Collins introduces his findings regarding the “hedgehog concept.” Collins felt that “the hedgehogs aren’t simpletons; they have a piercing insight that allows them to see through complexity and discern underlying patterns. Hedgehogs see what is essential, and ignore the rest.” Collins concluded that “those who built the good-to-great companies were, to one degree or another, hedgehogs.” And, according to his findings, Collins identified three essential traits among these “hedgehog” corporate executives. - What drives your economic engine; (or “knowledge.”) - What you are deeply passionate about; (or “emotion.”) - What you can be the best at; (or “will.”) Therefore, the underlying pattern for corporate executives of good-to-great companies are that they have a balance of knowledge, emotion, and will, or as Eiichi believed about a hundred years ago, that they have common sense. In other words, in order to be great, you must possess common sense. Also, remember the movie classic, “The Wizard of Oz” Who were the three characters that helped Dorothy challenge the Wicked Witch of the West and to eventually “find herself” so that she could go back to her home in Kansas? - The Scarecrow, who represented “knowledge.” - The Tin Man, who represented “emotion.” - The Cowardly Lion, who represented “will.” The moral of the story is that find that in order to face and overcome the challenges of our lives, we must eventually finding ourselves. And, here again, we find that all we need is some common sense. How marvelous that this concept of common sense, transcends the ages, and cultures of East and West. So, the lesson here is that we all could use some common sense, especially when faced with the extreme circumstances of the financial markets that definitely challenged us during 2008. It is a splendid teacher, and the person called a splendid manager feels high culture with high judgment when it is a beautiful composition to be particularly reminded of by you some other time to be a worn person.
2008.12.22
どういうわけか昔から年の瀬といってあわてることがない大掃除におせちにいろいろ忙しいはずだが…あわてることがない年賀状、ずっと書いていないんでまったく購入する気持ちすら起きない何度となく友人知人にはこういう「ろうしゅう」はやめよう!といっているがJPのまわし者のように皆さん年賀状をよこす(笑)基本的には年末年始は友人と過ごしていたもちろん真剣勝負つきで(笑)今は、のんびり、まったり何もしていないなNHK紅白歌合戦などまったく興味なく除夜の鐘にも興味なく出来うるならば年末年始は大勝負に身を任せたい(笑)
2008.12.19
来季の出場権を競い合う米PGAツアーのQスクール(予選会)が12月8日に終了した。上位25位タイ以内に食い込んだ28名が晴れてツアーカードを手にしたのだが、そこに至るまでの道程は長く険しいものだった。 2006年から男子のQスクールには「予選の予選」に当たる4日間のプレクォリファイというものが設けられ、その道は一層厳しくなった。このプレを通過した後、4日間の1次予選、4日間の2次予選、そして6日間の最終予選となる。もっとも、PGAツアーや2軍のネイションワイドツアー、あるいは海外ツアーにおけるこれまでの実績等に応じて、いきなり最終予選にトライできる選手もいるのだが、逆に、PGAツアーで長年戦ってきたベテラン選手であっても、その年の成績が悪ければ、2次予選からの挑戦を強いられる。 今年のQスクールで、その典型だったのが、J.Pヘイズという選手だ。すでに43歳。テキサス大学卒業後、1989年にプロ転向。以後、Qスクールを受けては合格してPGAツアーに参戦し、ツアー参戦しては成績が悪くてQスクールに逆戻りという生活を繰り返してきた。それでも、97年以降、1度もツアーカードを失ったことはなく、10年以上もの間、PGAツアープロの地位を保ち続けてきた大ベテランだ。 ツアーでの優勝は、わずか2回だけ。初優勝となった98年のビュイッククラシックでは「優勝賞金以上にうれしいのは、2年シードがもらえたこと。長い間、Qスクールの申込書を書くのが毎年の恒例になっていたけど、今年は初めてそれをやらずに済むんだからね」と表彰式で語った。それほど、Qスクールはヘイズにとって「縁深い」ものだった。 そんなヘイズが今年、またしてもQスクールへ逆戻りとなった。賞金ランク176位と低迷したため、2次予選からの受検。しかし、2日目の夜、PGAツアーに電話をかけ、自ら失格を申し出た。 Qスクールで失格となれば、来季のフルシード権は諦めざるを得ない。だが、それでもなおヘイズが発したこの言葉は、最高に格好良かった。 It is no guarantee at success but it still helps.(成功はなくても、この方がいい) ヘイズの申し出によれば、彼は初日のラウンドの2ホールで、まだ認定されていないプロトタイプのボールを誤って使用したとのこと。すでにアテストも終え、誰からも指摘もされていなかったことゆえ、ヘイズが黙っていさえすれば明るみに出ることはなかっただろうし、失格になることもなかった。そのままプレーを続け、2次予選、最終予選を勝ち残って来季の出場権を得る可能性は、ベテランのヘイズには、もちろんあった。 しかし、ヘイズは言った。 「常に、自分の心がいい状態でなければ意味がないんだ」 あやまちを隠し通したままフルシード権を獲得したとしても、自分の心は「いい状態」ではなくなってしまう。そんな状態で来季を戦ったとしても意味がない。それより、正直にミスを申告し、自ら失格となり、それでフルシード権がなくなったとしても、心が「いい状態」なら、また戦っていける――それが、ヘイズの考えだった。 「グッドルーザー」「美しき敗者」といった言葉がある。ヘイズが取った行動は、まさに彼が美しき敗者であることを物語る。 そして、正直で思い切りのいい彼の行動を讃える人々がいてくれたことがうれしい。 2002年にヘイズが優勝したジョンディアクラシックのトーナメント委員会が、来年の大会でヘイズにスポンサー推薦をオファーすることを、失格騒ぎの直後に発表した。USバンク選手権も同様のオファーを出すと報じられた。さらに彼は「ベテランメンバー」として、来季も数試合に出場できる。 それでも2009年の出場試合数が激減することは目に見えており、彼にとっては今まで以上にタフな1年となる。またしても来秋にQスクールを受けることになるかもしれない。 だが、ヘイズの心が「いい状態」である限り、彼は美しき勝者になる日を夢見て挑戦し続けるのだろう、きっと。なんという潔さだろうか・・・最近醜いまでも自己中心なおろか者をたくさんみている僕にとってヘイズのような素晴らしい人間がいることだけで大きな光をみているようなとても清々しい気持になる。洋の東西を問わず自分中心の人間ばかりの中で、自らを正しく律するヘイズのような人こそが渋澤翁のいう「王道」を歩む人ではないだろうか?決して簡単なことではない。しかし、人として当然至極のこの難題を自ら進みでていくヘイズとそれを支援する人々がいるアメリカ。金融危機くらいでは負けることはないだろうと僕は思う。
2008.12.18
「教育は、誰でも優れた仕事ができるようにするための方法論が開発されていない唯一の職業である」(『断絶の時代』) 教育の世界では今のところ、天賦の教師に頼るしかなくなっている。しかし、天賦の教師は必要とされるだけはいない。 すばらしい先生に何人も巡り会ったという者はいない。16年も学校へ行っていながら、すばらしい先生に1人も巡り会えなかったという者も多い。上級の学校ほど、よい先生がいなくなり、学ぶことがつまらなくなる。 教育は知りえない世界であるかにさえ思われると、ドラッカーは言う。生徒がどれだけ学んだかはもちろん、はたしてなにかを学んだかさえ知りえない。人とカネを注ぎ込んではいるものの、そこから得ているものについては、学校を信用し期待するしかない。 今日必要とされているものは、天賦の教師ではない。われわれは普通の教師をして正しい方法を手に入れさせ、仕事を正しく組織化させることによって、優れた成果を得なければならない。 できない子などありえない。お粗末な学校があるだけである。だが、そのような学校があるのは、教師が愚かだったり、能力がないからではない。正しい方法と正しい道具が欠けているからである。 「教えることと学ぶことは、今後数十年の間に恐ろしく変化する。大転換が行われる。教えることと学ぶことについての新しい知識がこの転換を可能にする」(『断絶の時代』)まさしく教育というものの真理を述べている言葉だ!優秀な教師にすべての人が巡り合うわけもなく、また優秀な教師という虚像も人それぞれの価値観の中に埋没してしまう。日本人などは好き嫌いでしか教師を判別することを平然とする。まさに学ぶ姿勢以前の不心得者すらいる。こうした中尊敬すべき教師が皆優秀な教師なのか?疑問が残ることがある。日本の大学に多いのが研究者としては最優秀だが、教師としてはレベルCなどという方もいるのは周知の事実だ。しかし、このことですべて片付くわけもない。優秀な研究者の助手として訓練された人が優秀な教師になれば、研究者としても教師としても優秀なのだ!今朝は、経営学上では、ありえない決定に従わざるをえなかったが、未だ優秀な教師になれていない自身を反省した日だった(嘆)
2008.12.17
「王の道」を想像してみましょう。それは、くねくね曲がるような道ではないでしょう。また、近道も存在しないでしょう。「王の道」は、幅広く、真っ直ぐな道であり、王たる者は、そこを堂々と王者らしく歩くのです。儒教において「王道」とは政治思想の理想であり、仁徳を基本として国を治めることです。つまり、剣で服従させて国を治めることは王道ではありません。民衆の信頼と尊敬を得るために、仁徳によって国を治めることなのです。=「王道」とは自身が決めるもの= 渋沢栄一は「王道」とは人間行為の規範であると解釈しています。第三者が定めた規律ではなく、自身の内心が定める自律であります。利己的な権利や義務の過剰な主張は、感情の爆発につながる場合が多く、建設的なやりとりにはつながりません。言い合いやけんかの発端のほとんどは、自分の権利が害されたと思ったり、相手が義務を果たさなかったと思ったりすることです。 社会が正常に機能するためにもちろん法制は大事ですが、ただ従うだけで問題解決できるような万能なものではありません。「社会問題とか労働問題等のごときは、たんに法律の力ばかりをもって解決されるものではない」と栄一は言いました。「法の制定はもとよりよいが、法が制定されておるからと云って、一も二もなくそれに裁断を仰ぐということは、なるべくせぬようにしたい」と。また、人々が王道を意識して、人間として当たり前の道を堂々と歩めば、「百の法文、千の規則あるよりも遥かに勝った事と思う」と、栄一は理想を述べています。 理想であることも確かですが、ここには大切なメッセージが含まれています。私たちの社会に法制が存在するのは、ごく少数が王道から外れた行為をするからです。したがって、法制はごく少数の悪意のために、社会の多数である善意な人々を束縛していることになります。 =法令の強化が本末転倒の事態を招いた= 高利の貸し付けを禁止して、多重債務者の発生を防ぐという名目で、改正貸金業規制法が2007年12月に一部施行され、利息制限法に定める上限金利(15~20%)を超え、出資法に定める上限金利(29.2%)に満たない、いわゆる「グレーゾーン金利」が廃止されることになりました。 そのため、消費者金融業は不履行になる可能性が高い顧客層へ低い金利で貸出することを抑制し、売上が減少しました。その結果として、業界の人材リストラを招くことになりました。また、一部の差し迫った借り手が、反社会的勢力による貸金に手を出さなければならなくなったという、本末転倒な事態を招いたという憶測も耳にします。 一方、2005年に発覚した耐震偽装の姉歯事件を受け、政府が出した答えは2007年に施行された改正建築基準法でした。国民の安心安全を確保する立場としての政府の対応は、法整備を強化することでしたが、この改正により多くの建築確認申請が滞ってしまい、住宅着工数が激減しました。結果として住宅建設業は大きな打撃を受け、その影響は2008年の景気と市場環境の悪化へとつながります。=「チェンジ」が本当に意味するものとは= 「100年に1度」と言われる世界的な金融危機によって、信用という金融システムの土台が崩れ去りました。高いROE(自己資本利益率)経営を追求した金融機関は、従来の「金融仲介」という役目を忘れ、財務諸表に高レバレッジをかけて「自己勘定投資」を重視するようになりました。当事者たちは天文学的な報酬を手に入れた一方、岩盤であるはずの金融システムが、まるでトランプで作ったお城のように一瞬にして吹き飛ばされてしまったのです。 次期米国大統領のバラク・オバマ氏が選挙活動中に呼びかけた「チェンジ【変革】」の1つはさらなる規制強化であることは避けられないでしょう。今後の米当局の動向からは目が離せません。 米国では政府と民間との間に“回転ドア”が存在しているので、人材の流動性がありますが、日本においてそれはありません。政策責任者の課題は実務経験です。実際にボールを投げたことがなく、バットを振ったこともない審判に、野球を楽しむためのルールが作れるわけはありません。決まりを作るには、“その道”を極めることが何より大事だと思います。 「チェンジ」という言葉に込められた真の希望とは、規制を強化することではなく、民間人の一人ひとりが「王道」への理解を深め、実際に「王道」に則った行動をすることではないでしょうか。 ~渋沢健氏~たしかに王道とはまっすぐに伸びる道を想像しがちだが、時として二股や登り下りの道もあるのではないか?そのようなときに自身を律し時として時勢に逆らおうとも自ら正しいと信じるに足る理念に従うべきではないのだろうか?そうした自己決定を正しくできる、そういう志の高見にある人が進むべき道なのだろうと僕は考える。いたずらに自己に自信をもって誤りを正さないでいるような人が進む道は王道どころか邪道というべきなのではないか?常々自己矛盾を正しながら意見をいわなければいけない人たちとの会議は非常に有効な場であると考えている。まさに役員会議はそういう場であってほしい。今朝の役員会終了後に外部監査役とお話して痛感した渋沢翁の言葉であった。
2008.12.15
なるほど、こういうことだったのか!梶原しげる氏の感想を読んでそう思った。いつもドラマはまず観ることはない。いや日本のドラマはだが・・・唯一今観ているのがこの「風のガーデン」というドラマだ。倉本氏の脚本は面白いというよりも深いと思うので極まれに観ることがあるが。今回のドラマは俳優陣も脚本もなかなか良いなと感じている。以下、僕も梶原氏と同じ見解なので紹介しましょう。ドラマ「風のガーデン」(フジテレビ系)が佳境を迎えている。テレビドラマに詳しくない私が、良いの悪いのというのはお門違いだが、物語も、映像も、演出も、おそらくものすごく素晴らしい。役者さんたちの交わす言葉の力に圧倒されるというのも、そんなに外した感想にはなっていないと思う。このドラマのすごさを「敬語」というポイントから見てみよう。 「敬語は武器だ」という私の持論が、この秀逸なドラマを通じてご理解いただけるかもしれないと思い、以下に記した。=敬語本からは読み取れない“敬語の用法”=妻を自殺に追いやった息子(中井貴一演じる麻酔科医)を7年前に勘当。故郷、富良野に近づくことを許さない父(本作完成後に亡くなった緒形拳)は息子の子供たち(孫)に、亡くなった孫たちの母親が丹精込めて作り上げた「風のガーデン」と呼ばれる花畑の仕事をさせながら親代わりに面倒を見ている。で、「敬語」である。このドラマの中では、おじいちゃんである緒形が孫に対して終始「です」「ます」の敬語(丁寧語)で話している。普通ならば祖父と孫の関係では、「ほら、ルイ(孫娘)も岳(知的障害を持った孫息子)もこっちへおいで」という、いかにもおじいちゃん的カジュアルな物言いになりそうなものだ。しかし、祖父の語り口はいつもこんな調子だ。「ルイさん。今、一番きれいなお花はなんですか?」 「岳さん。ガブリエル天使には会えましたか? そうですか。それはよかったですねぇ」 「敬語とは、敬う心です」「目下が目上を敬う言葉です」という、よくある「敬語本」や「マナー本」からは、緒形の「敬語」使用の意図を読み取る手がかりは見つからないかもしれない。 「この一家は上品な家だから、目下の孫にも丁寧な口をきいているんじゃないですか?」と理解するのは見当違いだと思う。敬語の働きを「敬う心」とやみくもに説くのは間違いだ。敬語とは、遠近親疎を巧みに表し、意図した対人関係を形成するのにも大きな力を持った、武器である(拙著『すべらない敬語』より)。 緒形演じる祖父は、孫たちとの適切な距離を置くために、敬語を使っているように私には感じられる。祖父は、孫たちに両親がいなくなった本当の理由を明確に告げていない。そもそも「突然両親を奪われるという心の傷を幼少期に受けた孫と祖父との暮らし」は通常の家族以上に感情のコントロールへの配慮が必要なのだろう。 「不憫(ふびん)な孫」と冷静に向きあうために、おじいちゃんはあえて「です」「ます」の丁寧語を使うのではないか。孫に対する緒形の終始穏やかなふるまい、丁寧な言葉は、折々の感情に左右されることなく、孫たちの人生を丸ごと引き受けようとする祖父の決意の表れと感じた。 それが証拠に、ガンで余命いくばくもない自分の息子と7年ぶりに再会するシーンでは、緒形は一転。「よっ! 痩せたな、だいぶ」と「距離の近い態度と会話」で接している。ドラマの中で緒形は、孫とは「敬語」でファンタジーを語り、息子とのは「非敬語」でリアルな現実を語る、というふうに巧みに演じ分けている。 「私は往診に出かけてきます。岳さん、天使ガブリエルさんによろしくお伝えくださいね」(敬語文)と孫に優しい笑顔で話していた緒形。 息子に対しては、ごく普通の父親の顔をして、「一時の感情に駆られてあんなこと(家を追い出し、親子を引き裂いた)をして、ルイにも、岳にも悪いことをした。おまえ、帰ってこいよ」(非敬語文)。=優秀な才能が結集して作り上げたドラマに学ぶ=言い訳がましいが、本稿はドラマの感想を伝えるのが本意ではない。今回は、人生の機微を描く天才、倉本聰と、表現する天才、緒形拳から、敬語の持つ「対人関係の距離を置く働き」「人間の立ち位置を示す働き」をドラマの自然な流れの中で改めて教えられた感動をお伝えしたかったのだ。優秀な才能が結集して作り上げたドラマや映画で交わされるセリフ、会話から、我々は多くのことが学び取れる。「最近のテレビは、ロクに見るものがない」という声をそこここできく。しかし、探せば、人情の機微を知り、仕事に追われ鈍麻(どんま)した感性をちょっぴり豊かにしてくれる番組もある。おまけにコミュニケーションの極意まで教えてくれるものだってある。「ロクなもんがない」の一言で、スルーしてしまうのはもったいないと思うが、あなたはどう感じるだろうか。(文中敬称略) といった内容でした。確かに日本語ほど人生の機微にふれて時には癒し時には感情の深層を抉り出す言語を僕は知らない。
2008.12.11
人が生きていくと、太古の昔から、あるいはもっともっと昔、ホモサピエンスがアフリカを出た時代から、仲間同士の対立や軋みや悩み、心の病などがあったに違いない。心の病というと、大げさに受け取る人もいるだろうが、なに、ストレスのことだ。ちょっと考えてみよう。ホモサピエンスのストレスとはどのようなものだったのだろうか。まずは生きていくための食糧の確保だ。狩猟民だから、技術によって個体間に格差が生まれる。すでに、ここでストレスの要素が生まれている。このまま、ホモサピエンスは地球上に広がっていき、現在に至った。その長い期間、ホモサピエンスは技術を育み、またもっと長い期間をかけて文明を発展させてきた。この長い長い間、ストレスはホモサピエンスに影のように寄り添ってきた。懸命に文明の発達を追い求めながら、ふと振り向くとストレスという影はピタリとくっついたまま一刻たりとも離れようとしない。時折、賢人といわれる男が登場し、ストレスという影をホモサピエンスから引き離すための賢い言葉を残していった。長い時間が経ったわけだから、賢人もたくさん出現した。イエス・キリストもその一人。釈迦もその一人。中国の賢人たち(孔子、孟子、老子)、そして、本書の道元などもその一人だ。彼らは賢人らしく、皆が皆良いことを言うのだが、肝心のホモサピエンスの方では、良いこと言うな、と思っても、片端から忘れてしまう。そして、ストレスを背中に背負ったまま、現代のストレス一杯の社会に生きている訳だ。この状態からの最良の処方箋は、何度か読み返すことだ。道元といえば禅、永平寺と続いて出てくるが、この時代の坊様には尊敬すべき高僧が輩出し、いつも栄西と道元がごっちゃになって混乱する。道元は禅、と覚えてしまえばいい。禅のどこが賢人の知恵かというと、著者の選んだ語録に従ってみよう。本書には「悩みから自由になる一連の公案」が掲載されている。時には考えるのをやめてみる。 「目標」をすててみる。 相手の意見に耳を傾ける。 自分を見つめる時間を持つ。 試しに息を止めてみる。 頭を休めて身体の働きを感じる。 自分の考えに固執しない。 自意識から脱却する。 にぎりこぶしをじっと見つめる。 これらはみな、道元禅師の著作から著者が抜き出したものだ。どれも易しいし、いつでも実行可能だ。ところが、人間というのはアホなもので、先に言ったように、読むときには感心しても、すぐに忘れる。上の公案を全部といわず3つほどずっと覚えていて、折に触れて実行すると、振り返れば、いつの間にかストレスという影は消えているものだ。上記の中で一番効果的と書評子が考えるのは、最後のにぎりこぶしをじっと見つめる、という公案だ。ウソではない、我慢してじっと5分ほど見つめてみては。次第に心が深みに沈んでいくことが感じられる。振り向けば、ストレスの影はどこかへ退散している。~松島駿二郎~ というここで実際にやってみた(笑)拳をみても、それほどではなかったが、息を止めてみた。苦しい!当たり前だ・・・1分もするともう限界だ!死ぬんじゃないかとさえ感じたとき、生きている実感に到達する。つまり今生きている。これでいいいのだ。今この時ここに存在している。人は究極そのことさえわかれば、生きていくことができるのだ。改めて実感できる。是非試してみればいい。そのことがわかりさえすれば、ストレスのくだらなさがよくわかる。
2008.12.11
信越化学工業 金川千尋社長が語る 「日米開戦に反対し続けた山本五十六の慧眼」 最も尊敬する人物はと聞かれれば、迷いなく山本五十六連合艦隊司令長官と答えます。ただ、1926年生まれの私にとっては山本長官は、戦国武将のようないわゆる歴史上の人物とは違い、まさに同じ時代を生きていた“実在の人物”です。山本長官の乗った飛行機がブーゲンビル島上空で米戦闘機に撃墜され、戦死したのは43年4月18日。しかし大本営は、国全体の士気に影響することを心配し、その事実を1ヵ月以上伏せました。事実、国民全体が意気消沈したのを覚えています。裁判官だった父の勤務先の関係で、私は日本統治下にあった朝鮮で生まれました。18歳まで京城(現在のソウル)で過ごし、その後、岡山の旧制第六高等学校に入学しました。その岡山が大空襲に見舞われたのは45年6月29日未明。120機のB29が飛来し、無数の焼夷弾をばらまいたのです。当時住んでいた寮も火に襲われました。私も着ていた菜っ葉服の背中に火の粉を浴びましたし、焼夷弾の直撃を受け、亡くなった後輩もいました。ひと晩逃げまどい朝を迎えると、岡山の街はすっかり焼け野原で、死体があちこちに転がっていました。日本は神の国であり、戦争に負けるはずがないと教えられてきましたが、なんのことはない、日本は焼夷弾でたやすく焼き払われてしまう“紙の国”だったのです。住むところをなくした私は、やっとの思いで京城の家族の元にたどり着き、終戦は京城で迎えました。敗戦によってあらゆる価値観がひっくり返り、どうしようもない虚脱感に包まれていた私を救ってくれたのは、六高で西洋史を教えていた大野真弓先生を囲んで始まった「六高史学会」という歴史研究会でした。歴史を学ぶことから、「日本はなぜ負けたのか」「これからどうすべきなのか」についての答えを見つけようと考えたのです。山本長官について、さまざまな書籍を通して詳しく知るようになったのも、それからのことでした。今に至るまで興味は尽きず、知れば知るほど、尊敬に値する人物だったことがわかります。山本長官は25年、駐米武官の時代にテキサスの油田とデトロイトの自動車工場を視察し、米国との国力の差を見抜きます。そして冷静に現状を分析した結果、「日本は絶対に米国には勝てない」と判断し、あの時流のなかにあって日米開戦に反対をしました。とりわけ、日独伊三国軍事同盟には反対し続けました。ところが、陸軍の主導の下、政府が対米開戦を決めると、軍人として職務を果たすことに専念するのです。「軍人は政治に関与してはならない」との信念からの行動でした。陸軍の連中とは違い、軍人としての分限をわきまえていた。彼のその姿勢に引かれるのも事実ですが、逆にもし山本長官が当時の首相であれば、日本はまったく別の国になっていただろうとも考えます。歴史に「if」は禁物と言いますが……。 「やってみせ 言って聞かせて させてみせ ほめてやらねば人は動かじ」など、山本長官は経営者にとって役立つ名言を残しています。 そのなかでも、私が山本長官から学んだ最大の教訓は、先を見ながら短中長期の計画を立てつつも、刻々と変わる情勢を見極めながら自らの考えを修正し、必要ならば前言を修正する勇気を持つということでした。一国の首相、軍隊の司令官と同じく、会社経営でも社長が一つ愚かな決定をすると、従業員全員が死にもの狂いで働いても会社はダメになります。それは、経営者として常に心にとめています。~信越化学 金川社長~時代を作るとは何かを考えたときに山本長官ほど軍国主義的な専制国家(敢えて言う)にあって民主主義社会でも通用する軍人はいなかったと考えるのは僕も同じだ。くしくも世界史をかつて教えていた僕も歴史にif はない。これは覆すことができない事実だが、もしも、東條のような陸軍のレベルの低い内閣でなく、山本長官のような先見性をもった人が先の国家を率いていたならば太平洋戦争というものも、まったく違って結果になっていただろうと考えてしまう。国家にとって一番重要なのは、やはり国家国民の安泰と平和であることに異論はない!しかしながら、その根本原理原則をわきまえないような社会や国民ならば守るべき価値はないのだ!すこしだけでいいので政治や国家についても考えてみるべきではないのか?
