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西尾氏は、教育の自由化論が出て来た背景には、経済界が将来の日本に危機感を抱いているからだと推察する。
《まず青年層に熱気( aspiration )がなくなってきたことだ。与えられたこと以外しない青年が多い。やる気の喪失、モチべーション(興味を起こさせること)の消滅が、やがて日本経済の成長の鈍化につながるだろう、との怖れが発生した。財界人からみると今の子供はどうしようもない。いったい学校の教師は何をしているのか、と苛々(いらいら)して見ている。企業同士の活溌な競争によって日本経済は成功した筈(はず)だ。あの遣り方(やりかた)を学校に適用すべきである、と彼らは考える。ぼやぼやしている教師、たるんでいる学校をなくせば、子供たちのやる気は取り戻せるだろう、と》(西尾幹二『日本の教育 智恵と矛盾』(中央公論社)、 p. 167 )
が、青年のモチべーションの喪失はいわば世界的傾向であって、日本だけの問題ではないと西尾氏は言う。
《精神的権威が消滅し神秘が不在となり人間が無感動となった現代の地球文明の状況と、切っても切り離せない。視野が鎖(とざ)されていたとき人間は強かった。情報の拡大が地球を透明にしていくこの時代に、情熱の高揚は難しい》(同、 p. 168 )
青年に活力が失われているというのはその通りだろうし、このことに対する西尾氏の哲学的な意見に異を唱える気もない。が、経済界は、西尾氏が推察するような危機感を抱いているのだろうか。経済界は、むしろ教育は入社してから自分たちが行うから、大学で変な色を付けないで欲しいという姿勢だったはずだ。にもかかわらず、今度は教育を改革せよというのでは、あまりにも勝手すぎるだろう。だとすれば、教育の自由化の話は、経済界から出て来たとは考えにくいということだ。
《これまで均質の労働者の「和」によって、すなわち団栗(ドングリ)の背比べによって大量生産システムを成功させてきた日本の企業は、知らず知らずに異能の人間を排除していた。しかし、今や中進国に追われている日本の産業は、今後はいっそう知識集約型産業に転身していく必要がある》(同)
正解のある時代から、正解のない時代へと時代が移り変わろうとしているのであるから、次代を担う若者に求められる能力も自ずと異なってくる。例えば、正解のある時代は、〈和〉こそが重要であったが、正解のない時代には、むしろ〈和〉から食(は)み出ることが必要となり重要となる。だから、教育も変わらなければならないというのはその通りである。