全38件 (38件中 1-38件目)
1
裁判の被害者側の証人の証言に食い違い 片方の証人(A氏)は、腰を深く曲げて最敬礼している被害者の姿を見ていたので、被告が振り下ろした鞄が被害者に当たったところは見えなかったと証言していますが、もう一人の証人(B氏)は、扉のガラスから入ってくる光が逆光になって、鞄が振り下ろされたところは見えなかったと証言しています。つまり、お二人とも被告が鞄を振り上げたところは見ているが、それを振り下ろしたところは見えなかったということなのですが、鞄が被害者のカラダに当たった音は聞こえたということはお二人とも証言しています。 A氏は「一瞬の出来事」(「 」内は傍聴メモからの引用)だったからよく見えなかったと繰り返し証言し、被告の鞄を持った手が見えたのは、殴打が終わった後だったと証言しています。しかし、ここに実に不思議なことがあります。多くの方々は、プロのボクシングの試合をご覧になったことがおありかと思いますが、ボクサーがパンチを打ち出した時に、それが速すぎて見えなかったということがおありでしょうか。あのパンチの破壊力は、ボクサーの体重と拳の移動速度によって決まります。ボクサーの体重はほぼ一定ですが、拳の移動速度はその時々によって異なりますが、通常、私たちはあの移動速度で移動している物体を認識することが出来ます。 高速道路のすぐ近くで時速100kmを超えて走っている車でも見失うことはありません。時速100kmは、秒速約28mです。25メートルプールのスタート台とプールの向こう側までの距離よりも少し長い距離を約1秒で進むものなのですが、「一瞬の出来事」であっても、鞄をその速度で振り下ろすことは、かなり難しいだろうと思います。「目にも留まらぬ速さ」という表現がありますが、多くの方々はこの速度で移動する物体を視認することが出来ます。 また、B氏の証言では、逆光で見えにくかったということなのだが、このことに関しては、何人かの方が書かれているので省略することにしますが、逆光だと、それを背にしている人物を認識しやすくなるケースがあるので、映画などの撮影の時に、わざとその位置で撮影することがあるようです。カメラの絞りを少し絞れば、それが可能です。そして、人間の目の構造は、ほぼカメラと同じです。水晶体がレンズで、瞳孔が絞りで、網膜がフィルムやCCDに当たるのは皆さんもご存じであろうと思います。ですから、逆光を受けている時には、基本的には瞳孔が狭くなっていますから、そこにいる人物の行動が見えなくなるということは極めて稀なことではないかと思います。
2011.01.30
日本聖公会小審判廷 「糾す会」がまだ「考える会」だった頃から、私のところへもメールが転送されてきていました。そして、日本聖公会京都教区の側の公式文書もPDFファイルやJPEGファイルで送られてきていました。その中で、一番気になり続けているのが、2007年11月23日の日本聖公会京都教区の定期教区会で配布された「常置委員会特別報告を受けて」というK主教の文書の一節です。 こう記されている部分があります(個人名はアルファベットの頭文字表記に替えます)。 「FH元牧師については、2年前に一身上の都合を理由とする退職願を受理し、退職が決定しました。このような場合、「終身停職」の懲戒(法規第201条第4項)が相当と一般的には考えられると思いますが、「終身停職」でも5年後には復職願いを提出することが可能とされており(第217条)、一方、「一身上」という事由は止むことがありませんので、実質的な終身停職を貫くためにはこの選択の方が適当と当時判断しました。また、懲戒を行うには審判廷の審判によらなければなりません(第197条)が、日本聖公会の審判廷への懲戒申立には「3年の時効」(第210条)があって、現行法規では審判廷によって懲戒することは非常に困難であると思われます。」 ここには、二つのことが記されています。一つは、「懲戒が相当と一般的には考えられる」と述べながら、「『終身停職』でも5年後には復職願いを提出することが可能とされており(第217条)、一方、『一身上』という事由は止むことがありませんので、実質的な終身停職を貫くためにはこの選択の方が適当と当時判断しました。」としていることです。ここに重大なミスがあります。たとえ5年後に復職願いを出したとしても、京都教区がそれを認めなければ復職できないということが述べられていません。これは明らかに、日本聖公会法規の条文の一部を隠蔽しているとしか思えません。もう一つは、「懲戒を行うには審判廷の審判によらなければなりません(第197条)が、日本聖公会の審判廷への懲戒申立には『3年の時効』(第210条)があって、現行法規では審判廷によって懲戒することは非常に困難であると思われます。」とされていますが、時効の起算日をいつだと考えるのかによっては、時効そのものが開始していないということも考えられるにもかかわらず、K主教はそれにはまったく触れずに、勝手に「時効が完成してる」がごとき発言をしています。 こうした重大な問題をそのままにしておきながら、被害者とそのご家族との和解調停を、裁判所に申請したのは、間違いなく暴挙であると言わざるを得ません。近日中に、日本聖公会の小審判廷が開かれるそうですが、こうした暴挙も含めて、きちんと審判していただきたいと思っています。日本聖公会の法規の懲戒規定は、主教が独断で何かを決定し、それを強引に押し進めることがないようにする為に作られたと聞かされてきました。そして、被申立人が小審判廷に出廷するかどうか疑問視されているようですが、一方的な審判をしないためにも、被申立人が出廷するように、誠実に努力していただきたいと思っています。そして、被申立人が出廷しないときは、争う意志がないと認めるという審判廷の規定をきちんと履行していただきたいと思います。そうであれば、出てくる答えは一つしかないように思えます。
2010.07.04
笑止千万 それにしてもおかしなことが起こっているようですね。日本聖公会京都教区の聖職を審判廷に申し立てている方のお一人が、大阪教区の審判廷に申し立てられているようです。理由は「不道徳」だそうですが、あの方がされたことの中の、何が「不道徳」なのかまったく判りません。それとも、京都教区の聖職者を審判廷に申し立てたことが「不道徳」なのでしょうか。だとしたら、どう考えても日本聖公会京都教区だけでなく、日本聖公会全体がカルト教団になっているとしかいいようがありません。 審判廷への申立は、日本聖公会の法憲・法規ではっきりと認められていることですから、それを「不道徳」とすることはどう考えてもおかしなことです。しかし、日本聖公会では、主教は法憲法規を超え手判断できるようですから(京都教区でその実例あり)、主教審判邸に申し立てることは「不道徳」だとすることが出来るのかもしれません。だとしたら、日本聖公会はやはりカルト教団になりはじめているのではないでしょうか。 何しろ、京都教区における当時は現職司祭だった人物の女児に対する性的虐待事案を、その司祭が「事実無根」と言いだしたら、それだけを信用して、京都教区はあの司祭を復職させ、常置委員長に戻してしまったのですから、最早手の打ちようがないほど、カルトになってしまっているとしか思えません。そして彼らは、管区の小審判廷が開かれる前に、何とか被害者とそのご家族と和解しようと、裁判所に調停申請してしまいました。どなたかがそれを京都教区におすすめになられたのかもしれませんし、京都教区がご自分達で判断したのかもしれませんが、キリスト教会としては最悪のことをしてしまったことにしかなりません。京都教区とその京都教区内の教会の信徒との和解調停を、こともあろうに国家の裁判所に申請してしまったのですから、神学的にも自己破産してしまったとしか言いようがないのではないでしょうか。 そして、京都教区は「糾す会」を排除しようと躍起になっているようですが、かつて大学紛争を収拾させるのに、特定の学生達を大学側が排除しようとしたことと同じことをしているのに、気が付いていないようです。そして、左翼的発言を繰り返してきた人々も、自らの立場を確保すると、それを失わないようにと権力者に媚を売っているように見えます。フェミニズムを司祭が容認し、あるいは主教が容認したのは、そのあたりに理由があったようにも思えていますが、もしそうだとしたら、日本聖公会は社会的組織として破滅への道を歩んでいます。世界の歴史がそれを実証しています。
2010.06.17
虚 言 癖 日本聖公会京都教区で起こった女児に対する性的虐待事案の裁判で出てきた言葉の一つに、「虚言癖」という言葉があったようですが、被害者に対してそれが発せられていたいました。「糾す会」や被害者のご家族の代理人の方々はお優しい方が多いのでしょう、日本聖公会京都教区の主教に対して「虚言癖」という言葉をお使いになっていらっしゃらないようですが、私が知っている限りでも、数回にわたって主教は事実と異なることを文書に記していらっしゃいました。 被害者のお父様が同意しているかのように書かれた文書を配布したこともありました。それを「糾す会」の方々が追求したら、「あなた達もよくやってることだ」ととんでもないことをおっしゃったそうですが、ご自分では、そのことをどう思っていらっしゃるのでしょうか。そして、和解調停に関する文書には、「糾す会」の方々が行ってもいない幼稚園の説明会で、ビラを撒いて妨害したと書かれていたそうで、「糾す会」の方がそれを指摘したら、あっさりとその部分を削除されたとか。 そして、日本聖公会は京都教区が裁判所に調停申請したことをどうお考えなのでしょうか。万が一この調停が成立したら、国家権力が教会の中に入り込んでくることを拒否できなくなるのでのではないでしょうか。戦時中には、確か日本聖公会にも、日本の軍国主義的行動を批判し続けた司祭さんがいらっしゃったと思うのですが、日本が道を踏み外そうとしている時に、日本聖公会は最早、何も語ることが出来なくなるのではないでしょうか。それとも、日本聖公会は、イギリスの女王の軍隊に国教会の司祭がいるように、日本の軍隊に従軍司祭を送り出したいのでしょうか。 日本聖公会はこれまでに、国家と教会の問題に関して、徹底的な議論を為さってこなかったように聞いていますが、日本聖公会の神学者の方々はどうお考えなのでしょう。一刻も早く、あの和解調停の申請を取り下げないと、日本聖公会は真実の意味での、キリストの教会として立ち行かなくなるのではないでしょうか。しかも、京都教区は代理人の方を拒否されているようですが、それほどまでに被害者を裁判所に引き出したいのでしょうか。そして、和解するのであれば、裁判所ではなく教会の中で、いままでの過ちをすべて謝罪し、真実を明らかにすることが一番大事なことなのではないでしょうか。
2010.06.05
日本聖公会の人権意識 その2 日本聖公会では人権に関する議論など、ほとんど為されていないのではないでしょうか。まさか、「人権」を口にしたら、「あれはアカだ」とは言わないでしょうが、しかしそれに近いことがあるのではないでしょうか。最近は、加害者の人権が重要視されている程ですから、被害者の人権については当然重要視されなければならないのですが、管区の小審判廷がどうなっているのかさえ、情報が流れてきません。被害者の代理人(被害者のご家族と公証役場で正式に代理人契約を結んでいる)が上告しているのですから、被害者のご家族が上告しているのとまったく同じだということを、管区はご存じないのでしょうか。 それとも、「公証役場での契約など、日本聖公会が認めたものにはならない」とでも考えているのでしょうか。こうした考え方をしている聖職者が日本聖公会にいるということを耳にしています。「法律なんて関係ない」という暴言を口にした(文字にした?)方もいるかのように聞いています。日本聖公会では、同性愛者の人権に関して、あれだけ積極的に発言されてきたにもかかわらず、女児に対する現職(当時)聖職者の性的虐待の被害者とそのご家族の人権を無視しているかのような対応は、一体どういう根拠に基づいた者なのでしょうか。 PTSDが発症したという診断書が出されていたにもかかわらず、日本聖公会京都教区は誠実にそれに対応することを為されていらっしゃいませんでした。それだけではありません。最高裁判所の上告却下が決定されても、即座にはそれを受け入れることをせず、加害司祭の「事実無根」という言葉だけを信頼して、実に大きな間違いを犯してしまいました。「最高裁判所に抗議する」という声明文を一般社会に向かって発信されました。しかし、日本聖公会京都教区での差し戻し審の審判には、そうした過ちに対する悔悛はその欠片も見えていません。 日本聖公会の管区は、こうした京都教区の実態に対して、いち早く対応することによって、被害者の人権を守らなければならないのではないでしょうか。それとも、あの最高裁判所の却下決定で確定した高等裁判所の判決を覆すことが出来る、新しい証拠や証人を準備していらっしゃるのでしょうか。しかし、差し戻しを決めた管区小審判廷の判決文には、そうした可能性を伺い知る個所はまったくありません。日本聖公会は、もう一度、人権に関する議論を一から始められた方がいいかと思います。聖職者は、信徒の人権を無視することが出来る権威を与えられているとお考えなのであれば別ですが‥‥‥