2008.12.10
=田母神問題で思う、世界で通用しない保守派の内弁慶=自衛隊元空幕長・田母神氏の書いた文章が世の中を騒がせていたが、今回この文章について初めて書いてみたい。しかし、その主張の内容の是非、及び文民統制の問題は取り上げない。それらは、既に様々な識者が論じ尽くしているからではあるが、それ以上に、そもそも論じる価値がないからだ。田母神氏の文章には、彼の主張の根拠・理由となる参考資料・文献が一切明示されていない。つまり、田母神氏の主張は単なる思い付きだということだ。少なくとも、学問の世界ではそう看做される。たとえ、田母神氏が長年に渡って歴史を深く学んでいたとしても、それが文章上に示されていなければ意味がない。田母神氏が私のゼミの学生で、この文章をレポートとして提出してきたら、私の採点は「不可」である。この文章は、大学の「レポート」にすらならない、ただの「作文」なのだ。私はこの連載など、参考資料・文献を明示しない評論として書いた文章を「論文」とは呼ばない。それは研究者としての最低限の矜持である。田母神氏の文章を「論文」と呼ぶのは、我々研究者に対して失礼である。=保守派の「歴史認識」は世界の非常識となっている現実=しかし、「田母神作文」は論じる価値がないが、田母神氏の傲慢な態度は少々気になる。それは典型的な「声高な主張をする保守派」の態度だからだ。私は英国に住んでいた頃、保守派の主張の是非はともかく、その態度に違和感があった。なぜなら、今回の作文のような「歴史認識問題」について、保守派の「声高な主張」と、欧米での認識が全く異なっていたからだ。 「従軍慰安婦問題」を具体例として挙げる。「従軍慰安婦の徴用に官憲による誘拐といった強制性はなかった」「従軍慰安婦のほとんどは日本人の売春婦で植民地出身者は少数でなかった」「従軍慰安婦が性奴隷であると主張しているのは中国・韓国の学者だけで、強制性がなかったのは世界の学者の常識」。これが保守派の主張である。ところが、私が読んだ海外メディアではこんな風に報道されていた。「歴史学者達は、1930年から40年代にかけて朝鮮半島と中国出身者が大部分の約20万人の女性がアジア全域の日本軍の売春宿において奉仕させられたと指摘している。多くの女性達は、自分たちが日本の部隊に誘拐されて性的奴隷になることを強制されたと証言している」(ワシントン・ポスト)「歴史学者たちは、大部分が朝鮮半島と中国出身の少なくとも20万人の女性が第二次世界大戦中に日本軍の売春宿で強制的に奉仕をさせられたと考えている」(BBCウェブサイト)「歴史学者たちは、大多数の中国や朝鮮半島からの20万人の女性が2000箇所の慰安所で強制的に働かされたことを信じている」(ガーディアン)。つまり、世界の学者は「従軍慰安婦は性奴隷」と結論付けているというのであり、これは、保守派の主張と真逆なのだ。=海外の批判から逃げる保守派の怠慢=私が問題視しているのは、保守派の主張そのものではない。正しい部分もあるとは考えている。政治学の研究者として、自分の研究の範囲内で日本人や日本社会の性質を考えてみても、軍に一部の暴走があったとしても、大規模で組織的な誘拐というのは考え難い部分があるからだ。しかし、深刻な問題となっているのは、そのような保守派の主張の是非以前のところにあるのだ。私は、保守派が日本国内で「声高な主張」を繰り広げる一方で、彼らの主張を外国に対してぶつけてみるという努力を全くやってこなかったことが問題であると考える。例えば、一昨年の米議会での従軍慰安婦問題に対する謝罪決議の際、提案者のマイケル・ホンダ議員に対して日本の国会議員は誰も会いにいかなかった。ホンダ議員本人はともかくとして、せめて決議案を出している民主党に接触すればいいのに、自民党幹部が会いに行ったのは元々仲のいい共和党議員だった。また、平沼赳夫氏らがワシントン・ポストに従軍慰安婦問題に対する保守派の主張を伝える広告を出したが、むしろホンダ議員の地元に近いロサンゼルス・タイムスに広告を出すべきだった。つまり、保守派はこれまで外国の雑誌や新聞に論文を掲載することや、外国の政治家やマスコミを説得するなど、日本の理解者を増やす努力を怠っていたのだ。いや、それだけではなく、保守派は海外の批判から目を背けて逃げ回ってきたとさえ言える。そのツケが噴出しているのだ。その結果、「従軍慰安婦は性奴隷であるというのが歴史学者の結論であり、世界の常識」となっている。保守派に対して「日本には一部、ヒトラーを肯定するような主張をする者がいる」などと批判する海外メディアもあるのである。それに対して、保守派が「従軍慰安婦は性奴隷ではないというのが世界の常識」という、ありもしないことを日本国内向けだけに声高に語り続けてきたことに対して、私は英国在住時代から違和感を持ってきたのだ。=「国際派保守派」の養成に取り組め=私は保守派に1つ提案がある。それは、「国際派保守派の養成」に早急に取り組むことである。要は、英語で海外に対して保守派の主張を発することができる人材を育成しないといけないということだが、重要なことは、政治家やジャーナリストレベルではダメだということだ。「田母神作文」のようなものを、政治家やジャーナリストが中途半端な知識で適当に書いてしまっても、海外では全く相手にされない。「またヒトラーを肯定するようなことを言う奴が出てきた」と言われて無視されるだけである。だから、歴史学者のレベルで国際派保守派を要請しないといけないのだ。きちんとした資料を分析して、それを英語で論文にして発表し、世界中の歴史学者と議論して保守派の立場を理解してくれる仲間を増やしていくことができる人材を養成する必要がある。仮に保守派の主張にも一理あるとしても、それを世界に理解してもらうには50年はかかると私は考えている。それが現実であり、日本国内にしか通用しないで「声高な主張」をしても、なんの意味もないことを保守派はそろそろ自覚すべきなのだ。この寄稿はいわゆる政治学者のものだが、僕自身まったく同じ見解をもっている。なぜなら海外の友人と真剣な議論になったときには根底に日本人の曖昧さや無責任さを感じることがすくなくないからだ。日本の政治家にはディベートやネゴシエーションといった政治家に求められる最低限の能力すらない人ばかりで選挙のやり方にも問題があるのではないかと感じざるを得ないからだ。米国のような予備選挙を通じて候補者たる資質を見極められたのちに候補者となり、初めて有権者の審判にかかるのとは訳が違うので仕方ないことなのかもしれないが…日本人には日本人の不見識を見直す機運すら起きないのは腐敗したマスメディアの問題が根底にあるからだろう・・・バラエティ番組などは確かに息抜きになり面白いが同時に社会にある根本的な問題を議論する特集番組や選挙の際には候補者の特集番組などがあっても僕はいい気がするが・・・。政治家だけでなく会社でも役所でも家庭でも日本人はとにかく内弁慶な人が多い事実を僕は子供の頃から違和感をもって眺めていた。僕自身はどうかって?周りからは「日本人のくせに日本人らしくない外弁慶な日本文化の伝承者」By Patrick(私の友人)といわれております(笑)
2008.12.10
先日、「厚労省、『子育てで残業免除』を正式提示」といった内容のニュースがインターネットや新聞、テレビで報道されました。11月28日の厚生労働省の労働政策審議会雇用均等分科会で提示された育児・介護休業法改正の原案に、「3歳未満の子供を持つ従業員が希望すれば残業が免除されたり、短時間勤務ができたりするようにする」ということが盛り込まれていたためです。厚生労働省がこの法改正を進めてきた背景は、以下の通りです(2008年8月27日、第82回労働政策審議会雇用均等分科会議事録からの要約)。「平成3年に育児・介護休業法が制定され、女性の育児休業取得率は上昇。しかし、女性の就業におけるM字型カーブは依然として残っており、第1子の出産を契機に約7割の女性が離職するという状況はほとんど変わっていない。合計特殊出生率も、平成19年の数字で1.34と、低い水準にとどまっている状況。この状況を一刻も早く打開するための政策として、保育など子育て支援サービス基盤の整備と、仕事と家庭の両立支援が重要である」=手放しに喜べない少子化対策=つまり、少子化対策としての「仕事と家庭の両立支援」の具体案がこの法改正案です。しかし私はこの方針に対し、どうしても手放しに喜ぶことができません。「子育て中の女性(※注1)」に対してだけメリットのある政策は、実施すればするほど、社会や職場における「不公平感」を高め、結果として「子育てしながら働きにくい」状況を作り出す危険性があるからです。※注1育児休業法の対象は男女両方ですが、育児休業取得比率が女性が97.2%(厚生労働省「平成18年度女性雇用管理基本調査」より)である現実を踏まえ、ここではあえて「女性」とした。私がこういう考えに至ったのは、今年の9月にインターネットによる調査を行って女性の声を集め、「女性が働きやすい社会」をつくるためのアンケート調査報告書をつくっていたからです。この報告書は「政府への提言」として、当時の内閣総理大臣であった福田康夫氏に手渡ししました。ここには、「育児休業制度は形だけ。実際には使えない」「女性の子育てとキャリアは両立しない」「女性だけでなく男性も働きやすい社会にしないとダメ」など、まさに「仕事と家庭の両立」で悩み、乗り越え、あるいは挫折した女性たちの声と強い思いが込められています。この中で私が注目したのは、「女性の敵は女性」という発言が何件もあったという事実です。社会や職場において「不公平だ」「逆差別ではないか」といった意識が芽生えると「敵」を作ってしまい、結果として本来の目的が達成できなくなっているのかもしれません。=「制度があっても利用できていない」現実を直視すべき=まず、今回の育児・介護休業法改正案の内容は現実に即しているのでしょうか。前述の背景でも述べられていたように、育児休業制度の取得率は確かに向上しています。厚生労働省「平成18年度女性雇用管理基本調査」によれば、育児休業取得者は女性が88.5%(平成15年度は73.1%)、男性が0.57%(同0.44%)となっています。ただし注意しなければいけないのは、この「取得率」の定義が以下のようになっているということです。「平成17年4月1日から平成18年3月31日までの1年間に出産した者又は配偶者が出産した者に占める、平成18年10月1日までの間に育児休業を開始した者(育児休業開始予定の申出をしている者を含む。以下同じ)の割合」重要なのは、この調査対象が企業であり、ここにおける数字はすべて「出産時点で会社に在籍していた人」を対象にしていることです。つまり「出産を理由に退職した女性」は含まれていません。育児休業という制度はあるものの、実際には取得しにくい雰囲気の中で退職さぜるを得なかった女性や、正社員ではないために育児休業制度の対象外とされ、退職した女性もいるでしょうが、これらの数字は含まれていないのです。実際、前述の「背景」の中で「第1子の出産を契機に約7割の女性が離職する」という事実にも触れています。にもかかわらず、「育児休業制度があっても利用できていない」という事実を直視しておらず、その対策が実施されていないように思います。今回の法案は「(育児休業を取得して)働き続けている人」への優遇施策となっています。もちろん、これによって7割という離職率が下がるのなら、施行する意味があります。しかしもし、この7割の女性たちに次のように問いかけたら、どんな答えが返ってくるでしょうか。「あなたは育児休業から復帰後に残業が免除されるなら、仕事を続けましたか?」 私は、多くの人が「NO」と答えるのではと想像しています。次は、その理由についてお話しします。私は、男女平等を訴える活動家ではありません。子育てと仕事を両立するにはどうすればいいか悪戦苦闘してきた、数多い「働く女性」の1人に過ぎません。20~40代の間、大企業の社員、フリーランスの個人事業主、中小企業の経営者という全く違う立場で仕事を続けながら、子供を3人産んで育ててきました。その経験からあえて言いたいのは、今回の法改正案は、日本の99%以上を占めると言われる中小企業で働く女性にとっては、デメリットになる危険性があるということです。育児休業を取得しにくい状況がある会社において、従業員が育児中を理由に「残業免除」や「時間短縮」を希望(申請)できるでしょうか?また、中小企業の経営者の視点に立ってみましょう。景気の先行きが見えず、会社を維持するだけでも大変な中でこのような法律が実施されたら、経営者はどう考えるでしょうか? 悲しいことですが、私は次のような想像をしてしまいます。「女性には、責任ある仕事を任せられない」「できれば育児休業を取らずに、退職してもらいたい」「出産する可能性のある女性の採用は控えたい」ここでは一応「女性」と書いていますが、「育児休業を取得する男性」と言い換えても同じかもしれません。一方で今回の改正案は、体力のある大企業や女性活用に力を入れている一部の企業では、実施することは可能でしょう。ですから、メリットを受ける女性がいないとは決して言いません。しかし、そのような企業で、子育て中の社員が「残業免除」を申請し実施したとしても、現実問題として、誰にその影響が及ぶのでしょうか。管理者、そして同じ職場で働く「残業ができる」社員たちなのです。彼らや彼女らから、「これは逆差別になりはしないか?」という意見が出ても、決して不思議ではありません。もう一度、繰り返します。「子育て中の女性」だけにメリットのある施策は、実施すればするほど、社会と職場において「不公平感」を高め、結果として「子育てしながら働きにくい」状況を作り出す危険性があります。そして、今回の「育児・介護休業法改正の原案」には、その危険性が存在しているのでは、と私は懸念しているのです。=現場の「生の声」に耳を傾けた政策を=出産や子育てをする女性だけに「仕事を休ませる」環境ではなく、出産・子育て中に限らず、男女ともすべての労働者が、自分の状況に合わせて「柔軟に仕事ができる」環境を目指すべきだと私は考えています。そのための1つのソリューションとして考えているのが「テレワーク」。社会は個人、家庭、企業、地域などすべてがつながっており、その中で発生する様々な課題、「少子化対策」「ワークライフバランスの向上」「中小企業支援」「地域活性化」なども、お互いに影響し合っています。国が目指す「仕事と家庭の両立支援」を実現するには、「少子化対策」「ワークライフバランスの向上」「中小企業支援」「地域活性化」と縦割り行政の中でバラバラに実施するのではなく、マクロの視点からとらえ、全体のバランスを考えた施策を実施する必要があるのではないでしょうか。そのためにも政府の検討会議では、もっと「現場の生の声」を反映していくことが重要ではないかと考えます。最後に1つ忘れてはいけないのは、働く女性自身も、様々な施策や周りの配慮に甘えてばかりいてはいけない、ということです。社会人として仕事をする以上、女性側が「私は女だからこの程度でいい」「子育て中だから許される」という考え方をしていては、結果として「女性が女性の足を引っ張る」ことになりかねません。「子育て従業員の残業免除」という報道を単純に喜ぶだけでなく、女性たち一人ひとりが自ら責任感を持って仕事に取り組むことが重要だと思います。●参考資料・「平成18年度女性雇用管理基本調査」結果概要・「第82回労働政策審議会雇用均等分科会議事録」ここで考えさせられるのは国として本気で少子高齢化対策をするのであれば就業面や教育面だけではなくトータルな住宅政策や税制の見直し、僕ならば18歳未満の子供を2人以上養育している年収1000万未満の労働者は所得税を免除したり消費税の減免をするなど、あらゆる面で考えうる施策があるはずなのに、まったく議論すらされないことだ。今回の2兆円ばらまきをするなら選挙の投票後に引き替えに支給するとか、国をトータルによくしていく方法はいくらでもあるものだ!それすら考えないで右往左往する政治家などまったく百害あって一利なしの連中だと早く国民一人一人が気づくべきなのだ!それからの本格的な議論の礎になる提案だと思う。また、この記事の提案者が子育てをしながら働いている女性だということは一見の価値がある!
