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☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 妊娠中のためお休みしています。 お勉強はまた来年?再来年?に!!☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
2007年11月30日
キャリアコンサルティング試験の願書を提出しました。いつもどおりぎりぎりの当日消印有効・・・試験は8月最終週末。勉強はまだまだこれから。がんばれ、じぶん。
2007年07月06日
締切日にようやく課題を提出できました!これが無事合格すると、来月試験を受けられます。やっと1教科クリアできるかなー♪「児童サービス論」です。しかし、夏季通学講座を申し込み遅れた私。冬季通学講座はきっと日程的に通えない・・・困った。どうしようどうしよう!?なんとかならないか、事務局に相談してみなければ!?
2007年07月05日
ばたばたしていましたが、ようやくちゃんと司書の勉強にとりかかりました。7/5までに、2科目の課題を提出し、8月頭に試験を受ける予定です。このペースで月2科目ずつやります。設問1 児童サービス論の意義を述べよ。→400字にまとめました。1日1問だと・・・ちょっと間に合わないからゆとりのある日は2問にしよっと。
2007年06月26日
必死で宿題に取り組んだ。泣きそうだー。
2007年06月09日
ここは司書の勉強状況を書く予定ですが、今回は番外編。というのも、今年はインプットの年!ということで、他の勉強もスケジュールしちゃってます。ちょっと久しぶりに気合が入ってます本日、キャリアコンサルタントの講習1日目。3日で終わりですが。久しぶりに講習会とか受けると、ものすごく疲れるものですねー。いやぁ、黙って机の前に座って、人の話を静かに聞いているって結構苦痛。日ごろのまったり生活のせいでしょうね( ̄▽ ̄;;;始まってすぐに、講習を申し込んだことを後悔しました、ハハハ...しばらく聞いているうちに慣れましたけどね。やる気も出てきましたけどね。最近ハローワークに通い始めたばかりの私は、自分がキャリアコンサルティングを受けたいくらいなのですが、勉強しているうちに自分のキャリアも見えてくるといいなぁ。今日の演習では、現在の自分と10年後の自分のことを考えて、どの役割を重要視するかを合計100になるように割り振るもの。学び、趣味や余暇、社会活動、働くこと、家庭の5つだったかな。どれも同じ配分だと20ずつになるもの。どうしてもバランスをとりたがる自分を発見しました。思いっきり偏ってる人もいそうなんだけど、どうだろう?このキャリアコンサルタントは8月に試験があります。取ったところですぐに就職につながるものではないけれどとりあえず興味のあることを勉強していまーす。夫に講習の金額がばれて「マルチだよ~」と馬鹿にされたけど負けませんあ、司書の勉強は来週から開始する予定。・・・たぶん
2007年05月26日
学生になるのは久しぶりなもので、すっかり忘れてました。前期にどの科目を履修して、後期にどの科目を履修して・・・と自分で決めなければいけないのでした。ようやくふわふわと腰を上げ、実習の日程をスケジュール帳に書き込んで科目一覧とにらめっこしました。こんなことで大丈夫かしらん!?そら豆を煮たりしながら、ダイニングテーブルで2時間をかけて完成!もしかして再試もあるといけないので、12月までですべてを履修、試験も終わるようにスケジューリングしてみました。通信教育なのでスクーリング6回+試験8科目以外は、自分のやる気が頼り。まずは7月試験の2科目をがんばろー次は教科書の入手だな...(←スロースターターです、はい)
2007年05月14日
久しぶりに日記を書きます。今春から、司書の資格を取るために、大学生になりました。GWも終わったので、ようやく重い腰を上げ、勉強に取り組むことに。ちゃんと1年で取れるのかしらん?まぁ、取ったところで司書になれるかどうかはわかりませんが、ぼちぼちと勉強する感覚を取り戻していきたいと思います。あんまり気合入れずに、もっさりと記していきます。どうぞよろしく!写真は決意のほどを表したわたぼうし(^^*このくらいフワフワといきます。
2007年05月07日
大好きなので完全版を買おうかな。スラムダンク 完全版 全24巻セット
2007年04月03日
ただいま休止中です。春頃に再開予定・・・かな。訪問してくれた方、申し訳ありません。
2007年02月16日
トラックバックの練習を兼ねて初夢をご披露今年の初夢は、私の青春を彩った「プリンセスプリンセス」のライブでした!昨年は解散10周年ということで、いろいろなCDやDVD-BOXなどが発売されましたし、今でもギターだった中山加奈子さんが大好きでライブに行ったりするのですが、初夢に見たのはもしかしたらはじめてかも!?しかも、なぜかプールの中でライブをしており、客席も壁を隔ててみんなプールの中。目が覚める瞬間に歌っていた曲は「ジャングルプリンセス」でした♪ファンの人にしかわからないと思いますが、大声で「(男なら)♪あ~いあいあい~」と合唱しているところで目が覚めました。もちろん、フリ付です。あー、かなり幸せな初夢だったなぁ。今年はいい年になるかも!なるはず
2007年01月05日
トリノオリンピックを機に、フィギュアスケートを見るようになりました♪今日のハッピーニュースは、愛らしい表情、可憐な演技、ずば抜けた技術で16歳にしてフィギュア界を背負って立つ浅田真央ちゃん。愛犬のエアロと共にスケートをしたようです。普段は海外生活などで、離れて暮らしている愛犬と、共にリンク上を滑り、ジャンプしたことで、真央ちゃん自身も楽しげな表情です。私もそのハッピー気分をおすそ分けしていただきました。皆様も、幸せ気分になれますように♪http://news.www.infoseek.co.jp/topics/sports/mao_asada2/このページにトラックバックしたいのにやり方がわかりませn(ToT)
