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2024/01/31
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2024/01/30
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2024/01/29
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何だてっきり公安が桐島を捉えたと思っていたのだが、奴の自首か。此れでは佐々木則夫や大道寺あや子を捕まえられないだろう。願わくば桐島が佐々木,大道寺が潜伏する場所をゲロするか、それなりの情報を持っていれば良いのだが。。。但し桐島がゲロしても奴を起訴し刑を科すことに手心があってはならない。今回のケースで桐島がそれなりの情報を警察に提供し東アジア反日武装戦線の残党の検挙につながったとするならば、今後日本も司法取引を導入しては如何だろうか。上記の場合は桐島は病気療養させながら懲役刑を科し、佐々木や大道寺には極刑を科すことである。【補遺】1月29日桐島聡死亡。地獄へ堕ちる前に閻魔様への免罪符として自分の仕出かした蛮行を懺悔し、詫び東アジア反日武装戦線の残党に関する知り得る情報を警察へ提供して貰いたい。爆破事件で指名手配され逃亡49年、桐島聡容疑者とみられる男が神奈川県で入院 読売新聞 1970年代に起きた連続企業爆破事件に関与したとして、爆発物取締罰則違反容疑で指名手配されている桐島聡容疑者(70)とみられる男性が、神奈川県内の病院に入院していることが捜査関係者への取材でわかった。警視庁公安部は本人の可能性が高いとみて確認を進めている。 桐島容疑者は、連続企業爆破事件を引き起こした過激派組織「東アジア反日武装戦線」のメンバーの一人で組織内で「さそり」と自称するグループに所属していた。75年4月18日、東京・銀座の韓国産業経済研究所の入り口ドアに手製爆弾を仕掛け、翌19日午前1時頃、爆発させた疑いで全国に指名手配されていた。 捜査関係者によると、桐島容疑者とみられる男性は神奈川県内の病院に入院。自ら「桐島聡」と名乗り、特徴などから本人の可能性が高いという。 武装戦線は、75年5月に主要メンバーが一斉逮捕され、その後、起訴されたが、桐島容疑者は一度も逮捕されることなく、約50年間にわたって逃亡していた。 連続企業爆破事件は、74~75年にかけて海外に進出する企業が相次いで狙われた。74年8月30日の三菱重工ビル(東京都千代田区)の爆破では8人が死亡し、約380人が負傷した。「あの桐島聡なのか」元公安幹部衝撃 逃亡半世紀、本人打ち明け毎日新聞半世紀にわたる逃亡の実態は、果たして解明されるのか。1974~75年に東京都内などで発生した「連続企業爆破事件」に関わったとして爆発物取締罰則違反の疑いで指名手配されていた桐島聡容疑者(70)とみられる男性が、神奈川県内の病院に入院していることが判明した。本人と確認されれば、潜伏期間は警察庁による重要指名手配容疑者の中で最長になる。情報を把握した警視庁公安部は本人の特定を急ぐとともに、逃走を支援した人物がいないか捜査を進めている。 「えっ。あの桐島なのか」――。かつて連続企業爆破事件の捜査に関わった公安部の元幹部は一報を聞き、衝撃を受けた。 捜査関係者によると、警視庁が情報を把握したのは25日。男性は末期がんの治療中で病状は重く「俺は最後だから捕まえてくれ」と病院関係者に打ち明け、警視庁に伝わったという。捜査員が25日中に本人と接触したところ、桐島容疑者であることを認めたという。公安部は急きょ体制を整えて情報収集に追われた。26日には警視総監が交代する行事が庁内で開催されたが、通常ならば参加する一部の公安部幹部は欠席して捜査に当たった。 社会を震撼(しんかん)させた連続企業爆破事件の皮切りとなる三菱重工業本社での事件が発生したのは74年8月30日、白昼のオフィス街だった。東京都千代田区の本社ビルで、玄関口に置かれた二つの爆発物が爆発した。直前には爆破を予告する電話が入っていた。 約8カ月の間に8企業が狙われた。捜査線上に浮かんだのは、反帝国主義や反植民地主義を掲げる「東アジア反日武装戦線」だった。警視庁は75年から82年にかけ、武装戦線のメンバーや協力者計9人を逮捕。容疑者は当時先鋭化していた過激派の活動家として表面化しておらず、学生や社会人として普通の生活を送りながら事件を起こしていたとみられることも世間に衝撃を与えた。 9人のうち、最も大きい被害が出た三菱重工ビル爆破事件に関わった2人は死刑が確定し、3人は懲役刑が確定。1人は逮捕後に自殺した。残る3人は別の過激派「日本赤軍」が起こした大使館占拠事件(クアラルンプール事件)とハイジャック事件(ダッカ事件)に伴う超法規的措置で釈放されて出国し、日本赤軍に合流した。 