2010.02.04
日本聖公会の人権意識 最近、少しブログが書かれるようになってきているが、転送されて来るメールを読んでいると、日本聖公会という教会は最悪の教会だということが見えてきた。管区の審判廷が差し戻しを決定してから、差し戻し審が実におかしくなっているようだ。第一に、加害者である被申立人が日本聖公会を離脱したことによって、審判廷への出廷義務が喪失したかのように審判長が考えているのか、一番大事な加害者である日申立人の召喚が議論されていない。日本聖公会の法憲法規はその程度の規則でしかないのだろうか。 被申立人が審判廷に申し立てられた時には、被申立人は日本聖公会の司祭であったのだから、審判廷は被申立人に対して召喚する義務がある。そして、そもそも、確定した高等裁判所の判決では、被申立人の性的虐待行為にかんして、高等裁判所は原告の主張を全面的に認めているのであるから、被申立人が女児に対する性的虐待行為を行った時には、被申立人は間違いなく日本聖公会京都教区の司祭であったのだが、日本聖公会京都教区はそうした経緯をどのように考えているのだろうか。 加害者である被申立人が出廷を拒絶したとしても、審判長はその後、何回召喚状を送っているのだろうか。そのことがまったく聞こえてこないのだが、その点は極めて重大な問題なのだ。被申立人が性的虐待行為を行っていたことを審判長である教区主教自身が(文書で)認めているのだから、審判長は、被申立人が出廷を拒絶しているとしても、召喚状を繰り返し送るべきであろうし、最終的には、召喚のために居所まで出向かなければならないはずだ。それは、審判における審判長の義務だろう。 そしてこうした義務は、被害者の人権を擁護するために課せられている事柄であり、審判廷を正常に維持するために必要なことなのだが、何故、審判長である教区主教はその努力をしていないのか。日本聖公会の人権意識というのは、この程度のものなのだろうか。そして、こうしたことを黙認している他の主教たちは、これをどう考えているのだろう。明らかに、日本聖公会法憲法規が規定している法廷秩序を日本聖公会京都教区審判廷は無視しているのだが、沈黙は容認することにならないだろうか。
2009.11.06
盆明け 珍しく日曜日のこの時間にメールボックスを開いてみた。盆明けのせいか、教会員の方々は今日は早々に引き上げられた。明日からまた仕事だから、今日は少しでも休んでおきたいということなのだろうが、沖田総司氏からメールが来ていた。なんでも、近藤勇氏と土方歳三氏が来るとかで、おまけに鞍馬天狗と回線を繋ぐらしい。 日本聖公会京都教区の司祭が審判廷に提訴されていることに関する話し合いのようだが、京都教区の審判廷はあの加害者を裁くことは出来ないだろう。のらりくらりと時間稼ぎをしているようにしか見えない。その時間稼ぎも、何の根拠も道理もなく、屁理屈にもなっていない理由で時間稼ぎをしている。そして、時が来たら「時効だ」とでも言い出しかねないように見える。 しかし、あの最初の審判廷申立を受理した段階で時効は停止しているのだが、日本聖公会京都教区はそうしたことも知らない可能性があるという方もいらっしゃった。何しろ、主教は絶対王政における王と同じ権力を持っていると誤解しているようだ。英国聖公会は、そうした絶対王政を否定することによって出来た教会ではなかったのか。女王エリザベスの時代に、それを築き上げ始めたのではなかったのか。 何しろ、2ちゃんねるに書き込まれていることを読んでいたら、聖職者ではないかと思われる人物が、女児に対する性的虐待の意味をまったく知っていないことがあったり、「法律なんて関係ない」とまで豪語した人物もいたようだ。困ったものだ。法治国家ということの意味を知らない聖職者がいるようだ。呆れてものも言えないが、黙っていたら被害者とそのご家族がますます傷つけられていくだろうから、久しぶりにここに書き込むことにした。
2009.08.16
日本聖公会の管区小審判廷に不服申立をしていたが、あっさりと差し戻されてしまった。近藤氏から電話で情報を得たが、三人の被申立人に関しては、かなり厳しいことが審判されたらしいが、結局は差し戻されてしまったようだ。あそこまで三人の被申立人を糾弾できるのであれば、管区の小審判廷ではっきりと決着を付ければよかったのではないのだろうか。 そして、京都教区に差し戻された審判廷を誠実に行える能力と知力があると管区小審判廷は考えているのだろうか。日本聖公会京都教区はこの性的虐待事案に関して、隠蔽もしくは責任回避だけをしてきていた。被害者の家族の了解を得たかのように思わせる文書を全国に配布したり、「糾す会」などを誹謗中傷する発言を繰り返していた。 しかし、高等裁判所の判決が確定したときも、「冤罪」「事実無根」を叫んでいた責任は重大なものがある。裁判を提訴した被害者は、日本聖公会京都教区の信徒だった。彼らは信徒が性的虐待行為の対象になっていたというのに、そしてそのことを高等裁判所ははっきりと認定していたにもかかわらず、そして何よりも京都教区主教は裁判を傍聴することもなく、一方的に「冤罪」「事実無根」を叫んだのだ。 しかし、今日の審判には一定の大きな意味がある。これで、主教を管区審判廷に申し立てることが容易になった。これには当然、聖職常置委員も含まれるのだが、聖職常置委員は司祭だから、審判は教区審判廷になるのだろうが、問題が問題だけに、主教会の判断で、一括して管区審判廷で審判すればいい。そして、主教会が主教を審判するべきだろう。そうでなければ、この問題を全面解決に至らせることは出来まい。
2009.03.03
近藤勇氏のブログを読んで驚いたので、近藤氏に久しぶりに電話をしてみたが、何でも、管区小審判廷の審判長から葉書で、非公開にするという連絡が申立人にあったそうだ。署名も捺印もないそうなのだが、日本聖公会は何を考えているのだろう。あまりに非常識だ。署名捺印がなければ、いや少なくとも署名がなければ、正式な書類として成立しない。つまり、3月3日に京都で行われるという管区の小審判廷は、日本聖公会法規の原則公開という規定に従って、公開されなければならない。 しかし、この署名捺印なしの文書は、時として日本聖公会の中で使われていることがあるという。表面上は正式な回答であるかのような内容に見せかけておきながら、署名も捺印もない書類を受け取った人を知っている。彼は即刻、その旨を通知し、署名捺印入りの文書を再送付させたと言っていたが、日本聖公会は非常識なのか、それとも狡賢いのか、よく理解できない。彼はその文書を丁寧に扱い、封筒にも文書にも指紋が多数残らないようにして、しっかりと保存してあるという。 そして次に問題なのは、審判廷を非公開にする理由が書かれていないということだ。日本聖公会はどうしてこういうことにルーズなのだろう。日本聖公会の「法憲」「法規」あるいは「審判廷規則」にきちんと規定されているにもかかわらず、そこから逸脱して、理由を示さずに審判長の名前で「非公開」を通告している。もしかすると、これは罠かもしれないと思われる。署名捺印されていない「非公開通知」であれば、誰かがいたずらで出したものだと、後になって言うことが出来る。しかし、これを出しておけば、誰かがそれを公表するだろうから、3月3日の審判廷を傍聴しようと考えていた人々の中で、京都へ行くのを取りやめようとする人々が出てくるだろう。そして、当日はまったくあの葉書のことに沈黙して、審判廷を公開で開けば、傍聴者の数だけは減らすことが出来る。 特にジャーナリズムが怖いだろうと思う。ことと次第によっては、地方ニュースではなく、全国ニュースで取り上げられる可能性さえある。片や『正論』が取り上げているし、片や『アエラ』が取り上げている。それだけではない。テレビのワイドショーの恰好のニュース材料になる。4月の初めには、どこの幼稚園でも入園式を迎える。「九条の会」の設立総会でスピーチをし、一方では、自民党の候補者の選挙応援に幼稚園の職員を行かせていた司祭が、こともあろうに女児への性的虐待をしていたというのだから、今のご時世を考えると、なかなか面白い材料かもしれない。かといって、政治的圧力をかけることもできないだろう。「上手の手から水が漏れる」ということもあり得る。未曾有の景気後退で前途多難な時期に、政治的圧力は難しい。
2009.01.31
日本聖公会が、その祈祷書の中から天皇のための祈りや皇室のための祈りを削除したことは、教会関係者の間ではかなり有名な話だ。祈祷書から除くということは、日本聖公会の公的な祈りとしては、天皇や皇族のためには祈らないということなのだろう。しかし、高齢のイギリス女王が病気になられた時に、日本聖公会はアングリカン・コミュニオンの一員として、主日の礼拝で祈らないのだろうか。何しろ、イギリス国教会の頂点に立っているのは、イギリスという国家の王であることは紛れもない事実である。 そして、教会法に関することは法律によって定められた範囲内でしか決められないから、イギリス国教会の祈祷書の改正も国会の審議を経なければならない。しかし、イギリスの下院は既に、反聖公会の議員が過半数を占めているし、王政はもう必要としていないと考えている議員も過半数を占めているという。しかし、アングリカン・コミュニオンの一翼を担っていると自負している日本聖公会では、象徴天皇制でさえ否定してしまっているから、天皇のための祈りや皇族のための祈りを祈祷書から削除したのだろう。そして、女性司祭按手に反対している信徒や聖職を徹底的にパージし続けてきた聖職もいる。これは、日本聖公会の外から見ていても判ることだし、女性司祭按手に反対している人々のホームページを見ればそれがよく判る。 日本聖公会京都教区の状況を記しているブログやホームページを読んでいて名前が出てくる日本聖公会京都教区の聖職者達の多くは、女性司祭按手を強引なまでに押し進めてきた人物であることは、日本聖公会の聖職者から耳にしている。にもかかわらず、ある意味では一人の女性の人生そのものを奪い取ってしまうような性的虐待事件に関して、彼らは沈黙しきっているのはなぜなのか。ある人物はこう言っていた。「日本聖公会は絶対王政で、主教はその王だ」と。だとしたら、女性の人権を徹底的に無視した京都教区の事件とそれに対する対応の仕方は、その絶対王政から出たことなのだろうか。 片方で、象徴天皇制さえもを批判しておきながら、自分たちは絶対王政の中にいるという大きな矛盾をどのように日本聖公会京都教区は説明するのだろうか。日本聖公会の管区総会で決定した法憲法規をも超えた決定を主教は出来るそうだから、主教が「矛盾ではない」と言えば矛盾ではなくなるとでも思っているのだろうか。日本という国家に、宗教法人法によって保護されていながら、性的虐待という犯罪を犯罪として認識していないのも、こうしたことによるのかもしれない。犯罪として認識していれば、現在行われている審判廷の申立などは起こり得なかったことではないのだろうか。
2008.12.18
日本聖公会の管区にとっては、日本聖公会京都教区が却下した審判廷申立が、管区の小法廷に控訴されたのだが、正に管区は試練の時だろう。事件が事件だから、下手な対応は、様々な問題を生みだし、最悪の場合は日本聖公会だけでなく、その関係団体も大きな痛手を受けることになる。 児童に対する性的虐待は、極めて陰惨であり、極めて重大な犯罪であることは、世界中の国々が認識していることなのだが、それを日本聖公会京都教区は一蹴してしまったのだから、この京都教区の対応に関しても、世論が納得できる形で対応しない限り、様々な問題が湧き出てくるだろう。先日も、被害者の代理人のホームページに、被害者代理人がある幼稚園の周辺でビラ撒きしたことに関して記された京都教区の文書が公開されていた。 幼稚園への入園希望者数が激減している理由を、あのビラ撒きによるものだと位置づけ、被害者代理人に対して、「聖光幼稚園でビラをまいたり、インターネットを通じて聖光幼稚園の名誉を毀損する文章を掲載したりしないように」と弁護士を通して当該幼稚園が「警告」してきた文書が代理人のホームページに載っているが、あのビラ撒き以外にも、ジャーナリズムがこの問題を取り上げて来たのだから、この警告文を弁護士に依頼した人々は一体何を考えているのか。 あの児童に対する性的虐待を、H司祭が長期間にわたってし続けていたことは、日本聖公会の教会のみならず、他教派のキリスト教会に対して多大なる迷惑をかけていることを、当該幼稚園は認識していないのだろうか。多くの日本人はキリスト教界全体を「キリスト教」として考えていることをご存じないのかもしれない。仏教の僧侶が同じようなことをしたら、仏教界全体に迷惑が掛かるのと同じことだ。その原因を作ったH司祭を処分することもなく、退職金の支給には問題がないという立場をとり続けていること自体、児童に対する性的虐待問題にたいする現在の世界的趨勢に逆行するものではないのか。あの弁護士から被害者代理人に宛てられた文書は、明らかに当該幼稚園の依頼によって記されたものである。弁護士が依頼されてもいないのに、あのような文書を書くはずもない。日本聖公会の管区は、こうした事態をも誠実に、かつ客観的に考慮して、小審判廷を開くべきだろうと思う。