2007年01月04日
明日は母の35日。もう母が亡くなってそんなに経つんだなぁ、と思う。いろんな場面で、いろんなことで、母を思い出す。今日は、付添で行った病院が、母が東京で入院していた病院に似ていて、とてもよく陽が当たる中庭があった。素敵な中庭で、たくさんの人たちが、ゆっくりとした時間を過ごしていた。ほぼずっと寝たきりで過ごしていた母も、東京の病院にいる時には、ほぼ毎日のように、車椅子で中庭へ行っていた。骨折のリスクの高い母を、あの病院の医師や看護婦たちは、とても親切に大人数でベッドから車椅子へ移してくれた。戻るときはその逆も。たまに出られる外の景色に、母は喜んでいてくれていただろうか。たくさんの人の手を煩わせることを気に病んでいただろうか。もう自力では出られない悔しさをかみしめていただろうか。いずれにしても、まだまだいろんなところに、母を思い出すものたちが居る。私はまだ、じめじめと、めそめそと、日々を暮らしている。もちろん、そればっかりじゃないけれど。笑うことも、楽しいことも、ちゃんとあるけれど。
2006年10月14日
母の三七日が終わり、少しずつ心の整理がついたり、悲しみがこみ上げてきたり。それでも、ちゃんと毎日、時間は過ぎていき、私の生活は続いている。ということで、こちらのページで何を書こうか思案中。これまでの母の闘病記の手書き版が手元にあるため、それを何かの形で残したく、少しずつ書いていこうかなーとも思うけれど、なかなか気が重い作業で。だけど、まとめておくなら、早いほうがよいかなぁとも思うし・・・。まったく違ったテーマで書くのもいいかなぁとも考え中。日常生活とかではなく、何かテーマを決めて書きたい、ということだけは決定済。読書日記なのか、何かの学習記なのか、母の闘病記なのか、まだ未定だけれど、そのうち何か書き始める予定。もう少し休憩して。
2006年09月24日
初七日も無事に終えました。気が張っているのがなくなるとともに、じわじわと、ボディブローがきいてきます。悲しみも増幅し、体調も下降傾向。気分もさえません。こういう言い方はおかしいのかもしれませんが、母は何度も急変や危機があり、医者から覚悟を迫られたけれど、その度になんとなくクリアして、何度も呼び戻される家族からこっそり「狼少女」呼ばわりされてました(苦笑)そのせいもあり、どんなやばい状況になっても、母は死なないような気になってたのです。ある意味矛盾しているのですが、希望と現実がごっちゃになっているというか、いつか死ぬことはわかっている反面、まだまだ先だよね、という気持ちがありました。それが、ついにその日を迎えたとき、全然実感が湧かず、今でもまだ生きているような、病院に入院しているような気分になります。でもそんなことはけしてなくて、家には母の遺影と遺骨があります。どのようにして、この心にぽっかりと空いた穴を埋めればいいのでしょう?どのくらいの時間がたてば、埋まっていくのでしょう?今の私には、穴が大きくなっていくようにしか思えません。少しずつ、母はいないんだという実感が湧いてきて、悲しみも深まり、うまく消化できずにいます。。。
2006年09月12日
思わぬ後遺症がいろいろとある。洗濯機等の残り時間はたいてい赤いデジタル表示だ。これがくせもので、母がぎりぎりまでつけていた計測器を思い出させる。いちいち「あぁ、数字が60代まで下がっている・・・」などとドキドキしてしまう。しかも、残り時間表示なので、確実に減っていって、ものすごく嫌な気分になる。(めちゃくちゃ神経過敏になりすぎですね)そして、エアコンが動き始める音は、たいてい「ぶーん」という感じだ。それもくせもので、母が同じくぎりぎりまで定期的に計っていた血圧測定を思い出させる。数値を書き残していたので「はっ、血圧書かなきゃ!どうか下がらないで!!」と祈るような気持ちになり胸が苦しい。(めちゃくちゃ被害妄想ですね)しばらくはいろんな日常で、後遺症に悩まされそうです。明日が友引のため、母は昨日の夜から明日の夕方まで自宅に居られます。少しでも長く母と一緒に過ごせることがありがたく、友引に感謝していいます。それでも一緒に過ごせる時間は着実にカウントダウンされていますが・・・。
2006年09月05日
これまで頑張ってきた母が、今日9/4(月)20:45に他界いたしました。家族全員プラス親戚等々が見守る中、眠るように息を引き取りました。病院で最後の清拭も一緒にやらせてもらい、思い残すことなく、母との時間を過ごせました。もちろん悲しみは果てしなく、心が落ち着くにはしばらく時間がかかりそうですが、ようやく苦しみから解放された母に、ほっとする気持ちも大きいです。たくさんのお世話になった方々に、一人ずつ御礼を言って回りたい気持ちでいっぱいです。浮腫んでいた顔や手足も、すっかり腫れが引き、穏やかな顔に戻りました。念願の自宅へ戻り、今日明日はここで過ごし、明後日お通夜、明々後日お葬式の予定です。気を抜かないように、体調を崩さないように、頑張りたいと思います。
2006年09月04日
血中酸素が3回ほど激減。60%くらいに。(90%以上だと安定。通常98~100%)下がるとともに、目も白目っぽくなるので、本気で怖くなる。喪失への恐怖。鳥肌がたつし、心臓もバクバクなる。きっと血圧も上がってる。それでも、まだ頑張ってる母はほんとうにすごい。兄は仕事のため東京へ帰る予定だったが、留まる事に。私は最期の瞬間を想像しては、怯える時間が増えてきた。どうしたらいい?
