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正義道徳自由権利美徳時間・・・って、一体何なんだろう。こうした抽象概念は、ハナから存在するものに人間が名付けたのか、はたまた、人間が勝手なものさしを持ち出しただけなのか。僕らはそれにどのような価値を与え、生きる指針の中のどこにどう位置づけたらいいのか。気ににゃる。といっても、こいつらより夢中になってる、ここ数年で最も興味深いテーマは、「『分かり合う』とは何か」僕らは、僕らの中の何がどうなっている状態を「分かり合っている」と感じるのだろう。実存的な意味では何も共有なんてできやしないのに。ほんで、なぜ分かり合えるのか、または、分かり合えないのか。この人とはどうしても分かり合えないというのは、なぜ起こるのか。相手の論理を冷静に聞くと、共感はできなくとも、それはそれとして納得できるケースもあれば、感情が優先して聞く耳すら持てないこともある。それが、先入観や偏見から来るのであれば、どのように打ち破ればいいのか。憎しみや怒りがどこから来るかと考えたとき、「分かり合えなさ」であることも少なくないと思う。そうした負の感情を無くしたい。→その一端と思しき「分かり合えなさ」を解消したい→「分かり合えなさ」の仕組みを知りたい→「分かり合える」という状態が何かをまず捉えたい できれば脳科学的知見を応用して、 客観的に測定可能な神経伝達物質や脳血流量などで示したい本職としなくても、考察は続けたいと思える、自分にとってでっかいテーマです。
2010.06.29
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私たちは、職業や商品などさまざまなものを選んで、生きている。一般的には、その選択肢は多い方が「自由」、その反対が「強制」であり「不自由」ととらえられる。しかし、選択肢は多ければ多い方が自由度が高くて良いかというと、そうでもない。サンドイッチ屋で、パン、具、ソースの種類から、パンの焼き加減まで、あらゆるものを選べる状況を想像してみる。よほどサンドイッチにこだわりがある人でない限り、嫌いなものを入れないで、あるいは、この具は食べたい!といったわずかな選択肢だけで十分だと感じるのではないだろうか。逆に、選択肢が少ないがそれ以上を求めないというケースもありうる。ハンバーガーとコーラしか置いていない店。ポテトのセットもなければ、チーズバーガーもない。だが、その特定のハンバーガーが、他に目をくれる必要のないくらい、美味しいものであれば、そこに不満はない。また、どれだけ選択肢があっても、すべて選びたくないこともある。経済的に余裕が無く、職もない。金を稼ぐ手段として、売春、麻薬密売、臓器売買、暴力団の言いなり、などなどさまざまな提案を持ちかけられ、どれか一つを選ばなければ今日の飯も食えないとする。選択肢の数と個人の自由(満足)は比例しない。つまり、自由は、選択肢の種類という客観的な指標で置き換えられても、それをいいとするか悪いとするかは個人の主観に依る。だから選択肢の多さは、個人の自由を必ずしも保障するものではない。用意された選択肢に、自分の望むものがなければ、その数には関係なく「不自由」と言える。しかし、その個人が、用意された選択肢を望む「フリ」をしたり、他に選ぶ物が無いため仕方ないと理由で「自らそれを望む」ことがある。自分で選んだという行為が、それを望んだはず!との見解が導かれ、一見「自由」のものもある。「こっちがこれだけ選択肢を用意したのだからその中に望むものがあるはず/相手の望みをかなえてやってる」とか「文句を言わないから満足しているはず」とか勘違いも甚だしい。行政のサービスにありがちだが、個人の幸福や自由を保障しようとするのなら、「選択肢を用意すること」ではなく、「個人の望みを叶えること」に主眼を置いてほしいと個人的には思う。++++++++待機者いっぱいいるから、入る箱(特養)をつくれ、っていうのはいかがなものか。待機者がなぜ待機してるのか、何を求めてるのか。それしか選択肢がないと思い込んでいるからそこに待機せざるんじゃないか。補助単価を上げたり、補助に関する予算総額をアップしたり、は、大きく違うんじゃないかと思う。偉い人たち、自分自身は特養に入りたいのかな。「(自分は望まないけど)色々な事情でそれを望む人もいるから、 その人たちが選べるように箱(選択肢)をつくっておこう」なんて、その人が実際何を望むかも知らないで口にできるもんかね。(それ聞いた時に「は?」って聞き返しそうになった)色々な事情の中に「経済状況」があると分かってんなら、そこへの支援をなぜしない。よく分からないです。
2010.06.27
