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《戦後、進学の量的拡大だけを自画自讃してきた文部行政も、この点に強い懐疑と改革意図を抱いたことはなかった。欧米の学問や技術をコピーしていた久しい期間、日本の大学や研究機関でも、組織からはみ出た異能の才の、ある種の貴族的遊戯精神を尊重する気風は存在しなかった。これなくして、独創的発見も、学問の其の発展も望めないのだが、学校や大学は非難される通り、「ドングリ」に順番をつけることしかなし得ないで来た。そして自動的にその順番の上位の者が特権を享受する不毛の構造に、怨嗟(えんさ)の声だけでなく、近年では能率と創造の見地からも疑問の声が上ったのである。
それが教育改革の原点であったはずだ》(西尾幹二『日本の教育 智恵と矛盾』(中央公論社)、 p. 151 )
日本は、集団から食(は)み出ることを許さない非寛容な社会ということなのか。日本人は、農耕民族であるから、集団主義的気質が有ると言われればそうだとも思われる。が、過ぎたるは及ばざるが如(ごと)しで、集団主義に過ぎ、個人の自由が抑圧されては、集団が不活性に陥ってしまうに違いない。それではその集団は生き残れない。
《答申の第2部が抽象的なお題目の羅列、第2部が委員の力量を越えた大風呂敷の開帳に終わり、教育改革のあの原点は何処へ行ってしまったのかと私は不思議に思う。私が理解している原点とは、「ドングリ」の背比べに代る異色異能な人材の育成、世界に寄与できる独創的な才能の発掘、といった方向が1つある。次いで、後期中等教育までがほぼ義務となっている現状の中で、学校は抑圧機構と化し、閉塞感と不公平感が急速に拡がっている。受験競争、いじめ、校内暴力に代表される病理現象の打開が、求められているもう1つの方向である》(同、 p. 155 )
西尾氏は、問題に対し直接働き掛ける方途を考えておられるのに対し、私は、間接的に対応すべきだと考える。その理由は、そもそも何がどう問題なのかを見抜けるほど優れた洞察力が私にはないし、見抜けたとしても、その対策がどのような副作用を生じるのかが分からないからである。譬えて言えば、副作用が出るかもしれない薬で治そうとするよりも体質改善こそ考えるべきなのではないかという立場である。詰まり、個々の問題に対処しようとするのではなく、教育環境こそ改めるべきだという立場である。
《前者が長期的ヴィジョンを要する、息の長い国民性の変化の中で徐々に達成されるべき目的なら、後者は対症療法をさえ要する緊急課題である。前者の目的の性急な推進は、往々にして後者の病理を拡大し、それに復讐されて、前者の目的達成さえじつは覚束(おぼつか)なくなる、ということを私は今までに幾度も書いてきた。
外見的に相反しているこの2方向の病理はじつは同一の原因に発しているものの、後者の現実は前者の理想より、全包囲的作用を及ぼす威力を持っているからである。いつの時代にも理想より現実が強い。「個性の重視」はたしかに2方向の解決のどちらにも通じる、運用いかんで有効な理念には違いないのだが、残念ながら現段階では単なるスローガンの域を出ない》(同)
私が言っているのは、時間の掛け方の問題ではないのだが、恐らく私のような曖昧な改革案では、〈スローガンの域〉にも達さないと一蹴(いっしゅう)されてしまうのであろう。
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