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2003.12.27
隣人愛
(26)
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宮台真司氏の著書「サイファ覚醒せよ!」(速水由紀子・共著)に出てきた「隣人愛」という言葉について考えている。隣人愛とは、この本の脚注によれば次のようなものだ。
「キリスト教的な愛。聖書(ルカ伝6・27-28)では次のように書かれている。
<あなた達は敵を愛し、自分を憎む人に善を行い、自分を呪う人々を祝し、自分を讒言(ざんげん)する人々のために祈りなさい>
人間の感情と理解を超え、利己心を打ち砕き、実存から存在に至るか否かを決定する愛、として定義づけられている。」
「隣人愛」とは、普通の意味では愛することの出来ない人にこそ愛を注げということを言っているようだ。これはどうしてだろうか。それについて宮台氏は次のように語っている。
「ちなみに、イエスの教説からパウロが取り出した「隣人愛」(カリタス)の教義は、親や故郷の親しきものを愛する自然感情をエゴイズムとして退けることで、脱共同体的な機能を果たした、ということを別の本で述べましたけれども、パウロが「隣人愛」の教義を強調したのは、ローマ布教上の意識的な選択でした。異教徒・異民族が集う社会で、もう一つの宗教共同体を付け加えるのではなく、共同体一般に対してメタ的な立場をとることで、浸透度を高めようとしたわけです。」
自然感情に反する愛をあえて提案するということは、「メタ的」という、自然感情を越えたものを実現するために必要だったという考え方だ。これこそがパブリック(公)の概念の基本になるものだということも宮台氏は語っている。僕もその考えに共感するのだが、日本の現状は次の通りだということも宮台氏は語っている。
「さっき言ったキリスト教の「隣人愛」の教義だけれど、以前トーク・イベントで田原総一郎に「キリスト教の教義的な核心を占める隣人愛を、田原さんはどう理解しますか」と尋ねたら、「隣の人と仲良くということだろう」と答えていました。これが日本の「知識人」の平均的教養でしょう(笑)。
いやそれどころか、かつて、あるカトリックの神父さんとお話をしたとき、「隣人愛」の教義学的なポイントは、いわゆる隣人すなわち近しい人々を愛する自然感情をエゴイズムとして否定し、自らに石つぶてを投げる者、自らをつき転ばそうとする者をこそ愛すると言えることだ、すなわち「親を捨てよ、故郷を捨てよ」なのだ、と申し上げたら、「いやそんなことはないはずだ」などと度肝を抜かれているわけです。まして、日本の自称宗教家の大半は、そんな教義があり得ると言うこと自体に仰天するわけです。そのぐらいだめなんですね、この日本の自称宗教家の民度は(笑)。」
「さっき言ったように、親を愛するとか故郷の親しき者たちを愛するというのは、誰もが持つ自然感情ですが、共同体の内側ではそれでいいとして、外側ではエゴイズムに転化するわけです。たとえば、同じ共同体に属さない人間--親族でない人間、見知らぬ異邦人など--を差別したりおとしめたりする振る舞いを、抑止するどころか、むしろ「親しきものを守るため」という理屈で正当化さえしかねない。」
隣人愛概念が確立されていない日本社会で、異邦人である外国人に対する偏見と差別が非常にきついのは、親しい者たちに対する自然感情の愛というエゴイズムの強さがかなり関係しているのではないだろうか。難民申請をする者たちへの人権侵害などは、世論の反対が少ないことをいいことに正当化しているのではないかと思える。
隣人愛の問題は、その対極にある親しい人たちだけの幸せを願うと言うことが、それだけでいいのかという問題をはらんでいると宮台氏は語る。親しくない人たちも幸せになる権利が、同等にあるのではないかという問題だ。そういう社会でなければ、社会全体として幸せが大きくなると言うことはないんではないかという問題だ。自分たちだけが幸せで、他の大多数は不幸だという社会が、果たしてその幸せが安定して続くような社会かと言うことだ。テロにおびえなければならない社会というのは、その答えを物語っていると思うのだが。
隣人愛を考えていたら、日本の隣人である朝鮮民主主義人民共和国の人々のことが頭に浮かんできた。この国の人に対して、多くの日本人は偏見を持っている。だから、冷静にこの国のことを考えようとしただけでものすごい反発を受けかねない。およそ隣人愛を持ち得ない状況だ。そこには、仲間を守るために敵を殺せという自然感情のエゴイズムを強く感じる。
しかし、こんな状況だからこそ、あえて感情を殺して冷静に眺めることが必要なのだと思う。ここでも優れたジャーナリストは、感情に流されることなく冷静にかの国の姿を見せてくれる。そして、正しい現状認識のもとに、日本はどう行動していくべきかという問題を提起している。田中宇さんの新著「辺境」では、最後の章で朝鮮民主主義人民共和国について、東アジアの問題という大局的な観点から鋭い分析をしている。
東アジアの問題は、アメリカと中国との関係を軸に展開しているという風に田中さんは分析している。かつては、アメリカは反共的な考えもあって、中国を敵視して、中国を封じ込めるという政策をとってきた。しかし、今や中国は、その資本主義的な経済政策を、社会主義的市場経済と呼んで肯定してしまうくらい、イデオロギー的な危険を感じなくなっている。むしろ、アメリカとしてはこれから伸びていく唯一の市場として、中国を中心とした東アジアの経済圏を安定化させたいという風に思っていると報告している。
