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絵本「だるまちゃんとてんぐちゃん」の列車に偶然、乗り合わせました〜懐かしいですね子育て支援コーナー東京の新宿を起点にしている「京王線」の車内全体は、こうなっていました〜4号車よく見ると工夫がいろいろありますベビーカー置き場にも小さなお子ちゃまの持ち手に適応していて車内で触りながら絵本の読み聞かせが出来る!優れたコーナーとなっています絵本「だるまちゃんとてんぐちゃん」懐かしい絵本ですね黄色に赤のだるまちゃんは・・・赤ちゃんの大好きな色彩です上部は、絵本と同じページが開かれていますパパに肩車してもらうと、よく見える!そんな楽しい使い方も想像できますね〜小学生になれば自分で読んだり・・・ かこさとし原作者は「加古里子」さん1926年3月31日〜2018年5月2日(92歳没)本名:中島 哲(なかじま さとし)「からすのおかしやさん」この絵本も人気でしたよね〜いつも乗車しているらきし大学生のお兄さんたちは何の興味も示していないのが残念に思いました写真撮影:ほしのきらり。世界遺産にぽち
2024.10.19
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近くの図書館で借りてきたのは、上巻と下巻もう上巻を読み終わったのに何度、図書館に行っても中巻がありません(≧∇≦) こうなると、待ってはいられない! 本館まで行ってみました〜 ありました(^∇^)中巻がっ! ついでにメッチャ〜重たい VATICAN美術館の本まで 借りてきました(^∇^)高そうです。 読書にぽち
2017.10.12
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イタリア・ローマに行く前に読んでおきたい本が、あります(^-^)ダン・ブラウン作の天使と悪魔♪『天使と悪魔』・・・とは?『天使と悪魔』てんしとあくま Angels & Demonsダン・ブラウン著のサスペンス小説 「ロバート・ラングドン」シリーズ・・・第1作 アメリカでのポケット・ブックス社発売は2000年だが、 日本ではそれに追って2003年、 角川書店から上下巻で発売された。 現在角川文庫からも上中下巻で発売されている。 日本語版の翻訳者は越前敏弥。 同じくダン・ブラウンの著書『ダ・ヴィンチ・コード』が映画化されるに際し、 上中下巻に分冊した文庫版が売り上げを伸ばしたことから、 本作も2006年に文庫版3冊が発売された。 なお、『ダ・ヴィンチ・コード』に続いて同名で映画化された。 本作の舞台はバチカン市国を含むローマ 秘密結社イルミナティを名乗る者が起こす殺人を阻止するため、 主人公のラングドンが町を駆け巡る。 なお本作では、 14世記から16世紀の人物の ガリレオ、ミケランジェロ、ベルニーニ、ラファエッロが イルミナティのメンバーであったとされているが、 イルミナティはそれより以後の17世紀に創設されているため、 作中の設定は本作独自のものとなっている。 小説の発表順は『天使と悪魔』、 『ダ・ヴィンチ・コード』の順だが、 映画の製作順は『ダ・ヴィンチ・コード』の方が早かったため、 映画は物語の進行順が逆転している。 【あらすじ】 ハーバード大学のロバート・ラングドン教授は、 ある日セルンの所長、 マクシミリアン・コーラーからとあるアンビグラムの紋章についての説明を求められる。 その紋章は、 同研究所の科学者レオナルド・ヴェトラが何者かによって殺害された際 彼の胸に焼印として押されていたものだった。 レオナルドは最近、 核エネルギーを凌駕する反物質の生成に成功しており、 その反物質も犯人によって盗まれていたことが判明する。 ラングドンはその紋章を、伝説的な秘密結社・イルミナティのものと断定するが、 犯人と結びつけることには躊躇していた。 彼は手がかりを求め、殺害されたレオナルドの娘、 ヴィットリア・ヴェトラとともにローマへと向かう。 一方ローマでは、 新しい教皇を選出するコンクラーベの真っ最中であった。 にもかかわらず、 新教皇の有力候補(プレフェリーティ)の4人が揃って失踪していることに、 コンクラーベ進行役の枢機卿である モルターティは不安と苛立ちを覚える。 さらに、離れた場所では、 バチカンの警護を任されたスイス衛兵隊隊長、 オリヴェッティのもとに監視カメラから奇妙な映像が映し出されていた。 そんな中、前教皇の侍従、カルロ・ヴェントレスカのもとに イルミナティを名乗る者から突然の電話が鳴る。 かつて科学者を弾圧したキリスト教会に復讐するため、 1時間に1人ずつ、拉致した新教皇の有力候補を殺害してゆくという。 殺害が行われる場所のヒントに気付いたラングドンは、殺害を阻止し、 盗まれた反物質を発見すべく推理と追跡を開始する。 【登場人物】 •ロバート・ラングドン:ハーバード大学教授、宗教象徴学専門 •ヴィットリア・ヴェトラ:欧州原子核研究機構(セルン)の科学研究者。レオナルドの娘 •レオナルド・ヴェトラ:ヴィットリアの父親。科学者であると同時に司祭でもある。 •マクシミリアン・コーラー:欧州原子核研究機構の所長 •カルロ・ヴェントレスカ:前教皇侍従(カメルレンゴ) •モルターティ:枢機卿。コンクラーベの進行役 大選皇枢機卿。79歳で、枢機卿の中では最も高齢。 •オリヴェッティ:スイス衛兵隊 隊長 •ロシェ:スイス衛兵隊副隊長、大尉 •シャルトラン:スイス衛兵隊、少尉 •ガンサー・グリック:BBC記者 •チニータ・マクリ:BBCカメラマン •バッジア:プリフェリーティ(新教皇の最有力候補)の一人 •ハサシン 【作品に登場する建築物・美術品】 •サン・ピエトロ大聖堂:『ウェスト・ポネンテ(レスピーロ・ディ・ディーオ)』 •システィーナ礼拝堂:『最後の審判』 •パンテオン •サンタ・マリア・デル・ポポロ教会:『ハバククと天使』 •サンタ・マリア・デラ・ヴィットリア教会:『聖女テレサの法悦』 •バルベリーニ広場:『トリトーネ』 •ナヴォーナ広場:『四大河の噴水』 •サンタンジェロ城ローマの名所がいっぱいですね(ワクワク♪)DVDは、本を読んでから見る・・・きらり。映像も必ず見なくては・・・いそがしい~っ!上・中・下・読まなくては・・・100円とな?おやおや~・・・上巻が売ってませんROMA旅にぽち
2017.10.08
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今日の図書館に返した本は、6冊 あまりにも内容が濃くて、受験勉強並みの努力 この年になって、これほど勉強するなんて 学生時代の私が聞いたら どれだけ驚くだろうか? と言う事で、今日は地味に 料理本はスコーン・美術史は4度目? 2冊のみ・・・淋しいですが また詰め込み教育に自分を追い込む事 どうしても期限内に読み終えねば と言うA型根性から脱するように とは言うものの、 この2冊を完璧に実行するとしたら また、追い込む訳であって、 どうしても性格というものは、 今更、変えようがありません! どうしても学ばなくてはと、 考えるのは、なぜなのでしょうね〜 これも、やり残して来た人生の無駄を 何とか正そうとする思考でしょうか? 読書にぽち
2017.09.29
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今日は、図書館の開館早々9時半から入りました(^∇^)夏休みのせいもあって、おや〜?高齢者で、いっぱい!おじさまたちは、新聞とスポーツ紙を読みにいらして、ほっほっ。昨日の大雨で、とっても涼しい東京です。このまんまずっと涼しかったらね〜一時間じっくりと選び抜いたルネサンスの本たち🎵イタリア・ルネサンス美術史図説 名画の歴史 鑑賞と理解 完全ガイドギリシャ・ローマ神話の絵画イタリアの世界遺産図説 ヨーロッパの王朝システィーナ礼拝堂を読むルネサンス天才の素顔まっぷる イタリア2017思い切りぶりぶり~♪しばらく自分の世界を楽しめます(^∇^)絵読書にぽち
2017.08.02
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図書館で12冊借りて来ました(^∇^)v 高価な本ばかりです〜 それで、市民税を取り戻せたかしら? 読書にぽち
2017.07.20
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近所に図書館が出来て3年にもなるのに・・・入った事がありませんでしたが図書館デビュー致しました(^0^)V最近は、とっても施設が充実してきて・・・冷房も適当な温度なので、快適です♪いつもは、文庫本ばかり買っている私ですが、図書館ですから、値段に糸目は無い!わざわざ買う程でも無い「本」をドンドン!と言う事で・・・1.ヨーコさんの“言葉” 佐野洋子2.ヨーコさんの“言葉”2冊しかありませんでしたが・・・おいおいですね♪3.あっちの豚 こっちの豚 佐野洋子4.かわいい印象派 高橋明也・杉山菜穂子美術館で買うと高い本です~5.ちっちゃなぬいぐるみ&マスコット 6.かわいいフェルトのお菓子屋さん 7.この世の全部を敵に回して 白石一文7冊目は、1日では読み終わらないかも?読書にぽち
2017.07.19
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高田郁さんの短編集を読んでおります(^0^)b微妙につながるお話が楽しい♪1.お弁当ふたつ2.車窓家族3.ムシャシナイ4.ふるさと銀河線5.返信6.雨を聴く午後7.晩夏光8.幸福が遠すぎたら女性から見た鉄道を題材にしたホンワカ、じんわりする短編集です。お得意の食べ物に関するお話も交えて・・・♪読書にぽち
2017.07.17
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今日も昨日と同じ位「暑い!」そうですね!本当に東京の梅雨って無いに等しい2017年夏であります。本日、160万アクセスに達成致しました。長年の日々積み重ねの成果と・・・しみじみ訪問して下さった方々に深く感謝であります。この猛暑にも負けず・・・早朝に用事を済ませ「読書」太宰治『桜桃』 短編が四話です~芥川賞受賞する前の 又吉直樹先生のエッセイが最後にあります(^∇^) 1.ヴィヨンの妻2.秋風記3.皮膚と心4.桜桃読書にぽち
2017.07.12
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太宰治の短編を読んで来ましたが、長編小説の代表作〜斜陽を読んでみました(^_−)−☆ 表紙は、元AKB板野友美さん ふふふっ、ともちゃん!? 絶対に斜陽を読んで無いと思うけど それにしても、板野友美 AKBの中で好きでしたよ(^O^) ともちゃんにぽち
2017.07.06
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太宰治のエピソード ・・・参考(ウィキペディア様より)1929年(昭和4年) 弘前高校で校長の公金流用が発覚、 学生たちは 上田重彦(石上玄一郎)社会科学研究会リーダーのもと 5日間の同盟休校(ストライキ)を行い、 校長の辞職、 生徒の処分なしという成果を勝ち取る。 太宰はストライキにほとんど参加しなかったが、 当時流行のプロレタリア文学を真似て、 事件を『学生群』という小説にまとめ、 上田に朗読して聞かせている。 津島家は太宰の左翼活動を警戒した。 翌年1月16日、 特高は田中清玄の武装共産党の 末端活動家として動いていた 上田ら弘高社研の学生9名を逮捕。 3月3日、逮捕された上田ら4人は放校処分、 3人が論旨退学、2人が無期停学となっている。 大学生になった太宰は 活動家の工藤永蔵と知り合い、 共産党に毎月10円の資金カンパをする。 初代との結婚で 津島家を分家除籍にされたのは 政治家でもある文治に 非合法活動の累が及ぶのを防ぐためでもあった。 結婚してからはシンパを匿うよう命令され、 引っ越しを繰り返した。 やがて警察にマークされるようになり、 2度も留置所に入れられた。 1932年(昭和7年)7月、 文治は連絡のつかなかった太宰を探し当て、 青森警察署に出頭させる。 12月、青森検事局で誓約書に署名捺印して 左翼活動から完全離脱した。 太宰の墓がある東京都三鷹市の禅林寺では、 太宰と富栄の遺体が引き揚げられた6月19日には 毎年多くの愛好家が訪れている。 これは一般に「桜桃忌」と称されている。 太宰の出身地・金木でも 桜桃忌の行事を行っていたが 「生誕地には生誕を祝う祭の方がふさわしい」 という遺族の要望もあり、 生誕90周年となる1999年(平成11年)から 「太宰治生誕祭」に名称を改めた。 身長175センチと 当時の男性としては大柄で大食漢だった。 新婚当時、酒の肴に湯豆腐を好み、 豆腐屋から何丁も豆腐を買っていたので 近所の噂になるほどだった。 太宰曰く 「豆腐は酒の毒を消す。味噌汁は煙草の毒を消す」 とのことだったが、 歯が悪いのと何丁食べても たかが知れているのが理由だった。 京都「大市」のスッポン料理や、 三鷹の屋台「若松屋」のウナギ料理が好きだった。 味の素が好きで、 鮭缶を丼に開け、 味の素を大量にふりかけて食べた。 味噌汁も好きだった。 生家が一時養鶏業をやっていたこともあり、 鶏の解剖が隠れた趣味だった。 戦時中、 妻の美知子が 三鷹の農家から生きた鶏1羽を買ってくると、 自分でさばいて水炊きや鍋にして食べた。 短編「禁酒の心」にあるように酒もよく飲んだ。 体に悪いと言われると 「酒を飲まなければ、 クスリをのむことになるが、いいか」と弁解した。 虫歯だらけの 「みそっ歯」だったが、 美知子夫人の勧めで歯医者に通い、 32歳でほとんど入れ歯にした。 足のサイズが十一文と大きく、 甲高だったので、 足にあう靴や足袋がなく苦労していた。 戦後の戦災者への配給で 兵隊靴(軍用ブーツ)を購入、 これを気に入り愛用した。 林忠彦が撮影した銀座の 「ルパン」の写真で 履いているのがこの兵隊靴である。読書にぽち
