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こんどの日曜2008年6月8日に、私が園医をさせていただいている横浜市金沢区のルンビニわらべ園(幼稚園)でシュタイナー教育と医学の講演を行います。お時間のある方はぜひご参加ください。申し込み方法は案内ちらしをご覧ください。
2008年06月04日
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第四回バッチフラワーコンフェランスでの質問に対するお答えの続きです。以下本文『質問: 講演後の質疑応答で石川先生は「人間ではなく、動物に対してなら、波動測定器を使うことも有効です」とおっしゃったと思うのですが、どのような意味なのか詳しく説明して下さい。答え:(アントロポゾフィー医学のための医師会に属する医者としての立場から答えています)ルドルフ・シュタイナーは、人間が「肉体(物質体)」「エーテル体(生命体)」「アストラル体(感受体)「自我(霊)」の4つの構成要素で成り立っていると説明しています。同時に、世界そのものも、物質界とエーテル界、アストラル界、神界の4つの世界が重なり合ったものであり、我々の肉眼は物質界だけを認識していると述べます。シュタイナーの人間観と世界観を、バッチフラワーレメディを理解するための参照図として利用した場合、私達が「否定的な感情」= 「自分としてはそのようでありたくない状態」を自分で認識し、その感情状態を指標にしてバッチフラワーレメディを選択、服用するプロセスそのものは、本来の人間の在り方(あるいは目指すべき在り方)と比較して「歪んだ」「傷ついた」「複雑化した」状態をレメディの助けによって「直し」「癒し」「単純化」して、シュタイナーが「自我」と呼ぶ「人間の本質(霊性=私)」をこの世界に輝き出させるプロセスであると理解出来ます。シュタイナーの精神科学では、・動物では「物質体、エーテル体、アストラル体」までが物質界に出現しているが「自我意識」はアストラル界に留まっていると理解されています。・植物では「物質体、エーテル体」までが物質界に出現しているが、「自我意識」は低次の神界にとどまっていると理解されています。・鉱物では「物質体」だけが物質界に出現しており、「自我意識」は高次の神界に留まっていると理解されています。人間とこれら3大世界(鉱物界、植物界、動物界)に属する存在を比べた場合、両者の最大の相違点は、「私」という意識がその存在を通じてこの世界に現出する事が求められているかどうかにあります。つまり現在の地球上で「人間以外の動物」に分類される存在たちは、この世界への関わりに関しては「自我意識」を発展させることを自らの存在課題とはしていないという事です。従って、動物の一生とその生命プロセスに関わるという事は、人間の感情とその人生の歴史に関わる事とは、意味合いがかなり異なることなのです。援助者として動物に対する時の私達は、丁度過去の西洋医学における医師患者関係のように、患者たる『動物』に対してあたかも父親や母親のように、ひたすらこれを保護し、導き、回復を手助けしてあげなければなりません。これは医学の世界では「パターナリズム」と呼ばれる医療者の態度です。一方相手が「私」をもった人間である場合、私達が援助者として為し得る最善の行為は相手が自分自身の「私」を強め、すべての他人の影響力から自由になる道を指し示す事です。上記の内容を明瞭に理解した場合、自由意志をもつ人間に対して『波動測定器』を使ってレメディを選ぶという行為が、一見相手を助けているように見えながら実は「自我意識ある人間」を「自我意識なき動物」のレベルに貶める行為だということが理解できます。これは同時に「完成されたシステムとしてのバッチフラワーレメディ」の、その『完全性』を失わせることでもあります。以上の事柄を理解した上で、なお私が「人間ではなく、動物に対してなら、波動測定器を使うことも有効です」とお答えしたのは、経験があり有能な獣医師である阿部先生が、講演の中で事前に『私はまだ動物の言葉を理解出来るレベルに達していないので、次善の策として波動測定器を使用しています』とハッキリ述べておられたからです。ですから、『動物の存在様式が前述のようなものである事を理解した上で「波動測定器」を使用する場合は、その使用がもたらす過ちは、相手が人間である場合と比較すれば許容できる範囲であり、動物の感情状態を推定するための道具として考えれば、波動測定器はおそらく有効でしょう。』とお伝えしたかったのです。コンフェランスの当日と今回の回答に関して、私がルドルフ・シュタイナーの精神科学の理論を説明の一部として用いているのは、私が医学者として取り組んでいる「精神科学」の理論が、レメディの作用機序である『タマネギの皮むき』というプロセスをより明確に理解する助けになると考えての事です。しかし、バッチフラワーレメディの恩恵に浴すためには「自分の感情を見つめてレメディを選び、飲む」というシンプルな原則だけが必要とされており、シュタイナーの精神科学やそれに関連した一切の知識は、実践上はまったく必要がないのだという事も、私は強調しておきたいと思います。』
2005年09月12日
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人は道徳を他人から教えてもらう事は出来ない。それは霊的認識を人から教わる事が出来ないのと同じである。ただ、認識に至る道を指し示してもらう事が可能であり、その道を歩むかどうかは歩む本人の選択にかかっている。高橋巌先生が訳された『シュタイナー宇宙的人間論』を昨日読み終えた。7月18日に早稲田のフォーラムスリーを訪ねた際に購入した本である。理解する者には、すばらしい洞察を与えてくれる本と言える。その本の最後の章、第12講に霊的、道徳的なものの源泉という段落があり、シュタイナーは前段で『道徳的、霊的なものに対する感情は、ますます背後に退いてしまい、近代文明は、たとえば教育において、ますます外的事情に眼を向けるようになりました。ですから、「いつもはどうなのか」「何が規則なのか」「どんな掟があるのか」「法律はどうなのか」、などと考えます。良心に根差した内的な衝動に注意を向けることはめったにありません。自分で方向と目標を定める、ということは、近代文明の中ではますます少なくなり、その結果、霊的、道徳的なものが、今日では多かれ少なかれ因襲的、伝統的なところでしか生きられなくなったのです』と語り、第12講で次のように述べる。『人間性における道徳的、霊的なものの本来の源泉は、人間の相互理解の上に立てられた人間愛だけなのです。』と。彼は『Oness』の認識だけが人間愛の源泉であると述べているのだ。そして、真の道徳的、霊的な感覚というものは、この認識に由来する「内的な衝動」によるものであり、外部環境や他人によって押し付けられるものではないということもここで明らかに説明している。この後の段落でシュタイナーは古今の秘儀参入者が取り上げたもう一つの重要な命題、『人間の相互無理解と憎悪はどこから立ち現れるのか』についても語っている。それらを、人間の構成要素と、地球領域の構成要素との兼ね合いから具体的に説明している。すばらしい。
2005年08月01日
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