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藤沢 周平(ふじさわ しゅうへい)・・・とは?
藤沢 周平
ふじさわ しゅうへい
日本の小説家
山形県鶴岡市出身
本名、小菅 留治(こすげ とめじ)
血液型はB型
江戸時代を舞台に、
庶民や下級武士の哀歓を描いた時代小説作品を多く残した
とくに、架空の藩「海坂藩(うなさかはん)」を舞台にした作品群が有名である。
長女遠藤展子は、エッセイスト
2010年4月29日、出身地の鶴岡市に「鶴岡市立藤沢周平記念館」が開館した。
【生い立ち】
山形県東田川郡黄金村大字高坂字楯ノ下(現在の鶴岡市高坂)に生まれる。
父小菅繁蔵と母たきゑの第四子
(兄弟は順に繁美、このゑ、久治、留治、てつ子、繁治)
実家は農家で、
藤沢自身も幼少期から家の手伝いを通して農作業に関わり、
この経験から後年農村を舞台にした小説や
農業をめぐる随筆を多く発表することになる。
郷里庄内と並んで農は、作家藤沢周平を考えるうえで欠くことのできない要素である。
1934年(昭和9年)
青龍寺尋常高等小学校入学(在学中に黄金村国民学校に改称。
現在の鶴岡市立黄金小学校)
小学校時代からあらゆる小説、雑誌の類を濫読し、
登下校の最中にも書物を手放さなかった。
また、6年生の頃には時代物の小説を書いた
1938年(昭和13年)、11歳の時ひどい吃音に悩まされる
1942年(昭和17年)、15歳の時、黄金村国民学校高等科を卒業し、
山形県立鶴岡中学校(現在の鶴岡南高校)夜間部入学。
昼間は印刷会社や村役場書記補として働いた。
1945年(昭和20年)、18歳、
「8月15日の終戦のラジオ放送を、わたしは役場の控え室で聞いた。
……喜びもかなしみもなく、私はだだっぴろい空虚感に包まれていた。
しばらくして、これからどうなるのだろうと思ったが、
それに答えるひとは誰もいないこともわかっていた。」(第七巻月報)
1946年に中学校を卒業後、
山形師範学校[7](現在の山形大学)に進む
一級上に無着成恭がいた。
入学後はもっぱら文芸に親しみ、
校内の同人雑誌『砕氷船』に参加した
(このときの同人は蒲生芳郎、小松康裕、土田茂範、那須五郎、
丹波秀和、松阪俊雄、小菅留治の7人、最初は自筆原稿の回覧、ポーの評伝を発表)。
この時期の思いでは自伝『半生の記』に詳しく記されており、
また小説作品にしばしば登場する剣術道場同門の友情などにも形を変えて描かれている。
小菅は、二年生の夏と三年生の冬の二回肺炎になりかけた。
二回目の時には意識不明の状態に陥っている。
【教員時代】
1949年、山形師範学校を卒業後、
山形県西田川郡湯田川村立湯田川中学校(鶴岡市湯田川、
現在は鶴岡市立鶴岡第四中学校へ統合)へ赴任し
国語と社会を担当。
1951年、『砕氷船』の後継誌である『プレリュウド』に参加した。
優秀な教師として将来を嘱望され、
教え子たちからも「体格がよく、スポーツマンで、色白で二枚目の素敵な先生」と慕われた。
当時、この地方では師範学校卒の教師はエリートであり、順調な人生を歩み始めた。
しかし、この年3月の集団検診で当時不治の病とされた肺結核が発見され、
休職を余儀なくされる。
1952年2月、
東京都北多摩郡東村山町(現在の東村山市)の篠田病院に入院し、
保生園病院において右肺上葉切除の大手術を受けた。
予後は順調で、篠田病院内の句会に参加し、
静岡県の俳誌『海坂』(百合山羽公、
相生垣瓜人主宰)に投稿をおこなうようになる。
北邨という俳号を用いた。
またこの時期に大いに読書に励み、
ことに海外小説に親しみ、
作家生活の素地を完成させた。
【記者時代】
1957年、退院準備に入るものの思わしい就職先が見つからず、
郷里で教員生活を送ることを断念。
歴史研究家の大井篤の妹・晴の勧めにより
練馬区貫井町に下宿して業界新聞に勤めはじめるも、
倒産などが相次ぎ数紙を転々とする。
1959年、三浦悦子と結婚。8歳年下の同郷者であった。
1960年に株式会社日本食品経済社に入社、
『日本食品加工新聞』の記者となる。
以後作家生活に専念するまで同社に勤務、
記者としての仕事は、本人の性にあっており、
精力的に取材執筆を行う。
のちに同紙編集長に昇進し、
ハム・ソーセージ業界について健筆を振るい、
業界の健全化に尽力した。
コラム「甘味辛味」をほとんど一人で執筆。
取材先の一つで日本ハム創業者で
当時社長の大社義規とは信頼関係を結んだ。
そのかたわら文学への情熱やみがたく、
勤務のかたわらこつこつと小説を書きつづけていた。
当時はもっぱら純文学を志していたらしい
(1963年には、読売新聞短編小説賞に『赤い夕日』が選外佳作となった)。
1963年、長女・展子が生まれ、
清瀬市上清戸で間借り生活を始めるも、
同年10月に妻・悦子が急性の癌により急死(28歳)。
このことに強い衝撃を受け、
同市内で引っ越しをしつつ、