出国した3人の中のうち1人は海外で拘束され、帰国後に有期刑が確定した。佐々木規夫容疑者(75)と大道寺あや子容疑者(75)は現在も逃走を続けている。 桐島容疑者について、公安部は武装戦線の支援者のもとに現れていないかなど情報収集を続けた。ただ、事件から半世紀近くが過ぎる中、集まる情報は乏しかった。近年は「国内にいるかどうかも分からない」とこぼす捜査員もいた。 元幹部は「本人のDNA型と照合する証拠物には古いものが多く、確認は慎重に進めなければならないだろう」と推測した上で、「本人だとすれば、事件の経緯や逃亡生活の実態がどのように語られるのか、注目したい」と話した。桐島容疑者の指名手配対象事件ではないが、一連の事件で被害に遭った三菱重工は容疑者とみられる人物の所在が確認されたことについて、毎日新聞の取材に「事実であれば弊社としましては、長い年月をかけて捜査されてきた関係者の皆様に深謝申し上げるとともに、法にのっとり適切に対応いただくことを希望します」とコメントした。 入院先とみられる病院には26日夕、多くの報道陣が駆けつけ、テレビカメラで外観を撮影するなどしていた。病院受付の担当者は「(桐島容疑者を名乗る人物については)何も分からない」と困惑した様子だった。院内から出てきた女性はテレビカメラに驚いたような表情を見せた後で「事件のことは知らない」と足早に立ち去った。桐島聡と名乗る男、がん治療のため自費通院…偽名「ウチダヒロシ」で健康保険加入できなかったか2024年1月29日 5時0分 読売新聞オンライン1970年代の連続企業爆破事件を巡り、爆発物取締罰則違反容疑で指名手配されている桐島聡容疑者(70)とみられる男が、1年以上前からがんを患い、自費診療で通院していたことが捜査関係者への取材でわかった。 警視庁公安部は、男が身元を隠して「ウチダヒロシ」の偽名で生活し、健康保険に加入できなかったとみている。 捜査関係者によると、男は数十年前から「ウチダ」を名乗り、神奈川県藤沢市の土木工事会社に住み込みで働いていたが、今月上旬に容体を悪化させ、鎌倉市の病院に救急搬送された。 がんと診断されたのは1年以上前で、男はこの間、自費診療で通院していた。搬送先の病院に入院した際も健康保険証を提示せず「ウチダ」と名乗ったが、25日に「自分は桐島聡」と話し始めた。末期の胃がんで重篤な状態だという。 男の会社の近くに住む60歳代男性は今月、会社前の路上で男がうずくまっているのを見つけた。男はやせ細り、「買い物に行こうとして立てなくなった」と話すのがやっとだった。 男性は体を支え、近くにある男の住まいに連れていった。1階の部屋の広さは6畳ほどで、弁当がらなどが散らばっていたという。会社の関係者に連絡してその場を後にすると、約1時間後に救急車が到着した。 男性は「クリッとした目が桐島容疑者の手配写真と似ていた」と振り返った。 桐島容疑者は過激派「東アジア反日武装戦線」のメンバーで、75年4月、東京・銀座のビルに手製爆弾を仕掛け、爆発させた疑いが持たれている。翌5月に指名手配されたが、約49年間にわたり逃亡を続けてきた。 男は聴取に「最期は本名で迎えたい」と話していて、警視庁は身元の確認を進めるとともに、容体を見ながら任意で事情を聞いている。公安部捜査員「後悔しているのか」、桐島聡容疑者名乗る男は「はい」…聴取に「ずっと一人で生活」読売新聞 2024 01 301970年代の連続企業爆破事件を巡って指名手配中の桐島聡容疑者(70)を名乗り、29日に入院先で死亡した男が、警視庁公安部の任意聴取に「ずっと一人で生活していた」と説明していたことが捜査関係者への取材でわかった。公安部は男の身元確認を進める一方、桐島容疑者の逃亡の経緯や支援者の有無についても調べている。 捜査関係者によると、男は「内田洋(うちだひろし)」の名で今月上旬、神奈川県鎌倉市の病院に入院した。25日に自身が桐島聡容疑者だと名乗った後、公安部の捜査員から一連の事件について「後悔しているのか」と聞かれると、「はい」と答えたという。 男は数十年前から、内田洋として同県藤沢市の土木工事会社に住み込みで働いていたが、会社からは現金で給料を受け取っていた。金融機関の口座を持っていなかったとみられる。 入院した際も、携帯電話や運転免許証などは所持しておらず、海外への渡航歴も確認されていないという。 公安部は男の生活実態を調べるとともに、身元の特定に向け、桐島容疑者の複数の親族から試料の提供を受けてDNA型鑑定を行っている。桐島容疑者本人と確認されれば、容疑者死亡のまま爆発物取締罰則違反容疑で書類送検する方針だ。 桐島容疑者は過激派「東アジア反日武装戦線」のメンバーで、一連の連続企業爆破事件のうち、1975年4月の韓国産業経済研究所(東京都中央区)爆破事件に関与した疑いで指名手配されていた。自己中心的思い込みの激しい偽正義感から犯した残虐な事件だ。