アート・セラピー 0
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書くという衝動、書き留めておきたいという衝動、それはいつも突然にやって来る。何気ない日々の生活の中で、ふと、心が震える体験をする。起こったことの反映としての心の震え。起こったことはさして大した事でなかったとしても、心が強く動かされるのだ。それは、心の深いところでの感動。心揺さぶられる感動。それは、詩を書かせる感動といっても良いだろう。かつて、そのような体験があった。そして、今もまた同じような体験をする。いつもの事ながら、心にこう思う。「ああ、また同じところに帰ってきた」外的現象は姿を変えても、心的体験としては同じような感慨なのである。「ああ、今日も僕は生きている」つまりは、「ふと思ったとき」なのである。久しぶりに同じ地点に回帰したようなので、以下に30年前の詩を掲げよう。 ---------------------------------------------------------------------------- 『ボールペンテル ――― 1977.12.25 』ボールペンテル、これは、まさに、わが自由の象徴だった.ある日突然に、不意の光明がやって来た.その時偶然に私は、ボールペンテルを切らしていた.書くための道具としての最も自然な愛用品.今までのそれは、ちょうどインクが切れかかっていた. その突然の衝撃がやってきた時、私は、この五体全体でうろたえた.その高揚の中に身をゆだねてしまった.私の中で、生命は異常な速さでうずを巻いていた.抑えかねる.もう、どうしようもない.私は、どうすれば良いのか?しかし、その問いの答えは、おのずと全く明らかであった.ボールペンテルを買いに行くという行為だけが、ただひとつ、最も、自然、・・・・いや、それしかなかった.書くという事、それが生きるという事であった.ボールペンテルは、その象徴であった.生きるという事、それは、自由という事であった.自由という事において、表現--エネルギーの放流--行為、それが、カギであった.それしか すべを知らなかった.表現、自分と世界を結ぶもの.それに 身も心も集中させるという事.そこに、あらゆる自由の可能性が秘められているように思われた.私のボールペンテル、そして、知覚、感覚へと---. Copyright(C) 1977 HOKUSUI-SHA All Rights Reserved.---------------------------------------------------------------------------- ~五月の空に浮かぶ月(at Tokyo Mid Town)~
2008/05/03
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『 無 題 』 あなたの ことを わかりたいと 思うけれど 光の明快さで どこまで わけ入っても その 光 故に 背後にかき消されてしまうものがある わかってしまったものは すべて 既知として 死へ向かう 一体 何がわかったというのか 「いつも光で満ちあふれていますように」というが あまりにも明快な光の一方で、今は闇だけが光彩を放っている 闇の前に呆然と立ちすくみ、しかし訳のわからぬ意志だけが確かになって来る 闇こそが、愛や信頼を生むものであったのだ だから、何もわかってなどいないのだ 闇―――わからぬもの こそが未来を創り上げていくのだ 私は あなたに 向かう 私は あなたの闇を受容し 対峙する 闇の中に 確かに存在し形をとろうとしているものに祈りを捧げるのだ そして、わかりたいという意志そのものが 残る. Copyright(C) 1993 HOKUSUI-SHA All Rights Reserved.---------------------------------------------------------------------------- ※この詩は、その昔、わたしが人生の伴侶を見つけた時に、便箋にさらさらと書き写したものである。つい最近、書庫を整理していたら出て来た。便箋一枚とて侮れないものである。整理整頓は必要であるが、何でもかんでも捨ててしまうという生活にはなかなかなれない。たまに、整理したりすると、思わぬ宝物がでてきたりして面白い。※写真は、この4月3日(火)の夜空です。薄曇りの空から、時々満月が顔を見せていました。
2007/04/12
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『 断片-V 』 差分なんだよ、サ・ブ・ン 飛び飛びなんだよ、ト・ビ・ト・ビ 今ある自分ったって ひとつじゃぁないんだから、 ほじくっていけば、いくらでも、いろんな方向に深みが出てくる. だいいち、今ってのは どれだけの長さなんだよ? 考えているうちに、今は時を経ていく. だから、何も負い目を感じることは無いんだよ. いろんなものを、ヒョイ ヒョイと わたり移ってゆく. そいつは可能だよ、気の転換があればね. ただし、わたっていく時の意識だけはシャンとしておくことだ. 心っていうのは止まろうとするんだ. 止まって、その場に滲み込もうとする. 通り過ぎて行くものに しがみつき、舐めまわし、 それらを反転させて 未来に夢を投げかける. そいつも結構だけど、もっと軽やかにもやっていけるんだ. 自分の飛んで生きて生きたいものに応じて目の前に物を持ってくるのさ. objetを目の前にして、今、飛ぶんだよ、その世界に. それは、過去寄りであろうと未来寄りであろうと、 今そのものの幻想イコール現実なのさ. 僕は、わたって行くさ、引き寄せた物を、やって来る物を!・・・ 差分なんだよ、サ・ブ・ン 飛び飛びなんだよ、ト・ビ・ト・ビ Copyright(C) 1980 HOKUSUI-SHA All Rights Reserved.---------------------------------------------------------------------------- ※シュタイナーの芸術療法では、先ず、テーマが与えられる。この水彩画=ぬらし絵は、鉱物界/植物界/動物界/人間界の、四つの界がテーマだった。自分の中のイメージを頼りに描く。『鉱物』を描くのではなく、『鉱物界』を描くのだ。もちろん、自然観察をしても良いのだが、描くときは、写生ではなく、自分のイメージの中にあるものを描く。この作品は、ほとんど自然観察をせず、イメージのままに描いた。当時のわたしは、水晶のクラスターというものを全く知らなかった。
