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源氏物語〔2帖帚木 ははきぎ20〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語2帖帚木の研鑽」を公開してます。反対に歯がゆいような女でも、気にいるならばそれでいいし、前生の縁というものもあるから、男から言えばあるがままの女でいいと思う。これで式部丞が口をつぐもうとしたのを見て、頭中将は今の話の続きをさせようと、とてもおもしろい女じゃないかと言うと、その気持ちが分かっていながら式部丞は、自身をばかにしたように話す。その女の所へ長い間行かないでいたころに、その近辺に用のついでに立ち寄ると、平生の居間の中へは入れない。物越しに席を作って座らせ、嫌味を言おうと思っているのかと思ったが、賢女なので軽々しく嫉妬などしない。人情にもよく通じ恨んだりもせず高い声で、この数カ月以来、重い風邪に堪えかね高熱のためニンニクの草薬を煎じ服し、それで薬草臭いのでお目にかかれません。何か急な用があれば承りますと尤もらしく言ので、ばかばかしくて、私はただ承知しましたと言い帰ろうとしたが、この臭いが無くなる頃に、立ち寄って下さいと大きな声で言うので、返辞をせず帰るのは気の毒だが、のんびりもしておれない。なぜならばニンニク薬草の臭いが漂い、逃げて出る方角を見渡しながら、クモが巣を張れば愛しい人が訪れると言い、クモの動きで私が来るのが分かると言い伝わる。夕暮れ時にニンニク臭が消えるので明日の昼間過ぎるまで待てとは、おかしな話と思いながら言い終わらないうちに走って来ると、人を追いかけさせて返歌をくれた。毎晩逢っている夫婦であれば、ニンニクの臭さ漂う昼間に会う事でも何も恥ずかしがる事はないが、あなたは中々訪れてくれないものだからと式部丞の話は終わった。貴公子たちはあきれて、うそだろうと言い、一体どこの女だ爪弾きをして見せ式部丞をいじめた。もう少しよい話をしろよと言うと、これ以上珍しい話があるものですかと式部丞は退って行った。
2024.06.20
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源氏物語〔2帖帚木 ははきぎ19〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語2帖帚木の研鑽」を公開してます。男に永久性の愛を求めない態度に出ると完全な妻になれない。左馬頭の話の嫉妬深い女も、思い出としてはよいが、今暮らす妻なら堪らなく、嫌になってしまう。琴の上手な才女というのも浮気の罪がある。私の女も本心の見せられない点に欠陥がある。どれがいちばん良いとも言えない事は、人生そのものです。何人かの女から良いところを取り、悪いところは省いたような、そんな女はどこにもいない。鬼子母神の娘で、毘沙門天の妻吉祥天女を恋人にしようと思うと、仏法臭く困ると中将が言ったので皆笑った。式部の所にはおもしろい話があるだろう、少しずつでも聞きたいものだと中将が言い出す。私どもは下の下の階級で、面白い事はないと式部丞は話を断っていたが、頭中将が本気になり、早くと話を責め立てるので、どんな話をしたら良いか考えたが、まだ文章生時代のことで、私はある賢女の良人になり、左馬頭の話のように、役所の仕事の相談相手にもなり、私の処世の方法なんかについても役だつ事を教えてくれた。学問は博士は恥ずかしいほどで学問の事では、前で口が利けなかった。ある博士の家へ弟子になり通っていた時に、娘が多くいる事を聞いていたので、機会をとらえて接近してしまった。親の博士が二人の関係を知るとすぐに杯を持ち出し、白楽天の結婚の詩を歌ってくれたが、実は私は気が進まなかった。 ただ博士への遠慮でその関係はつながっていた。先方では私を気に入り、よく世話をして、夜分寝ている時にも、学問のつくような話をしたり、官吏としての心得方を言ってくれた。手紙は皆きれいな漢文で、仮名なんか一字も混じってない。良い文章を送ってくるので別れ難く、今でも師匠の恩をその女に感じるが、そんな細君を持つのは、学の浅い人間や、間違いだらけの生活をしている者には堪らない事だとその当時思っていた。また二人のような優れた貴公子方には必要はないだろう。
2024.06.19
