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七詩さんComments
1970年、私たちは二十歳だった。そして、当時の仲間たちの多くがそうであったように私たちは二人とも(別々の場所においてではあったけれど)「過激派学生」だった。……
私たちは「革命」的政治行動を実践するということがどんなリスクを冒すことであり、そのリスクからどうやって身を守ればよいのかについて、ほとんど何も知らなかったし、知ろうともしなかった。そして、いきなり「現場」に踏み込んだのである。……
まるで間違っていた。
私たちは「恋と革命のボタン」を押したつもりで、自分の処刑執行許可書に署名してしまったのである。というのは、「過激派」の政治活動とは、ほとんどの場合、見知らぬ人から暴力を振るわれても文句を言えない立場に進んで身を置くことに他ならなかったからである。……
暴力はランダムに、非論理的に、無原則的に、私たちを襲った。勇敢な者も、卑劣漢も、政治意識の高いものも、政治意識のかけらもないものも、そのような個人的属性とはまったく無関係に暴力にさらされた。リアルでフィジカルな暴力のほとんど無垢なまでの邪悪さに私たちは驚倒したのである。……
あるものは「邪悪なもの」に拉致され、あるものは生き延びた。
誰にも説明できない理由で、私たちは傷つけられ、損なわれることがある。まるで冗談のように。
どういう基準でその選択がなされたのか、今でも私には分からない。
「どういう基準でその選択がなされたのか分からない」ということが、1970年に「過激派」だったことから私が汲み出した唯一の知見だった。
前掲書解説 「過激派的外傷あるいは義人とその受難」より