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little island walking,
一歩目/約束、
「あら、来よった」
ゆるい速度でやってきたバスが止まり、母が先に乗り込む。優里も少し高すぎるステップを踏んでうす暗い車内に身を入れた。午後三時過ぎのバスは、がらんどうの空間で、親子は自由に座席を選ぶことができた。
「住吉学校前」を出ると、まっすぐの道路をバスは進む。ゆっくりと速度を上げはじめた車窓から優里の家が見える。木造の、どこにでもある平屋。停留所からほとんど距離のない向かいに位置し、夕刻ともなれば、通学に利用する高校生達で歩道はいっぱいになる。しかし、国道十号線のバイパスとしてできたこの道は、まわりを田畑にはさまれて、なにもない単純な景色だった。
青空を受けて反射するアスファルトの灰色が、どこまでも遠くに一本繋がっているかと思うと、突然のように十字路が現れて進行の邪魔をする。景色は、父の車でみるそれよりも遅く、退屈に感じられた。
「おじいちゃんちに行ったら、元気よく挨拶するとよ」
いちばん後ろの座席に腰を落ち着かせた母は、隣に小さく坐っている娘に云った。
「それからお焼香をすっときは、きちんと手を合わせるっちゃかいね」
「分かっちょるが」
初乗り百八十円のバスは、「日章学園前」で六十円上がった。早めに授業の終わった生徒達が、数人乗り込んでくる。男子生徒の日に焼けた素肌と、少し汗臭い匂いが車内にこもる。母は、おもむろに窓を開け、生ぬるい風に艶やかな黒髪を揺らした。優里の頬を、滑るように夏の終わりがささやいている。
「優里、お参り済んだらすぐに帰るかいね。あっちでだらだらせんでよ」
「でも、ばあちゃん、いつもお茶いれてすわんないって云うわあ」
「帰って御飯の準備もせんといかんがね」
「ばあちゃん夕ごはんいっしょに食べよって云うよ?たまには食べて帰ればいいっちゃないと?」
「ばあちゃんち今日も味噌しゅると千切りの油炒めやじ?それでんいいとね」
「うちは?」
「カレーよ」
「どっちがいい?」
「……カレー」
母は、父方の両親が苦手なようだった。母がよく話したものであるが、次男に生まれた優里の父、海次は、兄に嫁ができたとき、実家を出ていった。その間、スーパーの仕入れの仕事で生活をまかなっていたが、家賃を払うのも精一杯で、半年たらずで戻ってしまう。父の兄は、快く受け入れ、両親も嬉しがったが、嫂は露骨に不快感を顔に出し、食事中に「このタダ飯食いが」と云ったほどだった。しかし、両親は息子をかばい、兄には話をつけ、別に食事を済ませるようにした。兄の家族は居間で、弟とその両親は、流しとガス台をとってつけた、ふた親の部屋で。
けれども、海次は跡継ぎのいない母と結婚するため婿養子となり、再び家を出ていってしまった。離婚した従兄弟同士の子である母、美樹子には、両親お互いが連れてきた兄妹がいたが、結局だれも家を継がず、父を婿にするしかなかったのだ。それを恨んでいるのだろうか、海次の祖母にはずいぶんと虐められてきたものである。美樹子が夫の実家にあまり長居したくないのも分かる話ではあるが、優里には、ただただやさしく、笑顔を絶やさない祖父母であり、この上なく愛情を注いでくれる存在だった。
バスの機械的なアナウンスは、「佐土原岐路」に到着するのを知らせた。「優里、押して」母が云うのに従って、停車ボタンを押すと、間の抜けたチャイムが響く。ゆるやかなカーブのある陸橋を登り切ったところに、そのバス停はあった。
四百八十円と、二百四十円を払って、バスを降りる。青空は、いくぶん色を薄めており、陽射しが傾きはじめていた。
陸橋に繋がる岐路を下る。視線の先に、もうひとつ、陸橋が見える。かつては電車が走っていた跡であるが、「サイクリングロード」として再整備されたあとも、そのコースから外れ、雑草が伸びたい放題に伸び、荒れ果ててしまっている。その橋の下は暗いトンネルになっている。ふるぼけたコンクリートの壁には亀裂があり、黒ずんで見える。そこを通り過ぎると、ふたたび広々とした田畑があった。