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「琵琶の柱を探って確認」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。七十段の一後醍醐天皇即位の前祝いの席で、琵琶の名器の玄上が盗まれていた時期で、菊亭大臣(琵琶の名手とされた藤原兼季)が琵琶を弾くことになった。菊亭大臣は同じく琵琶の名器とされる『牧場』で音楽を弾くことになった。(ももは踏切で遮断機が下り電車が通過するのを待っている)演奏の座についた菊亭大臣は、まず琵琶の柱を探って確認をしてみたが、琵琶の弦の支柱が一つ落ちてしまった。しかし、懐に糊を持っていたので、糊で支柱をつけて、神へ供え物を捧げる儀式の間にすっかり糊が乾いた。糊が乾いた事により、事故にはならなかったが、一体どんな恨みが、あったのだろうか、見物していた衣をかぶった女が、琵琶に寄ってきて、支柱を放り投げて、元のように戻したんだと言われている。
2023.06.01
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「南京旅情85」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。南京大虐殺記念館へ行くと「300000」の数字に威圧されてしまうが1945年中国が国連に報告した南京事件での犠牲者の数は20000人と報告されていたとのこと。いつの間に2万が30万になったのかは不明。南京大虐殺記念館建設に当たり日本社会党の設計と資金提供で建設がなされた。その折に「300000」の数字も日本社会党が提示したのだろうか?だが、30万という数は学術的に根拠は全くないのであり南京事件そのものが真実なのかと思ってしまう。中国政府のトウ小平は1982年当時、中曽根政権の右傾化を警戒し中国に日本の中国侵略の記念館や記念碑を建立して愛国主義教育を推進の指示を出す。この指示と相まって日本社会党からの提案を受け入れ1983年、南京大虐殺紀念館を設立することを決定した。中国側は、日本側が資金全面援助を買って出ており反対する理由など全くなく1985年に完成した。「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」の揮毫はトウ小平直筆によるものであり、抗日戦争40周年の1985年8月15日にオープンし中国国民が旧日本軍の大虐殺の事柄を知る事となった。「前事不忘、后事之師」と大きく書かれている。中国の成語で「前事を忘れざるは後事の師なり」過去の事を忘れないで後々の戒めとするとの意味。中国で出回っている南京大虐殺のDVDの多くの描写に旧日本軍兵士が銃剣で妊婦の腹の中の赤子を突き刺し高く持ち上げ投げ捨てる場面などを中国人は信じて日本人ほど凶悪な人種はないと平気で口にする。緊迫した戦地の中に身を置いた兵士が精神的に追い込まれていたにしろ同じ日本人として、そんな残虐な行為が出来るのだろうかと逆に思ってしまう。
2011.05.11
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源氏物語〔2帖帚木 ははきぎ15〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語2帖帚木の研鑽」を公開してます。暗い炉を壁のほうに向げて据え、暖かそうな柔らかい綿が沢山入った着物を、乾かす竹のかごに掛けて、寝室へ入る時に上げる几帳の布も上げて、こんな夜にはきっと来るだろうと待っていた様子が見え、そう思っていたのだと私は得意になったが、妻自身はいない。何人かの女房だけが留守をしていて、父親の家へちょうどこの晩移って行ったという。艶な歌も詠んでおらず、気のきいた言葉も残さずに、じみにすっと行ったので、つまらない気がして、やかましく嫉妬をしたのも私にきらわれるためだったと、むしゃくしゃするので、とんでもないことまで忖度した。しかし考えてみると用意してあった着物なども普通よりよくできてるし、その点では実にありがたい。別れた後のことまで考えて話した。彼女は別れるものか慢心を抱き、それからは手紙で交際を姶めたが、私の元へ戻る気がうかがえるし、全く知れない所に隠れる素振りもないし、反抗的な態度を取ろうともせず、前のような態度では我慢ができない、すっかり生活の態度を変えて、一夫一婦の道を取ろうと言っている。暫らく懲らしめてやる気で、一婦主義になるとも言わず、話を長引かせていたら、精神的に苦しんで死んでしまったので、責められて当然である。家の妻というものは、あれほどの者でなければならないと今でもその女が思い出される。風流ごとにも、まじめな間題に話し相手にすることができた。また家庭の仕事はどんなことにも通じており、染め物の立田姫(日本の秋の女神)にもなれたし、七夕の織姫にもなれたと語った左馬頭は、いかにも亡き妻が恋しそうであった。技術上の織姫でなく、永久の夫婦の道を行っている七夕姫だったらよかった。立田姫もわれわれには必要な神様で、男に良くない服装をさせておく細君はだめで、そんな人が早く死ぬんだから、いよいよ良妻は得がたいということになる。
