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去年の10月1日に開催したウタ会ライブのご報告。題して『小犬のロンの初ウタ会―――自分の歌を唄うこと』わたしの持ち歌がメインで、3人の協力者を仰いだ。先ずは、知り合ったばかりの友人、エビちゃん:フォークギター。次に、10数年来の友人、みほりん:ピアノとパーカッション。そして、みほりんの生徒さん、KEN君:ピアノとパーカッション。3人の協力者の元、盛りだくさんのライブとなった。以下に、当日のプログラム進行による曲名を紹介しよう。 1.ゆうめん 2.素粒子の唄(I) 3.素粒子の唄(II) 4.勇気 5.恩寵 6.ともしび 7.こそあど言葉の唄 8.紅茶を一杯 9.あいことば < 休 憩 : コーヒーブレイク > 10.星に願いを:リー・ハーライン(KEN) 11.雨だれ:ショパン(みほりん) 12.君の微笑:浜田省吾(エビちゃん) 13.僕の胸でおやすみ:南こうせつとかぐや姫(ロン&エビちゃん) 14.ささやかなこの人生:風(ロン&エビちゃん) 15.岬めぐり:山本コウタローとウィークエンド(ロン&エビちゃん) 16.見上げてごらん夜の星を:坂本九(全員) 17.この空と雲と風 18.涙がポツリ 19.決められたリズム:井上陽水(ロン&みほりん) 20.KIMIさんの唄 21.のんびり行こう 22.自分の歌を唄うこと < アンコール > 23.人生II 24.帰れない二人:井上陽水(ロン&エビちゃん)以上、『:・・・』のない曲は私のオリジナルである。全24曲、よくやったものであると自分で自分を承認しよう。3人の協力者の皆さんには、本当に感謝の気持ちでいっぱいである。さらに、受付等でサポートして頂いたKさん、Iさんにも多謝。そして、2時間余りじっくり聴いていただいた客席の皆さんにもお礼を言いたい。最後に、このホールを提供してくださったステッチの皆さんにお礼を言ってこの報告を終わる。
2012/07/05
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随分のご無沙汰です。去年の10月1日(土)の初ライブの告知をしたままに放って置きました。はや9カ月が経ちます。理由は特にないのですが、わたしの無精さと、気まぐれさと、頑固さと・・・。そして、我が家のIT環境の変化。VDSL回線からひかり回線への移行。PCもウインドウズXPをようやく卒業してウインドウズ7になったこと。ネットは、しばらくの間、リードオンリーだったのです。という訳で、今夜は再開の狼煙だけです。タイトルはガルシア・マルケスの『百年の孤独』をもじってみました。以下の写真はオマケです。皆既日食があった5月21日(月)の早朝の太陽光です。
2012/07/01
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みなさん、お久しぶりです。 気がつけば9月半ば、もう中秋の名月も過ぎてしまいました。 なのに、なのに、蒸し暑い日々が続いています。 今年の秋は、何時頃どこからやって来るのでしょう? さて、夏休みの宿題も抱えたまま、今夜はイベントのお知らせです。 約2週間後に、ウタ会をやります。 このブログでのお友達は、遠い方が多いのですが、お気に掛かるものがありましたら、ぜひ足をお運びください。 歓迎と感謝の気持ちを込めて、精一杯のおもてなしをさせていただきます。 一番の希望は、「みんなで楽しい時を過ごしたい」 と言うことです。 【ご案内】 小犬のロンの初ウタ会 ~自分の歌を唄うこと~ 秋の土曜の昼下がり。歌の流れる空間で、まったりティータイムを過ごしませんか。 流れる音楽は70年代日本語フォークソングです。オリジナル曲にカバー曲。 遡ること30~40年、魂のふるさとを探す旅へのご招待。 こんなご時勢だからこそ「自分の歌を唄うこと」の大切さを感じています。 日 時 : 平成23年10月1日(土)14:00~16:30 場 所 : ホームギャラリー ステッチ(下記参照) 出 演 : Guitar & Vocal : 小犬のロン Piano & Chorus : みほりん Sub Guitar & Vocal : エビちゃん 参加費 : 1,000円(ドリンク&ケーキ付き) 当日精算 ステッチ コミュニティーカフェ & ホームギャラリー 〒190-0004 東京都立川市柏町4-77-1 TEL 042-535-9881 FAX042-535-9882 http://www.t-stitch.com/
2011/09/15
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早めの夏休みは、日々が旅。岡山に帰って来て、土曜日は子どもの一日だった。久々の親族たちと話がはずみ、姪の娘たちも大喜びだった。子どもたちはわたしのことを、下の名前にちゃん付けで呼ぶので思わず童心に帰ってしまうのだった。それで一息ついて、心身共に地元モードへとチャンネルが切り替わった。翌日曜日は、四国へ日帰り小旅行をした。徳島駅まで、快速と各駅ローカル線で片道3時間ほど、近くなったものである。駅の改札で、在住(??)のぴあの@サファイアさんと落ち合い、希有の時を楽しく過ごした。ちなみに、「ぴあのさん」はわたしのことを「ロンさん」もしくは「お兄さま」と呼ぶ。先ずはお昼ごはん、さっぱりした鳴門うどんを美味しく頂いた。それから、コーヒータイム、水晶を囲んでいろんな会話が花を咲かせ、その日の行方を探った。結局、お勧めの鳴門・大塚美術館はパスして、お寺廻りと相成った。最初に案内されたのは、付随の湖畔が心地良かった「地蔵院」と言う密教寺院。境内に、縄文時代からある祠があって不思議な雰囲気だった。湖畔を見下ろせる東屋の椅子に座って「あだ名クロニクル占い」を試みた。言葉の音韻を証左する、何の事はないゆる~い占いだが、結構的を得ていたりするもの。それから、わたしの遅遅とした趣味であるご霊場巡りに付き合ってもらった。今回は御朱印帳を持参していた。十六番・十五番・十四番と、廻ってもらった。そうこうしている内に夕方となり、また、徳島駅に舞い戻り夕食となった。そこでまた、いろんな話に花が咲く。19時過ぎまで粘って、久方ぶりの出会いに別れを告げた。合計約7時間の逢瀬だった。ぴあのさん、お世話になりました。次いで火曜日は、姉と姪とその子供たちとのお約束。近所で夏祭りがあると言うのだ。自転車3台で約15分、吉備路の自転車道路をゆっくり走った。そこは、吉備津彦神社。丁度その日、神事があり、催しもの(盆踊り)までプログラムされていた。参道や境内には屋台が立ち並び、ひっきりなしに人々がやって来て大変な人出だった。女性の方は8割方が浴衣で着飾っていた。姪の娘たちも3人とも可愛い浴衣姿。上の2人は、それでも鬼ごっこやボール遊びに陽が暮れてまで駆け回っていた。わたしも、久々に鬼ごっこをした。さて、その境内にご神木の杉の木があった。上の方は折れた感じで弱ってはいたが、どっこい確り生きていた。何かを感じて、何枚もシャッターを押した。その何枚かには、木霊(オーブ)が写り込んでいた。今は旅先なので、その写真をUP出来ない。四国の写真もあわせて、帰京してからUPすることにします。水曜日・木曜日は、実家の地デジ対策や墓掃除や庭の水撒きなど諸々、ハウスキーピングに費やした。この日記は、3日(水)から書き始め、今日:5日(金)に書き終わろうとしている。今は、東京へと向かう新幹線の中で仕上げをしている。今回の西への帰郷夏休みは、やはり、日々が旅だった。あっ、夏休みの宿題があったのを今思い出した。へへっ、それではまた、
2011/08/03
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一足先に夏休みをいただいた。昨日から岡山に帰郷して来ている。今日は、姪の子どもたちと遊んだ。まだ小学校にも上がっていない女の子たち2人。お絵描きをしたり、それを使って紙芝居にしたり、マルモのオキテの振付を教えてもらったり。久々に童心に返った。ちょっと疲れるけど、楽しい時間を過した。今度は火曜日ね、と言って彼女たちは姪に連れられて帰って行った。子どもの目は、本当にキラキラしてるな、と改めておもった。明日は、四国へ小旅行。これまた、久々のお方と観光を楽しむ予定。そろそろ寝なくっちゃ。ワクワクの旅立ち前夜なのであります。
2011/07/30
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みなさま、お久しゅうございます。前回から5ヶ月、大震災を挟んで書き足しをしてからは4ヶ月ぶりです。その間わたしは、とある使命を担って悶々とした日々を送っておりました。その期間もやっと終え、今新たに歩みを続けます。あっ、言い忘れましたが、震災後節電の影響もあり、5月に予定していたギターと唄のソロライブはお流れになってしまいました。また、折を見て、秋口頃に再設定するつもりです。 ◇ ◇ ◇さて、目次だけで済ませた今年のブログ。それぞれに、書きたいことは多いのですが、今日は夢と星の巡りだけに言及したいと思います。年末年始に見た夢『変容の丘』と『颯爽とセクトを後にする夢』は、いずれも強烈な印象と情動を伴うものでした。いずれにも自分の分身が登場し、共に歩き、闘い、別れを告げるというストーリーでした。いわゆるドッペルゲンガー体験というもので、一度、自死をすると言われているものです。和尚カードの『再生誕』に繋がります。そして、星の巡り。12年に1度の牡羊座に入った木星は6月初旬に既に牡牛座へと移行しています。そして、大地震後の3月12日に牡羊座に天王星が入った訳でした。天王星はトリッキーな天変地異などを現すようですが、その日に確か福島第1原子力発電所で水素爆発が起こったのでしたね。その後から日本各地でいろんなことが起こり、それは未だに収束していませんね。しかしながら、6月初旬に牡牛座へと移行した木星は、牛のように地道に歩む事を示唆しています。ここしばらくは、そのように、ゆっくりと大地を踏みしめ感じながら生きていく時だと心得ています。今日は、以上のこと位しか言う事がありません。みなさまもお元気で、またのお楽しみを。 ~ 富士の裾野にて ~
2011/07/26
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もう2月も最終日。『月便り』と標榜している限りは更新しなければ。と、少々焦っています。ここのところの時期は、とても活動的で忙しい毎日でした。今日は、目次だけでお許しを。2010年 12月19日から、手書きの日記が再開する。 時を同じくして毎日夢を見るようになり、たくさんのメッセージをいただく。 12月21日 満月・皆既月食を見る。 12月22日 冬至 12月28日の朝に印象的な夢を見る。 当の日に、OSHOタロットを引いて見ると『再生誕』が出る。2011年 1月4日 新月・西欧で部分日食 1月5日の朝に印象的な夢を見る。 今年のエンジェルカードを引くと「BALANCE」を受け取る。 この辺り、12月から俄然活動的になり、精神的な充実期も迎えていた。 1月23日に阿佐ヶ谷で、第1回初夢会に参加する。 この日は、木星が牡羊座に突入した12年に1度の記念すべき日。 占い師のみずきさん主催の第1回、人数は5人と小じんまりした会だった。 そこで描いた夢が、12月28日に見た『変容の丘』というものだった。 1月29日に鎌倉で、第2回初夢会に参加する。 この初夢会は15年ほど続けてきたもので、20名位の方々が集まった。 15年位前から、夢友達と開催して来たもので、何度も参加してきた。 今回は、ゲストとして師匠の坂内慶子さんも夫婦連れで参加してくださった。 そこで描いた夢は、1月5日に見た『颯爽とセクトを後にする夢』だった。 師匠から、胸に響く示唆を受ける。 2月に入って、俄然勉強意欲が出てきた。 建築の仕事も意欲的に再開した。 ボランティアやシュタイナーの勉強会に頻繁に出向くようになる。 鉱物・水晶もたくさん仕入れた。 2月22日 ニュージーランド大地震 あっという間に、2月ももう最終日になってしまった。 そんな感じで、気がつけば2ヶ月あまりが走馬灯のように廻っていった。 3月11日 東北関東大地震 3月12日 天王星が牡羊座に入る 3月20日 満月 3月21日 春分の日 個々の事象については、単位ごとに綴って行こうと思っています。今夜のテーマは目次作り。3月から、一つ一つ挙げて行きます。どうぞよろしく。(3月21日追記) *************************************** ≪予告≫ 来る5月14日(土)に、ギターと唄のライブを開催する事になりました。 詳細は追ってお知らせします。 今は、企画の練り上げと練習の段階です。 6年前に企画倒れとなった、「ファーストライブ」の再チャレンジです。 場所は東京、立川市です。 お近くの方で、少しでも触手を動かされる方がいましたら、是非お出でください。 もちろん、遠く足を運んでいただける方も大歓迎です。 喫茶もあって、ホールの雰囲気が抜群なところです。 どうぞ、お気軽にお越しやす~。**************************************** ~コミュニティカフェ&コミュニティホール ステッチ~
2011/02/27
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2010年の12月21日の満月に日に皆既月食があり翌日は冬至、年が明けて1月4日の新月には部分日食がありました。 残念ながら、そのどちらもこの目で拝めることは出来なかったけれど、イメージの中でその2つの宇宙の事象をイメージしていました。 その2~3週間、宇宙のポータル(扉)が開き別の領域にいくことが出来ると言うことを教わった。 そして、冬至が冬の転換点だったと。 教えてくれたのは、昔からの友人、pansy angelさん (情報源はジョナサンケイシー)でした。 2~3週間と云うことなら、まだ続いているのかも知れない。 まだ有効なのかも知れない。 今年は、初期始動が遅い年なのかな? 新しい年を迎えて、年始の行事を終えて仕事も始まり七草も過ぎても、なかなか日記に向き合うことが出来なかった。 やっと今日、風のない快晴でのどかな日曜日を迎え、日記を書く気持ちになった。 わたしにとっては、やっと2011年が始まった気がしています。 みなさま、遅ればせながら、新年明けましておめでとうございます。 この、カメの歩みブログ、これからもどうぞよろしくお願いいたします。 ウサギに負けぬよう、ちょこちょこ休み休み書いて行きますゆえ。 ~ 海にかかる虹(part2)~ 上の写真は、昨年8月の屋久島旅行で運良く撮れたものです。 海の向こうに見えるのが、口永良部島(くちのえらぶじま)です。 ひょうたんの形をしており、観音様が仰向けに横たわっている様にも見えます。 その上にかかった雲が、まるでウサギのようでしょう。
2011/01/09
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8月の夏休みから、ずいぶんと間が空いてしまいました。 2008年屋久島旅行記も前半途中のままでぇ~。 世の中は年の瀬が押迫って、もう大晦日になりに申したこの有様。 皆々様には、お元気のことかと存知まするが、いかがでしょう。 と、なんだか変な文体ですね。 PCをしばらく冬眠凍結しておりました。 PCの調子がまったくのカメで、イライラの出っ放しだったから。 それもありましょうが、日常生活もそれにリンクしたかのように、嫌なことが目白押し。 それでも何とか生き延びました。 これは何かのカルマ(業)だと、今では心得ました。 わたしにとっては、一生のスパンでの激動の2010年でした。 小さな良いこと(^^)30%、長くて重い悪いことドーンと70%、そんな感じでした。 こうして1年最後の日に、振り返ると感慨深いものがあります。 それもそれも長くご無沙汰している方々、皆様のお陰です。 年が明けましたら、またゆっくりと一軒一軒ご挨拶に伺います。 今年1年どうもお世話になりました、素晴らしい新たな年をお迎えください。 2010年8月 屋久島にて 海の上に虹がかかり 向こうの島がウサギに変身 ぴょっと跳ねて 新しい年がやってくる ここは因幡じゃありません by小犬のロン
2010/12/31
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屋久島旅行記2008年が半ばですが、ちょっと中断します。 今年はちょっと早い夏休みです。 明日から3泊4日で旅行に行ってきます。 都会生活から離れて、しばし自然の中に浸って来ます。 この暑さと、都会生活で、もうクタクタです。 心身共にリフレッシュして帰って来ます。 行先は、今のところ伏せておきます。 みなさん、またお会いできることを楽しみに待っていてください。 それではまた ~ 去年、セドナへ飛んだ時の画像 ~
2010/08/06