朝鮮半島を戦争の惨禍に巻き込んでしまったら、せっかく育ってきた市場をぶちこわすことにもなりかねない。だから、アメリカとしては、戦争を望まないだろうという予測をしている。朝鮮民主主義人民共和国を追いつめて暴発することを望まないのではないかと言うことだ。そうであれば、日本としても外交政策上、この国を追い込んで交渉しようとする方向は得策ではないような気がする。日本の最大の課題である拉致問題の解決も、国家としての朝鮮民主主義人民共和国を追い込むのではなく、国際的な協調の中で犯罪行為として裁くという方向での解決を目指した方が解決への道が開けるのではないか。圧力をかけて追い込んで、他に方法がなくなってから頭を下げるという姿だったら、溜飲を下げる人が多くなるのかもしれないが、その方向に果たして実現可能性があるのかどうか。また、溜飲を下げると言うことを目的にする必要があるのかどうか。むしろ、隣人愛の考えを用いた方が、国際協調を得られるのではないだろうか。
靖国問題に関しても、田中さんは面白い観点を提出してくれる。日本の政治家が靖国問題を何回も繰り返すのは、その問題を解決したいからではなくて、むしろ問題を温存することが目的で、靖国参拝を繰り返すのではないかと言うことだ。中国と日本が仲良くなってしまっては困る勢力というものが、権力の中枢にはたくさんいるので、仲良くならないような工夫の一つとして靖国が利用されているという見方だ。
戦争責任の謝罪に関しても、謝罪の言葉はあるが、具体的な謝罪の意志というのは、補償の問題も含めあまり感じられない。靖国に参拝する行動を見ても、言葉だけで内実のない謝罪というものが多い。これでは中国が反発するのはある意味では当然なのだが、日本国内では謝罪したことは大きく報道されるので、いくら謝罪しても中国は少しもそれを受け入れないというイメージが広がる。日本人には、謝罪ばかりしているというイメージが広がって、そこから中国に対する反発が生まれ、世論のレベルで中国と仲良くすることが難しくなってくる。
感情を殺してみて、冷静に眺めてみると違う面が見えてきたりするものだ。冷静に見る、第三者的に見るというのは、うっかりするとすべてを他人事としてみるということに傾く恐れはある。しかし、なんでも感情移入して一体化してしまうと、利害を強く感じてしまって客観的な判断は出来なくなる。他人事になって自分とは関係ないと見てしまうかどうかは、自分の中にパブリック(公)の精神が生きているかどうかにかかわっているような気がする。パブリック精神を育てる意味での「隣人愛」の重要性を感じている。
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最終更新日 2003.12.27 10:53:01
コメント(26)
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Re:隣人愛(12/27)
まき~♪
さん
>>秀さん、こんにちは。
そうなんです。
すべての教育は、社会の中で自立して自分を表現していくためにするのであって、
知識のために知識には意味がないです。
体育はからだを使う習慣をつけ、運動することを楽しむために、
美術や音楽は、生活の中でそれらを深く喜ぶことを学ぶために、
国語や英語は、コミュニケーションの能力を高め、
与えられた情報の中から明日の社会を創造するための
能力を高めるために、
数学は論理的思考を学ぶためにあるのはないかと
思います。
要するに、因数分解やイギリスの古典が大事ということではなくて、
人間形成のおいしいネタに過ぎないのではないかと思います。
うつくしい古典を学ぶのも必要ですが、
確かにことばをはっきり伝える仕方を学ぶことが、
その前に必要なのかも知れませんね。
わからないことは、確かに
多分に教師の責任でもあります。
しかし、自由記述ややる気を評価する方向に行くのも、
十分検討されてしかるべきですね。
数量化したほうが客観的でいいのかも、とか思っちゃうこともあるし、
自由記述というものに、
最大公約数の没個性的なものが求められても困るなあとか、考えちゃう。
なんだか取りとめもなくなって、ごめんなさい。
(2003.12.27 11:51:12)
返事を書く
Re:隣人愛(12/27)
まき~♪
さん
もひとつ。
隣人愛、おもしろく読ませていただいています。
確かにメタ認知というか、どこか離れたところから自分自身、
日本自身をながめる視点は大事だと思います。
>>「隣人愛」の教義学的なポイントは、いわゆる隣人すなわち近しい人々を愛する自然感情をエゴイズムとして否定し、自らに石つぶてを投げる者、自らをつき転ばそうとする者をこそ愛すると言えることだ、すなわち「親を捨てよ、故郷を捨てよ」なのだ
といわれると、そうかなと思います。
聖書の中では一部背反するような概念もあって、
どれとはいえない面もあるのですが、
「彼は父の心を子に、
子の心を父に向けさせる。
わたしが来て、破滅をもって
この地を撃つことがないように。」
ということばが旧約聖書の最後にあります。