2006/09/06
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『 断片-IV 』 先ず以って、 優しさを求めていけば、 その道は行き詰る。 そうではなく、 今ある自分の道を、真摯に歩んでいけば、 ふと、優しさが訪れることもある。 Copyright(C) 1977 HOKUSUI-SHA All Rights Reserved.----------------------------------------------------------------------------
2006/08/25
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『 断片-lll 』 「歴史は繰り返す」だけだ、 というのを僕は信じない。 99回、同じ所でつまづいていた男が、 100回目に、飛躍するというのを僕は信じる。 Copyright(C) 1977 HOKUSUI-SHA All Rights Reserved.----------------------------------------------------------------------------
2006/08/23
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『 断片-ll 』 その場を つくろう事よりも、 その場で うろたえる事だ。 そうすれば、何かの道が見えてくるかも知れない。 君は、まだ、生まれていない。 まず、誕生することを考えよ。 Copyright(C) 1977 HOKUSUI-SHA All Rights Reserved.----------------------------------------------------------------------------
2006/08/22
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今日の東京は、天気が良く、初夏を感じさせる日中でした。 夕方からは少し薄雲が覆ってきたようです。 西へ向けて走る車の中から、ベールのような雲に霞みゆく太陽を見ました。 上から下にかけてぼやけていくグラデーションで、色は薄黄色でした。 それはまるでお月さんのようでした。 それを見ていた息子のだいちが、後部座席から 「本当にまん丸だね」 と驚いていました。 ・・・「いつもは、太陽は眩しくてかたちなんか見えないからねぇ」。 そしてだいちは歌をうたいはじめました。 ♪ まんまる お~月さん どこ行くの~ ♪ ・・・「あれっ? 太陽だよ」 と言うと、 ♪ まんまる お~日さま どこいくの~ ♪ と、すかさず替え歌にして楽しんでいました。 夜の8時頃に、また、西へ向かって車を走らせていると、夕闇の空に三日月がぽっかりと浮かんでいるのが見えました。 本当は四日目の月なのですが、細かいことは置いておきましょう。 突然、ふいに現れては姿を消す、お月さんは、本当に 「どこいくの~?」 と呼びかけてしまいたくなりますね? 綺麗なアークを描いていて、その一瞬を惜しみました。 たぶん、その後西の空に沈んでいったことでしょう。 そんなところで、今日はその昔、新月に出て来た詩(うた)を思い出しました。 もう20年近くも前に、年賀状に使ったものです。 確か、当時の新刊本、中沢新一さんの 『野ウサギの走り』 と言う本。 そして、その中で紹介されていたバリー・フラナガンの彫刻に魅せられて、出て来た詩(うた)です。 当時流行っていた 「プリントごっこ」 で、フラナガンの形態を模写した覚えがあります。 あぁ、ありました、これですこれ。 * * * 野ウサギが 欠けた月から飛び跳ねて 我らがテラに 映り住む ツキの娘になりたまえ ツキの男になりたまえ 月に一度の 月立ちに ルナティック・ハイパー・ダンス・ピョン! Copyright(C) 1987 HOKUSUI-SHA All Rights Reserved.----------------------------------------------------------------------------
2006/05/01
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『春の珍事』と人は言う『春の嵐』と人は言う何故『春』なのか?ものみな芽吹き、突風が吹き荒れあらゆるものが、氷解しつつあるようだ気がつけば、既に彼岸の入り宇宙の緒力、霊たちも、この時期に参集して来ているのか何か、目に見えないものたちが動き出しているのを感じる啓蟄はもう過ぎた蠢いているのは虫達だけではないようだ目に見えぬ、何がしかの力が、わたしたちを翻弄しているのかそれとも、包み込んでくれているのか「もういい加減に目覚めなさい」とそう鼓舞してくれているのか今日は息子と二人の日曜日だったママはお仕事で外遊だ自分の事をしながらも、しっかり息子と向き合ったいやいや、同じ空間を共にしていただけ付きつ、離れつ、飛び・飛び・飛び/一日に、会っては別れ、会っては別れ時間の流れを忘れるほどにお互いが、お互いを、認めながらに好きなことをしていたあなたと共にいる場所が、わたしのいる場所空間の取り合いではなく、意味ある空間の分かち合いなのだ息子は9歳にさしかかったところ関係性のターニングポイントを密かに感じている共にいることただただ、共にいること何でもないことの幸せを、ふと身に感じた日曜日だった Copyright(C) 2006 HOKUSUI-SHA All Rights Reserved.----------------------------------------------------------------------------
