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《「人生の初期に集中し過ぎた学校教育の肥大化」の原因として、「新卒一括採用などの雇用慣行をもつ日本的経営が発展し、そこでは職業生活への入り口いかんが大きな意味をもつ」(第1部第5節の)ようになったことが挙げられている…これはたしかにお役所文書としては新しい指摘である。日本の産業の成功が、学校教育に歪(ひず)みを強制しているというかねてからの私の主張を認めてもらったような気さえしてくる。しかし、ここまで言うのなら、経済の成功因が同時に教育の荒廃因であり、原因は1つだとはっきり言うべきだし、さらに日本的経営に代表される集団社会から、より個人の労働原理に立脚した資格社会、ライセンス社会に向かっていくための法改正等の具体的措置に踏み込んで行くべきであったであろう》(西尾幹二『教育を掴む 論争的討議の中から』(洋泉社)、 p. 19 )
日本社会は、「落ち零(こぼ)れ」を許さない。先頭集団からの落ち零れは、出世競争からの脱落を意味し、中間集団からの落ち零れは、平凡だが安心できる人生からの落伍(らくご)を意味する。問題は、日本社会は落後した人達の再挑戦を認めないということだ。人生は「一本道」で、一度道を踏み外せば、元には戻れない。
このような単線の人生行路は、日本社会が欧米に追い付き追い越すことを目標としていた時代の名残(なごり)である。が、欧米に追い付き、新たな目標が未だ定まらない時代において求められるのは、様々な環境に対応できる多様な人生行路であるべきだ。
それは、必ずしも「集団」から「個人」へ重心を移すということではない。日本が得意とする「協働」型社会を手放す必要はない。が、これからの時代において、何が評価され、何が必要となるのかが見えない中で、過去に成功した、一点集中、一点突破型の手法は最早通用しないということだけははっきりしている。
戦後日本は、戦時体制に懲(こ)りて「個人」を尊重するという話になった。が、個人を尊重するということと、個人を甘やかすということは同じではない。自由には責任が伴わねばならない。が、戦後日本は、個人を甘やかし、責任感のない個人を生むだけになってしまった。このような個人に社会を牽引できるはずもなく、ただ社会に「自分勝手」が巻き散らすだけとなってしまった。個人の自由が拡大することに反対するわけではない。が、日本人には、個人よりも集団を重んじる方が性に合っているのではないかと思うだけである。
行き先の定まらぬ時代において大事なのは、個人であろうと集団であろうと、目標を固定化しないということだ。如何なる時代が来ようとも、柔軟に対応できる社会が求められるのであり、そのためには、「自由化」が鍵となるということだ。