捨てることではなく、むしろ人のこころを広くすることではないでしょうか。
ああ、とても耳が痛かったりするけれどね。
宮台さん、あんまり読んだことないから、
機会があったら探してみます。 (2003.12.27 12:02:11)
返事を書く
Re:Re:隣人愛(12/27)
秀0430
さん
まき~♪さん
僕は、モチベーションが学習に関して決定的に重大な意味を持つというのを、自分でもかなり実感しています。僕は、英語というのは自分の人生に関係ないと思っていましたので、高校3年生の夏休みになるまで、学校で授業を聞く以外に勉強したことがありませんでした。
大学を受験するときに、0点ではまずいから、30点くらいとれるくらいにしておこうというモチベーションで勉強を始めました。その時に、初めて、副詞というものは動詞を修飾するものなんだというような文法知識を知りました。
その後、大学に入ってから、「ザ・ダム」という恋愛小説を教科書にして英語を勉強し、スコット・フィッツジェラルドの「冬の夢」を教科書にしたりして、その小説の面白さで英語を勉強するようになりました。後は、専門の数学を英語で読むとわかりやすかったりしたので、中学生レベルの英語までなら、何とかなるなという感じで読めるようになりました。
ある人は、大人になってから必要になれば、中学生レベルの知識は1週間もあれば何とかなると言っていました。僕も、その可能性はあるなと感じます。
自由記述の評価は、一つの物差しで序列するような評価にはならないんだと言うことが常識になれば、害は減るだろうと思います。権威ある人が最高だという評価を下しても、こんなものどこが面白いんだと素人が評価しても、どちらの評価が絶対的に正しいと言うことはないんだと言うことが常識になることが必要だと思います。 (2003.12.27 14:39:56)
返事を書く
Re:Re:隣人愛(12/27)
秀0430
さん
まき~♪さん
イエスは、旧約聖書に対しては革命者として登場したので、それに反することというのはいくつかあるのではないかと思います。
宮台氏によると、戒律というものに対する考え方も、イエスは革命的だったといいます。戒律を守れば救われるという考え方は、戒律を守れるだけのものを持っている存在しか救われないと言うことを意味していると、そう考えたと言うことです。つまり、救われる人間は救われるのだと言うことで、救われる人間は初めから決まっているのが旧約聖書の世界だと言えるかもしれません。
それが、イエスを選び取ることで、自分で救われる道への一歩を踏み出すことが出来るとしたところが、「新約聖書」の「新」と言うことの意味ではないでしょうか。
僕は、むかし「ブラザーサン、シスタームーン」という映画を高校生の時に見て、聖フランチェスコが、イエスを選び取る決意を語るところで、父親からもらったものをすべて父親に返すという場面にとても感動しました。あれは、父を捨てることで、神の僕となることを意味していたんだなと思います。 (2003.12.27 14:50:57)
返事を書く
Re:隣人愛(12/27)
msk222
さん
「隣人愛」、なるほどなるほどと読みました。
人間の歴史は、宗教によってつくられてきていると思うことがあります。
多かれ少なかれ、「生きる」ことには無意識のなかにも宗教が関わっています。
「隣人愛」には仏教でも似たような解釈があります。たとえば浄土真宗の「悪人こそ救われる」という誤解されやすい教義は、親鸞が「われを信じよ。どんな苦悩をもつ者でも、この世も未来も最高無上の幸福にしてみせる。もし、絶対の幸福にできなかったら、仏の生命を捨てよう」と述べたということから、どんな悪いことをした人でも、死ぬときには許されて仏の国に行けるのだよ、というようなことだと思うのです。
これを、「最後には救われるのだからどんな悪いことをしてもいい」と、自分を律することのできない人には、都合のいい解釈ができてしまうわけです。
どの宗教も、基本的には「善」の方向に解釈してゆけば、人間にとって救いになるはずなのに、「悪」の解釈をするために、宗教対立や信仰を利用したマインドコントロールなども起きてしまう。
立派な宗教者でさえ、教義の解釈を人類統一したものには成しえない。先の浄土真宗もたしか、内部で大きな対立がありましたね。
そのように、宗教も自分を律する気持ちとか、他方を「善」に解釈する気持ちがあって、真に有効に機能すると思うのです。
ところで、秀さんの日記は、なかには秀さんを快からずと思っている人も読んでいると思うのです。その人たちがこの「隣人愛」をどのように読んだのか、解釈するのか聞いてみたい気がします。コワイものみたさもあるのですが…。
(2003.12.27 19:16:51)
返事を書く
Re:隣人愛(12/27)
まき~♪
さん
秀0430さん
ここで聖書の解釈で秀さんと論じることになるとは、
ぜんぜん考えていなかったです。
わたしも今ではキリスト教徒ではないですが、
自分の思ったように書いてみます。
(ほかのことが大事だと思ったらどうかスルーしてください。)
基本的には、キリストの提示したものが、
自然愛、家族愛を否定する方向ではないと思っています。
Turn the heart of the children to the parents
といううつくしい賛美歌を知っているので、