2006/03/19
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『 新 生 』 小生、依然として Out of Space にとらわれ居り候。 世の人が何を云おうと我が砦の中に居る。 世の中に無数の星々が輝いているがごとく、 我が内庭には無数の原石が眠って居る。 今は只、それらを掘り起こすことこそ必至であると心得居り申し候。 Copyright(C) 1992 HOKUSUI-SHA All Rights Reserved.---------------------------------------------------------------------------- これは、約十年前に盟友に送った年賀状の文章です。人は何度も同じ轍を踏みます。しかし、同じように見えても少しずつ違った景色になります。それが螺旋の神秘です。同じ所をぐるぐると廻っているように見えても、実は少しずつポイントを動いて往っているのです。今わたしは、また10数年周期を一巡りしたような心境ですが、確実に手応えは感じています。これで良いんだ、これが好いんだ、と、つぶやきながら、一歩一歩歩みを進めています。 また明日からしばらくPCから遠ざかりますが、留守をよろしくお願いいたします。 ウチの近くの奇妙な風景。左に鉄道が走り、何故か左右に同じ信号機が設置されています。
2005/11/13
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『私たちの私へ』 彼には彼の問題があり、 彼女には彼女の問題がある. あなたにはあなたの問題があり、 私には私の問題がある. あなたの問題は、あなたが解決する事だし、 私の問題は、私が解決する問題だ. しかし、あなたの問題には、私が含まれていて、 私の問題にも、あなたが存在している. あなたにはあなたの人生があって、 私には私の人生がある. あなたの中に、わたしがいて、 私の中にも、あなたがいる. あなたの中の私は、私の中の私とは違うし、 私の中のあなたは、あなたの中のあなたとは違う. でも、私はもう、 あなたの中の私と、私の中の私が違うからといって、 悩んだり、怒ったり、言い聞かせたりしません. だからあなたも、 私の中のあなたと、あなたの中のあなたが違うからといって、 悩んだり、怒ったり、言い聞かせたりしないで欲しいと思います. 私が思っている私がここにいて、 あなたの中のわたしがいて、 彼の中にも、彼女の中にも、また、私がいる. いろんな私がいて、どれもみな私に違いない訳で、 どれが正しいんだって、決めるようなものではなくて、 それで、それでいいんです. それだけ、私がいっぱいいて、 それはもう、とても楽しい事ではないですか? 唯、私は、あなたの中の私に頓着しないし、縛られたりしないし、 彼の中の私にも、彼女の中の私にも、また、頓着しないし、縛られたりしないし、 実は、出来るなら、 私が思っている私にも、頓着しないし、縛られたくないと思っているんです. だから、私は、 私の中のあなたを、あなたに押しつけはしないし、 私の中の彼も、彼女も、彼達も、また、そうで、 でも、それは、まったく別々に孤立したものではなくて、・・・ 私は、私の生で、とても満足で、 あなたの生を賞賛するし、彼の彼女の生を賞賛したいのです. そういう事の中で、 私は、あなたと、自由自在に関係していくわけで、 認めもするし、うなずきもすれば、怒りもするし、突き放しも、 包み込みも、殴りも、蹴飛ばしも、抱きも、エトセトラ もする訳で、 やはり人間だから、 お互いに生きている訳だから、 ・・・ 彼に対しても、彼女、彼達に対しても、そうなんです. 唯、私が知っている私でも、 あなたが知っている私でも、 彼が知っている私でも、 彼女が知っている私でもない、 それらすべてを含みうる、 あるいは、それらすべての中にある、 それらのどれでもなく、 あるいは、それらのどれでもある、 そういう何かがあって、 それに従って生きていきたいだけです. いや、その何か、を探すために、 生きているのかもしれません. Copyright(C) 1977 HOKUSUI-SHA All Rights Reserved.---------------------------------------------------------------------------- またまた、昔の詩作です。一気にノートに書きつけたもの。あの頃は若かった。しかし今も、同じように青虫です。ポエジーは、同じ事を繰り返すリフレイン。作品は誰のものでもなく、誰のものでもありうるものです。つくづく、そう思います。眠っていたものを光にあててやろうと思っています。 知り合いが、近所に開いた喫茶店です。今度、ライブをやらせていただこうかと思っています。
2005/11/12
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時の流れの中に居て 時のない時からの声を聞く ゆったりと感情の中に住まっている すると なつかしい感情の向うから 時のない時の声が聞こえてくるんだ ふと君に 手紙を書きたくなったりしたよ Copyright(C) 1989~2005 HOKUSUI-SHA All Rights Reserved.---------------------------------------------------------------------------- ポエジーが浮かんでくるときなんかは、いつも時間なんか関係ない。歌が飛び出して来るときだってそうだ。時系列の時間軸からははずれた瞬間のエアーポケットなのだ。永遠を垣間見る時、それはもう、時間にはとらわれていない意味ある場所なのです。 今日は私の誕生日です。私の誕生も、そんなポエジーのようなものだったのだろうと想像をめぐらします。今日は、家人だけでなく、たくさんの新しい友や、旧友や、見知らぬ友人達から祝福を受けました。じわりじわりと、幸福感を感じています。 みなさん、しばらくご無沙汰しておりました。徐々に戻って来たいと思います。これからもどうぞよろしくお願いいたします。