2006年09月03日
ついに血圧の上が50台になった。父はややうろたえ気味で、何度も計っていた。でも、あまり回数図るのもしんどいだけかも。。。看護師からの「もうよくなることはないからずっと血圧を測らなくてもいい」という言葉も、「急変に備えて血圧計をはずさないでくれ」という言葉も、それぞれの看護師の、ターミナルケアに関する考え方なのだろう。ひとつひとつ、言ってることは理解できるが、病室でいうことでもなければ、家族に言うことでもない気はする。それにより、いろいろ考えるきっかけにもなっているけれど・・・。ずっと横を向いていたために、右目がうっ血し、顔の右半分が膨れ上がっていた母が、今日は少し上を向かせてもらえたので、少しずつ腫れが引いていた。痛みなどが軽減されていればいいのだけれど・・・。痛みが増えたらモルヒネを増やしましょう、と話をしていても、今のように本人が意志を伝えられなくなってしまえば、どんなに痛くても、だるくても、つらくても、伝えられないのでモルヒネを増やすことも出来なければ、つらさを改善することもできない。ものすごくもどかしい。人の死を体験すればするほど、見送ることになれてしまい、残される人への思いやりの気持ちは薄れるのだろう。周りからの余命予想や死にゆく瞬間の詳細な話は、まったく不愉快。他界した後であれば、おちついて話も聞けるだろうが、現状ではこちらにそのゆとりなし。あきらめたようなことを口にしながらも心ではどこか期待が捨てられないし、恐怖心も残っている。このままじわじわと少しずつ血圧が下がっていくものなのか、突然がくんと下がるのか、知りたいような知りたくないような。そして、実際は誰にもわからない。できるのは無責任な憶測や感情的な憶測だけ。
2006年09月02日
今日も母は頑張っている。看護婦さんに言われた余命も、とっくに過ぎ、段々自分の中で「死なないんじゃないの?」と思ったりする。これまでも、何度もこういうことがあったし、余命を宣告されるのももう3回を超えている。ある意味狼少年っぽい。嬉しい誤算??しかし、今の状態で頑張り続けることの苦しさは容易に想像がつく。しんどそうな息遣い、うなり声、動き。看護する側や医療関係者の今か今かと待ち構える空気。今こそ、母が何を感じ、何を考えているのか、聴きたい。でも発する音は、声にならない。乳がんの従姉は、術前化学療法(CAF)が始まったらしく、動けないほどに身体がつらい様子。母が乳がんになった8年前にも抗がん剤はつらいものだったようだが、時が流れても、あのつらさは変わらないようだ。やはり早期発見以外、道はないのだろうか。
2006年09月01日
母はまだ頑張っている。兄夫婦が戻ったことで、私と父と負担はぐっと減った。マンパワーの偉大さを実感。その一方で、母とゆっくり話す(というか私が一方的に語る?)時間はあまり持てない。まぁ、これまで十分持ったんだけどね。また回復するんじゃないかと夢見たり、これ以上苦しまないようにと死を願ったり、昏睡でもいいから生きててほしいと考えたり、心はくるくると動きまくりです。うーんうーんとうなる母は、苦しいのだろうか?何か訴えてるのだろうか?
2006年08月31日
朝10時。母の容態急変の電話を受けて、急いで病院へ。血中酸素濃度80%という点が急変だったようだ。私が到着すると、すでに親戚が何名か。病院へ向かう車の中では泣いてた私だったが、なぜか、泣いたら負ける気がして、気丈に声かけ。親戚から「精神的にタフな女」レッテルを貼られる。みんなの声かけのおかげか、容態は安定。その後、血圧は一時66-31まで下がるも、また上昇。千葉に住む兄が20時に帰ってきたときにも、呼びかけに若干反応あり。(うなったり手を動かしたり)小康状態なので、私は自宅へ。すると、すでに母用らしき白い布団が敷かれていた。・・・いや、ブルーなんですけど???親切心からやってくれていることだとわかるけれど、母はまだ生きてますから!!
2006年08月30日
母は相変わらずほぼ無反応で眠ったままだが、今日の13時過ぎ、活発に?動いた。目を開いてキョロキョロしたり(首の動く幅は10度くらいだけれど)腕を動かそうと持ち上げたり(上がるのは5センチくらいだけれど)意識があるのかなぁ?と思う感じだった。ただ、それは「昏睡じゃないんだ!」と喜べるものではなく、「しんどいのね?苦しいのね?」という印象を感じさせる切ない動きだった。22日が誕生日だった母の部屋には、今大量の花が飾られている。花が大好きだった彼女に、みんなの気持ちが届いているといいなぁと思う。部屋でも、ローズのアロマポット(電気)を付けて、いい香りにしている。聴覚から、嗅覚から、視覚から、触覚から、まだ母とはコミュニケーションできてるのかな。意識がないと、口をあけてもらうことが出来ず、2時間おきくらいに口の中を脱脂綿などで拭いて、唾液や痰をとっている。(看護師さんが吸引もしてくれるが)そのときに困っているのが、歯の裏を磨けないこと。明らかに、血の塊のようなものがついているのだけれど、隙間から綿棒を入れてとるのにも限界があり、でも付着はとても気になる。何かよい方法はないものだろうか・・・?