そう思うのかも知れませんが。
前半の、
信じることによってすくわれるということに関しては、
まったくそうだと思いますが、
最後のフランチェスコさんの話は、
フランチェスコさん自身の召命であって、
誰でもそうあるべきだとは思えないのですが。
誰でもわたしについてきたいと思った者は
自分を捨て、自分の十字架を背負って、そしてわたしに
ついていきなさい。(聖書)
ということで、捨てるべきものは、
まず自分自身のかたくなな自我なんだろうと思います。
神の家族として愛し合いなさいと。
しかし、一方で異邦人というものを排除している節が見かけられる。
キリスト教はともかくとして、わたしたちはどう生きるべきなのか。
-----
(2003.12.27 20:54:27)
返事を書く
Re:Re:隣人愛(12/27)
秀0430
さん
msk222さん
キリスト教でも、イエスを信じさえすれば、たとえ悪人であっても救われるという考えがありますよね。しかし、この「信じさえすれば」というのが、実はものすごく高いハードルなんだろうと思います。
仏教においても、悪いことをしても最後には救われるんだから、悪いことをしていてもいいのだと都合良く解釈する人は、信じるということのハードルの高さを甘く見ているのかなと思います。
僕は若い頃に読んだ三浦つとむさんの「哲学入門」の中に出ていた「強い善」という言葉と宗教のつながりを考えます。悪いことを何もしないという意味での「善」がありますが、これは「強い善」とは呼べず、積極的に善を実現していくものを「強い善」と呼んでいました。
「強い善」は、悪を知る善でなければ実現できないのではないかと感じたものです。三浦さんが書いていたのは、弁慶とか河内山宋俊の善の例でしたが、「悪に強きは善にも強い」ということわざとともに書いていました。
自らの悪を自覚し、翻って積極的な善を展開できたときに、悪人であってさえ、いやむしろ悪人だからこそ出来る強い善を行うことによって救われるのだろうと僕は解釈します。
隣人愛を抱くには、その相手がどんなに嫌いな人間でも、その人の権利が侵害されたときに、自分の権利が侵害されたときと同じように感じられるかどうかでしょうね。「ざまあみろ」と思うようでは隣人愛は持てないと思います。 (2003.12.27 21:15:53)
返事を書く
Re:Re:隣人愛(12/27)
秀0430
さん
まき~♪さん
>基本的には、キリストの提示したものが、
>自然愛、家族愛を否定する方向ではないと思っていま
>す。
-----
僕もキリスト教徒でもないし、その教義を研究したのでもないので、正確なものかどうかは分かりませんが、このことに関する感想だけ書いておきます。
僕も基本的には、まきさんと同じように、イエスがこれらのものを否定したのではないと思います。隣人愛を抱くことと、親しい人間を愛することとは両立することであり、互いに排斥しあうものではないと思っています。家族を捨てなければイエスを愛することは出来ないと語っているのではないと思います。
「ブラザーサン、シスタームーン」でも、フランチェスコの友人が、女に対する愛だけは捨てきれないと告白したときに、フランチェスコは、その友人を俗世間に戻るように勧めました。人間には役割というものがある。すべての人間がイエスにだけ従うと決めていたら子供が生まれなくなる。だから、君は子孫を増やす役割に生きればいいと言って、彼を俗世間に戻してやります。イエスを愛する愛し方には、それぞれ違いがあるということを認めていました。
問題は、隣人愛と自然感情としての親しいものへの愛が対立する場合なのではないかと思います。それが対立したときは、隣人愛の方を優先させよとイエスは教えているのではないかと感じました。そしてフランチェスコのように、人々をイエスのもとに導く人間には、すべての面において隣人愛を優先させることを求めるが故に、親しいものを捨てることを求められているのではないかと感じました。 (2003.12.27 21:29:00)
返事を書く
Re:Re:隣人愛(12/27)
秀0430
さん
まき~♪さん
>キリスト教はともかくとして、わたしたちはどう生きるべきなのか。
-----
最後のこの問いに関しては、三浦つとむさんの哲学からヒントを得て考えたことがあります。
三浦さんは、「人はどうあるべきか」とか「人はなんのために生きるか」という問いに対して、原則的な疑問を提出していました。人間に対しては、このような一般論的な問いは成り立たないと考えたのです。
何か人間が作ったものであれば、それは作った人間の目的というものがあって作られています。だから、そういうものに対しては、「どうあるべきか」とか「なんのために存在しているか」と言うことは明らかです。
また、人間が作ったものでない、自然に存在するものについては、それが存在する合理性を合理的に求めることが出います。なぜ存在するかは偶然であっても、それが存在し続ける意理由は、観察することによって理解されます。
しかし、人間のことになると、誰かの目的があってその人間が作られたわけではないので、「なぜ」とか「なんのために」という問いが立てられないのではないかと思います。私は、こういう生き方を選んだ、という自らの意志を述べることしかできないのではないでしょうか。神が私を作ったと信じているのなら、私が存在するのは神の意志のままにといってもいいかと思いますが。