2005/11/05
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『たとえば』 書くために生きるのではなく 生きるために書くのである Copyright(C) 2005 HOKUSUI-SHA All Rights Reserved.---------------------------------------------------------------------------- 長谷の夕暮れ・湘南海岸
2005/10/22
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『キズキ』 ぼくは自分が馬鹿だということをよく知っている。 しかし、残念なことに、そんなことを知っていてもどうにもならないのだ。 時々、ぼくの身体はぼくの頭脳からはなれていってしまう。 頭脳には手をつけられなくなるほどだ。 頭ではわかっているのだ。 しかし、実際やっていることは、どうだろう。 やっているその時は、何を、どんなことをやっているかわからないのだ。 行動と思想が一致しないのだ。 まるで子供ではないか、自分で自分の身体をうまく動かせないなんて。 だたら、ぼくは自分が馬鹿だということをよく知っている。 しかし、残念なことにそんなことは自慢にならないのだ。 Copyright(C) 1973 HOKUSUI-SHA All Rights Reserved.---------------------------------------------------------------------------- この拙いメモは、わたしの記念すべき第一番目のノートの片隅に刻まれたある断章である。端っこに9/27と銘記されている。17才、高校3年生の時だ。表現は拙いし、詩も文学も何も知らない、素人の生の声の表出である。それは、やや弱い筆圧の鉛筆で、つぶやくように丁寧に書かれている。ゆっくりした足取りで、一つ一つ確認するかのように刻まれている。 しかし、振り返れば、ここがわたしのポエジーの原点であったように思う。誰かの詩や文学の真似事ではなく、自分の中から出てきた言葉たちを、ただ書き記していく。詩や文学が、表現者の内側から自ずとあふれ出てくるものだとすれば、そのポイントだけは踏まれている。 何故かその断章が、今日蘇って来た。特に何があったわけではない、ただ何気なく…。ふと、それを、今日ここにUPしようと思った。そして、題名だけが今の今、付けられたばかりの作品となった。 「キズキ」とは、「傷来」であり「傷気」であり「傷記」であるのだ。文学や芸術は、往々にして人間の負の部分の刺激から発生しやすいものである。意識や自我なんていうものも、何らかの負の体験から立ち上がって来るものである。しかしそれらは、始まりとしてのアクセントとして必要な、少量の毒なのではないか。それは「キズ」であり「刻み」である。 始めは題名を『初心』にしようかと思った。「初心忘るべからず」と言う。その言葉は、初々しく溢れるエネルギーを放っている。しかし、この諺は戒めの言葉でもある。「初心」とは何だろう? ただ、ただ意気込みに満ちただけのものではない。そこには謙虚さがあり、不安に満ちた心情もある。そこへと導かれる「蒙《無知》」も「キズ」もあったことだろう。 そんな思いが募って来て、拙い断章であるが、ここに作品として上梓することにした。自分自身への「キズ」の刻印として。忘れないように。当然ながら、この作品が示すような心許ない心情は、未だに、事や時に応じて良く見舞われているものである。 この作品は、そんな今の自分に対しても、充分わたしには腹に効く特効薬なのである。
2005/10/16
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『私の生活/遠さと近さ』(『僕の友へ(その3)』) 僕はひとりで生活していて、仲良い皆の遠さをいっぱい持っているけれど、 一日に何回となく、誰かの近さがやって来るよ。 そんな時は、宇宙の電話線がつながった思いがする。 見返りを期待する訳じゃなく、そんな時の時々は、手紙を書いたり、連絡したりもするよ。 僕に誰かの近さが到来して、 その気に乗って、そいつに呼びかけに行っても、 そいつは、たまたま、その気じゃなかったりする。 そんな風にも、僕らはひとりひとりなんだ。 だから、手紙なんても乙なものなんだな。 手紙は、必然的に、時間を有してしまうもんな。 こっちが今日思いついたことが、 2~3日後のあっちの今日に届いたりする。 でもそれが、かえって良かったりもして、悪かったりもする。 人間は、気分的なところがあるからね。 手紙は時間を持ってるから、そいつをなだめてくれる。 手紙は、時間軸に沿った長さのある棒。 鳥たちのように 流れるように しゃべってみたい。 相手は誰だっていいんだ、―――気まぐれだろ。 ただ、出逢いの場面を求めているんだな。 誰かと、近さの中で共有できる時にあこがれているんだな。 近さがやって来た時には、どちらからとなく、何の気構えもなく、 スムースに口が動いて、声が飛び出してくれるもんなんだ。 なめらかに、あまりになめらかに、そうなっちまうんで、 そんな時、いつも僕は気を失ってしまっているんだよ。 Copyright(C) 1980 HOKUSUI-SHA All Rights Reserved.