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この日記は、2008年の夏に行った3泊4日の屋久島旅行記の一部です。 旅は8月6日、2日目の後半へ突入。 山登りと川遊びで疲れた身体を癒しながら、里へと降りていきました。1.山間のドライブ 1時間ほど川遊びをしただろうか。 心地よく水遊びをした我々は、また、来た道を降りて帰路に向かった。 安房へ降りる道すがら、屋久鹿と屋久猿に出会った。 3人とも大騒ぎで、カメラカメラと、シャッターを切った。 ~ 屋久鹿 ~ ~ 木陰から片目で睨む屋久猿 ~ ~ トリミングをする屋久猿 ~ ガイドのkimiさんいわく、屋久島の鹿も猿も本土のものよりは一回り小型だと言う。 そう言われればそのようだ。 鹿はシュッとスリムで素早い動き、猿は顔がまん丸で寝そべりまるでぬいぐるみのようだった。 島民も観光客も餌付けをしないので、人と動物、うまく住み分けているようだった。 その背景には、植物たちが織り成す豊かな自然があることは言うまでもなかった。 途中、見晴らしの良い場所で車が止まった。 山の頂上付近にそそり立つ刃のような突起が見られた。 太忠岳の山頂付近にある「天柱石」というものだとkimiさんが教えてくれた。 以前、敏感な感性を持つ女性とそこまで登ったと言う。 ~ 太忠岳山頂付近の「天柱石」 ~ 天柱石を背にして瞑想に入ったところ、その女性は色んな記憶がよみがえってきたという。 それは、太古のアトランティスやレムリアの記憶だったという。 そこへ登るだけで、ふらふらして来たという。 わたしもいつか機会があれば、登ってみたいものだと思った。2.再び宿へ 里まで降りて来て「ソフトクリームを食べませんか?」とkimiさん。 1番に喜んだのは大地だったが、わたしも満更ではなかった。 そこは、屋久島八万寿茶園という、お茶製品を中心にお土産品も並べてある小さなお店だった。 結局3人でソフトクリームを食べ、お土産品を物色した。 宿へ向かう車中、明日はどこへ行こうかという話で盛り上がった。 天候は、少し雲行きが怪しくなってきていた。 「雨だったら木霊の森へ、晴れだったらヒルの滝へ行こう」と、kimiさん。 虫の苦手なだいちは、ヒルに反応して、やだやだを連発していた。 宿に着いたのは夕方の5時頃だったように思う。 昨日と同じ八重岳山荘ロッヂ。 2人がしばし、宿の部屋で寛いでいる間に、わたしはカメラに没頭していた。 部屋の外付けデッキから、夕陽を連射した。 ~ 宿のプライベートデッキ ~ ~ デッキから杉林を通して夕陽が見える ~ ~ カメラのモードを変えてみました ~ 一休みしてから、夕食となる。 ウッドデッキ沿いに歩いて食堂へ。 さて、今日のご馳走は何だろう。 3人でわいわい言いながら、おいしい食事をいただきました。 ~ 2日目の夕食のお品書き ~ ~ ちなみに初日のお品書き ~ 以上で、2日目の旅の終わりです。 わたしがだいちをマッサージしているうちに妻は寝て、そのうちだいちも眠ってしまった。 10時半ごろ、それからわたしはデッキに出て瞑想空間、ゆっくり日記を書いて眠りに就いたのでした。 その頃からか、突然どどどどどっと雨の音がしてしばらくシャワーのようだったが深夜には止んだ。 さて、明日は晴れるのか(ヒルの滝)、それとも雨(木霊の森)なのか??? (つづく) ~ 山歩きのスナップ ~
2010/07/24
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この日記は、2008年の夏に行った3泊4日の屋久島旅行記の一部です。 旅は2日目へ突入。 一泊して、やっと朝から丸一日旅を楽しみました。1.宿の朝 ぐっすり眠って7時半頃に起き、3人で朝食を摂る。 ガイドのkimiさんは9時に迎えに来てくれることになっていた。 小1時間ほどの余裕があった。 だいちは、昨夕の川岸で遊びたいと言ってもう水着に着替えていた。 わたしも妻も一緒に行くことにした。 だいちは川に入り、潜っては小魚や小エビを追い回し、浅瀬で水と戯れていた。 わたしは、カヌーに乗ってのんびりと、思いつくままに川を散策した。 グイグイグイと漕いでは、スイスイスイと進み、ゆらゆらゆらと流れに任せる。 あーなんて気持ち良いんだろう~。 妻は、相変わらず、スケッチブックを出して風景を描写していた。 ~ 早朝の宮之浦川下流 ~2.屋久杉へ向かって 9時にkimiさんがやって来る。 車に乗り込み、旅が始まる。 車は南へ向かって走った。 「八重岳山荘ロッヂ」は宮之浦港近く、屋久島の北東部に位置する。 時計回りに南へカーブして南東部の安房あたりまで走った。 安房の道路沿いの弁当屋さんで昼ごはんのおにぎりを買う。 安房から山道を車で登り、屋久杉ランドを通って、宮之浦岳登山口まで向かうとのことだった。 ~ 途中、屋久杉ランドでトイレ休憩 ~ 途中で「紀元杉」に立ち寄る。 車で行ける、お手軽な屋久杉(樹齢1000年以上の杉)のひとつだ。 樹齢3000年、上方は朽ちかけているが、根元の方は豊かに生き生きとして、たくさんの他の植物が着生していた。 周囲は観光客用に手摺つきの通路が綺麗に整えられていた。 ~ 紀 元 杉 ~ ~ 紀元杉の根元に触れる ~ ~ 紀元杉の周囲は綺麗に整えられていた ~ kimiさんに言わせると「有名な屋久杉は、たくさんの人の目に触れられるから、ほとんどが弱っているね」 「この紀元杉しかり、縄文杉しかり」とのこと。 確かに、無垢の自然というより、人工自然といった感じもした。 「紀元杉」の近くで「川上杉」というのも教えてくれたが、こっちのほうがより生き生きとしていた。 ~ 車中から川上杉を撮る ~ 屋久島には、所々に水汲み場がある。 川からの水があふれる山肌に、人が汲めるように設えてあるようだ。 大概が竹の樋を通して水がちょろちょろと流れ出ている。 我々は、お昼の飲み水用にペットボトルに汲んで先へ進んだ。 ~ 水汲み場で水を頂く ~ 宮之浦岳登山口(淀川登山口)に到着すると、もうお昼近くだった。 ここでドライブは終了。 kimiさんは「登山口を登る前に昼食だね」と、反対側の山道へと案内してくれた。 そこには、ユニークな屋久杉たちが幾つか立っていた。 1本1本丁寧に観賞しながら山道を分け入る。 天にそびえるものや、こぶが出来ているものや、捩れているものや、様々である。 ~ 巨木の森の中へ ~ ~ 天にそびえる巨木 ~ ~ 瘤のある木とねじれる木 ~ ~ 屋久杉の根元はまるで蛇が這うよう ~ わたしが何より感動を覚えたのは、根っこの力強さであり、そこに着生する蛇のような植物の生々しさだった。 山道は、在るような無いような、よじ登るような傾斜だったが、立ち止まり立ち止まり、樹々に魅せられ、みんな元気に登って行った。 樹々や自然のパワーをもらっていたからだろうなと後から思う。 そこに点在する、屋久杉たちは、確かに生き生きとして自然の力をみなぎらせていた。 そして、とある屋久杉の足元にスペースを見つけ、昼食を摂った。 そこは、後にkimiさんが「巨木の森」と名づけた場所だったのだと思う。3.淀川小屋へ 「巨木の森」から引き帰えして、再び「淀川登山口」に戻る。 いよいよ登山だ。 とは言っても、およそ40~50分ほどの短い山歩きだった。 その道行きでも、いろんな植物を体感しながらの楽しい工程だった。 初心者でも楽しめる、快適な山行きだった。 ~ 登山道中 ~ ~ 登山道中2 ~ ~ 途中でヤクゴンに出会う ~ そうして辿り着いた所が、淀川小屋。 小さい小屋で、本格的に宮之浦岳まで登山をする人の為の休憩所の様だった。 淀川と言うくらいだから、そこには川が流れていた。 水の流れは穏やかで、沢もあり淀みもある川だった。 トイレを済ませた我々は、kimiさんに促され、川辺に降りた。 小屋の裏口辺りに、川へ降りられるちょっとした小道があったのだ。 水の好きなだいちは、泳ぎたいオーラをびんびんに発していた。 kimiさんが「泳げるよ」と。 結局、だいちとkimiさんとわたしが水着に着替えた。 そして、水に浸かって見ると、ありゃりゃびっくり、冷たいのだ。 5℃位だったろうか、天候も陽が射したり曇ったりで、そんなに泳ぎには適していなかった。 しかし、だいちは平気ですぐに川に身を浸け、潜ったり浮かんだり。 触発されてわたしも水に入り、気の向くままに上流の方へ進んで行った。 kimiさんもご一緒してくれた。 そう、ガイドなのだから。 途中、一人だけ浅瀬を歩いている人とすれ違ったが、後はほとんど貸し切り状態だった。 ~ 透明で素晴らしい水質 ~ ~ 恐る恐る水に入ってみる ~ ~ 元気な笑顔のだいち ~ ~ 水に浮かぶだいち ~ ~ だいち、泳ぐ ~ 浅瀬があったり深みがあったり岩や砂利の川辺があったりの淀川を、少しずつ上流へと進んでいった。 泳いだり、歩いたりの繰り返しで進んで行く。 わたしは、木々の間から差し込む陽差しで時々震える身体を温め立ち止まざるを得ない。 だいちは、何故か寒さを感じないらしく、そんなことも不要でずっと川の水に浸かっている。 思う存分水と戯れるだいちは、満足そうだった。 わたしも、とても楽しかった。 そんな風にして3人は、川と遊んだのだった。 妻はどうだったろう? 彼女はずっと起点の川辺で我々を眺めていたようだった。 帰りの車でkimiさんから聞いたことだが、淀川小屋の標高は1300M位だという。 日本の川でも屈指の高さだ。 そんな標高の高い川で泳いだ。 ということが、だいちにとって自慢の種になったということは言うまでも無い。 屋久島旅行の第2日目の半分までの道行きで、今日の日記を終わります。(つづく) ~ 陽が差し込む淀川の風景 ~
2010/07/17
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第1日目の後半です。1.宿へ 落すの滝で少々ワイルドな体験をした我々は、いささか心地よい疲れを感じていた。 何せ、当日の朝には都会にいてその日の午後にはもう、屋久島自然体験と言うことだったから。 車に乗り込むともう夕方の5時を回っていた。 kimiさんは、「今日のプログラムはもう終わりだから」と、宿へ向けて車を走らせた。 「明日は、雨だったら木霊の森、晴れたらもっと高地へ行こう」とかと言っていた。 そうして、スムースに宿にたどり着いた。2.宿にて 宿は、「八重岳山荘ロッヂ」と言って、宮之浦川の下流沿いの林の中にあった。 広い敷地内は綺麗に緑で整えられていて、まるで公園のようだった。 その中に、高床式のウッドデッキで繋がれたコテージ風のロッヂが並んでいた。 その中の1室に迎えられ、我々はやっと大きな荷物を荷解き、着替えをして親子3人水入らずで寛いだ。 ロッヂ群の端っこに、川へと降りる石段があった。 石段の横にはプラスティック製の一人乗りカヌーが置いてあって、誰でも使って良いようだった。 石段を降りると石組みで手入れされた川岸があり、川の中へと迎え入れているようだった。 そこを見つけただいちとわたしは、早速部屋に戻って、また、水着に着替えた。 夕食までには、まだ1時間くらいあった。 しばし3人でそこで戯れた。 宮之浦川の下流はすばらしい風景だった。 川の流れはほんの僅かで、まるで湖のようだった。 ~ 宮之浦川下流の夕方 ~ だいちはすぐに水の中に入り、小魚たちを追ってひとしきり潜っていた。 わたしも後から続いた。 そのうち、カヌーに挑戦したくなった。 だいちと2人でカヌーを担いで石段を降り、川辺に浮かべた。 ~ カヌーで遊ぶだいち ~ 今度はカヌー遊びだ。 だいちがひとしきり遊んだ後、わたしも漕いで見た。 すぐに慣れて来て、なかなか気持ちよい。 視線が川面に近く、目に入る風景も格段と変わる。 ~ カヌーからの見晴らし ~ カヌーには、むしろわたしの方が嵌ったという感じである。 かなり遠く上流漕いで行きゆっくりと川下りを楽しんだり、下流の岩場の方まで行ってみたり。 20~30Cmもある魚を見かけたりもした、浅い川底にはいろんな生き物が住んでいた。 その、のんびりさや、ゆったりさがわたしを惹きつけた。 わたしは、かつて友人からもらった野田知祐氏の本を思い出していた。 氏はカヌーイスト、リバーカヤックツーリングの先駆者で、日本のさまざまな川をツーリングして、数々のエッセイを残している。 愛犬のガクくんを連れて世界中の川下りにも挑んだことでも有名である。 今流行の、スローライフの先駆者とも言えるだろう。 ~ 水と戯れるだいち ~ 一方、だいちは再び泳ぎと潜りに熱中していた。 小魚を追い回して戯れていた。 時々、大きな魚も見つけたようではしゃいでいた。 妻は、その間ずっと岸辺に佇んで景色に見とれ、スケッチなどをしていた。 ~ 岸辺に佇む妻 ~3.1日目の終わり 7時に切り上げて、夕食。 これまた木作りの食堂で、オーガニックな食事をおいしくいただいた。 満腹になり、しばらく動けず、部屋でゆっくり寛いだ。 部屋には外に開かれたデッキがあり、そこで一服した。 その後、共同洗濯場へ行き3人で洗濯をして、入浴をした。 風呂場も共同だったが、誰も居なくて貸切状態となった。 いわゆる五右衛門風呂が3層ほどあり、ゆっくりと体の疲れを癒した。 その風呂場も木作りで、なかなか情緒のある空間だった。 部屋に戻り、妻にマッサージをしてもらい、だいちにマッサージをした。 そのうち、妻とだいちは寝入ってしまった。 9時ごろから、突然ざざざざと音が鳴り響いて驚いた。 30分位のかなり激しい通り雨だった。 わたしは、2人が寝入ってからデッキで日記を書いたり、深夜の写真撮影をしたりした。 実は、この旅のもうひとつの目的が、木霊の写真を撮ることだった。 しかし、この夜は、1枚も木霊が映ることはなかった。 「木霊の写真」って何だろうなぁ、と思いながら、わたしも眠りに入ることにした。 以上、屋久島旅行2008年の第1日目の記録でした。 ~ デッキからの景色 ~
2010/07/13
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2年前、2008年の夏の旅行記を綴ります。 4泊5日の屋久島旅行でした。 前段は、この日記をご覧下さいませ ⇒☆ カテゴリーも『屋久島巡礼』を新設し、そこに入れ込みました。 過去の断片的な屋久島関連日記をごらんの方はどうぞ。1.到着 さて、8月5日(火)に、妻と小6の息子のだいち3人で鹿児島空港から屋久島空港へ到着。 天候は快晴だった。 空港ロビーで荷物を確認。 妻とだいちは2~3泊用のキャリーバックで適度な荷物。 一方わたしはと言えば、海外旅行用の大きなボストンバックに携帯用ギターと、大荷物だった。 わたしが到着ロビーで荷物の受け渡しをしている間に、いち早く妻とだいちはガイドのkimiさんと挨拶を交わしていた。 わたしのボストンバックの重量を計ると、何と20数kgもあった。 わたしも遅れて、やっとkimiさんと初対面を果たした。 それからすぐに、kiniさんの車に荷物を積み込んで、旅が始まった。 ~ 屋久島空港に到着 ~2.ドライブ 屋久島周遊道路を快適に走る車の中でkimiさんとわたしは穏やかな会話を楽しんでいた。 後部座席のだいちが時々口を挟む。 だいちが「すぐにでもどこかで泳ぎたい」と言う。 kimiさんが「だいちくん、どこで泳ぎたい?、海・川・滝のどれ?」 だいちはしばらく考えた末に「川か滝・・・うーんやっぱり滝」と応える。 この時点で、kimiさんの中では1日目の旅の構想が徐々に出来上がっていたようだった。 なにせ、今回の旅はほとんどkimiさん任せなのである。 時刻は正午を回っていた。 先ずは、昼食の時間だ。 kimiさんは、「屋久どん」という屋久杉の民芸品で店内が飾られた素敵な食堂に案内してくれた。 kimiさんは車の中で休憩、我々3人はゆっくりと昼食をとった。 ~ お昼を頂いた食堂の店内 ~3.落すの滝 昼食が終わり、いよいよ屋久島ツアーだ。 先ず連れて行ってくれた所は、川が海に流れ込む突端の水場。 kimiさんが水晶を浄化する時によく使う場所との事だった。 そこでは、地元の親子連れやダイバーが賑やかに泳ぎやバーベキューを楽しんだりしていた。 我々は、しばし景色に見惚れ、川を中心に山の方や海の方を眺めていた。 足をちょっと川の中に浸けてみた。 冷たくて気持ちが良い。 だいちも同様、水際遊びに熱中し始めていた。 思わず泳ぎたくなったわたしだったのだが、kimiさんと妻は違う方向を見ていた。 今日は、ここはこの位にして、次へ行こうというのだ。 どこへ行くのだろうと思いながら、車に戻る。 それからおもむろに車は周遊道路を横切って、山の方へ分け進んで行った。 ぎりぎり車が通れる道幅の、玉砂利の悪路をグイングイン上下しながら車は進んでいく。 たどり着いたところは、ちょっとした砂利の空き地だった。 そこで車を降り、デイパックに水着とタオル着替えなど必要最小限の荷物を詰め、両手に軍手をして、歩き始めた。 しばらくは平坦な比較的幅広の道で、気楽なハイキング気分だった。 夏の日差しの下、小さな虫が、足元を飛び交い、地面に止まってはまた飛ぶといった様相。 『ハンミョウ』と言う虫だとkimiさんが教えてくれた。 道先案内人(虫)なのだという。 そう言われれば、その虫たちは、我々の行く先々を迎えるように飛び交っては止まっていたのだった。 ~ ハンミョウ ~ その気楽なハイキングが10分位で終わった後、いよいよ山道に分け入った。 それは、道と言えるようなものではなく、山肌の草むらを分け入って登る獣道だった。 kimiさん曰く、この道は地元の人にもあまり知られていない道なき道だよ、と。 足元に気をつけながら木々を掴みブッシュを掴みの山登りだった。 ~ 道なき道を行く ~ 妻は軽々と、わたしは飄々と、だいちは面白がって、わいわい言いながらkimiさんに続いた。 途中で、大木が倒れていたりして、道が変化していて、ガイドのkimiさんでさえちょっと道に迷うほどだった。 そんな山行きを20~30分くらい歩いただろうか。 「ほらその下に川が見えてきたよ」とkimiさん。 確かに、右下に川らしきものがありそうで、せせらぎの音が心地良く聞こえてきた。 もうすぐ滝に着くらしかった。 ~ せせらぎが聞こえてきた ~ ~ わっ滝だぁ!? ~ もう、わくわくで、噴出した汗も吹っ飛ぶ感じがした。 木陰から滝がみえた途端に、わたしは叫んでいた、「おおっ、滝だぁ~!」。 山の中腹に、木々に囲まれた滝があった。 それが、『落すの滝』で、先程行った海に流れ込む川(落す側)の上流だと知ったのは後のことだった。 早速みんな水着に着替えて恐る恐る滝壺に入って行く。 しばらくすると慣れてきて、冷たい水に身を浸けて大はしゃぎ。 わたしは滝の真下まで行き、滝行もどきをしたりして遊んだ。 妻は端のほうで身を浸すくらい、だいちは浮き輪を持って結局一番長く水に親しんでいた。 ~ 滝壺で水と戯れる3人 ~ わたしはひとしきり遊んだ後に、急に身体に震えが来て泳ぐのをやめた。 身体がぶるぶると震えていた。 岩場に立って、日光で身体を温めている内に、妙な誤感覚に見舞われた。 空の雲行きが怪しくなって雷も鳴り、滝の音にも錯覚を起したのか、雨が降ってきたのかと錯覚したのだった。 向こうの岩場にいる3人に、「えっ、雨、雨が降っている!?」と大声で叫ぶ。 3人は笑って、「お父さん、違う違う」とだいちが言う。 しかし、わたしの個人的な体験は、光の雨が降り注いでいるという表現しようも無いものだった。 後から考えてみると、30分の厳しい山登りの後、急に冷たい滝壺に入り体力を消耗し身体の体温調整がうまく行かなくなったわたしの身体の症状だったのだなと思う。 しかし、ロマンティックに表現すれば、聖なる滝壺の精霊に浄化され神秘体験を垣間見たとも言える。 ~ 斜めに隆起している周辺の地層 ~ 古来より滝は聖なるものとして扱われてきた。 最近では、スピリチュアルスポットの範疇に入る。 仏教僧や神主様が滝行をするのも心身の浄化の為であろう。 滝は水龍とも例えられる。 あながちわたしだけのロマンティックな妄想と片付けられるものでもないだろう。 その後、帰り支度をして、来た道を降りる最中もずっと両手はじんじんとしびれたままだった。 『ハンミョウ』の飛び交う大きな道まで降りて来て、やっとその身体症状も治まった。 いつもの自分に戻って、4人で談笑しながら車まで元気に歩いた。 以上が、屋久島旅行での最初の神秘体験だった。 屋久島旅行1日目の半分までの道行きで、今日の日記を終わります。(つづく) ~ 落すの滝 ~