田にはもう、あおあおとした実りはなくなっていた。この地方は、稲刈りがずいぶんと早い。八月には収穫を終え、土もひからび、刈り捨てられたわらだけが乾燥したまま一面に広がっていた。逆にまだ時期の来ない促成栽培のビニルハウスは、その骨組みだけを残し、人間の肋骨のように弧を描いたまま、静かに佇んでいる。そのなかで葉をあおあおとさせているのは、路地栽培の胡瓜だとか、ピーマンぐらいのものだ。麦わら帽子に手ぬぐいをかけた老夫婦が収穫をしている。腰に携帯している小型ラジオが、明日の天気を知らせていて、雨の報告にいちいちしわがれた声をあげていた。
「こんにちは」母は立ち止まり、老夫婦に声をかけた。
「おい、ぬきなー」
男が云う。「あら、緒方さんちん嫁さんやが」
その言葉に女の方も顔をあげた。
「元気にしちょるや?あら、子供もおっきいなったねえ。名前なんやったか?」
「優里、あいさつせんね」
母の促しに、彼女はちょこんと頭をさげる。
「すみませんねえ、うちに似て、愛想ないとですよ」母が愛想よく笑う。
「うんにゃー、そんだけかわいかったら、愛想よくもわるくもないて。甚徳んとこもこげなかわいい孫おったらかなわんなあ」
「まこちまこちい。なんね?今かい彼岸めいりや?さっき行ってみたけんどん、おったがよ」
女がそう云うと、母は、「ああ、どうも。今から行ってみますわ」そう云って、歩き始めた。
「じゃあどうも」
「おい。ゆっくりしてきないよ」
巨田神社のそばに祖父母の家はある。ムラサキシキブの垣根に囲まれた屋敷は、古くて大きい。庭も広く、車庫と作業場を兼ねた納屋が、母屋とLの字に並んで建っている。一本の大きなもみじが庭の端に佇み、砂利を敷き詰めた地面は、心地の良い足音を発っして、二人のおぼろげな足跡を作っていった。
「今日は、伯母さんおるやろか」
母が何気なく云った。
「さあ、おるっちゃね?」
いつも玄関の戸を叩かず、勝手口から大きな声を出す。「ばあちゃーん、おるやー?」母の声は中年女の低く、抑揚に欠けたもので、しかし少しだけ取り繕った明るさがあった。
「おらんとやろか?」勝手口の引き戸を開けると、そこはうす暗い土間だった。だれもいない。しんと冷えた空気がある。木の含んだ湿気が、山の中の枯葉を思い起こさせる。土間のまん中に置かれたテーブルには、ごちゃごちゃと本やら、ポットやら、台所には関係ないもの、あるものといっしょくたに置かれていて、長いこと食事をするためには使われていないと分かるものだった。もう一度祖母を呼ぶ。返事がない。留守かと思い、いつものように勝手に焼香だけ済ませてしまおうかと土間に足を踏み入れたときだった。居間の方から祖母が顔を出した。
「美樹子じゃがね」
細い声だ。声がしたものだから、自分の部屋から、ゆっくりと歩いてきたのだろう。祖母の足はあまり良くない。いつも右足を引きずるようにして歩く。声も大きく出せないため、自分のスピードでここまでやってきたのだろう。
「ばあちゃん元気や?なんね、今日は幸恵さんおらんと?」
幸恵とは嫂の名前だ。いつもは彼女がすぐにやってくる。ここに来ないということは留守なのだろう。
「おらんとよ。同窓会があるとか云よって、さっき出かけて行ったわ」
「じいちゃんは?」
「畑んおるやろ。まあ上がんない」
「うん、そうするわ。一日早えけん、彼岸めいりに来たとよ」
母は、土間を進んでゆき、靴を脱いで居間に上がった。優里も後をついて靴を脱ぐ。丁寧にそろえて行儀よく畳を踏む。
「優里、大きいなったが、もう何年生ね?」
「ばあちゃん、こんまえ六年生になったって云ったがね」
そう答えると祖母は笑って
「じゃったかあ?そらふだん見らんと、分からんわ」