2017.07.03
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三鷹駅南口の本屋さんには「太宰治コーナー」が存在する程に因縁がある作家さんなのに無視するのもどんなものかと初期の作品から5作品ほど読み始めました(^0^)V段々に辛くなってきておりますが~っ。作品名 (初出) ロマネスク 『青い花』 1934年12月号 『晩年』 燈籠 『若草』 1937年10月号 『女性』(博文館、1942年6月) 富嶽百景 『文体』1939年2月号、3月号 『女生徒』 黄金風景 『國民新聞』1939年3月2日、3月3日 『女生徒』 女生徒 『文學界』1939年4月号 『女生徒』 新樹の言葉 書き下ろし 『愛と美について』 葉桜と魔笛 『新潮』1939年6月号 『皮膚と心』 八十八夜 『新潮』1939年8月号 『皮膚と心』 畜犬談 『文学者』1939年10月号 『皮膚と心』 皮膚と心 『文學界』1939年11月号 『皮膚と心』 俗天使 『新潮』1940年1月号 『皮膚と心』 鷗 『知性』1940年1月号 『皮膚と心』 春の盗賊 『文芸日本』1940年1月号 『女の決闘』 女の決闘 『月刊文章』1940年1月号~6月号 『女の決闘』 駈込み訴へ 『中央公論』1940年2月号 『女の決闘』 走れメロス 『新潮』1940年5月号 『女の決闘』 古典風 『知性』1940年6月号 『女の決闘』 乞食学生 『若草』1940年7月号~12月号 『東京八景』 きりぎりす 『新潮』1940年11月号 『東京八景』 東京八景 『文學界』1941年1月号 『東京八景』 清貧譚 『新潮』1941年1月号 『千代女』 みみずく通信 『知性』1941年1月号 『千代女』 佐渡 『公論』1941年1月号 『千代女』 千代女 『改造』1941年6月号 『千代女』 新ハムレット 書き下ろし 『新ハムレット』 風の便り 『文學界』1941年11月号 『文藝』1941年11月号 『新潮』1941年12月号 『風の便り』 誰 『知性』1941年12月号 『風の便り』 恥 『婦人画報』1942年1月号 『女性』 十二月八日 『婦人公論』1942年2月号 『女性』 律子と貞子 『若草』1942年2月号 『風の便り』 水仙 『改造』1942年5月号 『日本小説代表作全集 9』 正義と微笑 書き下ろし 『正義と微笑』 黄村先生言行録 『文學界』1943年1月号 『佳日』 右大臣実朝 書き下ろし 『右大臣実朝』 不審庵 『文藝世紀』1943年10月号 『佳日』 花吹雪 書き下ろし 『佳日』 佳日 『改造』1944年1月号 『佳日』 散華 『新若人』1944年3月号 『佳日』 津軽 書き下ろし 『津軽』 新釈諸国噺 『新潮』1944年1月号、10月号 『文藝』1944年5月号 『文藝世紀』1944年9月号 『月刊東北』1944年11月号 ほかは書き下ろし 『新釈諸国噺』 竹青 『文藝』1945年4月号 『薄明』 惜別 書き下ろし 『惜別』 お伽草紙 書き下ろし 『お伽草紙』 パンドラの匣 『河北新報』 1945年10月22日~1946年1月7日 『パンドラの匣』 冬の花火 『展望』1946年6月号 『冬の花火』 春の枯葉 『人間』1946年9月号 『冬の花火』 雀 『思潮』1946年9月号 『冬の花火』 親友交歓 『新潮』1946年12月号 『ヴィヨンの妻』 男女同権 『改造』1946年12月号 『ヴィヨンの妻』 トカトントン 『群像』1947年1月号 『ヴィヨンの妻』 メリイクリスマス 『中央公論』1947年1月号 『ヴィヨンの妻』 ヴィヨンの妻 『展望』1947年3月号 『ヴィヨンの妻』 女神 『日本小説』1947年5月号 『女神』(白文社、1947年10月) フォスフォレッスセンス 『日本小説』1947年7月号 『太宰治随想集』 眉山 『小説新潮』1948年3月号 『桜桃』 斜陽 『新潮』1947年7月号~10月号 『斜陽』 如是我聞 『新潮』1948年3月号、5月号~7月号 『如是我聞』 人間失格 『展望』1948年6月号~8月号 『人間失格』 グッド・バイ 『朝日新聞』1948年6月21日 『朝日評論』1948年7月1日 『人間失格』 さて~何作読破出来るでしょうか?読書にぽち
2017.07.02
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「みをつくし料理帖」俎橋のつる屋から日本橋川を下って、伊勢屋の辺り大橋まで歩きました。 みをつくし料理帖に度々、出て来る橋は、俎橋「まないたばし」ですが、 つる屋から川を下り一ツ橋を通り、 登龍楼や坂村堂・伊勢屋・大阪屋のあった辺りを歩いて来ました(^-^)V 俎橋(まないたばし)→宝田橋(たからだばし)→雉子橋(きじばし)→一ツ橋(ひとつばし)→ 錦橋(にしきばし)→神田橋(かんだばし)→鎌倉橋(かまくらばし)→常盤橋(ときわばし) 俎橋(まないたばし) 俎橋(まないたばし)・・・とは? 江戸時代初期の架橋と思われるが、 詳しい年代は不明である。 江戸時代には東側には武家地が広がり、 西側は飯田町と称した。 東側には現在のように橋を降りて直進する道路はなかったため、 橋は現在ほど往来が多くはなく、橋自体も小規模であった。 宝田橋(たからだばし) 宝田橋(たからだばし)・・・とは? 初代の橋が架けられたのは1929年(昭和4年)10月 震災復興事業の一環であったが耐震・耐火性に劣る木造橋であった。 橋名は、かつてこの付近にあった宝田村から採られている。 現在の橋は1968年12月に架けられた鋼橋であるが、 皇居周辺の橋に比べ簡素なデザインとなっている。 雉子橋(きじばし)雉子橋・・・名前の由来は? 江戸時代には、数万人の唐人が、江戸に来たそうで 唐人のおもてなしには、雉子(きじ)が一番好まれると言うので 諸国からキジを集めて、鳥屋を作ったので 雉子橋と名付けたのだとか 外濠から、平川濠にかけては、 江戸城の本丸にも近かった為に 警備が非常に厳しくて 「雉子橋でけんもほろろに叱られる」 警備の藩士の厳しさと けんけんと鳴く声をかけた意といわれます。 一ツ橋(ひとつばし) 一ツ橋(ひとつばし)・・・とは? この橋は、一ツ橋といい 内濠川に架かる見附橋です。 徳川家康が江戸城へ入ったころは、 大きな丸木が一本架けられていて その名で呼ばれていたといいます。 寛永図(1624年~1643年)には、 一ツ橋とかかれています。 橋のちかくに、 松平伊豆守の屋敷があったので 伊豆橋と呼ばれた事もあります。 その屋敷あとに 八代将軍吉宗の第四子が居をかまえていたために 橋の名前をとって一ツ橋家と称したといわれていました。 錦橋(にしきばし) 日本橋川に架かる 「にしきばし」・・・とは?大手町一丁目から、神田錦町三丁目に通じる広い道筋上です。 関東大震災の復興橋のひとつで 昭和2年のコンクレート橋です。 橋名は・・・ 錦町や錦町河岸からつけられました。 「錦」は、昔 近くに一色という武家屋敷が二軒あったので 二色→錦と転化したのだといわれています。 神田橋(かんだばし) 首都高速5号線の下に~ひっそりと昔は、こんな感じ♪神田橋(かんだばし)・・・とは? 橋名は、かつてこの付近にあった神田明神に由来する。 江戸城の増築により 外神田に移転した神田明神跡には 神田御門と土井大炊頭利位の屋敷が設けられた。 寛永時代の地図では 「大炊殿橋」の名で記されている。 神田橋から上野広小路を通り寛永寺へと通じる道は、 歴代の徳川将軍が寛永寺に参詣する際に通ることから 「御成道」と呼ばれた。 現在でも、天皇皇后両陛下が車で北関東方面に向かう際に ここを通ることから、「御成道」の名は残っている。 1923年(大正12年)の関東大震災で崩壊し、 現在の橋は 1925年11月10日に架け替えられたものである。 新たな橋は単純鈑桁橋で、石灯籠を思わせる親柱と、 橋のたもとには復興に尽力した太田圓三の碑がある。 見事なアーチの端は、現在・・・修復中でした。アーチは、解体して、一石づつ番号をふって本棚の様に並んだ石↑日本人ならではですね~外国の遺跡修復との違いに驚かされます!日本人は、凄いですね・・・神田橋の石が並べられております。貴重な体験です(ちょっと感動)街の表記は・・・『内神田一丁目』 江戸時代、神田橋のたもとのこの界隈には、 荷揚げ場がありました。 徳川家康は、 江戸に入るとすぐに江戸城の築城と町づくりを始め 城を囲む御堀(現・日本橋川)は、 そのための建設資材などを運ぶ水路として活用されました。 古い地図を見ると 神田橋付近に「かしふねあり」と記され ここが水運の拠点だったことがわかります。 『鎌倉河岸跡』 「江戸名勝志」には、 「鎌倉がし、神田橋より常盤橋の辺の外の御堀はたを云」とあります。 また「続江戸砂子」には「鎌倉町、かまくらがしと云、御堀ばた米屋多し」といっています。 『東京案内』には 「鎌倉町寛永の頃(1624~43)は士地にして、 城地に沿う所を鎌倉河岸と称せり。 天和2年(1682)火災後、始めて鎌倉町と称す。 寛政11年(1799)の災後商家を外に移し 濠沿いの道を広め明治2年(1869)鎌倉横丁南側代地 新革屋町飛地を合す」とあります。 天正18年(1590)家康入国頃の初期この河岸は、 魚、青物のような生産食品をはじめ材木、 茅などの物資の集まる所でありました。 江戸城築城の時 鎌倉から石材を荷揚げしたので この名がついたともいわれます。 江戸中期以後も水上交通のターミナルとして重きをなし、 木材、竹、薪などが多く荷揚げされました。 昭和になっても建築材料の荷揚げが行われていました。 また江戸時代この河岸の 豊島屋十右衛門という酒屋で売出す雛まつりの白酒は有名でした。 入る客、出る客をはかって売出したのですが、 中にはあまりの人で絶倒する客があったといいます。 この店も戦災までこの河岸にありましたが今も神田に残っています。 この鎌倉河岸跡にある橋は・・・鎌倉橋(かまくらばし) やっと見つけました(^0^)V鎌倉橋(かまくらばし)・・・とは? 本橋左岸下流側に、 江戸城建設の際に相模国鎌倉からの材木を荷揚げした河岸があり、 鎌倉河岸と呼ばれた。 付近の町は「神田鎌倉町」と名付けられ、 本橋も鎌倉橋と称するようになった。 現在の橋は 関東大震災の復興事業で架け替えられたコンクリート製アーチ橋で、 1929年(昭和4年)4月25日に完成した。 欄干には、 1944年11月に米軍による爆撃と機銃掃射を受けた際の銃弾の跡が残っている。 神田なので、ドラマに出て来る版元「坂村堂」は、この辺りのはず!!もしかして↑趣のある建築「常磐小学校」えええ~っ!もしかして、ここかしらね~?新常盤橋(しんときわばし) これは、新しい常磐橋↑常磐橋(ときわばし)・・・とは? 元は「大橋」と称され、 江戸城の大手門から浅草に直接向かう本町通り (現在の江戸通りの原型とされる)上に置かれていた。 また、浅草に通じていることから「浅草口橋」とも呼ばれた。 太田道灌と親交が厚かった正宗龍統が記した 『江戸城静勝軒詩序并江亭記等写』に登場する 河口に架かる高橋を当時の平川(現在の神田川・日本橋川)の 河口付近にあったと推定されている常盤橋に当てる説(菊池山哉説ほか)があるが、 賛否両論がある。その一方、 永禄11年(1568年)に北条氏政が下総国の高城胤辰を 江戸城防衛のために駐屯させた「江城大橋宿」は 大橋(常盤橋)そばにあった宿場町であったとする説もある。 徳川家康による江戸の再整備後に日本橋が誕生して 江戸の交通が南北を軸にする以前は、 江戸城及び大橋(常盤橋)を中心とした 東西の軸によって陸路が形成されていたと考えられている (江戸城の西の道は鎌倉や府中に、 大橋を通る東の道は浅草を経由して 奥州や房総に連絡していたと考えられている)。 ただし、大橋が架かる日本橋川は 徳川家康の関東移封後に開削されたとも考えられており、 その場合は常盤橋もそれ以前には存在しないことになる。 この場合、当時の平川は日比谷入江に注いでおり、 そこに架かっていた現在の江戸城大手門の橋(大手橋)は 三ノ丸が内城に取り込まれるまでは大橋と呼称されていた それまでは現在の二ノ丸下乗門を大手門としていた。 『東京市史稿』では 高橋は大橋=大手門として、 当時の江戸市街の中心がそこにあったとしている。 寛永6年(1629年)、常盤橋の前に常盤橋門が設置され、 この頃に「常盤橋」の名称が登場したと考えられている。 「常盤」の由来については、 『金葉和歌集』(巻1)の 「色かへぬ松によそへて東路の常盤のはしにかかる藤浪」に由来する説や、 「徳川氏=松平氏」と松が持つ常盤(常緑)を掛けて 同氏の繁栄が続く事を願ったとする説がある。 江戸の交通の中心は日本橋にその地位を譲ったものの、 常盤橋から浅草方面の途中には 「伝馬町」「馬喰町」など運送業者に由来する町(名)が引き続き栄えていた。 明治になってから、 石造のアーチ橋の常盤橋が造営されたものの、 手狭であることから後に現在の常盤橋が造営されて、 旧橋は「常磐橋」と呼ばれるようになった。 平成19年(2007年)3月28日に常磐橋・常盤橋は ともに千代田区景観まちづくり重要物件に指定された。 旧橋は 経年と東北地方太平洋沖地震の影響による損傷で 2011年より通行禁止となっていたが、 2013年より修復工事が行われている。この常磐橋の近くにあったとされる・・・「登龍楼」と「伊勢屋」は、この辺りのはず!「みをつくし料理帖」は、フィクションでありますが・・・探してみるとな・なんと~大きな「登龍楼」は、イメージ通りに大きなビルです!傲慢な「登龍楼」らしい現在の姿~なんてイメージたっぷりですね!?となると、伊勢屋(旧・伊勢屋)は↓ココになるのです。絶句であります~大きな両替商であった「伊勢屋」はなんと~「日銀」改装中円の形で有名な「日本銀行」だったのです!!これには、作者の遊び心に驚いて、嬉しくなってしまいました(^-^)ここの地図には、興味深い事がいっぱい記されておりました。昆布を買った「大阪屋」は、なんと~「三越」です。フィクションなのに、イメージが現在に重なって・・・「江戸桜通り」う~ん!江戸ですね~♪私は、一石橋を渡って・・・東京駅へなんと~歩きましたね!神田・北の丸公園「千代田のお城」から「大橋」新常盤橋まで江戸時代への旅って今でも出来るのですね~また歩いてみたいです(おわり)澪さんにぽち