東アジア反日武装戦線の残党として逃げ切る事だけに人生を費やして来ただけあって、時が止まっている生活だな。ずっと一人で生きて来ただとさ。何を甘ったれた事をぬかしているんだろうな。最期は本名で死にたいと自らの素性を明らかにした幼稚で自己中心的なクズだ。自業自得で無様な最期、失うものが多すぎて自ら命を縮めた桐島聡だが、此奴は死ぬときに逃げ切ったと勝利を確信したとしか思えない。警視庁公安部は自らの至らなさを反省し今回の桐島聡の件を教訓にして東アジア反日武装戦線の残党の検挙につなげて欲しい。奴等は市井の何処かで何事も無かったように一般人に同化している。職歴不問で技能と熟練が大して要求されず身分が暴露されない現金払いの肉体労働業種が怪しい。保険料自己負担、歯がないなどの特徴、マイナンバーカードを持っていない等の要素も加味したい。すると犯罪者、逃亡者の蓋然性は一般人より高まるからである。
2024/01/28
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2024/01/28
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爽やかなイケメンそして3高と条件が揃った男青井実。1月18日、19日と突如青井実が居なくなった事に不自然さを感じた。マスコミの報道でNHKで干されたか?(悲)と思っていた。突然、NHKの看板番組ニュースウォッチ9を降板した理由は此れが原因だったか。青井実クラスで有ればNHKの平均年収は超える。更に超過勤務や時間外手当などが付くと年収は2000万近くなる。そして親族企業からの役員報酬が加わればサラリーマンでも2000万を超え確定申告の義務が有る。そうでなくても此れ迄医療費控除や各種控除で確定申告していた筈だ。知らなかったというのは真っ赤な嘘だろう。青井!足元を掬われたな。お前を妬む奴のチクりがあって居ずらくなったのだろう。ここら辺が潮時だ。迷う事は無い。今は地力がついて脂が乗り知名度もある。またお前には嫁さんなど様々なコネが有る。実家も太い。新しい生き方を模索しNHKを退職しフリーでやって行く腹が決まったようだ。新天地での活躍を祈っている。NHK退社&フリー転身報道の青井実アナ、「ニュースウオッチ9」を降板サンケイスポーツNHKの青井実アナウンサー(43)がキャスターを務める「ニュースウオッチ9」(月~金曜後9・0)を降板したことが19日、分かった。同局は本紙の取材に「本人からの申し出があり、18日から出演しないことになりました」と説明。理由については「職員個人に関することについては、お答えしておりません」と明かしていないが、17日に明らかになった退職&フリー転身報道を受けたものとみられる。同日の放送には出演したが、本人は報道については触れなかった。青井アナは慶大経済学部を卒業後、2003年にNHKに入局。22年4月から看板番組である「―ウオッチ9」を担当してきた。歯切れのいいアナウンス力と明るい性格で、周囲にも親しまれる実力派。22年にはテレビ東京の相内優香アナ(37)と結婚して話題になった。ニュースウオッチ9降板のNHK青井実アナ、許可得ずに親族企業から役員報酬…近く退局の見込み 読売新聞NHKの青井実アナウンサー(43)が、上司の許可を得ずに親族企業からの役員報酬を得ていたとして、兼職を禁止する服務準則に基づいて厳重注意処分を受けていたことがわかった。処分は昨年12月。 NHK関係者によると、外部からの通報で発覚。青井アナは役員を兼ねていたことを知らなかったと説明しており、役員報酬を返納し、役員から退任することを申し出たという。 青井アナは2003年入局。処分後も「ニュースウオッチ9」への出演は続けていたが、本人から申し出があり今月18日に降板した。近く退局する見込みだという。
2024/01/27
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何処が日本人なのかな?確かに法定形式上は日本人である。ただ、彼女は両親が日本人ではなくUkraine人。近年Ukraine戦争渦中に母国が嫌になり帰化申請し日本人に成ったに過ぎない。そして帰化が認められるやいなやミス日本によく応募した気が知れない。何処が日本人ですか?100㎏超の女性がミス日本に認められないように先ず外見から言って?日本人らしさの欠片も無い。自分達が当たり前のように要求するのは良いが、相手に対して譲歩を要求、強要するいやらしさが透けて見える。要求される側は不愉快というか嫌悪感を覚える。相手を不快にして迄自分の要求、主張を要求する人間には吐き気がする。此の女のような利己的なUkraine人、日本人を不愉快にしても自我を通す女に日本人は強烈な嫌悪感、拒絶感をを抱いているのである。Ukraineにはもう寄付はしない。
2024/01/27