2008.12.09
―― レヴィさんは1961年生まれで、バラク・オバマ次期米国大統領と同じ年に生まれていますが、オバマ氏に共感するところは何かありますか。 マルク・レヴィ 米国人でない我々が、とやかく他国の大統領について口を出すことではないかもしれません。しかし、米国の大統領が世界中の市民に多大な影響を与えることも確かで、下手な人が選ばれてしまうのは困ります。今回、当選したオバマ氏には共感を持ちますし、彼がやろうとすることを応援していきたいです。これで米国人、特に米国の若者が変わっていくでしょう。この8年間、ブッシュ(大統領)とチェイニー(副大統領)の2人が米国という国を変えてしまった。世界はそれこそ戦争に巻き込まれ、金融破綻や企業倒産と、いろいろなものに巻き込まれてしまいました。ある意味では西洋対ほかの世界という対立、まるで西洋の人間が十字軍のようにあらゆるものを統一して、より優秀な存在であるように、我々が支配することによって君たちも良くなるみたいな、そういう行動がずっと行われていたわけです。オバマ次期大統領は、おそらく平和を唱えるでしょう。私としては、彼の登場で、米国は昔ながらの人間らしさというものを取り戻していくと感じています。―― レヴィさんの本はそのブッシュの時代に、出す本、出す本、ベストセラーになってきました。何が読者に受け入れられていると思いますか。 レヴィ それが分かったらどれほど良いかと思いますが、知らないままの方が良いのだろうとも思います。言えるのは、自分がとてもラッキーで、その幸運に値する人間であり続けるように努力していくこと、それ以外にありません。自分の作品が読者の方々の数時間をお借りして、その方々が感情的に豊かになってその人生に入り込むことができる。そんな幸せな仕事をしているわけです。それに値する人間かと毎日、自分自身に尋ねているぐらいですが、受け入れるまでです。── 運ももちろんあると思うのですが、作品を作るうえで意識している読者や時代背景などはあるのですか。 レヴィ こうしたら読まれるというような意図のようなものはありません。画家が絵を描く時に、「この絵はこう人が見てくれるだろう」などとは考えていないでしょう。それと同じように、私も、作家として自分が見たもの感じたものを書いているのであって、誰が読むという意識は全くありません。ロンドンの書斎で書いている時に、私の作品を日本の方が読むなんて、想像さえできませんでした。それが結果的に、その機会を与えられることになったのは、とてもすばらしいことです── 仮に本人がこれは世界中の人に読んでもらいたいと思っても、実際に読者の支持を得るかは、作品を出してみないと分からないと。 レヴィ 計算して書いたとしても、読者は私よりもはるかに知的な人々が多いはずです。ですから、ごまかしは利かないと思っています。私の仕事は、人形遣いと似ているのかもしれません。人形遣いは台の下に隠れているので客席は見えません。しかし、彼が人形であるマリオネットに命を吹き込み、そのマリオネットは客席を見ているのです。私が作品を書いている時には、その作品を読む読者の姿は見えていませんが、私の書いた作品は私自身を映し出し、作品が私の代わりになって読者を見てくれているのかもしれません。=すべてを受け入れ全力を尽くす= ── 今のあるがままを受け入れ、逆らわないことが、創作のうえでは大切だということでしょうか。 レヴィ 子供の頃ですが、台所にとてもおいしそうなケーキがあった。食べようと思った時に、そのケーキのレシピなど、もちろん自分は知らないわけです。でも、とにかくおいしいことは分かっている。それがとても幸運なことであり、それをそのまま受け入れていきたいのです。私は神ではありませんし、失敗もします。自分ができることは限られていると思っています。ですから、今できることに全力を尽くすまでです。そう考えるようになったのは、もしかしたら若い時に赤十字で働いたことがあるからかもしれません。私は17歳から赤十字で7年間仕事をしていました。救急部門(Emergency Care Unit)というところで、交通事故などいわゆる惨事と言われる状況に遭った被害者を多数、見てきました。私は事故現場でほとんど死にかけている人々を、救急隊に渡すというものでした。その時に気づいたのです。今の状況を正直に受け止め、そして、今与えられている仕事をきちんとやることが大切だと。そして、もう1つ大切なことに気づきました。仕事には良いも悪いも、重いも軽いもあり得ないということです。人にもあてはまり、この仕事をしているから偉いも卑しいもない。── 今をそのまま受け入れ、自然に生きていく姿勢は、どこか禅に勤しむ僧侶のようです。 レヴィ 過去は今存在していないし、未来はまだ来ていない。存在するのは今だけだ、という言葉があったことを、今思い出しました。先のことなど分からないと思います。禅の僧侶のようだとおっしゃいましたが、実は私は100回ぐらい「君は仏教徒だね」と言われたことがあります。私は基本的に無宗教ですが、何が自分の中の宗教に一番近いかと言えば仏教かもしれません。仏教徒の人と一緒にいると居心地がいいのはなぜかと考えたら、他の宗教と比べて神よりも人間に一番近い宗教だからかもしれませんね。私の気に入っている言葉に、「見たことのない神を信じる者は、決して毎日見ている人間を拒否してはならない」というものがあります。まさに自分の人生哲学ですね。── 神であろうと人間であろうと、違いを認め、現実を受け入れるべきなのでしょうか。 レヴィ 私は、90%の戦争は宗教が元になっていると思います。ブッシュ(米大統領)が仕掛けたイラク戦争もそうだと思うのです。宗教の違いが対立の原因になっている背景には、信じている神がこの世の一部だけを作ったと思っているからではないでしょうか。神を信じている人ならば、神がこの世を創造したことも信じているはずです。その神は、この世界のすべてを創っている、と考えるべきです。私は作家になる前に建築家でしたのでそう思うのですが、全体の一部だけを作るというのは想像できないのです。宗教間で対立が起きていますが、信じている神が創ったものに対して、この部分は受け入れ、この部分は拒否するというのは理解に苦しみます。神が創りたもうたものは、すべて愛すべきであるのに。神を信じているのに、その神が創った他の人間を破壊してもよい、という考えは神を信じているとは言えません。 レヴィ氏の作品『永遠の七日間』は、悪魔の使者である男性と神(天使)の使者である女性がひょんなことから出会う。2人は、互いにひかれ合う中で、使命を優先するか、好きだという気持ちを優先するか、悩む。結局は気持ちを優先することになる。 レヴィ 『永遠の七日間』は、善と悪について描いたものではありません。善と悪、そのすべてを人間が持っていることが面白いのです。私がこの本でユーモラスに宗教や神というものにツッコみたいのは、「あなたが愛を創ったのではなくて、愛があなたを創ったのではないのか」ということです。―― 作家になられる前は建築設計の仕事をされていましたが、設計の仕事と本を書くのと通ずるものはありますか。 レヴィ 出来上がったものを構想することは、設計でも、創作でもあります。ただ、建築家の場合は別々に存在するものを組み合わせることが必要で、そのために細かな検証作業は必要です。小説を書く時はそうした細かい作業はなくても構わず、即興で作り上げることはできます。建築の場合、即興で造っていたら、建物が壊れてしまうので、そうはいきません。建築は共同作業ですから、ほかの人に頼る場面も多くあります。加えて、ビジネスなので、コストや建物を造るタイミングなど様々な制約があります。建築家には、エゴ、つまりこんなふうにデザインをしたいというものがあります。しかし、それより重要なのは、そこに住むことになるだろう人々の日々の生活の中で、クオリティーライフ、つまり好ましい生活ができるようにということを優先させなければいけないこと。日々の自分の作業の中にその責任というものが常に存在するわけです。一方、書くということは、その意味では日々の生活というか、書いているという作業の中での責任はありません。ただ、そうは言っても出来上がったものに対して、ひょっとしたらそれを読むことによって、誰かの人生に影響を与える可能性はあるかもしれない。なおかつどういう形で、どのようなものをということも含めたうえで、出来上がったものに対しての責任はあると思います。=生きている時に生きる=── 建築家としても、フランスで500近い設計に携わるなど一定の成功を収めたそうですが、そうしたビジネスパーソンとしての経験はどのように役立っていますか。 レヴィ 私も20年間ビジネスパーソンでした。確かに生きていくためには家もその家具も必要です。しかし、「本当のところ何が必要なのか」ということが大切だと思います。大事なことは仕事の内容ではなくて、その仕事をいかにやるか、それだけです。だから自分を幸せにするようにその仕事をどうやるかが一番大切なのです。建築家になる前にコンピューターグラフィックの仕事をしていたのですが、25歳の時にあのIBMと契約をしました。それがすごく嬉しくて祖母のところに報告に行くと、祖母は私に「私のお財布を取ってきて」と言いました。言われた通り祖母にお財布を渡すと、彼女は財布の中からコインを取り出して私に握らせました。そして、その手を下に向けさせて、「手を開きなさい」と言ったのです。もちろんコインは落ちました。それを見て祖母はこう言いました。「すべての人間は死んだらこうなるのよ。お墓の中で誰が一番お金持ちかなんて気にしないのよ。だから大事なのは、どれだけ賢く生きるか。とにかく今を精一杯、生きること」この祖母の言葉は、今でも私が大事にしているものです。自分の存在を永遠に忘れないでもらいたい。そう考えた時に、「銅像を残す」と考える人もいるかもしれません。私は鳩のフンが怖いので、私の銅像は残そうとは思いません(笑)。私にとって、永遠とは人の心に残ることです。私がこの世からいなくなった時に、誰かの心に私が残っていたら、これ以上のことはないと思います。 いつもの書評だが、やはり根底に神様を信じるひとの言葉の重さには感嘆するしかない。よく、私は神を信じないという人がいるが、人の生命である存在はどこからうまれたのか?ただ在るものは神によって作られたとしか言いようがないではないか?「闇の中に光があった。暗闇は光を理解しなかった。やがて光は言葉となった。言葉は人となった。」説明などしようがない。在るものはあるのだから・・・人生深く考えれば考えるほど、こたえはおそろしいくらい簡単で陳腐なものになる。このことがわかるくらいの知性と教養に溢れたいものである。
2008.12.08
「MBA(経営学修士号)を取れば、これからの人生に明るい兆しが見えてくる」―― あなたはこれをどう受け止めるか。日本の企業は、MBAで身につける「合理的な思考」とはまったく違う感覚で、組織が成立しているケースが少なくない。このような職場で、MBAホルダーが立ち振る舞いを誤るとどうなるか。今回は、上司の嫉妬心や“付和雷同型”社員が多数ひしめく組織の論理と対立した女性MBAホルダーの結末を紹介する。優秀な女性が「負け組」となった理由とは――。=今回の主人公児玉聡子(仮名 35歳女性)勤務先:中堅の大学受験予備校。従業員数900人(関連会社含む)。大学受験が加熱していく中、優秀な講師を次々と抜擢し、大きく躍進。しかし、90年代半ばからは生徒数が伸び悩み、売上も現状維持が続く。ここ数年は、売上が減る傾向にあり、経営陣は、新規事業を起こす部署を設けた。(※この記事は、取材した情報をプライバシー保護の観点から、一部デフォルメしています)=孤立無援の職場 =「みなさん、たったいまから児玉さんに責任者になってもらいましょう……」新規事業開発部マネージャーの中田裕子(52歳)のうわずった声が、会議室に響く。児玉聡子(35歳)は今年3月に中途採用試験を経て入社し、この部署に配属された。中田が話を続ける。「今後は、彼女にいろいろと指示を受けてください。私はこれ以上、タッチしません」児玉がすかさず反論する。「私は、いまの進め方では新規事業はいつまでもスタートできない、と申し上げただけです。もっとマーケティングリサーチの精度を上げていかないと……」中田が右手をふって話を遮った。「そんな横文字を並べられても、わからないのよ。ここは外資じゃないんだから。自分のやり方で進めたいならば、あなたが責任者としてやればいいんじゃない?」 「…………」 「入社して半年で責任者になる人なんて、この会社にいないのよ。あなたの望むところでしょう?」中田は、こう言い放って席を立つ。6人の部員は後を追うように、会議室を離れていく。室内には、児玉だけが残された。児玉はここ半年のことを思い起こすと、しだいに空しくなってきた。上司やそれになびく周囲と自分との間には、仕事への姿勢や考え方に大きな違いがある。上司であり、所属部署の実質的な責任者である中田とは仕事の進め方をめぐり、意見がぶつかり続けた。その都度、職場で孤立していく。心許して話すことができる人は、この会社にひとりもいない。社会人になって12年間、一度も経験がないことだった。児玉は、120人前後がエントリーした中途採用試験でいちばん高い成績だった。前職の外資系金融機関に勤務しているとき、国内の大学院でMBA(経営学修士号)を取ったことが、内定の決め手となった。しかし、MBAホルダーであることが災いとなる。理事長自らが、児玉が配属された新規事業開発部に足を運び、部員らに言う。「児玉君はMBAをもっているんだから、彼女にいろいろと聞きなさい」 「うちの会社にMBAホルダーが来てくれるなんて予想していなかった」上司の中田は、その場では、「彼女のお陰で本当に助かっています」と愛想よく答える。ほかの部員らもそれに合わせる。しかし理事長がいなくなると、中田の児玉いじめが始まる。児玉が意見を言うと、途中で遮る。会議などを行なう際、児玉には日時や場所を伝えない。ほかの部署から回ってきた回覧版すら、回そうとしない。こうした行為は、絶え間なく続く。中田は30年近く前に入社し、総務や経理などの管理部門に籍を置いてきた。20~30代後半の一般社員のころに、労働組合の執行委員を何度も経験し、存在感のある社員だった。その後は、女性として初の管理職になり、女性社員たちから慕われてきた。そうした経験や人望を買われ、1年程前に、新規事業を起こすことを目的とする現在の部署の責任者に抜擢された。だが、新規事業などに関わった経験はまったくない。ほかの部員らも経験はない。そもそも、この会社は新たに事業を始めることをほとんどしてこなかった。40年近くにわたり、大学受験予備校として経営を維持してきた。その間、「少子化で経営が苦しくなる」といわれながらも、さしたる手を打たなかった。しかし、ここ数年、売上が大幅に落ち込んだ。経営陣はようやく重い腰を上げて、新規事業に着手した。その“切り札”が中田や児玉らが所属する新規事業開発部の発足だった。児玉は、外資系金融機関よりはこの会社のほうが自分に大きな権限が与えられると思い込んだ。大学院で学んだ知識やノウハウを生かすことができると考えたのである。=ビジネスとは「人の心」が動かすもの=児玉は、このまま引き下がることができなかった。自分の主張は正しい、と確信していたからだ。そして、改革を忌み嫌う上司やそれに無批判になびく部員らに、一泡吹かせたいと思っていた。数ヵ月後、社内で論文コンクールが開かれることになる。テーマは新規事業。児玉にとっては、千載一隅のチャンスである。論文を書くために、大学院で知り合った友人に意見をもらったり、ときには指導教授の研究室を訪ねて指導を仰いだ。結果は、児玉が思い描いたどおりになる。60人程がエントリーした中で、最優秀賞として認められたのだ。だが、事態は思わぬ方向になっていく。翌日、上司である中田は、人事部に報告をした。それは、児玉が無届けで自席を離れ、大学院の教授のもとへ足を運んでいたことや、部員らとトラブルが多く、もはやこの部署には置いておくことができない、というものだった。これらは児玉には、身に覚えのないことばかりである。だが、反論をしなかった。「もう、この会社を辞める」。その思いはかたまっていた。退職数日前、理事長と昼食をともにした。このとき、理事長が口にした言葉を、児玉はいまでもよく覚えている。「会社は正義を貫く場ではなく、いかに周りを抱き込んで成果を上げていくかを競い合うところだと私は思う。あなたはそれを理解してくれている、と思い込んでいた。それが残念だ」児玉は、いま、銀座でたったひとりのコンサルティング会社を営む。会社に籍を置き、大学院に通いながらMBAを取ろうとする人たちを支援している。時折、人事系の雑誌編集部から原稿執筆の依頼があったときに、こう書くようにしている。「ビジネスは、人の心が動かすもの。相手の嫌いな部分を飲み込む器量が必要。かつての私には、それがなかった」=上司の嫉妬心に潰された児玉氏のケースから学ぶこと=児玉氏のケースから、自分の身を守るために学ぶべきものは、主に次のようなものだろう。1)転職する会社の文化、社風をあらかじめよく調べること。→MBAホルダーに限らず、前職で優れた実績がある人を簡単には認めない文化が根強い会社には行かないほうがいい。2)成果を出すことを急ぎすぎないこと。→成果を出そうとするのと同時に、上司を始めとした周囲との信用関係を作ることにも力を注ぐべき。高い成果を出しても、それを上司が認めなければまず評価されない。ましてや、頭角を表すことは不可能に近い。3)相手を力でねじ伏せないこと。→いくら実力があったとしても、自分の力を過度に誇示することは、そのタイミングを誤ると、上司や周囲の態度を一段と硬化させ、敵を作ることになりかねない。日々の仕事においても、同じことがいえる。4)経営陣を信用しすぎないこと。→理事長にしろ社長にしろ、会社を経営する人は「俯瞰」のまなざしで組織を見ている。摩擦が起きたときには、職位が上の人間の側に立つ傾向が強い。この“組織の論理”を心得えた行動をとること。特に3)は、優秀な人ほど気をつけなければならない。会社員として生きていくならなおさらのこと。周囲の嫉妬心を刺激し、敵を作ればそれだけ報復を受ける可能性も高くなる。「気がついたら孤立していた」ということにもなりかねない。そうならないためには、周囲を巻き込む力が必要。実力にモノをいわせて力でねじ伏せるのではなく、相手の話に耳を傾けながらも粘り強く説得し、相手を動かすという意識をもち続けたほうがよい。結果的にそのほうがうまくいく可能性が高い。少なくとも、そうした“努力している姿”を周囲に見せることが何よりも大切である。「能ある鷹は爪を隠す」――“組織の論理”に潰されないためにも、優秀な人ほどこの言葉を肝に銘じておいていただきたい。たしかにいつも僕も同じような境遇になっていたな(笑)基本的に組織は個人の優秀さを求めるが上司という生き物は優秀な部下を嫌う傾向にあるからな。特に現在の団塊の世代ほど、そうだった。あくまでも僕のわずかな経験からではあるが・・・能ある鷹は爪を隠す。この言葉をよく忘れてしまって転職を数回したな・・・結局は地位があがったり年収が下がったり、よくわからん状況になってしまうが(笑)実は家でも能力を見せすぎて相方の不評を買ったかな・・・(呆)もう、家に帰りたくもないが・・・死ぬまで仕事だけしてれば相当気楽にいきれるけどなあ・・・、今回の主人公のように一人でいるのが一番気楽でいいのかもしれないなあ・・・あくまでも個人的主観だけどね(笑)
2008.12.08
Imagine a “road fit for a king.” It probably does not twist and turn. There are probably no short-cuts. The road is probably wide and straight, where the king can walk in a steady, regal manner. In Confucianism, “Oh-Doh,” literally translated as “king’s road,” is an ideal of how a ruler should rule his domain. “King’s road” is not ruling by the sword to oppress, but rather ruling by humanity and morality, in order to gain the trust and respect of the people. Eiichi Shibusawa interpreted “Oh-Doh” to mean the basic moral code of conduct of how a person should behave with integrity. Emphasizing too much about “rights” or “duties” leads to unnecessary bursts of emotion, and is not conducive for people to interact with one another in a constructive manner. If you look back to any quarrels or fights that you were involved in, chances are high that you either felt your “rights” were offended or that the other was not fulfilling his “duties.”Eiichi thought that relying just on the power of the law does not solve every problems we face in society. “Of course laws are important,” Eiichi says. “But, just because the law exists does not mean we should turn to the law so quickly for every answer.” If people were able to behave in accordance to the basic moral code of conduct, or “Oh-Doh,” then Eiichi felt that this condition was “much preferable to a hundred laws, a thousand rules.” This, obviously, is an ideal, but a very important ideal. We have laws because of the few who unfortunately do not follow the moral code of conduct. In a way, the law or regulation penalizes the mass majority of the people, who for the most part, conduct their lives in a moral order, just because of the few who do not. A few years ago, the Japanese government decided to abolish consumer finance industry’s practice of charging “grey zone” interest rates (between the 29.2% ceiling under the Investment Deposit and Interest Rate Law and 15% to 20% maximum range set under the Interest Rate Restriction Law.). On paper, this sounded like a reasonable regulation that was implemented with the intention to protect borrowers who were burdened with high rates of interest. However, at lower rates of interest, the lenders could not extend credit to borrowers of high default risk. Therefore, business declined and many people in the industry lost their jobs. It also probably even forced some borrowers in dire need to turn to “black market” lenders. On the other hand, in the housing construction industry, a crooked architect ignored minimum building standards in order to cut costs for economic gains. The Japanese government answered by deciding to implement tighter construction standards laws. As “fiduciaries” to the general public, law-makers think it is their responsibility to answer the disregard of the law by implementing tighter laws and restrictions. However, what they failed to foresee were the disastrous effects on new housing starts, and as a result, on the housing industry as well as the entire general economy. In the global financial markets, an event “once in a hundred years” destroyed the very foundation of the financial system called credit. In the feeding frenzy of higher ROE, financial institutions whose original function were that of an “intermediary,” leveraged their balance sheets for “principal investments.” There were tremendous returns and rewards for those individuals involved. Yet, it fell apart like a castle made of cards. No doubt, one of the “changes” that the new Obama administration will bring is re-regulation. Hopefully, this new regime of regulators knows what they are doing. One of the shortfalls of the regulators, especially in Japan, is real-life experience in the private sector. Would baseball be fun to watch for the fans, if the rules were made by textbook―smart umpires that never threw a ball or swung a bat? The real hope for “change,” therefore is not for more regulation, but the realization and implementation of “Oh-Do,” the moral code of conduct. So, I think so that is true.