2005/09/25
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『僕の友へ(その2)』 再び 出会えれば、近さが戻って来る。 ―――その共有する場で、 近さの中で、饒舌の中に浸りこもう。 やがてそいつは記念碑となって、 お互いの生活の区切りとなって、 ひとりひとりは また 遠さへと帰っていく。 人間は やはり、ひとりひとりなんだ。 この ひとり の意味がわかるかい。 一人になりたいと言ってる時の ひとりじゃないんだ。 もとから人間は 逃れようもなく ひとりひとりなんだ、 この世では。 一緒に住んでいたって ひとりひとりに変わりはない。 ぴったり重ね合うことは出来ないんだ。 だから、いっそ、こんなに遠くに居る方が良いってもんだ。 遠さがあるから、近さが訪れるというもんだ。 遠さの中に近さがあって 近さの中に遠さがある。 君の遠さに 僕は哀しみ 同時に僕は 喜んでいる。 Copyright(C) 1980 HOKUSUI-SHA All Rights Reserved.---------------------------------------------------------------------------- わたしがノートをつけるようになったのは、高校入学の頃でした。それは、日記と呼べるようなものではなく、精神の波に敏感に呼応するような、ただの『書き付け』でした。一日に大学ノート一冊分を埋めてしまうこともあれば、2~3ヶ月以上も空白の時もありました。 それは若き日の精神の叫びかと思われました。しかし、そのノートは未だもって続いていて、通し番号にして、もう3桁を通り越しています。そんな『書き付け』から、断片的に、詩のようなものを感じ取りました。それは、時と共には、消え去ってしまわない想いとして、私の前に立ち現れました。今でもそのノートたちはすべて保管されています。また、日々書き付けられ、増殖しています。 ブログを始めて、時として過去の言葉たちの情景が蘇ってくることがあるのに気がつきました。それは過去の想いであり過去の『書き付け』なのですが、今、再び同じ感慨の付近にいる自分を感じました。もう何年もお蔵に入っていた彼らを、蘇る都度に、ここで、陽の目に会わせてやろうと思いました。それらは過去の産物でありながら、今の自分を表しているようなそんな作品たちです。私は、今、初めて彼らを作品化しているのです。Copyright(C)の日付がオリジナルのノートであり、それらは思い出す都度、すなわちランダムに並んで行く訳です。 今日の詩は、昨日の『僕の友へ』に続いて書きなぐった言葉たちです。ほとんど即興の書きなぐりです。しかし、そんな稚拙な彼らが、儚くこそあれ愛おしくもあります。今回の言葉はまだ継続中で、(その3)へと続いていきます。それは明日UPするとして、この機会に、時としてこのブログに登場する poem たちの謎を今日明かす事にしました。…今日の言葉たちは、特に稚拙で作品と呼べるようなものには程遠いような、そんな代物ですが、そんな日こそが、秘密を明かすにはもってこいの日なのだと、私のどこかが感じ取っています。たぶん、今こそが絶妙のタイミングなのでしょう。
2005/09/24
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『僕の友へ』 僕の友に祝福あれ お前は 僕のやれないことをやり 僕は お前のやれないことをやる それぞれの境遇の中で それぞれの運命を拡げてゆくけれど 何時だって出会えれば なごみの時が戻って来る 勇気をお出し 何を守っているのだね 勇気をお出し 僕らはみんな旅の途上者なんだよ 口に出してごらん 誰も何も嫌がりゃしないよ 何を言っても言われても 知り合えることが素晴らしいんだ 批難や賞賛じゃあない ゲームなんだよ そんなもの 口論したり許しあったりしている その底で 触り合いだけが ほんとうに横たわっている … だからそんなに気にしないで ちょっとのことで気を沈めたり飛ばしたりしないで こっちの方が気になっちゃうじゃない … 唯 つながりが出来ることだけが在ることなんだ 出会って 知り合えることだけが存していくんだ Copyright(C) 1980 HOKUSUI-SHA All Rights Reserved.