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2024/01/27
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2024/01/26
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2024/01/25
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2024/01/24
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2024/01/23
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2024/01/22
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世界文化遺産にペットボトルが捨てあった😱
2024/01/21
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2024/01/20
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2024/01/19
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2024/01/18
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2024/01/17
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11日小金沢昇司(65)が鬼籍に入ったが、エスパー伊東も亡くなったか。昭和が過ぎていく。カバン芸は体に悪いんだな。ご冥福をお祈りしますお笑い芸人のエスパー伊東さん死去、63歳 カバン芸で大ブレーク 多発性脳梗塞で闘病スポーツニッポン新聞社元お笑い芸人のエスパー伊東(本名・伊東万寿男=いとう・ますお)さんが死去したことが16日、分かった。63歳。熊本県出身。1990年代、ボストンバッグの中に入り込むカバン芸を武器に大ブレークしたが、2018年いっぱいで「右変形性股関節症」治療のため芸能活動を休業していた。親交の深い南部虎弾は「容体が良くなって年末に病院から施設に戻ると聞いていたので、まさかこんなに早く亡くなってしまうとは残念で仕方がない」とショックを受けていた。 伊東さんは全国会員数100人超の「不思議サークル」を主宰したことを機に露出が増加し、日本テレビ「投稿!特ホウ王国」、フジテレビ「めちゃ×2イケてるッ!」出演でブレーク。上半身裸、黒スパッツ姿をトレードマークに、常人離れした「高能力」と呼ばれる芸で人気を博した。2018年12月に記者会見を行い、右変形性股関節症で加療中のため芸能活動を休業すると発表。中学2年の時に同症と診断され、ボストンバッグから顔だけ出すなど、体を酷使した芸を繰り返すうちに悪化していったという。会見では「絵画や、自叙伝を書いて(費用をため)早く手術をしたい」と話し、「またカバンに入りたい」と復帰を願っていた。 20年2月に出演したTBS「爆報!THEフライデー」では、休業発表後に精密検査を受けて多発性脳梗塞を発症していたことを明らかに。19年2月に右変形性股関節症の手術を受け、同4月には多発性脳梗塞の投薬治療を開始。収入が全くないため、生活保護を受けている現状が伝えられていた。
2024/01/16
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2024/01/16
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2024/01/15
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2024/01/14
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2024/01/13
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2024/01/12
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2024/01/11