居間を抜け、床の間にある仏壇へ向かうと、お香の香りがゆったりと広がっている。陽の差さない部屋に、たゆたう煙がかすかに流れ、天井まで昇ってゆくのを優里はみとめた。世界に浮かぶ雲のようだ。畳が、へこ、へこ、と踏むたびに浮き沈む。その感触が苦手で、できるだけ体を軽くして歩こうと試みるが、畳は何度もへこ、へこ、とにぶい音を発てるのだ。
仏壇の前にやってくる。二本、母が線香に火を点し、手首のスナップで明々とする炎を消した。紫煙がスローモーションで沸き上がり、それをお香立てに差す。チーンと間抜けな鐘を叩き、二人は手を合わせた。
「茶沸かすかい、こっち来ない」
祖母が云った。とろとろと土間を歩く後ろ姿が目に入る。
「いっちゃが、気遣わんで」
そう母は応えたが、いつもとは違う微笑みを浮かべ、すごすごと居間へ向かう。優里は、凝っと仏壇に飾られた一枚の写真を見つめていた。自分の父とさほど変わらない年頃の男が写っている。凛々しさと厳しさを内包した、真面目そうな顔だ。父親に少し似ているようでもあるが、そうと云われなければ、兄弟とは思えないだろう。
父の兄、土寛は、四年前に亡くなった。地元では人望の厚い男だった。市議選挙のときは、彼の声だけで票が集まるほどである。彼のおかげで市長になった男もいる。決して表舞台には立とうとしなかったが、弁が立ち、人の良い土寛の葬式には、雨の中、見たことがないほどの人が集まり、霊柩車を見送った。市長、市議会議員、学校の関係者、地元の人々。道や、刈り入れを終えた田畑は、それらの人々で埋め尽くされ、誰もが「惜しい人をなくした」と異口同音した。
優里の父親は、兄の娘達や親を気づかい、奔走し、嫂はうなだれるばかりだった。祖父は、弔いにやってくる人々に深々と頭を下げ、祖母は今思えば想像もしなかったほど気丈な態度で、坐っていたのを思い出す。土寛もおらず、子供たちも家を出て行った今、ここに残るのは、嫂と祖父母だけになってしまった。
「最近どんげね?店はうまくいっちょっと?」
居間のテーブルに腰を落ち着かせた三人は、生姜の漬け物を口にしながら、祖母の煎れた茶を飲んだ。
「そこそこやね、近くに大きなビデオレンタルができたかい、客の取り合いやわ」
「海次も商売とかせんで、畑すりゃいいとんね。こんげな田舎で商売は割に合わんやろうに」
「まあ、でも、常連とかだいぶ増えたしよ。地元ん人たちもわざわざ来てくるっし」
「まこち、農業高校に入れさせたとに、商売やし。わからんもんやねえ」
祖母が、ゆっくりと茶碗を手にして口元へ持ってゆく。その腕は細く、血管が走り、肉に余った皮がしわくちゃになっていた。
「優里はどんげね?勉強しちょる?」
茶を注ぎながら、祖母が云った。
「なんも、こん子は、ひとっつん勉強せんで」母が優里の頭を小突く。
「ほんじゃけん、頭がいいって幸恵さんが云よったが」
「なんがなんがー。授業だけ真面目に聴きよるだけよ。たいしたことねえもんねえ」
実際のところ、彼女の成績は悪くなかった。けれども母の頭の低い様子になにも云おうとは思わない。
「まあ、優しい子になってくれればいいとよ。そんだけやわ」
「優里は優しいもんねえ」
祖母が微笑む。優里は少し頬を赤らめてうつむいた。
「赤こうなっちょってかわいいが。優里、夕飯食べていくやろ?」
返事をせずに、優里は母の顔を見た。早めに帰るつもりだったから、自分の判断では「うん」とは云えない。それに、家に帰ればカレーが待っている。
「美樹子も、どうせ海次は遅いっちゃろ?うちで食べて帰ればいいがね。ひじきん油炒めしかねえけんどん、あん人も畑かい戻ってくるころやし、幸恵さんも遅くなるやろうし」
それを聞くと、母は「優里、ごちそうになろうか」と微笑んだ。
「でも、今日カレー作るっちゃないと?」
「明日作るが。ひじきおいしいよ」
「じゃあ、残る」
孫の言葉に祖母は微笑んだ。「じゃあ、今用意すっかい、待っちょっきないよ」「ばあちゃん手伝うが」「おっきんねえ」祖母が立ち上がると、母も立つ。台所へと向かう二人を、優里は大きくため息をつきながら見つめる。