2008.12.08
「勉強しろ!」と子どもを叱る前に。お父さん、『読書』していますか? 「なんだかダラダラしちゃって。昔は元気でハキハキした子どもだったんですが、最近はとにかくダラダラしてます。生きる力がどんどん失われているように思えるんです」彼は大手電機メーカーに勤める営業マン。長い間不況で苦しんだが、デジタル家電ブームで会社の業績が少し上向き、仕事にも張りが出てきた。ダラダラしているという息子は中学3年生。娘は小学6年生。妻は専業主婦。=やる気のない息子と向き合えない親たち=中学2年の秋頃から息子の生活が乱れてきたようだ。といっても非行に走るわけではない。勉強をしなくなったが、スポーツや音楽に打ち込むわけでもない。放課後友だち数人でダラダラと繁華街をうろつき、自宅ではダラダラとテレビゲームをやり、夕食後はテレビを見ながら携帯メール。マンガ以外の本を読んでいるところを見たこともない。最近はマンガすら読んでいない。学校の成績も急降下を続けている。 「無理だと思いながら、つい勉強しろと叱ってしまうんです。でも、面倒臭そうな顔をするだけでなんの反応もない。反発でもしてくれたらいいのに、なんだか糠に釘のような状態です」 担任の教師に相談もしてみたが、最近、そういう子どもが増えてるんですよと、他人事のように言われただけで、何の解決にもならなかった。「どうすればいいんでしょう? 僕は仕事が忙しくて息子ときちんと話す機会もないし、妻は娘の中学受験にかかりっきりで、息子にあまり話しかけていなくて、今ではほとんど無視してます。まあ、今の息子を見れば、積極的に関わることができないのを責めることもできませんが」父親も母親も、息子に対してほとんど関わることができない状態だ。=読書をしない子は親が原因?=最近の日本の若者がダラダラしている問題は、非常に根が深い問題だ。この問題を語りはじめると、それこそ、戦後教育の問題、戦後民主主義の問題、言い訳が何でもまかり通る社会風土の問題、傷つくことばかり上手になった日本人の心根の問題、日本的な妬み嫉みの文化など、広範で複雑な論議になってしまうが、相談者の彼にとって重要なのは、戦後60年の総括ではなく自分の息子の現在のことである。しかし、これには特効薬はない。それぞれの家族の歴史が深く関わっているからだ。歴史を修復するには時間がかかる。まず学習意欲についてだが、勉強が好きな子どもは例外なく読書好きである。そして、本を読まない親の子どもが読書好きになることはまれである。父親は「読書」をしているだろうか?「ああ、そう言われると恥ずかしいですね、僕も週刊誌かマンガくらいしか読んでないから」彼は笑顔のまま顔を赤らめ、頭をぼりぼりかく。=親子の会話では、社会的なテーマを=読書の次に大切なことは親子の会話だ。それも、学校で何があったとかの日常的なことよりも、社会的なテーマの会話だ。たとえば、ニュースやドラマを一緒に見て親子で意見を言い合ったり、社会的な背景や意味を子どもに解説するという類いの会話である。そのような会話が成立する文化が、家庭内に存在しているだろうか。「うーん。ニュースとか見ていて息子が質問してきても、いい加減に答えていました。説明すると長くなりそうだし。アメリカのイラク攻撃とか、秋田の子ども殺しの母親とか、僕の仕事には関係ないですもん」それは残念だ。家庭での会話に社会性がないのに、子ども自らに社会性を持てと言っても無理な話である。かくして、子どもはどんどん自分自身にひきこもる。これがダラダラの主な原因だ。家族の文化をすぐに変えることはできないが、家族の中に社会性を導き入れるのは父親の役目ではないだろうか。「生きる力」とは、社会に向かって進む力のことであり、それを導くことができるのは父親だ。まずは休日に、子どもと並んで座って「読書」をしましょう。 頑張れ、お父さん!との記事を読んで思うのは情けない親が多すぎるっていうことだろう。子どもの疑問に応えられないのは、もう親として失格ではないか?!僕はたとえ幼稚園の息子の質問でもとことん応えている。小学校の娘の勉強はきかれた際には徹底して教える。このくらいのことができなくて何が父親だ!?子供のことで訳のわからない愚痴を言う前に自らが進んで子供たちに教えられることは全部教えてあげるくらいの気持ちにならないようなら、そんな父親はいらないのだ!もっと自己研鑽に励む必要があるだろう!休日のくだらないゴルフいくくらいなら子どもと自然観察や社会見学など幅広い人間性を自分を含め磨かせる努力をすべきではないのか?そう私は思いますけど・・・・
2008.12.05
アミューズは、アーティストをマネジメントして、音楽や映像、舞台といったエンターテインメントのソフトを作る会社です。今年で創業30年。私は創業時から会社に参加しました。従業員数は数人でしたが、今やグループ会社を合わせて約300人になりました。所属するアーティストは160組以上です。東京証券取引所第1部に上場も果たしました。アーティストという才能とどう出会って、育成していくか。私たちの仕事そのものです。アーティストと言っても、アミューズにとっては従業員の話をすることと同じです。私たちの会社は定着率が比較的高い。必然的に長い時間を、アーティストと過ごします。アーティストのプライベートは関知しないという建前がある一方で、仕事をやって終わりというわけにいかないことも確かです。私たちは個人の生活についてもきちんと管理する責任も持っています。いわば、家族のようになるのです。アーティストの育成という意味で印象深いグループがあります。来年デビュー20周年を迎える「BEGIN(ビギン)」というバンドです。=アーティストが壁にぶち当たった日=BEGINは、「イカ天」=「いかすバンド天国」という番組から世に出ました。バンドが競い合ってチャンピオンを取っていくもので、BEGINは初代チャンピオンでした。アミューズが番組制作をしており、1990年にデビューする時に、私は若干かかわっていました。私たちの会社の規模がまだ大きくない頃のことです。デビューからおよそ10年間、BEGINはデビュー曲である「恋しくて」以外には大きなヒット曲を出していませんでした。沖縄出身の人柄を生かし、ライブを主な舞台に活躍してきたのです。しかし、石垣島の時間の流れからすると、速いペースの活動は大変だったのだと思います。90年代は、1年間にシングルレコードを2~3枚、アルバム1枚を出し、コンサートをしていくというパターンがありました。ゆっくり音楽を作りたいというBEGINの思いとは離れていたようです。そして、およそ10年目にして、BEGINは煮詰まっていました。BEGINは私のところに相談に来ました。場合によっては、辞める覚悟だったのだと思います。多くの人が経験することでしょう。環境が変わる中で、知らず知らずに自らも変わっていく。中には、変えるべきではないことも変わってしまう。=「石垣島」を活動の軸に据え直す=私たちは音楽が流れるアメリカンバーで話し合いました。イーグルスやジャクソン・ブラウンといったサザンロックが流れているところでした。BEGINはアミューズに内緒で、そのバーでライブをやっていたということでした。そこで話したのは音楽を始めた原点についてでした。何のためにバンドをやっているか。そこで、お互いに、儲かるためとかではなく、好きな音楽をやることが一番大事なのだということを話しました。彼らは悩んでいました。音楽活動を続けたいという気持ちで活動しているのではなく、バンド活動をやらされている気持ちになっている、と。私は、好きなことをやってもいいと勧めました。BEGIN本来のペースが必要でした。マネジメントチームを変えました。メンバーの古くからの友人で、マネジメント経験のない人をマネジャーに迎えたのです。従来のやり方通りに仕事を進めることもやめました。BEGINの出身地である「沖縄」「石垣島」を活動の軸に据え直すことにしました。今でこそ、「沖縄」「石垣島」はブームでしたが、そこまでのブームは来ていなかったように思います。沖縄という原点に戻って音楽活動をすることは、決まりきったプランに基づいて活動することとは対極の、一種の挑戦と言えました。BEGINの活動をアクティブな状態に保っておけたことが大切です。活動をやめてしまったら、何も生まれてこないのです。結果として、原点回帰の環境の中から、2000年に「涙そうそう」という楽曲が生まれました。様々なアーティストが歌って、この楽曲はロングセラーとなりました。私としても、原点を忘れないことの大切さを思い出させてくれた貴重な経験となりました。日々の仕事の中ではどうしても見失いがちになるのです。BEGINは、この8年間、沖縄で「うたの日コンサート」、昨年からは「うたの日カーニバル」というイベントを催しています。米国の占領下で、沖縄では歌を歌うことが禁じられました。太平洋戦争の沖縄地上戦が終了して、歌うことを許された日を記念して、BEGINはコンサートをしています。BEGINにとっても、自分たちを音楽の世界に戻してくれた沖縄に対する恩返しの意味を込めているのだと思います。昨年からは無料で開催しています。=先輩は時代の違いを埋める努力を=BEGINだけではなく、人気を集めるアーティストも、10年、20年と、活動をしていれば、逡巡する瞬間が出てくることは当たり前です。私も何十年もこの仕事をする中で、同じような経験はあります。その時のことを思い返して、原点について話し合うということが大切です。「この仕事をやりたくて、会社に入った。この仕事をやりたくて、仕事をやってきた」という気持ちを、お互いが分かち合う。目の光が失われつつあるなという従業員と話す時も、対応は同じです。注意しなければならないのは、ある立場以上になってくると、相手に伝わらないことがあることです。時代が違うということです。先輩側にはその溝を埋める努力が必要です。原点を信じることです。原点に立ち返って話すことがいわば「薬」になるのです。~アミューズ畠中社長~この会社の強みはこういう点にこそあるのだと感じた。サザンに福山、多くのアーティストを抱える事務所にとってはビジネス最優先でばかりは仕事にならないだろうし、そういう感覚ではこの業界は成り立たないだろう。どんな業種にとっても、自分達の属する原点を忘れてしまった時に、その企業は没落していくことになるのは例をあげればきりがない…。しかしながら、どんな会社であれ経営陣に、その肝力がなければ、まったく無意味だろう。経営陣にこそ、畠中社長のような肝力が必要だろうなあ。(感)
2008.12.05
光輝く経歴、資格。文句なしの容貌にすきのない服装。活舌のいい「正しい日本語」をハキハキしゃべる。非の打ちどころがない。すなわち、すきがない。ニュースキャスターやリポーター志望の女性にはこんな人が多い。オーディションの書類選考は軽くパス。時事問題に関する知識教養試験も問題なし。ところが、なぜか最終面接で落とされるのがこのタイプだ。MBAを持っていたり、英語がペラペラしゃべれたりする以上に、農家のおじいちゃん、おばあちゃんたちと日向ぼっこしながら1日仲良く、楽しく過ごせる「雑談力」こそがキャスターには求められるという事実をこのタイプは、どうやら知らないようなのだ。=本論は、雑談をうまく交わした後の“ご褒美”= 「頭のいいデキる人であり続けたい」。そんな思いが、さりげなく相手を思いやったり、無駄話につきあって面白がったりする「余裕」を奪い去ってしまっているのだろう。「馬鹿だと思われたくない」という防衛本能が、対人関係に必要な「すき」を作らせない。こういう人は、ディベートはうまくても、雑談が苦手だということが多いものだ。キャスター志望A:自然環境を守るため、CO2削減策の一環としてバイオ燃料の必要性が叫ばれていますよね。その結果としての穀物価格の高騰は農業従事者の皆様方を豊かにしているのか、していないのか、どちらですか?農家のおじさん:見ての通りうちはキャベツや白菜みてえな葉物だろ。ハウスの重油が多少値を下げてきたから、このあたりのもんはちょっとだけほっとしてんじゃねーのA:化石燃料だのみの農業経営に将来はないと思うのですが、もっと太陽光発電や風力発電などへの転換はお考えにならないのですか?おじさん:ん? キャスター志望B:わあ、このトウモロコシ。札幌で食べた焼きトウモロコシより粒が大きくて、きらきら光ってる。おいしそう!農家のおじさん:農家のおじさん「おお、そこまで熟してたらそのまんま食えっからかぶりつくか?B:えー!いいんですか?私、お財布おいてきちゃってお金持ってませんがおじさん:ばかこくでねえ。美人はタダだB:わお、美人に生まれて良かった…ナンチャッテ、いっただきまーす(ガブリ!)おじさん:どうだ?B:おいしい!トウモロコシってこんなにおいしいんだぁ!!これを絞ってガソリン代りにするなんてニュースで聞いたことありますが、もったいないですねおじさん:だろう、な?あなたが農家のおじさんなら、AさんとBさんのどちらの女性と一緒にいたいと思いますか?「この人となら、もっとゆっくり話を聞いてもいいな」と思ってもらえるのはどちらですか? 結果的に農業問題の本質を聞き出せるのはどちらだと思いますか?今日的な課題を聞き出すことが最終的な目的だとしても、Aさんのように、いきなり「鋭い質問」をぶつけて、いい結果が出るわけがない。Bさんのように、まずは近づく。相手の懐に飛び込む。本論は、雑談をうまく交わした後の“ご褒美”なのだ。だから「雑談など意味がない」と考える人は“人間模様を伝えることが主たる仕事”であるキャスターにはまるで向いていない。これは何もニュースキャスターという特殊な職業に限った話ではない。企業の採用担当者から話を聞くと、受験者の知的能力の見極めはもちろんだが、同時に「この人物と一緒に仕事をしたいか」「職場の仲間とうまくやってくれるだろうか」という「人間性」にもかなり重きを置いている。=「役割交流」と「感情交流」は車の両輪=職場では、2つコミュニケーションが求められる。一つは職務遂行のため、「総務部員である私」とか、「営業部員である私」といったスキルや立場を心得た「役割交流」。もう一つは役割を超えた、人間対人間として付き合える「感情交流」だ。「鋭い質問」は前者で効果を発揮し、「雑談」は後者で重要なカギを握る。「役割交流」と「感情交流」は車の両輪。どちらが欠けても職場の風通しが良くなるコミュニケーションは図れない。意欲あふれる若きビジネスパーソンほど、役割交流に熱心で、感情交流をおろそかにしがちだ。本当にデキル人は、感情交流にも長けている。すなわちデキル人は、相手や、相手の仕事に興味を持ち、観察し、寄り添い、共感したうえで言葉をかける。その時に威力を発揮するのが「雑談力」。仕事にのめり込み過ぎて「相手に寄り添う雑談」をおろそかにしていないか、一度点検してはいかがだろうか?~梶原しげる氏~確かにこのての教養あふれるおバカさんが多いことも事実だな。以前役人時代、この手の部下はたくさんいた(笑)いずれもが旧帝大出身つまり東大や京大出身者だったが、正直議員からの本音をうまく引き出す術がまるでない。損得勘定ばかりで話をすれば結局は大損(つまり失敗)するのは自分自身だ。まずは相手の懐に飛び込んで場合によっては仲間意識さえ持ってもらえるかどうかで本来の業務がうまくいくかいかないかになるのだ。何も新人ばかりでなく中間管理職といわれる人でも、このての作業スキルがない人が圧倒的に多いのも問題だ。やはり教育は子供のころだけでなくすべての大人にも必要なものなのだと痛感する。
2008.12.04
受験生の親御さんから「品川女子学院の生徒さんは明るく活発な方が多いようですが、うちの子はおとなしくて自分から前に出ないんです。そんな子でもやっていけるのでしょうか?」と質問されることがあります。 確かに新入生にアンケートを取ると、小学校の時に生徒会長や学級委員など、リーダーの立場を経験したことのある子が半数近くいました。しかし逆に見れば、半数はそういう経験のない子が集まっているとも言えます。在校生を見ていても、力があっても自分からは手を挙げない子、「縁の下の力持ち」が好きで、表に出るのを嫌がる子、みんなでやる前向きな雰囲気をうっとうしいと感じる子など様々です。でも、それでいいのではないでしょうか。一人ひとりにその子なりの持ち味があり、それを生かして役割分担ができるからこそ、お互いがお互いの役に立てる。チームとしての力が出るのだと思います。こんなことがありました。企業経営者を招いて講演をしてもらった時のことです。お話が終わった後、係の生徒が控え室でその方に相談を始めました。「自分は、本当はリーダーになりたかったが、選挙で負けて副リーダーになった。でも、実際の仕事はほとんど自分がやっているので、どうしても納得できない」というような内容でした。その経営者の方は「組織は役割分担で動いていて、リーダーだけでは成り立たない。フォロアーの仕事がどんなに意義のあるものか」ということを、自分の会社を例に取って具体的にお話ししてくださいました。相談をした生徒はそれを聞くと、すっきりとした顔をして「リーダーを輝かせることで、みんなのためになる仕事をしてみる」と言って帰って行きました。「一人ひとりに光を当てる」。これは、本校の理事長がしばしば口にする言葉です。先ほどの生徒は、人を輝かせる仕事をすることで、自分もまたその人とは違った輝きを発するようになりました。「太陽の光」があり、「月の光」がある。いろいろな輝き方があるのだと思います。また、昼と夜があるように、同じ一人の子でも輝く時もあれば輝かない時もあります。私自身が、まさにそうでした。学生の頃の私は何事にも飽きっぽく、モチベーションが低い子で、家でゴロゴロしていることも多かったのです。当時、仕事・子育て・親の世話という複数の仕事をこなし、“やる気のかたまり”のようだった母に、「あなたのように人生の時間を無駄にしている人は、見ているだけで嫌になる」と言われたこともありました。そんな私にスイッチが入ったのは、本校の副校長を務めていたその母が癌になり、「あと6カ月」と余命宣告された時でした。…皮肉なことに、母は“やる気のスイッチ”の入った私の姿をほとんど見ることなく他界しました。さて、話を「一人ひとりを輝かせる」に戻しましょう。子どもの頃、私がスイミングクラブに通っていた時のことです。私はその頃、みんなと同じ練習をしても記録が伸びず、クラブの中でも目立たない子でした。そんな私が、記録会に参加してゴールした時、ベストタイムを出すことができたのです。といっても、周りの子よりはずっと遅いタイムです。どうせ誰も気づかないだろうと思っていました。その時、ストップウオッチを押したコーチが「ベストタイム更新だね」と声をかけてくれたのです。「私みたいな劣等生のタイムを、コーチは覚えていてくれた。ずっと見てくれていたんだ」。そう思うと、涙が出るほどうれしくて、前より練習に身が入るようになりました。後に、小学校の先生になったこのコーチと話す機会があり、その時の気持ちを伝えると、「自分は、いつもみんなから褒められる子より、褒められる機会の少ない子の気持ちの方が気になるんだ」と言いました。この言葉は、私に大きな影響を与えました。他人と比較すれば大した記録でなくても、その子にとってベストタイムなら、どんどん褒める。そのことによって、子どもたちはその子なりの輝きを見せる、ということに気づいたのです。9教科ほどの学校の学習活動の中では、才能を発揮するチャンスにめぐまれない子もいます。一人ひとりにスポットライトが当たるようにするには、各人の個性が発揮できるような場をたくさん用意すること。本校においては、生徒主体で運営する委員会やクラブ活動、校内行事などがそれです。また、教科で学んだことを生徒が総合学習の場で生かし、テストの成績とは違った形で「才能を発揮」する場面もあります。例えば国語の授業で「百人一首」を学び、その後でカルタ取り大会を開催して、優勝した生徒が「カルタクイーン」として表彰されるなど。企業とのコラボレーションもその一例です。これは品川女子学院独自の総合学習プログラム「28project」の一貫として2004年から始めたもので、中学3年生が対象です。ポイントの1つは、チームでやることです。個人ではなく、チームで取り組むと、普段の勉強とは違う才能がお互いに発揮されやすくなります。リーダー役としてみんなをまとめていくといった目立つことでなくてもいいのです。みんながアイデアに行き詰まっている時に面白いことを言って盛り上げる、デザインが上手、などなど。「くだらないことを思いつく才能」もそうです。いろいろなチーム貢献の形があるのです。そして、その時に周りから「すごい!」「面白いね」と声がかかると、自分の存在価値に気づき、「私もみんなの役に立てるんだ」と心のスイッチが入るのです。以前は企業とのコラボレーション企画には希望者だけが参加していましたが、今は授業に取り入れることで、中学3年生全員が参加しています。自分から手を挙げる子だけでなく、食わず嫌いな子にも、みんなにチャンスを与えたいと思ったからです。中3といえば反抗期とも重なり、消極的な子、斜に構えている子など、様々です。最初のうちは、相手先の企業の方の前で居眠りをしたりする子もいて、見ていてヒヤヒヤすることもしばしばあります。しかし、子どもたちから返ってきたアンケートの回答を見ると、「初めは嫌だったけど、だんだん面白くなってきた」「こんなにできると思わなかった」という声も上がってきます。優勝チームの子が、「正直言って、初めは何でこんなことやらされるんだろうと思っていました」などと書いていることもあります。まず行動することで、発見があり、次からは自らの意志で動くようになるのです。子どもの教育は山登りと似ていると感じます。誰かに連れられ、初めは苦しくて嫌々登っていても、頂上に着いた時初めて見る景色に感動したり、達成感を味わったりすることで、次は自ら登りたくなる。