2006年08月29日
大阪で義母の一回忌を無事に済ませて、愛媛に戻りました。母は、私が愛媛を離れるときよりも、かなり全身が浮腫み、ほぼ昏睡状態で、たまにうめき声をあげるだけ。私にできることはなんだろう?疲れ果て長柄頑張ってる父と、意識もはっきりせず頑張ってる母と毎日、毎時、毎秒を、大切に過ごしたい。
2006年08月28日
母はあちらこちらの痛みやだるさを訴え続けている。痛みは時々で鈍痛のため、モルヒネの量を増やす予定はない。マッサージしてあげると、少しは楽になるようだ。ただ、今日はもう私の体調にも限界が来ていて、母がうなっていても、声はかけられるが、マッサージなどはなかなかしてあげられない。身体が動かない・・・。やばいなぁ。人はどこまで頑張れるのか??などと試している場合ではないな・・・家でレンタルしていたベッドや車椅子など、介護用品を返却。もう家に帰れる日はこないのだろうか。私が来週から大阪へ帰るにあたり、母の姉に、付き添っている父がお風呂へ入りに帰る間の付き添いをお願いすると、断られたらしい。(父談)私が以前お願いしたときは、構わないといっていたのだが、最近の母の調子の悪さをみていて、とても無理だと思ったらしい。彼女も74歳だし、気持ちはわからないわけでもない。が、いざというときの着物の準備などはちゃきちゃきと手伝ってくれておいて、看護は手伝ってくれないというのには、心からがっかりした。家族でがんばるしかないようだ。兄とも相談して、なんとかやっていくしかない。病院にいるわけだし、看護師さんも、いるんだし。私は、自分のお薬が切れかけたので病院へ。新しいお薬をさらに処方してもらう。薬増量のため、車の運転はできるだけ避けるようにと(ノ_・、)病院へいけないぞ・・・。夫に運転手をしてもらうしかないか・・・。カウンセラーとも、電話で話しを30分ほど。現状は変えられないのだから、うまく今のストレスを発散する方法を、できるだけたくさん見つけましょう、ということになった。「これだ!」というベストな方法を探しても大変なので、些細なことでもいいからできるだけたくさん、テレビやゲームや音楽や友人や食事など。数多くのその場しのぎ的な発散方法で、うまく乗り切りましょうと。話をしただけで、泣けてくるし、少し元気がもらえてありがたい。大阪へ帰った折には、別の友人カウンセラーを紹介してもらえることに。(彼女は東京の人なので)べらべらとしゃべって、楽になってこよう。久しぶりにマッサージにも行った。もう首と肩がパンパンで仕方なかったので、思いっきり(といっても15分)押してもらった。少し楽になった。母にもマッサージを受けさせてあげられれば、と思うけれど、病気が病気だけに、これまた、家族でするしかないだろう。
2006年08月17日
母が、ぐいぐいと水やジュースを飲むようになった。のどが渇くのだろうか?ストローで吸う力はないが、吸い口で入れてあげると、ごくごくと飲んでいる。少し回復してるのか???が、熱は下がらず、全身はだるいまま、時折痛みも。香りや音楽などで気を紛らわせる術を探してみます。私自身の体調のつらさのあまり、マッサージにいったが、予約でいっぱいだった。お盆ってそうなのね、この田舎町にも人が増えているのね・・・。先日乳がんが発覚した従姉は、紹介した大学病院と、もともとの癌専門病院の2本立てで見てもらっているらしい。リンパへの転移が見つかり、今週は全身の転移検査漬け。大学病院の先生は、その後、先生の方から事前に電話連絡をくれ、情報を聞いておいてから診察に臨んでくれたそうな。ありえないくらいいい人だ!!!母の苦痛が取り除かれることと同じくらい、従姉に他の転移が見つからないことを心から祈ろう。(お盆なので先祖さまにもお願いしてきた)ついでに私の体調も、早く落ち着いておくれ・・・。
2006年08月16日
世間様は終戦記念日で、平和を願う気持ちを思い出しつつも、今日も看護に休みはない。昨日が疲れがあったので、午後から交代で病院へ。少しはゆっくり出来ると思いきや、5分おきにははの「うんうん」「ううん」と段々ボリュームアップする声で呼ばれる。そのたび、首をなでたり、肩をもんだり、背中をさすったり、足裏を押したり、ジュースを飲ませたり、氷を含ませたり、歯磨きをしたり、脱脂綿で舌を拭いたり、アイスノン枕を変えたり、冷えピタを貼ったり、熱を計ったり、ベッドで上半身を起こしたり。ほとんど夕方まで休むヒマなし!!!Y(>_
2006年08月15日
母は引き続き安定。息が荒いのはなくなった。とはいえ、時折しんどい(だるい)様子で、「うんうん」とうなって、私達を呼ぶ。近づいていって、痛いのか、だるいのか、のどが渇いたのか、一つずつ聞いていく。大きくうなづいたものを一つずつ試す。これにもいつか慣れて、うまくコミュニケーションがとれるようになるのだろうか。子育てみたいな感じだ。(子育てしたことないけど)フラワーテラピーのマッサージクリームで足裏マッサージをするが、効果のほどは不明。蒸しタオルでの足浴もどきは気持ちよかったようだが。私が精神的にダウン気味。夜、一人になりたくて、車でおでかけ。途中で具合が悪くなり、コンビニの駐車場でしばらくぐったり。へろへろになりながら自宅へ帰り号泣。安定剤を飲んで、少し落ち着く。なかなか看護生活も厳しいものが。
2006年08月14日
少し母の調子が安定した。鼻から吸引してもらったら、血などもたんまり吸いだされたが、痰が絡むことがほとんどなくなり、声も少しは出せるように。ガーゼに吸い込ませたもので、水分も多少口から取れるように。ちゅうちゅうとカブトムシのように吸っている。やや切ない。兄が帰ってくると少し調子がよくなるね、といわれた。嬉しいことなのだろうけれど、ずっと世話をしている私はなんだろう?と思ってしまった。たまに帰ってくる人は、忙しい中帰ってきて大変ね、と労われる。私は、介護のために、仕事も辞めた。夫にも夫の家族にも迷惑かけまくりだ。それでも、娘だから、当然のように思われている。多少なりとも感謝はされているけれど、それでもなんだか空しい。私のしていることに何の意味があるのだろう。また楽しいことなんてあるのだろうか?
