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《教育というと日本では空想めいた甘いイメージばかりで、人間性の暗い側面や社会の発展に逆行する価値に権利を与えるというような考えがそもそもテーマにならない。死への心構えにも、悪の魅力にも、正面から目を向けない。つまり教育は人間性の半分に目をつぶっている。これでは「死ぬ覚悟があるか」という邪教の教祖の端的な問いに抵抗できない》(西尾幹二『教育を掴む 論争的討議の中から』(洋泉社)、p. 3)
が、学校における集団教育において、西尾氏の言うような人間性の暗部と向き合うことは無謀と言うしかない。善悪の基準が定まっていない若者に、〈悪の魅力〉など持ち出せば、混乱を来し、収拾がつかなくなってしまうであろうことは容易に想像される。それが、個人ではなく集団であれば尚更(なおさら)だ。
そういうことに対し、一切の免疫を持たずに大人になることは、出来れば避けたいのは山々だ。が、だからといって、安易に「悪」を持ち出して、収拾がつかなくなってしまっては藪蛇でしかない。
《加えて、最近の大学改革では一般教育が追放される方向にあり、理科系の大学生にこそ必要な文科系の知性の育成が削られていく一方である。自閉的な今の若者に必要なのは、社会救済への問いではない。それはよく誤解される点である。環境問題も、消費文明の反省も、欲望の滅却も、今の若者にはどれもとおりのいい、心地よい言葉にすぎない。たいせつなのは何を求めるにせよ、歴史の評価に耐える尺度、「真贋(しんがん)」というもう1つの尺度があることを教えることではないか》(同、 pp. 3f )
高度成長期の日本人は、物質的豊かさを求め、直(ひた)走ってきた。それは、精神的なものを疎(おろそ)かにしてきたということの裏返しである。その結果、我々は、「実利」に目敏(めざと)く、実用に供しないものを軽視することが習い性(ならいせい)となってしまった。
学生は、実利に結び付くものには飛び付く一方で、「教養」( culture )といった実利に結び付かぬものには見向きもしない。が、利益と直結しないにしても、「教養」は、間接的に利益を得るのに役立っている。それどころか、目の前の利益に汲々としている人間は、長い目で見たより大きな利益をみすみす失ってしまっているということに気が付かない、などと私が言ったところで何の説得力もないのであるが、単に物質的なものだけでなく精神的なものも含めて総合的に考えれば、必ずや教養がある人の方が遥かに「豊かな」人生を送ることが出来るはずだ。