ですから、その自主性が芽生える前の段階では、大人が上手に押したり引っ張ったりすることも必要なのです。 』プレゼンテーションの場面でも、代表者だけでなく、全員が一言ずつ発表するというふうに決めると、どんな子も人の後ろに隠れてはいられません。その様子を親御さんが見て、普段はおとなしい娘の“勇姿”に「自分の娘とは思えない」と涙ぐむこともあります。チーム同士で競う場合、構成メンバーを見ただけでは結果は読めません。そのテーマが得意な子が多く入っているチームがうまくいくとは限らず、内部で一人ひとりの生徒の個性をうまく引き出せたチームほど、上位にいきます。そのことで、子どもたちも「チームの力は足し算で、みんなの力が必要なのだ」と実感していきます。先日、卒業生が学校に遊びに来て昔話になったのですが、その子は中1の行事で起業家プログラムのまねごとのようなことをした時、社長に立候補した子でした。「○○さん、あの時、社長交代したんだよね」と言ったら、「そんなこと覚えているんですか」と笑っていました。当時、その子は積極性はあったものの、みんなをまとめることができず、チームの話し合いで社長を交代することになりました。その後、その持ち味を生かして「営業部長」の役を務めた結果、チームは大成功したのでした。卒業生たちが「品女DNA」と呼んでいる、前向きな校風が浸透してきたのは、学校改革を始めて10年くらい経った頃だと思います。最初は、生徒たちにいろいろな体験の場を用意しても、手応えは小さかったように思います。自動車がローで発進する時のような感じで、初めのうちは、使うエネルギーは大きく、変化は少しずつしか見えませんでした。しかし何かしたことで、生徒が一人でも笑顔を返してくれると、私たち教員たちの心は動きます。「喜ぶ子が一人でもいて成長につながるなら、もうちょっとやってみようか」と。すると、今まで傍観していた子たちも「面白そうだな。私もやってみようかな」と1人増え、2人増え、本校の場合はそれで車輪が少しずつ回り始めました。こんなたとえ話を聞いたことがあります。「台風の通り過ぎた海岸に何千、何万というヒトデが打ち上げられていた。小さな子どもが、今にも干上がって死にそうになっているヒトデを1つずつ海に戻しているのを見て、通りかかった人が『ぼうや、ヒトデはこんなにたくさんいるんだから、そんなことをしても無駄だよ』と言った。すると、その子は1匹のヒトデを海に投げながらこう答えた。『でも、このヒトデにとっては大きな違いがあるでしょ』」子どもは一人ひとり違います。同じ体験をしてもその受け止め方は違い、何でやる気になるかという「やる気のもと」も異なります。大人の意図通りには動きません。礼法の授業が終わった直後に、作法室をバタバタと走って出て行く生徒の後ろ姿を見て、ため息が出ることもあります。でも、蒔かない種は花を咲かせません。すぐに花が咲き、実をつける子もいれば、在学中には芽が出ずに卒業していく子もいるかもしれません。どの体験がどの子の心に響くかは分からないけれど、子どもたちが例えば28歳の大人になった時、振り返って「あの時のあれが…」と思い出してくれるような、「未来へのプレゼント」をたくさん贈ってあげられる学校でありたいと思っています。~漆紫穂子先生~いつもながら最高級の教育者の言葉はとても感動させられる。教育とは一人一人の人間に投資することに似ている。お金をいくらかけたかではなく、いかに質の高い大人とふれあい感化されながら高見に行くものだと思う。だからこそ優れた教育者は優れた経営者足り得るのだと感じるものだ。教育の機会均等を考えた場合すべての子供に品川女子学院のような教育は不可能だろう。しかしながら公立学校の教育方針の中にも10年先のことを見据えたプランがあって実行されるのならば決して教育の質を上げることは難しくはないだろう。今の現役の教師にこそ「やる気のスイッチ」をいれるべきではないか?と考えてしまうのは僕だけではないだろう…今朝も幼稚園の息子のやる気につきあって朝6時から算数(小学校2年生程度)の勉強につきあった。決して僕は「やりなさい」とは言わない。あくまでも彼がやりたいと思った時だけ手伝うのが僕の信条だから…
2008.12.04
「現代社会の絆の強さは、知識労働者の心理的社会的欲求と社会の目標とを、いかに合致させるかにかかっている」(『経営者の条件』)通常、知識労働者は経済的な問題は抱えていない。雇用は安定し、かつ、その知識のゆえに転職の自由まである。しかし、彼らの欲求と価値観は、組織における仕事と知識を通して満足させられなければならない。知識労働者の多くは専門家として見られ、彼ら自身もそう思っている。しかし、彼らは雇われの身であり、命令を受ける身である。しかもそれぞれの専門分野に属しながら、その知識からくるところの権威を組織の目的に従属させなければならない。専門知識においては上司も部下もないが、組織には階層がある。知識労働者にとっては、最近はやりの言葉でいうところの自己疎外、倦怠、フラストレーション、諦観が問題である。成果に向けた自己啓発こそが、手にしうる唯一の答えだとドラッカーは言う。しかもそれが組織の目標と個人の欲求を合致させる唯一の方法だという。知識労働者は機会、達成、自己実現、価値を必要とする。自らを成果をあげる者にすることによってのみ、それらの満足を得ることができる。「成果をあげる能力によってのみ、現代社会は2つのニーズ、すなわち個人からの貢献を得るという組織のニーズと、自らの目的の達成のための道具として組織を使うという個人のニーズを同時にみたすことができる」(『経営者の条件』)←まさにこの本に書かれていることは僕の気持ちを代弁してくれている感じがするなあ・・・。いつも、経営改善の提案をするときは専門知識の立場から社長に提案し役員に説明しなければならないが、同時に社員でもある立場では働く人の側になっていなければならない、確かにフラストレーションのたまり方は普通の会社員とはケタ違いだと感じるものだ。いつも経営サイドの要求ばかりでは一般社員の理解は得られないし、かといって労働サイドに立ってばかりいては積極的な改善策を実施していくことは困難だ。あちらをたてれば、こちらがたたない状況下でいかに最善と思える策をとるべきなのか四六時中模索しながら仕事をしていかなければならない。いっそ、フリーランスで勝手なことを言いっぱなしのコンサルタントにでもなるかなあ・・・とは思うが。そういう無責任なコンサルタントもたくさんみてきたので自分が同じこともできない。人生と同じ仕事も真面目にすればするほど難しさが増してくるんです(笑)
2008.12.03
最近、多くの学生やビジネスパーソンと接していて気になるのが、呼吸の浅さだ。比喩的にいえば、コイが池の水面で口をパクパクさせながら、空気(情報)を得ることに必死になっている。そんなイメージだ。おかげで、深く潜ることもしないし、広く泳ぎ回ることもない。ネット上で得られる情報やコミュニケーションで満足し、それ以上に探求しようとか、違うアプローチをしてみようとはならないのである。また比喩だけではなく、実際の呼吸も浅い。それが、すぐにキレるとか、心が折れてしまうとか、さらにいえば人間的魅力の薄さ等々の現代人気質につながっているのではないだろうか。長く呼吸の研究をしてきた私としては、そう思わざるを得ない。=その“感動”は浅くないか=その延長線上で違和感を覚えるのが、浅薄な“感動”の流行だ。テレビ番組にしても、小説や自己啓発系の本にしても、ひと昔前なら「お涙頂戴」としてバカにされていたようなものが、若い人を中心に素直に受け入れられている。その現象自体は非難すべきものではないが、日本の将来を担う若者がそんなに浅くていいのか、と不安に思うのは私だけではないだろう。これらの根本原因は、身体性の欠如にある。前回述べた「祭り」のように、人と身体ごと触れ合う機会が減っているから、肌感覚や情感のレベルでものごとを考えることができない。表面的な情報を得て、それが世界のすべてであると錯覚してしまうのである。かといって、地域の祭りに参加しようという単純な話ではない。友人を増やそうということでもない。むしろ逆に、世の中がフラット化する昨今だからこそ、自分をもっと深く掘り下げることが必要ではないだろうか。深度のある人は、人とも深く交われる。逆に浅い人は、人づきあいも浅いものである。特に最近は、アメリカナイズされたシンプルな考え方が主流になりつつある。会社は株主のもの、職場は給料を得る場、仕事とプライベートは別、能力の高い人は高報酬が当たり前、能力のない人はクビになっても仕方がない、といった具合だ。これらは合理的なだけに、一見すると非の打ちどころがない。しかし、ふだん働いている者の感覚として、「それだけではないだろう」と反論したくなる気持ちもあるはずだ。それを実証するのも、身体性をベースとした“深さ”ではないだろうか。=能力を発揮する自分と、その邪魔をする自分= では、どうすれば深く掘り下げることができるのか。これについて、2つの側面から考えてみることにしよう。第一に、私たちは余計な情報に踊らされていることを自覚する必要がある。それを象徴的に物語っているのが、『インナーテニス』(W・T・ガルウェイ/日刊スポーツ出版社)だ。いささか古い本だが、興味深い考え方が紹介されている。それによると、一人の人間の中には、知的部分の「セルフ1」と本能部分の「セルフ2」という二人の自分がいるという。テニスをはじめとするスポーツでは、すべて「セルフ2」に任せれば最大限の実力を発揮することができる。そればかりか、「セルフ2」には「あらゆる物事をスーパーにやってのける能力」があり、「万人に共通した潜在的な能力」でもあるそうだ。ところが「セルフ1」は、「それじゃダメだ」「もっとこうすべきだ」「お前は才能がない」などと言い続けている。つまり、「セルフ1」が「セルフ2」の邪魔をしているわけだ。上達するには、これを黙らせることが重要と説いているのである。その方法として、一つ一つのプレーを声に出して言う、というものがある。たとえばボールがバウンドしたら「バウンス!」と言い、ラケットに当たったら「ヒット!」と言う。あるいは打ったボールがバウンドする位置を見きわめて「プラス1!」「プラス2!」などと声を上げる。たったそれだけで、たちどころにプレーが改善されるという。この理由は、なんとなく分かるだろう。声を出す瞬間、「セルフ1」の存在を忘れることができる。余計な情報を遮断して、プレーに集中した状態をつくることができる。スポーツにかぎらず、およそ人間の能力ないし直感というものは、邪魔さえしなければ研ぎ澄まされていくものなのだ。これはちょうどヨガや禅に通じるものがあるが、もっと簡便に、声も利用できるということである。=答えは日本文化・日本語文化の中にある=この「声」にも関連するが、もう一つ深く掘り下げる際に前提になるのは、日本人としての身体性だ。私たちの身体には、祭りの和太鼓や歌舞伎の言い回し、短歌や俳句のリズムが染みついている。歩き方一つでも、欧米人とは違うのだ。それが風土的な文化・伝統というものであり、その中心にあるのが日本語だ。 私はけっして復古主義や攘夷思想を主張しているのではない。ただ、ふだん私たちは日本語でものを考えたり、悩んだりしている。やや大げさにいえば、過去に日本語をつくってきた膨大な日本人の心のありようが、今を生きる私たちの心にも反映されているわけだ。たとえば“Good Job!”や“Fantastic!”といったポジティブな表現より、「もののあはれ」とか「諸行無常の響きあり」のほうが心情に合う気がしないだろうか。私たちの存在も、こういう大きな日本文化・日本語文化を担う細胞の一つ一つなのである。最近はよく、個人が個として確立することが大切といわれる。しかし、その個が強くなるためには、根元をしっかり広げて土台を固めていく必要がある。私たちは無理してハンバーガーを食べなくてもいいし、欧米に武者修行に出る必要もない。むしろ重要なのは、“細胞”の一つであることを自覚し、日本文化・日本語文化が持つリズム感や触覚を取り戻すことではないだろうか。その点、江戸時代の人々は、現代人が想像する以上に街道を往来していた。「物流」というより、身体そのものが一国の「血流」だった。その最たる例が「参勤交代」である。これによってモノや情報が流通しただけではなく、互いに触れ合うことで文化が行き交い、個々人の学びが深くなり、精神的にもタフになった。私は江戸文化の専門家ではないが、こういう面はたしかにあったはずである。その精神を、私たちはもう少し見習ってもいい。世界で活躍できるビジネスパーソンほど日本人としての自覚と身体を持ち、日本文化・日本語文化に造詣が深いことを、私は確信してやまない。~斉藤孝先生~確かに呼吸法にまで言及しているのは日本独特の文化からくるものが多いのではないか?ヨガの呼吸法も独特ではあるが真言密教などの霊場で修行する僧の呼吸は体全体を鼻からはく息が取り巻くように流れる実験を昔NHKの特集で観た覚えがある。呼吸ひとつでは対して変わらないと思う諸兄もおられるだろうが、何もしないでいるよりは一つ変えてきてはいかがだろうか?少なくとも僕自身は相当変わりましたので、あくまで今回は経験則にしか基づきませんが…
2008.12.02
「俺は聞いていない」は、権威主義の男性上司の常套句だと思っていた。だが、昨今は、キャリアウーマンがその言葉を吐くのを目撃するようになった。ある出版社でのこと。本の売上部数が落ち、出版界は今そのことで深刻な打撃を受けている。私も執筆者として売上向上の営業努力を課せられる立場だ。「私の本を100冊自宅に送ってください」と担当者の女性に注文した。本が出版されるとその宣伝のために本を各番組にばら撒くことが多いからだった。「わかりました」とその女性は返事した。そして、私のところに本が届いたのはそれから10日後だった。私がいろんな番組に出演した後だ。新刊はすぐには書店に並びきれておらず、仕方なく私は手ぶらで本の宣伝に回った。 「なぜすぐ送ってくれなかったのか」と言うと、その女性は、「“急ぎ”とは聞いていませんでしたから」と返事した。数カ月後に大きなイベントを控えていた。「私の本を会場で売れるように営業に手配お願いします」とその女性に要請した。何かイベントがあってそこで本を売らせてもらう場合、出版社の営業がイベント主催者に掛け合うことがある。数十冊なら著者本人が直接交渉することもあるが、大きなイベントになるほど冊数の桁が違い、出版社の出番となる。数十冊から数百冊まで、イベントの規模によって売れる冊数には大きな幅があった。「わかりました」とその女性は返事した。それから数カ月。イベント当日まで度重なる交渉の結果、そのイベント趣旨を理由に、本を置く許可は主催者から出なかったという旨の報告が、私のところに届いた。こういう結果は普通にあり、別に驚くほどのことではない。「では、近所の書店で販売させてもらいましょう」 書店に、イベント当日に本を積み上げてもらえるように営業がお願いに行くよう、私は提案した。そうすれば、イベントで私を見たお客様で、興味のある方は帰りに本屋に立ち寄ってくださるかもしれないと踏んだ判断だった。「積み上げてくださるよう頼みました」という出版社からの報告が私のところに届き、勢いづいた私はそのイベントでおおいに自分の本をアピールした。予測は当たり、書店は大勢のイベント帰りのお客様でごった返しているとの報告が入った。そして「ところが書店には、遙さんの本が入荷されてません」と。「いったいこれはどういうことですか」私はパニックになったであろう書店と、がっかりさせてしまった客を思い、腰が抜けた。出版社の女性は言った。「イベント日がいつか、私は聞いていませんから」「数カ月間、ずっと交渉したり、連絡したり。当然、イベント日のことは知っている前提での話だ」「イベントがあることは認識していましたよ。でもいつかは聞いていません」「書店への迷惑と客の失望の重大性を認識しているのか」「イベント日を聞いていたら、私だってちゃんと対応していました」「じゃ、本を積み上げる交渉は何のためにしたのか」「通常の一般的な営業としてしました」「では、イベント日対応はしていなかったのか」「イベント日は聞いていませんでしたから」「聞いてません」は、とても便利な言葉だ。どれほど窮地に追い詰められても逃げ道を確保できるマジックワードだ。仮に、イベント日を掌握していて、当日、書店には本が10冊並んでいたとしよう。「数百冊の本が売れたかもしれなかったのに、10冊とは何事か」と私が怒ったとする。「イベント日は知ってましたが、人数や冊数は聞いていません」と逃げられる。では、イベント日もおよその売上冊数も掌握していたとして、そこに並んでいたのが私の売りたい本ではなかったとしよう。「なぜ異なる本が並んでいるのか」と私が怒ったとする。「イベント日も冊数も知ってましたが、どの本を並べるかは、聞いていません」と、ちょっと苦しいがこれも逃げられる。では、イベント日も冊数も本も掌握していて、それが書店の店長ではなくアルバイトに頼んだせいで、アルバイトのうっかりミスでもって本が並んでいなかったとしよう。「その人物がアルバイトだとは、私は聞いていませんでした」とかなり苦しいがまだ逃げられる。「私は聞いてない」はかつて、オヤジの常套句だったが、今ではエリートキャリアウーマンの正当化へとその幅が広がった。こういう負の賢さを磨くなら、磨けばいい。だが、その仕事に興味さえあれば、「いつ?何冊?どの本?」とおのずと質問は沸いて出てくるものだ。「聞いてない」は一見、連絡ミスのような印象を受けるが、実は、「興味がない」ことに過ぎない。「聞いてない」で逃げても、「じゃ質問はしたのか?」でもって逃げ道はやがて閉ざされてしまうことを知れば、負の賢さを磨くことは、私にはあまりお勧めできるスキルではない。~遥 洋子氏~彼女のこの記事を読んで思ったのは、とうとう女の子までおやじ化してしまったかと…。僕がまだ大きな組織にいたころの女性はお茶くみとかいわれるような一般事務職の女の子でさえしっかりと組織運営のことが頭の中にあって。それは見事に情報ネットワークを駆使したりして僕らを助けてくれたものだ!今のいわゆるエリート女性は、こんな簡単な事務連絡すらできないのか?嘆かわしい限りだ!いっそのこと今は専業主婦になっている女性たちを再雇用して愚か者感違いエリート女を駆逐してしまった方がいいのではないか!遥先生はもともとは男と女のすれ違いをテーマにしていたはずだが、あまりの愚か者女の出現に我慢できなくなったのではないだろうか(笑)お気持ちお察しいたします(嘆)
2008.11.28