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歌声が心に沁み込む歌い手だった。大晦日紅白歌合戦前日に亡くなっていたか。無念だったと思う。謹んでご冥福をお祈りいたします。また昭和が過ぎて行った。臺灣では絶大な人気であり八代亜紀の死を悼んだ。■台湾■取材記■台湾で活躍する日本人■八代亜紀さん死去、代表曲「舟唄」「雨の慕情」 昨年9月に病気公表朝日新聞デジタル2024年1月9日 20時23分「雨の慕情」「舟唄」などで知られ、「演歌の女王」と呼ばれた歌手の八代亜紀(やしろ・あき)さんが昨年12月30日、急速進行性間質性肺炎で死去した。73歳だった。所属事務所が9日、発表した。葬儀は既に営んだ。後日、お別れの会を開く予定という。歌った夜は必ず寝床で「おさらい」 八代亜紀さん、努力重ねた人生故郷に寄り添った八代亜紀さん 死去に談話「歌唱力で励まされた」 熊本県八代市出身。地元のバスガイドを経て、上京して銀座のクラブで歌ううち、スカウトされた。1971年、「愛は死んでも」で歌手デビュー。73年の「なみだ恋」が出世作となった。代表曲に「お酒はぬるめの燗(かん)がいい 肴(さかな)はあぶったイカでいい」の歌い出しで知られる「舟唄」や「愛の終着駅」、80年に日本レコード大賞の大賞を受賞した「雨の慕情」など。独特のハスキーで深みのある歌声で、男女の哀愁をつややかに歌った。 活躍の場は演歌にとどまらず、2010年代にはジャズアルバムを出したり、ジャズ歌手として米ニューヨークで初の海外公演を開いたりした。画家としても活動し、各地で個展を開催。フランスの絵画公募展「ル・サロン展」でも入選した。 事務所によると、膠原(こうげん)病の一種の抗MDA5抗体陽性皮膚筋炎も患っていた。昨年9月に病気を公表し、活動を休んで療養していた。 八代さんの死去に伴い、公式サイトで所属事務所のコメントが発表された。全文は以下の通り。 【ファンの皆様ならびに関係者の皆様へ】 平素よりご厚情をいただき心より感謝申し上げます 2023年9月に膠原病(こうげんびょう)の一種であり指定難病である抗MDA5 抗体陽性皮膚筋炎と急速進行性間質性肺炎を発症し療養を続けておりました弊社所属の八代亜紀が12月30日に永眠いたしましたことを謹んでご報告申し上げます 葬儀は八代自身の強い遺志により弊社スタッフのみで2024年1月8日に執り行いとても穏やかな顔で旅立ちました 一日も早い復帰を目指し治療とリハビリに励んでおりましたが容態(ようだい)の急変により皆様へこのようなご報告をしなければならなくなりましたことは無念でなりません 代弁者として歌を歌い表現者として絵を描くことを愛し続けた人生の中で常に大切にしていた言葉は「ありがとう」でした 「一人では何も出来ない、支えてくれる周りの皆様に感謝を」という父と母からの教えを八代自身は体現し続けて参りました 療養期間中も傍(かたわら)で支えるスタッフや医療従事者の皆様に「みんなありがとう」と感謝を伝え最期まで八代亜紀らしい人柄が滲(にじ)み出ておりました これから先いつまでも八代亜紀が命を吹き込んだ作品の数々が沢山(たくさん)の人達(たち)に愛され皆様の心の中に生き続けることを八代自身も望んでいると思います 後日にお別れの会を執り行いたいと思っております 詳細については改めてご案内申し上げます 今まで応援してくださったファンの皆様 関係者の皆様に心より深く感謝 御礼申し上げます 本当にありがとうございました 2024年1月9日株式会社 ミリオン企画「とても辛く哀しく胸が痛みます」八代亜紀さんの訃報受け北島三郎さんがコメント「淋しいなぁ」FNNプライムオンライン 2024 01 09「舟唄」や「雨の慕情」など数々のヒット曲で知られる歌手の八代亜紀さんが、2023年12月30日に死去していたことが9日わかった。73歳だった。八代さんの早すぎる死を受け、北島三郎さんがコメントを発表した。以下全文。またひとり…歌の道を一緒に歩んできた仲間の訃報に驚き、とても辛く哀しく胸が痛みます。彼女の独特な八代節は、多くの人々に感動を与えてくれました。普段は、笑顔が素敵な心の温かい彼女。歌番組で一緒になった際には「先輩、お元気ですか?お身体は大丈夫ですか?」いつも気遣ってくれた優しさが昨日のように思い出されます。もう会うことの出来ない旅立ち…淋しいなぁ。心よりご冥福をお祈りいたします。北島三郎
2024/01/10
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2024/01/09
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2024/01/08
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2024/01/07
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2024/01/06
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2024/01/05