2008.11.12
京都教区が、例の事件での審判廷申立を却下してから少し時間が経過した。いままでの経過からすると、管区の小審判廷に控訴されることになるのだろうが、管区は間違いなく法憲法規とこれまで日本聖公会の中で暗黙の了解とされてきたことの板挟みにあうだろう。法規では第210条で「懲戒を求める申立は、第198条から第200条までに規定する行為または一定の行為をしないことが終わった時から3年を経過した後は、することができない」と規定されているが、一般的に、自動に対する性的虐待行為は時効の起算日を、PTSDが発症した時点にすべきであるという意見が多数を占めていると聞いている。 小生が知る限りでは、日本聖公会京都教区があの児童に対する性的虐待行為が行われていたことを認識したのは、2001年4月のことである。この時には、明らかに当時の京都教区主教であったM主教は、被害者の関係者から「被害手記」を手渡されている。そして、H司祭を終身停職にすることを要求されている。(「牧師を辞めさせる」という表現はこれを意味しているのであろう)この時点で既に、この事件は提訴されていると考えられるから、時効は停止していると考えられる。つまり、性的虐待によるPTSDの発症を時効の開始とすれば、この事件に関しては、時効を主張することは出来ない。 この時効の開始をPTSDに発症とするかどうかは、国家の法体系の中では議論が為されている最中なのだが、日本聖公会がこれを先取りしたところで、国家の法体系とは何ら矛盾を起こさない。法憲法規はあくまでも宗教団体の中におけるものでしかないからであるのと、教会法はいかなる国家権力からも介入されないからである。女性の人権、あるいは子供の人権ということを考えれば、児童に対する性的虐待に関しては、時効そのものを認めるなという意見もある時代の流れの中で、日本聖公会だけが、あの性的虐待事案での時効を主張したら、女性の人権ということを真剣に考えてきた日本聖公会の活動と明らかに矛盾するのではないだろうか。 管区の小審判邸に控訴された時に、日本聖公会の管区はこうしたことを問われるだろう。同時に、事件が事件であるだけに被害者を特定することは非常に難しいと思えるが、日本聖公会京都教区の現主教と常置委員会が、この事件の被害者6人をすべて知っていることは、昨年の教区会の時に配布された文書から明らかなことなのだから、性的虐待行為の事実認定はまったく難しくないだろう。あの文書には、被害者の氏名は書かれていなかったが、H司祭による性的虐待行為を受けていた女性が、少なくとも6人は存在することは明確になっている。
2008.10.03
日本聖公会という集団は本当に不思議なところだ。日本の法律を超えて、何をしても許されると考えているように見える。女児に対する性的虐待をし続けていた司祭を、その司祭の「事実無根」という言葉だけを信じて、最高裁判所の上告却下が決定された後も、「冤罪」を主張し続けていた。そして、原告以外にも被害者がいることを知って初めて、当該司祭が女児に性的虐待をし続けていたことを認めたのだが、その後も、自分たちの判断ミスを隠すために、様々な隠蔽工作が行われていたように、外からは見える。 それだけではない。最高裁判所の上告却下が決定されることをよそくしてか、高等裁判所の判決が確定する直前になって、当該司祭に高額の退職金を支給して、他教会に転任させてしまった。この退職金の金額と確定した高等裁判所の判決にある慰謝料の金額が極めて近似している。これは幼稚園の園長としての退職金なのだが、理事会には京都教区主教の名前も入っている。これまでの、この問題に関する日本聖公会京都教区の発言や行動を見ていると、それだけでこの問題の一番重要なところが見えてくる。日本聖公会の主教制に関する理解の問題だ。主教に使徒継承があると考えることには、神学的が議論もあるが、しかし主教制は一つの教会のあり方として、尊重されるべきなのだが、主教自身の判断が神の判断であるかのように誤解されているところであろう。聖公会は基本的にローマ・カトリック教会の「教皇無謬説」を認めていない。 しかし、日本聖公会京都教区においては、教皇は否定されていながら、「主教無謬説」的な発想が蔓延しているように見える。そして、京都教区の一連の言動を見ると、信徒の人権よりも主教の権威の方が遙かに高位に属していると考えられているように見える。おそらく、日本聖公会の教会の中ではそうした考え方が続いてきていたのだろう。でなければ、他教区の主教達が沈黙しているはずがない。そして、日本聖公会の聖職者達の中には、使徒継承の史実性を信じて疑わない人たちがいることも事実だ。「聖書のみ」ということを主張していながら、聖書的には証明できない使徒継承を誇っているということ自体、彼らの中にはカルト的なものが拡散しているのだろうかと思わせられる。 いい加減で観念した方がいい。あの司祭による性的虐待行為が明るみに出た時以来、日本聖公会京都教区は誤った判断をし続けてきたことは、誰の目にも明らかなことだ。被害者の側に立つか、加害者の側に立つかの問題なのだが、それ以前に、何故加害者の「事実無根」という言葉だけを受け入れたのか。そして、それ以後も、その立場を崩さなかったのか。そして、判っているだけでも六人の被害者がいるという厳然とした事実をどう受け止めているのか。日本聖公会はこうした視点から問題を精査する必要があるのではないだろうか。でなければ、教会としてキリストの福音を騙ることがどうして出来るのか、まったく理解に苦しむ。
2008.09.19
審判廷規則第38条 審判廷は審判するに当たり、弁論の全主旨および証拠調の結果のみを斟酌(しんしゃく)して、自由な心証により当事者の事実についての主張が真実であるか否かを判断する。 この条文だけを見れば、申立人の勝訴は確実だろう。既に審判長である主教は、H司祭の性的虐待行為が事実であったことを認めている。そして謝罪の記者会見を開いた。と同時に、自らと聖職常置委員に対して減給処分を行っている。これは、新聞やテレビで報道されたそうだから、教会内外の人々が見たことがあるだろう。冤罪・事実無根をそれまで主張していた人々が、被害の実態を認識したからこそ、減給処分を自らに科し、それまでに「冤罪」「事実無根」と主張してきたことを謝罪したのであろう。 申立人があの「謝罪の記者会見」の内容を審判廷で弁論したら、日本聖公会京都教区主教は、一切反論が出来なくなるだけでなく、審判廷における審判そのものもこの時点で決定的になる。そうした意味では、証拠は、あの謝罪の記者会見の内容を記した新聞記事で十分なはずだ。あの新聞記事が虚偽であるのであれば、日本聖公会京都教区は即座に新聞社に抗議したと思われるが、まったくそうしたことが行われていないのであるから、謝罪の記者会見が奈良県庁で開かれたことは紛れもない事実であり、日本聖公会京都教区主教はあのH司祭による性的虐待行為は事実であったと認めていることになる。 であるから、審判長である日本聖公会京都教区主教は、証拠の如何に関わらず、この審判であの性的虐待行為がなかったとすることはあり得ないであろう。と同時に、昨年の日本聖公会京都教区の教区会で配布された「常置委員会特別報告」では、H司祭はあの民事裁判の結果を受け入れておらず、いまだに「事実無根」を主張しているのであれば、被害者との間に和解が成立していると言うことは出来ず、日本聖公会法規第210条にある「懲戒を求める申立は、第198条から第200条までに規定する行為または一定の行為をしないことが終わった時から3年を経過した後は、することができない」という事項の規定を当てはめることは出来ない。被害者に対する謝罪が行われていないということは、現在もなお、被害者に対する精神的虐待を続けていることになる。 問題は、それだけではない。この申立に対する審判において、加害者であるH司祭に対する審判の内容如何によっては、日本聖公会京都教区の審判廷もまた、被害者に対する虐待行為を続けているということになるだろう。日本聖公会には、「従軍慰安婦」問題に関して、積極的に発言してきた司祭達がいることを知っているが、「従軍慰安婦」に関しては様々な問題が問われているのだが、あのH司祭による少女への性的虐待行為は、民事裁判ではあるが高裁の判決が確定しており、その判決の正当性を日本聖公会京都教区主教は、それを謝罪の記者会見で認めているのであるから、これ以上、審判廷で弁論をする必要がないと思われる状況にあると考えられるが、日本聖公会京都教区主教は未だに審判廷を開廷していないのは、何故なのだろう。
2008.08.25
日本聖公会法規第210条 懲戒を求める申し立ては、第198条から第200条までに規定する行為または一定の行為をしないことが終わった時から3年を経過した後は、することができない。 最近、多方面から日本聖公会京都教区の問題に関すること が聞こえてくる。それは、審判廷の申し立てにたいして、京都教区の審判廷が「時効」を主張して、審判廷そのものを回避するのではないかという危惧から出たものなのだが、H司祭が犯した過ちは、いまだに続いているとしか考えられない。理由は簡単なことだ。日本聖公会京都教区常置委員会の報告が間違っていなければ、H司祭のわいせつ行為の被害者が少なくとも6人いることになるのだが、そのうちの4人に対しては謝罪文を書いているそうだが、残りの2人にかんしては、性的虐待行為をしたこと自体をH司祭は認めていない。 一方、日本聖公会京都教区は2005年12月9日に行った「謝罪の記者会見」で、残りの2人に対するH司祭の加害行為を既に認めているのだから、これを覆さない限り、H司祭は当該加害行為を謝罪していないのだから、「第198条から第200条までに規定する行為」をすることが停止したとは、教会においては考えられない。そもそも、聖書の御言葉からすれば、悔い改めにないところに赦罪はあり得ない。日本聖公会の祈祷書にある「聖餐式」の典礼文では、「聖餐」が始まる直前に「懺悔」があるのは、「懺悔」のないところに赦罪はないということを表しているのではないのか。そして、日本聖公会の祈祷書以前に、聖書がそのことを語っているし、ローマ・カトリック教会であれプロテスタント教会であれ、ギリシア正教会やその他のキリスト教会でも、このことは聖書に記されている基本的なこととされているのではないだろうか。「み心にかなう供え物を捧げ、また自らを捧げて、主が定められたこの聖奠を行うために、ともに罪を懺悔しましょう。」と「執事または司祭」がこれを言うことになっているが、この言葉の奥には、罪の告白が罪の赦しには不可欠であることがあるのであろうと思われる。だとしたら、H司祭が性的虐待を行ったことを日本聖公会京都教区は認めているのだから、それをさえ否定しているH司祭の過ちに関して、日本聖公会京都教区は時効」を宣言することが出来るだろうか。これは国家法の問題ではなく、教会法の問題であり、その根底には福音そのものの理解がある。 日本聖公会法規第210条は所謂「消滅時効」を言っているのであろうが、聖書が語る人間の罪に関しては、消滅時効はない。罪が赦されるのは、聖書に基づいた信仰と罪の告白と懺悔がある時だけである。教会の審判廷は、一般社会における裁判とはまったく異なっている。教会の審判の基準は、聖書と教会のトラディションであるが、国家における裁判の基準は、国家が保っている法体系によるものである。国家が無罪を宣言したとしても、教会は有罪を宣言することがあり得るし、国家が有罪としても、教会は無罪を宣言することも十分にあり得る。ただ、H司祭が行った女児に対する性的虐待行為を正当化する聖書の個所はどこにもない。
2008.08.01
