言霊堂
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第一話 止まり木「はぁ。」焼ける。この至福の時が永遠に続けばいい。そう思いながらつい一週間前に別れた女に思いを馳せる。「いい男が独りでバーのカウンターでため息つくんじゃないの!」馴染みのバーテンが叱咤する。洗い物をしながら空になったグラスを一瞥し、「それ飲みます?ほかにします?」機微に打たれ呆然とした。カウンターの向こう側に憧れていた頃を思い出す。酒好きが講じてしがないフリーターから脱却するためにバーテンの勉強をしていたことがあるのだ。仲間連中との集まりには必ずホスト役を申し出て酒やつまみを作った。シェイカーこそ振らないがステアできるものであれば、大抵のカクテルを作れたし、リクエストや相手の好みに応じて柔軟にそこそこのバーテン面できるくらいになっていたのだ。しかし、カウンターの向こう側ではなく、止まり木でカウンターに肘を付き、頭を垂れる方を選んだ。「ああ、久々にジプシーを頼む。」「覚えてくれていたんですね。感激です。久しぶりだなー、うまく出来るかな。」茹だるような暑さに眩暈がしていた時にテキーラで喉を焼きたくて、この同じ場所で煽っていたときに、テキーラベースのカクテルとして出てきたのがこいつだった。彷徨える子羊には、ピッタリな名前だと思った。バーテンの意外なおどけ振りに目を細める。同年代のお嬢様。こんな地の底で固まった笑顔を貼り付かせながらシェイカーを振る。水物のせいで手は荒れている。いとおしげにグラスに注ぐ。いい笑顔だ。久しぶりにこの女の笑顔が見れた。「どうぞ!少しテキーラきつくしておきました。」この店のバーテンには、俺対応のレシピがよく教育されている。おかげで適量で引き上げることが出来る。「ありがと。そいえば、トミーはいつだっけ?」「彼女ですか?週末じゃないですか?彼女、学業の方忙しそうだし。」嫉妬が滲んだ眼差し。いつもの張り付いた笑顔に戻る。「そっか、あのコいいよね。」聞かなかった振りをして、客のオーダーを取りにカウンターから出て行く。そして、俺は独りになる。新宿歌舞伎町が舞台の小説をよく読む。このバーは天井から手元に向けてスポットライトがあるので適度な光量が得られる。止まり木で酒を愉しみながら小説を読むのはこの半年の間、同じ時間、同じ曜日に繰り返されてきた。別れようとどこかで諦めの心が芽生え始めたころだったのかもしれない。自分と別れた女を小説の主人公に見立てて、ずっと考えていたのかもしれない。結論は出してしまった。後悔がないわけじゃない。だが、そのまま、迷宮へと迷い込んでしまったようだ。いくら飲んでも酔わない。だが、酒はうまい。胃が焼けているのか。胸が妬けているのかわからない。だが、するどい痛みが取れない。いくら飲んでも取れない。トミーも馴染みのバーテンは、もう、店を辞めてしまった。変わらないのは、このカウンターと俺の愛する酒だけだ。「なあ、レモンハートでなんかカクテル出来るか?出来ないならラムコークにしてくれ。」レモンハートは封印していた。が、飲みたくなった。このまま自らにとどめを刺してしまう前に、この酒を愛さなければならない。いつも通りにストレートで呑むと、俺はこの愛する酒に破壊されるだろう。結論を出す前に、壊れることは許されなかった。この酒のように甘美で素晴らしく、官能的、刺激的なものはない。別れた女を思い出す。「じゃあ、やってみましょうか?」酒の味がわかり始めたバーテンがニヤリと笑う。「ああ、期待しないで待ってるよ。サービスしろよ。」とても売り物にはなりそうもないショートのカクテルが出来た。レモンハートデメララ151は、ゴールデンラムだ。茶色に混ぜられる色は決まってくる。が、見た目は捨て、味を重視したようだ。「どうぞ。」「ああ、きつそうだな。」151は、75度ある。これをストレートで呑んでいたのだから、自殺行為のそれでしかない。これを40度程度のアルコールで薄めただけのカクテル。「ん、うまい。だが、きついな。」「でも、ライムが効いているでしょ?」「ああ、レモンハートの香りを殺さない量は、難しそうだな。」「ええ、いつか頼まれると思って練習したんですよ。」「ありがと。これ、『いつもの』にするな。」「はい。うれしいです。」これで、あいつに溺れて死ななくて済む。レモンハートという、別れた女への感傷……。愛する酒に殺されなくて済む。ゆっくりと愛し、ゆっくりと漂える。レモンハートは、恋愛の味がする。
December 2, 2003