やり場のない虚無感をなだめるために
時代小説の筆を執るようになる。
主に大衆的な「倶楽部雑誌」に短編を発表
(『藤沢周平 未刊行初期短編』に収録)。
藤沢作品の初期に特徴的な、救いのない暗い雰囲気とヒロインの悲劇には、
妻の死がつよく影響を与えていると思われる。
翌年以降、毎年のようにオール讀物新人賞に投稿を始める。
1965年から藤沢周平のペンネームを使いはじめた。
「藤沢」は悦子の実家のある地名(鶴岡市藤沢)から、
「周」の字は悦子の親族の名から採られている。
【作家デビュー】
妻の没後は、郷里から呼び寄せた母、長女との三人暮らしとなり、
目の悪い母を看病しつつ育児を行い、
編集長の激務の傍ら5年独身で過ごす。
再婚話は中々まとまらなかった。
1969年、高澤和子と再婚。
長女とあわせて三人家族となり、
疲労困憊していた家事から解放され、
週末は小説執筆に専念できるようになった。
1970年に東久留米市に引っ越しをし、
翌年1971年、ついに
『溟い海』が第38回オール讀物新人賞を受賞。直木賞候補となり、
翌年『暗殺の年輪』で第69回直木賞。
記者仲間や大社らに祝われ、
編集長の傍ら新進の時代小説作家として認められるようになる。
この年最初の作品集『暗殺の年輪』を文藝春秋より刊行し、
翌1974年には日本食品経済社を退社して、本格的な作家生活に入る。
この頃の自分の心境を、藤沢はこう述べている。
「三十代のおしまいごろから四十代のはじめにかけて、
私はかなりしつこい鬱屈をかかえて暮らしていた。
鬱屈といっても仕事や世の中に対する不満といったものではなく、
まったく私的なものだったが、私はそれを通して世の中に絶望し、
またそういう自分自身にも愛想をつかしていた。
(中略)
(そういう鬱屈の解消方法が)私の場合は小説を書く作業につながった。
「溟い海」は、そんなぐあいで出来上がった小説である。」
「私自身当時の小説を読み返すと、
少少苦痛を感じるほどに暗い仕上がりのものが多い。
男女の愛は別離で終わるし、
武士が死んで物語が終わるというふうだった。
ハッピーエンドが書けなかった。」
—(転機の作物)
初期には自ら述べるように暗く重い作風であり、
地味な作家であったが、
1976年刊行の『竹光始末』、
同年連載の『用心棒日月抄』のあたりから作風が変り、
綿密な描写と美しい抒情性のうえにユーモアの彩りが濃厚となってきた。
藤沢は、これについて
「『用心棒日月抄』あたりからユーモアの要素が入り込んできた。
北国風のユーモアが目覚めたということだったかも知れない」
(転機の作物、要約)と述べている。
【円熟の作家として】
1980年代前半、
町人もので数多くの秀品をものする
(『時雨みち』『霜の朝』『龍を見た男』などの短篇集に所収)一方で、
大衆小説の本道ともいうべき娯楽色の強いシリーズもの(短篇連作)を次々と生みだす。
刊行年によって挙げると、
1980年に町人ものの『橋ものがたり』、
捕物帳の『霧の果て-神谷玄次郎捕物控』、
獄医立花登ものの第一作となる『春秋の檻-獄医立花登手控え』、
『用心棒日月抄』の第二部『孤剣』、
翌1981年にはユーモア色を生かした『隠し剣孤影抄』『隠し剣秋風抄』
と立花登ものの第二作『風雪の檻』、
1982年には同じく『愛憎の檻』、
1983年には『用心棒日月抄』の系統を生かした
『よろずや平四郎活人剣』、
立花登第三作『人間の檻』、
『用心棒日月抄』の第三作『刺客』などがある。
1984年以降になると、
こうしたシリーズもののほかに綿密な構成による長篇が登場し、
物語性のつよい傑作が相次いで発表・刊行されるようになる。
すでに1980年に唯一の伝奇小説『闇の傀儡師』、
1982年に江戸のハードボイルドを狙ったといわれる彫師伊之助ものの
第二作『漆黒の霧の中で-彫師伊之助捕物覚え』が上梓されているが、
1984年には江戸を舞台にした恋愛小説『海鳴り』、
1985年には武家青春小説とお家騒動ものの系譜の集大成ともいえる
『風の果て』と伊之助もの第三作『ささやく河』が刊行され、
いずれも高い人気を得た。
1992年6月に、文藝春秋で『藤沢周平全集』
を刊行開始した(全23巻、1994年4月完結)
【晩年】
1995年頃より、若いころの結核手術の際の輸血に際し罹患した肝炎により、
1996年には入退院をくりかえす。
1996年7月に帰宅した際、
『文藝春秋』への連載が4月号より中断していた
「漆の実のみのる国」結末部の6枚を執筆した。
1997年1月26日、
肝不全のため東京の病院で逝去した(69歳没)。
戒名は藤澤院周徳留信居士、墓所は都営八王子霊園。
没後、山形県県民栄誉賞と鶴岡市特別顕彰(鶴岡市名誉市民顕彰と同等)が贈られた。
鶴岡藤沢周平文学愛好会が、
毎年「寒梅忌」を開催している(祥月命日の前後)
・・・ウィキペディア様より・・・
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