遂に、10名程度の人々が審判廷を申し立てた。この中には司祭が数名いるという。その内容は、H司祭による女児に対する性的虐待京都教区で起こった性的虐待行為だ。これに関してはいまさら説明するまでもないことだが、日本聖公会京都教区はこの申し立てをどう受け止め、どう対処するのか。それだけではない。あの<[内紛]迷惑団体 聖公会 - 迷惑信徒 聖公会[出て行け]>という身勝手な屁理屈を並べ立てているブログの設置者は、どう考えるのだ。審判廷の開廷を歓迎するのかしないのか。少なくとも、こうした審判廷は日本では未だかつてほとんど開かれたことがない。 日本聖公会が迷惑団体なら、日本聖公会から「迷惑信徒」が出ていくこともないだろう。以前に風来坊氏の文書分析に関して、ある種のソフトを使っているのだろうと言っていたが、愚かなことだ。風来坊氏が言っているのは、本文批評学的作業のことであって、パソコンで解析できるようなものではない。確かに多少の意味はあるかもしれないが、本文批評はそんなに数理的な作業だけではない。あのブログの設置者はH司祭自身ではないかと今でも思っているが、もしそれが当たっているとしたら、説教学の教授であるH司祭は、本文批評という作業をまったく経験していないことになる。 これが日本聖公会の神学性の限界だとは思わないが、それにしてもひどすぎる。あるいは、「一般人」打といっておきながら、あまりにも教会の現実に関して知りすぎているし、日本聖公会を迷惑団体と言っておきながら、「このような迷惑行為をしただけで聖公会京都教区をそのままのさばらせて、自分たちは逃げようなんて思っているわけではないだろうな」と書いているが、日本聖公会京都教区が解体すれば、H司祭に対する陪餐停止処分は消えてしまう。だから、ブログの設置者は、H司祭ではないにしても、H司祭に極めて近い人物であろう。そして、データベースの解析ソフトを使ったことがある人物だとすれば、工学部出身のK君しかいないようにも思えるが、如何だろうか。 どちらにしろ、あのブログの設置者はまだ審判廷申し立てが行われたことを知らないようだ。いや、知っていても書けない理由があるのかもしれない。「私が聖公会京都教区が消えるように追い込むよう努力するだけだが。(頭にきているのでね。)」とも書いているが、だったら早く行動を起こせばよかったな。H司祭の性的虐待行為に対する審判廷の申し立ては既に行われてしまった。日本聖公会京都教区を解体したければ、勝手気儘に一人でやったらいい。糾す会をはじめこの問題に大きな関心を寄せている人々の多くは、日本聖公会が解体することを願ってはいない。むしろ、日本聖公会がキリストの教会として、しっかりと再生することを願っているのだ。それは、糾す会の代表者のメールからもはっきりと読みとれる。
2008.07.10
アメリカのブッシュ大統領が「悪の枢軸」という言葉を使った時、それが本物のテロリストに対して使われているにもかかわらず、「悪の枢軸 (an axis of evil)」という言葉を使ったことに批判的な評論家がいた。しかしアルカイダは、民間の旅客機をハイジャックし、民間人を乗せたまま貿易センタービルやペンタゴンに突入した。ユナイテッド93便だけは地上に墜落しているが、映画に描かれているものと現実が同じであるか、その真相はまったく分かっていないので、何とも言いようはないが、彼らアルカイダは明らかに民間人を巻き込んで、非戦闘地域で戦争行為をしたのは間違いない。 現職牧師による女児への性的虐待行為に対する日本聖公会京都教区のあまりにも理不尽な対応を糾弾し続けてきた「糾す会」(元「考える会」)をテロリストだと書いているブログがある。一方で、日本聖公会は消えろと言っているが、その具体的な内容に関しては一切記していない。風来坊氏も彼のブログで書いているが、もしかするとH司祭自身が書いているのかもしれないが、日本聖公会の関係者であることは間違いないだろう。発言の中心は、H司祭の性的虐待行為がどのようなものであったかをほとんど記すことなく、「糾す会」を何が何でもテロリストだと決めつけたい様子をはっきりと読みとることが出来る。 しかし、H司祭がしたことは明らかに性的虐待行為であり、その慰謝料請求裁判の高等裁判所の判決が出る約1ヶ月前に開かれた理事会で、請求されている慰謝料と裁判費用の合計額に近い金額の退職金を、理事長であるH司祭が召集した理事会は、園長でもあるそのH司祭自身に支給することを決定している。この時、理事達の多くは、高等裁判所で係争中であることを認識していなかったとも言われている。このことを、そしてことがことでであるだけに、地域住民にそれを知らせる目的を持って「糾す会」は、ビラを配布したのであろう。そのどこがテロリズムなのか拙者にはまったく判らない。むしろ危険回避を告げて廻った善良なる市民行為ではないのだろうか。 H司祭から性的虐待を受けた被害は、少なくとも6人いるのだが、日本聖公会京都教区主教や常置委員会もそれを認めている。彼らは、昨年の教区会でそれを正式に報告しているのだが、その後、彼らはまったく不誠実な対応しかしていない。M司祭は「法的には問題ない」としているが、道義的社会的責任はないのだろうか。禁固刑以上の刑罰を受けたわけではないから、性的虐待の事実があっても、日本聖公会京都教区と密接な関係にある幼稚園の園長に退職金を支給するということが何故彼らの中で問題にならないのか。日本聖公会の中には、オキナワ・ヒロシマ・ナガサキなどに関する問題に対して、積極的に発言している聖職者達がいるが、彼らもまた、この問題に関してはまったく口を閉ざしている。あるいは、教育や社会の問題に関して発言している聖職者達も同じだ。 そうした意味からすれば、「悪の枢軸」であるのは、「糾す会」ではなく、H司祭と日本聖公会京都教区であろうことはどなたにもお判りいただけると思う。しかも、H司祭が未だに謝罪を拒んでいるのは、日本聖公会京都教区の信徒の女性なのだ。彼女とその家族は「教会を離れる」と宣言しているが、日本聖公会京都教区のあの教会の教籍簿には名前が残っている。(教会は受洗者の名前を消すことはないし、日本聖公会は、原則として他教派の教会への転籍もしないと聞いている。これに関しては実例がある) 日本聖公会が自浄能力を失っているから、被害者のあまりに悲惨な状況を知って、拙者らはブログを立ち上げたのだ。拙者も日本聖公会とは関係がない。本来であれば、日本聖公会の管区が、もっと早めに対応して、被害者を守ることをすればよかったのだ。今朝の早朝礼拝で、そのことをただひたすら祈り続けてきた。 主よ、日本聖公会を導き給え。主の御名によりて、アーメン
2008.06.01
「糾す会」の代表とS幼稚園の元監事(当時は現職の監事)が、現在のS幼稚園理事長であるM司祭と面会した時の録音テープの一部を聴いた。それは、M司祭が「S幼稚園は現場ではない」ということを必要に「糾す会」の代表に力説しているところだが、確信を持ってそれを言っていることがはっきりと判る。裁判記録を読んでいないことがこれではっきりと判るし、M司祭自身が「読むか読まないかは私の自由だ」と発言したというから、間違いないだろう。そして、裁判記録を閲覧したかどうかは、裁判所へ行けばすぐに判ることだが、裁判記録を読みもしない者が、どうして「S幼稚園は現場ではない」と発言したのか。 鞍馬天狗の裁判記録閲覧メモからすると、前任地の教会時代には、頻繁に性的虐待行為が行われていたのだが、S教会及びS幼稚園に在職中には回数的には少なかったことは事実であろうが、しかし確実に性的虐待行為が行われていたことが認められる。そして、S幼稚園時代に性的虐待が行われていたことに関して、回数の問題ではないことも明白だろう。こうした性的虐待をしていたS幼稚園の園長に退職金を支払ったということ自体問題であるし、それを指摘した監事を解任するということは暴挙としか言いようがない。そして、H司祭もM司祭も日本聖公会京都教区に所属している司祭であり、K主教は過去も現在もS幼稚園の理事であり続けている。 こうした事態を引き起こしている日本聖公会京都教区が、あの裁判所に提訴した被害者とその関係者が、H司祭を復職させた経緯を明らかにして欲しいと要求しても、いまだに常置委員会の議事録を隠蔽していることも理解できる。謝罪の記者会見を開いておきながら、K主教以下常置委員たちは、H司祭の性的虐待行為を徹底的に隠蔽しようとしていたのだ。被害者とその家族の苦しみや痛みなど、まったく無視しているのである。と同時に、京都教区内の信徒には、事件のことを隠し続けていたのである。つまり、主教と常置委員会は、H司祭の性的虐待行為を隠蔽するだけに止まらず、H司祭に多額の退職金と報奨金を付けて、他の教会に転任させたのである。H司祭が陪餐停止という処分を受け、その転任した教会を退職させられたのは、S幼稚園から退職金を受けてから半年以上経ってのことである。その間に、高等裁判所で敗訴の判決を受けたH司祭は、最高裁判所に上告して「却下」されている(民事訴訟法の第317条)。 日本聖公会京都教区の裏の世界で何が起こっていたのか。誰しもそれに深く関心を持つだろう。しかし、誰にも見えないから「裏の」世界なのだ。犯罪や人権無視は、こうした裏の世界で起きることが多い。「そんなことは聞いたことがない」という言葉や、「我々には知らされていない」という言葉によって、多くの裏の世界が隠蔽され続けている。事実、裏の世界のことを知らないで、好き勝手なことを発言した聖職がいると聞いている。自分自身の過ちは、誰も知らないだろうと思っているのかもしれないが、「蛇の道は蛇」という言葉をご存じないようだ。主教選挙で札束が飛んだことがあるという怪情報も、あながち嘘ではないかもしれない。選挙の前には、司祭館の電話がよく鳴るらしい。こうした宗教教団がカルトでなくして、何がカルトなのか。今夜、鞍馬天狗の隠れ家で、風来坊氏とTERAさんと鞍馬天狗自身に会える。
2008.05.20
1万枚以上のビラがS幼稚園周辺に既に配られているそうだが、日本聖公会京都教区は沈黙し続けている。高等裁判所でどのような判決が出るかをH司祭は察知し、K主教の了解を得て、理事会で慰謝料+裁判費用とほぼ同額の退職金支給を決定したのだろう。ある筋からの情報によると、司祭の転任時に、幼稚園長としての退職金を支給することは異例のことだという。日本聖公会の他の教区でも耳にしたことがないと、知り合いの司祭が電話で話をしていた、通常の民事裁判では、公判の流れから、どのような判決が出るかは弁護士にはだいたい見当が付く。 しかし、高等裁判所に提出したH司祭の文書を読むと、その内容があまりに稚拙なことに驚きを禁じ得ない。鞍馬天狗の閲覧メモを見ると、H司祭は何とか「事実無根」を裁判官に認めさせようと必死に藻掻いていた様子が見えてくる。特に、被控訴人であるH司祭の「準備書面」には、控訴人(被害者)が主張したことは事実無根であるから、控訴人はPTSDではなく、「精神傷害が原因」で自殺をしようとしたのだと反論している。また、次のような記述があるとメモには記されている。「性的虐待を認めたかのように誤解されるところがあるが、牧師(司祭)聖職者である被控訴人にとって『汝姦淫するなかれ』との教えに従い、『肉欲』は、考えること、対象にすることも『姦淫』となるとの厳しい戒律の中で身を律してきたところからの表現と理解されたい。」「『土下座』についても、牧師という『立場』の者としての責任と、今までの癒しも効果がなく、最大の謝罪の表れとして行った。内容を認めるものではない。」 2007年11月2日、K主教、Y司祭、M司祭は6人目に申し出た被害者を同道して、H司祭の居所を「予告なく訪問」している。これは、同年11月23日に開かれた京都教区の教区会で配布された常置委員会の文書に記されている。H司祭は、この「Bさん」に対する「性的加害」行為を認め、「確認のためその場で、被害者Bさんに対する加害の事実と、謝罪の意を表す文書を書くよう求めたところ、原田元牧師はそのようにし、署名捺印した。」とも記されている。そして、その後、「さきに裁判に訴えた被害者Aさんの事案など、別件についても、性的加害の事実の問いただしたところ、その一部を認めたので、それらの事案についてもそれぞれの被害者に対する加害事実と被害者への謝罪文をその場で書くように求めたところ、原田元牧師はこれに応じて3通(合計4通)の事実確認と謝罪の文を書き、署名捺印した。」 しかし、残りのお二人の被害者については、謝罪文を記していない。そして、11月14日にK主教と三人の司祭がH司祭と「懇談」したと報告されているが、しかし、裁判を提訴した「Aさんから告発された事実については否認を続けている。」と記されている。このAさんともう一人の被害者に関しては、いまだにH司祭は「事実無根」を主張しているというが、ここに大きな疑問がある。裁判を提訴したのはAさんだけである。もう一人の方は、判決が確定するまで沈黙されていた方だ。この方に関して、H司祭は何故謝罪しないのか。他の3人とどこが異なっているのか。「新撰組」も誰もこのことを問題にしていないのは何故なのか。もしかすると、「新撰組」は気が付いているのかもしれない。
2008.05.15