結局、私がどう生きるかというのは、私が選ぶしかないのだという自覚を持つことが大事なのかなと感じました。僕は自由であるときに幸せを感じますから、自由を実現できるように生きたいと思います。そして、自分が自由を得たいから、他の人にも自由であって欲しいと思います。 (2003.12.27 21:41:35)
返事を書く
Re:隣人愛(12/27)
まき~♪
さん
秀0430さん
チャットみたいな感じで書いています。
今は、イラク派兵やイランの災害もあり、
どうか、違うことを書きたい方は、話題を変えてください。
-----
やっぱり自然愛をエゴイズムと言い切るところには、
かなり抵抗があるなあ。
家族に対する勧めのことばは、
エペソ6章とコロサイ3,18~にかなりいろいろ書いてありますし、
お互いに大事にして愛し合いなさいということで。
聖書はともかく、というのは、まずわたしたちがどうあるべきかの理想としては、
自然愛を排除するべきではない、と考えます。
理念、理想への考え(科学もだけれど)が、
自然に発する感情を押し殺して
しまうことがあり、
それがこのごろ怖いことだと思います。
まあ、人間は種の保存の欲求があるわけだし、
それによって、自分のグループの中での保身的な役割をとってしまうのだと思いますが、
本質的にエゴイストなわけだから、
愛の持ち方もエゴイスティックになるのかな。
だから、メタ思考が大切だということ?
さて、エゴイスティックな時間の取り方をしているので、
そろそろ家事に戻ります。
お騒がせしました。 (2003.12.27 22:03:48)
返事を書く
Re:Re:隣人愛(12/27)
秀0430
さん
まき~♪さん
>やっぱり自然愛をエゴイズムと言い切るところには、
かなり抵抗があるなあ。
-----
ここら辺はちょっと誤解がありそうなので弁解させてください。僕も宮台氏も、ある条件付きで自然感情としての親しき者への愛がエゴイズムに転ずると考えているのであって、無条件に自然感情の愛を否定しているのではないのです。
昔、カーク・ダグラスとアンソニー・クインの共演で、「ガンヒルの決闘」という映画がありました。妻がレイプされて殺されてしまった保安官がカーク・ダグラスで、その犯人の父親がアンソニー・クインの牧場主でした。カーク・ダグラスとアンソニー・クインは親友同士で、もしもパブリックな倫理の方を優先させるのなら、たとえ息子であろうとも凶悪犯罪を犯した犯人である息子を逮捕して裁判を受けさせなければなりません。
しかし、アンソニー・クイン演じる牧場主は、息子をかばって親友であるカーク・ダグラス演じる保安官と決闘をするわけです。これは、息子を守るために、自然感情としての愛がエゴイズムに転化した例ではないでしょうか。
息子の不正を見逃そうとするエゴイズムの基礎にあるのが、隣人愛と対立する自然感情の愛だと思うのです。このように、対立が際だっていれば、自然感情がエゴイズムになるということはわかりやすいのではないかと思います。
対立しない場面では、隣人愛は自然感情を否定するものではなく、両立するものだと思います。すべての自然感情がエゴイズムになるのではなく、対立した場面では、エゴイズムに転化する場合が多いと言うことなのだと思います。イエスの教えを体現する人間は、決してエゴイズムの誘惑にとらわれてはいけないので、エゴイズムに転化するかもしれない自然感情を捨てる決心をするのではないかと思います。 (2003.12.27 22:37:06)
返事を書く
Re:隣人愛(12/27)
とべとべさっち
さん
キリスト教でわからないことは「信じる者は救われる」じゃあ、信じないものは救われないの~?ということ。
父が昔持っていた本にあった文字。。何の本だったか?
けいきょ。。字忘れた。啓挙?
一部の人だけ救われるなんて思想は嫌だなぁ。。
さっちの園では、子どもたち一人一人に自分のくらしを見つめさせ、世間のモノサシに負けないくらい強い誇りを持たせたいと保育しています。生きる基盤作り。
誇りは奢りに変わりやすいので、注意が必要ですね。。
自分と同じように何らかの価値観を持って生きている他人のことも認め合えるようにしなければ。
宅間守被告と獄中結婚された方のことを思っています。
自分のことを理解してくれようとする人がそばにいてくれたらどんなに心和らぐことだろう。でも罪を犯す前だったらなぁと。罪を犯したからこそ出会った2人なのでしょうけど。。
さっちはどんな子でも抱きしめられる自信だけはある。
だから、あの人も子どもだったんだ。。と思うと、憎しみも和らぎますね。そして、どうしてこうなっちゃったんだろう。。と考えられます。 (2003.12.27 22:58:23)
返事を書く
Re:Re:隣人愛(12/27)
まき~♪
さん
まだアクセスしています。
とべとべさっちさん、初めておことばを交わします。
よろしく。
>キリスト教でわからないことは「信じる者は救われる」じゃあ、信じないものは救われないの~?ということ。
わたしも、それが納得できなくて、
苦しくなって20年間続けてきた教会を離れました。
あなた救われない者、わたし救われる者という考えをもち続けたら、
伝道でも出来ないと、生活できない。
結局、うち、外と分けられてしまうような感じ。
提挙?キリスト教の本ですか?