2006年08月13日
兄が看てくれているので、私と父は休憩モード。自宅でゆっくり睡眠をとったり、気晴らしに買い物に出たり。そんなことをしながらも、病室でナースに「お母さんの着物とか用意しといた方がいいよ。売店のゆかたになっちゃうから。」と言われる。これって親切心なのだろうけれど・・・。そして夜、母の姉達が、母の着物を選びに来てくれた。母はまだ生きているのに、着々と準備が進んでいく。世の中とはそういうものなのかもしれない。父も、写真を選んだり、葬儀の話を口にするようになった。でもそういうのって本人にも空気が伝わるんじゃないだろうか?とても心配。そして、私の気持ちも、まったくすっきりしない。わかってはいるけれど、理解はできるけれど、めまいで倒れそうだ。兄の話では、一度痰がのどにつまり、呼吸停止したらしい。吸引したら、すぐに戻ったようだが・・・。
2006年08月12日
兄が帰ってきた。交代で大阪へ、という予定が、母の容態悪化で先送りに。完全にモニタリングされて、からまりそうな管に囲まれて、昏睡になったり、たまにうなったりしながら、母は過ごしている。ICU状態。兄が戻ったときの反応も今ひとつ。分っているのかどうか・・・。そんななか、今日は父の誕生日だったので、ケーキやお寿司で病室でお祝いした。。。かったのだが、叶わぬ夢だった。私はそうしたかったのだけれど、父と兄は「そんな場合じゃないだろう」というような雰囲気で、乗ってもらえなかった。明るく笑ったりしてる方が、母も聴こえてて喜ぶと思ったのに、残念。地味におうちで食べました。ちなみに母の誕生日は今月の22日。迎えられるかどうか・・・
2006年08月11日
主治医と話をする。最低限のモルヒネで、なんとか痛みはコントロールできている。が、息苦しさはひどく、全力疾走した後のような早い呼吸を繰り返している。おそらく、胸水などが影響しているのだろうけれど、現在の体力では処置不能。また、これ以上苦しみをとろうとしてモルヒネを増やすと、昏睡状態になったり、死期を早める可能性があるので、医師としてそれはできない。せめて最低限のコミュニケーションが家族ととれて、苦痛も緩和していくように努力しています。話はとても分りやすく、母は苦しそうに見えるけれど、これ以上の手立てはないのだと、腹が決まった感じ。出来る限り、マッサージをしたり、痰をとってあげたり、苦痛が少なくなるように、気がまぎれるように、気を配るくらいのことしかできないが、がんばっている。明日、兄が帰ってくる。交代で私は大阪へ一度帰ることに。義母の新盆が待っている。母の看病をというわがままを聞いてくれている義父のためにも、嫁としての務めをちゃんと果たせればいいな、と思う。従姉の乳がんの件で、東京でお世話になった大学病院の医者へ電話した。明日受診するので、お願いしますと言う。私が電話を入れたくらいで、処遇が変わったりするほどの影響もないのだが、母が転移性乳がんで入院している今、従姉の乳がん発覚も、他人事と思えない。何か力になれると良いのだけれど・・・。あちらこちらで、いろんなことを頑張っている人がいると感じられると、なんだかパワーがもらえるのが不思議。
2006年08月10日
痛みは少しマシになったものの、熱は下がらず。時折、私達には見えない何かが見えているかのような動き。ほとんど会話は成り立たない。それでも、帰ろうとすると「ありがとう」「きをつけて」と言ったりする。何を考えているんだろう?何を感じているんだろう?いまさら、意思疎通できればいいのに、と思う。
2006年08月09日
体調急激に悪化。38度を越す、高熱。きっちりと6分おきにやってくる強い腹痛。ぶるぶると震えるので、その度に手を握りつつける午前中。病院の対応の遅さにイライラする。なんとか頼み込んで、11時に痛み止め注射を打ってもらうが、少し緩和したくらいで、20分おきくらいには痛みの波が(ノ_・、)昼に母の姉、兄が来たときも同じ状態で、みんな険しい顔に。午後、ようやく医者が来て、おなかのレントゲンをとるも、特に異常なし。ただし、痛みに変化がないため、モルヒネを点滴に変え、少しずつ注入。ただし、夜になっても、状態はあまり改善されず、痛みの場所がおなかになったり、背中になったり、しながら、強い痛みを訴え続ける。早くモルヒネが効いてくれるといいのだけれど・・・。同時に、ほぼ1時間おきに、吸引等で痰を取ってあげる必要もあり。父も私も疲労困憊中。。。
2006年08月08日
朝から高熱、ずっと眠り続けていた。が、昼に母の姉二人、姪一人が来てくれたときには、熱も下がり、しんどさも少し楽だったようで、話ができたようだ。ただ、その後また眠りに入り、途中からは息苦しく、酸素がはずせない状態に。熱も下がらない。食事ももちろんNG。ただし高カロリー点滴をしているので、栄養状態には問題ない。身体のだるさ、のどの痛み、胸の苦しさがつらそうだ。
2006年08月07日
兄もいたので、時々笑ったりしながら過ごす。兄も、二人で過ごす時間が欲しいだろうと思い、二人きりにもさせてみた。ちゃんと話できてるといいけれど。相変わらず半睡眠半覚醒状態だが、なんとかしっかり話せている時間がある。
2006年08月06日