「被告は原告が高校一年生になると京都に移動。その後も被告の家に遊びに行くと、服は脱ぐ暇がないので脱がされることはなかったが、服の上から体に触られた。また、服の中に手を突っ込んできて直接体を触られたりした。それが高校3年生まで続いた。」 裁判記録に残っている訴状の中の「被害手記」のような部分に記されている一節だそうだ。あの訴状の「被害手記」の部分は、牧師以外は読まない方がいい。また、若い牧師も読まない方がいい。相当なショックを受けることは間違いないからだ。「糾す会」がまだ「考える会」と名乗っていた頃から、裁判記録にあることを少しずつ書いていたが、一般信徒の方々に強烈なショックを与えないためだったと聞いている。極めてわいせつな行為を、被害者が小学4年生から中学3年生までし続けていた人物が、幼稚園の園長をしていたということを考えたら、誰しもゾッとするだろう。 あの「FH司祭問題を駁す」に、「子供たちは聖光幼稚園の中で、神様や先生方の大きな愛情につつまれて大切に育まれてきました。今思えば問題を抱えた園長の下ではありましたが、聖光幼稚園には、園児を見守る多くの人々の善意と優しさがありました。」と「卒園児の母親」は書いているが、「問題を抱えた」どころか、明らかに性犯罪者だった人物が理事長兼園長をしていたのだ。しかも、その間に慰謝料請求裁判が行われていたのだが、S教会だけでなくS幼稚園の理事の中にもそれを知らない方がいらっしゃったという。しかし、理事の中には日本聖公会京都教区主教がいたのであるから、このK主教は他の理事に対してあの裁判のことを秘匿していたことは間違いないだろう。 そして、理事長兼園長であるH司祭に対して、2005年3月30日に判決が下されることも、K主教は知っていたはずだし、もし知らなかったとすれば教区主教として職務怠慢であったとしか言いようがない。判決が出ることを知っていながら、2005年2月に開かれた理事会でH司祭に対する退職金を支給することを決定したことに、何故異論を唱えなかったのか。たとえ欠席していたにせよ、理事会での決定に関して報告を受けていたであろうから、その決定を保留にするべく、主教として指導が出来たはずだ。しかし、そうした動きは一切なく、H司祭は慰謝料+裁判費用に当たる金額の退職金を受け取ったという。 K主教をはじめ日本聖公会京都教区の常置委員は、その後に行われた「謝罪」の記者会見で、H司祭の加害行為を認めたのではないのか。少なくとも、新聞やテレビの報道では認めたとされていた。あの2005年12月9日の時点で何故、H司祭に対して退職金の返還要求をしなかったのか。現在のS幼稚園の理事長であるM司祭は、あの時に常置委員ではなかったのか。そしてもう一つの問題は、K主教やM司祭をはじめ他の常置委員は、裁判記録が永久保存され、それを閲覧することが出来ると知った時に、何故即座に閲覧しに行かなかったのか。結局は、女児に対する準強制わいせつという犯罪を犯し続けていたH司祭を庇護し、その行為を隠蔽していることになるのではないのか。K主教と常置委員会はもう、いい加減で投了した方がいい。
2008.04.28
今朝まで人間ドックに入れられていました。人間ドックはこれで3回目です。「頭以外はどこも悪くないから、そんなところへ入る必要はない」と考えていました。周囲が五月蠅いので、仕方なく2泊3日、病院ベッドで本を読み続けていましたが、私が人間ドックに隔離されたころにFH司祭問題を駁すに「ビラの配布について」という書き込みがされていたのですね。朝の検査が終わってすぐに自宅に帰ってきたら、新撰組や坂本さんからメールが来ていたので、あのブログを読んでみました。 「元園長の行為は、彼が聖職者であり教育者であったがゆえに、より許しがたく、裏切られた思いを強くします。しかし、一人の人間の過ちという問題以上に、私が心を痛めるのは、卒園生である子供たちの心への影響です。」 「元園長」は前園長の間違えだろと思いますが、この部分で、これを書き込まれた方は、日本聖公会京都教区の聖職の方であることがはっきりしてしまっています。性的虐待の加害者であり、隣接するS教会の牧師であるFH氏の行為の問題性よりも、このビラが配られたことに「心を痛めている」というのは、一般人の発想ではないでしょう。子供は、小さな頃から、多くの場合、大人と一緒に生活しています。テレビでニュースを見ながら食事をすることもあります。新聞はいつもテーブルの上に置かれています。子供達は、その子供の能力に応じて、画面に映し出されることや、書かれていることを彼らなりに理解します。あの卒園生のお母さんはそうしたものを見せるな、ということのほうがH司祭が犯した過ちを問題にすることよりも大事だということなのでしょうが、拙者にはまったく理解できません。 いま、坂本さんから電話がありました。あの書き込みを書かれたのは、京都教区の聖職である可能性が高いそうです。鞍馬天狗さんが、パソコンを使って、仮名漢字変換システムの変換形態を分析したら、以前にいいたい放題というブログにコメントを書かれていた方と一緒だろうという結論が出たとのことでした。IMEを使っていらっしゃるようだというところまで見えたそうです。鞍馬天狗さんは、そうした作業を毎日のようにされているので、よくお判りになるようです。 だとしたら、あの書き込みも京都教区の隠蔽作業のようですね。困ったものです。京都教区は高等裁判所の判決を受け入れたはずではないのですか。彼女は「今思えば問題を抱えた園長の下ではありましたが、聖光幼稚園には、園児を見守る多くの人々の善意と優しさがありました」と書いていますが、これなどは正に、前園長のわいせつ行為を隠蔽していることにしかならないのではないでしょうか。「問題を抱えた園長」という表現も不適切です。彼がしたことは犯罪です。ただ、刑事時効が完成してしまっていたので、刑事裁判になられなかっただけのことです。「時効」というのは犯罪そのものをなかったことにするということではありません。国家は訴追することが出来ないということでしかありません。少なくとも拙者はそう考えています。この次の法改正では、もしかすると、あの種の犯罪の時効の起算日を被害者がPTSDを発症した日になるかもしれません。しかし、法律が改正されても、それ以前の犯罪にそれを適応することは考えられませんから、H司祭が刑事訴追されることはないかもしれません。ただ、S教会関係の被害者に関しては、まだ時効は完成していないのではという見解もあるようです。 「今回の事で、幼稚園や先生方、そして神様への信頼が失われ、そこで得た思い出やぬくもりを『全て』疑わずにはいられなくなり、子供にとって一つのふるさとであった場所から二度と安らぎを得られなくなることを、私は一番おそれ、そして哀しく思います」と彼女は書かれていますが、本当にそうなのでしょうか。近隣の卒園生やそのご家族にどれだけ意識調査をされているのでしょうか。 もう一つ気になることは、「あなた方が本当にめざすべきもの、正義はだれのためですか?幼いこころの平安も、そのなかで考慮されることではありませんか?」と書かれていますが、誰に対してこれを発言されているのでしょうか。「糾す会」の方々は、彼女の父親よりも歳が上でいらっしゃるように思えるのですが。日本聖公会では年齢や聖職按手されてからの期間が非常に大事にされていると伺っていますし、日本の社会では年齢によって言葉遣いを変えるという文化がありますし、このことに関しては日本国憲法も否定していません。「すべて国民は,法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地(もんち)により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」と日本国憲法第十四条第一項に記されていますが、この中に「年齢」という言葉はありません。
2008.04.25
【祈りの有無】というブログを読んだ。H司祭の性的虐待事案を隠蔽し続けている主教や常置委員に対する不信感、そうした不信感を払拭しようともせず、ただひたすら隠蔽工作をし続けているK主教と常置委員会は、TERA氏が言うように、間違いなくカルトだろう。「カルト」とは、近代民主主義国家において、そこにある法体系をも超えられると考え、それを実行してしまう宗教集団を言う言葉であるとすれば、現在の日本聖公会京都教区は間違いなくカルトであると言うことが出来るのではないだろうか。H司祭は間違いなく性的虐待行為をし続けたと高等裁判所は認定しているが、それをまったく意に介すことなく、裁判記録を閲覧することもなかったから、「聖光幼稚園在任中は問題がなかったから」と、多額の退職金を幼稚園はH司祭に支給してしまった。 京都教区は、あの高等裁判所の判決が出た段階で審判廷を開き、その審判廷でH司祭を終身停職にしておくべきだったのだ。そして、それを理由にS教会の牧師及びS幼稚園の理事長兼園長を懲戒免職にしておくべきだったのだ。そうすれば、ここまで問題は大きくなっていなかっただろう。H司祭の性的虐待行為の犯罪性は低減することはないが、少なくとも日本聖公会京都教区の責任は故京都教区まで重大な問題にはなっていなかったはずだ。にもかかわらず、日本聖公会京都教区はH司祭を擁護することに奔走してきたし、時として虚言を用いた文書を全国の聖公会の教会や関係団体に送付してしまった。あるいは、H司祭自身も被害者に対して、まったくそんなシーンはなかったと被害者やその関係者が言っている「性的虐待行為」に関して謝罪する文書を送り付けた。これなどは、被害者とその関係者を徹底的に侮辱していることにならないだろうか。言い換えれば、H司祭は高等裁判所の判決が確定しても「事実無根」を主張し続けているのだが、日本聖公会京都教区はあの謝罪の記者会見で、高等裁判所の判決が確定した後で謝罪の記者会見を開いて、H司祭のいう「事実無根」には何の証拠もないということを認めたのではないのか。 だから、2ちゃんねるに書き込んでいる司祭たちの反論が実にむなしく見える。H司祭がS幼稚園に在職中にも性的虐待行為をしていたことは、裁判記録で明らかになっている。そしてここまで来て、日本聖公会京都教区が事件を隠蔽し続け、嘘の情報を流し続けてきたことが明らかになってきた。問題の一つは、それでも沈黙し続けている日本聖公会の司祭や主教達だ。H司祭はS幼稚園に在職中にも性的虐待行為を続けていたことが、裁判記録で明らかになっているにもかかわらず、M司祭が「S幼稚園在職中には問題がなかった」というような発言をしたことを、日本聖公会の主教会や管区は何故問題にしないのか。堅く口を閉ざしていることは、結局は加害者を擁護し、被害者を二次的三次的に苦しめることにしかなっていないということが何故理解できないのか。問題は、『1)被害手記を読んで一旦退職させたH司祭を何故復職させたのか。2)高等裁判所の判決が確定した後でも、一度も裁判を傍聴しに行っていない主教や常置委員は(K司祭だけは一度傍聴に行ったそうだが)、なぜその時点でもH司祭の「事実無根」を信じてしまっていたのか。3)被害者とその関係者から出されている2項目の要望を、日本聖公会京都教区は何故すぐにそれに答えないのか。二つの項目のうち、先のものは既に退職したが、しかしこれは懲戒という意味が一般的には理解できない仕方だ。そして、二つ目の要求に関しては、まったく回答が出されていない』というところにあるだろう。 歴史に残る愚行だ。 女児に対する性的虐待を行った現職の司祭を、法憲法規で裁くことなく、法憲法規上は許されていない「祈祷書による判断」でH司祭を陪餐停止にしてしまった。法的理解からすれば明らかにこれは無効である。そして、そのことをも常置委員であるM司祭は理解できていない。幼稚園の園庭で車を走行させることが出来るくらいの傍若無人さをもった司祭であれば、当然のことなのかもしれない。しかし、この愚行によって被害者やその関係者だけでなく、他の人々の中からも教会を離れてしまう人が出てくるだろう。いや、もう出てきてしまっているかもしれない。だとしたら、K主教や常置委員は大きな責任を負わなければならないだろう。1)被害者に対して虚言癖がある、あるいは妄想による告発だと発言したこと、あるいはH司祭のそうした発言を何の証拠もなく許容してしまったこと、2)2007年1月29日の文書で偽証していること、3)2007年11月23日文書で「原田文雄元牧師が、真実に悔い改めて、被害者及び関係者に心からの謝罪をし、被害者及び関係者が癒されることができますように、今後も教区を上げて働きかけるつもりです。」と書いておきながら、その後の進展に関して何ら報告していないこと。これらの問題性は、H司祭の性的虐待の事案が事案であるだけに、極めて悪質であると言わざるを得ない。
2008.04.18