2024.06.15
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「この蛇はこの土地の神である」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の201から247」の研鑽を公開してます。二百七段の一亀山殿の屋敷を建設しようとして、土地の地ならしをしていると、大きな蛇が、沢山寄り集っている塚が見つかり、建設担当の役人は、この蛇は、この土地の神であると言って工事を中止し、蛇塚が出てきた状況を後嵯峨院に伝えると、反対に院から、どうした方が良いのかと勅問をされてしまった。古くからこの地にいる蛇神なので、そう簡単には掘り捨てられないと皆が、申し上げたが、亀山殿の建設責任者である大臣(徳大寺実基)一人が反対し、陛下が支配する王土に住んでいる蛇が、どうして皇居を建てているのに、祟りを、起こすだろうか、いや起こすはずもない。鬼神は邪心を持たず、建設を中断すべきではない。ただみんなで蛇を掘り出し、川に流せば良いと申し上げた。大臣がそう言うので、蛇塚を崩して大量の蛇を大井川に流した。蛇を川に流したが、祟りなどは全くなかった。
2023.10.10
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源氏物語〔2帖帚木 ははきぎ18〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語2帖帚木の研鑽」を公開してます。久しく訪ねて行かなかった時分に、ひどい事を私の妻の家の方へ出入りする女の知人を介して言わせた。私はあとで聞いた事だが、そんなかわいそうな事があったとも知らず、心の中では忘れないでいながら手紙も書かず、長く行きもしないでいると、女はずいぶん心細がり、私との間に小さな子供もあり、煩悶した結果、撫子の花を使いに持たせたところ、中将は涙ぐんでいた。どんな手紙を書いたのかと源氏が聞いたところ、なに、平凡なものですよ。山がつの垣は荒るともをりをりに哀れはかけよ撫子の露と送った。私はそれで行く気になり行って見た。穏やかなものなんですが、少し物思いにふける顔をして、秋の荒れた庭をながめながら、虫の声と同じような力のない様子で見ているのは、小説のようで、咲きまじる花は何れとわかねどもなほ常夏にしくものぞなきと、子供の事は言わずに、母親の機嫌を取った。打ち払ふ袖も露けき常夏に嵐吹き添ふ秋も来にけりと、こんな歌をはかなそうに言って、正面から私を恨む素振りもない。うっかり涙を零しても恥ずかしそうに誤魔化してしまう。恨めしい理由をみずから追究して考えていくことが苦痛らしく、私は安心して帰って来てしまい、 またしばらく途絶えているうちに消えたようにいなくなってしまった。まだ生きていれば相当、苦労をしているだろう。私も愛していたから、私をしっかり離さずにつかんでいてくれたなら、そうしたみじめな目に逢いはしなかった。長く途絶えて行く事もせず、妻の一人として待遇のしようもあった。撫子の花と母親の言った子もかわいい子なので、何とか捜し出したいと思っていたが、今だに手がかりがない。素知らぬ顔をして、心で恨めしく思っていた事も気付かず、私は愛していたが一種の片思いと言える。もう今は忘れかけているが、あちらではまだ忘れられずに、今でも時々は辛い悲しい思いをしているのだろう。
2024.06.18