全身全霊をかけて1つの物事に向かうことで、悟りになります。投機の偈(げ)という言葉がありますが、それはもうこれだというのを偈に唱えることです。この投機が経済的な用語に採用されたのは、投機の機はチャンスのことで、チャンスに我が身を投げ出すという意味があるからでしょう。禅の投機は、自然現象です。自然は基本的に、どう変化するか分からないものです。ですから経済用語として投機でも、長期的にどう動くか分からないと考え、例えば目先の20円や30円の動きで、取引して利益を確定しようとするのが、最も無難なのではないでしょうか。なんら不安を持たないで、投機行為をすることなどは難しいと思いますが、不安を和らげることはできるでしょう。人が不安な身体状況にある時は、呼吸が浅く、短くなっています。息を吐ききっていないからです。吐ききらずに吸い始めるので、浅く短い呼吸になるのです。こうした身体的な状況が、体に不安というものを裏付けてしまうのです。不安とは、目には見えない頭の中で思い浮かべたことがもたらしていると考えがちですが、実は呼吸という身体の物理的な動きによって作られているのです。呼吸のしかたですが、息の長い呼吸というのは、集中して事に臨む時にも役立ちます。1つのことに心が統一され安定した状態を三昧と言います。いわゆるヨガではサマディと同じ状態の時は、息は止まりますね。野球のバッターがここぞと球を打つ瞬間は三昧になっていて、恐らく息は止まっているでしょう。息を止めた状況をある程度続けるには、呼吸が長くないと難しいですね。長い呼吸をすれば、精神が安定し、集中力を増して物事に臨むことができるということですか。しかし、長い呼吸をしても、経済行為の投機をしている時は、不安を抜本的に取り除くことはできない。経済行為としての投機は、要するに未来を先物買いするということです。これは全くなってない。未来を思惑通りにしようという心掛けは、禅的なものと懸け離れています。禅で無心、予断から離れた状態になることを追求します。予断を持つというのは、将来どうなるか本来は分からないのに、自分の都合がいいように未来を決め、未来を安く見積ってしまうことで、様々な過ちを犯すことになる。未来という観点からするとかんがえなくてはいけませんが、私の寺では毎年、水子供養をやっています。ある産婦人科に頼まれて行っています。その人数は、何人と思いますか。毎年300人近い数です。その産婦人科で無事に生まれた赤ん坊が400人くらい。つまりその産婦人科では、毎年700人近い新しい命と向き合いながら、半数近くを堕胎しているのです。毎年です。これを聞くと少子化という言葉が複雑に聞こえます。ある時、その産婦人科のお医者さんに尋ねてみました。堕胎される子供のうち、「正式な夫婦の間の子供と産めない関係の子供の割合は、どのくらいなのでしょうか」と。どのぐらいだと思いますか。だいたい半々なのです。堕胎をする事情はそれぞれあるかと思いますが、どんな事情であれ、その子が生まれて人生を歩まないとどうなるかは分からないのに、結局は親の予断というか見積もった未来の中で、「育てられない」と判断され、堕ろす。ちうまり未来を消されてしまっているわけです。念のため申しますと、これは1つの産婦人科で起きていることです。未来を見積もることで起こる罪は、医療の世界で浸透してきたインフォームド・コンセントにもあります。例えば、この治療をこの患者にすれば余命2年はあると思っても、「1年くらいは持ちます」と安く見積もった方を告げてしまう。「余命2年」と言って1年2カ月か1年3カ月で死んでしまえば、「先生の治療は間違っていた」と責められてしまうこともあり得ます。「1年」と伝えていれば、逆に「先生のおかげです」と喜ばれるでしょう。しかし、人間の深層心理には、口にされた言葉通りになりたい、というものがあるのです。ですから、本当ならば2年以上生きられた人が、「1年」と聞かされたために、寿命を1年に縮めてしまうこともあり得ます。本来、手術した先がどうなるかなど、100%分かるはずはないのです。「どうなるか分かりません」という態度が医師にとっても、そして患者にとっても自然なはずです。しかし、そうした態度を取ることが許されなくなっているため、未来を安く見積もることがはびこってしまっているのです。一例になりますが武道を例にとりましょう。武道では、相手が次の一手にこう出てくるという予測がない方が強いのです。予測してそれと違った手が来た場合、精神的にショックを受け、またそれに対する反応がすぐにできません。全く予想せず、とにかく相手の気配に対応する、先ほど申した禅での無心が、もっとも強くなれるのです。しかし、今はすべて計画を立てて進みなさいと、子供たちも教育され、経済のあらゆる場でも、計画が常識になっています。こうした風潮に私が申し上げたいのは、「その計画にあなたは苦しんでいませんか」ということです。計画を立てるといっても、それは過去の自分が考えたことです。過去に考えたことの通りに、物事が進むことなど、どれだけあるでしょうか。それなのに、計画とは違うといって、過去に思った自分によって現在の自分が苦しめられているのが今の社会です。過去の目標に縛られず、毎日、修正していけばいいのです。毎日修正していたら目標にならない、と思うでしょう。しかし、私からすれば、そうした目標は中途半端なもので、そんな目標に自分を苦しめられること事態が間違っている。計画や目標を優先する風潮が現在はびこっているのは、実は管理をする側の欲望、もっと言えば管理する側が安心したいという欲望だと思います。それが肯定されているから、皆が苦しんでいる。確かに会社という組織としては、無理でしょう。しかし、社員一人ひとりがそれを鵜呑みにせず、「会社だから仕方がない」「便宜上目標はあります」という態度を取ることはできないでしょうか。それも難しいのかもしれませんが、そうでないと辛すぎます。目標に踊らされ、ある意味で一喜一憂する1つの例が、平均寿命です。我々が新聞などで聞くこの言葉は、本来は、0歳児の平均余命です。それを平均寿命と聞かされ、例えば2007年の男性の平均寿命は79.19歳というと、今70歳の人はあと10年しか生きられないと思い込んでしまう。しかし、今、70歳になっている人の平均余命というのは、0歳児の平均余命から今の数字を引くのではありません。2007年時点で70歳の人の平均余命は14.8年です。ですからこの年の0歳児より、6年近く平均寿命が長い。ただし、これもあくまでも平均なのです。自分にとって本当に意味のあるものか。あまり気にしすぎるのもどうでしょうか。そそうです。分からないからこそ人間は、この先にどうすればいいのか悩むのです。しかし、悩んでも先を見通すことはできない。ただし、現在(いま)をより深く知ることはできるでしょう。戦国時代の武将たちがブレーンに求めた人は、小野篁(おののたかむら)が開校したと言われる日本で最初の学校、足利学校の教師や卒業生です。徳川家康は庠主(しょうしゅ)と呼ばれる足利学校の校長に、戦に出る日時などで助言を得ています。この足利学校の人たちはどういう人かというと、基本的に先生はすべて臨済宗のお坊さんです。では臨済宗では何を学んでいるかというと四書五経で、四書五経の中の最終的なものは、易です。易というのは、結局、「現在以上の現在」を見るものなのです。現在以上の現在は、未来とは違う。違うんです。例えば、ナマズは地震を予知すると言われることもありますが、あれは予知ではありません。地震が来る1日前に必ず起こるようなことを、現在察知しているのです。予知ではなく、現状に対する非常に緻密な知覚なのです。これと同じで、今の経済社会が本当に求めないといけないのも、未来への予測や計画ではない。だから現状に対するもっと緻密な見方をすることで、今以上の今が分かるのです。基本的に今なのです。例えば、株式市場でも何でも、「今、これだけの勢いで滑り落ちている」と察知できれば、その勢いで「この先も落ちていくだろう」と察しがつきます。勢いよく落ちているのが、突然、逆に跳ね上がっていくことは起こりにくいからです。予測ではなく、現状に対する緻密な感覚で、知覚です。この知覚を研ぎ澄ますには、呼吸を深くゆっくりして、感覚を鋭くした方がいいのです。というのも感覚を鋭くするには、何も考えてない状態にしないといけないからです。物を考えているということは、頭が何かに占領されているからです。この何も考えていない状態をどうやってつくるかに、様々な宗教は腐心しているわけです。何かを丸暗記して、それを再生するということですね。例えば、経を覚えて唱えている時というのは希有な状態で、意識ははっきりしていて、覚醒しているし、感覚は鋭くなっている。しかも、何も物を考えていないのです。物を考えたら、すぐに間違えます。ある程度の長さを持ったものを丸暗記して、それを唱えている状態は、脳からベータエンドルフィンが出ていて、あっという間に気持ちよくもなりますし、感覚だけは鋭いという状態になります。もう1つできることは、西洋化した生活を改めること。現代の日本人の生活は、上半身ばかりを肥大化させています。正座や蹲踞(そんきょ)をすることがほとんどなくなっている。正座や蹲踞は、複式呼吸を自然に促します。複式呼吸というのは副交感神経優位、つまり合理的思考とは違う状態に持っていきます。ところが胸式呼吸になってしまうと、合理的思考は得意だけれど…という身体状況になっていくわけですね。やはり食事以外で正座をするのは苦行なのです。食事をしている間の正座は、つらくても、どうにか我慢できていて、そのうち慣れてしまうことが起こります。ですから私は食事だけでいいから、正座をして食べたらどうかと思いますね。そうしないと本当に正座を中心にした日本文化が廃れてしまう可能性があります。それに関して言及しているのは、荘子ぐらいだと思います。荘子は人身が不安定だと天変地異が増えると言っています。例えば喜怒哀楽の激しさが、六気(りっき)を作用すると。六つの気とは、自然現象ですね。自然現象に作用する。だから陽と陰を極端にしてしまうと言っていますね。 結局、人災でもある。人間も自然ですからね。人間が自然であるということも忘れているし、自然が自然であるということも忘れているわけですね。シミュレーションして、その通りになるだろうと、なったら自然ではありません。それはもう死んでいるわけですよ。思い通りにならないから自然なのです。ですから予想外のことはなくそう、という今の日本の社会全体での取り組みは政治も経済も教育もすべて異常ですよ。 ~玄侑 宗久(げんゆう・そうきゅう)氏~やはり、ひとつの道を究めた人の言葉ほど説得力があり、また啓示にとんだ言葉はないのだと感じる。ひとえに世の中が悪い、社会が悪いというのは簡単極まりないが何をもって悪いのかの価値基準すら明確ではないではないか?!国が悪い!政治が悪い!と声高に叫ぶ人たちは何の努力をしているのか?結局は何もしないで、ただ現状の甘い認識だけで右往左往しているだけではないのか?トータルで考えるというプロセスがある。これこそが現代に生きる上で最重要な課題ではないのか?このことの切り口を考えるに2000年以上のキリストの言葉や仏陀の教えなど、ありとあらゆる方策が説かれてきたのではないか?やはり宗教を軽視している世の中には光がなくなるのだ!ということを是非再認識して、これからの世の中を希望の光で照らす努力をすべきではないのか?最近、真の改革とは何か?強く思考してやまない私であります。
2008.11.27
--一流のスポーツの選手も、負けたときは気持ちをすぐに切り変えるといいますね。植島:負けた後にあれこれ考え、「こう選択するとまた失敗するんじゃないか」とか「今度は負けてもいいからやってみよう」とか、少しでも口にしたり、思ったりすると勝負事は必ずうまくいかない。それで勝った人を見たことがない。賭けとはそういうものです。勝とうと思っても勝てないけれど、負けを意識すると確実に負けてしまうんです。勝負時に身体が反応するか--調子良く勝っているのに、そのことが逆に不安でストレスになったりします。そうなると過去のデータから確率を考えがちです。先生は自著で競馬を例に、「もっとも『合理的』と思える判断を積み重ねていくと、なんと必ず破産することになる」と書かれています。いったい何をあてにすれば勝ちは拾えるのでしょう?植島:たとえば、これまで最も賞金を稼いでいる馬がいちばん強いわけですから、賞金順に賭けるというやり方もある。前走同じレースで2着と8着の馬がいる。それなら2着だった馬のほうが強いと考えるのが合理的だし、逃げ馬が3頭もそろったら当然競り合いになるから、差し、追い込み馬を狙うというのも理にかなっている。でも、そういう「合理的」なことを追求すればするほど競馬では勝てなくなるということです。それよりも自分も含めてそのレースをめぐって複雑に絡み合う「ツキ」を考えます。ツキとは人の持つ調子の波ですが、つねにゲームを支配しているのです。--おそらく現代人は、データに基づかないツキや流れを把握することが苦手でしょう。それに、科学的ではないという理由で重きを置かない人も多いのではないでしょうか? 植島:でも、人間は緊迫した状態になると、頭で考えるのではなくツキや流れを把握できるかどうかが勝負になります。そういう身体反応のない人はギャンブルに限らず、勝負事において致命的です。とくに重大な局面の勝負では、身体反応が左右します。将棋がいい例です。羽生善治さんは頭脳がコンピュータみたいだと言われているけれど、書いているものを読むとわかるのは、頭脳に頼り切りの人ではないということです。いざというときに頭に固執する人は難所を乗り切れない。「ここが勝負時」というときに、数学的な確率をもとに考えても対応できない。身体が反応してうまく勝てたとしたら、そこからは自分の弱気との勝負になります。「これだけ勝ったのに負けたらどうしよう」と、“おそれ”の気持ちが湧いてきて、支配されそうになりますから。かといって、がむしゃらに突っ走ればいいというのでもない。--不安を無視するのではなく、うまく付き合うということですか?植島:自分の中の“おそれ”をよく観察しておかないと勝てる局面ですら勝てない。ギャンブルでは、勝つときはグワーッと勝ち、負け出すとその勝ち金が一気になくなります。 勝ち出したとき、きまって“おそれ”が忍び寄るから、それに耐え切れず勝負から降りるとします。次に出た目は、賭けていたら裏目だった。でも、そこで「ほら、退いてよかった」と思う人はまだまだ二流です。本当に強い人は賭けつづけて事態を打開していくのです。「自分以外の力を信じること」--“おそれ”と向き合いながらも自暴自棄にならず、変化に応じて自分を保つのが一流のギャンブラーということですか。そういえば、ソニーやホンダなどの創業者も、流れを読み、常にいまの勝負に賭けはしても、過去の経験や頭で考えた安全パイを選択するという発想をあまりしなかったのではと思います。植島:彼らはある意味ではギャンブラーと似ていて、目に見えないものを読み取ろうとしているわけですから、一流企業の社長になるほど、何らかのかたちで宗教や占いに関わっています。ロナルド・レーガン大統領が女占星術師ジョーン・キグリーを相談役に迎えたように、それこそアメリカ歴代大統領や日本の総理だってみんな占星術師や占い師に相談してきたわけです。責任の重い人がそうなるのは、自分の力ではどうしようもない運命のようなものを骨身に沁みて知っているからです。--普通、宗教や占いに頼るのは、「心が弱い」とか意志決定力に欠けると思われがちですよね。植島:そこに宗教への誤解があります。もっとシンプルに考えるべきだと思います。宗教の定義は、「自分以外の力を信じること」。つまり、宗教を信じない人は、「自分の力だけで生きていける」ということになります。果たしてそんなことが人間に可能でしょうか?--たしかに、そもそも人は自分の力で生まれたわけではありません。意志や選択で運命が切り開けるという自負は、宗教の見地からしたらもっとも虚像にしたがった生き方になりますね。植島:「最後の最後で何に頼るか」というアンケートで、日本では50%の人が「財産」を挙げています。お金さえあれば何とかなると考えているわけです。アメリカやイギリスでは、キリスト教の地位が下がったとはいえ、「宗教」が50%を占めている。日本人はお金の価値観に強迫され、不安をかき立てられたまま最期を迎えることになってしまっている。とても情けない結果だと思いませんか。人間関係を成熟させるのは“遊び”--経済不況がさらに進めば、いっそう不安が募るでしょう。そういう時代だと誰もが確実に成功できる法則を求めたくなります。そうした秘訣はあるのでしょうか?植島:成功の秘訣は、まず人間関係しかありません。近くにいる人どうしは愛し合うこともあれば憎しみ合いもする。そこにストレスが生れるわけですが、成功の種もそこにしかない。さらに付け加えると、人間関係は“遊び”でしか成熟しないと思っています。仕事で達成感や同志感が得られるのも否定しないけれど、いつでもそうした感情を獲得できるわけではない。それに仕事は惰性でできても、遊びはそうもいかない。3日間マージャンをやるとなったら、だいたいの人は途中で音を上げます。一緒に遊んで無駄だと思える時間を過ごせる人はなかなかいないものです。--いい人間関係が築けても、そこで見返りを求めると必ずうまくいきませんよね。 植島:現代では「何かをあげるから何かをください」という見返りを求める互酬性が当然のように思われています。けれど昔の社会は、代償を求めずものをあげることで結果的に交換を成立させていました。日本でもお中元やお歳暮だとか、年中贈与を繰り返していたわけです。資本主義以前であればどこでも見られた光景です。たとえば、いまでもビールを飲むときは、互いに注ぎ合いますよね。そこで何がやりとりされているかといえば、ビールではなく、“親密さ”です。私たちは、生きる上でそのほうが居心地がいいということを知っている。旅をしているとなおさらそう感じます。まず人を受け入れる。その態度が大切なことなんです。道徳は外からの強制だけど、倫理はどう生きるかにかかわります。倫理の核心は「他者を受け入れること」。この一語に尽きます。--日本人はお人好しで疑わなさ過ぎという意見もあります。植島:もちろん危険かどうかは最低限わかっていないといけないでしょう。その判断は、それこそ頭ではなく身体の反応によるものです。かといって、それは「この人は身なりがみすぼらしいから話すのをやめよう」といった外見に基づく判断ではありません。まず誰であれ受け入れ、もてなす。それこそ最も大切なことです。 ジャック・デリダとかジャン=リュック・ナンシー、エマニュエル・レヴィナスといったヨーロッパの哲学者の最大のテーマはいずれも“歓待”でした。ヨーロッパにとって移民問題がどれだけ深刻だったかを物語っています。--歓待とは、人の身なりや印象を見て判断した上での行為ではなく、いま目の前にいる人にかかわろうとする態度なのかもしれませんね。植島:アジアやアフリカで道に迷うとあっという間に20人くらいの人々に囲まれます。それぞれ言っていることが違うけれど、みんな行き先を教えてくれる(笑)。心があたたまります。日本人の苦手な部分が生きる上で大事な部分--ビジネスでも、自他との対話を通じて正しい答えを導く手法が持てはやされました。そもそも「正しさ」がゴールに設定されているということは、何かのルールがあって成立することです。ルールに基づいたコミュニケーションでなければ不安だという気持ちの裏返しでしょうか?植島:そうなんでしょう。モロッコやエチオピアの市場へ行くと値札がありません。定価というルールがない。日本のツアー客が「あの人たちは人を騙す」と言って怒る。でも、それは大きな間違いで、定価がないということは、「コミュニケーションをとりなさい」ということなんです。たどたどしくても「子どもはいるの?」とか「家族はどこに住んでるの?」とか話していたら、心が通じてくる。向こうもこちらのことが少しはわかってくる。すると値段が言い値の3分の1くらいになって、現地の人が買うのと変わらなくなってくる。ただし、これはだまされないための駆け引きではありません。旅をして思うのは、日本人が苦手とする部分こそが、実は生きる上でいちばん大事だということです。--その苦手とすることを日本では制度が肩代わりしてくれるから、どこでも疑いを持たずに均質なサービスが受けられます。これは日本人にとって利点でもあるのでは?植島:それがいいか悪いかはまた別です。たとえば、「ホステピタリティ」は「もてなし」「歓待」を意味するけれど、「ホスピタル」になると「収容」になります。制度にしてしまうことで別の問題が生じることは多々あります。科学は周回遅れのランナー--歓待とは、客を迎える行為ですが、それは自分の意志ではどうにもならない偶然の出会い、一期一会を歓び迎える宗教的な姿勢にもつながりそうです。そこが事実に向かうにあたっての科学的な態度との違いでしょうか?植島:宗教と科学は何が違うかといえば、反復可能性、実証可能性の問題に尽きます。科学では同じことが2度起こらないと証明になりません。しかし、宗教的なことがらは1回しか起こらない。仏陀の悟りもイエスの生涯も1度きりです。宗教はずっと“1回性”を問題にしている。だから宗教と科学は永遠に交わらない。なぜあのときにその人と出会ったのか。そんな出来事がなぜその場所で起きたのか。そうした問いに対して、科学は可能な範囲で説明できるだけで、本当のことは何もわからない。科学や理性は現実に対しつねに周回遅れのランナーなのです。どうせ1回しか生きられない人生なんですから、先頭を走るランナーにならなければおもしろくないでしょう? 誰だって100年も生きることはできないんですから。~植島啓司(うえしま・けいじ) 宗教人類学者~先生の話は現代に生きる我々、特に日本人にとって非常に示唆に富んだお話だと思う。人間だれしも一人では生きていけないのだ!人は支えあわなければ存在することも難しい。一人で生きていけるという人はさっさと一人で無人島くらしでも何でもすればいい…きっと1週間もしないうちに人と話したくなるだろう(笑)。僕らにとって最重要なものは自分自身以外の力を信じ受け入れること!それが一番大事で肝要なことなのだと早く気づくべきではないのか!強く感じる対談だったな・・・
2008.11.27
まさに日本とは好対照である。11月5日、ドイツは総額500億ユーロ(約6兆1000億円)規模の追加経済対策を打ち出した。メルケル首相は、この対策を「骨太で目標をはっきりさせたもの」であり、「不自然な需要刺激策とは一線を画する」と強調した。中身を見ると、中小企業への貸し渋り対策など日本と共通する項目もあるが、投資促進や省エネ・環境問題に関連する施策が目につく。たとえば、企業に短期間での減価償却を可能とする税制改正、建物のエネルギー効率向上への支援、新車購入での税免除(環境性能の高い車種はより優遇)などだ。このような内容となったのは、「“藁の火のようにパッと火がついて消える”ような短期的な景気刺激策には、産業界が強く抵抗している」(ジェトロ・デュッセルドルフの小谷哲也氏)ことも背景にある。技能の低い労働者の再教育支援も挙げられているが、「これもドイツが長らく抱える課題の一つ」(同氏)だ。他方、わが国の追加経済対策は、“目的が不明瞭”“選挙対策のバラマキ”と批判を浴びている。「“思想”を持った政策であるか否かが、最大の違いだ」。元経済諮問会議員の八代尚宏・国際基督教大学教授は指摘する。「経済対策は“長期的な課題をこの機にやる”ものであるべきだ。各国の経済対策は、国際協調の一方で、いかに自国の成長力を高めるかという政策競争の面もある。日本はそれがまったく見えない」。ドイツでも、専門家のなかには「規模が小さ過ぎる」などと今回の対策の効果を疑問視する声は少なくない。だが、国民の支持率は高い。11月7日に発表された世論調査では、68%がその内容に賛意を示している。対して日本では、生活支援定額給付金を「評価する」は31%、追加経済対策全体でも同37%(共同通信社の世論調査:11月8~9日)。差を生んだのは、“思想の有無”にほかならない。(『週刊ダイヤモンド』編集部 河野拓郎 )この記事を読んで思うのは日本人は明らかに議論しないし考えない人がほとんどだということ!昨夜NHKの某番組で早稲田の後輩たちをみたが情けないの一言!彼らの思考回路には全てを考え抜いて、なお一つの思考や表現にいたるというプロセスがなくなっている。僕らの頃には教授と議論できないような愚かなものはまず少数でいなかった。まったくないとまでは言わないが…早稲田でもそうなら他の大学では、もっと悲惨だろう…選挙でまったくふさわしくない議員が当選するのも目の当たりにすればするほど、この国の国民性、教育の不在が見えてくる。まずは自分自身真剣に日常を考えることから始め政治の改革は今だ!と心得てから次の総選挙に向かいたい!そう思う人が過半数をしめるようになれば腐った政治システムも変わるかもしれない!僕は全部小選挙区にして比例区なんてものは廃止すべきだとかんがえております!