「聖公会でない人は口を出すな」と言った人がいるそうだが、自分たちの内輪の問題だと思っているのだろうか。そして、他教区の主教達は、自分には関係のないことだと考えているのだろうか。実に奇妙なことだ。日本聖公会は「宗教法人日本聖公会」として登記されているのではないのか。あるいは、「日本聖公会法憲法規」では、教区が管区に優先するという表現は一個所もない。 もう一つ大きな疑問がある。「あれは実質的に終身ではなく5年で復帰可能なのです。だから高地主教は祈祷書によって倍餐停止にされたのです。法憲法規は最近整備されたもので、それ以外に聖公会は昔から主教さまがこのような対応をしてきているのです」と発言している司祭がいるが、この規定など、法憲法規にはまったく記されていない。つまり、法憲法規が保っている法憲法規自身の権威を、主教が超えることが出来るとは、日本聖公会の最高法規である法憲にも記されていない。そして、世界の聖公会の「綱憲」にもそれは記されていない。 ということは、日本聖公会では、暗黙の了解の内に、主教は法憲法規を超えた権威を有するということがあるとしか思えない。しかしこの考え方は、中世のアンシャン・レジーム下の教会であればいざ知らず、現代の法秩序に関する近代的社会倫理からはまったくかけ離れたものであるとしか言い様がな。もしこうした法憲法規と主教の関係についての理解が間違っているのであるとしたら、あの発言をした司祭は、日本聖公会の管区から査問を受けてしかるべきであろう。しかし、管区にそうした動きがあるということはまったく聞こえてこない。そして、それとは逆のことが東京教区で起こっている。これはあくまでも、こちらで収集した情報による者でしかないが、京都教区における性的虐待事件に関して、ある月刊誌に書いた司祭が、何故か自主退職を迫られているという。一番の理由は、性同一性傷害と「ゲイ」を混同して表現したことによるものだそうだが、この一点だけで自主退職を迫るのであれば、京都教区の聖職者達は何故、懲戒されないのか。京都教区で起こった性的虐待事件は、まさに刑法に抵触する性的虐待事件である。だから、高等裁判所は請求額の全額をもって相当とするという異例の判決を出しているのではないのか。 事件被害者は、この事件の消滅時効が完成していたから刑事告発することが出来なかった。こうした事例は他にも数多くあるという。だから、PTSDが発症した時から時効が開始するように法改正をすべきだという意見が出てきていて、性的虐待に関する法整備が進められているという。このPTSD(Post-traumatic stress disorder、心的外傷後ストレス障害)に関して、日本聖公会京都教区はどのように認識しているのだろうか。しかも、日本聖公会京都教区の信徒が、一人の司祭による性的虐待でPTSDを発症している。これには専門医の診断書があるだけではなく、最高裁判所の上告却下によって確定した高等裁判所の判決ではっきりと認められているのである。そのことに関して、日本聖公会京都教区は、被害者とその家族に対して誠実な対応をしていない。むしろ、事件そのものを隠蔽し、被害者とその家族の思いを、今でも足蹴にしてるとしか言いようがない。日本聖公会京都教区の主教や聖職常置委員は、「羊を見捨てた羊飼い」であるとしか言いようがない。羊を見捨てる羊飼いは、本当に羊飼いだろうか。
2008.04.16
これで多くの方々は気が付いただろう。日本聖公会京都教区は間違いなく事実を隠蔽しようとしていた。S幼稚園在職中は問題なかったのだから退職金の支払いは法的には問題がない、という見解は、言い換えればS幼稚園に在職中に問題があれば退職金返還を要求するということになるのだから、被害者の訴状と高等裁判所の判決を検証すれば、H司祭はS教会の牧師館で明らかに性的虐待行為をしていることにななり、S幼稚園の理事会は退職金の返還を要求しなければならない。 これをどうしたら回避できるかを、いま彼らは一生懸命考えているのだろうか。それとも、裁判記録のあの個所を覆すだけのものを見つけようとしているのだろうか。それとも、知らぬ存ぜぬで急行突破を図ってくるのだろうか。彼らには、まだ伝家の宝刀が残っている。例の「主教の裁定」というよく意味が判らない強権だ。彼らにはこれしか残っていない。これを根拠に、日本聖公会京都教区主教が退職金の返還要求はしないと言ってくるだろうか。 心配しなくていい。こうした事態に対する主教の裁定は日本聖公会法憲法規では認められていない。逆に、法規の第196条に「教区主教は、本章に定めのない結婚に関する事項について、必要な裁定をすることができる。」とあるから、「主教の裁定」があらゆる場面で、無制限に行えるわけではないことは明らかである。もし「主教の裁定」があらゆる場面で無制限に行えるのであれば、この196条の規定は必要なくなるし、ここにこうした規定がある以上、「主教の裁定」は法規の規制を受けていることになる。 それだけではない。刑事事件としては消滅時効が完成していることではあるが、民事裁判において高等裁判所がこの性的虐待行為があったと認定しているのであれば、幼稚園の在任期間に関係なく、本来であれば懲戒解雇にすべきものである。そして、退職金の支払い決定をした理事会時の理事長が、性的虐待行為をしていたH司祭自身であるのであるから、現在の理事会はこの決定を無効として、退職金の返還を要求すべきであろうと思われる。つまり、どう足掻いても、S幼稚園の理事会は退職金返還要求をしなければならないということだ。
2008.04.11
今日、学校法人聖光学園聖光幼稚園の評議員会と理事会が行われたという情報が入った。新撰組はまだ知らなかったようだが、そこで話し合われた内容などに関して、隊士が情報収集に京の町を駆け回っているだろう。問題は原田文雄司祭に対する退職金に支出に関して、理事会がどう判断するかだ。常識的には、即決で退職金返還要求を出すことが決定されると思うが、もしこれをしない場合は、明らかに違法性が出てくるように思える。 キリスト教主義を前面に押し出している学校法人の園長の女児に対する性的虐待行為で慰謝料請求裁判が提訴され、加害者(被控訴人)は被害者(控訴人)に請求額の満額を支払い、裁判費用の全額を支払えという高裁判決が確定している。拙者のところに入ってきた情報では、原田文雄司祭は、聖光幼稚園に在職中には性的虐待行為をしていないから、退職金の支払いは法的に問題はないと理事会は判断しているという。 社会的道義的責任ということなど、日本聖公会はまったく考えないのだろうか。しかも、退職金の支払いを決定した理事会は、高裁判決が言い渡される一ヶ月ほど前に開かれており、明らかに作為的だという見解もある。当然だろう。慰謝料請求額+裁判費用≒退職金ということであれば、この退職金の支給がどのような意味を持っていたか、誰でも考えつくことだ。 いま、近藤さんから電話があった。あの天誅というブログの執筆者だが、様々な問題を指摘し、この退職金のことに関しても返還要求をすべきだとしていた監事が解任されたらしい。沖田の配下の者が得た情報では、聖光幼稚園には、学校薬剤師も養護教諭もいなかったらしい。それもまた解任された監事は指摘していたという。また、土方さんの配下の者が調べたところでは、宗教法人聖光教会と学校法人聖光幼稚園の会計が一緒になっていたらしいという。これに関しては、つい最近になって切り離したと理事長から報告があったそうだ。 天狗に連絡が付かない。彼奴の携帯の番号を知っている御仁は是非、至急メールで知らせて欲しい。秘密は守る。ただし、このブログのコメントに携帯番号を書くことだけは絶対にしないでほしい。彼奴ならばかなり詳しいことを知っているはずだ。そして、近藤さんには知らせてあるが、各ブログの管理人は拙者のこのブログをとりあえず読むように、連絡しあって欲しい。そして、このブログをリンクして、これを読むように至急宣伝して頂きたい。他にも重大な発言があったらしいということが、あるところから連絡が入った。
2008.04.06
マルコ福音書4章21節以下 また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。」 日本聖公会京都教区は原田文雄司祭の事件を隠蔽し、一旦退職した原田文雄司祭を復職させ、性的虐待に対する慰謝料請求裁判で係争中も常置委員長にし続けてきたが、高裁判決が確定しても、日本聖公会京都教区は「冤罪」という言葉を口にして、原田文雄司祭を擁護した。そして、他にも被害者が出てきて初めて原田文雄司祭の性的虐待行為を認め、「謝罪の記者会見」で原田文雄司祭を陪餐停止にし、自らに減給処分を科したと発表した。 しかし、その後、「糾す会」などが事件の真相とそれに対する京都教区の対応を糾弾し続けて来たことによって、最早京都教区は最後の砦さえ崩されようとしている。原田文雄司祭の行為は決して「大したことはしていない」といえるようなものではなく、また先日の宮嶋眞司祭の発言は明らかに法律に違反している。監事に理事会の議事録を提出することを拒否しているからだ。それだけではない。糾す会:道義的には問題あるでしょう。宮嶋氏:それは認めます。しかし、法的には問題なしで、 17年間の在職に対するものです。監事 :道義的に問題ありなら、支払ってはいけません。 特にこの幼稚園はキリスト教主義の学校法人で約款 にもキリストの教えを前面に立てています。その目 的を逸脱している点では法規違反になりますよ! こう言われて宮嶋眞司祭は沈黙しているが、道義的責任を認めていながら、彼らが原田文雄司祭に退職金の支給を決定したということは、教会として最悪の出来事だろう。法律には違反しないが、教会の信仰からしたら大変な罪だということはいくらでもある。教会は、法律的責任以上に信仰的責任を問わなければならないところだ。 「法的には問題なしで、17年間の在職に対するものです」という発言は、キリスト教の聖職者として極めて重大な過ちであることは、教派を問わず、キリスト教の聖職者であれば、誰もが認めるところだろう。しかし、問題はもう一つある。裁判記録には聖光教会に転任した後も、被害者に対する性的虐待は行われていたように書かれているという。もしこれが事実であれば、そして6人目の被害者が被害にあったのが聖光教会に在職中のことであれば、最早原田文雄司祭に退職金を支払ったことを正当化できる理由はない。高地主教はこの点に関しても説明責任があるだろう。ただし、もう、見え透いた嘘はつかないようにしないと、大変なことになるから気を付けた方がいい。
2008.03.28
隠蔽工作宮嶋氏:監事は最近の理事会に2回欠席されたので 監事を信用できなくなりました。それ故、 議事録は見せられません。監事 :監事の仕事は民法の第59条に規定されて おり、法律に則って理事会の請求と議事録 の提出を通告します宮嶋氏:あなたを信用できませんので議事録は提出 できません。理事会についてはまもなく近 日中に開催いたします。監事 :議事録の提出拒否は法律に抵触しますよ。 京都府に報告します。監督庁の介入をお願 いに行きます。宮嶋氏:どうぞ京都府庁でもどこでも行ってくださ い。別にかまいません。 「糾す会」の一斉メールが転送されてきた。 この宮嶋という司祭、自分が言っていることを自分で理解できていないようだな。学校法人の理事長として、明らかに法律に抵触している発言をしている。理事会の議事録は原則公開が義務づけられている。相手を信用出来るか出来ないかは関係がない。理事長の独断で見せたり見せなかったりしたら、理事長がすべてを牛耳ることが出来てしまう。宗教法人でさえこれは出来ないことだ。教会の不動産などを処分する時には、当該教会と教区事務所に掲示しなければならない。また、取得するときも同じだ。 どうも日本聖公会の司祭や主教はこうしたことに疎いように思える。単に知識がないからだけなのか、それとも日本聖公会独特の権威主義がなさしめていることなのか。学校法人の理事長は、日本聖公会の主教制下に於けるような権威は持っていない。宮嶋眞司祭はこれを理解出来ているのだろうか。「どうぞ京都府庁でもどこでも行ってください。別にかまいません。」という居直りともとれる発言は、あまりにもお粗末だな。「別にかまいません」とのことだが、学校法人は文部省の管轄で、各都道府県がそれなりの部署で主管しているだろう。宗教法人の内部の問題ではないのだ。 宮嶋眞司祭はあの性的虐待の裁判記録に関して、「そんなもの見るか見ないかは私の自由です」と言ったそうだが、日本聖公会京都教区の常置委員として無責任きわまりない発言だ。被害者も加害者も日本聖公会京都教区の信徒であり、司祭なのだ。この発言だけでも十分懲戒処分に相当する発言だ。事件の隠蔽工作の一角を担っていることだけは間違いないだろう。
2008.03.22