>さっちの園では、子どもたち一人一人に自分のくらしを見つめさせ、世間のモノサシに負けないくらい強い誇りを持たせたいと保育しています。生きる基盤作り。
誇りは奢りに変わりやすいので、注意が必要ですね。。
自分と同じように何らかの価値観を持って生きている他人のことも認め合えるようにしなければ。
すばらしいことだと思います。
なんだか、秀さんのページを乗っ取っちゃっているみたいで、
ごめんなさい。
-----
(2003.12.27 23:20:20)
返事を書く
Re:隣人愛(12/27)
秀0430
さん
まき~♪さん
>なんだか、秀さんのページを乗っ取っちゃっているみたいで、
ごめんなさい。
-----
これにはすぐに答えた方がいいと思って、先に返事しますね。
掲示板が、そこを訪れた人の意見交換の場になるというのは、掲示板としては本来の機能を発揮しているのではないかと思います。管理者との対話だけをするのであれば、掲示板なんか必要ないですものね。それならメール機能で充分です。
僕は、楽天の掲示板というのは、掲示板機能をあまり果たしていないなと思っていました。だから、掲示板を閉鎖してもメール機能があれば十分だと思っていました。
こうして、訪問者同士が、暖かい会話が出来る掲示板であれば、掲示板を開いている価値があるのではないかと思っています。暖かくない会話で埋められていると困りますけれどね。そういうときは、必要がないと思うのでさっさと閉鎖しちゃおうと思います。
暖かい会話なら、僕に遠慮せずに、意見交換の場としてお使いください。また、それぞれの管理するページの方がふさわしいと思ったら、またそちらで楽しんでください。楽しんで会話をしているのなら、それを眺めている僕は、乗っ取られたなんて決して考えませんから。 (2003.12.27 23:32:48)
返事を書く
Re:隣人愛(12/27)
ジョンリーフッカー
さん
差別、偏見と言った行動は考えは学校に通い始めた頃から親を通して刷り込まれて気ました。
問題が多くなりそうなのであまり具体的に語れないのですが日本そのものにも差別はあります。
そしてそれが何のために、いつ発生したのかもよくわからないまま、現在進行形で続いています。
新井英一の歌にもありましたね。偏見について歌ったあの歌です。
(2003.12.27 23:49:57)
返事を書く
Re:Re:隣人愛(12/27)
msk222
さん
ジョンリーフッカーさんおひさしぶりです。
といっても、こちらではいつも出会っていますが…。
差別、偏見については、無くそうという「努力目標」が大事ではないかと思います。
この世の中に差別、偏見があってはならないと、決めつけてしまったら矛盾に押しつぶされてしまうでしょう。
むしろ、誰の心にも差別や偏見が潜んでいるものだということを自覚することから出発すべきでしょう。
差別や偏見の目で見ていたことが、むしろその人の特長、優れた部分だということもあります。
たとえば、目の見えない人には皮膚感覚や第六感などが発達した人が多いものです。これは、健常者には欠けている場合があります。
アフリカや耕地民族には、視力が6とか7とかとてつもない人がいっぱいいます。
先進国といわれる人たちが差別の目で見たりしても、実際には価値観の違いだけだったということになります。
男女差も、差別や偏見の歴史が長かったけれど、実際は役割の違いだけです。
役割の違いを勘違いして、なんでも同じ仕事をするべきだというのは平等とは言えないと思います。
誰でも差別や偏見をもつもので、それはいつか自分にも向けられるものだと考えれば、減らす方向に努力しなければならないと、思うようになるのではないでしょうか。
まとまりのない意見ですが…。
(2003.12.28 00:32:50)
返事を書く
Re:Re:隣人愛(12/27)
秀0430
さん
とべとべさっちさん
キリスト教で救われたいと思ったら、キリスト教を信じないとだめでしょうね。でも、救われるのはキリスト教だけじゃなくて、他のものでも救われる可能性があります。だから、キリスト教以外のもので救われたいと思えば、必ずしもキリスト教を信じなくてもいいと思います。
だから、「信じるものは救われる」というのは、「キリスト教を信じるものは、キリスト教で救われる」と受け取った方がいいのではないかと思います。宗教で困るのは、その宗教以外では人は救われないと思っている人が出てくることです。そういう人は、善意によって押しつけをしてくる。
僕はキリスト教によって救われたいと思っていないので、キリスト教を信じることは出来ません。だいたい救われたいと思っているかどうかも、自分ではよく分からないですね。救われるよりも、真理をつかめればそれでいいという感じもあります。
どんな子供でも抱きしめてあげられるさっちさんの気持ちには、隣人愛の可能性が詰まっていると思いますよ。イエスへの信頼がなくても隣人愛を持てたら、これはとても偉大なことだと思います。普通の人は、イエスへの信頼があれば、このような困難も乗り越えられるのかなと感じるからです。 (2003.12.28 09:39:04)
返事を書く
Re:隣人愛(12/27)
秀0430
さん
まき~♪さん
>わたしも、それが納得できなくて、
苦しくなって20年間続けてきた教会を離れました。
あなた救われない者、わたし救われる者という考えをもち続けたら、