母は、本当に祖父母が苦手なのだろうか。虐められてきたのを見てきた優里には、不思議でならない。祖母の家にやってくると、幸恵や、伯父がいる前で、やれ親戚への態度が悪いだとか、茶を煎れようものなら、薄いだのとちりちりやられたものだ。それでも孫に対する優しさは別物で、お年玉も小遣いも、お菓子も、微笑みも充分なほどに与えてくれた。義理の娘と、孫に対する態度の違いは、いったいなんなのだろうかと優里は考えるが、まったく理解できないものだった。
年代物の振り子時計が六時を告げる。軽トラックの排気音が近づいて、砂利道を滑るのが聞こえてきた。祖父が畑から帰ってきたのだろう。優里は見ていたテレビから離れ、庭に出た。
「おお、来ちょったっか?」
祖父は車から降りて、汚れた作業着をはたいていたが、孫を認めると、日に焼けた顔をいっきに緩めた。
「彼岸めいりか?あ?お母さん来ちょっとか?」
野太い声で祖父が云う。
「来ちょるよ。今ばあちゃんとごはん作っちょるとこ」
祖父は「そうかそうか」と云い、軽トラの荷台に乗せてあるコンテナを下ろしはじめた。三つの大きなその中には、選り分けられた胡瓜が整然と並んでいる。真緑のまだ棘のついた瑞々しさだ。路地栽培の胡瓜は太陽を受けてまばゆい。祖父はそのいっぱいになった胡瓜のコンテナを持ち抱え、作業場のある納屋へと持って行った。
「優里、飯できたら呼んでくりよ」
とても七十を過ぎたとは思えない足取りで祖父は歩く。重い荷物も軽々と持つ。祖母の華奢さとは比較できないほどの太い腕は、顔と同じく焼けていて、優里の父の、肌の白さとはまったく違う逞しさと、そして土臭さを感じさせた。
「今日は、幸恵さんおらんちゃな」
祖父が孫に訊く。
「うん、同窓会とか云よった」
「そうか、なるほどねえ」
てきぱきとコンテナを倉庫に持ってゆき、胡瓜の大きさを選り分ける機械を動かす。カシャン、カシャンと小気味良い金属音のリズムが、乾いた空気に響き渡りはじめた。
「なんしよっと?」
機械に近づき、優里が云った。
「胡瓜をな、箱に詰めるとよ。箱ん詰めて、日本中の八百屋さんに届けるっちゃが。いろんな家で作った野菜もよ、肉も魚もみんな一度市場に集まって、競りしてよ、これはいくら、これはいくらち値段を決めて、買っていってよ、肉は肉屋、魚は魚屋、胡瓜は八百屋に運ばれて、またいろんな家に行くっつよ。それを食べた人は、また働いて、農家はまた品物を箱に詰めるとよ」
選別機械は放射線状に伸びた鉄棒の根っこを中心に、ぐるぐるまわっている。その錆びた鉄棒の先に、縦に細長く作られたへこみがあった。そこに胡瓜を乗せると、規定の大きさに合う場所で逆さまになって落ちるようになっている。あらかじめ地面に置いてあるコンテナに、選り分けられたそれらは落ちる。祖父の長年の勘からか、だいたいは同じサイズのコンテナに落ちていくが、たまに少し大きめのところへ落ちるものもあったりする。そのさまがおもしろく、優里はだまって見つめていた。
食事ができ、居間に祖母、祖父、母、孫が坐る。ひじきの油炒めと、胡瓜とささみのキムチ和え、とうふとワカメの味噌汁。それから優里のためにあつらえたのだろう、魚肉ソーセージを焼いたものが食卓に並んだ。
「いただきます」
多少、行儀悪く箸を持ったまま手を合わせる。箸をねぶり、白い御飯の入った茶碗を持つ。母がたしなめたが、「いいがね、ゆっくり覚えていくが」やんわりと祖母が母をたしなめた。
ひじきの油炒めには、にんじんと、さつま揚げが入っている。優里は、この手の料理が好きではなかった。しかし、母の躾と、祖母が作ってくれたということが相まって、なんの躊躇も、愚痴もなく箸をつける。薄口だが、しっかりと味がする。さつま揚げの旨味がひじきを染め、それはおいしい夕飯だった。なにより、父の帰りが遅いために、ふたりだけで食事を済ますものだから、こうやって祖父母に囲まれて食事をすることが、彼女にとってなによりもおいしいのだ。