2008.11.26
人の行動原理を説き明かしていく「行動分析学」という学問があります。このフィールドの中心を成す理論は「ABCモデル」と呼ばれています。 Aは、“Antecedents”=誘発要因 Bは、“Behavior”=行動 Cは、“Consequences”=行動結果 人の行動には、何らかのきっかけ、すなわち誘発要因がある(A)。そのきっかけで行動が引き起こされ(B)、行動の成り行き(C)によって、再び同じ行動が将来生起するかどうか決定されていく。ABCモデルの流れを職場の会話を例に見てみます。上司から「会議では積極的に発言しなさい」と言われた(A)。あまりまとまっていなかったけれど、部下が試しに自分の意見を言ってみたところ(B)、上司は「どんな意見でも、自分の考えを会議で伝えるのは素晴らしいことだ」と褒めてくれた(C)。この部下が次の会議でまた発言する可能性は高くなります。逆に、AとBまでは同じでも、Cが「上司から『つまらない意見は出すな』と言われた」や、「意見を伝えたのに上司のコメントを一言ももらえなかった」では、部下が再び発言をする可能性は低くなります。Cがネガティブと予想されれば、その後にいくらAが与えられても、Bが起きづらくなるからです。職場であまり話をしない人は、これまで自分の発言が肯定的な結果として実を結ばなかった経験から、ダンマリを決めこんでいることが多いものです。否定されたり、無視されたり、といった場面が繰り返されると……。すると「話しても無駄だ」と思いますから、発言を抑えるようになる(人によっては社会人になる前からこのパターンに陥っているかもしれませんが)。家庭であまり話さない子供も同じです。「学校でこんなことがあったんだ」としゃべっても、母は「で、宿題はやったの?」、父は「いま母さんと話してるんだから静かにしなさい」。そんな経験をきっと過去に繰り返しているはずです。あるいは「ふーん、そうだったの」と返事はしてくれても、心から興味を持って聞いてもらえたわけではない。大人の無関心を子供は敏感に感じ取るものです。「話をしても(B)、いいことが起こらない(C)」と思うたびに、発話(B)は抑制されていきます。では、ネガティブな行動結果(C)を想像して、行動(B)をとらなくなった人に、再びBをしてもらうにはどうすればいいでしょうか。結論を言えば、「より強いきっかけとなる誘発要因AでBを引き起こし、そのBに対して決定的にポジティブに感じられるCを提供する」。これが王道です。以前、演出家の宮本亜門さんに、コーチA主催のイベントに出演していただいたことがあります。テーマは「個性を活かすコーチング」。ニューヨークでミュージカルを成功させた宮本さんに、個性の強いアメリカ人俳優をどう束ねたのか話してもらったのです。宮本さんは、高校時代の体験に触れてくださいました。彼は一時期、不登校に陥ったそうです。自分の部屋に閉じこもってしまったのだそうです。ある晩、酒に酔ったお父さんが、宮本さんに業を煮やし、ついに切れた。「このやろう!」。宮本家の家宝である日本刀で切りかかってきた。トイレに逃げ込んだ宮本さんに、お父さんは扉のわずかな隙間から日本刀を差込みグサグサ動かした。「カキン」という小さな音と共に刀は折れた。お父さんは力尽き、その場に倒れこんでしまった。おそるおそるトイレから出てきた宮本さんに、お母さんが言った。「そんなに嫌なら、学校には行かなくていいわ。そのかわり、1つだけ聞いてちょうだい。病院に行って」。宮本さんは、慶應病院の精神神経科でカウンセリングを受けたそうです。診察室に入ると、カウンセラーの先生は宮本さんに言った。「今日は僕に君の話を聞かせてくれないかな」。警戒しながらも宮本さんが話をすると、「君の話って面白いね。それで、どうなったの?」。先生がとても面白そうに話を聞いてくれるので、宮本さんは本当に久しぶりにたくさんの話をしたと言います。あっという間に時間が経ち、最後に先生が言った。「君の話は面白いよ。明日もいらっしゃい」。宮本さんは1週間、先生に話し続けた。先生は毎回、「君の話って、本当に面白いね」と言ってくれた。話すことの楽しさと表現することの楽しさをこの先生から教わった、と宮本さんはおしゃっていました。これをきっかけとして彼は不登校に終止符を打ち、また学校に通いはじめた。そして「演出家・宮本亜門」が生まれるわけです。ポジティブなCが予測できなくなり、Bをしなくなった人に、改めてAを与え、Bへ向かわす。Cを強く強く与えることで再びBを取り戻させる。宮本さんの体験は、ABCモデルの勘所を教えてくれていると思います。ABCモデルは、アイディア創出のための話し合いにも当てはまります。企業によっては、ミーティングポリシーとして、「ワイガヤ」を掲げているところがあります。「ワイワイがやがや」と、とにかく活発に話すことで、新しいアイディアを生み出していこうというものです。ところが、「うちはワイガヤをやっていますから」と言う企業さんの会議を拝見すると、さほど「ワイガヤ」になっていません。特定の人しか話していなかったり、あるいは、みんな話しているけれども、どこか遠慮しあったりで、活発な会議とは見えない場合がよくあります。本来、「ワイガヤ」は、「話しの99%はゴミでも、とにかく話してみることで1%のダイヤが見つかるかもしれないから、どんな発言でも否定したり、無視したりせずにしっかり聞く」という前提の上に成り立つものです。前提を伝えることがA、多くのゴミを出しあうことがB、そしてBをしっかり聞くことがC。このABCが回っていなければ「ワイガヤ」は実現しません。以前、私のトレーニングに参加してくださった製薬会社の課長さん。彼が帰り際にこうおっしゃっていたことを思い出します。「いやー、鈴木さん、今日は来てよかった。目からウロコ100枚は落ちたな。俺は課長10年やってるけど、ひたすら怒鳴ってきたからね。雷を落とすのが仕事だと思ってた。今の時代それだけじゃだめだね。これからは部下の話を、もうばんばん引き出しちゃうよ!」ノリノリの様子に期待と一抹の不安を感じながら、彼を見送りました。1カ月後のフォロー研修に、彼が再びいらっしゃいました。私は、半ば冗談めかして、「1カ月どうでした? また怒鳴ったんじゃないですか?」と聞いてみました。課長さんは「鈴木さん、実はさ」と切り出したのでした。「ぜんぜん成績の上がらないMR(Medical Representative:医薬品メーカーの医薬情報担当者)がいたわけ。『お前は仕事を何だと思ってるんだ?』と聞いても、『いやー』とか、『まあー』とかで、ろくな返事がなくってさ、以前からあいつにはいらついてたんだよ。ふざけんなって」「でね、トレーニングが終わって1週間ぐらいだったかな、やつが昼時ひとりでいたんで、蕎麦屋に誘ったんだよ。1対1で顔をまじまじと見たら、思ってたことがつい口に出ちゃたの。『お前さ、なんで成績あがらないんだろね』って。自分でも驚くくらい温和な口調で。質問したっていうより、気持ちを共有しようとしたって感じ」「そしたら、あいつ、一瞬虚をつかれたような顔をしたけど、しゃべり始めてさ。『実は、ドクターとこんな意見の食い違いがあって』みたいな話をするわけ。だったらこうすればいいじゃない、ああすればいいじゃないって、たくさんアドバイスが浮かんだんだけど、ほら、鈴木さんにさんざん『部下の話を聞け』って言われたからさ。まぁ昼飯時だし、今日は全部聞いてみようと決めたわけ。『そうだったのか』『そうなんだな』『なるほど』って」「そしたら驚いたよ。あいつ、話がとまらない。20分ぐらいは喋り続けたんじゃないかな。最後には突然立ち上がって真剣な顔でこっちを見るわけ。なんだと身構えたら、『課長、今日はありがとうございました』とさ。深々と頭下げた。俺、じーんときちゃって。泣くの見せるとかっこ悪いから蕎麦をすすったけどね・・・」あまり話さない人は、理由なく話さないのではありません。促されて(A)、話をして(B)、十分に聞いてもらえた(C)という経験が重なっていれば、その人は今もたくさん話をしているはずです。職場であまり話をしない人は、きっとどこかで、肯定的でなく、否定的なCを受け続けていたはずです。その人にもう一度Bを取り戻してもらうには、改めてAを投げかけ、Bに対して心からのCを提示していく。あなたが耳を傾けることで、その人は、宮本さんやMRさんのように話すことの楽しさを思い出すかもしれません。そして、それは「ワイガヤ」が職場に実現する第一歩になるかもしれません。~鈴木義幸氏の話から~この記事を読んで、職場はおろか家庭環境でも学校でも人のコミュニケーションがある場所には全て当てはまることだなあと痛感した!確かに一人合点や独りよがりになってしまうことが、何と多かったことかと反省しきりである。コミュニケーションの基本、まずは聞くではなく聴くことなのだと…今日も反省しながらも似たような会議に辟易とする自分にも反省しなければならないなあ…
2008.11.25
人の行動原理を説き明かしていく「行動分析学」という学問があります。このフィールドの中心を成す理論は「ABCモデル」と呼ばれています。 Aは、“Antecedents”=誘発要因 Bは、“Behavior”=行動 Cは、“Consequences”=行動結果 人の行動には、何らかのきっかけ、すなわち誘発要因がある(A)。そのきっかけで行動が引き起こされ(B)、行動の成り行き(C)によって、再び同じ行動が将来生起するかどうか決定されていく。ABCモデルの流れを職場の会話を例に見てみます。上司から「会議では積極的に発言しなさい」と言われた(A)。あまりまとまっていなかったけれど、部下が試しに自分の意見を言ってみたところ(B)、上司は「どんな意見でも、自分の考えを会議で伝えるのは素晴らしいことだ」と褒めてくれた(C)。この部下が次の会議でまた発言する可能性は高くなります。逆に、AとBまでは同じでも、Cが「上司から『つまらない意見は出すな』と言われた」や、「意見を伝えたのに上司のコメントを一言ももらえなかった」では、部下が再び発言をする可能性は低くなります。Cがネガティブと予想されれば、その後にいくらAが与えられても、Bが起きづらくなるからです。職場であまり話をしない人は、これまで自分の発言が肯定的な結果として実を結ばなかった経験から、ダンマリを決めこんでいることが多いものです。否定されたり、無視されたり、といった場面が繰り返されると……。すると「話しても無駄だ」と思いますから、発言を抑えるようになる(人によっては社会人になる前からこのパターンに陥っているかもしれませんが)。家庭であまり話さない子供も同じです。「学校でこんなことがあったんだ」としゃべっても、母は「で、宿題はやったの?」、父は「いま母さんと話してるんだから静かにしなさい」。そんな経験をきっと過去に繰り返しているはずです。あるいは「ふーん、そうだったの」と返事はしてくれても、心から興味を持って聞いてもらえたわけではない。大人の無関心を子供は敏感に感じ取るものです。「話をしても(B)、いいことが起こらない(C)」と思うたびに、発話(B)は抑制されていきます。では、ネガティブな行動結果(C)を想像して、行動(B)をとらなくなった人に、再びBをしてもらうにはどうすればいいでしょうか。結論を言えば、「より強いきっかけとなる誘発要因AでBを引き起こし、そのBに対して決定的にポジティブに感じられるCを提供する」。これが王道です。以前、演出家の宮本亜門さんに、コーチA主催のイベントに出演していただいたことがあります。テーマは「個性を活かすコーチング」。ニューヨークでミュージカルを成功させた宮本さんに、個性の強いアメリカ人俳優をどう束ねたのか話してもらったのです。宮本さんは、高校時代の体験に触れてくださいました。彼は一時期、不登校に陥ったそうです。自分の部屋に閉じこもってしまったのだそうです。ある晩、酒に酔ったお父さんが、宮本さんに業を煮やし、ついに切れた。「このやろう!」。宮本家の家宝である日本刀で切りかかってきた。トイレに逃げ込んだ宮本さんに、お父さんは扉のわずかな隙間から日本刀を差込みグサグサ動かした。「カキン」という小さな音と共に刀は折れた。お父さんは力尽き、その場に倒れこんでしまった。おそるおそるトイレから出てきた宮本さんに、お母さんが言った。「そんなに嫌なら、学校には行かなくていいわ。そのかわり、1つだけ聞いてちょうだい。病院に行って」。宮本さんは、慶應病院の精神神経科でカウンセリングを受けたそうです。診察室に入ると、カウンセラーの先生は宮本さんに言った。「今日は僕に君の話を聞かせてくれないかな」。警戒しながらも宮本さんが話をすると、「君の話って面白いね。それで、どうなったの?」。先生がとても面白そうに話を聞いてくれるので、宮本さんは本当に久しぶりにたくさんの話をしたと言います。あっという間に時間が経ち、最後に先生が言った。「君の話は面白いよ。明日もいらっしゃい」。宮本さんは1週間、先生に話し続けた。先生は毎回、「君の話って、本当に面白いね」と言ってくれた。話すことの楽しさと表現することの楽しさをこの先生から教わった、と宮本さんはおしゃっていました。これをきっかけとして彼は不登校に終止符を打ち、また学校に通いはじめた。そして「演出家・宮本亜門」が生まれるわけです。ポジティブなCが予測できなくなり、Bをしなくなった人に、改めてAを与え、Bへ向かわす。Cを強く強く与えることで再びBを取り戻させる。宮本さんの体験は、ABCモデルの勘所を教えてくれていると思います。ABCモデルは、アイディア創出のための話し合いにも当てはまります。企業によっては、ミーティングポリシーとして、「ワイガヤ」を掲げているところがあります。「ワイワイがやがや」と、とにかく活発に話すことで、新しいアイディアを生み出していこうというものです。ところが、「うちはワイガヤをやっていますから」と言う企業さんの会議を拝見すると、さほど「ワイガヤ」になっていません。特定の人しか話していなかったり、あるいは、みんな話しているけれども、どこか遠慮しあったりで、活発な会議とは見えない場合がよくあります。本来、「ワイガヤ」は、「話しの99%はゴミでも、とにかく話してみることで1%のダイヤが見つかるかもしれないから、どんな発言でも否定したり、無視したりせずにしっかり聞く」という前提の上に成り立つものです。前提を伝えることがA、多くのゴミを出しあうことがB、そしてBをしっかり聞くことがC。このABCが回っていなければ「ワイガヤ」は実現しません。以前、私のトレーニングに参加してくださった製薬会社の課長さん。彼が帰り際にこうおっしゃっていたことを思い出します。「いやー、鈴木さん、今日は来てよかった。目からウロコ100枚は落ちたな。俺は課長10年やってるけど、ひたすら怒鳴ってきたからね。雷を落とすのが仕事だと思ってた。今の時代それだけじゃだめだね。これからは部下の話を、もうばんばん引き出しちゃうよ!」ノリノリの様子に期待と一抹の不安を感じながら、彼を見送りました。1カ月後のフォロー研修に、彼が再びいらっしゃいました。私は、半ば冗談めかして、「1カ月どうでした? また怒鳴ったんじゃないですか?」と聞いてみました。課長さんは「鈴木さん、実はさ」と切り出したのでした。「ぜんぜん成績の上がらないMR(Medical Representative:医薬品メーカーの医薬情報担当者)がいたわけ。『お前は仕事を何だと思ってるんだ?』と聞いても、『いやー』とか、『まあー』とかで、ろくな返事がなくってさ、以前からあいつにはいらついてたんだよ。ふざけんなって」「でね、トレーニングが終わって1週間ぐらいだったかな、やつが昼時ひとりでいたんで、蕎麦屋に誘ったんだよ。1対1で顔をまじまじと見たら、思ってたことがつい口に出ちゃたの。『お前さ、なんで成績あがらないんだろね』って。自分でも驚くくらい温和な口調で。質問したっていうより、気持ちを共有しようとしたって感じ」「そしたら、あいつ、一瞬虚をつかれたような顔をしたけど、しゃべり始めてさ。『実は、ドクターとこんな意見の食い違いがあって』みたいな話をするわけ。だったらこうすればいいじゃない、ああすればいいじゃないって、たくさんアドバイスが浮かんだんだけど、ほら、鈴木さんにさんざん『部下の話を聞け』って言われたからさ。まぁ昼飯時だし、今日は全部聞いてみようと決めたわけ。『そうだったのか』『そうなんだな』『なるほど』って」「そしたら驚いたよ。あいつ、話がとまらない。20分ぐらいは喋り続けたんじゃないかな。最後には突然立ち上がって真剣な顔でこっちを見るわけ。なんだと身構えたら、『課長、今日はありがとうございました』とさ。深々と頭下げた。俺、じーんときちゃって。泣くの見せるとかっこ悪いから蕎麦をすすったけどね・・・」あまり話さない人は、理由なく話さないのではありません。促されて(A)、話をして(B)、十分に聞いてもらえた(C)という経験が重なっていれば、その人は今もたくさん話をしているはずです。職場であまり話をしない人は、きっとどこかで、肯定的でなく、否定的なCを受け続けていたはずです。その人にもう一度Bを取り戻してもらうには、改めてAを投げかけ、Bに対して心からのCを提示していく。あなたが耳を傾けることで、その人は、宮本さんやMRさんのように話すことの楽しさを思い出すかもしれません。そして、それは「ワイガヤ」が職場に実現する第一歩になるかもしれません。~鈴木義幸氏の話から~この記事を読んで、職場はおろか家庭環境でも学校でも人のコミュニケーションがある場所には全て当てはまることだなあと痛感した!確かに一人合点や独りよがりになってしまうことが、何と多かったことかと反省しきりである。コミュニケーションの基本、まずは聞くではなく聴くことなのだと…今日も反省しながらも似たような会議に辟易とする自分にも反省しなければならないなあ…
2008.11.25
日本最高の木造建築物というと建築関係の者ならば大方の人が法隆寺をあげることだろうが私の見識は若干変わってくる。確かに1200年の長きにわたって大改修という大工事の回数が少なく現存する木造建築物そういうことならば、僕の考えも法隆寺になる。しかしながら広島に一度観たら心から離れないほどの美しい建築物がある。それば厳島神社だ!海に浮かぶ朱塗りの鳥居と神殿が、幻想的な風景を見せる「厳島神社」。日本三景の一つ「安芸(あき)の宮島」にある「厳島神社」は、前面に広がる海、背後の「弥山(みせん)」のふもとに残る原始林などとともに、1996(平成8)年にユネスコの世界遺産(世界文化遺産)に登録された。かつて「安芸の国」と呼ばれていたのは、現在の広島県西部にあたる地域。戦国武将・毛利元就(もうり・もとなり)の生誕の地である。その安芸の国にあって、広島湾に浮かぶ小島が「宮島」だ。島の中心には「弥山」と呼ばれる主峰があり、弘法大師(空海)がお堂を建立したと伝えられるなど、古くから信仰の地としてあがめられてきた。「神をいつきまつる島」として、別名「厳島(いつくしま)」とも呼ばれていたそうだ。平家の総帥であった平清盛の援助を得て建てられたのが、平安時代後半の1168年ごろのことだと伝えられているが定かではない。これが「厳島神社」で、このとき、現在のような回廊で結ばれた海上社殿がほぼ完成したらしい。海にせり出すように社殿が設けられたのは、島の土地が神聖なものだと考えられていたから、という説と平家が海の先(海外貿易)との取引を重要視したとの説もあるようだ。「厳島神社」の象徴ともいえる存在が、海にそびえる朱塗りの「大鳥居」。高さは、奈良の大仏とほぼ同じ16mもあって、樹齢500~600年のくすのきが使われているのだそうだ。現在の大鳥居は8代目で、主柱となる巨木探しには20年近くかかったそうだ。この大鳥居、根元をしっかりと海底に埋めて建てられているのかと思ったら…実はそうではなく、海底に築いた石組みの土台の上に、鳥居の重さだけで立っているのだ!潮が引いたときに、その様子を目にすることができるので興味のある方は必見!「厳島神社」の「本殿」は、毛利元就によって1571年に改築されたものだそうだが、平安時代の貴族の館に用いられていた寝殿造りの様式を、創建時から変わることなく現代に伝える貴重な建築物として、国宝にも指定されている。本殿の前面、寝殿造りでいえば庭にあたる部分に設けられているのが、「平舞台」。広さは約553平米あって、木柱ではなく、赤間石という239本の石柱によって支えられているのだ。平舞台の前方には「火焼前(ひたさき)」と呼ぶ突き出した部分があって、そこは神事を行う際に使われる。「厳島神社」の外周を取り囲む朱塗りの「回廊」は、幅4m、長さは275m。床板の間には「目透(めすか)し」という透き間があって、高潮のときなどは、この「目透し」が上がってくる海水の圧力を弱め、本殿に押し寄せる海水や雨水を海へ流す役割を果たしているのだ。また、江戸時代に造られた「能舞台」は、重要文化財に指定されている国内5つの能舞台のうちの一つで、海に浮かぶ能舞台としては唯一のものだ。やはり、この神社の建築様式はすばらしい美しさにみちているなあ…
2008.11.21
日本では12月24日のイブがもっとも盛況で25日はなんとなく26日になれば、もう気分はお正月…しかしドイツなどの欧州はまったく違ってくる まずはクリスマスの4週間前のアドベントから始まりイブ、クリスマスそして年末年始をはさんで1月6日に東方の三博士にちなんだお祭りがある… もっともドイツには日本のお正月のような儀式がないが…そしてクリスマス以前あるいは以降のお祭り そう、謝肉祭カーニバルがあるこれはキリスト教とはもともと関係ない欧州土着の宗教儀礼であったものだが 日本人には全部同じに見えるらしい(笑) クリスマス主イエスキリストのお誕生日 もう少し自身の誕生日の意義も考えてみてはどうだろうか?