2017.07.01
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何ですと~ラプンツェルとな?太宰さまですが・・・これって読書感想文にお勧めですね~♪今更ながら太宰治を読んでおります。地元に関連している作家なのに自殺をしたお方で・・・学生時代には、敬遠していたけど、「ろまん燈籠」半日で、完読です♪これは、読書感想文にお勧めです(^0^)V読書にぽち
2017.06.29
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太宰 治・・・とは? 資料=(ウィキペディアさまより)太宰 治 だざい おさむ 1909年(明治42年)6月19日 - 1948年(昭和23年)6月13日 日本の小説家である。 本名、津島 修治(つしま しゅうじ) 自殺未遂や薬物中毒を克服し戦前から戦後にかけて多くの作品を発表。 没落した華族の女性を主人公にした『斜陽』はベストセラーとなる。 その作風から坂口安吾、織田作之助、石川淳らとともに新戯作派、無頼派と称された。 主な作品に『走れメロス』『津軽』『お伽草紙』『人間失格』がある。 青森県北津軽郡金木村(後の金木町、現在の五所川原市)に、 県下有数の大地主である父津島源右衛門と母たね(夕子)の六男として生まれた。 両親にいる11人の子女のうちの10番目。 父・源右衛門は木造村の豪農松木家からの婿養子で県会議員、衆議院議員、 多額納税による貴族院議員等をつとめた地元の名士。 津島家は「金木の殿様」とも呼ばれていた。 父は仕事で多忙な日々を送り、母は病弱だったので、 生まれてすぐ乳母に育てられ、その乳母が1年足らずで辞めると、 叔母のキエ(たねの妹)に、3歳から小学校入学までは 14歳の女中近村たけが子守りを務めた。 1916年(大正5年)、金木第一尋常小学校に入学。 津島家の子弟は実際の成績に関係なく、 学業は全て甲をつけられていたが、太宰は実際の成績も良く、 開校以来の秀才と言われていたという。 小学校卒業後、1年間明治高等小学校に通学。 これは次兄の英治と三兄の圭治が成績不振で 弘前中学校を2年で中退していたため、 落ちこぼれぬよう学力補充のための通学だった。 【学生時代】 1923年(大正12年)、3月4日、父源右衛門が肺癌で死去。 4月、旧制青森中学校に入学、実家を離れて下宿生活を送る。 成績優秀で1年の2学期から卒業まで級長を務め、 4年修了(四修)時の成績は148名中4番目であった。 芥川龍之介、菊池寛、志賀直哉、室生犀星などを愛読、 井伏鱒二の『幽閉(山椒魚)』には読んで座っていられないほど興奮した。 在学中の17歳頃『校友会誌』に、習作「最後の太閤」を書き、 また友人と同人誌『蜃気楼』を12号まで発行。 作家を志望するようになる。 1927年(昭和2年)旧制弘前高等学校文科甲類に優秀な成績で入学。 当時の弘高は全寮制で1年次は自宅通学以外は寮に入らなければならなかったが、 太宰は母の考えもあって、病弱と偽り下宿生活をしていた。 夏休みに金木に帰省中の7月24日、芥川龍之介の自殺を知り衝撃を受け、 弘前の下宿に戻るとしばらく閉じこもっていたという。 1928年(昭和3年)、同人誌『細胞文芸』を発行すると 辻島衆二名義で当時流行のプロレタリア文学の影響を受けた 『無限奈落』を発表するが連載は1回で終了。 津島家の反対を受けたと推測されている。 この頃、芸者の小山初代(1912-1944)と知り合う。 1929年(昭和4年)、弘高で起きた同盟休校事件をモデルに 『学生群』を執筆、改造社の懸賞小説に応募するが落選。 12月10日未明にカルモチン自殺を図り、 母たねの付き添いで大鰐温泉で1月7日まで静養した。 太宰は自殺未遂の理由を『苦悩の年鑑』の中で「私は賤民ではなかった。 ギロチンにかかる役のほうであった。」 と自分の身分と思想の違いとして書いているが、 1月16日から特高によって弘高の左翼学生が 相次いで逮捕される事件が起きており、 津島家から事前に情報を得た太宰が逮捕を逃れるために 自殺未遂をしたのではという見方もある。 1930年(昭和5年)、弘前高等学校文科甲類を76名中46番の成績で卒業。 フランス語を知らぬままフランス文学に憧れて 東京帝国大学文学部仏文学科に入学、上京。 当時、東大英文科や国文科などには入試があったが、 仏文科は不人気で無試験であった。 太宰はそれを当て込んで仏文科に出願したが、 たまたま1930年には仏文科でもフランス語の入試があった。 目算が外れた太宰は他の志願者とともに試験場で手を挙げ、 試験官の辰野隆に事情を話し、格別の配慮で入学を認められた。 授業についていけず、美学科、美術史科への転科を検討している。 小説家になるために井伏鱒二に弟子入りする。 10月、小山初代が太宰の手引きで置屋を出て上京。 津島家は芸者との結婚に強く反対、11月に長兄の文治が上京、 説得するが、太宰は初代と結婚すると主張。 文治は津島家との分家除籍を条件に結婚を認める。 大学を卒業するまで毎月120円の仕送りも約束するが、 財産分与を期待していた太宰は落胆する。 除籍になった10日後の11月28日、銀座のバー「ホリウッド」の女給で 18歳の田部シメ子と鎌倉・腰越の海にてカルモチンで自殺を図る。 だがシメ子だけ死亡し太宰は生き残る。 この事件について太宰は『東京八景』『人間失格』などで入水自殺と書いているが、 当時の新聞記事では催眠剤を飲み海岸で倒れているところを発見されたと報道されている。 自殺幇助罪に問われるが、文治らの働きかけで起訴猶予となる。 南津軽郡の碇ヶ関温泉の柴田旅館で、 初代と仮祝言をあげるが入籍しなかった。 年明け、太宰は文治と覚書を交わし、問題行動を起こさず、 大学卒業を約束するかわりに毎月120円の仕送りを受けることになった。 2月、初代が上京、新婚生活が始まる。 1932年(昭和7年)、作家になる決意で『思い出』『魚服記』を執筆。 文治の助力で左翼活動から離脱【創作、乱れた私生活】 1933年(昭和8年)、『サンデー東奥』(2月19日発行)に『列車』を太宰治の筆名で発表。 同人誌『海豹』に参加、創刊号に『魚服記』を掲載。 檀一雄と知り合う。同人誌『青い花』を創刊、『ロマネスク』を発表するが、 中原中也らと争い、1号で休刊となった。 1935年(昭和10年)、『逆行』を『文藝』2月号に発表。 大学5年目になっていた太宰は、卒業できず仕送りを打ち切られることを考え、 都新聞社(現・東京新聞)の入社試験を受けるが不合格。 3月18日、鎌倉で首吊り自殺をはかる。 4月、腹膜炎の手術を受ける。 入院中に鎮痛剤パビナールの注射を受け、以後中毒となる。 授業料未納で9月30日付で大学を除籍。 『逆行』が第1回芥川賞候補となるも落選(このとき受賞したのは石川達三『蒼氓』)。 選考委員である川端康成から「作者、目下の生活に厭な雲あり」と私生活を評され、 「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか」と 文芸雑誌『文藝通信』10月号で反撃した。 この年、佐藤春夫を知り師事する。佐藤も選考委員であり、 第1回の選考時には太宰を高く評価していた。 第2回を太宰は期待し佐藤も太鼓判を押したが、 結果は「受賞該当者なし」となった。 1936年(昭和11年)、前年よりのパビナール中毒が進行、 佐藤春夫の勧めで済生会芝病院に10日間入院。 6月21日、処女短編集『晩年』を砂子屋書房より刊行。 仇敵であった川端康成に献本と選考懇願の手紙を送っているが、 第3回では過去に候補作となった作家は選考対象から外すという規定が設けられ 候補にすらならなかった。 パビナール中毒がひどくなり、多いときには1日50本を注射。 初代の着物を質に入れ、知人に借金をして歩く。 初代が井伏鱒二に泣きつき、 文治に頼まれた津島家出入りの商人の中畑慶吉と北芳四郎が、 10月13日に東京武蔵野病院に強制入院させる。 11月12日退院するが、翌1937年(昭和12年)、 津島家の親類の画学生小館善四郎が初代との不貞行為を告白。 3月下旬、水上温泉で初代とカルモチン自殺未遂。6月初代と離別。 【結婚、作家活動】 1938年(昭和13年)、井伏鱒二の紹介で 山梨県甲府市出身の地質学者・石原初太郎の四女の石原美知子と見合い。 この時、太宰は媒酌人を渋る井伏に対して「結婚誓約書」という文書を提出。 その中でこれまでの乱れた生活を反省、家庭を守る決意をして 「再び破婚を繰り返した時には私を完全の狂人として棄てて下さい」と書いている。 翌年1月8日、井伏の自宅で結婚式を挙げる。 同日、甲府市街の北に位置する甲府市御崎町(現・甲府市朝日五丁目)に移り住む。 9月1日、東京府北多摩郡三鷹村下連雀に転居。精神的にも安定し 『女生徒』『富嶽百景』『駆け込み訴へ』『走れメロス』 などの優れた短編を発表した。 『女生徒』は川端康成が「『女生徒』のような作品に出会えることは、 時評家の偶然の幸運」と激賞、原稿の依頼が急増した。 1941年(昭和16年)、文士徴用令に呼ばれるが、 身体検査で肺湿潤とされ徴用免除される。 太田静子に会い、日記を書くことを勧める。 戦時下も『津軽』『お伽草紙』や 長編小説『新ハムレット』『右大臣実朝』など旺盛な創作活動を継続。 1945年(昭和20年)3月10日東京大空襲に遭い、美知子の実家の甲府に疎開。 7月6日から7日にかけての甲府空襲で石原家は全焼。 津軽の津島家へ疎開。終戦を迎えた。 【『斜陽』、もつれた女性関係】 10月から1月まで河北新報に『パンドラの匣』を連載。 これは『雲雀の声』として書き下ろしたものの印刷所が空襲に遭い、 燃えてしまった原稿のゲラを手直ししたものである。 1946年(昭和21年)11月14日、東京に戻る。 チェーホフの『桜の園』のような没落貴族の小説を構想、 1947年(昭和22年)2月、神奈川県下曾我で太田静子と再会、日記を借りる。 3月27日、美容師の山崎富栄と知り合う。 没落華族を描いた長編小説『斜陽』を『新潮』に連載。 12月15日、単行本として出版されるとベストセラーになり、 斜陽族が流行語となるなど流行作家となる。 『斜陽』の完成と前後して、 登場人物のモデルとなった歌人太田静子との間に娘の太田治子が生まれ、太宰は認知した。 10月ごろ、新潮社の野原一夫は 太宰が富栄の部屋で大量に喀血しているのを目撃しているが、 富栄は慣れた様子で手当てしていたという。 1948年(昭和23年)、『人間失格』『桜桃』などを書きあげる。 富栄は手際がよく、スタコラさっちゃんと呼ばれ、 太宰の愛人兼秘書のような存在になっていた。 美容師をやめ、20万円ほどあった貯金も太宰の遊興費に使い果たした。 部屋に青酸カリを隠していると脅し、 6月7日以降、太宰は富栄の部屋に軟禁状態になった。 心配した筑摩書房社長の古田晁が井伏鱒二に相談、 御坂峠の天下茶屋で静養させる計画を立てる。 6月12日土曜日、太宰は古田が週末の下宿先にしていた大宮市の宇治病院を訪ねるが、 古田は静養の準備のため信州に出張中だった。 【死】 1948年(昭和23年)6月13日に玉川上水で、愛人山崎富栄と入水した。 2人の遺体は6日後の6月19日、奇しくも太宰の誕生日に発見され、 この日は彼が死の直前に書いた短編「桜桃」にちなみ、 太宰と同郷で生前交流のあった今官一により「桜桃忌」と名付けられた。 この事件は当時からさまざまな憶測を生み、富栄による無理心中説、 狂言心中失敗説などが唱えられていた。 津島家に出入りしていた呉服商の中畑慶吉は 三鷹警察署の刑事に入水の現場を案内され、 下駄を思い切り突っ張った跡があったこと、 手をついて滑り落ちるのを止めようとした跡も歴然と残っていたと述べ、 「一週間もたち、雨も降っているというのに歴然とした痕跡が残っているのですから、 よほど強く"イヤイヤ"をしたのではないでしょうか」、 「太宰は『死にましょう』といわれて、簡単に『よかろう』と承諾したけれども、 死の直前において突然、生への執着が胸を横切ったのではないでしょうか」と推測している。 中畑は三鷹警察署の署長から意見を求められ 「私には純然たる自殺とは思えない」と確信をもって答えた。 すると署長も 「自殺、つまり心中ということを発表してしまった現在、 いまさらとやかく言ってもはじまらないが、 実は警察としても(自殺とするには)腑に落ちない点もあるのです」と発言した。 『朝日新聞』と『朝日評論』に掲載した ユーモア小説「グッド・バイ」が未完の遺作となった。 奇しくもこの作品の13話が絶筆になったのは、 キリスト教のジンクス(13 (忌み数))を暗示した 太宰の最後の洒落だったとする説(檀一雄)もある。 自身の体調不良や一人息子がダウン症で 知能に障害があったことを苦にしていたのが 自殺のひとつの理由だったとする説もあった。 しかし、50回忌を目前に控えた1998年(平成10年)5月23日に、 遺族らが公開した太宰の9枚からなる遺書では、 美知子宛に「誰よりも愛してゐました」とし、 続けて「小説を書くのがいやになつたから死ぬのです」と自殺の動機を説明。 遺書はワラ半紙に毛筆で清書され、 署名もあり、これまでの遺書は下書き原稿であったことが判った。 既成文壇に対する宣戦布告とも言うべき連載評論「如是我聞」の最終回は 死後に掲載された。 東京・杉並区梅里の東京博善堀ノ内斎場にて荼毘に付される。 戒名は文綵院大猷治通居士。 ・・・・ウィキペディアさまより・・・・「太宰治」今更ですが読んでおります(^-^)b読書にぽち