祖父が、グラスに芋焼酎を注ぎ、湯でうすめる。一口呑んで舌を鳴らす。胡瓜の和え物に箸を伸ばし、噛む音が耳に良い。「あんた、今日薬ふったっちゃろ?あんまり呑まんとよ」そう云いながら祖母は丁寧に白飯を運び、ゆっくりと噛んでいた。
「優里は大きくなったらなんになっとや?」
祖母が訊いた。
「分からん、まだ決めちょらんもん」
「こん子は頭がいいかい、弁護士とかいいっちゃねやろかい?」
祖父が笑う。
「なん云よっとねえ、そんげでんねえって、さっきばあちゃんと話しよったところよ、ねえ優里」
母が仰々しく笑う。「お母さんの方こそ行儀が悪い」と呟きかけたが、小突かれると思い、言葉を呑み込んだ。
そんな会話の中、祖母が孫に云った。
「ほうかあ、弁護士もいいなあ。ほんで大きくなったら、ばあちゃんのこと面倒見てくんないよ。足も悪いし、あんまり動けんかい、優里が助けてくれるとありがたいわ。な?ゆり」
笑顔が暖かく、部屋の灯りも明るかった。テレビはついていないが、代わりに虫の声が聞こえてくる。その空間、あまりにも落ち着いた、ゆったりとした時間に、優里はふと淋しい暖かさを感じたのだった。
「うん、ばあちゃん、任しちょきない」
夜八時過ぎのバスに乗って、家路に着く。祖母がくれた千円と、黒砂糖のお菓子、祖父が持っていけとビニール袋いっぱいの胡瓜を抱えて、親子は、がらがらのバスに揺られていた。陸橋を下ると、ゆるやかなカーブにさしかかる。何台もの自動車が、眩しいヘッドライトを走らせ、整然と駆ける野生動物みたいにきれいだった。山や、畑の輪郭は見えず、信号や、ときおりやってくるスーパーの灯りが、人工的な暖かさをもたらした。バスの蛍光灯は、祖父の作業場と似た、うす明るさを保ち、うとうとするにはちょうど良い。少しはしゃぎ過ぎたこともあって、優里は、いつしか母の肩を枕にしていた。
バスの振動が、眠気を増幅させる。父は、十一時半には帰ってくる。ふだんはその時間まで起きていたりすると怒られてしまうので、いくら眠くなくてもその時間までにはベッドに入るようにしている。しかし、そこで顔を合わさなければ、朝早く学校に行くのに対して、十時ごろに起きる父とはなんの接点も無くなってしまうのだ。
だが週末だけは、夜遅くまで起きていてもなにも云われず、父が一本、ビデオを持って帰ってきてくれる。たいていはアメリカのアクション映画やファンタジーものだったりするが、「これは名作だから」とぽつりと云って、あまりおもしろくない邦画を持って帰ってくることもあった。今日も明日が祝日なので、なにかを持って帰ってくるかもしれない。
脳裏に、祖父母の顔が浮かぶ。そこに父と、その兄が並ぶ。写真の姿しかもう浮かんでこないが、そこには一家の形が確かにあった。しかし、兄は死に、弟は婿養子になってしまった。あの家には、嫁がいるだけである。
「ねえ、お母さん」
大きな振動に目を開けた優里は、ふと思い出したように云った。
「ん?」
「ばあちゃんの足、悪そうやったね」
「じゃがねえ、ちょっと心配やねえ」
「じんちゃんもばあちゃんも、お父さんがそばにおった方がうれしいっちゃろか?」
「そりゃ、そうやろねえ。土寛伯父さんが死んで、幸恵伯母さんしかおらんかいねえ」
「そしたら、うちに来たらいいっちゃないと?」
そこまで云うと、母は、優里の頭を撫でた。
「優里は優しいして、心配しちょるっちゃね。でもね、優里。お父さんの傍にいたいのも本当やし、でも、あの家にいたいというのも本当やとよ」
「なんで?」
「なんででん」
そこで二人の会話は途切れてしまった。バスのアナウンスが「住吉学校前」を告げる。ふたりは、降車ボタンを押し、立ち上がった。
バスを降りて、すっかり暗くなった歩道を歩く。すぐに我が家の玄関にたどり着く。「明日は雨かね?」と月のない空を見た母は、そのまま家に入ってしまった。優里だけが歩道で立ちつくしている。バス停は、ここからさほどの距離もない。しかし祖母にとっては遠い距離だろう。優里は、玄関とバス停を何度も行き来しながら考えていた。