2010/07/11
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しばらく、ネット落ちしていました。 約半年振りですね。 パソコンが不調だったことや、身辺のざわつき、わたし自身の不調などが主な理由でした。 ここにきて、やっとすべてが同期して復調の季節を迎えています。 やれやれ、これでやっとゆっくりと言葉を紡いで行けそうです。 と、言う事で、次回より長い間懸案だった、屋久島旅行記(2年分)を綴りはじめます。 どうぞよろしくお願いします。 今日の画像は、その、屋久島旅行からです。 ~ 宮之浦川下流 ~
2010/07/08
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『悪女になるための十箇条』・原本 ひとつ 人の言うことを気にしないこと. ふたつ 二人で居る時は限り無く素直であること. みっつ 皆と居る所ではテキトーに乗り切ること. よっつ よそのお家におじゃまする時は靴をきちんと揃えてから上がること. いつつ 何時までも少女であること. むっつ 昔の事はきっぱりと忘れること. ななつ 菜の花畑の中の菜の花一輪を憂えること. ここのつ 此処まで来ればもう一息. とう 通りすがりであるが故にすべてを委ねられること. Copyright(C) 1980 HOKUSUI-SHA All Rights Reserved.--------------------------------------------------------------------------- 久しぶりの日記です。 だんだんと肌寒くなってきた今日この頃ですが、いかがお過ごしでしょう。 わたしの方は、何をやっても何時もの様な流れになってしまって、日々絶句しています。 昔の歌を唄い直していたら、上記のことば遊び詩が出て来ました。 歌が出てきた頃の、雑多な読書からの触発で生まれたものです。 数え唄とでも言うのでしょうか。 ひぃ ふぅ みぃ よぉ ・・・・・・。 その頃の自分の稚拙さが目立って、少々お恥ずかしいものですが、メッセージを受け取って頂ければ、望外の喜びです。 昔の日記のコメントにポロっとこぼれてしまったので、ここに揚げることにしました。
2009/11/23
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探しても 探しても くるくる 廻って まわってね 気がついた時には 元の所へ戻って来ちゃった 途方にくれて上を向いたら 目の前に 赤い自動販売機があった ふう~ ``と、タバコを1本吸いましたとさ----------------------------------------------------------すがすがしい朝が来ました。岡山の空は ただいま 快晴です。
2009/10/12
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世界は 一瞬一瞬に 姿を変えている セドナの旅で ふと そんなことを 思い浮かべた素晴らしい体験でした♪今は手持ちが無いので、旅の写真は、おうちに帰ってからにいたします。じゃあねぇ~
2009/10/11
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長らくのお休みで、もう寒さが肌をたたく季節になってしまいましたね。10月にセドナへ行く旅の予定が入っています。現地インディアンのチィピに泊まり、スウェットロッジを体験し、ボルテックスというエネルギースポットを巡る予定です。そのあと、絵を描いて、アートセラピーを学ぶことになっています。セドナを頭の片隅において街を歩いていたら、書店で新刊本を見つけました。そこから、少し読書の旅が始まりました。『セドナへのスピリチュアルな旅』 銀色夏生 角川文庫『セドナ 天使の町』 相川七瀬 実業之日本社銀色さんの本は、スタンスがナチュラルで詩的なエッセイ風。スピリチュアルとの距離の置き方がなかなか良かったですね。一方相川さんの方は、思いっきりスピリチュアルな立場です。天の声が聞こえて来たり、人生の転機が訪れたり、そんなこともあるのかといった感じです。観光ガイド、タウンガイドの機能もあってそれなりに参考になりました。いずれの本も、1~2時間で読めてしまうくらいお手軽でした。
2009/09/23
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1週間前に屋久島から帰って来ましたが、今日からまた旅です。今度は東京から北へ向かい、目指すは新潟の長岡です。縄文の世界に浸り、長岡の花火大会を見て来ます。という訳で、屋久島の旅のご報告はまた来週、お盆にゆっくり綴りたいと思います。皆既日食の当日、屋久島は厚い雲の繭に包まれていましたが、皆既帯突入体験は堪能しました。数分間にわたる「昼間の闇」の到来に、やはり不思議な気持ちになりました。時々雨がぱらつき強風に吹かれる中、一瞬の静寂に身を包まれたようでした。宇宙的な営みにほんの少し身を添わせたひと時でした。皆既日食の前後、日本列島は荒れた気象に翻弄され、不安定な空模様でした。少し落ち着いてきた模様ですが、すっきりと晴れ渡る空にはもう少しといった所でしょうか。その真っ只中に衆議院解散があって、現在は政治空白、8月末の(歴史的?)総選挙へと歩みを進めています。さて、どうなるのか? 2009年の夏です。下の写真は、日食前日の夜明け前の桜島です。やせ細った月を見つけようと、鹿児島港南埠頭まで足を運んだのでしたが、見られませんでした。 ~ 鹿児島港の夜明け前(2009.7.21) ~
2009/08/01
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「青空が見えなくてうっとうしい」と言うボヤキが天に届いたのか、関東は梅雨明けと共に一気にすっきりした空模様になった。 ちょうど七夕と重なった満月辺りには、雲間から待望のクリアーな月が顔を見せてくれた。 水晶も、自分自身も、太陽の光と月の光を存分に浴びる事が出来た。 とても有難い事だった。 ~ 七夕の十五夜(辺り)~ そしてその日から、時々空を見上げては、対極にいた太陽と月が徐々に角度を狭めていく様相を、ワクワクしながら眺めていた。 月は徐々に身を細めながら、日に日に太陽との距離を縮めて行った。 時には夜空にポツリと浮かんだり、時には昼間の青空に白い顔を浮かべていたりした。 この距離が極限に至った時に、来るべき皆既日食が起こるのだなあと思いながら、わたしは旅への思いを膨らませながら、徐々に心を整えて行った。 そんな風にして、あっという間に月日は流れた。 皆既日食が起こるとされる22日の3日前、旅立ち前夜の準備に追われていたわたしは、夜更けまで眠れずにいた。 深夜3時頃の事、ふとベランダに出て東の空に目を向けると、そこには鎌の刃のようなクリアーな三日月が浮かんでいた。 昨夜のことである。 ~ 二十八夜の三日月 ~ この月の暗黒部分がやがて円にまで達し、月は姿を消す。 新月である。 朔月である。 そして今回ばかりは、昼間の太陽の前に突如として姿を現すと言う事である。 太陽と月が重なる。 太陽の光を月が塞ぐのだ。 『太陽と月の結婚』(by アンドルー・ワイル)!? 意識の統合!? 男性原理と女性原理の統合!? アルタード・ステイツ!? 変性意識!?・・・ZZZ ZZZ・・・ZZZ・・・ そんなことを思いながら何時の間にか眠りに就き、夢の無い短時間熟睡を得た。 そして、手短に旅の荷物を整えて、昼下がりの東京から夕暮れ時の鹿児島まで空を飛んできた。 鹿児島では、ちょうど降り続いていた雨が上がったところだった。 夕食後に港まで散歩を楽しんだが、空の雲間には合い間が見え始めていた。 三日月と言い、雨上がりと言い、もしかしたらこれは<良い兆し>かもしれない。 ◇ ◇ ◇ 明日は早朝からフェリーに乗り、お昼頃に屋久島へ入ります。 3泊4日の屋久島皆既日食体験ツアーの始まりです。 さて、今回の旅は如何なることになりましょうか。 旅は何より経過が大切です。 存分に、体験の中に身を投じたいと思います。
2009/07/20
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今年の梅雨は本格的だ。もうずいぶん長い間、すっきりと晴れたすがすがしい日には、とんとご無沙汰している。時折、梅雨の晴れ間が顔を出すことはあったが、直ぐに厚い雲に覆われてしまう有様だ。この半月ぐらいで、幾度か青空と太陽にはお目見えしたが、それもつかの間のことだった。お月様については、満月は言うまでも無く、欠けた月にはほんの1~2回しか拝めなかった。天気予報によると、東京では来週一杯もずっと曇り/雨マークが続いている。青空や紺碧の夜空が恋しい。そんなこんなで、私事もさることながら、うっとうしい日々を送っています。ふと、ブラッドベリの『すべての夏をこの一日に』を思い出しました。そのSF短編小説の舞台は金星、金星に住む子供たちの物語。 ◇ ◇ ◇そこでは、幾千年も、幾日も雨が降りしきる惑星と言う設定だ。そこで生まれた子供たちは、9才。7年前のある一日に、1時間だけ太陽が貌を見せたことがあったが、みんな思い出せない。ただ1人、地球に生まれ移住してきたマーゴウという少女だけが太陽の様相を知っていた。そして、今日こそは7年ぶりに太陽がその姿を見せる貴重な一日なのである。科学者たちが予告したのだった。マーゴウは、太陽を見たことの無い他の子供たちからは特異な目で見られ、一種のいじめを受ける。無邪気ではあるが、残酷な子供たち。もうすぐ太陽が貌を見せると言うその直前に、マーゴウは他の子供たちの悪戯で戸棚に閉じ込められてしまう。マーゴウにその瞬間を見せないという、心底の悪戯は無かった。ちょっとした悪戯だった。しかし、その時が来て、色めき立って先生の合図で校庭に駆け出す子供たち。すっかり、マーゴウの事なんか忘れてしまっていたのだった。科学者の予告どおり、厚い雲は俄かにかき消され雨がやむ。そこには、初めて見る燃え盛る太陽が輝いていた。ほんの2時間の間、子供たちは初めての太陽を驚きと共に享受する。子供たちはすべてを見、すべてを味わい、1時間もの間歓喜の中で走り回る。そしてまた、予告どおり、ポツリポツリと雨粒が落ち始め、太陽はまた消えていくのだった。俄かに雷鳴が鳴り、また雨が激しく降り始める。また、7年も降り続くのだ。そこでふと、ひとりがマーゴウのことを思い出す。「あっ」、みんなも気づく。「戸棚の中にとじこめたままだ」子供たちは、ゆっくりと戸棚のところへ歩いて行き、扉の鍵をはずしそろそろとマーゴウを外につれだす。 ◇ ◇ ◇そこでこの短編小説は終わっているのだが、まるで、マーゴウが太陽そのものだったような余韻が残る傑作である。この作品は『メランコリイの妙薬』(早川書房)に掲載されている。 SFの古典だが、3年前に改定版が刊行されているので、興味のある方はご一読を。あらすじをばらしちゃったけど、ブラッドベリはその着想もさることながら、文体をこそ味わうべき作家ということらしく、訳書でも充分その不思議な世界は味わえる。他にも、たくさんの秀作が入っているので、これを機会に是非ブラッドベリの世界に浸ってみるのも乙なものですよ。さて、以上の連想で当然思い浮かべたのは、今月22日に起きる天文現象、<皆既日蝕>のことです。日本列島で見られるのは1963年以来の46年ぶりのことで、次は26年後の2035年まで待たなければなりません。人生だいたい72年とすると(R.シュタイナーの説)、ちょうど足掛け3回となります。わたしは小学校の教室から先生に促がされて下敷き越しに見た記憶があります。部分日食でしたが、太陽が月のように欠けるのを見て驚いた記憶が微かにあります。2035年には、私自身生きているかどうかわからないので、是非この機会に体験したいと思っています。わたしは運良く、屋久島への遠出が確保できました。後は、当日の天候だけですが、是非晴れて欲しいものです。ちなみに、まぁ、2035年の皆既日食を見てからこの世を去りたいという希望もあるのですが。トカラ列島や硫黄島などでは皆既日食帯に掛かるので、その瞬間が見られますが、日本列島のほとんどの場所では部分日食になります。福岡で90%、東京で70%、北海道で50%だったかな、11時から正午あたりです。部分日食では真っ暗にはならないので、ややもすると見過ごしてしまいます。10%の光でも、太陽光は充分に眩しいのです。国立天文台の先生方が、裸眼で太陽を見ることの危険性を声高に広報していますね。悪くすると失明の恐れもあるそうです。是非見てみたいと思う方は、日食専用グラスを用意した方が良いようです。300円から1000円くらいで市販されています。しかし、未だにうっとうしい梅雨は続いていますね。今日は半夏生、田植えの時期ももう終わり。七夕の満月には晴れて欲しいですね。久しぶりにクリアーなまん丸お月様が見たい気分です。 ~ 雨の夜の風景(このオーブは雨粒でしょうか) ~
2009/07/02
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あっという間に、3週間が過ぎていった感じがする。その間、毎日PCを開き、幾つかのブログやHPにお邪魔して遊ばせていただいたりはしたのだが。どうしてか、何かを書く気にはなれず、ずっと観察者のわたしだった。インプットばかりが蓄積されていったが、如何せん、アウトプットが皆無だった。日常的にも色々なイベントが次々とあって、ブログネタには事欠かない状況なのだが、如何せん、筆が進まないのである。もっとお気楽にブログアップが出来ないものか、と思うのだが、腰が重く遅筆のわたしには到底無理のようである。毎日のようにさらっと確実にブログを挙げられる方たちは、わたしにとって憧れの的なのであるが、どうにもこの性格はなかなか変わらない。まぁ、いいっか。 ◇ ◇ ◇さて昨日、村上春樹の7年ぶりの長編小説が発売されて売れ行きがよろしいようだ。空前の出版不況の中で稀有な事だと、今朝のテレビで報道されていた。手元にある『1Q84』の奥付を見ると、発行/2009年5月30日とある。あぁ、今日が発行日なのだな。それで思い出したのが1987年9月のこと。『ノルウェーの森』が発行された時のこと。わたしは発行予告に胸をときめかせ、発行当日に買い求め、その日のうちに読了したのだった。夜から朝まで5時間くらいで一気に読んだので、正確には2日にわたったのであるが。読了の徹夜明けの朝、わたしはえもいわれぬ空虚感に襲われていた。ちょうど失恋の痛手を負っていたので、それも加味されて喪失感が身を満たしたのだろう。その後しばらく、わたしは発語不自由状態に陥ってしまった。 う・ま・く・こ・と・ば・が・で・て・こ・な・い のだった。開いた口がふさがらないと言うとちょっと違ったニュアンスになってしまうが、とにかく茫然自失で愕然としていた。ちょうどその直後に、沖縄で金環日食が見られるというので予定していた南方旅行も、そんな精神状態を引きずったままの旅行きとなった。いい迷惑である。まぁ、自業自得なのだろうが。1978年9月23日の朝、わたしは羽田空港を飛び立った。と、その旅の話はまた今度にしよう。さて、今年は少し間が空いて、後2ヵ月足らずの7月22日に皆既日食が見られる。場所は同じく南方で、今度は奄美大島から屋久島、種子島南部あたりということだ。日食観測ツアーも盛況のようで、航空券も宿ももう既に完売に近いらしい。わたしは1ヶ月前に手を打って、手配済みである。この話も長くなるので、また他日に送ろう。手元に『1Q84』がある。Book1、Book2の2冊。まだ読んではいない。さて、どうしようか。22年前のような同調は、もう御免こうむりたい。まぁ、わたし自身がしっかりしていればどうということも無いのであろうが。ちょっと心配であるが、その分、今から読むのが楽しみなのである。22年前の『ノルウェーの森』は、その後、日本列島を揺さぶるようなベストセラーになったが、『1Q84』はさてどうだろう。それも、また楽しみの一つである。今日は先日の新月辺りの夕日でお別れしよう。新月なので、お月さんはこの陽光のどこかに隠れているはずなのである。
2009/05/30
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GWの後半、東京は雨に見舞われた。5月5日のこどもの日、ちょうど立夏だと言うその日から雨が降り始めた。強い雨ではなかったが、空は雲に覆われ、断続的に雨粒が降り続いた。こんな長雨も久しぶりの事だった。逢う人会う人、浮かぬ顔をしていた。我々の気分は気象に左右される。人ごとに 「何時になったら晴れるのかなぁ」 と言う話題が口をついた。空気も肌寒かった。仕方なく、昨日は一度仕舞っていたコタツを、また出したりした。3日に出した鯉のぼりも雨ざらしで、仕舞うに仕舞い切れず、ずっと出しっ放し。ちょっと寒そうで、日光の日差しを待ち望んでいるように見えた。そんな日々も4日を数え、満月を待ち望む夜が明け、やっと今朝、空は晴れわたった。雲ひとつ無い快晴。今日は一日、青空に恵まれそうである。うれしい気分。夜にはきっと、素晴らしい まん丸お月様 が顔を出す事だろう。京都鞍馬寺では、ウエサク(五月満月祭) と言うお祭りが催されるらしい。何やら、夜を徹してこの満月にお祈りをするそうである。今年は土曜日なので、沢山の観光客が押しかける事だろう。わざわざ京都まで行かなくても、満月は見られるだろうにねぇ。ネットで調べてみると、あるHPで以下のような記述があった。『五月の満月には 天界と地上の間に通路が開け、ひときわ強いエネルギーがふりそそがれるという。この夕、満月に清水を捧げ 心の灯を輝かせつつ、ふりそそがれる神秘的な力を身に受けて、自分とすべてのものの「めざめ」のための熱い祈りを捧げるのが、光と水と聖音の祭典「五月満月祭(ウエサクさい)」ということです。』また、別のHPでは次のように説明されている。『ウエサク祭の起源は、釈迦の降誕、悟りを開いた日、入滅の日が、全てヴァイシャーカ(Visakha)月(インド歴第二月)の第一満月の夜であったという伝承から来ており、占星のカレンダーに従って、ウエサク祭の期日は決定されます。ヴァイシャーカ(Visakha)月の満月は、太陽が雄牛座から登る日(4/21~5/21頃)であり、旧暦では四月十五日になります。我々が使用している太陽暦(グレゴリオ暦)では四月から五月頃の満月にあたるということから、結果的に概ね五月の満月に当たることになります。また、ウエサク(Vesak/Wesak)という言葉は、ヴァイシャーカ(Visakha)が変化したものです。ウエサク祭は仏教がインドから広まったとき、アジア各地(チベット、タイ、ミャンマー、スリランカほか)など多くの国の文化に伝播し、それぞれの文化特有の方法で行われています。』 なんだか、前の日記で紹介した、キリスト教圏のイースターを彷彿とさせる伝承である。古来から、人類は満月にはひとしおならぬ思い入れがあるようだ。地球から見える天体の中で、月は太陽と共に最重要の星に違いないのだ。日中の空の中に燦然と輝くお天道様。夜空にぽっかり浮かぶ異様に大きいお月様。いずれも我々の身体と精神に莫大な影響を与え続けて来たのだろう。それは、今でも、そしてこれからも変わる事はないだろう。自然の恩恵のひとつである。さて、今日はほぼ全国的に晴れに恵まれるらしい。皆さんは、どこでこの満月を仰ぎ見られる事でしょう。ふと、どこかで見かけた時には、そっと心の中で手を合わせるのが良いでしょう。鋭敏な人であれば、何かを感じる事でしょう。わたしも、どこかで試してみようと思います。さてさて、我が家はこのGW、特にどこにも出掛けずにゆっくりと自宅辺りで休日を楽しんだ。TVやDVDで映画を観たり、CDで音楽を聴いたり、本を読んだり、ドドニ(犬)と遊んだり、雨の中の買い物を楽しんだり、たこ焼きを作って食べたり、・・・そんな、何気ない日常を家族で過ごした。まぁ、<ささやかな幸せ>と言った感じなのだった。 ◇ ◇ ◇そんなこんなで羽を伸ばして、このブログも手付かずに過ぎてしまいました。今日はこんな感じで失礼します。ちょっと息抜きの日記となりました。今日は、遠方より友が来たりて、上野の『阿修羅展』へ行ってきます。久々の遠出です。ちょっと、うれしい気持ちです。 ~ 鯉のぼり&トドニ(5月4日) ~ ~ 今朝の鯉のぼり(5月9日) ~
