真理を求めて

真理を求めて

2004.02.01
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田中康夫長野県知事の平成15年9月26日の会見を読んでみた。次のアドレスにアクセスすると見ることが出来る。

http://www.pref.nagano.jp/hisyo/press/20030926.htm

これを読んだ全体の印象としては、なんと論理的にまっとうなことを言う人なんだろうという感想を持った。同じ文学者の芥川賞受賞のもう一人の知事とはエライ違いだ。感情に流されることなく、すべての判断にちゃんとした理由がつけられている。好き嫌いというような、恣意的な判断というものが見あたらない。これから詳しく見ていきたいと思うけれど、最初の印象としては、長野市長が語ったような批判は当たっていないというのが僕の印象だ。

さて田中知事の言葉をそのまま引用して長野市長の言葉と比べてみたい。まずは田中知事の次の言葉だ。

「やはり一人ひとりの市民が、この町は私が好きな町だから、ひいじいさんの墓があるから、私の好きな海があるから、あるいは昔付き合っていたガールフレンドが嫁いだところで、それはとても素晴らしい文化の町だからそこにお金を払いたいということが必要だと思っております。」

この言葉を論理的に解釈すると、「その町が好きだ」と言うことは、「住民税を払う」と言うことにとって、必要なことだ、つまり必要条件だと言っているように感じる。住民税を払っている町に対しては、そこがいい町で好きだという感情を持てる町でなければならないということを語っているように見える。つまり、行政の側は、住民にそう思ってもらえるように努力しなければいけないという問題提起のように感じる。

長野市長の、この部分に関する批判を引用しよう。

「転出の理由について、長野市に市民税を払いたくない、合併しないで頑張っている泰阜村を応援したい、本拠地ではなくて自分の好きな場所に住民税を払うのは自由だ、国会議員だって東京に本拠があるのに、地元に住民票をおいているし、学生が住民票を移さずに、東京の学校へ通っている例はいくらもあるというような理屈を言って、その行動を正当化しようとしておられます。」

ここで、「自分の好きな場所に住民税を払うのは自由だ」という言い方は、住民税を払うのに、その場所が好きだからと言う理由だけでいいではないかという、好きだから払うんだというわがままのように受け取れる。「その土地が好きだ」と言うことが、「住民税を払う」と言うことの十分条件になってしまっているように見える。もしそうであるなら、論理的にはこの解釈は、僕がその前にしたような解釈とは全然違ってしまう。

 僕の解釈;「住民税を払う」→「その土地が好きだ」


 長野市長の解釈;「その土地が好きだ」→「住民税を払う」
      (これは「好き」と言うことが十分条件になる)

長野市長の解釈は、僕が、そう解釈していると受け取っている長野市長の解釈だ。だから、僕の受け取り方が間違っているという可能性もあるが、上の引用文から、僕はそう解釈した。

「好き」ということが必要条件なら、それは行政側の努力を要求することになり、知事としての田中さんの立場とも整合性がある。「好き」ということが十分条件になると、これはわがままという自由を認めるべきだという主張につながるのではないか。

また長野市長は、「長野市に市民税を払いたくない」と田中知事が語っているように言っているが、このようなことを言っている文章は、この会見報告を見る限りではなかった。次の言葉を相当悪意に受け取ると、こんな風に感じるかもしれない。

「泰阜村に自分の住民票があれば、自分の払う納税額というのが、コストダウンではなく、あるいは言葉だけのスリム化ではなくて、より目に見える形で、…自分たちはまだ介護保険をもらうような体でもないが…、その自分たちが納めている税金がそのような村で目に見える形で同じ長野県で誠意を持って生きている市民のために使われるならばと、…今年から大学を退職しましたので収入はほとんど年金だけになってしまったので…、大変父親が悔やんでおりまして、そうした両親の会話を聞いて」

会見のあとの質問で、長野市の30人規模学級での姿勢を批判している部分などをあわせて考えると、税金が市民の望んだ方向で使われていないという疑問を提出していると考えられる。だから、長野市には税金を払いたくないんだと、言ってはいないがそう受け取りたくなるかもしれない。しかし、それは相当悪意にこの言葉を受け取ったときに感じることで、悪意を抱かなければ、まっとうな批判として受け止めるべきだろう。他のところで田中知事が、「長野市に市民税を払いたくない」と語っているのかもしれないが、この会見を見る限りではそうは見えなかった。

それから、国会議員の例などを挙げているのは、会見後の質問に答えている部分で、正確には次のように語っている。

「極論すれば、長野県内に住民票を置きながらですね、東京の学校に通われて、東京のワンルームマンションでごみを出されていて、そこでは住民税をお支払いになっていないというような方もいらっしゃいます。単身赴任の方もそうでしょう。あるいは、長野県選出の国会議員の方々も、長野県に住民票は便宜上置かれているかもしれませんが、主たる居住地はですね、東京であると。そのご家族も東京に居を構えて、東京の学校に通いながら、住民票だけは有権者として長野県にお持ちというような国会議員のご家族も私は少なくなかろうと思っております。常に住民基本台帳において住民の場所を捕捉していると言ってきておりますが、これは形がい化してきているということです。」