2008.11.20
If you search for tenderness it isn't hard to find you can have the love you need to live But if you look for truthfulness You might just as well be blind It always seems to be so hard to give Honesty is such a lonely word Everyone is so untrue Honesty is hardly ever hard And mostly what I need from you....30年ぶりの日本でのコンサートで聴きたかったなあ…チケットほしかったなあ…まあライブ版聴くのを楽しみにしとくかな(笑)
2008.11.19
職場や組織でよくあることだが誰かに裏切られたと騙されたという経験が誰にでもあることだと思うが、そんな時に誰しも感情的になるのはわからないでもない。しかし、そんなことはどこにでもよくあることなのだ。会社や組織はそもそも、利害関係が複雑に絡んでいるところで、組織の成員は誰しもエゴイスティックな行動を取ったりするものだ。家族という血族関係の中にさえ、親の財産相続などで兄弟が裏切ったりする場合があるのだから、裏切りというのは、人間の性なのだろう。こう考えると、友人の裏切りなどは仕方がないのかもしれない。ただし、これを機に考え直すことが実はあるのだ。少なくとも、僕は考えた。なぜ、自分は友人の裏切りに感情的になるのか?友人の裏切りによって、自分は本当に損害者となったのか?裏切りを受けないようなリスクマネジメントをしていたのか?そもそも、自分は職場や組織に何を求めていたのか?それぞれ考えれば、友人や上司、周囲への関わり方を見直すいい機会になるだろう。そもそも職場や組織にいる人は、家族ではなく全くの他人。仕事や役割いういわゆる「接着剤」で結びついているだけの関係だ。例えば、自分が地方に異動になったとしよう。彼等とは直接仕事をする機会はほとんどなくなり、自然と「接着剤」の効果は弱まり、人間関係も疎くなるだろう。もし退職や組織を辞めれば、1年後にはだれも自分のことなど覚えてはいないだろう。送別会等は、あくまで「儀式」であり、建前なのだから…。冷めた見方だが、これが会社や組織の人間関係というものだろう。つまり、必要以上に何かを期待してはいけないのだ!期待などしなければ、仮に裏切られても、ある程度割り切ることができるというものだ。こんな冷めた見方は実は大切なのだ!90年代に会社や組織を次々にリストラの嵐が日本社会に吹き荒れた時、当時の中高年の人たちが「なぜ会社は自分を狙い撃ちするのか、なぜ周囲は自分から逃げるのか」などと怒っていたなあ…。恐らくこういった言葉が出てくる背景には、会社や組織で働く人に過剰な期待をしていたからなのだろう。ことろが、同じくリストラを受けた人でも、クールに人間関係を割り切っていた人は、淡々と次の職場を探し、また第3者機関に調停などを依頼していた。つまりは、初期出動が圧倒的に早かったのだ。双方を比較して思ったのは、職場や組織の人間関係に大きく期待する人は、いざという時に人生が悪い方向に行くものだなあ…!所詮、会社や組織の人間関係などは、「接着剤」で結ばれた程度のものなのだと。こう考えれば仮に、何かの弾みで裏切りを受けたとしても、ほとんど感情的にはならないだろう。また、「裏切りを受けて自分が本当に被害を受けたのかどうか」を考えることも重要だ。この場合の被害は、感情的に腹が立つという程度のレベルではなく、自分の仕事や立場などに実害が出たかどうかで判断すべきだ。この区別は、冷静にならざるを得ないだろう。かつて私が勤務していた職場に、問題が起きると、すぐに感情的になる女性(30代後半)がいた。彼女は、違う部署の人との間に起きた問題で、盛んに「口撃」いわゆる「悪口」を繰り返していた。私には、それは単なる感情論にしか見えなかった。彼女の仕事には、何の悪影響もないのに「悪口」を周囲に広めていたのだ。こういう態度を誰彼かまわずに続けていた彼女は、次第に職場で浮いていった。女性の管理職でさえ、本人が退勤した後で、部長に「私には彼女の面倒をこれ以上見られない」といった話をするほどになっていた。その女性は、水面下で職場からの追い出しを受けていくことになった。友人の裏切りに怒る前に、本当に実害を被ったのかどうかを冷静に考えてみるといいだろうと思う。仮に、ほかの人から裏切りを受けて、仕事に悪影響があるのならば、上司と1対1のところで、「こういう被害を受けた」と直に伝えるべきだ。その際にも感情論はタブーとなる。あくまで、事実を冷静に淡々と話すべきだ。泣き寝入りは論外だろうが…。前述した通り、職場や組織の人はまったくの他人。単なる「接着剤」でつながっているだけの実に希薄な関係なのだから。職場や組織というところは、利害関係が複雑である以上、タイミングよく、許容範囲の自己主張をしない人はどうしても不利な立場になりがちなのだ。私は経営者といわれる人たちとよく話をするが、率直な印象でいえば、経営者の多くは極端なほどにナルシストが多いと思う。会社や組織というものは、ナルシストで自己主張が強い人ほど不思議と上に上がっていく組織なのだ。こういった“戦場”で、「いつの日か、自分は認められるだろう」とか、「誰かが自分を助けてくれるだろう」と思うのは甘い以外のなにものでもない!何度もいえるが周囲の人(友達なども含むが)は、仕事や利害関係という「接着剤」でつながっているだけの関係なのだ。仮に実害を被ったのであるならば、適切な自己主張はすべきだが…。また、「裏切りを受けないようなリスクマネジメント」も必要だ。これにはいくつかあるだろうが、自分を陥れたりすれば、その相手が損害を被るという力を持つことが最重要だ。例えば、あなたはいまの会社の経営者や組織の幹部を陥れる度量があるだろうか? きっと、そんなことは怖くてできないだろう(笑)その「恐怖」を相手にももたせることが重要なのだ!とはいえ、あなたは平々凡々とどこにでもいる会社員や組織の成員でしかないのだから、友人からすれば、全く怖くないだろう。怖くもないからこそ、裏切る行為ができるのだ。では、どうすればいいのだろう?これは僕自身の経験からの考えだが…上司・上長を中心とした「多層的で重層的な人間関係作り」を行い現在の部署はもちろん、他の部署に1人でも多く知り合いを作り、社内の組織などの事務局長、つまりは責任者などをすることで、自分のもとに情報が集まる「仕掛け」を作るといいだろう。 具体的にいえば、上司を中心とした「多層的で重層的な人間関係作り」でいえば、上司の同期生、親しい友人などの輪の中に自分から入っていくのだ。その中で、自分のポジションを相対的に上げていけばいい。〇〇委員会などの事務局長をすることで、情報が集まると、次第に自分の社内での評判、ブランド力などが上がっていく。こうした試みを続けていけば、存在感はいまよりも確実にアップするだろう。これらがうまくできると、周囲の人間や友人は自分自身をなめることができなくなる。自分の周囲を抱きこんで、相手に対し、「恐怖」感を与えるやり方が得策だろうと考える(笑)最悪なのは、「仕事で見返してやる」や「今にみていろ」と妙ながんばりに偏ることだろう…仕事で本当に決定的な差はつくだろうか? たとえ差がついたとしても、それで周囲は「恐怖」感などもつだろうか?かえって新たなやっかみや嫉妬心を相手に与えるだけだろう…(呆)一部の指南書には、そういう識者もいるだろうが(笑)僕の経験からはまるでお笑いだ!識者を自負する50代のおじさまがたには失礼だろうが…(笑)。キャリアもなく、経験値も乏しいのなら短期間で決着がつかなければ、何度も同じ経験を繰り返すだろう。上司・上長を始め、周囲を抱き込み、「今度、俺を裏切ったら、周囲の人間を使ってでも暴いてやるからな」と思わせたほうが効果は数倍あるだろう。周囲を抱き込むと日々の仕事やプロジェクトの推進にもいい影響がでるものだ。遠慮などしない方がいい!職場は所詮、“戦場”なのだ!ただし、われわれは常識ある社会人としては、あくまでもソフトに、水面下で進めることが大前提になります。裏にやくざがいるなどは論外!たとえいたとしてもそれは核兵器のごとく最終手段になりかねないのだ(笑)表向きは、これまでどおり、「友人」関係を維持しながら進めていくべきだ。かけがえのない自分を守るのは、職場や組織では自分しかいないのだ!いざとなれば、周りは氷のように冷たいものだ、だからこそ、巧く、しぶとく生き抜くべきなのだ!友人から裏切られてカッとなるのは、自分が職場で何に重きを置くのか、さらに数年後、どうなっていたいのかといった青写真を描くことができていないことも、理由の1つにあるのだろう。仮に、自分はいまの職場で営業成績上位5パーセントくらいまでになんとか入り、数年後は東京本社に戻りたい、などといったストーリーの展開を持っていれば、そうそう感情的にはならないと思う。「友人が裏切る」なんてことは、恐らく何度もあるはずだ。職位が上に上がれば、もっと熾烈ないじめや追い出しを受けたりする可能性が高くなる。自分自身がそうだった。競争社会を生き抜き前例のないスピードで出世したが、ある地位でえらい目にあった。今でこそ笑っていられるが、当時の僕は真剣に死のうとしたくらいだ。会社や組織というものは、誰かがおいしい思いをすれば、誰かが泣きを見るシステムを内に含んでいるのだ。組織にこれからも籍を置くつもりならば、その都度ナーバスになっていては身がもたないだろうし、それこそ、心が病んでしまう。自分が今後、会社や組織とどう関わっていくのか、自分のたった1度しかない人生をどう生き抜くのかを考えてみたときに結論がでるだろう…!今となっては僕を陥れて“ご満悦”の彼等が、実に幼稚な人間に見えてくるし、それだけで自分は負けてはいないし、大きく成長したのだと感じることができるようになった。いついかなる時も、程度の低い人間は相手にしない。会社や組織には、そうした輩はたくさんいるし社会全体がそういうところなのだから(笑)かつての自分自身のおかれた境遇を振り返り友人の相談を受けたときに、人事コンサルタントの講演を思い出しながら、なんとなく考えたとりとめのない話でした。けっして参考になるような話じゃないですからね(笑)
2008.11.19
<ブルームハルトの馬車>19世紀後半から20世紀初頭のドイツに生きたブルームハルト牧師は、牧師館の庭にまだ誰も乗ったことのない馬車を用意したそうです。「あの馬車は何のためか」と尋ねられると、「主イエス・キリストが再臨される時、直ちにお迎えするためです」と答えました。皆さんは、この一問一答から、何を聞き取りますか。ブルームハルトの心とその信仰の奥行きをどう受け止めますか。彼は純真な信仰に生きた(生きようとした)人物でしたが、決して単純な信仰で済ませていた人ではありませんでした。彼は、神学だけでなく種々の道に通じた知識人でしたし、ほぼ私たちと同時代に属し、疑ぐり深い時代精神の中に生きていた訳です。にもかかわらず、キリストの再臨に備えて新品の馬車を用意しました。ノアの箱舟造りと同じです。多くの人の目にどれほど愚かに、いや、異様に見えたことでしょう。ブルームハルトは、みな承知していたはずです。愚かさを承知の上で、その愚かさで勝負しようとしたのです、これがブルームハルトのすごさです。使徒パウロも、第一コリント書1章18節以下で「十字架の言葉は滅び行く者にとっては愚かなものだが、救われる者には神の力です」と宣言し、「宣教という愚かな手段」に自分を賭けました。利口ぶった者には、キリストの再臨に備えて馬車を用意することなどできません。キリストの再臨を信じ、そこに望みを置くことすら出来ません。だから社交辞令的な信仰、無意味で無力な評論家的信仰に明け暮れて、恵みの賜物を無駄にしてしまうのです。ブルームハルトの馬車、それは自分の理性を神の座に据え、目の前の雑多な出来事に振り回されているだけの人々にとっては愚かなことでしょう。「滅び行く者」の目には愚かさしか見えません。しかし、その一台の馬車を貫くようにして、馬車の愚かさに込められた真実を見はるかす人なら、キリストに生きかつ生かされている魂の奥行きを見て取ることでしょう。ブルームハルトは、備えたのです。「世の終わり」という、備えようにも備えようのない出来事に向けて、一台の馬車を設置しました。馬車を設置することで自らの魂を「世の終わりという方角」に向けて設置しました。人が笑うか、どう言うか・・・そんなことは二の次、三の次です。庭に馬車を設置することで、心の中に待望の形を整えました。キリストの不意の到来に備えて毎日馬車の埃を払いつつ、魂の中に降り積もるこの世の埃を払いました。人々はブルームハルトを特別な信仰心をもった特別な人のように言いますが、まったく違います。彼は、弱くて脆い自分を良く知っていて、自分の弱さ、脆さにたいして備えをした信仰者だったのです。 こういう人生を過ごせる人はきっと自分自身が神様から生かされていることを徹頭徹尾信じて疑わないんだろうなあ…そして人間の愚かしさを十二分に知っている高度の教養も身につけている人なんだろうと思う。科学や人間のくだらない知識だけで宗教や信仰を自分の物差しでしか図ることがないから矛盾の中の真実も見ることができない。あるいは矛盾などない高度な知性に浅薄な自己陶酔した知識で臨むようなもんなんだろうなあ…少しは古の最高の知性にならって生きたいものだなあ…
2008.11.18
一見複雑そうに見える人の行動も、大きく2種類に分けることができます。それは、「プラスの追求」か「マイナスの回避」か、というもの。一例として、部屋を掃除するという行動を考えてみます。 「部屋をきれいに片付けて、くつろげるスペースを作って、コーヒーでも飲もう」。これは、プラスの追求。「これ以上掃除をしないとカビが生える、ダニが出る、家内にまたしかられる。それは勘弁。しかたない、掃除をするか」。これはマイナスの回避。仕事でも、この2種類が存在します。プラスの追求は、「お客様に新しい提案をして、プロジェクトを立ち上げ、自分も成長しよう」。マイナスの回避は、「お客様と契約を結ばないと、また所長にどやされる。給料も下がるし、昇進もおぼつかないなぁ」。プラスの追求で動いている人は、ポジティブな映像を描きながらそこに向かって歩を進めます。この映像を生み出しているのは、その人のポジティブな「セルフトーク」です。「どんな提案をして、どんな成長を遂げようか」。“未来肯定型”のセルフトークによって、「キレのいい提案をして輝いている自分」が映像として浮かび、それを実現したいと行動が起きる。逆にマイナスの回避で動いている人は、ネガティブな映像を描き、それが実現しない方へと向かいます。「契約を結ばないとどうなってしまうだろう」と。“未来否定型”のセルフトークが、「上役にどやされている自分」を映像として作り出し、それを避けようと行動がスタートする。プラスの追求で動いているとき、人は活力に溢れ、創造的で、多くのコミュニケーションを周囲と交わそうとします。マイナスの回避で動いているときは、ストレスが高まり、視野は狭くなり、周囲と必要以上の接触を避けたがる傾向があります。もちろん1人の人がいつもプラスの追求で動いていることもないし、マイナスの回避だけで毎日過ごしていることもありません。1日を振り返っても、場面、場面でプラスになったりマイナスになったりします。ただ、どちらのパターンで動くことが多いかの傾向はありそうです。ある人はプラスの追求で動いている割合が多く、ある人はマイナスの回避で動いている割合が多い。プラスからマイナスへ、マイナスからプラスへ。この“スイッチ”はセルフトークにより切り換わるものです。自分との対話に関して、未来肯定型と未来否定型のどちらが多いかによって、行動パターンの多寡が決まります。風通しの悪い職場は、もちろんマイナスの回避で動いている人が圧倒的に多い。未来否定型のセルフトークをスイッチの切り換えとして使っている人が多いともいえます。まず、風通しの悪い職場には、たいていイラついた上長がいます。「なんでできないんだ」「そんなんじゃだめだ」「もっとやってくれないと困る」じつは、その上長も更に上から同様のメッセージをもらっていて、マイナス回避中心の行動パターンを取っている場合が多いといえます。上長自身に“避けたい未来”があるから、部下に「その未来が俺に降りかかるような行動をとるんじゃないぞ」というメッセージが出てしまうのです。当然、部下は「その未来を現実のものにしたらまずい」と思いますから、彼らのセルフトークは「うまくいかなかったらどうなってしまうのか」になりやすい。上司のメッセージを未来否定型のセルフトークとして自分の中に取り込むわけです。彼らもまたマイナス回避型になる。負の連鎖ですね。では、一番上の社長は誰からマイナス回避を指示されているかというと、株主だったり、投資家だったりします。「こうなりましょうよ」ではなくて「こうなるとまずいですよ」。否定型の声を聞くと、社長のセルフトークも未来否定型になってしまう。プラスの追求もマイナスの回避も、人が未来に向けて前進していくためのシステムです。いま、その人がどちらのシステムを選ぶかは、どちらで動くことをより奨励されてきたかに影響します。小さい頃から、マイナスの回避を親から強いられてきた人は、大人になっても自分でそう動き、人をそう動かす可能性が高い。セルフトークも周囲への発信も未来否定型になるということですね。これではどこまで行っても連鎖を断てません。誰かがその流れをストップさせてスイッチを切り換える必要があります。上司からマイナスの回避を強いられてきたから、自分の部下にも同じことを強いるのではなく、「プラスの追求で部下を動かす」と決断する。先日、あるホテルの社長さんの講演を聞く機会がありました。このホテルはJTBなどの顧客満足度調査で何度も全国1位に輝いています。ただ、そこまでの道は決して平坦ではなく、この社長さんがホテル事業を創業者のお父様から継いだときは、倒産寸前の状況でした。旅行代理店からは、送客を停止するという勧告を受け、すぐにでもサービスを向上させ宿泊客を増やさないと、もう明日はないという切羽詰った状態でした。そんな状況にあっても、この社長さんはお父様が長年にわたり続けてきたマイナスの回避を踏襲しませんでした。「なぜできない」「やってくれないと」と要求しても、従業員は決して笑顔でお客様に接することなどできないだろう。従業員満足を高めることこそ顧客満足の向上につながる。そう社長さんは考えました。以来、彼は「しっかり働け!」と従業員を詰めるのではなく、ホテルの未来を従業員に語って聞かせました。「ホテルというのは50年、100年とかけてみんなで作っていく“作品”なんだ」。「その作品づくりに協力してほしい」。「一緒に君たちと最高の作品を作り上げたい」。1週間や2週間ではなく、10年近く、毎朝全従業員を集めてホテルの未来を語った。同時に従業員にしばしば声をかけ、ちょっとした行動の改善やお客様への気遣いを社長自らが褒めて歩きました。プラスの追求で従業員が動けるように、とことんシステムを入れ替えたわけです。それが、顧客満足度全国1位という栄冠につながったのです。マイナス回避型で行動することを強いられてきたから、あるいは危機的状況だったからといって、即マイナス回避型で周りを動かすのでは決してないという好例だと思っています。上長にとってマイナス回避型のアプローチも、時には使える手段になると思います。「どうしてもここは乗り切らないと」とか、「何が何でも越えないと」とかいった場面では、部下にマイナス回避を仕向けるのも“あり”でしょう。この金融危機に端を発した経済不況を乗り切るために、「いいからやれ!」もないわけではない。ただ、マイナス回避型を使うにはいくつか条件があります。『・十分な信頼関係がお互いの間にあること・マイナス回避型の指導に耐えられるメンタルを相手が持っているか認識すること・マイナスを回避した後どのようなプラスが待っているかも同時に提示しておくこと・マイナスの回避は心身に負担を与えるので、長期間使わないよう意識すること 』このような条件が満たされていることを確認した上で使うべきでしょう。普段、みなさんの職場は、プラスの追求とマイナスの回避のどちらのパターンで動いているでしょうか? もしあなたが上長や、リーダーであれば、自分はどちらで部下を動かそうとしているか振り返ってみてください。もし「マイナス回避が恒常化しているな」と気づいたら、プラスの追求で動かすことの可能性や効果をぜひ考えてみてください。「やらないとどうなるか」ではなく、「やるとどうなるか」を部下に話し、あるいは問いかける。部下のセルフトークが未来肯定形になるまでそれを続ける。時間は少しかかるかもしれません。じっくりと、マイナス回避をプラス追求に換えていってください。部下のセルフトークが変わったときは「風通しのいい職場」が約束されたようなものですから。これは私が尊敬する若き(といってもいい年齢だが(笑))経営コンサルタントの講演の一部です。われわれが最初に経営者にお願いするのは会社をどうしたいのかという会社の未来形を社長以下役員に聞くのです。そうしなければ何をどうすればいいか、それぞれの環境やビジネススタイルに合わせた対応ができなくなるからです。僕らの仕事は憎まれ役以外の何物でもありません。しかしながらホテルの社長さんのように企業の未来形がはっきりみえている人にはいくらでもアドバイスができます。「これをやっといてよ、適当に…」では何も進まないのです。家庭でも夫に妻に子どもにその家庭の未来形コミュニケーションがなければ人間関係は機能しないでしょう・・・。風通しのいい職場つくりというのはコミュニケーション能力の高い家庭人からは容易に作ることが可能なことなのです。今日の話も聞く心がある人にはきっとわかると思っております。
2008.11.18
インターネットの発達で、現代人は飛躍的にたくさんの「情報」を手に入れることができるようになりました。こうした「情報」をたくさん集めて何に使うのかというと、「新しいこと」を生むためです。あるいは「未来」を予測して、失敗しないようにするためです。けれども考えてみてください。いくらたくさん「情報」を集めようと、それはすべて「過去の積み重ね」「済んでしまったこと」にすぎません。それだけを眺めていても、未来に起きることを見越したり、新しいことを発見したりすることはできないのです。いま、流行の言葉に「危機管理」、英語でいうと「リスクマネジメント」というのがありますね。よく考えてみると変ではないですか? そもそも「管理」できるのであれば、それは本質的な「危機」ではありません。いまの段階で「管理」できないからこそ、「危機」のはずなのです。情報化の象徴のような金融の世界、しかもその先端を行くアメリカの金融業界でリーマン・ブラザーズが破綻し、保険会社のアメリカン・インターナショナル・グループ(AIG)が国の管理下に入ったのがいい例ではないですか。あそこで働いていたみなさんは、情報集めのプロばかりでしょう。なのにつぶれた。それも突発的に。危機を管理できなかったわけです。いかに過去の情報から未来など予測できないか、というまさに証明です。 私からすると、現代人は未来を見据えて歩いているつもりでいて、実は後ろ向きに「情報」という名の過去ばかりを見ながら歩いているように見えてなりません。いくら豊富な情報があろうと、それは過去にすぎません。本当に未来を見据えたければ、まず、前を見なければダメです。 では、前を見れば、未来が見通せるのか? 見通せるはずはありません。人間は神様ではないのですから。格言通り、常に「お先は真っ暗」なのです。じゃあどうすればいいのでしょう? そこで今や死語になった言葉があります。「覚悟」すればいいのです。どんなことがあっても「覚悟しておけば」どうということはありません。その都度対処すればいいのです。と、ここまで書けばおわかりでしょう。情報をたくさんかき集めて未来を見据えているつもりで、後ろを向いたまま歩いている自分。これがあなた自身の「壁」なのです。この「壁」を越えたければ、まず足元から前を見て歩く。それが最初の一歩です。そうやって「覚悟」を決め、己の体と己の智慧を振り絞って生きていけば、実は未来はちっとも「真っ暗」ではありません。ちゃんと「明るい未来」が見えてくるのです。(談)これは私の尊敬する養老先生のお話、当時私は役人をしていて先生は僕の管轄する委員会のメンバーでした。折にふれて先生との懇談の機会をもたせていただけた私は先生の著作や学生時代のお話など多くの貴重なお話をお聞きしました。なかなか今の生活に役立たせているかどうかは?はななだ面目ないという感じではありますが(笑)今日も先生のお話など貴重な経験を活かしながら交渉や会議に向かいたいと思っております。仕事は常に前向きに進んでいく『覚悟』をもって…
2008.11.14
こんな話を聞いたこともあります。Aという部署で、部下たちに嫌われているリーダーがいました。 そのリーダーを外したら、それまでうまくいっていた隣のB部署のチームワークが、なぜかうまくいかなくなってしまったそうです。それまでB部署の部下の間では、「Aチームには行きたくない」「うちのリーダーの方がいい」という思いが一致して、うまくいっていたのです。しかしA部署のリーダーがいなくなったことにより、B部署のリーダーへの相対的評価が落ちてしまったのが原因だった、というわけです。 マイナスに見える人がいなくなることで組織の力がプラスになるかと思ったら、逆にマイナスに転じてしまうこともあるのです。 チームで仕事をする時、そこには、人と人をつないで引っ張り合い、微妙なバランスを取っている糸のようなものがあると感じます。その糸は目には見えません。 ですから、それに気づかず、見えるところの効率ばかりを追ってしまうと、見えないところの大切なものを落とすことにもなりかねないのです。 一度崩したバランスを立て直すのには大きなエネルギーが必要です。効率を追うことが組織にとって非効率になることがあるのだと、これまでの経験から実感しています。これはとある有名校の校長の言葉ですがなろほど目から鱗が落ちます。つまりマイナスの構成員など存在しない。組織にとってはむしろプラスに働くのだ!こういう考えでいれば何事もうまくいくのでないでしょうか?こんな言葉からいかに自分が視野狭窄に陥っていたのかがわかり反省すること仕切りの毎日です…それにしても風邪が治りませんますますひどくなる一方です(笑)
2008.11.13
『あなた……、あなたが死んだり、わたしに飽きる前に死ぬわ。優しさだけが残っても、それではきっと満足できない。そんな不幸より、死を選ぶの。あなたに抱きすくめられたときの温もりや、あなたの香り、あなたの眼差し、キスを胸にわたしは死にます。あなたがくれた幸せな日々とともに死んでいきます。息が止まるほどの長いキスを贈るわ。愛していたの、あなただけを。永遠に忘れないで――、マチルド』こんな手紙を残して愛する女性がいきなり消えてしまったらあなたなら、どうしますか?僕ですか?考えたくもありません…(笑)風邪の影響で頭がクラクラしてます…
2008.11.12
ヨハネ福音書1章1節 初めに、神は天と地を創造された。地は混沌であって、闇が深遠の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」創世記1章1~3節初めにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。このことばは初めに神と共にあった。万物はことばによって成った。成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。ことばの内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は闇の中に輝いている。暗闇は光を理解しなかった。この言葉の中に隠された真実が見つけられるのは、いつの日になるのだろうか?暗闇こそは人間光こそイエス・キリストなる神!
2008.11.10
1週間もなんとなーく終わりかけてるなまた新たな1週間が始まるなあ日曜日に忙しすぎるから毎日が忙しいののか?(笑)たまにはのんびりした日曜日を迎えたいな(笑)
2008.11.07
なんとなく疲れるなんとなくだるいなんとなく仕事したくない反対にさあ、やるぞ!これからじゃなく今すぐに、するぞ!We can change !そう、気持から変えないとこの閉塞感や疲労感はなくならないのです(笑)がんばろうっと!
2008.11.06
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