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2.5カ月振りの日記。最近このパターンが多い気がする。。。この間、めでたく誕生日を迎え、四半世紀を生きたことになりました。0時ジャストから23時59分まで、相方に祝ってもらえてはっぴー。1年前よりは、仕事に進歩があってはっぴー。(まだまだ一人前までの道のりは長いけど・・・)ずぅっと前から私の担当媒体を講読してくれてる団体が、ここへ来て関連事業所の全6カ所で講読したいと言ってくれて、はっぴー。あちこちの取材先で、いろんな人たちに構ってもらえてはっぴー。職場の上司が結婚して、はっぴー。東京事変、クラムボン、スキマスイッチ、アジカンなどなどニューリリースのアルバムにいい曲いっぱいで、はっぴー。幸せの閾値は低い方がいい、というのが持論の私です。はっぴーがいっぱい(*´∀`*)ノ?+++・・・これは、「私の視点」。生きてくには「私の視点」と「世界の視点」の両方が必要、と聞く。私は、「私の視点」としてはっぴーを積み重ねる一方、「世界の視点」ではっぴーの具合を見ていたい。それは「世界」をどう定義するかによるけど、「他人の集合体」とするのであれば、はっぴーはあくまで主観的判断なので、特定の他人の視点に立てなくちゃならない。「目の前の誰か」に始まり、「同じ職場」や「地域」、あるいは「日本」といったグループも含め、人間にはそれぞれの視点と価値観があることをよく弁えた上で、それぞれの他人のはっぴーに寄与したい。「知の蓄積」とするのであれば、過去に積み重ねられた知を学び、それに上積みできるだけの知を紡ぎ出さなきゃならない。それが、これまで生きて来た人への敬意であり、これから生きる人への貢献、なんじゃないかな。ほかにも定義の仕方はいっぱいあるけど、どの視点であれ、これは生きるための姿勢につながるもの。ここを若いうちにに確かにしておかないとあかん気がする。+++酒の席で、ご年配の方に「どこでどう死にたい?考えたことある?」(≒ちゃんと考えなきゃだめよ、死って大事なものなんだから)と半ば説教的に訊かれ、即座に「分かりません」と答えた。「よく生きることは、よく死ぬこと」。僕らみたいな、まだ何も成し遂げてない(=よく生きてない)若造は、今から死に様聞かれたって分かるわけない。それより先に考えるべきは、どう生きたいか、っしょ。ある程度、年齢を重ねた人であれば、統計的に若い人より病気にかかることは多いし、寿命に近づくわけだから、死に向き合う必要がある。延命治療やら生活の在り方やら、心構えと意思表示が大切にもなるのだろう。だけど、それはライフステージごとに考えるべき課題の一つで、僕ら若者はまだその時期ではないんではないかと。中途半端に成長したこの日本では、特に若いもんは、何も学ばなくても何も努力しなくても、惰性だけで生き長らえる(⇔よく生きる)ことができることを、よく知ってる。実感のない「高度経済成長」とやらが、今後は恐らくないことも予想してる。身近にあからさまな戦争がないから平和ボケが蔓延。形だけの理論をまとい、権利だけを主張し、金や労力は惜しむくせに、もらえるものだけもらおうとする人もいっぱい。生に真っ向から向き合わないことを、景気の低迷や、精神的に豊かでない社会を原因にしても、お咎めなし。そんな中で、自分が、自分の知ってる人が、自分の知らない人が、どうやってはっぴーに生きられるか。約46億年も続いて来た地球の一部として、どうやって過去と未来の橋渡しをするのか。どうやって、自分の生をまっとうするか。って若者達が考えないことの損失は、死を意識しない損失より、はるかに大きいと思う。友人を見渡しても、そのあたりで2極化してるように感じており、未来背負っていけんのかと心配する。同年代だと東大行っても「外資系大企業に入って30歳までに稼ぎまくり、 早々に退職して悠々自適に暮らしたい」というような人も少なくない。てめーのことしか頭にねーのか、とつっこみたくなるくらい。自分のはっぴーまともに考えられずに、他人のはっぴーの視点なんて分かる訳ないし、よく生きるという概念持たずに、よく死ぬことに気を回せるはずが無い。私も、「最近の若者」の一人で、社会を割とナナメから見ているし、生きることに対する欲もあまり無い方だと思う。いつ死んでも、たとえ今死んでも、「まぁいいか」って思う。だっていつかは死ぬわけで、毎日どこかで誰かは死んでるわけで、それが人ってやつで、生ってやつで、誰かが悲しむといってもそのうちに癒えるわけで、たいした話じゃない。でも、だからこそ、そうした世界の一部として、生きてる以上はよく生きていたいと強く思う。25歳。先は長いか短いかわからんわけだし、無駄にしていい時間なんて一瞬だってないわなと改めて思った次第です。
2010.06.26
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