奇跡のコース&癒しの世界へようこそ♪

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2012.02.17
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カテゴリ: 仏法
「形而上における分離の概念(夢)の発生」

 存在と存在の思考-心-意識によって存在性を与えられた子は、
 存在の中で、自由に創造を楽しみ、存在と共に拡張(延長)し続ける。

 しかし、存在の子が、ある時、存在から離れられないことを知りながら、
 存在から離れて、自分が好き勝手にできる世界を創造したいと願う。

 だが、すべてである存在と存在の子が離れることはありえない。
 存在の子は、存在の中で生まれた霊だから。 
 そこで、自らが存在から離れる夢を見る。
 存在の光・愛を拒否することで遮ぎり、反転-逆転させる幻想の世界を作り出す。


 その結果、自らの創造(想像)性により闇に覆われることになる。

 光の中で黒点のように浮かぶ存在の子は、忘却-無-夢-意識に入る。
 その投影反転された世界は、
 実相の世界には存在しなかった反対の極性-闇の特性を帯びることになり、
 その後、存在の光(記憶・イデア)をプリズムのように分光し、
 色調の違いを生み出し、バラバラな想念になり、
 形態(イメージ)、言葉による名称・区分の世界を闇の中で投影する。
 それによって、分断された意識のすべては、影(罪-罪悪感-罰)の意識をまとうことになる。

 バラバラな映像の流れがイメージされた世界の中では、
 光と闇の分裂に基づく無限の物語が展開され、
 光を区切る影(闇)、根源的な罪-罪悪感-罰が

 その世界では、存在の子が創造主であり、
 自らが愛の光から離れたいという密かな願望と決断の結果として
 「闇」をつくりだしたことを知っている。
 このため、愛の光を価値のないものとしてかなぐり捨てた自分の罪による恐怖から、
 あらゆるネガティブ(否定的な)感情を体験することになる。

 このような無意識による混沌、
 そして光と闇の分裂、陰陽のイメージとして象徴されている。

 真の自己←→真の自己を忘れる
 目覚めている(自覚)←→眠っている(無自覚)
 ある←→(存在・神が)ない
 ひとつである←→分離(の夢)
 完全な意識←→無意識になる(夢の中にいる自分・分離の概念=自我の発生)
 光←→闇(相対性の概念の発生)
 存在する←→本来は存在しない想像上の世界(夢・幻想の世界の発生)
 真理←→幻想(夢)
 愛←→恐れ(分離の夢→光から逃れ隠れる→闇→罪→罪悪感→恐れ)
 神←→神と神の子の分裂の夢
 全か←→無(夢)か
 存在=神→存在(神)の子←→自己が何ものかを忘れることで、何者かになる自我の形成
        (光の中の黒点のような状態)

 存在(神)の子←→自我(分離の概念:分離を信じることによって作り出された想像上の自分)
 無辜(ムコ:無罪性)←→辜(コ:罪)
 原因と結果の同一性(原因と結果が一なる存在の中にある)→原因←→結果の分離
 絶対←→相対
 光←→闇のなかでの光と闇の権力争い
 全てである←→分離-愛が見えなくなる-存在が無くなることによる欠乏の原理
 智識(知っている・自覚・明)←→幻想・夢・投影の世界(知らない・無自覚・無明)
 真の名(名前・仏教における名(みょう)=心のこと)←→真の名を忘れ、物質世界の名を持つ。

 存在(神)の子が、無意識(闇)の中で、
 自らが分裂次元・物質宇宙の創造主になる夢の世界が想像される。
 無意識は、仏教でいう阿頼耶識(あらやしき)に近い。

「形而下-存在の子の無意識によって投影された次元・相対性・物質世界の領域」

 自らのアイデンティティーを忘れ、物質・肉体・色(シキ)となり存在する夢物語」
 無意識となった存在(神)の子が、形而上の世界で夢を見ている。
 それは、私たちの身体が眠りにつくとき、
 一時的に、人生・肉体・物質・色の重荷から解放されて安らぐ場所のように機能する。

 無意識は、様々な次元・相対性の領域・物質宇宙を投影する源となる。
 そして、存在から隠れるように、自らが投影した世界の中へと
 意識を無数に分裂させ、様々な物質や肉体(無意識の装置)の中に意識が隠れる。

 存在→存在の子(実相・天国の領域)→
 存在の子の分離の夢→無意識になる→
 存在の完全性を価値の無いものと考えたため闇を体験する→
 罪・罪悪感・恐れが生じる→自らの影の思考体系=自我・狂気の思考の囁きの誘惑→
 存在からの罰を恐れる→次元・物質宇宙を投影(1)する→
 物質や肉体の中に意識を隠す→物質や肉体と意識が同一化する→
 物質宇宙の中で何者かになる夢物語の主人公になる→
 身体から自らが投影した外側の世界を知覚することになる→
 身体は無意識の装置(デバイス)として機能する→
 投影後の世界の結果として生きることになる。