2017.06.28
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藤沢周平さんの代表作、蝉しぐれを完読致しました(^O^)15歳の青年が恋をする時代小説なんです。良いですね〜淡い恋って 表紙のシーンは、クライマクス ドキドキですね〜この時 どうなるのでしょう? それでも作者は、 そんなに最悪な結論には 持ってゆかないはずと信じて 完読にぽち
2017.06.27
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登場人物が、とっても多くて覚えきれません~「ウィキペディア様」で調べてみました(^-^)V藤沢周平の代表作『蟬しぐれ』(せみしぐれ)・・・とは? 『蟬しぐれ』せみしぐれ 藤沢周平による日本の長篇時代小説。 また、同作を原作とした2003年(平成15年)の日本のテレビドラマ、 2005年(平成17年)の日本映画、 1994年(平成6年)以降に発表された3作の日本の演劇作品である。 藤沢作品の中でも代表的な小説のひとつである。 初出は『山形新聞』夕刊(1986年7月9日 - 1987年4月13日連載)。 【略歴・概要】 初出は冒頭に記述のように、 1986年(昭和61年)7月9日に連載を開始した。 「山形新聞夕刊」とされる 挿絵を山本甚作が描いた。 正確な初出には異論があり、 「秋田魁新報朝刊」には 「1986年7月9日」よりも「9日」早く、 「1986年6月30日」に連載がスタートしているという。 全国12紙には学芸通信社が配信し、連載された。 単行本は1988年(昭和63年)5月に文藝春秋から、 文庫には同社の文春文庫に1991年(平成3年)7月に収録された(ISBN 416719225X) 映画化された2005年(平成17年)1月末現在の発表によれば、 同時点で単行本・文庫本トータル発行部数は120万部を超えている。 2002(平成14年)度、光村図書発行の中学3年生用国語教科書に採用された。 下記のように、テレビドラマ、映画、演劇と多く翻案されている。 【あらすじ】 海坂藩(作者創造による架空の藩。庄内藩がモデルとされる)を舞台に、 政変に巻きこまれて父を失い、 家禄を減らされた少年牧文四郎の成長を描く。 小説の冒頭で文四郎は15歳。 市中の剣術道場と学塾に通い、 ひとつ年上の小和田逸平や 同い年の島崎与之助と仲がよく、 また隣家の娘ふくに不思議と心を引かれ、 すこしずつ大人になりつつある年頃である。 平凡な日々がおだやかに過ぎてゆくなかで、 お世継ぎをめぐる政争が表面化し、 これに関与していた養父助左衛門は切腹を命ぜられる。 登場人物(小説) 主人公 ●牧文四郎 牧助左衛門の一人息子。 ただし実子ではなく、 助左衛門の妻登世の実家である服部家からの養子。 物語開始時15歳。 16歳の時、藩の政争に関与していた父が切腹させられ、 家禄を28石から7石に減らされて、 普請組屋敷から葺屋町の長屋に移された。 17歳の秋、番頭の藤井宗蔵が烏帽子親となって元服し、 重好(しげよし)と名乗った。 18歳の正月に、 道場の席次が5位となる。 同年3月、里村家老の屋敷に呼ばれ、 家禄を28石に戻した上、 郡奉行支配となる旨を告げられた。 この時点では葺屋町の長屋からは引っ越さず、 郷方組屋敷に移ったのは同じ年の12月だった。 同年の秋、 松川道場との対抗奉納試合で興津新之丞に2勝1敗で勝利し、 石栗弥左衛門が考案した秘剣村雨を、 唯一の伝承者である加治織部正を通して伝授されることとなった。 20歳の正月、正式に郷村出役(でやく)見習いに任じられて、 城の郡代屋敷に出仕するようになった。 同年2月、岡崎せつと結婚。 21歳の時、里村家老に呼び出され、 里村が属する派閥の領袖である元中老の稲垣と里村に、 欅御殿に潜むふくの息子を里村の屋敷に連れてくるようにとの密命を受ける。 罠の臭いを感じた文四郎は、 逸平と布施と共に欅御殿を訪れ、 ふくに事の次第を説明して、 共に稲垣派と対立する横山家老の屋敷に脱出するように願う。 その時、村上七郎右衛門が率いる稲垣派の襲撃隊が屋敷を襲ってきた。 襲撃隊を退けた文四郎は、 ふく親子を一時避難させていた金井村村役人藤次郎宅から、 横山の屋敷に向かったが、 里村派の警戒が厳しかったため、 急遽加治織部正を頼ることにした。 その結果、横山派が稲垣派を押さえて実権を握ることになる (以下、本稿ではこの事件を「欅御殿事件」と呼ぶこととする)この時の功績により、 また父助左衛門の過去の功績が認められ、 30石が加増された。 欅御殿事件から20数年後、助左衛門の名を受け継ぎ、 郡奉行となっていた文四郎は、突然ふくから呼び出しを受ける。 ヒロイン ●小柳ふく/お福牧家の隣家である小柳甚兵衛の娘。 文四郎の3歳年下で、物語開始時12歳。 13歳の時、藩主正室の寧姫に仕えるため、江戸に向かった。 その直前に牧家を訪ねてきたが、文四郎とは会うことができなかった。 15歳の時、藩主の手が付いて側室となった。 すぐに子を身ごもったが、この時は流産してしまう。 それについて与之助は、 側室おふねの陰謀だという噂があると文四郎に語った。 また、その後送られてきた与之助の手紙には、 江戸藩邸でにわかにふくの評判が悪化し、 藩主の寵愛を失ったという噂について触れてあった。 17歳の時、暇を出されて、 藩主の親族である旗本屋代家に預けられた。 しかし、その後密かに国元に送られ、 藩主の持ち物である金井村の欅御殿に移された。 その時、藩主の子を宿しており (すなわち、藩主の寵愛を失ったというのは、おふね一派に対する偽装工作だった)、 その年の夏に男児を出産した 。(この子は早くして大身旗本の家に養子に出されることになる) 欅御殿事件では、 一時避難した藤次郎宅から加治織部正の屋敷まで、 文四郎に連れられて逃避行をした。 事件の後、側室おまんに代わって城奥の支配者となり、 文四郎と直接会うことは長らく無かった。 しかし、20数年後、側室として仕えた前藩主が亡くなり、 その一周忌を前にして白蓮院の尼になることを決めた。 そして、その前に文四郎に会いたいと手紙を送る。 【家族】 ●牧助左衛門文四郎の父。 28石2人扶持で、普請組に勤める。 文四郎は服部家からの養子のため、血のつながりはないが、 母よりも父に親しみを覚え、また尊敬している。 文四郎が15歳の時、嵐で五間川が氾濫しそうになって、 外出中の助左衛門の代わりに駆けつけたことがある。 遅れて到着した助左衛門は、金井村の田がつぶれるのを防ぐために、 堤防の切開の場所を上流に変更するよう、 指揮を執っていた相羽惣六に進言した。 金井村の人々はそのときのことを感謝しており、 後に助左衛門が反逆罪で捕らえられた時には、 堤防切開工事に一緒に参加した青畑村の人々と共に、助命嘆願書を提出した。 横山派と稲垣派との政争では 横山派に加わり、特に村々を回って村方に横山派を作り上げる働きをしていた。 しかし、文四郎が16歳の年の夏、横山派が稲垣派に敗れ、 一統12名と共に藩に対する反逆の罪で切腹させられる。 切腹前日、面会を赦された文四郎に、 父を恥じてはならぬ、そして母を頼むと言い残した。 ●牧登世文四郎の母。 元々は文四郎の実父の妹であり(すなわち叔母)、 助左衛門との間には子が生まれなかったため、 文四郎を養子に迎えた、万事に堅苦しいところがある。 ふくの母親のことは嫌っていたが、 ふく本人に対しては良い感情を持っていた。 また、文四郎の親友たちについては、 少しがさつなところがある逸平のことは苦手にしていたが、 秀才の与之助のことは高く評価していた。 ●服部市左衛門 文四郎の実兄で、実家の当主。 120石で右筆を勤める。文四郎16歳の時に34歳であり、 その年齢差の他、厳しい物言いも相まって、 文四郎にとっては兄というよりも父のような圧迫感を受ける存在。 しかし、決して冷酷ではなく、 末弟である文四郎のことは心底心配している。 助左衛門が捕らえられてからは、 情報収集をしたり、葬儀の手配をしたりと、 本家筋のような働きをしてくれた。 牧家の家禄が復旧し、 文四郎が郡奉行支配になった時には、 20歳になって正式に郷方回りとして出仕するまでの間、後見を務めた。 ●岡崎せつ/牧せつ文四郎が20歳の時に迎えた妻。 25石青苧蔵に勤める岡崎亀次の次女。 無口だが父母を大切にするところを登世が気に入って、縁談がまとまった。 後に1男1女を産んだ文四郎の子どもたち欅御殿事件の二十数年後、 文四郎とせつには息子と娘が1人ずついる。 息子は20歳で小姓組見習いとして出仕しており、 娘も間もなく嫁にやる年頃である。名は不明。 【親友】 ●小和田逸平 物語開始時16歳で、文四郎の1歳年上。 10歳の時に父を亡くして100石の家を継いでいる。 17歳の春に小姓組として出仕した。 文四郎の父が刑死して、 世間が文四郎と登世を白眼視する中でも、 変わらぬ友情を示し続けた。 出仕後すぐに嫁をもらうつもりだったがなかなか見つからず、 2年たってようやく御勘定目付の娘である池内琴代との婚約が整って、 翌年の春に結婚した。 欅御殿事件では、 布施と共に文四郎に同道。 文四郎たちが刺客を食い止めている間に、 ふく親子と侍女おみちを藤次郎宅まで護衛した。 その功績により後に5石を加増された。 物語終盤(欅御殿事件の20数年後)には、御書院目付となっており、 21歳で嫡男が誕生して以来、全部で8人の子が生まれた。 ●島崎与之助 文四郎と同い年。郷方廻りの次男。 剣の腕はさっぱりだが、居駒塾では始まって以来の秀才と呼ばれ、 時には師に代わって論語を講義することもあった。 15歳の秋に、江戸の葛西塾で学ぶために海坂を離れた。 江戸に行った3年後、師の葛西蘭堂の供として海坂藩に初めて一時帰国して、 藩校三省館での特別講義の一部を担当した。 それが評価され、これ以降は江戸での留学費用は藩が負担してくれるようになった。 また、この時、文四郎はふくの江戸藩邸での様子を知らせてくれた与之助にだけ、 ふくに対する複雑な気持ちを吐露した。 20歳の時、江戸での学業を終えて帰国。藩校で助教となる。 このときも、ふくが密かに帰国して欅御殿にかくまわれ、 しかも妊娠しているという情報を文四郎にもたらした。 欅御殿事件の後、文四郎に刺客が放たれたという話を盗み聞きし、 逸平を通じて文四郎に警告した。 物語終盤には、藩校の教授となっており、 数年後には学監になるだろうと言われている。 【石栗道場】 ●石栗弥左衛門 文四郎たちが通った、鍛治町にある空鈍流の剣術道場の主。 初登場時71歳。74歳の高齢でも、 扇子一本で文四郎の木刀の打ち込みを何度も受け止める力を持っていたが、 欅御殿事件の頃(77歳)には、さすがにかなり耄碌してきたと記されている。 ●佐竹金十郎師範代 10石足らずの御馬乗り役の身分だが、道場では敵する者なき遣い手。 努力家だけに他者に求めるものも厳しく、 後輩たちに過酷な稽古を付けるために恐れられている。 文四郎が20歳になった年、役付きになって多忙となり、師範代を辞した。 ●丸岡俊作 席次2位の高弟。助左衛門が刑死した後も、文四郎に対する態度は変わらなかった。 佐竹が師範代を辞した後、その後任となった。 ●大橋市之進 席次3位の高弟。120石の家の部屋住みで、なかなか婿の口がかからない。 助左衛門が刑死した後は、文四郎に対してねちねちと意地悪い態度を取るようになった。 犬飼兵馬にひどく叩きのめされたのがきっかけで、 婿の口がかかったという言い訳をして道場を辞めたが、兵馬が死んでから再び戻ってきた。 ●塚原甚之助 席次4位の高弟。いい技を持っているが、気魄に欠けるところがある。 矢田作之丞席次5位の高弟。温厚な性格。 城では御納戸勤め。文四郎の父と同様、横山派に与し、反逆者として切腹させられる。 ●杉内道蔵郷 方回りの子で、文四郎の2歳年下の後輩。 文四郎が父の遺骸を運ぶ際、手伝ってくれた。 その後、道場で文四郎に対する態度が変わらない数名の中の1人である。 ●犬飼兵馬 300石を賜る父親が、江戸の御留守居役から国勤めの御使番に代わり、 文四郎の父が刑死した頃に入門した。表情が読みにくく、癖のある剣を遣う。 一風変わった性行をしており、 他人を馬鹿にしたような態度を取るため他の門弟たちからは嫌われている。 文四郎のことは好敵手と認めたようで、よく稽古試合を挑んでくるようになった。 兵馬の荒っぽい挑戦に、文四郎も父を亡くした後の荒れた気持ちを引き出され、 丸岡が「お前たちのは試合ではなく喧嘩だ」と叱るほどの、激しい稽古試合を繰り返した。 