日一日と、右肩下がりで弱っていっていることもわかっているし、できないことも、増えていっている。そんな中でも、あるタイミングで、ふと出来なかったことが出来たりする。たとえば、うがいができなかったのが、自力で出来たり、お箸をもてたり。そういう些細な出来事が、私の心の光であり、希望である。それが、単に一過性のことであることもよくわかっている。だけど、そういうことに注目していないと、気がめいるばかりで、なかなか日々をちゃんと、普通に、過ごすことが出来ないのだ。明日も何か見つかりますように。今日遅くに兄が帰省。明日にはまた戻ってしまうけれど、兄と会うことで、母に何かしらいい影響があるといいな。
2006年08月05日
点滴の調子は上々。高カロリーを入れ始めたので、少しは活力が?出てきた様子。だが、もう口からはまったく食べられない。薬も飲めない。そして、水分がたくさん入るせいか、足だけでなく手もむくみ始めた。足のむくみが悪化したら、点滴の内容を考えましょう、と主治医が言っていたが、手に関しては触れず。確認してみよう。起きている時間が長くなってきたので、調子のよさそうなときにどの程度思い出せるかを確認。名前、住所、生年月日はOK。電話番号は、最初の一桁を教えると思い出せた。足し算は、1+1、2+2、4+4、8+8まではOK。16+16は無理だった。この辺りのことは、神経内科の先生に診ていただいたほうがよいのか、診ていただいても仕方ないのか、うーん・・・。脳転移のせいかもしれないし、長期寝たきりのせいかもしれない。骨折によるどこかの神経圧迫のせいかもしれない。原因を調べること自体も、母の身体に負担がかかるため、もうあまり何もせず、本人がとにかく苦痛ではないようにだけしてあげるのが良いのかもしれない。癌になって、転移して、治るわけでもなく、すぐ死ぬわけでもない。ほんとうにやっかいな病気だ・・・(ノ_・、)
2006年08月04日
静脈点滴の埋め込みは、うまくいった様子で、今日から早速そちらからの点滴を実施。ただ、母の状態は・・・どうなのだろう?急に、眠りがちではなくなり、ただ空(くう)を見つめていたりする。会話はあまり成り立たない。特に痛むところは喉くらいしかないようだが、これは明日耳鼻科の先生に診てもらう。相変わらず食べることは出来ず、薬を飲むと、直後に咳込み、戻したり、戻しかけたり・・・。点滴からお薬も入れられるので、もう口から飲むのは控えようか、という話になった。酸素は付けなくても血中酸素濃度93くらい。寝たきりならぎりぎり大丈夫。発熱は引き続き。朝は38度くらい。徐々に下がっていき、夕方には微熱。咳込みそうになると本当に辛い状況になるので、できるだけならないように、と思うが、ある程度、痰がからんでいるので、仕方ないのかもしれない。念のため、病室に吸引装置が設置された。それだけで、ややドキドキ度が増すわ。病院って・・・。報告が遅くなりましたが、レイモンドさんから頂いたメロン、食べられなくなる前に1/6個、食べさせることが出来ました♪美味しいと好評でした。そして、今日また、ジューサーでジュースにして、もっていきました。もう流動食だけなのですが、メロンジュースも好評♪甘くてすっきりなのがよいみたいです。本当に何ものどが通らなくなる前に、食べさせたり飲ませたりできてほんとに良かったです。残念ながら大阪の義父までは回りませんでしたが( ̄∇ ̄;;;)ゞその代わり、愛媛入りした夫には食べさせました!私と父は、それはもう、食べまくりました。こんなに美味しいメロンをたくさん食べられた夏は、生まれて初めてかも♪
2006年08月03日
手から毎日点滴を受けていたのだが、なかなか刺すところがもうないこと、食べ物が取れてないので、栄養を点滴で補充する必要があること、などから、右大腿静脈から、点滴の管と、ポート?のようなものを埋め込んだ。1時間ほどの手術ということだったが、戻ってくるまで1時間半かかり、戻ってきたときには、酸素の管を付けられ、痛々しい感じに(ノ_・、)とはいえ、意識はしっかり、会話もできていたので、もしかしていつも会話がかみ合わないのは酸素が足りてないのか?と思ったりした。日々計測している血中酸素は91~95だけれど・・・。いまさら、そんな手術を受けてどうするのか?苦痛を与えるだけでは?という話し合いは何度もしたが、父(および母本人)の、自宅へ帰りたいという希望と、このまま衰弱死するのを見守るだけなのはつらいということで、思い切って実行にいたった。これが吉となるか今日となるかは誰にもわからない。医師も迷っていた。母本人が、一番つらい症状は「のどの痛みと痰が切れない苦しさ」だと訴えてきたので、主治医に話して、耳鼻科の先生に一度診てもらうことに。少しでも楽になる方法があればよいのだけれど。意識障害についてもきになるので、神経内科の先生にもまた来てもらった方がよいのかもしれない。
2006年08月02日