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新年早々一番嬉しい消息だった。だが日航社長赤坂よ。逆上せ上るな!馬鹿者が。お前達は1985年8月12日人類史上最大の汚点である日航123便御巣鷹山墜落事故で多くの死者を出し、放漫かつ親方日の丸経営で無様な経営破綻した身の上だ。今回の事はプロフェッショナルとして当然の事をしたまでと発言すべきであり、乗客の忍耐力、団結心、協調、そして胆力が齎したものである。日航よ!お前達に対する不信感は未だ拭えない。【早く出して下さい!】という女児の悲痛な叫び。この映像を見て胸が詰まった。此れでこの女児を含め乗客が犠牲となり命を落とすことに成れば不憫な事極まりない。トラウマになる所だった。「奇跡」と言われた379人脱出、日航社長「乗員はプロとしての仕事をしっかりやってくれた」読売新聞 日本航空の赤坂祐二社長は4日、記者団の取材に応じ、東京・羽田空港の滑走路上で日航と海上保安庁の航空機が衝突した事故で日航機の乗員乗客が脱出できたことに関し、「(乗員は)訓練以上の結果が出せたのではないか。プロとしての仕事をしっかりやってくれた」と述べた。事故後、赤坂氏が公の場で発言するのは初めて。 赤坂氏は、事故を受けて自民党本部で開かれた党航空政策特別委員会の役員会に出席後、取材に応じた。 海保機と衝突した日航機には乗員乗客379人が搭乗していた。乗員乗客は着陸から18分で機体から脱出し、その約10分後、機体は大きな爆発音とともに炎に包まれた。乗員乗客の脱出について、海外メディアは「奇跡的だ」などと報じている。「荷物取り出す人、取り乱す人いなかった」「脱出後はCA指示で10人ずつ手つなぎ円陣」乗客男性が当時の様子語る読売新聞 / 2024年1月5日 7時10分東京・羽田空港の滑走路上で日本航空と海上保安庁の航空機が衝突した死傷事故で、札幌市内の実家から東京都三鷹市の自宅に戻る途中に日航機に乗り合わせた会社役員の男性(63)が、当時の様子を語った。 日航機は2日午後4時15分頃、乗客367人と乗員12人を乗せて新千歳空港を飛び立った。男性の座席は前から8番目の右窓側。午後5時47分頃、羽田空港C滑走路に着陸したと思った瞬間、「ドン」という衝撃音と強い振動があり、「これは普通の着陸じゃない。ちゃんと止まればいいが」と思ったという。 機体は間もなく停止したが、主翼のエンジン部分が発火しているのが窓から見え、「やばい」と感じた。客室乗務員(CA)が冷静に対応し、取り乱しているような乗客は周辺にはいなかったという。数分後に避難誘導があり、パソコンや財布などが入ったリュックを置いて前方右側の脱出用シューターに向かった。座席から近かったため、比較的早めに脱出できたが、シューターを滑り降りる際、途中で止まる乗客もいて避難の流れはやや詰まった。「機首が傾いていたからか、シューターの角度が緩くなっていた」という。 脱出後は、人数把握のため、10人ずつ手をつないで円陣を組むようCAから指示された。その後、機体への放水をいったん終えた消防車の後ろについて滑走路を横断するなどし、午後7時頃、ターミナルビルの出発ロビーに到着した。ここで、日航社員から住所や氏名などを書く連絡用の紙を渡された。 さらに、空港内のホテルの宴会場のような場所に移動後、クリームパンやおにぎり、毛布などの提供を受け、男性は午後9時半に退出できた。「そこに宿泊せざるを得なかった人もいたようだ」と話す。 「飛行機があそこまで焼け落ちるとは思いもしなかった。本当に恐ろしかった」と男性。ただ、「荷物を取り出そうとする人は、少なくとも自分の周りにはいなかったし、落ち着いて避難していた。(緊急時の対応策などを映像化した)機内安全ビデオを普段から何げなく見ていたので、本当に大切なのだと実感した」と話していた。
2024/01/04
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2024/01/04
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2024/01/03
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2024/01/02
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新年明けましておめでとう御座います今年もどうぞ宜しくお願い致しますブログ来訪者の方のご多幸を祈念致します 令和6年 元旦 🎍🐰
2024/01/01
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2024/01/01
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