欅御殿襲撃隊の一員に加わり、文四郎と対決するも斬殺された。 【小野道場】 ●小野喜玄 無外流の道場主。石栗道場と松川道場の対抗奉納試合では審判を務めた。 ●布施鶴之助 矢田淑江の実弟。義兄である矢田作之丞のことを尊敬している。 矢田の死後、姉の元に足繁く通っている野瀬郁之進に向かって刀を抜いたところを、 文四郎が仲裁し、それ以来仲良くなった。 文四郎が松川道場との対抗試合で興津新之丞と対戦することを知り、 石川惣六と共に興津の太刀筋の確認をしてくれた。 欅御殿事件では、文四郎の求めに応じ、助っ人に加わった。 その恩賞について横山家老に意見を求められた文四郎は、 矢田の家を再興させて布施に跡を継がせてはどうかと提案した。 横山はその提案に好意的だったが、実現したかどうかは不明。 ●石川惣六(そうろく) 松川道場の興津新之丞と対戦したことがあるため、 布施鶴之助と共に文四郎の興津対策の工夫に付き合ってくれた。 ●三宅藤右衛門 師範代。一時は石栗道場の佐竹もかなうまいというほどの剣名を挙げた。 米倉の役人をしている。欅御殿事件の後、秘剣であるはずの村雨の名を知っており、 文四郎を驚かせた。追放処分となった里村左内の命によって文四郎に対する刺客となり、 横山家老の元を訪れた帰りの文四郎を襲撃したが、文四郎に返り討ちにされた。 【松川道場】 ●山根清治郎 230石の御徒頭の嫡男。文四郎より2歳年上。 居駒塾では与之助と成績を争ったが、差を付けられて辞めてしまった。 剣術では松川道場で頭角を現しつつある。 高慢な性格で、取り巻きたちと一緒に与之助を痛めつけたり、 父が刑死した文四郎をさげすんだりした。 文四郎17歳の時の、石栗・松川両道場の対抗奉納試合では、文四郎と対戦して敗れた。 ●興津新之丞(おきつしんのじょう) 松川道場でも実力者の1人。 石栗道場との対抗奉納試合では、実力4位の塚原を破った。 その翌年(文四郎18歳)の奉納試合では文四郎と対戦して敗れた。 文四郎はこの勝利により、秘剣村雨を伝授されることとなった。 欅御殿事件の後、よく小野道場に出稽古に来るようになった。 たまたま小野道場を訪問した文四郎と1本勝負で再戦し、その際には勝利した (もっとも、文四郎は秘剣村雨を使わなかったし、次に対戦した時には負けない自信を持ったが)。 この時、文四郎は、興津が失脚した元筆頭家老の里村が放った刺客かもしれないと考えた。 【藩主家】 藩主正室の奥女中であったふくに手を付け、側室として寵愛した。 ふくが側室おふねの一派によって危険にさらされると、 ふくは寵愛を失って暇を出されて、 屋代家にお預けとなったという偽の情報を流し、 密かにふくを国元に戻して欅御殿に匿った。 その際、磯貝、北村という剣客を護衛に付け、 おみちにふくの身の回りの世話をさせた。 ふくとの間にできた最初の子は流産したが、 2人目の男児は欅御殿で無事誕生した。 欅御殿事件の後、この男児を大身旗本家の養子とした。 参勤交代は5月に行なっている。 ●寧姫 藩主の正室。ふくが奥勤めとして江戸藩邸に入った時に仕えた。 亀三郎藩主の嫡男で、志摩守を名乗る。正室寧姫が産んだ子。 文四郎19歳の年に、病弱を理由に廃嫡、隠居させられる。 ●松之丞 藩主の次男。母であるおふねが正室よりも勢力がある上、 藩主自身も亀三郎よりも松之丞の方を気に入っているため、 亀三郎を病弱を理由に廃嫡して、松之丞を跡継ぎにしようという一派が起こった。 一方、助左衛門らは亀三郎廃嫡に反対する一派に属していた。 亀三郎が廃嫡された後、代わりに世継ぎとされて志摩守を名乗る。 ●おふね 江戸藩邸の奥で最も勢力をふるっている側室。松之丞を産んだ。 藩主の愛妾となったふくに対しては、様々な嫌がらせを行なったと言われている。 ●おまん 国元にいるただ1人の側室で、城奥の権力を握る。 ●加治織部正(おりべのしょう) 藩主の叔父(先代藩主の末弟)で、かつては家老として藩内に産業を興し、 学問を広めて善政を施いた。文四郎が3歳の頃に、 まだ30代の若さで藩政から身を引き、 代官町の杉ノ森御殿と呼ばれる屋敷に引きこもって人前に現れなくなった。 石栗弥左衛門から秘剣村雨を伝授された唯一の人物で、 老齢の石栗に代わって、文四郎に秘剣を伝授した。 欅御殿事件の際には、当初文四郎はふく親子を 横山家老の屋敷に送り届けるつもりだったが、 稲垣派の警戒が厳しく、やむなく加治を頼った。 加治はふく親子を保護し、横山に事件の経緯を報告した。 【横山派】 ●横山又助 次席家老。助左衛門や矢田らは彼に与していた。 彼ら股肱の者たちが捕らえられた時には手も足も出なかったが、 事件が一段落した頃に、刑の行き過ぎを執政会議で演説し、 そのおかげで牧家を含む多くの家が、取りつぶしではなく家禄3分の2召し上げで済んだ。 また、後に金井・青畑両村から出されていた助左衛門助命嘆願書を執政会議に提出し、 牧家の家禄が元通りになった。欅御殿事件の後、稲垣派を藩執政から一掃し (ただし、稲垣と里村以外に対しては、閉門などの軽い処分で済ましている)、 自らは筆頭家老に就いた。 ●平田帯刀助 左衛門が切腹した政変の前は家老。 政変で捕らえられ、切腹を命じられた。兼松熊之助政変前は中老。 一族もろとも領外追放処分となった。 ●青木孫蔵 郷方回りの見習いとなった文四郎が、 一緒に組んで村々を回ることになった先輩。30代半ば。 無口だが有能な役人で文四郎も一目置いている。 初めて文四郎と金井村を巡回した時、 助左衛門の助命嘆願書を金井村・青畑村の人たちが出してくれたということを教えた。 そして、文四郎を横山派に誘ったが、文四郎は即答しなかった。 後に稲垣派によって殺害された。 【稲垣派】 ●稲垣忠兵衛 元の中老で、名執政と呼ばれた。家老の里村を背後から操っている。 欅御殿事件の後、郷入り処分となった。 里村左内助左衛門が切腹した時には次席家老。後に筆頭家老に進んだ。 欅御殿事件の後、家族共々領外永久追放となった。 追放前、文四郎に対して刺客を放った。 ●多田左門 中老。欅御殿事件の後、100日の閉門処分を受けた。 ●村上七郎右衛門 御小姓組に勤める。松川道場出身。 助左衛門が切腹した際、首の皮1枚を残す見事な介錯をした。後に馬廻組に異動。 横山派に属する青木孫蔵が文四郎を連れて金井村を巡回していたところに出くわし、 徒党を組む真似をやめるよう青木を脅した。 欅御殿事件の時には、襲撃部隊の実行責任者だったが、 文四郎と戦って二の腕を斬られて後退した。 後、その責任を問われて、50日の閉門と家禄半減の処分を受けた。 【他の重役】 ●尾形久万喜(くまき) 大目付。辣腕との噂が高い。 文四郎とは、里村の屋敷でも横山の屋敷でも対面しているが、 尾形自身は中立な立場のようである。 ●藤井宗蔵 300石の番頭。助左衛門とは若い頃の道場仲間で、 生前の助左衛門に文四郎の元服の際の烏帽子親を頼まれており、 ぜひその約束を果たしたいと、文四郎と登世に願った。そして、このことについて、 助左衛門が刑死したことを取り上げてとやかく言う者があれば いつでも相手になると言い放った。 藤井の言葉は、失意の内にいた文四郎と登世を力づけた。 文四郎の元服は、17歳の秋に実現する。 文四郎が元服の際に名乗った重好(しげよし)は、 藤井の名である重武の一字をもらったものである。 ●遠山牛之助 中老。江戸の葛西塾の元門人で、同じく元門人である学監の芝原、 番頭の菰田(こもだ)らと協力して、 師である葛西蘭堂を海坂藩藩校「三省館」に招いて特別講義を願った。 そのとき、供として島崎与之助が3年ぶりに一時帰国して、講義の一部を担当した。 ●樫村弥助 郡奉行。家禄を復旧されて郷方回り見習いとなった文四郎の上司。 3人いる郡奉行の中では一番人柄が良い。 文四郎が就任の挨拶に訪れた時、祝福すると共に、 里村家老は策略の多い人だから油断するなと諭した。 横山派かどうかは不明だが、青木孫蔵によれば、 郡代の瀬尾と共に稲垣派の農政に懸念を抱いている数少ない郷方の一人。読書にぽち
2017.06.24
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藤沢周平さんの代表作も読んでみょうかと〜蝉しぐれ(^_−)−☆ しかし、今日は、 ゴロゴロ、ダラダラ 何もしないで一日が過ぎて・・・ まぁ〜こんな日も(^O^)あり? じっくり読書にぽち
2017.06.23
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時代小説〜藤沢周平(^O^)獄医立花登手控え4冊目、人間の檻を完読しました〜🎵 溝端淳平くん主演のドラマ 2シーズン目を見てから 読み始めた(^_−)−☆私です。 TVドラマを見てから読むのは、 イメージが掴みやすいですよね〜 NHK.BSの放送は、 藤沢周平さんの原作を かなり忠実にドラマ化しており とっても気持ちが良く 読み終える事ができました(^O^) 2016年シリーズの放送に続き 今年2017年4月の第二シリーズ 放送が終わってしまい 第三シリーズの放送は、あるのでしょうか? 大河ドラマ以外に 時代劇を見ない私ですが、 また溝端淳平くん主演で お願いしたいな〜なんて希望致します〜 NHK様よろしくです(^_−)−☆ 登さんにぽち
2017.06.22
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NHKで、土曜日6:5から放送中の「みをつくし料理帖」を旅しております。「つる屋」から、劇作家の家を通り「世継ぎ稲荷」も見つけて、いよいよ澪さんの思い人のお宅「小野寺屋敷」を探しております。まぁ~江戸時代のお話で、勿論フィクションである事は、流石の私も存じておりますが・・・折角ここまで探して来たのですから、すっかり、下がり眉になった・・・私。きらり澪さんと同じ様に坂を登り終えて、確か?この先で、富士山が見えるロケーションが・・・あるはず!!すると、住所表記を見れば・・・富士見1丁目えっ、え・・・富士見2丁目絶対に「小野寺屋敷」は、この辺なのですが~駄目です~きらりさん!フィクションですよ~高田郁さんの九段中学校・白百合学園・日本歯科大学・・・・もしかして法政大学までは遠いとも?この辺りは、江戸城勤務の武家屋敷跡であります。明治御維新の忖度で・・・学校になったのでしょうか?千代田のお城の方へ・・・坂を下ると「靖国神社」の参道を横目で見ながら・・・ここは、明治になってからの世界「小野寺屋敷」は、靖国神社に吸い込まれて居るとも考えられますが、これ以上は、原作者=高田さんも、うやむやでしょう!?それならば、勤め先である「千代田のお城」江戸城を見に行きましょか~靖国通りの歩道橋を渡ります~良いお天気ですね♪でも、風邪がソヨソヨ気持ちが良いです~靖国通りを超えると・・・「田安門」が、田安門は、この右になります~真正面には、金の・・・「玉ねぎ頭」「武道館」が、見えます~千代田のお城の中に武道館を作ってしまって~それより、江戸城の天守閣を作って欲しかった・・・私きらり。おっお~っ!素晴らしいです。「田安門」・・・北の丸公園 重要文化財 旧江戸城 「田安門」 江戸城は、 長禄元年(1457年)に 太田道灌によって創られたとされる。 天上18年(1590年) 徳川家康の居城となり 文禄元年(1592年)から 大規模な改修が実施され 慶長12年(1607年)に天守閣が 寛永13年(1636年)に 総構(そうがまえ)が完成し 大城郭としての形が整えられた。 その後、明暦3年(1657年)をはじめ 数度の大火に見舞われたものの 城郭の規模は幕末までほぼ維持された。 田安門は、 北の丸公園に位置する桝形門(ますがたもん)であり 正面の高麗門(こうらいもん)と その右手奥の櫓門(やぐらもん)からなる。 門の創建年代は明らかではないが・・・ 現在の門は、 高麗門の扉釣金具に残る刻銘から 寛永13年に建てられたものであると考えられている。 しかし、櫓門の上部には 破損のため大正末期から 昭和にかけて撤去されていたものを 昭和36年~41年度の修理で 復旧整備したものである。 田安門は、 江戸城の総構完成当時に遡る 現存唯一の建物であり 高い価値を有している。 玉ねぎ頭の手前・・・城壁の石組に夢中にインスピレーション(^0^)もしや?これは、南米ペルー・インカ帝国の石組と?インカの「12角の石組」いやいや~これは、2011年訪問のペルーの石組です。そして、2017年1月訪問の「イースター島」イースター島の石組は、何時?誰が?何処から?しかし、偶然ですよね~江戸城の石組とお濠を見ながら、日本橋まで歩きましょう^♪お濠は、睡蓮で、いっぱいです~まだ2~3輪しか咲いていませんが、靖国通り沿いにお濠を下ると・・・九段下「俎橋」まないたばし・・・戻って来ました。「つる屋」は、スターバクスになっております。首都高速の下になってしまった橋を巡ってまいりましょう~(つづく)道案内は、献立帖より参照です。全巻10冊を読んで、いらっしゃらない方でもお勧めです♪「世界遺産」マークにぽち
2017.06.21
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時代小説を読んでおります(^O^)溝端淳平くん主演であります。NHK.BS時代劇で第二弾は、放送が終わったのですが藤沢周平先生の世界に入って3冊目 いよいよ面白くなって来て・・・ 2人のなかは、どうなるのでしょう? 気になりますね〜 4冊目完結を読み始めました(^_−)−☆ いそいそにぽち
2017.06.20