母の容態は、昨日よりは少し落ち着いた様子。兄が、父母の結婚式や、私と兄が子供の頃にとったは8ミリビデオをDVDに変換して送ってきてくれたので、それを見て、時折笑ったりしながら過ごす。熱は下がらず。食べられず、薬も残す状態だが、毎日点滴で水分補給しているので、かろうじて「生かされて」いる。会話の受け答えは、あまり適切に戻ってこないが、8ミリビデオを見てるときなどは、適切な会話が成り立ったりする。人間は不思議だ。夜、伯母から電話がかかってきて、39歳の従兄弟が乳がんになったとの知らせ。その後本人からも電話があり、かなり動揺した様子で、病院のこと、病気のことを教えて欲しいといわれたので、あらゆる知識やサイトをメールで知らせた。彼女は分泌物が出るようになって気がついたらしく、検査の結果では2センチあるらしい。ただ、個人病院のため、実際手術など治療を受けるにあたり、大きな病院へうつり、再検査、治療となる様子。ただし、紹介先は、自分で探してくれとのこと。母のときも思ったが、最近の病院は厳しい。自力で病院を探すことの、どれだけ大変なことか!!予約後待たされる期間のどれだけ長いことか!!!彼女の今後が、良い方向へ向かうことを祈るばかり。これで、私の親族での乳がんは3人目。きっと私もなるのでは・・・と怯えながら、絶対検診は欠かすまい、と思った。といいながら、3年前、不安で検診に行って「乳腺症です」と言われ、年に1度は検査に来てください、と言われたにも関わらず、その後まったく行っていない(;^_^;)今は、怖さと忙しさ(を言い訳にして)、行けない・・・。だめだなぁ。
2006年08月01日
昼前に病院へ行ったら、母が赤い顔をして、のどを押さえて苦しがっていた。小さな咳を繰り返しては、のどに絡んだ痰が出ず、もがいている。何度もどうしたのか聞くと、のどが痛い、咳が出ない、息が苦しい、という言葉に反応。背中をこすってみたり、胸を軽くたたいたり、水を飲ませたり、口内を脱脂綿や歯ブラシで磨いてみたり、少しでも出てきた痰を手で引っ張り出したり、とさまざまなことをして、ようやく1時間ほどで落ち着いた。とてもドキドキした。朝から熱があり、似たような状況だったのらしいのだが(父談)、看護師さんを呼んでも「これくらい大丈夫です」とあしらわれたようで、私が行ったときには、呆然と付添ベッドに腰掛けていた。きっと父もどうしてよいか分らず、判断力も失い、何も出来ずにいたのだろう。そして、父は私が行くと同時に、「待ってました」とばかりに「ちょっと用事があるし、帰って家でご飯食べるわ・・・」と言い残し、ふらふらと病室を出て行ったのだった。現実逃避かも。ただ、あまりにも状況がひどかったので、毎日お昼に差し入れを持ってきてくれる伯母が、しばらく一緒に付き添ってくれて、とても助かった。一緒に母に声かけをしてくれたり、もってきたガーゼ絞りのスイカジュースを飲ませてくれた。彼女が、毎日手絞りで「スイカジュース」と「りんごジュース」をもってきてくれるのはとてもありがたい。かろうじて母が「美味しい」と反応する飲み物。午後は比較的おちついて、3時ごろからは眠っていた。以前、眠ってばかりで心配していたが、本当につらいときは眠ることもできないようだ。眠れるうちはまだまだマシなのだなぁ、と思った。
2006年07月31日
熱は少し下がった。が、食べ物はほとんどダメ。飲むのも、昨日は短いストローにすれば少しいけたが、今日はまったくだめ。吸い口を購入。明日以降、静脈点滴をして、意味があるのだろうか?少しは食べられるようになるのだろうか?そうでないなら、もう痛い思いをすることもないのでは・・・?悩ましい。私自身は、午後から病院へ行ったが、また途中でやばかったので、ついに夫にSOSを出し、大阪から来てもらった。少し精神的に安定。父との距離感が難しいが、仕方あるまい。
2006年07月30日
昨日よりは少し増しになった母の状態。朝、しぼっていったりんごジュースを飲む。その前に6時ごろにもゼリーを少し食べたようだ。が、微熱はずっと下がらない。大半の時間は眠ったまま。点滴もやはり実施してもらった。もう針が入るところがなく、看護師さんもかなり苦戦。母も看護師さんもツラそう・・・。先生から、週明けに「点滴静脈にきりかえましょか」という話があった。右胸のあたりにポートを埋め込み、もっと高カロリーの点滴をしたり、在宅看護を実現しようという考えらしい。初めてのことでドキドキだけれど、感染症の心配もあるけれど、もう一度、こちらの話がわかるレベルまで、体力が回復するといいな、と思う。でも・・・なかなか痰を出すことが出来ず、うがいも出来なくなってきた。ストローで飲むことも、短いストローにしてあげないと難しい。こんな状態でも、わざわざポートを埋め込んで点滴をして生き延びて意味があるのだろうかという迷いもないわけではない。できるだけ本人がつらくないように、とそれだけを祈っている。今日は本当は父と交代して付添宿泊のつもりだったが、私の体調が悪く、病院へ向かう途中の車で、めまいいや吐き気、冷や汗が・・・断念して自宅へUターン。父に任せている。昨日午前中に自分が病院へ行って安定剤ももらってきたのだけれど、なかなか私自身の台頭コントロールも難しい(ノ_・、)医者と話すときなど、平静を装って無理してるからでしょうね。できるだけ我慢をやめなければ・・・と思いつつ、それもクセになってて難しい。
2006年07月29日