2009/05/09
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となり町の福祉施設のフリースペースで、月に1回開かれる「歌の会」に毎月出向いている。ボランティアと言う立場でギター伴奏をするのがわたしの仕事だ。メンバーは20代から60代まで多岐に及ぶ。その日立ち寄った人たちが自由に参加できる。参加するもしないも各自の自由だ。その日によって人数はまちまちだが(天候に左右されたりする)だいたい5人~10人くらいの人が集まる。各自が唄いたい歌を出し合って、原則としてみんなで唄う。歌のリクエストは、季節の歌や、各メンバーの思い入れのある歌になる。みんなで唄うことに適さない歌や、メンバーの特別な希望のある場合は、ソロの披露となる。わたしはずっとギター伴奏なのだが、毎回1曲だけはソロを唄わせてもらう。約1時間のセッションが終わると、一人ひとり感想を言い、次回の歌のリクエストをする。わたしが知らない歌があがった場合には、1ヶ月かけて予習をすることになる。わたしにとってその会は楽しみでもあり、新しい歌を覚えるのに良い機会となっている。徐々に、歌のレパートリーが増えていくのだ。 ◇ ◇ ◇さて、先月=3月の例会でのこと、ちょっとしたアクシデントがあった。ギター伴奏中に、こともあろうか、わたしの指が攣ってしまったのだ。もう30年数年ギターを触っているが、初めての経験だった。その日は、雨上がりのうす曇り。春の寒の戻りで、肌寒い午後だった。前半が終わり、屋外で一服し少し身体を冷やした後の事だった。後半1曲目は、『おぼろ月夜』でスタートした。 ♪~ なのは~なばたけ~に い~り~ひうすれ~~ ~♪聞き覚えのある唱歌だったので、予習などしていなかった。初見でコードを爪弾いて、みんなで歌って行ったのだったが、何かがおかしい。どうもリズムがおかしい、小節の中間など、変なタイミングでコードが変わるのだ。「何か変だな」と感じながら、少し後味が悪い感じでその曲は終わった。さて、次の曲は『知床旅情』、思い入れのあるメンバーがソロで歌いたいと言う。「これはお手の物」と前奏を弾き始めたのだが、ちょうどGからDのコードに移行しようとした時のこと。Gのコードで伸ばしていた左手の人差し指を、Dのコードに移ろうと曲げようとした所、曲がらないのである!なんと、最も簡単なコードの1つであるDのコードがうまく押さえられない!思わず「えー!?」とつぶやきながら、うろたえていた。「おかしい、おかしい、指がおかしいや。」と。わたしは自分の身体に起こった異変にびっくりしながらも、ある所でその新鮮な初めての体験に喜んでいるような所もありつつ、ウロウロしていた。そして、ギターを置いて何気なく席を立ち、ソファーのある一角まで歩いて行く。みんなを前にして「何だろうね?これ!」と、自分の左手を持ち上げてそれを眺める。人差し指は伸びたままで、他の指は少し曲げている。人差し指を曲げようとするのだが、ピクリとも動かない。一瞬自分の目を疑うが、まるでマネキンの指のように伸びたまま。壊れたロボットのような自分に驚く。「えー!?何?これ、脳がやられたのかなぁ?・・・」とつぶやく。左手の人差し指に痛みは全くないのだが、とにかく動かない、制御できないのだ。「おかしいねぇ」と苦笑いしているわたし。わたしの異変に気づいたみんなは「今日はもうやめようか」とか「後はアカペラでやろうか」とか気遣ってくれてとても優しい。それで少し冷静になり、右手で左手を擦ったり合掌したりしてみると、少しは感触があるようだ。少し安心して、右手で左手の五指を曲げたり伸ばしたりのストレッチをしてみると幾分良くなった。左手の人差し指も、徐々に感覚が戻り、いくらか動かせるようになった。ちょっと一安心である。席に戻り、ギターを抱いて少しいじってみる。左手の人差し指はまだ少し痺(しび)れていたが、何とかなりそうだ。でも、場が中断されて、みんなも何か不安そうである。以上、2~3分の中断を挟んで、さあどうしようか・・・。ちょっと考えて、手元の楽譜を見ながら、打開策が浮かんだ。「わかった! じゃあ、ここでちょっと自分の歌を唄わせてもらうよ、そうすれば大丈夫になる」とみんなに言った。で、唄うことにしたのが『のんびり行こう』と言う自作の歌である。歌詞の内容もピッタリだし、この歌を唄えば平常の自分に戻ることが出来ると直感したのだった。わたしは、何か懐かしく暖かいものに戻るかように、この歌を求めた。 ♪~ のんびり行こう あわてることはない 大事な何か なくせばいいだけ 大事なものが 多すぎて困るよ 本当に大事なものは なあに ~♪わたしは、ゆっくりと噛みしめるように唄い出した。 ♪~ 大事なことは 自分でいることさ 見知らぬ友だち たずねて来た ~♪ 大事なポイントは、6年前に作ったこの歌の歌詞にすべて言い現されている。そう、わたしはちょっと自分の歌を忘れてしまっていたようなのだ。誰かの歌を唄う事、伴奏する事は、その作者のリズムや調子に気持ちを合わせるという事だ。それがあんまり高じて来ると、自分のリズムや調子を崩してしまう事になりかねない。なんだか、そんな体験をしたと思っている。自分の歌を唄うことによって何とか自分を取り戻したわたしは、その後『知床旅情』に続き、以下5曲ほどの伴奏の役目を無事果たす事が出来た。相変わらず、左手の人差し指にはあまり力が入らなかったが、何とかなった。お陰さまで「歌の会」はいつものように、楽しく終了した。 ◇ ◇ ◇ブログ仲間の ぴあの@サファイアさん が丁度タイミング良く、『おぼろ月夜』の秘密について興味深い日記をUPしてくれた。それに触発されるように、この日記も記事にする事になった。後から振り返ってみると、わたしはこの曲を何気なく4/4拍子で演奏していたらしい。楽譜を良く見ると、これは3/4拍子の歌だった。演奏して唄った後に、なんとなく違和感を感じたのはそのせいだったようだ。あの違和感は気のせいではなかった。そこでリズムが狂ってしまったのかも知れない。まぁ、でも、ぴあのさんの調べによると、『おぼろ月夜』と言う曲自体がちょっと曲者なのだとのこと。自然な日本語の抑揚がうまく乗らないような曲なのらしい。わたしはちゃんとアウフタクトをつけた4/4拍子で次のように唄っていたようだ。♪~ なの/は~なばたけ~ /に い~り~~ひ/うすれ~~ みわ/た~すやま の~/は か~す~~み/ふかし~~ はる/か~ぜそよふ~ /く そ~ら~ ~を/みれば~~ ゆう/づ~きかかり~ /て に~ほ~~い/あわし~~ ~♪本来の、アウフタクト付きの3/4拍子では以下のようになる。♪~ なの/ は~なばた / け~に い / り~ひうす / れ~ みわ / た~すやま / の~は か~/ す~みふか / し~ はる / か~ぜそよ / ふ~く そ~ / ら~をみれ / ば~ ゆう/ づ~きかか / り~て に / ほ~いあわ / し~~ ~♪どちらにしても、言葉とメロディーがうまくかみ合っていないように思うが、それがこの曲の特色なのかも知れない。長く愛唱されてきた歌には、何がしか魅力があるのだと思う。 ◇ ◇ ◇「自分の歌を唄い続けていく事」が大切だと前回の日記に書きましたが、さて、自分の歌とは何でしょう。それは自分で作った歌でなくても構わなくて、自分が親しんで思い入れのある歌なら何でもいいのだと思います。そして「自分の歌を忘れてしまったらこんな事になる? 」というようなお話をしました。まっ、それも、わたしの思い込みに過ぎなかったのかも知れませんが。あなたの自分の歌は何でしょうか?今夜は、昨日の三日月の写真でお別れしたいと思います。それでは、また。 ~ 突然お月様に会った夜 ~
2009/04/28
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昨夜のこと。深夜3時に目が覚めて、気が付いたらコンサート会場で大勢の人の前で唄っていた。唄いながら興奮して目が覚めた。まあ、夢なのであるが、それはこんな内容。---------------------------------------------------------------------------芝生のような観客席で、コンサートを楽しんでいる。それはロックフェスティバルか何かで、次々に色んなアーティスト達が自分の持ち歌を披露していく。会場はにぎやかで、ロックでギンギンに盛り上がっている。わたしは遅れて来たようなのだが、なんとか場の雰囲気に溶け込もうと身体を揺さぶっている。リズムに乗って、なんだかイイ感じで、徐々に乗って来る。そこでふと、MCのタモリさんがわたしを指差して、「次はあなた!」と紹介される。「えっ僕!?」と、びっくりするが、手持ちの楽譜をめくり始める。「あれが唄いたいな~」と目当ての曲を探すが見当たらない。「あれっ、あれっ!?」と、慌てふためくが見つからない。かなり会場を待たせてしまったので、仕方なく、次善の曲に決める。ステージに立って唄い始めるが、楽譜のコードが見にくく、しかもページが捲れたりして、足で直したりしている。その間も歌い続けていて、幾つかコードを間違えたりする。でも、会場は手拍子のリズムがしっかりしていて、コードの間違いもあんまり気にならない。わたしはしっかりと唄っている。---------------------------------------------------------------------------という所で目が覚めたのだが、実際に声に出して寝言(寝歌)を唄っていたかどうかは分からない。しかし、わたしの頭の中ではしっかりと音楽が鳴り響いていた。わたしが夢の中で唄っていた次善の曲は、自作の『素粒子の唄(1)』と言う歌。 ♪~「心に愛を」などと 言い廻ってみても 誰もあんたの言葉など 聞いちゃいないさ ~♪と言う出だしで、布教に勤しむ宗教の人たちを少し皮肉って唄ったものだった。 ⇒全文わたしが本当に唄いたかった(探していた)のは『素粒子の唄(2)』の方で、よく考えてみるとこれはコードも丸暗記しているので、実は楽譜なんて探さなくても良かったのだと後から気づいた。夢の中では、何であんなに慌てて、楽譜に頼ったりしていたのかと思い直した。そうか、人前で唄うには完全に自分のものにした歌じゃないとだめなのだなと思い至った。『素粒子の唄(2)』の出だしは以下のようなもの。 ♪~ 毎日 まいにち 疲れるのは 心が じたばた してるから 何を そんなに 守ってるのか 何が そんなに 大事なのか ~♪これは、自分の十八番を後生大事に守ろうとする自閉気味の青年である自分に反旗を翻し、開放を促すメッセージソング。 ♪~ 心の底にしまいこんだ あんたの十八番を出してごらん~ ~♪ ♪~ あんたが思ってるあんたなんて たかが知れたイリュージョン ~♪と続く。 ⇒全文いずれも、今から30年位前に作った歌で、未だにそんな歌を持ち続けているわたしである。完全に目が覚めてから、自分が本当に唄える歌/唄いたい歌は何だろうと考えた。すると出てきたのが『のんびり行こう』である。 ♪~ のんびり行こう あわてることはない 大事な何か 無くせばいいだけ 大事なものが 多すぎて困るよ ほんとに大事な ものはなあに ~♪と言う出だしで、これは6年前に歩きながら出てきた歌。 ⇒全文夢にも如実に現れているように、妙なところで慌て症のわたしには今でも有効な自戒の曲である。ちょっと一息入れて、先ずは自分を取り戻す事が必要。でーんと構えて、今ある自分を腹から唄えと教えてくれる。ちなみに、昨夜の夢の教えは、「自分の歌を唄い続けること」ということだ。歌に限らず、人生で自分の歌を唄っているか。自分をちゃんと表現しているか。自分自身を生きているか。そんなことを問いかけてくる。それには、何にも頼らず自分にリラックスしている事が大切なんだねぇ。 ◇ ◇ ◇実はこの歌には後日談があるのですが、それは明日に見送ります。何だか今日は、自分の歌のオンパレードになってしまいました。相済みませぬ。手前味噌でした。 ~ 春の桜空 ~
2009/04/23
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一昨日の日曜日、午後から妻が地区会館の絵画サークルへ出かけて行ったので、だいちとわたしの2人が家に残された。トドニは、自分の好きな場所を見つけては、もっぱら寝てばかりなので、その存在が気になることはない。という訳で、父子水入らずのイースターの午後となった。何気なく撮り溜めたビデオを観ることになった。ちょっと前にTVでやっていた「逃走中!」という番組。テレビ鬼ごっこである。実際の都会の街の早朝、テレビタレントたちチャレンジャーが、ハンターと呼ばれる屈強な男たちから逃げ回る。1秒100円の換算で賞金が刻々と増えて行き、約2時間逃げ果せると、約70万円がもらえる。しかし、無事ハンターに捕まらず逃げおおせた場合に限る。チャレンジャーには、時に応じて様々なミッションが与えられる。カメラは逃げ回るチャレンジャーたちの挑戦や狼狽、ハンターたちの無表情を捉える。かつて狩猟民だった頃の我々のDNAに埋め込まれているのか、追うもの/追われるものの必死な姿がエキサイティングなスリルを呼び起こす。何ということもない番組だが、娯楽番組としてはなかなかに出来たものだった。だいちとわたしは、それぞれ好きなことをしながら何気なくテレビを眺めていた。 ◇ ◇ ◇そんな中、録画DVDの整理をしようと筆ペンを使っていたら、だいちが「貸して」と手に取るやいなや落書きを始めた。「そうか」と気付き、だいちの小学校のお習字の道具を出して来た。テーブルに新聞紙を敷き、硯に墨汁を入れてセットして真ん中に画用紙を置いた。「筆ペンより本物の墨と筆のほうが良いよ」とだいちに呼び掛ける。すると、だいちは前夜からテーブルの上にあった籠の中のゆで卵を手に持ち、それを硯の池に入れて墨汁をまぶし始めた。墨汁に覆われて黒光りしている卵は異様な輝きを放っていた。黒卵という異様。「僕はこれで描くよ」と言いながら、画用紙の上を転がし始めた。自由に絵を描くことはできない。しかし、卵型である故に、卵の動きが面白い。あっちへ行ったりこっちへ来たり、急に向きを変えたり。そして、その足跡が画用紙に線を残して行き、それが絵になっていく。恣意と偶然によって出来た、ちょっとした抽象画だ。 ~ 卵の軌跡の抽象画 ~しばらくその黒卵の滑稽な動きに見とれた後、わたしはふと思いつきゲームを提案した。画用紙をサッカー場、両側に置いた文鎮をゴール、卵をサッカーボールに見立てて、テーブルサッカーをしようという物である。わたしはテーブルの向いに席を移し、さぁキックオフだ。最初のルールは、手を使わず息を吹きかけて卵を動かすというもの。卵が手前に来るのを待ってから、一気に「ふぅー」と息を吹きかけるのがコツ。肺活力の大きいわたしの方が断然有利で、すぐに勝敗はついた。勝敗のことはそっちのけで、「あったま、いてーっ」とだいちが突然叫ぶ。そう言えばわたしも、・・・2人とも息を吐きすぎて頭が酸欠になってしまったようだ。それで、次は両人差し指だけ使っても良いルールに変更した。これだと、それ程ハンディはない。ひとしきり2人で夢中になった。画用紙が適度に黒くなった所で紙を換え、何度か繰り返す。結局、計8枚の画用紙を使った所でほぼ終了した。2人とも、黒卵遊びには、もう飽きてしまったのだった。 ~ テーブルサッカー ~ ~ 戦いの跡 ~しばらく休憩して、わたしは引出しから書初め用の細長い半紙を見つけ出して来た。そして、お習字を始めた。何を書こうかなと思ったが、イースターなので「復活祭」に決める。そして練習を始めた。半紙は計3枚しかなかったので、3枚目でもう清書だ。だいちが近づいて来て「お父さん、<祭>の字が違うよ」と正しい字を教えてくれた。久しぶりに筆を持ったりすると、勝手が違って覚えている筈の字を、うっかり間違ったりする事は良くあること。清書を書き上げたところで、こんどはだいちが書く体勢に入ったようだった。わたしはまた引出しから「懐紙」という便箋大の紙束を出して来て下敷きの上においてやった。1枚に1文字書くのに丁度良い大きさだ。「何を書こうか?」と言うので「まずは自分の名前から書けば」と言うと、素直に書き始める。自分の名前の2文字を練習した後、気がつくと、だいちは「羊」や「竜」を書いていた。「お父さん、<竜>の難しい字を教えて」と言うので「龍」を教えた。だいちは何枚か練習していた。そこで、「丑」や「寅」を教えたが、これにはあまり興味を示さなかった。しばらくすると、「この字、カッコいいから教えて」とマンガ本を持って来た。それは「覇」と言う漢字だった。「覇龍」というゲームのキャラクターの名前だった。だいちにとって<龍>は一つの憧れなのだろうが、<覇龍>とは(龍の中の王だろうから)すごいなと思った。「ふんふん、<覇>はかっこいいよな」。放っておくと、そのうち、だいちは「封」と言う字を4枚書いて、書き終えたようだ。