これは、他の人もやっているんだから自分がやってもいいんだというように、行為の中に正当性を求めるのではなく、へりくつで正当化しているというのとは違う。むしろ、生活実態があるという判断が時代にそぐわないものになっている、形骸化しているのではないかという問いかけとして受け止めるべきなのではないだろうか。形式的に寝起きしていると言うことが、住民税の支払い義務にとって最大重要なことなのかどうかという問いかけではないだろうか。

田中知事は、また次のようなことも語っている。



毎日寝起きしている地域で、地域のために活動している人間はどれくらいいるだろうか。たとえ週末だけでも、その地域のために何かが出来ると自信を持って言える人は少ないだろう。週末だけしか行かないのでは、月に数回だけだという報道が多かったが、地域に貢献している程度の問題で言えば、毎日寝起きしているだけの人よりも、よほどその地域での生活実態があると判断してもいいのではないだろうか。住民税の全額をその地域に納めるのがふさわしくないとしても、その中の何割かは納めてもいい理由があるのではないだろうか。

知事の会見後の質疑では、この住民票問題に質疑が集中していたが、その他にもかなり建設的な話がたくさん語られていたのに、それには触れられていないと言うのは、知事のマイナス点を見つけたいという感じがついよのだろうかと勘ぐってしまう。長野県の下水道の問題を語った部分など、これこそが地域の住民の切実な願いを取り上げたものではないかと思ったが、質疑はなかった。とてもいいもので疑問点など感じなかったから、ということであればいいのだが、そうなのだろうか。ゼネコンで大金を落とすよりも、毎日の市民生活での大事な問題で、このような発言が出来るということは知事としての優れた面を語るものではないかと思った。

この会見を読んでもっと印象的だったのは、フランスの小さな町から来た村長さんとの交流の報告だった。これは大変素晴らしいもので、日本では発想できない優れた地方自治の一つの例として、このような方向を目指したいという話は、たくさんの人に知らせたいと思った。質疑がなかったが、長野の人には伝えられているのだろうか。東京ではニュースになっていないので、この知事会見の記事を読まない限り知られることはないが、多くの人に知ってもらいたい記事だと思った。

僕が特に共感したのは次の発言だった。ちょっと長いけれど引用しよう。

「ここの小学校に給食設備がなかったんですね。ただ彼は、「子どもたちがこの村で暮らした幸せな子どもの時間を持てば、それはすなわち、みんな自分で摘んで食べたスグリの実やイチゴの味(の思い出)を持っていて、こうした思い出が小学校の中庭にもあるようにしたい」と。「子どものそうした時間を持てば、大きくなっても村に住み続ける、あるいはまた一度他へ出て行ってもここへ帰ってくる可能性が高いと考えた」と。「ところが、現実に小学校に給食施設がなければ、働く親たちは子どもたちを設備のある通勤途中の近隣の町の小学校に入れてしまう」と。すると子どもたちはこの村での思い出がなくなると思って、けれども小さな村なので、近くの5キロくらいの距離の二つの村と共同して三つの村で、給食センターではなくて給食堂を建設したんですね。給食堂を建設して三つの村で1台の共通のバスを持って、そのバスが昼食時に子どもたちを送り迎えしていると。小学校の低学年にはA村、中学年はB村、そして高学年はプレシーの小学校で学ぶという共同運営をしているっていうんですね。これは私は大変なことだと思うんです。私たちはコストカットや経営効率を高めるということのために給食センターを作って、そこから車で給食を子どもたちのところまで運んでいくわけですね。そうすると、どのおばさんが給食作ってくれたかとか、3時間目の時に給食のにおいがしてきて、「ああ、おなかが空いたな」とか、「今日のこのにおいは僕の好きじゃない食べ物だ」とかわからなくなっちゃうわけですね。」



今の日本では、効率よく安い金で出来るものが優先されている。しかし、教育というのは、効率を優先していいものが出来るとは限らない。むしろその逆の方が多い。効率よく記憶するすべを習得すれば、受験勉強には有利になる。しかし、そのような学習に慣れた子供は、学習のモチベーションを高めることが出来ず、本当に困難な学習に取り組むことが出来なくなる。表面的な理解だけで効率よくすませてしまうのだ。

このフランスの小さな田舎の村には、日本で失われた古き良きものが、新しい時代にふさわしいように形を変えて生き残っている。この知恵を学ぶ必要があるのではないか。そこに注目した田中知事のすばらしさを、ジャーナリストだったら注目して欲しかったなと思う。

今まで、田中知事には、改革者としての好印象で見ているという感じだったが、改めてその言葉に実際に接して、その論理の明晰さにますます好印象を持った。田中知事にも間違いを犯すことはあるだろうが、その間違いはきっと積極的な、建設的な一歩が行き過ぎた間違いに違いないと思えるようになった。たとえ間違いがあろうとも、基本的な姿勢を支持できると感じた言葉だった。

このことに関連したニュースに一言触れて、今日の日記の締めくくりにしよう。

「日本の過剰な競争教育に懸念…国連子どもの権利委 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040131-00000003-yom-int






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最終更新日  2004.02.01 23:35:05
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