伝道でも出来ないと、生活できない。
結局、うち、外と分けられてしまうような感じ。
-----
僕は、若い頃に心がとても弱くなっていたとき、イエスにすがって楽になりたいという誘惑に駆られました。半年くらい教会へ通ったでしょうか。あそこで、信じていたら、僕はキリスト教で救われたかもしれません。
キリスト教で救われたいと思ったら、やっぱり心から信じることが必要だと思います。でも、それが出来なかったら、キリスト教で救われるというのをあきらめるしかないのかなと思います。
僕は、洗礼を受ける寸前まで行きましたが、その気持ちがこれからもずっと続くかどうかに自信が持てなくて、結局キリスト教での救いをあきらめました。でも、あの頃勉強した聖書は好きですよ。聖書にはいいことがたくさん書いてあったと思います。 (2003.12.28 09:45:03)
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Re:Re:隣人愛(12/27)
秀0430
さん
ジョンリーフッカーさん
差別と偏見というのは、それがあからさまに分かるようなものは、解決の方向というのも見えやすいですよね。でも、それがあまりにも日常に浸透していて、差別することが常識になっていると、まずはそれに気づくということが大事になるような気がします。
差別と偏見は無知から生まれるという気が僕にはします。「エスキモー」という言葉は、「生肉を食べる人」という意味を持っていて、そういう野蛮な習慣を持っている人間だという軽蔑感を伴う言葉だったそうです。しかし、北極圏での生活を深く考察してみると、アザラシなどの肉しか食べ物がなく、調理してしまうと、必要な栄養素を壊してしまうという生活環境では、むしろ生肉のまま食べることの方が合理的であったりします。
よく考えれば整合性のあることも、自分たちとは違うということで野蛮だと思いこみ偏見を持つようになるという構造があると思います。これは無知の現れのように感じます。
無知につけ込んで偏見をあおることもよくあると思います。その人間の実態をすべて知ったわけではないのに、悪い面だけを宣伝して、得体の知れないやつというイメージを作ると強い偏見を持つのではないかと思います。ワイドショーでバッシングを受ける人についての報道のされ方にそれを感じます。今ならば、サダム・フセインと金正日について、そのような宣伝が一番多いのでしょうか。
この二人は、本当に悪いやつかもしれませんが、今の宣伝だけが流されている限りでは、どこまでが本当かという疑いを持つことが、偏見に流されない方法かもしれません。 (2003.12.28 09:55:38)
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Re:隣人愛(12/27)
秀0430
さん
msk222さん
掲示板での交流があると、掲示板らしくていい感じがしますよね。
差別と偏見をなくす努力では、文化人類学の進歩に学ぶというのもいいのではないかと思います。文化人類学は、最初は未開民族がいかに遅れているかという観点で、自分たちとは違う文化があるという関心で研究されていたそうです。
それが、レヴィ・ストロースだったでしょうか、その構造に注目することによって、文化としての優劣なんかはないのだという認識を持ったという風に僕は感じました。
構造に注目するというのは、差別と偏見を客観的に理解するにはいい方法なのかなと思います。その差別と偏見が、どんな社会構造のもとで生まれ、そして温存されてきたかに注目して考えると言うことです。それが理解できれば、差別と偏見を生み出した無知を理解することが出来るのではないでしょうか。 (2003.12.28 10:01:18)
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Re:隣人愛(12/27)
とべとべさっち
さん
まき~♪さん
>とべとべさっちさん、初めておことばを交わします。
よろしく。
初めまして。こちらこそよろしくお願い致します。
ケイキョのこと、半端にしか覚えてなくて、、
本の名前も覚えてません。すみません。
キリストが終わりの日に?一部の人を救いあげてどこかに連れて行くようなことだったかしら。。一部というのがクセモノで、純粋に信じる人たちじゃなくて、権力を持った人が自分たちだけが救われるように操作する。。そんな問題が派生するのではと危惧したような書き方だったように思います。
何だか、憲法の解釈の仕方と似ているなぁと今思いました。危なくない場所に置かれる人たち。そうでない人たち。。一番損させられる人たちのことをモノサシに、考えていきたいものですね。
聖書も、解釈いかんで差別的なものになっていく可能性ははらんでいるのかもしれませんね。。 (2003.12.28 21:27:31)
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Re:隣人愛(12/27)
とべとべさっち
さん
秀0430さん
>だいたい救われたいと思っているかどうかも、自分ではよく分からないですね。救われるよりも、真理をつかめればそれでいいという感じもあります。
常に探し物をしている感じでしょう。。