2005/09/23
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『不在より愛をこめて』 私のために 場所を用意して下さいな あなたの暮らす 世界の中に ほんの小さな場所で良いのです いない・私の・場所を 私のために 時間を用意して下さいな あなたの送る 日々の中に ほんのわずかな時間で良いのです いない・私の・時間を 今は 不在の時間 ここは 不在の場所 私は いない いない いない イナイ イナイ バァ あなたの中に 不在の場所を用意して下さいな あなたの中に 不在の時間を用意して下さいな 私のために すべての <私-たち> のために Copyright(C) 1989 HOKUSUI-SHA All Rights Reserved. ---------------------------------------------------------------------------- 収縮と拡散の波があります。今は少し自分の中に迫りたい、そんな時。 この詩は、もうずいぶん前、大いなる収縮の時に浮かんだ詩です。自分の中にグイグイと迫りたくとも、あなたや、みんなが気になるんですね。そんな時、結界として出てきたのでしょうか? ひとりになるべき時ひとりになる。これは自然ですよね? でもあなたを忘れてはいませんよ、と言う感じかな? まったくのひとりで冒険に出ると、迷宮から抜け出せなくなる。そういう時、アリアドーネの糸が必要なのですね。お陰で帰ってこられたよ、と言うために。 明日から、ちょっとヒプノの研修会へ行って来ます。
2005/08/23
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『夢の友たちへ』 To my Dream Friends (…オノ・ヨーコの詩集に触発されて) あなたが あなた自身に成ろうと 何かをやっている時 私は 眠っているしかない。 そして私が 私自身に成ろうと 何かをやっている時 あなたには 眠っていてもらうしかないのだ。 それはとても危うく はかないつながりだけれど 心から そう思える時 存在の軽さが ふと到来する。 私とあなたは きっと 夢のところでつながっているらしい。 そして 私は信じている。 いつの日にか この光の世界で 無の一滴を 二人して受けられる日が来るだろうことを。 そう信じることが 私を軽やかにしてくれる。 この果てしない 存在の重さの中で。 成ることは 苦しい道行だ。 けれど 苦しさの中にも在ることが 成ることを生む。 そう信じながら…。 …。 Copyright(C) 1989 HOKUSUI-SHA All Rights Reserved.
2005/08/10
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この時に 夜のとばりが明けようとしている、この時に 君は今 何をしているのだろう 私が目覚めている、この時に 生活の一瞬をつかまえたかい 垂直軸を感じ取ったかい 僕の垂直軸には君の匂いが漂っている それが昔の君なのか今の君なのかわからないほどに 不思議な生き物だな、私は・・・ 自分で自分のことをそう思う 君はまるで君のように君であるだろうか 僕は君の匂いを知っている この世界の不思議さと この私自身の不思議さに 恩寵を感じながら 目をみはり、目をみはり、生きてゆきたい そう願う、この時に Copyright(C) 1986 HOKUSUI-SHA All Rights Reserved. 写真提供:男衾村-復興計画
2005/07/16
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ロマンを求めたい気持ちはある けれど 運命を受け入れよう 拡がっていくもの すべてに祝福あれ けれど 形のなるのは 閉じることを受け入れたもの 今あるロマン すべてにOKを言おう けれど それはすべて 亜時空の中 明日に向かって 跳び発ちたい気持ちはある けれど 今日を なめつくしたいのだ Copyright(C) 1980 HOKUSUI-SHA All Rights Reserved. ----------------------------------------------------------------------------☆ 過去の詩を思い出す。 それは、今この瞬間に、過去が蘇っていることだ。 今という瞬間は、時間軸の一部ではない。何時でもある。どこでもある。過去へも未来へも行ける。 なんだって出来る。 テンペル彗星へのディープインパクトの瞬間※ この画像は、国立天文台のすばる望遠鏡が捉えたものです。赤く見えるのは、画像処理です。 ぜひ、写真をクリックして、すばる望遠鏡のHPへ飛んでください。詳細情報が載っています。
2005/07/08