面白いことに<封>の字の四隅に点を打っている。きっと、封印とでも言いたいのだろう。「これで終わり」と言う声が聞こえてきそうである。 ~ 2009年春のお習字 ~一息ついて、2人とも休憩した。たくさん遊んだのでようやく自分に戻れた気がした。テーブルの上を見ると、まだ手をつけていないゆで卵が2つ残っていた。我に返り、わたしはようやく目の前のイースター卵に向き合うことにした。筆を執り、墨を塗り始めた。例年であれば、だいたい色を付けて卵を飾るのだが、今日は黒1色でも良いと思った。筆の動くままに試しにやってみたのが1作目だ。幾分荒い、うろこ模様の卵が出来た。これは、ものの3分と掛からなかった。ちょっと面白みに欠けるので、最後の卵はもっと繊細に小さなかけらを描いていこうと決めた。一部分を描いて思ったが、これは結構しんどい。細かい神経も使うし、相当の集中が必要だとわかった。わたしはメガネをはずして卵と筆に集中した。休み休み、トータルで2時間ほど掛かっただろうか。やっと出来上がったのが、豹柄卵=完成形となった。自分なりに、満足感があった。今年のマイ・イースター卵だ。 ~ うろこ卵と豹柄卵 ~ ~ 2009イースター卵 ~だいちは素早い。わたしが豹柄卵に熱中している間に、さっきのサッカーボール卵で何やらやっている。墨で描いた卵は水で流すとすぐに元に戻る。だいちは卵を洗っては塗り、洗っては塗りしていた。よくよく気をつけないと、やはり真っ黒に塗ってしまうらしい。だいちは何度も失敗して、そして、「出来た」と言って持って来た。水道で薄洗いして、グレーに色付いた卵を完成形にしたようだ。なかなかこれも傑作だ。 ~ 薄墨卵 by だいち ~妻が帰って来て、だいちと2人で豹柄卵=完成形を見る。妻が「なーに、気持ち悪い!」と。だいちはしかし「でも、スゴイ!」と。だいちは、わたしの豹柄卵=完成形を見てちょっと触発されたらしい。そして「もう少しやる」と言い出すが、もうゆで卵はなかった。すると、冷蔵庫から生卵を出して来て塗り始めた。今度は、白く残すことを忘れなかったようだ。冷蔵庫にあった3個すべてに模様を描いて満足したらしい。そんな風にして、イースターの午後が過ぎていった。 ~ 白黒模様の卵 by だいち ~ ~妻が造形教室で作ったイースター卵~子どもと一緒の何気ない日常。あてどもない時が過ぎて行った。しかし、そのあてどもなく過ぎ去っていく時間に身を置くことが心に滋養を与え、エネルギーの注入になる。そんなホリディーだった。そして、その午後のひと時に出来上がった足跡たちが作品となる。作品は作者の人となりをそのまま映す。顔写真や風景は挙げられないが、代わりに作品でブログを飾る。そう、これらは、2009年の我が家のイースターのスケッチである。 ~ 2009イースター卵の勢ぞろい ~----------------------------------------------------------------------------ウキペディアで調べてみたら、4月12日(日)をイースターとするのは、グレオリオ暦を用いる西方教会流だと言う。ユリウス暦を用いる東方教会では、4月19日(日)をイースターとするらしい。今ではキリスト教のイエスの復活の故事に結び付けられている祝祭日なのであるが、きっとそれ以前からあった季節の節目の祭りだったと思われる。いずれにせよ、春のこの時期に、季節の節目を祝うお祭りであろうことに間違いはない。多産の象徴である卵やウサギがシンボルとして使われる。我が家は、特にキリスト教にこだわりはしないし西欧主義でもないが、縁あって毎年我が家流に楽しませてもらっている。
2009/04/14
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あっという間に時は流れ、前回から3週間ほどが過ぎてしまいました。その間、いろんなことがありました。息子のだいちが小学校6年間の就学を終え、中学生になりました。卒業式、写真撮影、入学式などなど、イベントが目白押しでした。今年は異例の長期に渡った、桜の開花から満開まで。気まぐれな春風の中、桜たちに見守られながら、木の芽の季節を送りました。6年というのも一つのサイクルで(3X2)、振り返ると感慨深いものがあります。丁度、だいちが小学校入学と同時にフルタイムの仕事を辞め、仕事を減らして子どもと一緒の時間を増やした自称:兼業主夫のわたしは、子どもの小学校生活と共にたくさんの事を学びました。家事にも大分慣れて来て、妻からのお小言も少なくなって来ている今日この頃です。放っておくと自分の興味に熱中してしまい、知らぬ間に時を過ごしてしまうわたしには、日常の家事や諸事も良い人生勉強になったようです。ま、そんな6年が終わり、新たなサイクルを迎えているような気がします。この春は、WBCでも日本の野球侍たちが素晴らしい戦いぶりを見せてくれ、言うことなしです。韓国チームも良くがんばりましたね。「筋書きのないドラマ」と言う表現に違わぬ素晴らしい大会でした。そして、今年は天皇御成婚50年と言う節目でもあると言います。テレビでも、開局50年とか55年とか、節目を強調する雰囲気に満ち溢れてています。2009年春は、わたしにとって記憶に残る春になりそうです。 ◇ ◇ ◇さて、一昨日辺りが満月でした。天候にも恵まれ、澄んだ夜空には美しいお月様が光を放っていました。日中は5月とも言えそうな穏やかで暖かい日差しが差し込んでいます。遅ればせながら、わたしは昨日から手持ちの水晶や石たちを水洗いしてベランダに並べ、月光浴・日光浴と浄化に勤しんでいました。石を洗うと、気持ちも洗われるような気がします。そして、石たちに音楽を聴かせたりして土曜日の午後が過ぎていきます。春分の後の満月の次の日曜日がイースター(復活祭)と言うことで、今年は明日がイースターとなります。東京の天候から行くと、ベルベット・イースターとは一味違う、クリアー・イースターになりそうです。それで、と言うわけでもないのですが、今日は午後から卵を茹でました。6個茹でて、1個を昼食で食べました。明日は、残りの5個で、イースター卵を楽しもうかと思っています。下の写真は、ある日のトドニくんです。桜の花びら絨毯の上で「コン二チハ」です。 ~ トドニのご挨拶 ~
2009/04/11
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この一週間は、WBCの経過で揺れに揺れていた日本列島だった。しかし、WBCというプロのベースボールばかりに熱中している場合でもないと、ふと思った。春の選抜高校野球が、今朝開幕した。第一試合の、金光大阪vs倉敷工戦を観戦していると奇妙な感覚を覚えた。試合のテンポがまったく違う。高校野球は、やはり、溌剌としていて小気味良い。ミスをしてもそれ程引き摺らないし、試合の運びにも爽やかさに溢れている。まぁ、上記の試合が好試合だったからなのかも知れないが、正直、忘れていたものをふと思い出した気分になった。ちょうど今、試合が終わり、結果は34年ぶり出場の倉敷工が初出場の金光大阪を延長12回サヨナラで11x-10でからくも破った。両チームに拍手を送りたいゲームだった。 →試合結果速報なんだか、時期も時期、WBCの日本チームへも良いメッセージを送っているように感じる。原監督をはじめ、イチロー、松阪、ダルビッシュ、岩隈、・・・みんな高校野球で全国デビューし育った選手たちだ。負けたら終わりというトーナメント方式での戦い方は知りに知ったお手の物のはず。まぁしかし、勝負は水物だから、結果がどうなるかは誰も知る由も無いことだ。しかし、しかし、結果(勝ち負け)だけが全てじゃない。勝ちも勝ったり、負けも負けたり。勝者・敗者両方に、惜しみない拍手を贈りたくなるようなゲームが望まれる。そのようなゲームには、観たものを楽しませ、どちらを応援していた者にも同じようにカタルシスをもたらすような力がある。そんなゲームが観てみたい。いよいよ明日から、WBCも決勝トーナメントに入る。勝敗だけではない、ベースボール/野球の素晴らしいスポーツ・ショーを見せてほしい。一瞬先も分からない手に汗握る至福の時間を、また、味わいたい。まぁ、贔屓はやはり侍ジャパンなのだが、ぎりぎり勝敗は問うことはしまい。ベストフォー4カ国、各チームのそれぞれの戦い方を見せてほしい。真剣な凌ぎ合いこそが、素晴らしいゲームを生むだろう。健闘を祈る。 ◇ ◇ ◇・・・ということで、久しく止まっていたこのブログも復活の狼煙を上げます。諸事情あって、約半年間、ネット絶ちをしていました。中断していた、昨年の屋久島紀行も、改めて挙げて行こうと思います。それでは今日は、これ位で。。 ~ 桜島の噴煙 ~
2009/03/21
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今日は全国的に雨模様のようです。 東京もこれで、5日間、雨が断続的に降り続いていることになります。 わたしは、雨嫌いではありません。 台風一過の晴天には適いませんが、雨の日は結構好きです。 さて、旅のご報告が宿題でした。 夏休みの宿題・・・、あぁ、もう夏休みが終わってしまいます。 賞味期限が終わらない内に、手早く纏めてしまいたいと思います。 まぁ、何時でも、書いたものは事後報告になってしまうものですが。 ◇ ◇ ◇ 屋久島行きを決めたのは、6月の満月が待ち遠しいある土曜日の午後のことでした。 丁度その日の朝に、岩手・宮城内陸地震があって驚いた日です。 その日、わたしは仕事が休みで、午前中からネットをあれこれやっていました。 そんな時、ふと、旅の計画が持ち上がったのでした。 わたしが屋久島へ行くことは、以前から決めていたことなのですが、「何時・誰と・どうやって」という具体案は何も決まっていませんでした。 先ず、屋久島行きを「この夏」にしようと思い立ちました。 小6の息子だいちと妻も一緒に行けるかも知れないという目論みです。 まだ、誰にも打ち明けていない、旅の計画でした。 その頃、わたしは5月から始まった皮膚の痒みのため、日常生活で幾つかの実験をやっていましたが、その影響もあったのかも知れません。 その詳細は別便で挙げるつもりですが、それは楽しい試みでした。 例えば、部屋に1人居る時には裸で過ごしてみるとか、夕暮れになっても電気を点けず暗闇で過ごしてみるとかの試みです。 聴覚や皮膚感覚や、感性の扉が開いた感じがして、色んな発見がありました。 そんな中で、屋久島行き決行が浮上しました。 そもそも、わたしの旅の目的は、屋久島という場所を自分で体験する事。 そして、光のkimiさん(以下、kimiさん)に会う事、の2つでした。 kimiさんとは、この楽天日記の繋がりで、3年余りのお付き合いです。 とにかく1度は会いたい、と思ってる人でした。 kimiさんは屋久島の観光(?)ガイドをなさっています。 しかも、それも後4年くらいと聞いていました。 どこかでチャンスを作って行かなければ、会うこともないだろうと思っていたのです。 まぁ、そのような縁(えにし)を感じていた訳です。 以上、6月14日に発起して、その日からわたしの旅が始まりました。 旅の計画を微調整しながら煮詰めていく過程で、いろんなことが起こって行きました。 まるで屋久島旅行が、日々の生活を撓め直してくれているかのようでした。 それはなんとも不思議な、様々な呼応の連続でした。 折りしも、東京ではシュタイナー展の真っ最中で、シュタイナー関係の人たちと久しぶりに交流しました。 講演も熱心に聞き、たくさん勉強をしました。 その縁で、ネット繋がりのカイさんや、しぇる’さんや、優しい気持ちさん、ほぎさん、ともお会いしました。 人と会う機会の多い日々でした。 旅の決心が固まった6月24日に易を立ててみると、『地天泰』(天下泰平)が出ました。 この卦は、易で一番めでたい卦とされています。 変爻(今自分がいる場所)が第二爻(下から2番目)で、「遠くの賢者も忘れるな」とあります。 この卦は、いずれは『地火明夷』(韜晦(トウカイ)する時)に変わるのですが。 (つまり、今は、ひとり静かに行方を晦ます時なのですが・・・) その時は、無意識からのOKが出たという思いでした。 旅の概略が徐々に固まっていくのは、何だかワクワクして心地良いものです。 屋久島への旅を夢見ながら、日々の生活をいつもより幾分、活き活きと送っていました。 7月に入り、色んな講演会に出かけたり、観劇に出かけたりしました。 すでに、旅モードが日常に入り込んでいたようです。 「旅とは、攻撃的な自己衝動ではなかったか!?」とは、藤本儀一さんの言葉です。 20代の頃、『軽口現代考』というエッセイ本で出会い、衝撃を受けたものです。 そして、良くそんな旅をして来ました。 思い立っては旅をし、旅をしては思い立ちの連続でした。 結婚して子供を持った身では、なかなか自由気ままに振る舞うことにも限界があります。 しかし今でも、時にわたしは、ふらりと旅に出ます。 それを許してくれる妻子は有難いのですが、今回のテーマは「共に旅をする」ことです。 わたしの旅(ワガママ)に付き合ってもらう、ということ。 「かわいい子には旅をさせよ」と言いますが、今回のキャッチフレーズは「かわいい子とは一緒に旅をしよう」です。 7月の後半、そろそろ旅が間近に近づいて来た頃に、古くからの友人、heavymanさんのアートセラピーのセミナーがありました。 わたしはそのままの身体で駆けつけました。 『風景構成法』という心理学の芸術療法からのアプローチでしたが、参加者のシェアリングなかなか面白かった。 その時に描いた絵を下に掲げますが、これはもう全く屋久島の絵ですね。 最後に付け足した『虹』がシェアリングで「違和感がある」と言われたのでしたが、まぁ、その後日談は旅行記の中ででもお話することにします。 ~ 心象風景(希望) ~ 我が家では、旅行の直前に、畳を張り替えたり、部屋を片付けたり、倉庫を大きくしたり、金魚を飼い始めたり・・・。 「なぜに今?」と言うようなことが沢山あったのでしたが、それはきっと旅行の荷造りの副産物で、色々と溜まっていたものを片付けるという心理が働いたのかと思います。 わたしはわたしで、歯が抜けて医者へ通ったり、腰痛が悪化して整骨院へ通ったりしました。 まぁ、「旅は心の洗濯、身辺整理」と言うことでしょうか。 そんな中で、歌が浮かんできたりもしました。 作りかけの歌を紙に書きつけ、それも旅へ持ち込むことにしました。 あっという間に旅行が近づいてきました。 kimiさんと何度かメールをやり取りして、旅の骨子は、ほぼ決定。 息子とわたしはトドニを連れて逸早く岡山の実家へ行き、岡山から鹿児島へ飛ぶ。 (トドニは岡山でお留守番です) 妻は羽田から鹿児島空港へ飛び、そこで合流。 息子とわたしは、屋久島4泊5日。 妻は、仕事の都合で2泊3日で帰る。 さあ、いよいよ「旅の中」なのですが、今日はこのくらいで。 最後に、鹿児島から屋久島へ飛んだ飛行機の中から撮った画像を1つ挙げておきます。 ~ 飛行機の中から見た桜島 ~
2008/08/28
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(つづき) 11日目。早朝に起きて、西にある山へ墓参りに行って来た。そして、手早く荷造りをして阿波池田発8時30分の特急剣山4号徳島行きに乗り込む。鴨島駅でぴあのさんご一行と再会。車で迎に来てくれていた。実は、同じメンバーで3年前に会ったことがある。(その時の日記はこちらです⇒*)。前日の電話連絡で、わたしが作りかけの歌を唄うことになっていて、史跡公園へ案内してくれた。そこでミニ・コンサートと相成った。その模様はぴあのさんのブログへどうぞ⇒*。徳島の空はとても美しかった。何枚もシャッターを押した。ずっと空に見惚れていた。 ♪作りかけの歌♪ あなたの名前はきみ わたしの名前はあい 君から愛が溢れ流る わたしの名前はあい あなたの名前はきみ 愛から君へプレゼント ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・♪ ~史跡公園の風景~ 史跡公園で談笑と唄とお昼をした後、ぴあのさんが手配してくれた阿波踊りの公演を見に行った。選抜なんとか・・・と言って、徳島でも有数の踊り手たち(「連」と言うそうだ)の踊りを堪能した。「阿呆連」とか「のんき連」とか、名前も面白かった。踊りはもう超一流、プロだと言うことらしい。だいちは半分寝ていたが、トドニはバッグの中でおとなしかった。チケットなしでこっそり入れてもらったのだった。公演が終わると、もう残り1時間あまりしかなかった。徳島駅近くの喫茶店でお茶をして、大阪行きの高速バスに乗り込んだ。 ~阿波踊り:男踊り~ ~阿波踊り:女踊り~ ぴあのさん、おなもみくん、どうもありがとう。 ~喫茶店の前のデッキから見た空~ 徳島から高速バスで約2時間半の道のりで大阪へ。大阪では1時間ばかりの乗り継ぎ時間だった。大阪の街でトドニをゲージから出し、少し散歩させた。トドニは大阪の街にもマーキングをした。大阪の空も綺麗だった。新大阪から新幹線のぞみ号で東京に帰って来た。東京駅から自宅までさらに1時間半くらいかかる。自宅近くの駅に着いたのは、深夜零時ちょっと前。駅のロータリーでトドニをゲージから出したら、なんだかそわそわ。のどが渇いていたようだ。自動販売機で買ったミネラルウォーターを、ボトル半分くらい一気に飲み干した。考えてみれば、徳島でバスに乗ったあたりから、ずっと飲まず食わずだったなぁ。ごめん、トドニ。ずっと我慢の子だったのだね。しかし、一言も吠えなかったのは、立派だな。 家に着いたら零時をまわっていた。ということで、10泊12日の旅となったのだった。 ◇ ◇ ◇ 以上、2日にわたり、10日目~12日目のご報告でした。 屋久島のことが何も書かれていない。 清みません、時間切れです。 メインの屋久島旅行については、次回に持ち越しです。 なお、また21日(木)~23日(土)と、旅の予定があります。 今度は伊豆です、仕事ですが。 なので、次回のUPは来週辺りになりますのでどうぞよろしく。 お楽しみに。
2008/08/17