近藤さんの『天誅』を読んだ。思わず目を疑いたくなるようなことが書かれている。「日本聖公会の法規にある終身停職の規定そのものがおかしい」と発言した京都教区の常置委員がいるそうだな。沖田総司が聞いたら「クーデターだ」と言いそうだな。それも、日本聖公会内部の一司祭が起こそうとしたな。組織の法体系がなんたるかを日本聖公会は司祭になる前にきちんと教育していないのか。それとも、教育する方が同じことをしているのか。 当然、日本聖公会京都教区もしくは日本聖公会の管区はこの司祭を喚問するだろうな。何しろ、管区総会で決定した法規にある規定を、その規定そのものが間違っているからそれを執行しないという発言は、日本聖公会という組織の秩序を非合法な仕方で破壊していることにしかならない。もしかするとこれを発言した宮嶋という司祭は、こうした基本的なことを理解できていないのかもしれない。日本聖公会の神学教育は悲惨だとは聞いていたが、こうした教会論の基本的かつ基礎的な部分を理解できていないということは、神学教育においても、聖職試験においても、司祭試験を受けようとする者にまったく不十分なことか教えられていないということなのだろう。 現在の日本聖公会法憲法規がどのような経緯で決定されたか。そして、管区総会の代議員がどこまでそれを理解できていたかに関しては、ある聖公会の司祭から耳にしたことがある。明確な教会論と明確な組織論があって初めて、教会法は制定できるはずなのだが、日本聖公会の主教や司祭の中で何割くらいがそれを理解できていないか。ある司祭は8割だといい、ある司祭は9割だといい、ある司祭はほとんど全部だと言っていたらしい。「終身停職」に関する規定そのものを宮嶋眞司祭は知らなかったようだ。5年後には復職できると誤解していたらしい。あの高地主教と一緒だ。「福音の継承者」である主教が、日本聖公会法憲法規を理解できていない。これは、去年の1月29日文書から明らかなことだ。そして、他教区の主教も司祭達も、そして何よりも管区がこれを問題にしなかった。終身停職を受けた者が5年後に出来るのは「復職」ではなく、「復職の申し立て」だ。これは日本聖公会法規第217条で規定されている。そして、常置委員会の同意を得た上で主教はその終身停職中の司祭の「復職」を主教会に申し立てなければならない。最終的に復職を決定できるのは主教会だ。高地主教はこの法規を読んだことがないんではないか。 こうした一連の法規の規定を宮嶋司祭は「おかしい」として、「原田文雄司祭を終身停職にすることはない」と暴言を吐いたそうだな。司祭の審判邸は教区主教が開くことになっているが、年下の高地主教に宮嶋司祭を審判邸で裁く勇気がおありかどうか。宮嶋司祭は風来坊や天狗と同じ歳だそうだな。このどうしようもなく狂った京都教区を日本聖公会の主教会や管区は何故黙っているのか。日本聖公会は尋常な思考とはかけ離れたことをしているようだ。
2008.03.20
沖田はなかなか鋭い読みをしているな。刑事時効が成立していないということは、十分にあり得ることだ。しかし、二つ目の仮説が書かれていないが、何か意味があるのか?それとも他に考えていることがあるのか?たぶんこれだろうと思えることを私が書いておこう。日本聖公会の司祭は気を付けろ。酒場で酒を飲むな。飲んでもいいが、クラジーシャツを着て、大声で話をするな。隣の席にいるひとがどこの誰だか判らんのだからな。日本聖公会の情報を知りたがっているのは、ゴロゴロいるからな。NCCなどで不用意な発言をしているのもいるだろ。沖縄の事件で声を上げているのもいるだろう。その論理が極めて稚拙で、ただ反対するためだけの反対だったり、いかにも進歩的な発言をしている者もいるが、肝心の所で逃げているだろ。 フィリピン聖公会の司祭やその家族が殺されているという情報を知っている司祭は日本聖公会の中に何人いるか。大統領は飾りで、実権は軍部が握っており、少数民族が毎日のように迫害を受けている事実を知らない司祭は何人くらいいるか。聖公会は沈黙しきっているからな。だから、他教区のことは他教区のこととして避けて通っているようだが、だったら正義とか平和という言葉を口にせん方がいい。そして、京都教区に一杯食わされるぞ。あの六人目の被害者というのは、実は捏造された物語ではないかという説も出てきている。つまり、六人目の被害者と付添人を連れて原田のところへ面会に押し掛けたというのは、謝罪というポーズを示すために創作されたものではないかという説だ。これも十分にあり得る。ただし、これが創作だとしたら、よほどの人物が創作したとしか思えん。一読しただけでは、あれは事実だと多くの者が信じ込んでしまう。今の京都教区にあれだけのことを創作できる司祭がいるかどうか。 ただ、私の情報網では、あの六人目の被害者は京都市中の女性だという。日本聖公会の司祭は気を付けろ。酒場でだけでなく、ラーメン屋も危ないぞ。隣に誰が座っているか判らない。電車の中もだ。向こう三軒両隣、ご近所も危ない。立ち話がみんな聞こえてくる。あの日は電車で行ったのか?それとも自分たちの車で行ったのか?車の中は密室だが、電車には誰が乗っているか判らんだろう。それから電話が危ないからな。電話の親機と子機の間に飛んでいる電波は、以外と離れたところでも聞こえるものだ。ガードがかけられているデジタル波を使っている電話機はまだ手に入らんだろう。少し性能のいいアンテナを使えば、あのFM波を盗聴することは容易いことだ。嘘だと思ったら2級アマチュア無線技士以上の資格を持っているアマチュア無線家に尋ねてみたらいい。子機が使える距離よりもはるか遠くでその電波を拾えるはずだ。聞こえるか聞こえないかは、アンテナの性能によってまったく異なる。電話の子機に内蔵されているアンテナなど、性能的にはアンテナなどとは言えないものだ。私は、アマチュア無線に興味はないが、無線LANに興味があって、無線のことを少し勉強しただけだ。 沖田の推測は当たっている可能性が高いな。5年の刑事時効が成立していないこともあり得るな。最近、何故か知らんが、妙な噂が耳に入る。京の市中は広いようで狭いからな。私のところにも密偵がいないわけではない。そして、性的虐待事件では、多くの被害者が告訴することを断念する。周囲の人々の目が気になるからな。もし、沖田の仮説が事実だとすれば、京都教区は性的虐待の加害者側に立っているとしか言いようがない。事件の隠蔽工作に奔走してきたのだろう。他の三人の被害者に対する謝罪文を書かせたのは、六人目の被害者がいつ被害にあったかを隠すためのものではなかったのか。もう一度言う。日本聖公会の司祭は気を付けろ。「壁に耳あり、障子に目あり」だ。
2008.03.17
原田が「九条の会」の支部設立発起人になっていながら、自分が園長をしている幼稚園の職員を自民党の衆議院議員候補者の選挙事務所に手伝いに行かせていたという話は聞いていたが、米軍基地内で行われる礼拝に日本聖公会の司祭が手伝いに行っていたということは知らなかった。みんなも信じられないだろう。それで、近藤さんに電話したら近藤さんはかなり詳しく知っていた。ニュース・ソースはかなり確かなものだという。 そして、それが行われていた教区では、そのこと、つまり近隣の教会の司祭が礼拝でも聖餐式をしに、米軍基地内の教会に行っていたことを知らない司祭がいるといっていた。当然、多くの信者は知らされていないだろうし、近隣にある他教派の教会の牧師や神父は知らないだろうな。おそらく、その教区の中でも極秘事項になっていたのだろう。でなければ、「正義と平和」委員会の公式見解に矛盾することになるからな。「教区が異なるから」という得意の弁解は通用しない。あの「正義と平和」委員会は管区の委員会だろう。 そして、天狗がすごいことを書いていたな。拙者は天狗に会ったことがないから、天狗の友人だという風来坊に電話してみた。あのICCのことを知らなかったのは、管区の聖職試験委員長だった人物だそうだ。今はもうICCはかなり古いものになっているが、それでも基本的文献としては十分に使える。かなり以前のことだが、天狗は東京の教会から地方の小さな教会へ転任する時に、あれを全巻まとめて手に入れたそうだ。それにしても「使徒言行録」の巻がないということを聖職試験委員長が知らないということは、実に奇妙なことだ。 スキーのことは拙者には判らん。天狗はプロ資格を持っているのか。それにしても、日本聖公会の司祭は事実認識がないにも拘わらず、あのような発言をするのがいるのだな。知り合いにスキーをするのがいるから、今朝、電話で聞いたら、プロのインストラクターとアマチュアの1級では比べること自体がおかしいことだと言っていた。そして、結局は天狗に対する僻みやっかみだろう。日本聖公会は教会として基本的なところを考え直した方がいい。拙者も何人か聖公会の司祭を知っているが、あの黒いシャツを着て身なりを整えていると何故か知的に見えるが、話をしてみると神学の基本的な部分が出来ていない。ある時は、聖書が正典になったのがいつかを知らなかった。勿論、「ヤムニヤ会議」という言葉さえ知らない司祭がいた。 それでいて、ローマ・カトリック教会とプロテスタント教会の橋渡しが出来る教会と自称している。それだけではない。日本聖公会が女性に司祭按手を授けてしまったことをローマ・カトリック教会側は非常に残念に思っていることを日本聖公会は隠している。プロテスタント教会でも、女性は「牧師」になれない教派がある。当然だろう。ギリシア語にプレスブテロスの女性形はない。日本聖公会が女性に司祭按手を授けた理由の中に、フェミニズムがあることを言っていた日本聖公会の司祭がいた。ローマ・カトリック教会はフェミニズムを容認していないどころか、はっきりと否定している。そして何よりも、日本聖公会には性同一性傷害を自称している司祭がいるが、彼?に関する診断書があるということを日本聖公会は公式に認めているということを聞いたことがない。
2008.03.10
日本聖公会京都教区はFH司祭による少女への性的虐待行為が発覚した時、一度はFH司祭を自主退職させておきながら、その後、FH司祭に退職願を返しただけでなく、常置委員会の委員長やウィリアムス神学館の教授をはじめ、すべての役職に復帰させたという。その理由は、「FH司祭自身が、被害者の主張は事実無根である」ということを全面的に認めてしまったからに他ならない。 それだけではない。この事件に関する慰謝料請求事件の民事訴訟に対する判決が出てから2年以上経っている今も、このFH司祭の復職に関する当時の常置委員会の議事録を公開していない。しかも、最高裁の上告却下があって、高裁の判決が出た当時、京都教区総務局長名で「高裁、最高裁に抗議する」という声明文を発表したその総務局長は現在、日本聖公会京都教区の常置委員長をしているという。確かに彼らは「謝罪の記者会見」を開いてはいるが、しかし、その後の行動が記されている公式文書におていも、被害事実が現実に起こったことであるということの認識がまったく見られないようなことを記している。 そして、高地主教はそうした一連の教区の誤った対応の責任者であるという自覚が見られない。これは、あまりにも愚かとしか言いようがない。それはまるで、日本聖公会が「主教無謬説」を唱えているかのようにさえ見える。そして、信徒の中にはそれを支持するだけでなく、主教を擁護しようとしている人がいると思えるような報告が「糾す会」の一斉メールが流されているようだ。しかし、これらの行為は明らかに、被害者に対する二次的加害行為であることは、性的虐待という行為の特殊性から考えて当然のことであろう。 京都教区の主教や常置委員会が「謝罪の記者会見」で受け入れたと語っている高裁判決を読むと、あれが刑事裁判であったとすれば、確実にFH司祭は当然、有期懲役の実刑判決を受けていたと考えられる。京都教区はそうした事の重大性をまったく認識していないとしか思えない。彼らには焦りもなければ、緊迫感さえもない。そして、FH司祭による性的虐待事件に関する嘘を未だに信じている信徒に対して、真実を告げようとする考えは微塵も見られない。そして、日本聖公会もまた、これに関して沈黙を守り続けている。彼らは、国家の法秩序を無視していることは明確である。正にカルト集団以外の何ものでもない。
2008.03.03
被害者側代理人公式ホームページの「4.被害者側が教区に認めて欲しい責任の問題」という項の最後に、PDFファイルがあるが、2008年1月21日付の「京都教区、高地主教、武藤主教、古賀司祭に対する要望、その他を通達します」という文書だ。このブログのBookMarks の二行目が代理人の公式ホームページなのでそこをクリックして、前述の部分をクリックすると当該文書が読める。 この要望に対する回答期限は2月とされている。つまり、明日がこの回答期限ということだ。この要望と勧告に京都教区はどういう回答を寄せるか。沈黙はしないだろう。この代理人は、公証人役場で正式に契約が行われた代理人だ。「被害者やその関係者ではないから」ということは理由にならない。それとも、京都教区はこの正式な代理人の意味が判っているかどうかも問題だ。判っていてばそれなりの対応をしてくるだろう。 これに関して、今度は、今までのような嘘の文書は流せない。「代理人という人から文書が来たが、被害者やその家族ではないので、回答は差し控えた」と言えない。小生が知っている限りでは、公正証書も取っている代理人だとのことだから、かなりの権限を有している。京都教区は代理人に不誠実な対応をすると、被害者の家族に対して不誠実な対応をしたことになる。言い換えれば、代理人からの要望と勧告は、被害者の家族の要望であるということになる。 どういう回答が返って来るか楽しみだ。そして、回答が返ってくるかどうかも大事なところだ。京都教区は京都教区事務所で、代理人契約の公正証書を見ていることを自ら明言している。小生としては、回答が返ってくることを願っている。日本聖公会京都教区もキリスト教の教会である。現職司祭による性的虐待の被害者の関係者の代理人からの文書に対する回答をしないということは、紛れもなく被害者を無視するということに他ならないからだ。今日は、日本聖公会京都教区のために祈り続けよう。