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『あなたへ』 迷っていた 惑っていた あなたのことで すまない・・・ 人生について 考えていた 人生というもの 何だ? それは 知っている人など誰も居ないというのに そのことを忘れていた 人々の人生 それぞれは何を以ってそれを選んできたというのか・・・ 人々に負けていた 年齢のことを考えていた・・・ ・・・朝!・・・ それらの考えが一瞬にして消え去る まるで消しゴムでかき消されたかのように そして 僕には何もない 平静さが僕に戻り、突然、わかる! 自らの生を押し拡げていくこと 迷いようがない 世界がふっとそのあるがままの微笑を見せる 朝 あなたへ Copyright(C) 1986 HOKUSUI-SHA All Rights Reserved. ----------------------------------------------------------------------------☆短時間睡眠で夢と共に目が覚めた。夢の中ではシュタイナーのワークをやっていた。外は昨夜からのやさしい雨が降っている。朝の新鮮な冷たい空気。まるですべてを浄化してくれているかのようだ。昨日の異常な暑さからうって変わって、今日はやさしい雨に包まれそうだ。 そんな中、むかしの詩を思い出した。かつて、恋と存在学に悩んでいた日々。しかし、そんな中でも、朝はいつも白紙に戻されるような恩寵をくれた。今も同じ朝の新鮮さに居る。しっとりとした朝靄の中で、そんな同じ朝に出会った。 ありがたいことだ。バッハを流している。
2005/06/29
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『さなぎ』 ひとつの壁を前にして、 幻の袋小路に追い込まれた子供が 他のあらゆる可能性を徘徊して ぐるりと回っていき詰まる。 出口なし。 という所でひとつだけ、 試していない壁があった。 それは最初の壁だった。 それを壁だとしていたものは、 子供の頭にしか過ぎなかった。 なんと、それは、扉だったのだ。Copyright(C) 1977 HOKUSUI-SHA All Rights Reserved. ☆ 我が家にはカブトムシの幼虫が2匹いたのだが、その1匹がどうしてか土中から出てくる。何度、土の中に埋めても、また動いて出てくるのだ。それが、昨日さなぎになり始めた。まだ、前半身だけで、尻尾をゴニョゴニョ動かしている。こいつはわたしたちに、さなぎになるところを見せにやって来たのだろうか…?★ 壁は扉、さなぎはメタモルフォーゼ、成虫になって羽ばたけ。 そんな変容のコメントを参照しました↓。 http://plaza.rakuten.co.jp/kotohogisha/diary/200506060000/
2005/06/14
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『 そうしていつもお前は 俺の深き欲求を汚すのだ 』 俺はただ 飢え死にしてみたいと そう言っているだけなのに 何故にお前はそうして嫌な顔をするのだ 食卓一杯にごちそうを並べて 何故にお前はただ見守ってくれないのだ この愚かな冒険を 何故にお前は共に観てくれないのだ この荘厳なる遊戯を いつの日にか 俺の死を看取ってくれると言ったお前が Copyright(C) 1991 HOKUSUI-SHA All Rights Reserved.
2005/06/11
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『見当たらない詩』 見当たらない 見当たらない あの詩が 見当たらない いつか血潮で 書き綴った詩 あの青色のノートの あの右のページに 今がまさに その心境だというのに 回帰の時だ というのに 見当たらない 見当たらない あの詩が 見当たらない いつか血潮で 書き綴った詩 あの青色のノートの あの右のページに 紙に書き綴ったから 思い出せないというのなら いっそ書きとめない方が よかったというのかCopyright(C) 2005 HOKUSUI-SHA All Rights Reserved. ------------------☆ 人は何度も同じ感動を、実は、体験できる。『いつも なんどでも』だ。 そのような『体験』は、しかし、その個人にとってのコアのような体験だ。 詩にでもしないでは 収まらないくらいの体験だ。 詩作の技術はまた別の問題だが、人は何度も同じコアに戻ってくる。 それは古来より、様々なことばで呼ばれてきた。 個人的でありながら、同時に普遍的なもの…。 われわれは、こんなにも多数に分岐しているのだから、それぞれの個を深めることでしか本来的なものに触れられない。 人の数だけ真実があるが、言いようは違っても同じ『感動の源』を指し示している。
2005/05/23
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『時のない時』 時の流れの 中に居て 時のない時からの声を聞く ゆったりと 感情の中に住まっている すると なつかしい感情の向うから 時のない時の声が 聞こえてくるんだCopyright(C) 1989 HOKUSUI-SHA All Rights Reserved. --------☆かつて、宮廷では、客人を招いて和歌を詠み 茶を入れ 自然を愛で、そして碁を囲んだという。これが囲碁らしい。その世界に居る時間を、日常とは別のものと考え、時間は止まっていたという。その異時間を『石黒』という。今では、さしずめゲームに熱中して思わぬ時を過ごしてしまう、あのことか…?。 しかし、ここで詠んだ『時のない時』というのは、自らの本源に立ち戻った時の感慨を云い、実存哲学者の言う『トランセンデンツ』の瞬間のことです。