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今日は満月。 (17日の早朝に書いています) なのに、東京は朝から雨が降りしきっています。 久しぶりの雨です、慈雨です。 お陰で、早朝から天然クーラーのような涼しさ。 快晴が続いて暑い毎日でしたが、今日は一転、まるっきり空気が変わりました。 秋が感じられるような天候ですね。 旧暦では立秋を過ぎ、もう秋なのですが。 今日は身をもって感じられ、懐かしい気持ちになります。 きっと、台風の影響なのでしょう。 さて今日は、旅の終わりの経緯について書きます。 10泊12日の旅の最終、10泊目です。 行程は、以下の通り。 8月12日(火): 岡山⇒阿波池田(12泊目) 8月13日(水): 阿波池田⇒徳島⇒大阪⇒東京 旅の一行は、わたしロンと、小6の息子だいちと、犬のチワワのトドニの3人です。 ◇ ◇ ◇ 今から30年ほど前に、『ルーツ』と言うTVドラマが流行った。原作の小説もベストセラーになり、自分のルーツ探しが流行した。わたしは、ドラマも小説も横目で見て、特にこれといった行動を起さなかった。まぁ、たぶん、機が熟していなかったということか。しかし、自分のルーツ探しと言うテーマは頭の片隅にずっとあって、時に思い出しては、出来る範囲で自分の駒を進めていた。 四国の阿波池田は父親の里で、わたしのこの世の始まりは、その近くにある阿波加茂という町。四国の山々に囲まれた、吉野川流域に位置するその町で産声をあげた。吉野川の上流から、ぷかりぷかりと流れてきたという説もあるのだが(笑)。出産のために母が里帰りをしていたもよう。たぶん、その実家でお産婆さんにとりあげられた。その後、産後の肥立ちでしばらく滞在していたはず。だから、わたしには四国の血が流れている。その後、両親が住んでいた倉敷に戻ったので、育ちは岡山だ。 子供の頃、長期休みになると、良く四国へ里帰りしていた。瀬戸内海を連絡船かフェリーで渡り、異国の空気を吸った。同い年の従兄弟たちと遊んだり、爺さん婆さんに可愛がられた思い出は一生忘れない。岡山の実家へ帰った日には、なかなか寝付けずに、寝床で何度も思い出を反芻した。「楽しいことはどうして早く終わってしまうのかな?」と、良く思ったものだった。 成人してからも、何度か四国へ行く機会はあったが、意識的に足繁く通うようになったのはこの4~5年。特に、同じ年の子供を持つ徳島在住の ぴあの@サファイアさんと知り合ってからは、その回数が増えた。足がかりが出来た感じだ。岡山への帰省や関西への旅を機会に、ひょいと四国へ渡る。今回の旅も、岡山からの帰路に四国を通ることを選んだ。 ~瀬戸内海(西の方向)~ 岡山駅8時50分発の特急南風3号高知行きに乗って、10時半頃に阿波池田に着く。駅の近くの「へそ公園」という所で朝食におにぎりを食べまる。せっかく四国の山中まで来たので、半日観光をしようかな。バスターミナルの観光案内所で聞いて、大歩危峡と祖谷(いや)渓谷のかずら橋へ行くことにした。切り立った渓谷の曲がりくねった山道を路線バスで移動する道行きは、なかなか楽しいものだった。トドニはゲージの中で身を潜めていたし、息子のだいちはゲーム機に夢中だったけれど、わたしは次々と移り変わる景色に夢中だった。 ~祖谷の山並み~ 大歩危では川くだりの遊覧船に乗った。さすがに犬連れはわたしたちだけだった。だいちはバスの中で半分寝て、眠そうな顔つきだった。四国山脈の斜めに走る岩肌を眺めた。舟は大歩危から下って小歩危の際まで行き、Uターンして船着き場へ戻った。大歩危では岩が上流に向かって突き出すように斜めにそそり立っていた。際中りではそれが水平になり、小歩危では反対に下流に向かって斜めに突き出ると言う。この辺りは、四国の香川県側から四国山脈を越えて高知県側に渡る際の峠に中るのだろう。わたしは、自然の岩肌が作る斜線に見惚れた。 ~大歩危峡の遊覧船~ ~大歩危峡:そそり立つ岩~ 大歩危峡の上のレストランで昼食をとり、また路線バスに乗って祖谷のかずら橋まで行く。植物の蔓で作られた吊り橋だが、今ではワイヤーで補強してある。たくさんの観光客でひしめく中、橋を渡る。揺れる橋を怖がって、途中で引き返す女性がいた。だいちはかずらの手すりに掴まりながら、わたしはトドニのゲージを片手にひょいひょいと平気で渡った。下に流れる渓谷では、川遊びをしている人たちがいた。楽しそうだった。ここは山の奥の奥だが、今ではもうすっかり観光地になっているのだ。 ~かずら橋を渡る~ ~かずら橋・遠景~ 何より驚かされたのは、このような山奥にも昔から人が住んでいたということだ。バス道から山の上の方にも、何軒も民家が見えた。昔からの民家だろうか。平家の落人の伝説も残っているそうである。何を生業としていたのか? 山の民は狩をして食べていけるのかも知れない。また、タバコ農家が盛んだったとされる地域でもある。四国山脈は険しく、山肌は、どこか屋久島の山に似ていた。ところどころ岩肌がむき出しになっていたりするが、緑はとても豊かだった。帰りのバスの中で、また、山肌に見惚れた。 ~岩肌や潅木が見える山肌~ ~緑豊かな山々~ 半日の四国渓谷めぐりをした後、宿にたどり着いた。 今回は犬もいたのでお忍びにして、阿波池田の古老旅館に宿を押さえていた。楽天トラベルで調べていたら、たまたまペット可の旅館があったのだ。そこは不思議な旅館で、入るなりミニチュアダックスフントの犬の吠え声に迎えられた。通されたのは、大人1人子供1人犬1匹なのに、10畳と6畳の2間の和室で、しかも、部屋名がない内座敷のようなところ。素泊まりで、値段はリーズナブル。息子のだいちが「幽霊でも出るんじゃないの?」としきりに訝しがるのだが、そんな雰囲気もなく小奇麗な宿だった。 ~宿でくつろぐトドニ~ しばらくすると、仲居さんがさっきの犬連れで訪ねて来た。トドニとしばらく匂いを嗅ぎ合いながら挨拶をしていた。その旅館の従業員はみんな犬好きと言うことで打ち解け、きっとトドニのお陰でこの部屋が与えられたのだなと推論した。広すぎて落ち着かないというだいちもその内に慣れて来て、幽霊屋敷の件を仲居さんに聞かなくてすんだ。その夜は宿でゆっくりして、いよいよ翌日は、ぴあのさんとそのご子息おなもみ君と会う予定をしていた。(つづく)
2008/08/16
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旅から帰って来ました。行程は以下の通りでした。東京 ⇒ 京都 ⇒ 岡山 ⇒ 屋久島 ⇒ 鹿児島 ⇒ 岡山 ⇒ 徳島 ⇒ 大阪 ⇒ 東京合わせて10泊12日の旅でした。旅の途中から、日記をUPしようと思ってはいたのですが、結局、1回しか書けませんでした。もう、身体全体が旅モードになってしまっていて、日々の動きの中に没入していましたから。何度か、PCを前にしたのですが、公表するにはあまりにも旅が身近にありましたから。と言うことで、明日から、少しずつこの日記にUPして行きたいと思います。お楽しみに。今日は、旅の中の画像をひとつ。宮之浦港に流れ込む、宮之浦川の夕暮れの風景です。上流の方(西の方)に向けてシャッターを押しました。流れがほとんどなく、この川で泳いだりカヌーで遊んだりしました。
2008/08/15
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旅に出ています。 結局、7月は日記を書く事が出来ませんでした。 『症状は癒しの証』の(その3)も書けないまま、8月に突入です。 ご報告したい実践話はたくさんあるのですが、ここはひとまず休憩、清みません。 もう、身体はすっかり旅モードに入ってしまいました。 動き回り、あちこちを観光し、感覚や注意が外に向かっている時にはなかなか思索的な文章は書けません。 8月2日(土)、旅立ちの前日だというのに近所の商店街のお祭りに興じていました。 屋台が出て、ふれあい動物園が来て、ビンゴがありました。 息子のだいちは金魚掬いに夢中でした。 わたしは夏祭りの雰囲気を肌に感じ、ご満悦でした。 8月3日(日)の早朝に東京を発ち、京都に降り立ちました。 駅ビルの隙間から、すくっと立つ京都タワーが見えました。 だいちに訊くと「たこ焼きが食べたい」と言うので、駅地下でたこ焼きを買い公園を探しました。 京都駅付近で、『正面公園』と言う小さな公園を見つけて、そこで昼食を採りました。 持参したおにぎりとたこ焼きと言う組み合わせのメニューでした。 快晴で太陽の光が眩しく、灼熱の京都盆地を散策するのは、汗だらだらの苦行でした。 35℃は越えていたのではないでしょうか。 鴨川に掛かる正面橋を渡って、すぐに京都駅に引き返しました。 岡山に着いたのは、予定よりかなり早く午後3時ごろ。 里の実家にたどり着き、涼をとって旅の疲れを取りました。 翌、4日(月)は休養日。 近所の公園『こどもの森』で水に戯れました。 今日5日(火)は、これから屋久島へ旅立ちます。 5泊6日の南九州旅行です。 旅の経過は、また追ってお知らせします。
2008/08/05
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「症状は敵ではなく、癒しの証である」 この言葉は、R・シュタイナーの言葉ではなく、森章吾さん(シュタイナー教育実践)の言葉でした。 ここで、わたしの記憶間違いを訂正させていただきます。 清みません。 『ユリイカ 2000年7月号 特集:ルドルフ・シュタイナー』の中の、『真の<私>の響きを求めて』と言う論文の中に書かれています。 森章吾さんは、その中で、自らの生来の病気、蓄膿症(副鼻腔炎)に果敢に挑み、克服された経緯を詳細に述べています。 さらに一歩進めて、声帯の変容への冒険も足を延ばしています。 その格闘のドキュメントは、一読するに充分値します。 その実践の上で、基礎として踏まえられているのが、紹介した上記の言葉です。 これは、ゲーテからシュタイナーに流れる自然科学的認識方法に添った、ひとつの鍵になる考え方だと言います。 これは、現代の医学の世界でも常識的な考え方なのだそうです。 へえ、そうなのか、特に異端の考え方ではないのか。 そうして、この論文を読み進めて行きますと、次に、また刺激的な文章に出会います。 「病気の症状を参考にして、症状の本質的な部分を意識的に補えば、それは癒しとなる」 これも、森章吾さんがまとめた、方法論の記述です。 森さんの素晴らしいところは、その言葉を実践の中から導いたことです。 森さんは、「鼻詰まり」と「いびき」という2つの症状に意識的な働きかけをして、持病の治癒へと向かわれたのです。 詳細は、文献を読んでいただくのが最善かと思います。 さて、わたしは皮膚の痒みに襲われたのでした。 わたしの今ある症状は、皮膚の「痒み」です。 わたしは、森さんの実践に見習って、わたしの方法を見出していくしかありません。 少なくとも、上記、2つの文章をただ知識として得ただけでは何も事は始まらない訳です。 ここで、わたしの症状をまとめてみます。 今年の3月から4月にかけて、頭皮の上にリンパ液のカサブタが出来るようになりました。 その時は、痒みはなかったのですが、カサブタを取り除いた跡から少し出血があり、血のカサブタも出来てしまう様になりました。 これは!? と言うので、家人に勧められて病院を受診する事にしたのです。 5月初めに診断されたのが『脂漏性皮膚炎』というカビ(細菌)による病気でした。 そこで処方されたローション状の薬には、ステロイド(副腎皮質ホルモン)が含まれていたようです。 そのローションを入浴後に塗布するのを2~3日続けると、リンパのカサブタはあっという間に消えてなくなりました。 医者の診断は、どうやら中っていたようです。 しかし、5月の中旬辺りから、今度は頭や全身が痒くなり、湿疹が出るようになったのです。 これの方が堪りませんでした。 手首や肘の内側、足首や膝の内側、背中や首筋や頭皮など、痒みはあちこちに伝染しました。 仕方なく5月の半ばに、もう一度同じ医者に診てもらうことにしたのです。 そこでのやり取りは、前回、触れました。 わたしの湿疹は、特に食事をした後1~2時間で現れます。 医者が言うには、食事をすると代謝が盛んになり体温が上がり、若干の汗をかく。 汗は塩水だから、それが皮膚に浸透して痒くなる、と言うことでした。 なるほど、と頷くわたし。 わたしの首から下の皮膚は、少し油脂分が足りなくて、汗を流し落とせないと言うのです。 またまた頷くわたし。 そしてまた、ステロイドの(今度は)軟膏が処方されました。 肌のことなら何にでも効く魔法の薬、いわゆる市販の『フルコート』です。 ちなみに、ハイローズに『フルコート』という楽曲がありますね。 甲本ヒロトくんが、狂うように唄っていますね♪ さてしかし、薬に頼ってばかりもいられません。 わたしは、慎重にその薬を使っていました。 そして、ある日、シュタイナー研究の佐藤公俊さんに相談したら、「ステロイドは免疫機能を低下させるよ」と言われました。 別の精神科医に訊いても、「癖にならないくらいにしたほうが良い。それから、石鹸で身体を洗い過ぎると良くないよ」と言われました。 ふーん、結構大変だなぁ、と思いました。 そこから、わたしの冒険は始まります。 今もって、実践中なので、具体的な内容は次回に譲ります。 ここでは、病気やその治療に関する、わたしの基本的な考え方を紹介します。 それは、ある本からの示唆なのですが、次のような視点です。「患者の健康を回復させることが上手な人は医者であろうと治療師だろうと、体のもつ、体自体に対する、またその周囲の世界とのかかわりに対する感覚を変えることの出来る人だとフロリンダは確信していた。つまり、病は、肉体と精神とにかかわらず、それまでの習慣を打ち破るために必要な新しい可能性を提供されることで癒されるというのだ。それによって別の次元の意識が活動を開始し、体がもつ新たな意味が明確になり、それまでの病気と健康に対する考え方が変わってくるというのだ。」 (『魔女と夢』日本教文社,1987.著:フロリンダ・ドナー/訳:近藤純夫) この本は、カルロス・カスタネダの流れを汲む女性人類学者が書いています。 メキシコ・インディアンに伝わる、呪術師の伝統に基づいた、一風変わった世界のお話です。 しかし、現代西欧社会(日本も含めて)に慣れきった我々に足りない視点を的確に示しています。 わたしは、やはりこの観点から、わたし自身の日常生活の冒険を進めなければならないと思ったのです。 つまり、それまでの自らの生活習慣を見直し、打ち破る試みをしなければ、本当の意味で、病気の治癒はありえないと思ったのでした。 「感覚を変える」、「別の部分の意識が活動を開始し」、「体のもつ新たな意味が明確になり」、「健康と病気に対する考え方が変わってくる」!? それは、わたしにとってとても刺激的であり、ワクワクするような冒険に思えました。 20代からカスタネダを繰り返し読み、その導師である『ドンファン』に憧れ続けてきたわたしにとっては、千に一つのチャンスのようにも思えたのです。 なお、R・シュタイナーは、既に、『健康と病気』について数々の示唆ある文章を残しています。 しかし、頭で知っていてもどうにかなるものではありません。 実際に自分の体を使った実践をやらなければ分からないことは沢山あります。 身体で体得しなければ、どんな知識も無効です。 そして、その突破口が、病気という負の体験にあったとしても、なんら不思議なことではありません。 病を得るということは、不運ではなく、幸運であるとも言えるのではないでしょうか。 (つづく) 下記の写真は、6月15日(日)に、ギャラリー冊で行われた「シュタイナーの夕べ(その二)」シンポジウムの会場風景です。 この夕べも、R・シュタイナーが熱く語られ、芸術療法のプチ体験もありました。 ⇒ 森章吾さんのHP ⇒ 佐藤公俊さんのHP
2008/06/29
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早いもので、もう6月です。 今日、11日(水)は上弦の月です。 昨日、10日(火)が二十四節気の『入梅』で、七十二候の『第二十六候:蒸された草の中から蛍が光を放つ』でした。 遡ると、旧暦五月五日の端午の節句は、6月8日の日曜日のことでした。 巷では、いろいろ悲惨な事件や災害が起こったようですが、それらに気を取られたり胸を痛くしながらも、わたしは相変わらず季節の流れの中に生きています。 5月に入ってから、わたしの身辺も俄かに動き始めたのでした。 暦で言うと、5月1日(木)が八十八夜にあたり、5月5日(日)のこどもの日は新月でした。 その辺りから、わたしの身体は季節に添おうと作り変えの時期を迎えていたようです。 頭は痒くなるし、それが次第に身体全体の痒みへと移って行きました。 その間、医者嫌いのわたしもたまらず、2回も総合病院の皮膚科を受診しました。 頭の方は、『脂漏性皮膚炎』と言うもので、頭皮の脂分が多すぎてカビ(細菌)が居ついてしまうと言うものでした。 医者から、ローションを処方されました。 一方、全身の方は、単なる『湿疹』と言う診断で、こんどは、皮膚の中の油脂分が少なすぎて発汗を流せずに痒くなるとの事でした。 こちらの方は、副腎皮質ホルモンの軟膏を処方されました。 お医者さんいわく、人間の汗腺の密度は首を境にして大きく変わるのだそうです。 首から下の五体は汗腺がまばらで、首から上は産毛などでとても密になっているそうです。 わたしの場合、首から上、特に頭皮は、加齢のせいもあるのでしょうが、油脂分が多くて栄養があるのでカビの温床になると言うことでした。 そして、首から下は乾燥肌に近く、汗をかいた時、それをはじく油脂分が少ないので皮膚に塩分が滲み、痒くなると言うのです。 痒くなった時に、掻くと湿疹になって拡がるそうです。 湿疹が出るから痒いのではないのですね。 無意識に掻いて、気がつくと湿疹が出ていると言うからくりなのです。 お医者さんは、痒くても掻かなければ良いと言います。 しかし、これは、酷な話です。 就寝時など、無意識に掻いてしまいますから。 深夜に、我慢しきれず飛び起きて、何度入浴した事でしょう。 頭は脂分が多すぎて、身体の方は脂分が少なすぎる、バランスが崩れているのを実感しました。 と言うことで、この1ヶ月ほど、皮膚の痒みに付き合って過ごしてきました。 症状と共に生きることで学んだことはたくさんあります。 そこで、ふと、シュタイナーのある言葉にたどり着きました。 「症状は敵ではなく、癒しの証である」というものです。 この話は、また後日に。 まぁ、身体が熱い季節の到来に準備しているのかもしれません。 下の写真は(ピンボケですが)、6月7日(土)の夜に見た四日月です。
2008/06/11