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「〔46〕わが子が道長から杯を受ける―十月十八日」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。敬って前を通らないで、南の階下から殿の前に行ったのを見て、内大臣はわが子が道長から杯を受ける光栄と父に対する礼儀をわきまえた行動に感激して酔っては涙をこぼす。権中納言(藤原隆家)は、隅の間の柱の下に近寄り、兵部のおもと(着せ綿の菊の露で身を拭えば、千年も寿命が延びるという菊の着せ綿の中宮女房)の袖を無理矢理引っ張っているし、殿は殿で聞きづらいふざけた事をおっしゃっている。この時点では源氏物語がすでに藤原公任のような官人にも知られている。八千歳(やちとせ)の君が御代 何だかこわいことになりそうな酔いかたなので、宴が終わるとすぐに、宰相の君と言い合わせて、隠れようとすると、東面の間に、殿のご子息たち(藤原頼通・藤原教通)や、宰相の中将(道長の甥、藤原兼隆)などが入り込んで、騒がしいので、二人は御帳台の後ろに隠れていると、殿が几帳を取り払って、わたしたち二人の袖をとらえて座らせられ、祝いの歌を一首ずつ詠めば許してやるとおっしゃる。うるさいし怖いのでこう詠む。 いかにいか(五十日)が かぞへやるべき 八千歳(やちとせ)の あまり久しき 君が御代(みよ)をばいかに誕生五十日目をかけ、幾千年にもわたる若宮の御代をどうして数えることなどできましょうと呼んだところ、ほう、うまく詠んだなと、殿は二度ばかり声に出して詠われて、すぐにこう詠まれた。あしたづの よはひしあらば 君が代の 千歳の数も かぞへとりてむあしたづは葦の生えた水辺の鶴。私に鶴のように千年の齢があったなら、数える事ができるのに あれほど酔っていたのに、歌は心にかけている若宮の事だった。
2024.02.07
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源氏物語〔2帖帚木 ははきぎ16〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語2帖帚木の研鑽」を公開してます。近衛の中将は指をかんだ女をほめちぎった。その時分にまたもう一人の情人があり、身分もそれは少しよいし、才女らしく歌を詠んだり、達者に手紙を書いたり、音楽のほうも相当なものだったようで、感じの悪い容貌でもなかったので、やきもち焼きの方を世話女房にしておき、そこへおりおり通って行ったころにはおもしろい相手だった。あの女が亡くなったあとでは、今さら惜しんでも死んだものは仕方がなく、度々もう一人の女の所へ行くようになり、風流女を主張している点が気に入らなく、一生の妻にしてもよいという気は無くなった。(昨日朝は慌ただしくロウソクを家に忘れてしまった)あまり通わなくなったころに、また他の恋愛の相手ができたようで、十一月ごろのよい月の晩に、御所から帰ろうとすると、ある殿上役人が来て私の車へいっしょに乗り、その晩は父の大納言の家へ行って泊まろうと思っていた。途中でその人が、今夜私を待っている女があり、そこへ寄ってやらないでは気が済まないと言う。女の家は道筋にあり、壊れた土塀から池が見え、庭に月の光りが射しているのを見ると、私も寄ってもいいという気になり、その男の降りた所で私も降りた。だが、その男が入るのは私の行こうとしている家だった。初めから今日の約束があったのだろう。男は夢中で門から近い廊の室の縁側に腰を掛けて、気どったふうに月を見上げている。それは実際白菊が紫をぼかした庭へ、風で紅葉がたくさん降っているから、身にしむように思うのも無理はない。男は懐中から笛を出して吹きながら合い間に、飛鳥井に宿りはすべし蔭もよしと歌うと、中では和琴をきれいに弾いて合わせる。律の調子は女の柔らかに弾くのが御簾の中から聞こえ、華やかな気がして、明るい月夜に合っている。男はおもしろがり、琴を弾いている前へ行き、紅葉の積もり方を見るとだれもおいでになった様子はなく、あなたの恋人は中々冷淡なようと皮肉なことを言っていた。
2024.06.16
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源氏物語〔2帖帚木 ははきぎ17〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語2帖帚木の研鑽」を公開してます。菊を折って、琴の音も菊もえならぬ宿ながらつれなき人を引きやとめけると言って、よい聞き手が来られた時にもっと弾いて聞かせて上げなさいと、嫌味なことを言うと、女は、木枯らしに吹きあはすめる笛の音を引きとどむべき言の葉ぞなきと言ってふざけ合っている。私がのぞいているのも知らないで、今度は十三絃を派手に弾き出した。才女でないがキザな気がした。遊び半分の恋愛をしてい る時は、宮中の女房たちと交際していたが、時々、愛人として通って行く女ではおもしろくないと思い、その晩のことを口実にして別れた。二人の女を比べると、若い時でもあとの上品な女は信頼が出来ないと感じた。私は年配になっており、今後はまた今まで以上に実質がともわずうわべばかりは嫌になる。