ふと立ち止まり、夜空を見上げる。深い紫色だ。雲がどんよりと浮かび、重苦しい厚さを助長させる。視線を戻し、バス停のあるところまで引き返す。木製の、停留所名と交通会社が青と赤、白で書かれてあるそっけない作り。足元を見ると、コンクリートの重しで、この標識が立っているのが分かる。優里はそこから大股で歩き始めた。その歩数ごとに小さな声で数を数える。
「一歩、二歩、三、四、五」
ちょうど家の前で二十九歩を数えた。
この距離、できないことはない。
再びバス停に戻る。自分の身長よりも高いその標識が、鼻の先にある。ゆっくりと両手を伸ばし、掴んだ。力を込める。動かない。根元の重しが邪魔をしているのだ。さらに押す。するとバス停は勢い良く頭を垂れ、アスファルトの地面に倒れ込んだ。鈍い音がする。ひゃっと小さい叫び声を上げながら、両手を挙げた。車の視線が痛い。ヘッドライトが睨んでいるようだ。大きく息をつき、標識を持ち上げる。さほど重くはなく、すぐにバス停を立たせることができた。
落ち着いて、今度は低い位置を持ちながら、右足でコンクリの重しを押しはじめた。ようやく、動き始める。人工物同士の、がり、がりがり、と削れる音がするがかまわない。優里は精一杯の力で自分よりも大きなものを押していった。
汗がこめかみを過ぎ、唇の隙間を伝った。少し呼吸が荒くなる。まだ一歩分も移動ていないが、ふと力を抜いた。朝、ここに並ぶ人がやってきて、突然一歩分バス停が動いていたら不審に思うかもしれないからだ。背筋を伸ばす。収縮していた血管が、いっきに血をめぐらせるような感覚が走る。一呼吸おいて、ふたたびバス停から玄関までの歩数を数えはじめた。強引に二十八歩。あと残り二十八歩分、バス停を移動させれば、我が家が「バス停」になる。地道に、少しずつ、誰もが気づかないように、しかし、できるだけ早く。祖母が我が家へやってくるその日までに。優里は何度もバス停と玄関を往復し、いつしか、スキップを踏んでいた。鼻歌が混じる。車の視線も顧みず、彼女はただ、二十八歩の舞台を駆け回っていた。
その晩、優里は早目に布団に入ったがなかなか寝つけない。時計はもうすぐ十一時半を差そうとしている。父が帰ってくるころだ。電器のスイッチをオフにする。豆球が辛うじて部屋の輪郭を映しているが、細かなものは見えなくなった。お気に入りの「くまたん」も闇に紛れると瞳が無機質で気味が悪い。目をつむり、ひたすら想像の世界に入っていくよう努力する。
祖母を連れてバスに乗る。停留所に着き、降りると目の前が我が家だ。祖母が云う。「家ん前にバスが止まんのは便利やねえ」そうして微笑むのだ。バス会社も知らないうちに我が家の前に止まり、「住吉小学校前」の名前も「斉藤さん」前にするかもしれない。高校生達は、玄関の前でおしゃべりをし、母に邪魔扱いをされるだろう。そのすべてが、自分の企みによって起こるのだ。これほどおもしろいことはない。
まぶたの裏でさまざまに夢想する優里の耳に、聞き慣れた音が入ってきた。父の車のバック音だ。家の隣にある車庫に車を入れているのである。バイパス沿いにある家なので、昼間は交通量が多い。仕事に行く時に車をバックで出していては手間がかかる。そのため交通量の少ない夜の帰宅時に、正しい向きに入れるのだ。
音が止む。ドアが勢い良く閉まるのが聞こえる。疲れた足音が玄関を上がり、ぺたぺたとリビングへ向かってゆく。とってつけたカウンターを経てダイニングキッチンと繋がっているその部屋には、必ず母が起きていて、父の帰りを待っていた。食事の準備をしているのだろう、皿のぶつかる音や、コンロに着火する音が聞こえてくる。「優里はもう寝たっか?」低い声がする。「寝たみたいよ」
一度起きてリビングへ向かおうかと考えたが、鈍い疲労感があって、そのまま眠りにつくことにした。自分の部屋は静かで、暗く、両親のいる空間が少しうらやましかった。
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