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知り合いが多数参加しているので、紹介したいと思う。『ルドルフ・シュタイナーと芸術』と題した企画展、およびシンポジウムの案内。ギャラリー冊で、5月31日(土)~6月29日(日)まで開かれる。 案内には、次のようにある。「二十世紀きってのユニークな思想家、社会教育者として知られるルドルフ・シュタイナー。彼の提唱した、自然と肉体の共生による新たな人間復興の思想は、芸術、教育、医学、農業など、広く影響を及ぼしました。アーティストや研究者の活動や、様々な資料を通して、未来の芸術や社会文化のあり方を模索する展覧会です。」 出品作家は、以下の通り、なかなかの顔ぶれです。 植田信隆(画家) 加藤庸子(アート・セラピスト) カスパー・シュワーベ(幾何学アーティスト) 能勢伊勢雄(写真・遊図) 日詰明男(建築家) 横尾龍彦(画家) また、期間中に、『シュタイナーの夕べ』と称して、3つのシンポジウムもあります。 詳しくは、以下の案内ページへ⇒⇒ 今夜は、インフォメーションのブログになってしまいましたが、シュタイナーについて詳しく知りたい、学びたいと言う方には、格好の企画展だと思います。先ずもって、シュタイナーにインスピレーションを受けたアーティストたちの作品が見られること。次に、シンポジウムで、実際に彼らとお話をしてポイントを聞ける事。そして、シュタイナーの図版や書籍たちが手にとって見られること。この3点に尽きます。 当然、わたしも何度か足を運ぶ予定ですので、ふと、お会いできるかも知れません。しかし、小犬のロンと言ってもきっと誰のことだかわからないことでしょうが。 東京近郊にお住まいの方で、興味のある方は、ぜひ、足をお運びください。 ロケーションも、なかなか、いいところですよ。 ~ ギャラリー冊 外観 ~ ~ 千鳥ヶ淵 周辺 ~
2008/05/27
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今夜は十七夜である。立待月という。古来日本では、月見が盛んに行われていたという。観月ともいう。満月辺りからの月の鑑賞会であろう。正式には旧暦8月15日(十五夜)と9月13日の夜の月見をさすそうであるが、毎月の満月辺りでその模擬体験はできる。大体、月は13夜辺りからその存在を夜空にショーアップしてくる。その時期やはり、送ってくるエネルギーやパワーが増すように思う。 満月と旧暦の十五夜は必ずとも一致しないが、アバウトに同期している。ちなみに今年の五月の満月は、十六夜(いざよい)であった。昨夜わたしは、仕事帰りに遭遇してなかなかのインパクトを享受した。今回は、何かとてもクリアーだった。当日は、台風4号の影響もあり、東京は朝から土砂降りだったので、これは無理かなと思っていたのが、午後から天気が回復し、空はさわやかに快晴だった。諦めていたのが、急に天気が回復して、午後から徐々に回復し、夕には、台風一過のさわやかな半日となった。下の左の写真は、昨夜ベランダから撮った満月の風景。右側の写真は、つい先ほど撮った十七夜風景である。 十五夜辺りから、人々の月見(観月)熱は上昇してくるようだ。恋しい十三夜に始まり、十五夜、十六夜(いざよい)、十七夜(立待月)、居待月、居待月、寝待ち月・・・と、古来から様々な月の呼び名がある。人々は月が空に浮かぶのを、心待ちにしていたようだ。そして、満月後、徐々に待ち時間が長くなって行くという訳で、お月様はじれったいものである。 ◇ ◇ ◇ さて、一日が明けて、今日は爽やかな五月晴れの一日となった。昼下がりに、近くの公民館へ場所取りに行く用事があったのだが、出かけようとすると、ウチの4人目の家族、チワワのトドニが何やら、訴えて来るような、そんな眼差しをしていた。「行くか」と言うことで移動用ソフトバッグに入れて連れて行くことにした。所用の後、久々の屋外散歩もさせてやろうと思った。先ずは、わたしの所用。トドニを降ろすこともなく、移動用ソフトバッグを肩にかけて颯爽と出かけた。「トドニ、先ずは僕の用事が第一だからそこまではこの中ね」と。トドニは、バッグから顔を出し、辺りをきょろきょろ見ていた。幹線道路の比較的大きな信号をスタスタと歩き、公民館へ着いた。 玄関辺りでウロウロしていると、郵便配達員風のおばさんが自然な声をかけて来た。「このトンボ、弱っているのか生まれたて(子供)なのか、ずっと手に止まったままなんですよ」「まだ寒いからかなねぇ」と、おばさんの手のひらにはオニヤンマがじっととまっていた。そして僕に手渡してどこかへ行ってしまった。 じっくり様子を見たのだが、本当に弱弱しく動かない。普通なら捕獲するのが先ず大変で、籠でもなければ飼えないはずなのだが。そのトンボは、じっとわたしの指や手に止まったままで、飛び立とうともしない。 これが都会のトンボなのかなとか思いながら、しばらく遊んでいたけれど、これから集会室の予約手続きの後、トドニの散歩があるから…と、すぐ横にあった緑の笹の植え込みの上に放してやった。 座敷犬トドニにとっては、ちょっとしばらく振りの屋外である。公民館の東側にある大きな運動公園を久々にゆっくりと歩いた。大体のコースは決まっているのだが、ちょっと行けば立ち止まるの繰り返しだ。トドニが匂いの気になるところで立ち止まるためだ。まあ、犬主体の散歩といって良い。公園の、ある一角に来ると、めっきりトドニの動きが鈍った。何をしているのかなぁと、良く見ると、やはり、匂いをかいでいるのである。他の犬が残したマーキングの跡か、草木の香りを楽しんでいるようにも見えた。 すがすがしい風が我々を撫でて行き、とても気持ちが良かった。 しばらくして、トドニが突っ立ったままになる。リードで引いても声をかけても知らん振りだ。これは、もう帰りたいという意向なのである。長距離を歩くことがない座敷犬。疲れたらやおら不動になる。ソフトバッグを示すと、いそいそと入ってきた。右下の写真は、バッグにレスキューされたところ。 さて、これを肩にかけて、わたしはまたスタスタと帰路に着いた。 帰り道に、先程トンボを放した笹の植え込みへ立ち寄ってみた。トンボはまだ同じ場所に居た。手を伸ばして指をつかませ、手にとって見た。うーむ、ウチに持ち帰って研究してみようかなという邪心が働く。なぜにこのトンボはこんなに弱っているのか!?ウチの小学6年の息子だいちにも見せてやろうかなぁと。 しかし、立ち上がると児童館で遊んでいた2~3人の子供たちに取り囲まれた。小学低学年かな。一人の子が「これ欲しい、ください」と、手でつかもうとする。「掴んじゃだめだよ」と諭し、指伝いでその子に渡した。「いいよ、あげるよ」と言うと、彼らはわいわい言いながら帰って行った。 トンボを手放したわたしは、また、颯爽とトドニを肩にかけて帰路に向かった。 台風一過の、五月のすがすがしい午後のスケッチでした。
2008/05/21
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書くという衝動、書き留めておきたいという衝動、それはいつも突然にやって来る。何気ない日々の生活の中で、ふと、心が震える体験をする。起こったことの反映としての心の震え。起こったことはさして大した事でなかったとしても、心が強く動かされるのだ。それは、心の深いところでの感動。心揺さぶられる感動。それは、詩を書かせる感動といっても良いだろう。かつて、そのような体験があった。そして、今もまた同じような体験をする。いつもの事ながら、心にこう思う。「ああ、また同じところに帰ってきた」外的現象は姿を変えても、心的体験としては同じような感慨なのである。「ああ、今日も僕は生きている」つまりは、「ふと思ったとき」なのである。久しぶりに同じ地点に回帰したようなので、以下に30年前の詩を掲げよう。 ---------------------------------------------------------------------------- 『ボールペンテル ――― 1977.12.25 』ボールペンテル、これは、まさに、わが自由の象徴だった.ある日突然に、不意の光明がやって来た.その時偶然に私は、ボールペンテルを切らしていた.書くための道具としての最も自然な愛用品.今までのそれは、ちょうどインクが切れかかっていた. その突然の衝撃がやってきた時、私は、この五体全体でうろたえた.その高揚の中に身をゆだねてしまった.私の中で、生命は異常な速さでうずを巻いていた.抑えかねる.もう、どうしようもない.私は、どうすれば良いのか?しかし、その問いの答えは、おのずと全く明らかであった.ボールペンテルを買いに行くという行為だけが、ただひとつ、最も、自然、・・・・いや、それしかなかった.書くという事、それが生きるという事であった.ボールペンテルは、その象徴であった.生きるという事、それは、自由という事であった.自由という事において、表現--エネルギーの放流--行為、それが、カギであった.それしか すべを知らなかった.表現、自分と世界を結ぶもの.それに 身も心も集中させるという事.そこに、あらゆる自由の可能性が秘められているように思われた.私のボールペンテル、そして、知覚、感覚へと---. Copyright(C) 1977 HOKUSUI-SHA All Rights Reserved.---------------------------------------------------------------------------- ~五月の空に浮かぶ月(at Tokyo Mid Town)~
2008/05/03
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四国の旅の後編である。この5月の終わりごろ、第十四番札の常楽寺の次に訪れたのは、第十五番札の国分寺だった。平城京遷都後30年、大和の国は諸国に法華経を写させ、七重の塔を造営させる。聖武天皇は各国に国分寺と国分尼寺の造営を詔勅させる。これは国状不安を鎮撫する為であったが、いよいよ日本と言う国は、聖徳太子以来の仏教によって立つ国へと向かうのである。全国各地にある国分寺と共に、官営の寺院である。 境内に七重の塔の芯礎が安置されていた。この芯礎は環溝型という珍しい形式だそうだ。この寺も後年建て直されたものらしく、この芯礎のもとの位置もはっきりとは確定されていないらしい。しかし、何故五重塔ではなく七重の塔なのか? 七五三の七、五七七の七、七夕の七、北斗七星の七、わが国ではかねてより、七と言う数字は神秘的な数字として崇められてきたようである。総本山とも言える、東大寺にもかつては七重の塔が建っていたと言う。ところが、現在、各地に建立されていたであろう木造の七重の塔は、どこにも残っていないそうである。 次に向かったのは、第十八番札の観音寺。これは住宅の立ち並ぶ中に平然として建っていた。そんな何気ないあり方が四国の風景なのであろう。近すぎて本殿を写すのはままならなかったが、代わりに仏足跡が安置されていたので写してみた。 これは模刻で、元はインドグフタ朝時代の最古の仏足だと言う。釈迦入滅後、現在のような仏像が造られる以前は、このような仏足を印し礼拝して来たとのことである。それにしても、この文様は亜細亜を感じさせる。それぞれの文様に象徴的な意味が込められているのだろう。 かくして、この旅は第十四番札から第十七番札を巡る旅だった。あいにく、第十七番札の井戸寺の画像は紛失してしまった。徳島県の中部あたりを巡ったものである。わたしの次の旅は、欠けている第2番札から第13番札を巡る北部の旅になる予定だ。また、西南へ足を延ばした折には試みてみたいと思っている。
2007/11/13
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両親の里が徳島の山中にあることもあって、四国には何かと縁がある。産後の肥立ちと言うのだろうか、出生は母親の実家だったので暫くは四国の山々に抱かれていたのだろう。子どもの頃は、春夏冬の長期休みには、対岸の岡山から何度も瀬戸内海を渡ったものである。瀬戸大橋の無かった昔は、宇高連絡線という船やフェリーに乗って瀬戸内海を渡る他は無かった。船のデッキに出て、船腹の作る波しぶきを飽きもせず眺めていたものだった。白い泡が生まれては消えいくら見ていても飽きなかった。そんな記憶が鮮明にある。 大学時代にふとしたキッカケで少林寺拳法部に入り修行をしたのだが、その本部も多度津と言う香川県にある町にあった。これまた、春夏の合宿で本部参りを繰り返した。合宿の帰りに、何度か金比羅参りをしたものだった。また、弘法大師空海には憧れを持っていて、『空海の風景』などを大学時代に読みふけってあこがれていた。実家が真言宗だと言う事も何かと縁があるもよう。社会人になってからは、四国とは暫く疎遠になってしまっていたのだが、この3~4年で、また四国との縁が復活した。親戚の法事をキッカケに四国八十八箇所参りを思い立ったのだった。 これもまた奇縁で、この楽天ブログで知り合った、ぴあの@サファイアさんや、たろうくんが四国在住である。ぴあのさんとは、お互いにほとんど同年齢の息子が居ることで、より親密度が深まり、もう3度もお会いしている。去年の秋から始まった、わたしの四国巡礼では、ぴあのさんがわたしのナビゲーターとして、2度も車で案内してくれた。本当に、ありがたいことである。ぴあのさんありがとうございます。 さて、5月で途切れていた西国への旅の続きを再開しよう。この時は、大阪梅田から高速バスに乗って徳島駅に入った。下記の写真は鳴門大橋を高速バスで渡った時の風景だ。何時も天候に恵まれていて、この時の空の景色は最高だった。四国の風景は東京と違って、山々が美しいし、何より空が格別なのだ。 5月の下旬の旅だったが、空気や空や景色が、うっとりとさせてくれるくらいに美しかった。徳島の駅前に、ぴあのさんが車で駆けつけてくれて、ゆったりとしたお参りをナビゲートしてくれた。今回は2度目だったので、山間のお寺に案内してくれた。下記の写真は、十四番札所、常楽寺である。小高い丘の上に立つ山寺だった。御本尊は弥勒菩薩だったがお顔を拝見する事はできなかった。その代わり、幾つかの嬉しい出会いはあった。 上記写真の右側にある4亦5亦に分かれたご神木の合間にちょこんと鎮座する「あららぎ大師」を教えられ、思わずシャッターを押した。なかなか粋な計らいだった。あららぎというのは古木の名前で、弘法大師が老人に霊木を挿し木したものだといわれいるそうです。さて、どんなご利益があるのか、わたしは知らない。 常楽寺を背にして撮った写真が下記のものです。右側に弘法大師像、やはり、四国の空は綺麗でしょう? 空と雲に見惚れて、思わずシャッターを切ったもの。 わたしの、四国八十八箇所参り、今の所まだ5箇所くらいですが、死ぬまでに達成できるかな? 話しによると、100回も参った先達の方もいらっしゃるそうで、本当に驚くばかりです。わたしの巡り方は、ランダムで気ままなものだけど、是非とも一巡りくらいはしたいものと思っています。
2007/10/27
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広辞苑が10年ぶりに改訂されて一万語が増えると言う。新語の中には「イケ面」や「どんぴしゃ」、「うざい」なども入ると言う。そこで思い当たったのが『略語クイズ』。つい最近、息子のだいちが小学校のお祭りで作ったという代物。このお祭り、学園祭の小学校版のような学校行事。子ども達が校内に、いろんなお店をだして保護者や近隣の方々へも公開して遊ぶ催し。各教室にはいろんなお店が出ていた。だいちの班は、『クイズゲーム』と称してなぞなぞやクイズなどを考え、お客さんに答えてもらって景品などを出すお店だった。そこにあったのが『略語クイズ』。仲間で話し合っていろんな略語を挙げている。他愛の無いものだが、なかなかに面白かった。今時の小学5年生の頭の中は、こんなものなのだろうか。以下に転載しよう。<略語クイズ・初級>以下の略語の正式な言葉を答えよ。1.メチャイケ2.スケボー3.カテキョー4.ガクショク5.ファミマ6.セカチュー7.ニチャン8.ケイド9.ミスド10.マルキュー11.アニオタ12.フユソナ13.コイバナ14.カコモン15.レンチン16.ブリテリ17.コトヨロ18.スパロボ19.ソツアル20.タムケン21.チャリツウ22.バイオ23.テレアサ24.プロフ25.スタメン26.カーナビ27.ドンキ28.ハガレン29.ヤフオク30.ラルク31.コミケ32.マンサツこのように、カタカナで書かれたら、ちょっと戸惑いますね。みなさんは、幾つくらい意味不明でしたか?わたしは、4~5個判らなかったな。<答え>1.めちゃX2イケてる!2.スケートボード3.家庭教師4.学生食堂5.ファリーマート6.世界の中心で愛を叫ぶ7.2ちゃんねる8.計算ドリル9.ミスタードーナッツ10.渋谷10911.アニメオタク12.冬のソナタ13.恋の話14.過去問題集15.電子レンジでチンする16.ブリの照り焼き17.今年もよろしく18.スーパーロボット大戦19.卒業アルバム20.たむらけんじ21.自転車通学22.バイオハザード23.テレビ朝日24.プロフィール25.スターティングメンバー26.カーナビゲーションシステム27.ドン・キホーテ28.鋼の錬金術師29.ヤフーオークション30.ラルクアンシエル31.コミックマーケット32.一万円札
2007/10/24
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久しぶりに日記を書く気持ちになった。日記は17歳の頃から始めて、途切れ途切れしながらも、今現在まで続いている。しかし、それは所謂『日記』というよりも『雑記帳』のような気紛れなものだ。若かった頃のそれには、日々の出来事などはあまり無く、その時時の思いを殴り書きしたようなものである。そんな書付の中から、詩や歌詞やエッセイのようなものが幾つも生まれた。歳を経てから、徐々に体験した出来事も併記するように変わってきている。それと同機して、徐々に最近は、思いつきや創作などが減ってきている事は少々残念だ。毎日数十枚も書き続けていると思えば、しばらくポツリと途切れた時期があったりする。概ね、数ヶ月の単位でその波は続いてきた。それでも、通し番号で、もう120数冊を数えている。大体が、B5かA4の大学ノートだ。倉庫兼書斎のようなこの部屋の右上奥の棚にずらり並んで厚さは一間ほどある。折に触れて、自分の「かつて」に、気ままにアクセスして振り返り、楽しんだり考え込んだりしている。このブログは3年半ほど経つが、以上のような「書く事」に割り込んできた新参者だ。しかし、ブログは外へ、世界へ、開かれているので、その内容やスタンスは違っているに違いない。そして、ブログは、「書く」というより「打つ」という感覚がある。日記がアナログとすれば、ブログはデジタルだ。ブログには一打、一打、打つ感じがある。そして、日記が気ままな自分の雑記帳だとすれば、ブログは他者に向けられたなんらかの発信だ。相手が自分であれ、他者であれ、それはひとつのコミュニケーションなのだろう。独り言であれ、対話であれ、瞑想であれ、そこには何某かのやり取りが望まれているのだろう。さてわたしの場合、日記と同じようにブログにも、饒舌と寡黙の波があるようだ。今回のように半年もブランクがあったりすると、まるでそれは冬眠した熊のようなものだ。今回は、ページを開くたびに、フォトアルバムが機械的に動いていた。まあ、寡黙・沈黙の時というのは、こちらからすれば充電の時間なのだろう。7年に1冊ずつ長編を出すという蝉のような作家もいる事だから、そんなブランクも許されよう。今年の夏は異常な猛夏だった。冬眠ならぬ、夏眠である、はははっ。以上のような経緯で、さて、今回のフリーズを解凍しようと思う。重い腰をよっこら上げよう。折りしも今日は十三夜だという。古来、日本では仲秋の十五夜と同じくらい観月の絶好機として愛でられたという。ラグビーボールくらいに膨らんだ今宵の月を早晩、見られそうである。東京は今日は晴れています。みなさんの住む街では、いかがなものでしょう。<時節はずれのオマケ> 下の写真は、この猛夏の訪れる前の6月頃の陽が降り注ぐ芍薬です。 つまが絵のモチーフに買って来たものを撮ったもの。 2週間ほどで萎れていった切花です。 花も日記もブログも世界も波打って動いているものですね。 ~ 陽を浴びる芍薬 ~