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NHKの放送が始ってから「みをつくし料理帖」全10巻を一気に読み終えて・・・江戸時代に旅をしたくなった私。「つる屋」から、澪ちゃんが、お店を開いた場所辺りを通り、劇作家の住んで居た住居後で井戸を見てから・・・前回=https://plaza.rakuten.co.jp/hoshinokirari/diary/201706180000/小野寺屋敷へと澪が、歩いた「中坂」を探して歩きました。もしかすると、この坂が・・・匂います。位置的には、ここが「中坂」のはず・・・信号が、青になったので、吸い込まれる様に横断歩道を渡ると「築土神社」の標識がっ!!??うう~ん!匂います~中坂の途中にあるはずの「世継ぎ稲荷」がもしかしたら、見つかるかも?しかし、この坂が・・・「中坂」であるかは半信半疑?ふと、白タイルの建築物・プレートに「・・中坂ビル」とやはり、ここは「中坂」だったのです。江戸時代には、中坂と呼ばれて今では、標識も住所表示にも無いけど・・・地元の人は、地名を残したいと「・・中坂ビル」と名づける!江戸時代は、武家屋敷だった一体でありますから現在の佇まいにもイメージとして受け継いでいる気が・・・「築土神社」・・・発見です。もしや?ここが・・・「世継ぎ稲荷」だとしたら?いやいや~そんな嬉しい事なんてマンションの谷間の中にある神社のお社は、新しいですネ。築地の方から移転してきた神社みたいです。なぁ~んだ!ちょっぴりガッカリして・・・右手を見ると赤い旗が、いっぱい私を読んで居ます↓「きゃ~~っ!」と、大声を上げた・・・きらり。しっしっし~~~~~っ。(お静かに)【世継ぎ稲荷】の文字がっ!えっえ~~っ、ありました!「化け物稲荷」が遠くなったので、近所の「世継ぎ稲荷」をお参りしたお話。実在したのですね~ところが、狭い狭い通路の先みたいです!頭をぶっつけないようにね~そろそろこの先の右にひときわ小さなお稲荷さんがっ「世継ぎ稲荷」です~正に野江ちゃんの顔に似た狐さんNHKの方もこれを見て作ったのか?と思う程のクリソツ!嬉しくて~パンパンと拝んでしまいました(^0^)V右脇には、小さな小さなお稲荷さんが・・・こちらが、江戸時代のかしら?なんて、詮索してしまいます。「力石」・・・力自慢を競った石らしいです。夫婦にも見れますけどね~♪いやいや~っ「世継ぎ稲荷」まで、見つけちゃいましたよ(^0^)b澪さんが、小野寺屋敷で、嫁入り行列を見て・・・泣きながら歩いた道ですよね;;富士山が、見える所が、あるはず!?江戸時代は、ビルが無いから・・・見えたはず。気になるのは、小野寺屋敷は何処?中坂を登り切って左側を見ると・・・なんと~「武道館」の玉ねぎ頭の金がっ!あれは、千代田のお城では、ありませんか、もう~ここを進むしかありません・・・(つづく)コンコンにぽち
2017.06.19
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藤沢 周平(ふじさわ しゅうへい)・・・とは?藤沢 周平ふじさわ しゅうへい1927年(昭和2年)12月26日 - 1997年(平成9年)1月26日)日本の小説家山形県鶴岡市出身本名、小菅 留治(こすげ とめじ)血液型はB型江戸時代を舞台に、庶民や下級武士の哀歓を描いた時代小説作品を多く残したとくに、架空の藩「海坂藩(うなさかはん)」を舞台にした作品群が有名である。長女遠藤展子は、エッセイスト2010年4月29日、出身地の鶴岡市に「鶴岡市立藤沢周平記念館」が開館した。【生い立ち】山形県東田川郡黄金村大字高坂字楯ノ下(現在の鶴岡市高坂)に生まれる。父小菅繁蔵と母たきゑの第四子(兄弟は順に繁美、このゑ、久治、留治、てつ子、繁治)実家は農家で、藤沢自身も幼少期から家の手伝いを通して農作業に関わり、この経験から後年農村を舞台にした小説や農業をめぐる随筆を多く発表することになる。郷里庄内と並んで農は、作家藤沢周平を考えるうえで欠くことのできない要素である。1934年(昭和9年)青龍寺尋常高等小学校入学(在学中に黄金村国民学校に改称。現在の鶴岡市立黄金小学校)小学校時代からあらゆる小説、雑誌の類を濫読し、登下校の最中にも書物を手放さなかった。また、6年生の頃には時代物の小説を書いた1938年(昭和13年)、11歳の時ひどい吃音に悩まされる1942年(昭和17年)、15歳の時、黄金村国民学校高等科を卒業し、山形県立鶴岡中学校(現在の鶴岡南高校)夜間部入学。昼間は印刷会社や村役場書記補として働いた。1945年(昭和20年)、18歳、「8月15日の終戦のラジオ放送を、わたしは役場の控え室で聞いた。……喜びもかなしみもなく、私はだだっぴろい空虚感に包まれていた。しばらくして、これからどうなるのだろうと思ったが、それに答えるひとは誰もいないこともわかっていた。」(第七巻月報)1946年に中学校を卒業後、山形師範学校[7](現在の山形大学)に進む一級上に無着成恭がいた。入学後はもっぱら文芸に親しみ、校内の同人雑誌『砕氷船』に参加した(このときの同人は蒲生芳郎、小松康裕、土田茂範、那須五郎、丹波秀和、松阪俊雄、小菅留治の7人、最初は自筆原稿の回覧、ポーの評伝を発表)。この時期の思いでは自伝『半生の記』に詳しく記されており、また小説作品にしばしば登場する剣術道場同門の友情などにも形を変えて描かれている。小菅は、二年生の夏と三年生の冬の二回肺炎になりかけた。二回目の時には意識不明の状態に陥っている。【教員時代】1949年、山形師範学校を卒業後、山形県西田川郡湯田川村立湯田川中学校(鶴岡市湯田川、現在は鶴岡市立鶴岡第四中学校へ統合)へ赴任し国語と社会を担当。1951年、『砕氷船』の後継誌である『プレリュウド』に参加した。優秀な教師として将来を嘱望され、教え子たちからも「体格がよく、スポーツマンで、色白で二枚目の素敵な先生」と慕われた。当時、この地方では師範学校卒の教師はエリートであり、順調な人生を歩み始めた。しかし、この年3月の集団検診で当時不治の病とされた肺結核が発見され、休職を余儀なくされる。1952年2月、東京都北多摩郡東村山町(現在の東村山市)の篠田病院に入院し、保生園病院において右肺上葉切除の大手術を受けた。予後は順調で、篠田病院内の句会に参加し、静岡県の俳誌『海坂』(百合山羽公、相生垣瓜人主宰)に投稿をおこなうようになる。北邨という俳号を用いた。またこの時期に大いに読書に励み、ことに海外小説に親しみ、作家生活の素地を完成させた。【記者時代】1957年、退院準備に入るものの思わしい就職先が見つからず、郷里で教員生活を送ることを断念。歴史研究家の大井篤の妹・晴の勧めにより練馬区貫井町に下宿して業界新聞に勤めはじめるも、倒産などが相次ぎ数紙を転々とする。1959年、三浦悦子と結婚。8歳年下の同郷者であった。1960年に株式会社日本食品経済社に入社、『日本食品加工新聞』の記者となる。以後作家生活に専念するまで同社に勤務、記者としての仕事は、本人の性にあっており、精力的に取材執筆を行う。のちに同紙編集長に昇進し、ハム・ソーセージ業界について健筆を振るい、業界の健全化に尽力した。コラム「甘味辛味」をほとんど一人で執筆。取材先の一つで日本ハム創業者で当時社長の大社義規とは信頼関係を結んだ。そのかたわら文学への情熱やみがたく、勤務のかたわらこつこつと小説を書きつづけていた。当時はもっぱら純文学を志していたらしい(1963年には、読売新聞短編小説賞に『赤い夕日』が選外佳作となった)。1963年、長女・展子が生まれ、清瀬市上清戸で間借り生活を始めるも、同年10月に妻・悦子が急性の癌により急死(28歳)。このことに強い衝撃を受け、同市内で引っ越しをしつつ、やり場のない虚無感をなだめるために時代小説の筆を執るようになる。主に大衆的な「倶楽部雑誌」に短編を発表(『藤沢周平 未刊行初期短編』に収録)。藤沢作品の初期に特徴的な、救いのない暗い雰囲気とヒロインの悲劇には、妻の死がつよく影響を与えていると思われる。翌年以降、毎年のようにオール讀物新人賞に投稿を始める。1965年から藤沢周平のペンネームを使いはじめた。「藤沢」は悦子の実家のある地名(鶴岡市藤沢)から、「周」の字は悦子の親族の名から採られている。【作家デビュー】妻の没後は、郷里から呼び寄せた母、長女との三人暮らしとなり、目の悪い母を看病しつつ育児を行い、編集長の激務の傍ら5年独身で過ごす。再婚話は中々まとまらなかった。1969年、高澤和子と再婚。長女とあわせて三人家族となり、疲労困憊していた家事から解放され、週末は小説執筆に専念できるようになった。1970年に東久留米市に引っ越しをし、翌年1971年、ついに『溟い海』が第38回オール讀物新人賞を受賞。直木賞候補となり、翌年『暗殺の年輪』で第69回直木賞。記者仲間や大社らに祝われ、編集長の傍ら新進の時代小説作家として認められるようになる。この年最初の作品集『暗殺の年輪』を文藝春秋より刊行し、翌1974年には日本食品経済社を退社して、本格的な作家生活に入る。この頃の自分の心境を、藤沢はこう述べている。「三十代のおしまいごろから四十代のはじめにかけて、私はかなりしつこい鬱屈をかかえて暮らしていた。鬱屈といっても仕事や世の中に対する不満といったものではなく、まったく私的なものだったが、私はそれを通して世の中に絶望し、またそういう自分自身にも愛想をつかしていた。(中略)(そういう鬱屈の解消方法が)私の場合は小説を書く作業につながった。「溟い海」は、そんなぐあいで出来上がった小説である。」「私自身当時の小説を読み返すと、少少苦痛を感じるほどに暗い仕上がりのものが多い。男女の愛は別離で終わるし、武士が死んで物語が終わるというふうだった。ハッピーエンドが書けなかった。」—(転機の作物)初期には自ら述べるように暗く重い作風であり、地味な作家であったが、1976年刊行の『竹光始末』、同年連載の『用心棒日月抄』のあたりから作風が変り、綿密な描写と美しい抒情性のうえにユーモアの彩りが濃厚となってきた。藤沢は、これについて 「『用心棒日月抄』あたりからユーモアの要素が入り込んできた。北国風のユーモアが目覚めたということだったかも知れない」(転機の作物、要約)と述べている。【円熟の作家として】1980年代前半、町人もので数多くの秀品をものする(『時雨みち』『霜の朝』『龍を見た男』などの短篇集に所収)一方で、大衆小説の本道ともいうべき娯楽色の強いシリーズもの(短篇連作)を次々と生みだす。刊行年によって挙げると、1980年に町人ものの『橋ものがたり』、捕物帳の『霧の果て-神谷玄次郎捕物控』、獄医立花登ものの第一作となる『春秋の檻-獄医立花登手控え』、『用心棒日月抄』の第二部『孤剣』、翌1981年にはユーモア色を生かした『隠し剣孤影抄』『隠し剣秋風抄』と立花登ものの第二作『風雪の檻』、1982年には同じく『愛憎の檻』、1983年には『用心棒日月抄』の系統を生かした『よろずや平四郎活人剣』、立花登第三作『人間の檻』、『用心棒日月抄』の第三作『刺客』などがある。1984年以降になると、こうしたシリーズもののほかに綿密な構成による長篇が登場し、物語性のつよい傑作が相次いで発表・刊行されるようになる。すでに1980年に唯一の伝奇小説『闇の傀儡師』、1982年に江戸のハードボイルドを狙ったといわれる彫師伊之助ものの第二作『漆黒の霧の中で-彫師伊之助捕物覚え』が上梓されているが、1984年には江戸を舞台にした恋愛小説『海鳴り』、1985年には武家青春小説とお家騒動ものの系譜の集大成ともいえる『風の果て』と伊之助もの第三作『ささやく河』が刊行され、いずれも高い人気を得た。1992年6月に、文藝春秋で『藤沢周平全集』を刊行開始した(全23巻、1994年4月完結)【晩年】1995年頃より、若いころの結核手術の際の輸血に際し罹患した肝炎により、1996年には入退院をくりかえす。1996年7月に帰宅した際、『文藝春秋』への連載が4月号より中断していた「漆の実のみのる国」結末部の6枚を執筆した。1997年1月26日、肝不全のため東京の病院で逝去した(69歳没)。戒名は藤澤院周徳留信居士、墓所は都営八王子霊園。没後、山形県県民栄誉賞と鶴岡市特別顕彰(鶴岡市名誉市民顕彰と同等)が贈られた。鶴岡藤沢周平文学愛好会が、毎年「寒梅忌」を開催している(祥月命日の前後)・・・ウィキペディア様より・・・読書にぽち
2017.06.17
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2冊目「風雪の檻」を読んでおります(^0^)~4月からNHK・BSプレミアムで放送していた「立花登青春手控え2」の原作です。全4巻獄医立花登手控え(二) 風雪の檻(ふうせつのおり)読書にぽち
2017.06.16