2008.02.28
日本聖公会はこの問題をどうするつもりなのだ 原田が犯した罪がどれほど重大な犯罪であるかということを日本聖公会は認識していないようだな。女性に対する人権侵害などというレベルのものではない。被害者の記憶からは一生消えないかもしれないことなのだ。日本聖公会の管区や主教達はそれを本当に知らないままでいるのか。 知っていて、今の状態を続けているのであれば、日本聖公会は日本の法体系を無視した、正にカルト教団であると言わざるを得なくなる。同じような事件が起こっても、同じようにしか対応しないだろう。特に、被害者の父親が了解していない文書に「この文書は被害者の関係者の方の了解のもとに出しておりますことを申し添えます」と最後に書いて、日本中の聖公会の教会に送付した高地主教の行為を日本聖公会は何故問題にしないのか。高地主教は「糾す会」の代表者である堀江氏に対して父親にファックスで最後に送った文書を書き換えたと証言しているという。 こうした行為は刑事事件として告発することは出来ないのか。刑法第233条(信用毀損及び業務妨害) 虚偽の風説を流布し、又は偽計(ぎけい)を用いて、人の信用を段損し、又はその業務を妨害した者は、3年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。 高地主教は、あの文書はこれに当たらないのか?「虚偽の風説を流布」することによって、自分たちの立場を正当化していないか。「業務を妨害する」ということにはならないのか?わしらはまったくの第三者だから、直接は何も言えない。しかし、この233条の罪は親告罪ではない。警察に情報を提供することが出来るのではないのか。 女児に対する性的虐待を行った司祭である加害者を擁護し、虚偽の内容を記した文書を日本中の関係団体に送付するという重大な過ちを犯している。しかも、「謝罪の記者会見」を行ってから1年以上もしてからのことだ。京都教区と常置委員会の「謝罪の記者会見」は一体何だったのか。誰にでも裏が見えてくるだろう。2005年3月30日 高等裁判所の判決 原告の全面勝訴 4月15日 被告(加害者)、最高裁へ上告 7月19日 最高裁判所の上告棄却 8月27日 新聞各紙で報道 三浦教区総務局長名で「大阪高裁と 最高裁に強く抗議する」旨のコメント が各紙に掲載さる、原田司祭も事実無 根を強調 9月 3日 新聞報道をみて別の女性が性的虐待 受けたと教区に訴え 9月 5日 原田司祭、金沢聖ヨハネ教会を自主 退職、だが事実無根を主張 12月 9日 教区が謝罪記者会見(さらに4人の 女性の被害者があったことから) 京都教区は原田文雄司祭を陪餐停止2007年1月29日 主教文書を全国の聖公会の教会と関 係団体に送付
2008.02.26
部外者の戯れ言 原田の加害行為がどのようなものだったかを高地は今もなお京都教区の信徒に正確に伝えてないようだな。おかげで、信者の中には、原田が虚言・妄想の被害者だと思っている人々がいるそうだが、教会用語ではそうしたことを「牧会的配慮」と言うそうだな。一般人から見れば、隠蔽工作にしか見えない。 原田がしたことは、明らかに「準強制わいせつ」だ。しかも被害者は12歳以下の女子児童だ。高地や常置委員会はこのことの意味を考えたことがあるのか。日本聖公会の女性聖職の中に、この加害行為の問題性をよく知っている人がいるだろう。高地は何故そうした人から話を聞かないのだ。話を聞いても理解出来なかったのか。「チャイルド・マレスター」(child molester)とかペドファイル(pedophile)という言葉を高地は知っているだろうか。 そして、これらのことがアメリカで大きな社会的問題になっているのだが、日本では公の場所でこうした児童に対する性的虐待の問題性が語られることは少ないように思える。しかし、京都教区ではこれが犯罪という形で現実に起こっている。これは高地も常置委員たちも「謝罪の記者会見」で認めたことだ。だからこそ、専門医と相談する義務が高地にはあったはずだ。しかし、京都教区はこうしたことに関して何ら公表をしていない。裁判記録の中に、2001年3月10日(土)に原田が記した書状がある。被害者側代理人の公式ホームページに添付されているから是非目を通していただきたい。 こうした書状が存在していることを承知していながら、高地や常置委員は何故専門医に、すべてを明らかにして相談しないのか。一般人がこれを聞いたら日本聖公会京都教区に驚愕するだろう。しかも京都教区は、未だに原田は被害者だと思っている信徒に対して、積極的に真実を伝えようとしていないのは何故なのか。こうした事件を隠蔽することが、反社会的行為であることを、高地や常置委員は何故信徒に知らせることが出来ないのか。問題の重大さを考えると、京都教区がしている隠蔽工作は、ある種の犯罪性があるように思えて仕方がない。そして、こうしたものの見方を「部外者の戯れ言」といわなくてすむように、高地と常置委員は裁判記録を精査してくる必要がある。
2008.02.25
下記のような掲載依頼がありました。 掲載可能な部分だけ掲載します。 他のブログ設置者のみなさんも、これをコピーして掲載して いただければ幸いです。 * * * * * * * * http://mehikosasaki.blog.shinobi.jp/ このブログはリンク禁止です。 但し「糾す会」のHPには掲載して構いません。 原則として、毎週金曜日、もしくは土曜日に書き込むつもりですが 体調等の理由により、掲載出来ない週もあるかと思います。 ご理解の程よろしくお願いいたします。 HN メヒコ佐々木
2008.02.23
原田は蟄居していろ。フラフラ出歩くな。 周囲は皆、お主が何をしたか知っている。 お主は京都では顔が売れ過ぎた。 お主が棲んでいる所から15分以内に小学校が五校ある。 既に学校には情報が入っているという噂が聞こえてきた。 あれだけ新聞に載ってしまった御仁だからな。 教育委員会が過敏になっても仕方がないだろう。 本来ならば、蟄居閉門が当然のことなのだが、閉門すると かえってストレスがたまるかもしれないからな。 外出時にはカメラやカメラ付き携帯電話を持ってるなよ。 どんなに軽微なことでも、今度やったら全国紙に載る。 高地はしっかり監察していろよ。 今度原田が事件を起こして捕縛されたら、刑事裁判だ。 お主の監督責任が問われる。退職したとはいえ、京都教区 の司祭であることにかわりはない。
2008.02.22
拙者の知り合いから、廻ってきた。 「糾す会」に寄せられた文書だとのこと。 新撰組も躍起になって彼らを糾弾しようとしているが、なかなかどうして、日本聖公会京都教区は一筋縄では謝罪しようにない。あの司祭がしたことは、梟首になっても不思議ではないほどの犯罪行為なのだが、京都教区主教や常置委員会はそれをまったく認識していない。新撰組が手を出すまえに、原田をどうにかせねばならん。 * * * * * * * * * * * *全国の聖公会聖職者関係者の皆さん!全国の教会の信徒の皆さん!聖公会の幼稚園関係者の皆さん!聖公会学校関係者の皆さん!聖公会福祉施設・病院関係者の皆さん!全国の教区の執行部(常置委員)の皆さん! 私は京都教区奈良県大和伝道区の高田基督教会の現役の72歳(ネズミ年、昭和11年生まれ)の一信徒です。長らく教会委員としてご奉仕させていただきました。 この教会で発生いたしました牧師による複数少女に対する前代未聞の強制超猥褻事件に関しまして、全国の皆さんからご心配頂き、また被害者や当教会信徒関係者に強い祈りをささげていただいていますことに対して心から感謝申し上げます。 祖父の代でこの教会の創立に関わった関係で親族一同多くの者がキリストのぶどうの枝に連なり、信仰生活を送っていることは誠に神の思し召しと感謝の毎日でございます。 さて、ここに一人の人が深い傷を負い、路傍の石に横たわり、苦しみながら、助けを呼んでいるときに、関わったら面倒だ!時間がとられる!といって救急車も呼ばず、そのまま通りすぎて行ってしまいますか?京都教区の聖職者は事件の内容を詳しく知りながら主教や常置委員の間違った対応に対して沈黙すると言うことはまさに路傍の重傷者を見殺しにするということと思われませんか?聖書や教会の教えとは全く逆ですね! 私は教会委員としてこの事件の解決のために祈り、祈り、委員会で発言したり、管理司祭の石塚司祭や主教にいろいろと提言してまいりました。残念ながらそのため、教会の中で人間関係が壊れ、この事件を口にすら出来ぬ状態で、 誰も私に話しかけようとすらしなくなりました。石塚司祭の霊的指導がこれで正しいのでしょうか?「不道徳なことを実行された聖堂を再聖別して下さい!「機関誌のつのぶえに事件の総括を掲載して、謝罪されたい」という要望を主教に送りました。 なしのつぶてです。 教会委員会でも教区から送付される事件の文書すら石塚司祭の采配で委員どまりにし、 信徒は未だにその真相を知りえていません。私の弟の活動を激励してきましたが、昨年2月突然高地主教がなんの連絡もなく突然玄関の扉を開け、強圧な態度で「糾す会の教会訪問活動をやめさせなければ弁護士をつける。弟さんを威力業務妨害で立件することもありえる」と言う様な暴言を吐いて帰っていかれました。その数日後なんと弟のところに弁護士から内容証明の封書が届けられたじゃありませんか! その反面、高地主教は被害者父親が承諾した文面を送付前に自分達に都合のよいように 書き換え、加筆して全国の教会に送ったと聞いています。なんという反社会的なことをされるのでしょうか!信義も正義も大義もあったものではありませんね。現執行部の主教、常置委員を総入れ替えしなければ解決しないのではとさへ思います。聖公会新生のために、今後は聖光教会の信徒と共に声を大にしていきたいと思っています。 現場の教会としては、一日でも早くこの事件を収拾していただき、平和が戻り、信徒兄弟姉妹が真に平和の挨拶が交わせるようにまた日本聖公会がこの事件を教訓にし、一層倫理規範を固め、宣教150年にむかって更なる前進がありますように願っています。そのためには全て真実を公開し、加害牧師を規則通りに処罰し、教区は被害者家族が心から癒される謝罪をし、収拾を図られるようにと思っています。 そのために働いてもらっている被害者代理人および糾す会のメンバー、支援者一同に神のお力を祈ってやみません。 奈良県大和高田市本郷町 9-27(高田基督教会住所) 日本聖公会 高田基督教会 信徒(現在受聖餐者) 堀 江 育 夫 (72歳)
2008.02.21
関連ホームページとブログ 日本聖公会京都教区の事件 <糾す会>http://www.geocities.jp/asshor15/seikoukai.html 被害者側代理人公式ホームページ http://homepage3.nifty.com/periborg/ 大阪なんて知らない http://blogs.yahoo.co.jp/oosakashirahen 日本聖公会にもの申す http://blogs.yahoo.co.jp/topgun_japan_yh 新撰組 沖田総司 http://okitasoushi.blog.shinobi.jp/ 天 誅 近藤 勇http://tenchuu.blog.shinobi.jp/世直し 土方歳三http://blog.kansai.com/yonaoshi鞍馬天狗 http://blogs.yahoo.co.jp/kuramateng_1010/ いいたい放題 http://blog.goo.ne.jp/myocor_319 FH司祭問題を駁す http://blog.goo.ne.jp/no_more_fh/ キリスト教カルトを斬る http://plaza.rakuten.co.jp/teradream/ 考えよう、主張しよう http://blogs.yahoo.co.jp/ortho_catho 祈りの有無 http://blog.goo.ne.jp/soujyakuwakasaどないしたんhttp://blog.kansai.com/donaisitan+category+0 以上 順不同
2008.02.21
全38件 (38件中 1-38件目)
1
![]()

![]()