2007/10/23
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岡山から京都、そして大阪へ移動しました。この旅は、まだまだ半ばです。懐かしい友人に、久々に会いました。約30年ぶりの面々も居ました。また、新しい人たちにも何人か出会いました。電車で乗り合わせたおじさんや、キャンパス出会ったご夫人や・・・。旅の醍醐味ですね♪京都の比叡山は、相変わらずの雄雄しい姿を見せてくれました。 下の写真は、大阪の街中、とある風景です。
2007/05/28
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無事、岡山までたどり着きました。これから、京阪神へ向かって出発です。しかし、『さざえ堂』を、『すずめ堂』と打ち間違えた時には、真っ青になりました。お騒がせいたしました。ISIS編集学校の『ミメロギア』を試みてみると。<海のさざえに、空のすずめ>ですね。あるいは、<うっかりさざえと、チョコマカすずめ>でした。もしくは、<コリコリさざえに、がつがつすずめ>でしょうか。・・・まだまだ修行が足りません。。下記の写真は、二階の部屋から写した風景です。今日はこれまで。。 ~ 岡山の風景 ~
2007/05/25
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五月の末の旅のダンドリが整いました。これは、以前から予定していたもので、アバウトな計画はありました。ただし、ポイントだけ。それに纏わって、さまざまな旅のヴィジョンは湧いていました。しかしそれは夢のまた夢。けれど、日程が近づいて来るに従って、旅のイメージが徐々に立ち上がって来ました。今回は南西の旅です。岡山、京阪神、許せば四国まで足を延ばせるかな。大枠のポイントは押さえて置いて、それに連なり詳細が決まって行く。これがわたしの旅のやり方です。一週間くらい留守にします。でも、旅先から日記を書くかも知れません。下記の写真は、先日の北東の旅にて足を運んだ、会津の奇建築です。『すずめ堂』ではなく『さざえ堂』という変わった建物です。二重螺旋の階段が内蔵されているのです。外観からも伺えるでしょう。 ~ さざえ堂 ~◇旅立ちの走り書きで、つい、筆が滑ってしまいました。 というか、完全に記憶違い。 ふゆゆんさんのご指摘で気がつきました。ふゆゆんさんありがとう。 そういえばこの建物、どことなくさざえを彷彿とさせますね♪ 旅先にて。
2007/05/24
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(つづき) ◇ 「ふと」思った時から旅へ 日常生活の中で、まったく予期せず、「ふと」意識の中に浮かび上がって来る一種のひらめき、のようなものは誰だって経験するものである。つまり、この時をつかめという事だ。ある作家がこれを称して、「わがU・F・O」と言っていた。確かにそれは、ある日突然、「ふと」やって来るもので、確認飛行物体(I・F・O)ではない。僕はこれを「無意識からのメッセージ」とでも呼びたい。つまり、日常生活で自分を見失っている度合いが増して来ると、無意識の世界から、そういう警告がやって来るのだと、秘かに信じているのである。 ――― アナタニハ、 タビガヒツヨウデス ――― と、 これが来た時に、その思いに身を委ねてみてはどうか、という事である。 そうした時、旅はすでに始まっている。つまり、この「ふと」が、日常から旅へと導く重要な橋であると言いたいのである。この橋がなんらかの原因で通行不能になった時すでに、「悪い状態の日常(悪旅をまねく日常)」に落ち入っている。その時人は、それに気付いていないのだが、やがて、あのズレがしだいに大きくなり、それに気付かざるを得なくなり「悪旅」がやって来る。そしてこん度は、自己を見つめなければと、逆に意識をとがらせて日常生活の重要さを忘れてしまい、自己に収縮してしまう。さらに深みにはまっていく。どちらにせよ、旅と日常を切り離した時に、狂って来たのである。 ここに至って、旅と日常とが二つの別のものとしてはとらえられなくなって来る。すなわちこの二つは、「生」というものが<旅⇔日常>という回路を息づく場合の形式なのである。だから絶えずその間を行き来していなければ病気になってしまうのである。これが「悪旅」である。そして、そのリズムがスムースに行なわれている場合、<楽旅⇔良い状態の日常>という回路が成立している。この時、「旅→日常」の作用を「慣れ」が行なうとすれば、「日常→旅」が「ふと」なのである。そして、今の僕達にとって、この「ふと」をどうつかむか?という問題は、非常に重要な事ではないのだろうか? さて、この「ふと」自体は何でもない事である。単なる気紛れだとしてそのまま放ってしまえば、消え去っていくような事である。それに身を委ねてみなければどうしようもないのである。その時始めて、旅が始まるのである。身を委ねる。すなわち、その思いもままにやってみる事。あるいは、考えてみるだけでも良い。しかし、これが実は困難な事なのである。――日常生活で慣らされてしまっている「身体」、「頭」に取っては。時間とお金が充分あったとしても、である。 つまり問題は、感受性と、頭(考え方)と、それに伴う身体なのであるから。先ずは、それを感じなければ話にならず、次に、気紛れ、雑念として、良く考えもせず打ち消してしまえばそれまでで、又、怠惰によっても始まらない。 要は、感受性を豊かに、頭を柔軟に、身体を軽くしておけば、必ず楽旅が「ふと」おとずれるだろう。そしてきっと、あの喜びを体験出来る。 ――― 明日何が起こるかわからないからおもしろいんだ。 いつも、今日はどんな出会いがあるのかしら、 と思って部屋を出るの。…etc. ――― このような感慨も、出所はここに在るのである。すなわち、「生」の喜びである。実際、一瞬先の事すらわからない。わからないながら、絶えず動いている。これが、「生」である。 そして、「ふと」をつかむ、という事は、僕達にとって、この「生」を取り戻そうとする運動に、他ならない。 さて、冒頭の逃避行を遂行出来ずまま、この旅も終わりに近づいて来た。胃の具合も良くなって来た所で、華麗なる終止符を。 BON! VOYAGE. 『 なにかを思いついても、 それを十分以内に 実行に移さなければ、 そいつは夢の世界に 消え去ってしまう。 』 <バックミンスター・フラー> Copyright(C) 1976 HOKUSUI-SHA All Rights Reserved.---------------------------------------------------------------------------- 完結編です。一つの文章を3日に分けて掲載しました。これは、大学時代に友人達と3人で作った同人誌で発表したものです。名前を『Rooling Game』(ろおりんぐげえむ)と言います。その3号からの転載です。1976年12月22日発刊。「完全不定期刊行物」と但し書きがあります。1975年からスタートして、この3号で止まったままです。でもまあ、完全不定期ですから、また何時、続刊されるか分かりませんが(笑)。 文中の作家さんは、藤本儀一さんです。バックミンスター・フラーは、言わずと知れた奇才の建築家・宇宙論者ですね。この言葉は、当時の『雑誌:宝島』のスクラップから引用したものです。 色が変わっている箇所は、ルビに黒丸が付いていた文字です。(その1)(その2)も、同様に編集し直そうと思います。 ~ ローリング・ゲーム 3号(原版および復刻版) ~ さて、今日はこれから地域ボランティアと仕事です。東京は、曇り空ですがおだやかな昼下がりです。自転車で行こうか、車にしようか迷っています。 まあ、なんとかなるさ~。 「ふと」したタイミングを頼りに動きたいと思うわたしです。
2007/05/18
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(つづき) ◇ 「旅」を追っての旅立ち さて、「他人の日(たび)」の中で人は何に出会うのだろうか? 国鉄サンのキャッチフレーズではないが、曰(いはく)、「自分に出会う」というのは本当である。全くの他人に接する時、人は、今まで身に付けていた地位、名誉、職業…etc. などの「立場の衣」を脱ぎ捨てて、一対一の裸の人間として対処しなければならなくなる。そこでどうしても、むき出しの自分に出会うのである。しばしば、今まで気付いていなかった、あるいは忘れていた新たなる自分に出会って、驚くのである。そうして、旅から帰ると、新しい目を持って物を見ることが出来るようになっているという訳である。 では、旅に出てから人は変わったのであろうか? そうとも言える。しかし正確には、日常生活において、もうすでに変わっていたのである。ただ、そういう自分に気付いていなかっただけの事である。冗談ではなく、僕達は日常生活においては、多かれ少なかれ自分を見失っているらしいのである。ここでもう一度、「自分の日」に戻ってみなくてはならない。 「自分の日」=日常生活というのはだいたい同じようなことの繰り返しである。毎朝目を覚まして、顔を洗って、歯を磨いて、…etc. 。つまり、一つのリズムがあって、そのリズムを繰り返すことによって生活しているのである。そして僕達はしばしばそれに慣らされていて、いつも同じだなあと感じている。又、自分に対しても、無意識に固定したヴィジョンを持っている。大ていの場合は、過去のある一時においてのヴィジョンを現在にまで持ち続けているのである。 しかし、ここで良く考えてみると、いつも同じであるハズは決してない。一人の人間に生命のエネルギーがあり、外界からさまざまな刺激を受けているのであるから、時とともに確実に変化しているのである。だが、僕達はその変化に気付かず、以前のヴィジョンを持ち続けている。ここに、ズレが生じて来る。そしてそのズレは、刻々と大きくなっているのである。つまり、この点で、僕達は日常生活において自分を見失っているというのである。 このズレを発見するという事が、旅において自分に出会うということであり、旅の主要な内容なのである。 この時、人は、当然こんなハズではなかったという感情にとらわれ、うろたえる。そしてもし、そのズレが大き過ぎた場合には、かなりの精神的ショックを伴い、ひどい時には、生存があやぶまれることすらある。これを悪旅(バッド・トリップ)という。一方、適当なズレで気付いた場合には、それはひとつのひらめきとなり、発見となる。時には、全身で受けても余りあるような喜びを伴うことすらある。これを楽旅(グッド・トリップ)という。 誰だって悪旅はしたくない。楽旅を望んでいる。では、楽旅をするにはどうしたら良いのか? それには、その出発点である日常生活を良い状態にしておく事である。では、日常生活を良い状態に保っておくにはどうしたら良いのか? それには、楽旅をすることである。…と、これでは話にならないが、実際そうなのである。つまり旅と日常とは、切っても切れない関係性を持って来るのである。 でもやはり、それでも話にならないので、そういう、良い「旅と日常」のリズムを作るための手がかりだけでもさぐってみなければ済まない。 それは、「ふと」思った時をどうつかむか、という事である。(つづく) Copyright(C) 1976 HOKUSUI-SHA All Rights Reserved.---------------------------------------------------------------------------- 昨日の続きです。ほとんど「若書き」ですが、あえて編集を施すことなくそのままに転載しています。手打ちの時、何度も書き直そうという衝動に駆られましたが、その都度、原文に戻って、誤字脱字もそのままにしました。そういう方針です。もっとも、縦書きから横書きへ変換する時や、ルビをふるところは儘ならなかったので、表記は変わっていますが…。約30年の時を隔てた転載です。そこんとこ、想像で読み替えて下さいませ。 今日は、東京は変な天気でした。昼間に突然通り雨に見舞われたり、天気雨が降ったり…。 わたしは、だいちの学校公開へ行ったり、近所で所要を済ませたりと、地域での日々を楽しんでいました。昼間は「自転車の日」。学校へ行ったり、市役所へ行ったり、ボランティアの場所へ顔を出したりしていました。お陰で、夜はコタツでそのまま寝入ってしまいました。一夜明けて、今日は絶好の晴れ間に恵まれるようです。 下の写真は、連休あたりに、近所で撮った光の写真。雲間から太陽が半分顔を出して、見事な光の演出を見せていました。「ふと」思わず車を止めて、車中から激写したものです。東京の夕方の空の演出も満更ではないでしょう。 ~ 光の演出 ~
2007/05/15
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「ふと」思った時から旅へ 今から僕は旅について何か書こうとしているのだけれど、時間は迫って来るし、どうも筆の方は進まないし、さっきから、何枚も原稿用紙を無駄にしてしまっている。それに今、少し胃の具合が良くない事もあって、書きながらも頭の中のある所では、しきりに逃避行をもくろんでいる。と言っても僕の逃避行とは、ちょっと喫茶店へ行ってコーヒーを飲みたいとかと言う他愛の無いものでしかないのだが。しかし、こう言ったものも、逃避行、すなわち旅の一形式の他ならないのである。 ◇ 旅とは「他人の日」 「旅」ということばの由来は、「他人の日」であると聞いた事がある。「他人の日」の真ん中の二文字が抜けて「他日(たび)」になったというのである。もっともこれは、テレビか何かで聞いた話で、正統性の如何はわからないが、僕としてはとても気に入ってしまったことばである。そこでここは、この、「他人の日」にこだわって話を続けていこうと思う。これならば、少々胃の具合が悪くても書いていけそうな気がする。 「自分の日」ではなく「他人の日」が、「旅」だという事である。まさに要を得た定義ではないか! つまり、「自分の日」というのは日常生活の事であり、そこから抜け出して全く知らない他人の土地へ行き、他人に会い、他人のメシを食い、他人に囲まれて生活し、…etc. というのが旅の意味である。 ここでおぼろげにも、あの御存じの「旅」の姿が見え始めて来る。アンアン・ノンノのお姉さん方の顔や、ディスカバー・ジャパンのポスターなどが、目の前に散らついて来るではないか。 しかし、もし旅というものがこれだけの意味で終わるものであれば、僕はこんな所には居ないのである。もう、とっくに、さっき思いついた逃避行を遂行して、今頃は喫茶店でコーヒーをすすっている頃である。 否、旅というものは、そんな所で、とどまっているような代物ではない。たとえば、旅ということばだけ取っても、僕たちの回りにイヤという程ころがっているではないか! それらの旅、すべてに共通するものは一体何なのか? 僕はこれから、この「旅」という不可解なものを追いつめて行って、この両手でふん捕まえてやろうと思い始めている。(つづく) Copyright(C) 1976 HOKUSUI-SHA All Rights Reserved.---------------------------------------------------------------------------- 昔、発表したものを、原文のままに掲げています。20歳の頃の文章です。縦書き、二段組みの簡易ガリ版刷りの焼き直しです。『アンアン』と『ノンノ』は、いまだ健在でしたっけ。 国鉄はJRに変わり、時代は進んでいます。『ディスカバー・ジャパン』のキャッチフレーズはまだ耳に残っていますよね。 まあ、時代を遡って読んでくださいませ。 昨日、東京はうす曇でしたが、午後から晴れ間が差して来ました。気温は26~27度ほども上がったでしょうか。わたしは職場のテニス大会で汗を流して来ました。ダブルスの個人成績は3勝1敗。しかし、仲間のお陰で団体成績は見事に4連勝で優勝しました。賞品は大したことは無いのですが、優勝カップのキンキラキンには心弾みました。 さて、下記の写真は、東京ミッドタウン。連休入りに旧友に会うために都内まで遠出した時のものです。建築家の友人に案内され、スムースに都内を遊泳。ちょっと、おのぼり気分のわたしでした。六本木・赤坂界隈はどんどん新しく模様替えですね。これも、またいい一人・二人旅でした。 ~ 東京ミッドタウン外観 ~ ~ アーケードに鯉のぼり ~
2007/05/14
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旅の整理をしていたら、収拾がつかなくなってしまいました。伊勢の旅は途中切れですし、連休はだいちと近辺の旅にあちこちでかけていました。一人の旅も連休中にありましたし、ご報告を一杯溜めてしまっています。そこで、ここは心機一転。そもそもの旅のエッセイを近日中にUPしたいと思いました。何せ、日々が旅の日常なので、仕方がありません。30年位前に上梓したたびのエッセイを先ずは挙げておこうと思います。お楽しみにしていてください。このブログのスタートの原点でもあります。どうぞみなさま、お楽しみに。下記の写真は、会津の旅の一こまです。白虎隊で有名な『鶴ヶ城』が桜にショーアップされている光景です。今夜は、写真でご勘弁を。それではみなさま、よい週末をお過ごしください。 ~ 会津の旅より ~
2007/05/10
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