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NHKーBS時代劇で大河ドラマの次に放送されていた溝端 淳平くん主演の「立花登青春手控え2」の原作を読んでおります。原作は・・・藤沢周平作 獄医立花登手控え(一)春秋の檻(しゅんじゅうのおり)このシリーズは、全4巻で完結なので(楽)イケ面の「淳平くん」をイメージしながら読むのも楽しいです♪従妹の「ちえさん」困った江戸時代のヤンキー娘2人は、結婚するのでしょうかね?段々と良い感じになって・・・それが気になって読んでおります(^0^)b溝端 淳平・・・とは?溝端 淳平 みぞばた じゅんぺい 1989年6月14日生まれ )28歳 日本の俳優、タレント。 和歌山県橋本市出身。 エヴァーグリーン・エンタテイメント所属。 第19回ジュノン・スーパーボーイ・コンテストグランプリ。 NHK・BSドラマのHPhttp://www.nhk.or.jp/jidaigeki/tachibana2/ 【略歴】 2006年、6歳および7歳年上の2人の姉が応募したのがきっかけで 「第19回ジュノン・スーパーボーイ・コンテスト」で グランプリおよびボルテージ賞を受賞。 これにより歴代受賞者の中では最多となる 40社の芸能事務所から所属の勧誘を受ける。 その後は高校2年まで和歌山県で過ごし、上京。 2007年4月、 『世界ウルルン滞在記"ルネサンス"』の司会に選ばれる。 また同年同月、ドラマ 『生徒諸君!』の日下部和真役で俳優デビューする。 2008年、『ハチワンダイバー』でドラマ初主演を果たす また同年は、映画初出演作品となる 『DIVE!!』でも林遣都・池松壮亮とともに主演を務め、 映画でも初主演を果すこととなった。 2009年、国際ドラマフェスティバル in TOKYO2009において 「東京ドラマアウォード2009」新人賞を受賞。 また日経トレンディ「今年の顔」に選出される。 2010年3月5日、映画『赤い糸』で、 第33回日本アカデミー賞優秀新人賞を受賞。 『NECK』や『君が踊る、夏』等の主演映画の公開が続いた。 『君が踊る、夏』は初の単独主演映画となる。 2014年6月1日、声帯ポリープの切除手術を受けて 一週間ほど静養していたことをブログを通じてファンに告白。 全身麻酔による手術であったこと、 手術が無事に成功し 滑らかな声が出るようになった事などが報告されている。 2015年、蜷川幸雄演出による舞台『ヴェローナの二紳士』に主演、 自身のキャリア初の女性役を演じることになる。 2016年5月にはBS時代劇『立花登青春手控え』で時代劇初主演を務める。 【人物】 趣味、特技はソフトテニスと和太鼓、サッカー。 「ジュノン・スーパーボーイ・コンテスト」の最終審査では、 地元である和歌山県橋本市恋野地区の 法被を着て和太鼓を披露した。 目標の俳優はドラマ 『花ざかりの君たちへ~イケメン♂パラダイス~』で 共演した小栗旬、生田斗真 映画『DIVE!!』では飛込競技に挑戦した。 ほとんどの競技シーンは 本物の選手による吹き替えだったが、 「スワンダイブ」という手を広げてまっすぐに飛び込む技は、 溝端自身が挑戦し10メートルの高さから実際に飛び込む。 元東方神起でJYJのメンバーであるジェジュン、岡田将生、 東方神起のチャンミンやユンホとは友人である。 影響を受けた映画は『GO』。 セリフをすべて言えるくらい好きな作品。 「10代のころに抱く、特有の葛藤がすごくリアルに中学生時代の僕に伝わってきました。 山崎努(『GO』の主人公の父親役)さんの『広い世界を見ろ』というセリフが、 今でも僕の指針になっています。」と語っている。 朝井リョウの作品『脇役バトルロワイアル』(短編集『世にも奇妙な君物語』収録)は 溝淵淳平という名前の架空の役者を主人公とした短編小説だが、 一文字違いの名前からもわかる通り 溝端のパブリックイメージを作品内に導入した内容になっている。 ・・・ウィキペディア様より・・・読書にぽち
2017.06.15
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みをつくし料理帖を全巻10冊読み終えたので「みをつくし献立帖」を買いました(^0^)V普通の料理本の大きさより小さいのが特徴です。何でもみをつくし料理帖と本棚に並べられるように!との書店員のアドバイスからだそうです。イメージだけで読み進んだお料理が、カラーページで見れた事が嬉しかったです。つるやの場所なども説明があり・・・今度、行ってみようかと?みをつくし献立帖帯封のイラストは、作者自身の描いたイラストなのだとか・・・ これで、全て完読致しましたが、大阪に戻った澪ちゃんのお話、書いて欲しいですね~高田さん!続編をお願いいたします。読書にぽち
2017.06.12
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みをつくし料理帖の中に出てきた料理を作りました(^O^)大根を一日干して油で焼くだけのお料理です。 本の中では、お弁当に入れていましたが その後におつまみにも人気になったメニュー 大根を洗ってから皮ごと1センチくらいに切って 一日干します〜大きさは、半分に縮む 江戸時代みたいな笊で干しました(^O^) ごま油で焼いて、裏返し じっくり火が通ったら 味醂と醤油各々小さじ1を回しかけて 山椒をふって出来上がり〜 大根は、干すと栄養価が増すそうです。 大根にぽち
2017.06.11
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もうもう~第1回の放送があってから・・・読み始めた私。やっと10冊を、たった今、読み終えた所です。今日の放送は、4話目ですね(^-^)Vウキウキ みをつくし料理帖・・・10冊目天の梯(てんのかけはし)読書にぽち
2017.06.10
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いやいや~とうとう10冊目・完結であります~発行が1年以上も遅れた9冊目「美雪晴れ」は、私も苦戦であり完読に2日間も要してしまいました!やっとですよ~10冊目に手が(^0^)ウキウキ♪ みをつくし料理帖・・・10冊目「天の梯」 食は、人の天なり 口から摂るものだけが、人の体を作る 澪さんの心は、既に決まっているのでしょう? 空を舞う澪さん!天に虹がある表紙・・・悩みは、全て解決できるのでしょうね?そうそう・・・お話が完結してしまうあああああ・・・江戸時代への旅も終わるのですね。読書にぽち
2017.06.08
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雲行きがパッとしないですね~朝から薔薇の手入れをして少し疲れ気味ですが、気になってしまう本を今日も読んで、のんびり過ごそうと思うのあります(^-^)b時代小説「みをつくし料理帖」美雪晴れまだまだ色々とありそうな9冊目であります。澪ちゃん頑張れ~!芳さんの行く道は、決まったかな?最後は、全部がハッピーで終わるのでしょうがこれ以上、死んでしまう人が、ありませんように~ドキドキ読書にぽち
2017.06.06
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NHK時代劇「みをつくし料理帖」昨日の放送~イメージ通りのドラマに満足でありました(^0^)V私の読書は、8冊目「残月」を読み始めました~あと3冊で完結。終わってしまうなんて;;まぁ~10年以上前から創刊し当時は、一年に2冊の発行だと聞くと・・・何と~待ち遠しかったことでしょうか?私ときたら、毎日1冊ストーリーを楽しみドキドキ・ワクワク・・・・泪ほろりに・大爆笑で読めるなんて~申し訳なく思うのであります。読書にぽち
2017.06.04
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NHK「みをつくし料理帖」第3回の放送がある土曜日ですね~♪めっちゃ~楽しみです(^0^)V私は、やっと7冊目「夏天の虹」を読み始めた所。もうもう~6冊目のプロポーズにはドキドキが、止まりませんでしたよ!良かったと思っていたら・・・何?何・・・何でそうなるんや!いやいや~この本を読んでいると大阪弁が、出てしまう!そして、江戸時代の江戸弁でブツブツ独り言。あかん~かんですわ・・・NHKのドラマ放送は、今日の夕方6:05からです。今日は・・・「三つ葉づくし」お庭に、いっぱい生えている三つ葉参考になるのでしょうか?ふふふっ。NHK・HP=みをつくし料理帖へぽち。読書にぽち押してネ
2017.06.03
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みをつくし料理帖の忍び瓜を作りました(^O^) 忍び瓜は、叩いて割るのですがっ! 私は、江戸時代の武士じゃないので 普通に回し切りしちゃいました(^_−)−☆ まぁまあ〜硬いことは、言わないで パリパリ(^O^)食べましょう🎵 忍び瓜レシピ キュウリ3本 調味液 ごま油=小さじ1 砂糖=小さじ1 酢=大さじ2.5 醤油=大さじ2.5 出汁=50cc 鷹の爪=適宜 作り方 きゅうりを板ずりして 棒で叩く ヘタを落とし 4等分〜5等分にして 鷹の爪は、種を取り小口切り きゅうりをサッと湯でて ザルに上げて 熱々のうちに調味液液に漬ける 一時間以上漬けて冷やしてから 召し上がれ! 白ごまをトッピングに(^O^) 今日のランチは、頑張りました〜豪華!? みをつくし料理帖6冊目、心星ひとつ読んでおります〜🎵 ありえねぇにぽち
2017.06.02
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今日から6月となりました(^0^)夜明け前から雨がザァ~ッと降った東京郊外であります。毎日、1冊づつ読んでいる「みをつくし料理帖」も6冊目・・・恋のドキドキと共に読み進んでおりますがっ!!心星ひとつ江戸時代・文化12年の旧暦6月頃のお話です。澪さんと思い人の会話にドキドキが止まりません!結ばれない恋である事。それでも、いつかは幸せになるストーリーである事を願いながら・・・読書にぽち
2017.06.01
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文化12年の春。いよいよ、お話も中盤になって来ました(^0^)お料理好きな私、この本にのめり込んでしまって~江戸時代の庶民の食べ物に対する心に感心するばかりであります♪そして、いよいよ気になる真相!そして事件に?ドキドキ5冊目は・・・「小夜しぐれ」読書にぽち
2017.05.31
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今日は、暑くなりそうなのですよね~紫陽花の蕾もポツポツと顔を見せてくれております~もう梅雨が近いのですね~私の「読書」は、時代物「みをつくし料理帖」全10巻の4冊目「今朝の春」の世界に参ろうと思います♪もう~悲しい事が起きません様に!!読書にぽち
2017.05.29
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みをつくし料理帖を読んでおります~3冊目は「想い雲」ますます面白くなって来ました(^0^)♪そして彼女が考え出すお料理を試してみたくなるのでありますが・・・シリーズは、10巻なので、まだまだ楽しめそうです。「想い雲」高田郁さんMIOにぽち
2017.05.28
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花散らしの雨 みをつくし料理帖・・・2冊目も1日で完読(^0^)泣いたり笑ったり!!ドキドキしたり~しながら♪NHKの放送は、今日は・・・お休みです。第3回は、2017年6月3日(土)午後6:05からだそうです。せめてそれまでに5冊を読み終えたい♪読書にぽち
2017.05.27
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最近。土曜日の6:05から放送している「みをつくし料理帖」を読み始めて・・・止まらなくなっています。第1作目は↓八朔の雪(う~ん。1日で読んでしまい次々と買い込んでおります♪)みをつくし料理帖・・・とは? 『みをつくし料理帖』みをつくしりょうりちょう 髙田郁による日本の時代小説シリーズ。 全10巻。 ハルキ文庫(角川春樹事務所)より 2009年5月に第1作『八朔の雪 みをつくし料理帖』が刊行され、 2014年8月刊行の第10作『天の梯 みをつくし料理帖』にて完結した。 2012年および2014年にテレビ朝日にて 北川景子主演でスペシャルドラマ化 2017年にはNHKにて 黒木華主演で連続ドラマ化される。 江戸に出てきた大坂出身の料理人・澪が、 東西の味の好みや水の違いに苦心しつつも徐々に道を切り拓き、 料理を通じて人を幸せにしていく姿を描く 作中には江戸の食事情が盛り込まれ、 作中に登場する料理を著者が試行錯誤を重ねつつ 実際に作ったレシピを「澪の料理帖」と題し巻末に収録している 大坂と江戸の対比は、 兵庫県で生まれ育った著者が進学のため上京し 「8枚切りの食パンや 「中濃ソースをを初めて目にして 驚きを感じた実体験がベースとなっており、 「江戸時代ならさぞや」と思いを馳せて、 大坂から江戸に出てきた主人公の 「初めての江戸」の体験を読者が一 緒に楽しめるようにと作品が構想された。 大阪と東京を往復ししつつ それぞれの図書館の資料や 司書・学芸員への取材をもとに時代考証を行い、 作中に登場する料理は 著者自身がすべて実際に作り再現している。 原稿を担当編集者に送付する際に 料理写真を添付したところ 「お腹が空きます」「美味しそうです」 と言われたことをきっかけに、 「それならレシピもつけましょうか」と 巻末にレシピ集「澪の料理帖」を収録するに至った。 第1作の刊行当初より書店員からの支持を受け、 2009年の「歴史・時代小説ベスト10」(『週刊朝日』)、 「最高に面白い本大賞! 文庫・時代部門」(『一個人』)、 「第2回R-40本屋さん大賞 文庫部門」(『週刊文春』)において第1位を獲得。 30~60代女性を主な読者層として版を重ね、 シリーズ累計の発行部数が190万部を突破した 2012年には『この時代小説がすごい!文庫書き下ろし版』(宝島社)で第1位となり、 テレビ朝日にて北川景子主演によりテレビドラマ化 全10巻で300万部を超える大ヒットシリーズとなった[6]。 