男に裏切られた女のわびしさや、落ちそうな笹の上の霰のような艶やかな恋人がいいように思うでしょうが、私の年齢まで、あと七年もすれば分かりますよ、私があえて言うと、風流好みな多情な女には気をおつけなさい。三角関係を発見した時に良人の嫉妬で問題を起こしたりする。左馬頭は二人の貴公子に忠言を呈した。中将はうなずき、少しほほえんだ源氏も左馬頭の言葉に真理がありそうだと思う。あるいは二つともばかばかしい話であると笑っていたのかもしれない。私もばか者の話を一つしようと中将は前置きをして語り出した。私がひそかに情人にした女は、見捨てずに置かれる程度のもので、長い関係になろうとも思わぬ人だったが、馴れていくとよい所が見つかり心惹かれていった。たまにしか行かないけど、女も私を信頼するようになった。愛しておれば恨めしさの起こるこちらの態度だがと、気のとがめることがあっても、その女は何も言わないでいる。久しく間を置いて逢っても始終来る人といるようにするので、気の毒で、私も将来のことでいろんな約束をした。父親もない人だったから、私だけに頼らなければと思っている様子が何かの場合に見えて可憐な女だった。
2024.06.17
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源氏物語〔1帖桐壺17〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語1帖桐壺の研鑽」を公開してます。「尋ね行くまぼろしもがなつてにても魂のありかをそこと知るべく」絵で見る楊貴妃はどんなに名手の描いたものでも、絵における表現は限りがあって、それほどのすぐれた顔も持っていない。太液の池の蓮花にも、未央宮の柳の趣にもその人は似ていたであろうが、また唐の服装は華美ではあったであろうが、更衣の持った柔らかい美、艶な姿態をそれに思い比べて御覧になると、これは花の色にも鳥の声にもたとえられぬ最上のものであ った。お二人の間はいつも、天に在っては比翼の鳥、地に生まれれば連理の枝という言葉で永 久の愛を誓っていたが、運命はその一人に早く死を与えてしまった。秋風の音にも虫の声にも帝が悲しみを覚えておいでになる時、弘徽殿の女御はもう久しく夜の御殿の宿直にもお上がりせずにいて、今夜の月明に更けるまでその御殿で音楽の合奏をさせているのを帝は不愉快に思うほどであった。このころの帝のお心持ちをよく知っている殿上役人や帝付きの女房なども皆弘徽殿の楽音に反感を持った。負けずぎらいな性格の人で更衣の死などは眼中にないというふうをわざと見せているのであった。月も落ちてしまった。「雲の上も涙にくるる秋の月いかですむらん浅茅生の宿」命婦が御報告した故人の家のことをなお帝は想像しながら起きておられた。右近衛府の士官が宿直者の名を披露するのをもってすれば午前二時になったのであろう。
2024.05.21
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源氏物語〔1帖桐壺19〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語1帖桐壺の研鑽」を公開してます。宮の外祖母の未亡人は落胆して更衣のいる世界へ行くことのほかには希望もないと言って一心に 御仏の来迎を求めて、とうとう亡くなり、帝はまた若宮が祖母を失われたことでたいそう悲しみになった。これは皇子が六歳の時の事であるから、今度は母の更衣の死に遭遇した時とは違い、 皇子は祖母の死を知って悲しんだ。今まで始終お世話をしていた宮と別れる事が悲しいという事ばかりを言って外祖母の未亡人は亡くなった。その後は若宮は宮中にばかりいる事になった。七歳の時に書初め式が行なわれて学問を始めたが、皇子の類ない聡明さに帝は驚くことが多かった。もうこの子をだれも憎むことはできないでしょう。母親のないという点だけででもかわいがってやりなさいと帝はすこし話されて、弘徽殿へ昼間来られる時もいっしょになりそのまま御簾の中にまで入った。どんなに強さ一方の武士でも仇敵でもこの人を見ては笑みが自然にこみ上げるであろうと思われる美しい少童であったから、女御も愛を覚えずにはいられなかった。この女御は東宮のほかに姫宮を二人授かっていたが、その方々よりも第二の皇子のほうがきれいであった。姫宮がたもお隠れにならないで賢い遊び相手として扱っていた。学問はもとより音楽の才も豊かであり、言えぼ天才児であった。
2024.05.23
