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《これまで均質の労働者の「和」によって、すなわち団栗(ドングリ)の背比べによって大量生産システムを成功させてきた日本の企業は、知らず知らずに異能の人間を排除していた。しかし、今や中進国に追われている日本の産業は、今後はいっそう知識集約型産業に転身していく必要がある。そのためには、異能の人間を救い出し、育て、その独創力を活用しなくてはならないであろう。学校教育もまた、巨人=天才を産み出すような、画一性や平等主義を排した環境に自らを改めて行かなくてはならない》(西尾幹二『日本の教育 智恵と矛盾』(中央公論社)、p. 168)
成程、これからは、〈異能の人間〉を大切にしなければならない。だから、これまでのような〈異能の人間〉を抑え込んだり、排除したりするようなことは慎まねばならない。が、それを一足飛びに〈異能の人間を救い出し、育て、その独創力を活用しなくてはならない〉とまで言うと言いすぎであろうと思われる。
〈異能の人間〉を排除しないとは、画一的な教育を改めるということであり、教育の自由化ということである。が、〈異能の人間〉を育てるとまで言うと、そのことが目的化され、逆に不自由な教育になりかねないのである。詰まり、教育の自由化とは、「画一からの自由」であって、それを飛び越えて新たな「画一」を生むような「設計主義」的なやり方ではないということだ。
《(3)は「自由化」論者がこれまでロを緘(かん)して決して言わなかった、隠された最も重要な動機である。彼らは「学校選択の自由」を義務教育段階にまで求めていた。今度の答申でもまだ義務教育にかかわる許認可や規制の見直しの項目を残している(第2部8の (1) )。この意味する処(ところ)は、私立の小中学校を自由に多数作らせる(塾を公認学校にする等も含む)。そして余裕のある親は子弟をそこへどんどん入れれば良いではないか。公立小中学校が質的低下を来しても構わない。階層分化が激しくなっても構わない。国民の統合が毀損してもいっこう構わない。これの狙いとする処は、誰にも一目瞭然と思うが、教育予算の公費削減である。義務教育の公費を大幅に余裕のある親に肩代りさせることである。一口でいえば行革路線であって、中曽根内閣が行財政改革の一環として教育改革を企てていた本当の狙いはこの一点にあったのではないか》(同、 p. 169 )
という話の根拠は何か。根拠を示さなければ只の西尾氏の邪推にしかならない。
また、教育の自由化が副次的に教育予算の削減にもなるという話と、教育予算を削減するために教育を自由化しようとするのでは意味合いがまったく異なってくる。教育の自由化論者が、口を緘さなければならないとすれば、後者の話となるが、なんともせせこましい話だ。本当に中曽根首相(当時)はそんなせこいことを考えていたのだろうか。