【あらすじ】 享和2年(1802年)の水害で両親を亡くし 天涯孤独の身となった少女、澪は、 大坂随一の名店と謳われる料理屋「天満一兆庵」の女将、 芳に助けられ奉公人として勤め始める。 やがて天性の味覚を主人の嘉兵衛に見込まれた澪は、 厳しい修業に耐え、着実に腕を磨いていくが、 隣家からの延焼で店は焼失してしまう。 江戸店を任せていた息子の佐兵衛を頼って江戸へ出た3人を待ち受けていたのは、 佐兵衛が吉原通いで散財し店を潰し、行方をくらませているという報せだった。 度重なる心労により、 嘉兵衛は「天満一兆庵」の再興を澪と芳に託して亡くなってしまう。 店の再興と佐兵衛の行方探しを胸に、 慣れぬ土地で芳と暮らしながら働き始めた澪は、 「祟る」と噂され荒れ果てた小さな稲荷を1人で整えた姿を見込まれ、 蕎麦屋「つる家」の主人・種市に店で働かないかと誘われる。 上方との味の違いから、当初は澪の作る料理は評判が良くなかったが、 様々な人の助けを得て様々な新しい料理を考案し、 愛し合った小松原との別れや、 料理人仲間である又次の死などの悲しみを乗り越えながら、 「つる家」を江戸で評判の店へと成長させていく。 そんな中、澪は、 吉原で幻の花魁と呼ばれているあさひ太夫が、 水害で行方不明になった幼なじみ、 野江であることを知る。 いつしか澪は、自分の料理で評判を取り、 その売り上げであさひ太夫を身請けするという、 とてつもない夢を抱くようになる。 そして、その夢の実現のため、 「つる家」を辞めて新しい道に進むことになった。 「つる家」を離れた澪は、 あさひ太夫の客である摂津屋らの力を借り、 あさひ太夫を吉原から取り戻すことに成功する。 澪は、野江に戻ったあさひ太夫と、 長年澪に恋心を寄せ、 見守ってくれていた医師の源斉とともに 故郷である大坂へ戻り、 新しい人生を切り開くこととなった。 NHK=HP http://www.nhk.or.jp/jidaigeki/miwotsukushi/ 【シリーズ一覧】 角川春樹事務所〈ハルキ文庫〉より刊行されている。 各巻の巻末には、各話で取り上げられる料理のレシピ 「澪の料理帖」が掲載されている。 1.八朔の雪 みをつくし料理帖(2009年5月15日発売、ISBN 978-4-75843403-4) 狐のご祝儀―ぴりから鰹田麩……文化9年11月の話 八朔の雪―ひんやり心太……文化10年8月の話 初星―とろとろ茶碗蒸し……同年9月~11月の話 夜半の梅―ほっこり酒粕汁……同年12月~文化11年1月の話 2.花散らしの雨 みをつくし料理帖(2009年10月15日発売、ISBN 978-4-75843438-6) 俎橋から―ほろにが蕗ご飯……文化11年春の話 花散らしの雨―こぼれ梅……同年3月の話 一粒符―なめらか葛饅頭……同年4月の話 銀菊―忍び瓜……同年5月の話 3.想い雲 みをつくし料理帖(2010年3月15日発売、ISBN 978-4-75843464-5) 豊年星―「う」尽くし……文化11年6月の話 想い雲―ふっくら鱧の葛叩き……同年6月~8月の話 花一輪―ふわり菊花雪……同年8月~9月の話 初雁―こんがり焼き柿……同年10月の話 4.今朝の春 みをつくし料理帖(2010年9月15日発売、ISBN 978-4-75843502-4) 花嫁御寮―ははきぎ飯……文化11年10月の話 友待つ雪―里の白雪……同年11月の話 寒紅―ひょっとこ温寿司……同年11月~12月の話 今朝の春―寒鰆の昆布締め……同年12月の話 5.小夜しぐれ みをつくし料理帖(2011年3月15日発売、ISBN 978-4-75843528-4) 迷い蟹―浅蜊の御神酒蒸し……文化12年1月~2月の話 夢宵桜―菜の花尽くし……同年2月~3月の話 小夜しぐれ―寿ぎ膳……同年3月~5月の話 嘉祥―ひとくち宝珠……同年5月の話 6.心星ひとつ みをつくし料理帖(2011年8月10日発売、ISBN 978-4-75843584-0) 青葉闇―しくじり生麩……文化12年6月~7月の話 天つ瑞風―賄い三方よし……同年8月の話 時ならぬ花―お手軽割籠……同年9月の話 心星ひとつ―あたり苧環(おだまき)……同年10月の話 7.夏天の虹 みをつくし料理帖(2012年3月15日発売、ISBN 978-4-75843645-8) 冬の雲雀―滋味重湯……文化12年11月~12月の話 忘れ貝―牡蠣の宝船……文化13年1月~2月の話 一陽来復―鯛の福探し……同年3月の話 夏天の虹―哀し柚べし……同年4月~5月の話 8.残月 みをつくし料理帖(2013年6月15日発売、ISBN 978-4-7584-3745-5) 残月―かのひとの面影膳……文化13年6月~7月の話 岸まで―慰め海苔巻……同年7月~閏8月の話 みくじは吉―麗し鼈甲珠……同年閏8月~9月の話 寒中の麦―心ゆるす葛湯……同年9月~10月の話 秋麗の客 (特別収録)……同年9月の話 9.美雪晴れ みをつくし料理帖(2014年2月18日発売、ISBN 978-4-7584-3804-9) 神帰月―味わい焼き蒲鉾……文化13年11月の話 美雪晴れ―立春大吉もち……同年12月~文化14年1月の話 華燭―宝尽くし……同年1月~2月の話 ひと筋の道―昔ながら……同年2月の話 富士日和 (特別収録)……同年2月の話 10.天の梯 みをつくし料理帖(2014年8月9日発売、ISBN 978-4-7584-3839-1 この巻をもって完結となる) 結び草―葛尽くし……文化14年8月の話 張出大関―親父泣かせ……同9月~12月の話 明日香風―心許り……文化15年1月~2月の話 天の梯―恋し栗おこし……同年3月~文政元年4月の話読書にぽち
2017.05.26
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発売当初、本屋さんで山積みにされていた火花 ざっと、立ち読みして以来、買わずにおりましたが 職場で、貸して下さる方がいて、 一気に読み終え( ^ω^ )ました🎵 吉祥寺が、地元の私ですから 井の頭公園や、ハモニカ横丁に 喫茶店など知っている場所ばかり 吉祥寺から石神井に歩く道にも住んでいたし 渋谷に三軒茶屋は、 学生時代の思い出がある街 話の全てが、懐かしさたっぷり 若手漫才師が、火花を散らす特殊な世界 出てくる場所は、実在してるし 話した内容も作り物とは思えない! そんな感じで、楽しく読ませて頂きました。 お借りした火花 布カバーを付けて返却です〜( ^ω^ )可愛い? 又吉さんにぽち
2015.08.18
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3ヶ月くらい前に読み始めた本です~ミステリーの長編『その女アレックス』ピエール・ルメートル作(フランス)最初から、内容が怖すぎて・・・直ぐに休憩(挫折)舞台は、パリ謎の女「アレックス」が誘拐され恐ろしい場所に、恐ろしい方法で監禁される!・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・もう〜怖すぎて(すぐに)読むのが怖くなり3ヶ月程、置いていまいましたが思い立ち再度、読み始めたらもっと、もっと怖かった!!でも止まらなくなり・・・一気に完読( ^ω^ )いやいや〜凄いです!今まで読んできたミステリーは、甘いね!!!と、思わせる恐らく日本では、これほどのミステリーに出会わないかも?この小説は、映画化されるみたいですが!?15歳未満は、駄目でしょうね〜きっと怖すぎます〜でも、大丈夫な方には、オススメ☆☆☆☆☆ピエール・ルメートルさんの作品あと3作品・・・読みたくなりましたが勇気をもう少し養ってから、ですね( ^ω^ )にぽち
2015.06.09
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今度は・・・洋物のサスペンスです(^-^)Vアレックスさんが、誘拐されるお話です!少しスピード・ダウンして・・・ゆっくり読もうと考えていますがスイッチ・・・入ると、どうでしょう?サスペンスにぽち
2015.03.15
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ソロモンの偽証6冊、全て読み終えました\(^o^)/とっても、お勧めです〜お話は、ある中学校で、生徒が、不信死を遂げた事から始まります。学校側と、生徒、家族にマスコミと話は、それぞれ興味が深まります。私は、身近に中学生が存在しませんし世代的にも、かなり上ではありますがそれでも、ストーリーにのめり込みました〜大人になったからこその違った視野から、このミステリーに入って、ワクワクするのでしょうね〜私は、ぜひ現役の中学生に読んで欲しい!家族の事とか、考えてみてどうでしょうか?学校とは、何だろう?表紙が、アニメにしたのは、作者が、本当に読んで欲しいのは現役の中学生だったのかも知れません!そして、真犯人は?そうそう〜そうです!ダメダメ・・・そして20年後のお話もo(^▽^)oソロモン王にぽち
2015.03.13
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宮部みゆきさんソロモンの偽証6冊目いよいよ真犯人が・・・ドキドキです!596ページズッシリと楽しみながら、さてさて、真実に一歩づつ\(^o^)/ 最後の1冊にぽち
2015.03.10
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「ソロモンの偽証」宮部みゆき著も5冊目・法廷上(^0^)面白いです~♪柏木卓也の好きだった絵画は、ブリューゲルの「絞首台の上のカササギ」ムムムム・・・・ブリューゲルの中でも楽しく無いこの絵画が好きだと言う(柏木卓也)中学2年生・・・やはり・・・やばぁ~くなった予感しかし・・・サスペンスは、ますます面白くなって★★★★★流石~宮部みゆきさんですね 卓也にぽち
2015.03.09
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まぁ〜今日も読んでおります。ソロモンの偽証だって〜いよいよ学校での裁判が始まったのですもの、読まずには、おれません!なるほど・・・これまで読み進んで良かったですね〜ますます、面白くなります〜うーーーっ!面白くなると、読むのが、勿体無くなる私。変な性格です、全くもって大作を読み終えたい!と、考える事と読み終えて全てが、明らかにされてしまうチョット、楽しみを継続させたいと・・・願う中途半端な気持ち、あっと、私だけですねきっと今夜は、程々に読書といきますo(^▽^)o読書にぽち
2015.03.08
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今日は、ほぼ1日・・・「ソロモンの偽証」4冊目を読んでおりました(^0^)Vサスペンスは、気になってしまって・・・駄目ですね!宮部みゆきさんの大作ですから~4冊目は、決意 下 うううう~真実を知りたい!! ええええ~映画では、死体を発見するのは 涼子なんだぁ~ それって・・・駄目ですよ! どう考えます? あと、2冊・・・ドキドキ5冊目は・・・564ページ 日曜日・・・だけでは、無理かな? 涼子にぽち
2015.03.07
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ソロモンの偽証 3 宮部みゆきさん著・・・読み耽っております♪仕事を家に持ち帰ったりで・・・3冊目が、長引いてしまいましたが・・・やっと読み終えました(^-^)V またまたブックカバーを作って読書を楽しんでおります〜いよいよ真実に迫って・・・きたのでしょうか? 新しい証言がっ・・・4冊目に、ドキドキ 藤野さんにぽち
2015.03.04
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『ソロモンの偽証』・・・一週間で、2冊目まで、読みました\(^o^)/ほぅ・・・あと4冊です!映画化されて、もうじき封切りですが、きっと、映画より本の方が面白いはずo(^▽^)oふ、ふふぅ〜やっぱ、あの子が殺されました!・・・中学生が、殺される!? 未成年の殺人事件か? いやいや~現実のニュースでも、 不登校に・・・殺人事件ちょっと、嫌な話。 かぶってます!出てくる人物像の描き方が・・・ お見事です!宮部さん・・・流石 だから興味を、深めざるを得ない!さてさて、これから中学校で、裁判が始まりますね〜ドキドキしかし、仕事が忙しくて読む時間が、とれない〜ソロモンの偽証の意味まだ、判明せず分厚い本が、嬉しい世界に連れて行ってくれます!いざいざ・・・未成年にぽち
2015.02.24
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昨日、読んだ本は『ソロモンの偽証』宮部みゆきさん著前から気になっては、いたものの・・・500ベージ以上で・・・全6巻どうも手が出なかったのですが、間も無く映画封切りと聞けば読まねばなりません!前6巻o(^▽^)o・・・大人買い!まず、一冊目〜完読o(^▽^)oあまりにも、ミーハー過ぎて恥ずかしいので・・・今回の本はしおりのリボンが・・・付いてるのでしおり、無しのブックカバーを縫いました!2冊分、ついでに作りました\(^o^)/どうでしょうか?つうかーぁ!本の内容は、中学校で生徒が不審死するおはなし・・・ 勿論o(^▽^)o面白いです〜お勧め 2冊目は、更に誰かが・・・死ぬ? おおお・・・・心配です! ドキドキあの子かな? ミステリーにぽち
2015.02.20
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