秀さんは言葉の力で人を救っていらっしゃると思いますよ?意識的に、でなくとも。 (2003.12.28 21:39:32)
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Re:Re:隣人愛(12/27)
秀0430
さん
とべとべさっちさん
僕は、「救われる」というのが、あまりイメージがわかないんですよね。「楽しい」とか「理解する」というのならイメージがわくんですけれど、どういう状態になったら「救われる」のかというのがよく分からない感じがするんです。
たとえば、危険が避けられたら「救われた」と感じるのならば、神様にお祈りするよりも、危険の可能性を避ける方法を考えた方がいいかなとも思います。
僕は、どっちに転んでもしめたという発想をしたいと思っているので、救われなくてもいいと思っているのかもしれませんね。こっちに転んだら終わりだ、と思っている人は、実際にそっちに転んだら、誰かに助けてもらわない限り救われないのかもしれません。
僕の言葉が救いのような効果を持つとしたら、それは発想や観点の違いを読みとってくれるからかもしれませんね。どっちに転んでもしめたというのは、ものの見方を、しめたと思える方向から見ると言うことです。それが出来たら、もう終わりだという絶望から抜け出られるのかもしれません。
そういう意味での言葉による救いなら、僕は三浦つとむさんや板倉聖宣さん・本多勝一さん・佐高信さん・宮台真司さん、その他大勢の人から救われているような気がします。 (2003.12.29 14:55:26)
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Re:Re:隣人愛(12/27)
まき~♪
さん
秀さん、こんばんは。
名前が最初に出ていたので、ちょっとおったまげました(爆)。
>僕は、洗礼を受ける寸前まで行きましたが、その気持ちがこれからもずっと続くかどうかに自信が持てなくて、結局キリスト教での救いをあきらめました。でも、あの頃勉強した聖書は好きですよ。聖書にはいいことがたくさん書いてあったと思います。
-----
なるほど、そういうことで聖書の話になるのですね。
ひよちゃんが書いていたのですが、
信仰とはすがりつくものではなく
「自分はこうやって生きていく」と誓いを立て
真っ直ぐに生きていくものであると思う。
と。
そういう意味であれば、信仰心を持つのもよいかと思います。
なんていうか、自分を超えるものを信じて基準としたい。
右見て左見て、それが「基準」で「道徳」だなんてくそくらえ!と思います。
ところが、頼りの自分が、相当におっちょこちょいだから、
困っちゃったりするのですが(笑)。
(2003.12.29 23:30:59)
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Re:Re:隣人愛(12/27)
まき~♪
さん
とべとべさっちさま
お返事をありがとうございました。
わたしは、ていきょと覚えていましたが、
キリストに携えられて天に挙げられるということで、
携挙が正しいのかもしれません。
もともとは、神が基準で人があれこれ言うことができないことのはずなのに、
ことばで「信じる」「信じない」、「洗礼を受ける」、とかいう話にされてしまうと、
こわいです。
やがて終わりの時が来て、
最後の審判で死者がよみがえり、
天国と地獄へ行く、
それを信じている人が今でも多いのが、
なんだか不思議だったりします。
でも、昔より、終わりの日は来るかもしれない、
と思うようになったりして。
やがて来る時代がどういう時代なのかわかりません。
どんな良い思想や宗教でもダークなサイドはありますね。
>>一番損させられる人たちのことをモノサシに、考えていきたいものですね。
おっしゃるとおりかもしれないです。
普段の生活で、子供を抱きしめてあげる自信がある、
と言われるのは、すばらしいことですね。
-----
(2003.12.29 23:42:50)
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Re:隣人愛(12/27)
秀0430
さん
まき~♪さん
僕は、前々からこの楽天の掲示板には疑問を感じていて、掲示板といってもあまり掲示板の機能を持っていないなと感じていたんです。管理者とまるで無関係に話が展開しているのならいざ知らず、ある話題をもとに、訪れた人同士で話が展開するのは、掲示板としては自然じゃないかなとも思っています。
ただ、掲示板の流れが管理者の考える方向と違ってくれば、それを管理するのはまた管理者の権限だとも思っています。まあ、みんなが楽しく思えるのであれば、少々の例外があってもいいんじゃ中と思います。それが一番の基準でしょうか。
信仰についての僕のイメージですが、信仰はまず信じるということが最初にあって、そこからスタートしなければ行けない感じがします。だから、不合理があっても、いやむしろ不合理だからこそ信じるという面も出てきたりするのではないでしょうか。
僕は、信じる前にどうしても理解を求めてしまうので、信仰という形に入れなかったんじゃないかと思います。 (2003.12.30 15:51:43)
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