母の状態が日々悪化している。清拭の時に、首のもろくなっている骨をかばうために、母自身で頬杖をつくようにして、手で支えているのだけれど、それが、出来なくなった。手が痛いとのこと・・・。また、浣腸で疲れたためか、午後はずっと眠ったままで、話しかけてもほぼ無反応。初めて、やや昏睡状態になってしまった。夕方、父がきて、動揺しまくり、30分ほど話しかけ続けたところ、やっとのことで少し話したり、水分を摂ったりはできるようになった。採決の結果では白血球も増加し、さほど悪くない数値らしいのだけれど、痰がからむのと、脱水気味なのと、食事ができないのがネック。のどの通りが悪い原因も、何なのかはっきりしていない。このまま眠るように亡くなってくれれば本人も楽かも。。。という気持ちが心をよぎり、泊めてもらっているおばともそういう話をするが、父は、まだまだあきらめきれない様子。私も、正直、もう自分の気持ちもよく分らない。。。
2006年07月28日
今後の方向性を聞いた。1.流動食だけでも食べられるなら、栄養補助飲料と流動食で様子を見る。 →足のむくみもすごいため、点滴(水分)はリスクがある。2.それでも吐いたり口から食べられないようなら、静脈から常時点滴にする。 →ただし高カロリーをいれると、健康な細胞よりもがん細胞に栄養をとられ、 進行を早めるリスクがある。どちらにしても、それで容態が少し落ち着いたら、自宅へ戻ってはどうか?という話だった。それは母にとっても、願ったり叶ったりかもしれないし、何より父は嬉しそうだった。が。その医師は、「このまま入院してもらっててもよいけれど、先が見えない。このまま年単位で入院もあり得る」と言った。とても私からはそうは見えず、もう、時間の問題だな、と思っていたのだけれど、この医師は、そういった急変の可能性もあるけれど、このまま生き続ける可能性もあるということを示唆した。うーん、よいのか、悪いのか・・・。本当にそうなんだろうか??中途半端に父が期待を持ってしまうことへの不安と、苦しいまま生き続けるのもつらいのではないかという想像と、少しでも長く生きて欲しいという希望と、複雑な心境で、今日は久しぶりの自宅帰り。髪も切って、少し心もリフレッシュ。したようなしないような・・・
2006年07月27日
今日も点滴を実施。少し元気を取り戻しつつあるが意識障害?記憶障害が激しい。昼夜の感覚もなければ、10分前に食べたものも思い出せない。おばの作ってくれた鱧のお吸い物を持っていくと、「美味しい」と言って飲むが、3口ほどでリタイヤ。10分後には何を食べたか聞いても言えない・・・。なんとか意識のはっきりしているうちに、遠くにいる母の兄弟にも連絡した方がよいのだろうか、と思ったりする。かといって、そんな風に弱気になっている自分もキライ。父も、母が弱ると同様に弱っていき、看護師にいらついたり、私にいらついたり。もう冷静ではいられない様子。それは当然だろうし、気持ちはわかるけれど、私自身も冷静を装っているだけで、本当は冷静じゃないので、キツイ。おばと話して、せつせつと泣かれることも、きつい。先に泣かれると、なぜだろう、私はもう泣けない感じに。昨夜はなかなか寝付けなくて4時まで起きてた。今日は早く眠れるといいのだけれど・・・。移動の車の中でこっそり涙涙。遠回りして帰ってみたりして。
2006年07月26日
朝から母が戻した。3時ごろから調子が悪かったらしい。ついに、食べ物がのどを通らなくなり、飲み物だけになってきた。ということもあり、点滴を実施。主治医は、足のむくみや胸水の増加を気にして、点滴をセーブしているようだった。利尿剤ももうあまり効果がないようで、血圧も下がり気味。戻したせいもあり、ほぼ一日母はぐったりしたままだった。私は今日からおばの家に泊めてもらうことになった。家に帰るより近いし、ひとりぼっちではないので、少し安心!?ちょっと気を遣うのと、母のことから気持ちが離れられないので、気分転換できなくなるのが心配。
2006年07月25日
付添宿泊のせいか、私の体調が急下降。病院の売店で倒れそうに・・・ヤバイヤバイ。朝の安定剤を飲み忘れたらこのざまだーー。あぁ、安定剤なしではもう、生活できなくなってしまいました(ノ_・、)シクシク母は看護師から点滴を勧められていたのだが、主治医の判断はまだいいだろうというものだった。朝から浣腸ですっきりしたせいか、お昼は少し食べられていたので、やや安心。やはり朝夕はほとんど食べられないし、薬も残してしまうけれど。少し笑顔が見られたのがよかった。
2006年07月24日
嵐のようにやってきた兄夫婦はあっという間に帰っていった・・・それでも、にぎやかな時間を母は楽しめただろう。兄も、後ろ髪を引かれながら帰っただろうけれど、帰れるときに帰らないと会えないかも、という思いがあるだろうから、とりあえず会えて、少しだけほっとして帰ったのではないだろうか。。。しかし、彼らが帰った後も私達の介護生活は続いていく。なんかちょっと、やりきれない気持ち。と思いつつ、今日は疲れている父と交代で、私が付添宿泊。特にすることもないので、母と一緒に21時に就寝。3時間おきに懐中電灯を持ってやってくるナースに起こされつつ、回診にきてくれている心強さと、高いびきすぎて母が心配になる気持ちと、ごちゃまぜになりながら、また眠った( ̄∇ ̄;;;)ゞ入院して、点滴をしたら、みるみる元気になったのだけれど、点滴をやめたら、また食べられないので弱り始めた。うーん、もうこの繰り返しなのかもしれない。
2006年07月23日
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