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《今の若者の大半が無気力で、自分に閉じこもり、社会的メッセージを欠いているのはなぜだろうか。オウム真理教に入信した高学歴者の問題は特別なケースではなく、明日どの若者をも襲う目の前の問題である》(西尾幹二『教育を掴む 論争的討議の中から』(洋泉社)、p. 1)
社会には「既定路線」というものがあり、それから食み出たものは、「異端」と見做されてしまう。だから今の若者は、型に嵌ったことしか出来ない「囚(とら)われの身」となってしまっている、詰まり、「自由」がないということだ。
《教育に関する限り現代はすでに全体主義体制で、「主体の自由」はない。すべてを計量化し物量化する思考。数と凡庸への屈服。統計学ではじき出された偏差値という科学的数字は、「あなたの未来はわかってしまった」という公的宣言である。これは受験の失敗者を不幸にする制度だから非人間的なのではない。受験の成功者を知らぬ間に無意志、無感動にする点にこそ最大の問題がある。偏差値で未来が決められた有利な人生は、若者にとって生きるに値しない人生だからである。教育が、失敗や過誤を含む生の可能性の量り難い部分に大きく門戸を開いておく余裕を失って、すでに久しい》(同)
教育もまた然(しか)り。既定路線から食み出ることは許されない。この画一的教育が、若者の「やる気」を喪失させていることは今更言うまでもないことだろう。その路線が時代に合ったものであればまだしも、時代は大きく転換しようとしているのだから、教育もまた変更を余儀なくされているに違いない。
が、時代は混迷の中にある。詰まり、これからの時代はこうなるなどという、信じるに値する「予言」などない。だから、様々な環境の変化に対応できるように教育も多様化しなければならない。それが「教育の自由化」ということの意味である。
《たとえば、有力大学同士の点数優等生獲得競争が野放しにされている「自由」に、日本の教育がいま必死に考えなければならない課題の1つがあるのではないか。日本の大学は「入口」だけが重視され、入試は無意味な記憶力競争となり、大学の「序列」は明治以来の順序で固定したままで、学問の活性化にとってたいせつな大学間競争を阻害している。同時に高校以下の教育に深刻な圧力を及ぼし、それがついに小学生をも過当競争にまきこむ危険水域を越えている、と第14期中教審で指摘されたほどである。
日本の大学だけが、他の国に例のないピラミッド型の多層的序列構造を形づくり、一部の大学に点数優等生が集中する「寡占状態」をなすすべなく放置してきた。この構造は高校以下にも波及している。全国的に序列上位の学校が下位へ向け点数の高い受験生を獲得する自由度が放任されている弱肉強食の法則の貫徹は、他の業種、他の業界にみられない完璧な閉鎖状態を呈し、子どもの世界に理不尽な不自由を強いている。
一方の自由は明らかに他方の自由を侵害している。最近は憲法の「信教の自由」の戦後風の扱い方が疑問視されだした時代だが、教育界のこの種の自由も同様なわが国の病理の1つである》(同、 p. 2 )