 肉体は分裂した無意識のデバイス(装置)として機能するため、
 投影された物質世界に意識を拡散・分散し、様々な自我意識になる。

 その投影された物質宇宙の中にある存在の意識状態では、
 真の自己はもはや微かな光の記憶になっており、
 無意識の被造物(身体)、知覚者、物語の主人公として、
 無意識から投影されたコマ送り映像の結果として生きるようになる。

 このため、意識は、投影された舞台装置(環境)の中で、
 ある両親から誕生する肉体の結果として、
 物事のすべてを思考するようになり、身体が先で、意識が後であるという
 本末顛倒した思考の中で、自分とは何者なのか、何者になり得るのかを考える。

 しかし、肉体が自らの生命を自覚する原因を考える場合、
 肉体・物質があっても、そこに意識ある存在がなければ、それは動かない。
 つまり、世界そして身体を知覚する存在なくして、世界も身体も意味を失う。

 また身体のすべて(死体)がここにあったとしても、
 その動かし手がなければ、身体は動かなくなることを考えるなら、
 私たちの本質とは身体ではないと考えることができる。

 また、私たちが深い眠りに入る時、
 意識は一時的に身体と同調・同一化しない忘却意識の状態で存在していることがある。
 この時、物質次元から、意識が一時的に離脱していると考えることもできる。

 身体や人生のことを忘れてしまったとしても、存在していないわけではない。
 ただ身体の知覚から解放された無-忘却-意識の状態に入っているだけである。

 眠りとは、意識が時空間の中で、死を装い、様々な次元や物質宇宙を
 存在から隠れるように、旅をしている状態なのかもしれない。

**************************************

 エッセンシャルプロセスでは、顕在意識(理性)を通して、この現実の中で、私たちが身体として感じる問題やストレスについてもセッションを行います。 また、身体という無意識の装置(デバイス)から、投影元の情報にアクセスすることで、顕在意識から無意識に隠されている破壊的・自滅的な信念体系を見つめます。 そして、それらの信念体系をファシリテーター(促進者)・クライアントという枠を超え、手と手をとりあって(キネシオロジーでは、その人の問題や隠された真実を主に手を通して筋肉反射情報を取ります)一緒に少しずつ超えていきます。

  エッセンシャルプロセスでは、クライアントに、私たちの考え方や答えを強制することも一切ありません。

 また、ファシリテーターは、クライアントに無意識からのメッセージを伝えたり、身体意識のバランス調整による解放技術でサポートしますが、精神・感情的なストレスの解放後に、クライアントがどのような自分を選択するかの原則として、自由意志を尊重し続けます。 つまり、私たちが知っているという立場をとったり、ファシリテーターが何らかの答えを誘導するようなことも一切行いません。

 なぜなら、精神・感情的なストレスをクライアントの意識が乗り越えたとき、それまで無意識の奥に隠されている自らの存在からの真実・真理・答えが導き出されるからです。 それこそが、エッセンシャルプロセスの本当の目的だからです。

 この方法の目的は、私たち自身が作り出した様々な信念体系の枠組と人生の問題を超えて、私たちの本質、存在からすべてを見つめなおすことにあります。

 ですから、このプロセスはまず、「顕在意識→潜在意識→身体意識」を通じて、無意識へ入っていき、それが作り出している幻想を手放し続けます。 真理において無意識は、分離した意識の総体であり、私たちの真の存在「ある」を隠し続ける働きがあるのです。 しかしながら、この防衛と攻撃に満ちた世界、そしてその投影元である無意識に対して、それらのすべての意識・信念が本来存在しないということに気づき続けることができるなら、「私たちはそれらを通り抜け、通り過ぎていく者である」こともできます。

 これは、顕在意識から無意識を見つめ続けることで、眠りから少しずつ目覚め、私たちの存在の本質を批判なく観察するプロセスということもできます。

 また、仏教の勝義諦(ショウギタイ):世間諦(セケンタイ)の3つ=心・心所(心と共に発生する精神的な働き)・色(シキ:物質)、つまり有為(為すことがある、必要性がある存在世界)という自我によって作り出された分離の概念を超え、無為(為すことがない、必要性のない存在の状態)の涅槃(ネハン)の自覚も目指します。

※勝義諦(ショウギタイ)=3つの世間諦(心・心所・色)と涅槃

 有為(為すべき必要なことがある)から無為(為す必要がない)の境地への移行は、分離(夢・幻想・眠り・無自覚・無明・無痴)の概念から離脱し、ひとつである存在の境地への自覚・目覚め・真の目的の成就と言うこともできます。

 ですから、このようなテーマはとても深遠であり、真の自己・真理へつながる道の探求でもあります。 しかしながら、全ての意識レベルを自覚しながら、身体の知覚に基づく判断や批判(ジャッジ)を少しずつでも手放していくことで、自らの深層意識、真の自己の存在性を体験することができると個人的に感じています。

 私たちは「旅に出たようでいて、じつはどこへも旅に出ていない」という真実・真理を、自らの存在性の探求によってそれを自覚できるようになるかもしれません。

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岩倉カイロプラクティック院

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最終更新日  2012.02.18 22:38:56
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