2005/05/22
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部屋に閉じこもり しかめっ面机の上で書くことばはほとんどが嘘だそう 身体が教えてくれるだから私は 前もってあなたに云うこと 何もないそんなすべてが 流れ去り白紙の私で あなたに会いたい秋の日差しテーブルのグラスはさんでまるで静物画のようにあなたの前に 私を置きたいそれで何が 始まる訳でもないがただ時が、ただ場所が、時の力と場所の力が あなたと私の生を巻き込みふいなことから 気流が流れるついに私は 私をあなたに 捧げられる私の身体が あなたを感じ取りあなたの身体が わたしの腹を突く胸がキリキリ腹がクルクルそうして私は あなたの現前で光の下でそうしてはじめて 書き始める私のことばを私の身体の 発現をCopyright(C) 1986 HOKUSUI-SHA All Rights Reserved. --------※今はことばを弄して遊んでいる場合じゃないのだ。言葉の森に迷い込んだ時には、先ず動くことだ。膨大な資料など用意すること 要らない。手ぶらの自分で何かに、誰かに対峙して見ることだ。そこで出てきたことばこそ、本来のものだ。怯まず一歩を踏み出すのだ。
2005/05/20
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今宵の月はあまりに 綺麗だったので黄泉の国まで旅してきた月のやつは恥ずかしがり屋裏側を見せないというだから 反対側から覗いたもんねそうしたら後ろ向きに お化粧してた鏡に向かって 髪を梳いてたその黒髪は やっぱり綺麗だったお手上げだなぁ※今夜の月は月齢2~3。細い三日月と言えるのかな?天空に上がった月よりも、地平線に近い月の方が好き。大きく見えるんですね。満月もでーんと赤く浮んでいて凄いけど、今宵のようなか細い月も格別です。日本にもいろんな月の名前があるけど、ハワイでは29個の月、全てに名前が付いているって、どこかで聴いたな。極寒と引き換えにしてでも、今夜のような月なら眺めていたいと思った。
2005/01/12
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想像できますか?弱い者ほど本当は強い強い者ほど本当は弱いしかしなにを弱い者と見立てなにを強い者と見立てたかそこのところが 大事なところ人によって見立ては違う正しい見極めなんてあるのだろうか?正しい が妖しい見極め が怪しい本当 が妖しい本当のことなどわからなくったっていいわたしは両方いただくよ※ 今日は自転車こいで、久しぶりのマイスポットのひとつに行ってきた。片道30分くらい。マイ車はママチャリ、でも3段変則ギア付き。大したことは無い。ギアをしょっちゅう切り替えながら。ゆっくり行ったり、飛ばしてみたり、景色に見惚れたり、風を感じたり、一時停止したり、スピードがうねる。その度に、息が切れたり、ペダルの重さが足に来たり、足のロコモーションが不具合だったりで、身体が反応して自然に右手でギアを変えていた。なにか、バイクや自動車になった気がした。自分が動力エンジンになったような気がした。ここのところのサイト再開辺りから、青年の頃以来に、自転車に載りつけている。すると、いろんなことに気づくのですね。今は自動車は、ときたまで。行った先の、マイスポットは世間の常識とは、ほぼ対極ほどにずれている素敵なサロンです。そこの『謎の管理人』さんと適度な盛り上がりの、つのったお話をして帰り道。今日の詩を反芻創造していたのです、自転車こぎながら。鏡の国のアリスのようなところなんですよ。逆さの世界?
2004/11/30
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入口から出ちゃった出口から入れば良かったものをあるものの入口は 一方のものからの出口になるあるものの出口は 他方のものへの入口になる入るも出るも同じことなのか?境界線をまたぐということ?何故に今日までこんなにも、門をくぐることを躊躇していたんだろう?… … … … … ※門をくぐると、新しい人、懐かしい人、しばらくぶりの人、…etc.いろんな毎瞬の今があった。眼前に「生」があった。当たり前のこと。どうして僕は、何度も同じことを忘れてしまうのだろう?胸の振えも、腹の慟哭も、そのままに味わいながらしゃんとして居よう。 今日は、老人病院の食堂で昼食を食べたけど、帰りに『入口』と書いてある自動ドアが開いてくれた。となりに『出口』と書かれたドアがあったけど、そっちからも入れるようだった。これってやさしい王様の仕業かな?と思った。♪
2004/11/26
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いろんな 絶妙のタイミングが あった♪世の中 結局タイミングよね♪という唄が テレビから流れている妙な符合偶然の鉢合わせ?何かが同時に起こる共時性(シンクロニシティー)?運か?幸運?えっ??今日はそんな日だった・・・・・。しばらく休止していた日記を再開します。いろんな再会があった今日だから。今日は特別な日。でも、何時だって特別な日なのだよね!
2004/11/24
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