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〔100〕戸外の地下の座でも調子の笛などを吹く「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。双調の調子で、「安名尊(あなとうと)(催馬楽)」、次に「席田(むしろだ)(催馬楽)」「此殿(催馬楽)」などを謡う。楽曲は、鳥の曲の破と急を演奏する。戸外の地下の座でも調子の笛などを吹く。歌に拍子を打ち間違えて、とがめられたりする。つぎに伊勢の海(催馬楽)を謡う。右大臣は、和琴が実に見事だなどと、聞きながらお褒めになる。戯れておられたようだが、そのあげくにひどい失態をなさった気の毒さは、見ていたわたしたちも体がひやりとしたほどだった。殿からの帝への献上物は、横笛の「歯二(はふたつ)」で、箱に納めて差し上げられたと拝見した。右大臣藤原顕光が酔って御膳の鶴の飾り物を取ろうとして折敷をこわしてしまったことをさす。笛は道長が、去る十一日に花山院御匣殿(みくしげどの)から賜った名笛である。紫式部日記(完)源氏物語1話桐壺の研鑽に入ったが時間が掛かる。
2024.05.01
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源氏物語〔2帖帚木 ははきぎ14〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語2帖帚木の研鑽」を公開してます。将来まで夫婦でありたいなら、少々辛いことがあっても耐え忍んで、気にかけないようにして、嫉妬の少ない女になったら、私はまたどんなにあなたを愛するかしれない、人並みに出世してひとかどの官吏になる時分には立派な私の正夫人でありうるわけだと利己的な主張をした。女は少し笑いながら、そのうち出世もできるだろうと待ち遠しいことであっても、私は苦痛とも思わなかった。あなたの多情さを辛抱して、良人になるのを待つことは堪えられないことだと思った。別れる時になり色々な事を言い憤慨させ、女も自制が出来ない程、私の手を引き寄せて一本の指に噛みつき 、私は痛みに耐えられず、痛い痛いと声をあげた。こんな傷もつけられては私は杜会へ出られない。侮辱された子役人は人並みに上がってゆくことはできない。私は坊主にでもなることにするだろうと脅して、指を痛そうに曲げて、いよいよ別れだと言い家を出た。「手を折りて相見しことを数ふればこれ一つやは君がうきふし」言いぶんはないと言うと、さすがに泣き出し、「うき節を心一つに数へきてこや君が手を別るべきをり」反抗的に言ったりもした。本心では我々の関係が解消されるものでないことをよく承知しながら、幾日も手紙一つやらずに私は勝手な生活をしていた。賀茂神社・石清水八幡宮の臨時の祭りに行う舞楽を、楽所で予行練習するが、霙が降る夜で、皆が退散する時に、自分の帰って行く家庭というものを考えるとその女の所よりないと思いなおす。御所の宿直室で寝るのも惨めだし、また恋を風流遊戯にしている局の女房を訪ねて行くことも寒いことだろうと思わ れ、様子も見がてらに雪の中を、少しきまりが悪いが、こんな晩に行ってやる志で女の恨みは消えてしまうと思いながら、入って行く。
2024.06.14
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「髪の様子が引き立ち美しく見える」 「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「紫式部日記」の研鑽を公開してます。女房たちは、薄物の表着の腰から裳(も)をつけ、唐衣を着て、頭には釵子(飾り具)を挿し、白い髪の髻(もとどり)を結び束ねる紐(ひも)をしている。そのため髪の様子が引き立ち美しく見える。若君にお湯をかける役は宰相の君。その介添え役は大納言の君(源廉子)お二人の湯巻姿が、いつもとは違い風情がある 若宮は、殿がお抱きになり御佩刀(皇子誕生の際、帝から賜わる刀)は小少将の君が虎の頭は宮の内侍(ないし)が持って、若宮の先導役をつとめる。宮の内侍の唐衣は松笠の紋様で、裳は大波・藻・魚貝などを刺繍で織り出して大海の摺り模様に似せてある。裳の大腰は薄物で、唐草の刺繍がしてある。小少将の君は、秋の草むら蝶や鳥などの模様を、銀糸で刺繍して輝かせている。
2022.09.28
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〔68〕とても清楚な人で背丈もちょうどよい「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。宮の内侍(橘良芸子/たちばなのおきこ)は、とても清楚な人で、背丈もちょうどよいほどで、座っているとき、姿格好、とても堂々としていて、現代的な容姿で、細かに、とりたてて素敵だとは思えないが、とても清楚で、すらりとしていて、中高な顔立ちで、黒髪に映えた顔の色合いなど、ほかの人より優れている。頭髪の格好、髪の生えぐあい、額のあたりなど、華やかで愛嬌がある。ごく自然にありのままにふるまって、気立てなどおだやかで、つゆほどもやましいところがなく、すべてあんなふうでありたいと、人の手本にしてもいい人です。風流がったり気取ったりはされない。宮の弁侍までは式部より上位の女房。人物批評にも敬意と憧憬の念がうかがわれ、式部のおもと(橘忠範の妻)は、宮の内侍の妹。ふっくらし過ぎるほど太っている人で、色はとても白く艶やかで、顔は整っていて趣がある。髪も非常に美しく、長くはないので、付け髪などして、宮仕えしている。出仕の当時はその太った容姿が、とても美しかった。目もと、額のあたりなど、ほんとうにきれいで、微笑んだところなど、愛嬌もいっぱいだった。当時、肥満はかならずしも美人のマイナス条件ではなかったようで、適度のふっくらとした愛らしさはむしろ好まれた。
2024.03.07
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〔92〕心の中では際限もなく物思いを続ける「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。人にまだ折られぬものを 源氏物語が中宮さまのところにあるのを、殿がごらんになって、いつもの冗談を言い出さしたついでに、梅の実の下に敷かれている紙に、すきものと 名にし立てれば 見る人の 折らで過ぐるは あらじとぞ思ふと書いて見せる。意味は、浮気者と評判がたっているので おまえを見た人で口説かないですます人はいないと思うという歌をくださったので、 (換毛期で家の中はももの毛が散らばり都度掃除機を掛ける)人にまだ 折られぬものを たれかこの すきものぞとは 口ならしけむ だれにもまだ口説かれたこともないのに、だれがわたしを浮気者などと言いふらしたのでしょうなどと心外なことと申し上げた。道長と紫式部の関係はさまざまな解釈がされており、紫式部にとって道長より物語を書くのに必要な和紙を提供されており、かなり気を遣う必要があった。和歌のやり取りだけを見ると、藤原道長は紫式部にとってどのような関係だろうと思ってみたが道長の要望で源氏物語を書く事になり物語の登場人物は道長をモデルにして書いて行ったのであろう。道長は、物語の世界でさまざまな恋愛を書く式部を恋愛や物語に精通したものとして書かせては宮中で読ませて政治にも利用していたのではないだろうか。
2024.04.23
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源氏物語〔桐壺2〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語1話桐壺」の研鑽を公開してます。どの天皇様の御代であったか、女御(にょうご)とか更衣(こうい)とかいわれる後宮がおおぜいいた中に、最上の貴族出身ではないが深い御愛寵を得ている人があった。最初から自分こそはという自信と、親兄弟の勢力に頼む所がある宮中にはいった女御たちからは失敬な女としてねたまれた。その人と同等、もしくはそれより地位の低い更衣たちは嫉妬の怒りを燃やさないわけもなかっ た。夜の御殿の宿直所から退る朝、続いてその人ばかりが召される夜、目に見て耳に聞いて口惜しがらせた恨みのせいもあったからだが弱くなって、心細くなった更衣は多く実家へ下がりがちということになると、いよいよ帝はこの人にばかり心をお引かれになるという様子で、人が何と批評をしようともそれに遠慮などというものは起きては来ない。歴代天皇の徳を伝える歴史の上にも暗い影が残るようなことにもなりかねない。高官たちも殿上役人たちも困り、お目覚めになるのを期しながら、当分は見ぬ顔をしていたいという態度をとるほどの御寵愛ぶりであった。唐の国でもこの種類の寵姫、楊家の楊貴妃の出現によって国が弱くなったといわれる。今やこの更衣女性が一天下の煩いだとされるに至った。
2024.05.06
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