真理を求めて

真理を求めて

2004.03.15
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昨日の日記で紹介した愛敬さんの文章で、90年代以降の憲法論の事実と解釈を引き続き見ていこうと思う。まず事実の指摘は次のものだ。91年の湾岸戦争を契機として、

「「国際貢献」の名の下、ペルシャ湾への掃海艇派遣、PKO等協力法の成立と自衛隊の海外出動態勢が整備され、また、政治改革論議の頃には「国際貢献」や「解釈上の疑義をなくす」という観点からの9条改定論が提唱された。」

この事実から導かれる解釈は次のものである。

「90年代改革のキーワードは「国際貢献」である。たとえば、94年の読売改憲試案は、国民主権の規定を第一条に置いたり、大陸型憲法裁判所の設置を提言したりと、復古的・権威的な改憲論者以外の市民にも改憲の必要性を訴えようとするものだったが、やはりその主眼は「国際貢献」論に依拠する9条改定だった。」

僕も、この解釈にほぼ賛成するのだが、そう考えると、今までの「押しつけ憲法論」とか、「長い間変わらなかったから」とか言うような、単純な論理では国民を説得できないと言うことに、改憲論者の方でも気づいたということなのかなと思う。「国際貢献」を持ち出せば、それ以前の理由よりも説得力を持つことは確かだ。しかし、この改憲論も頓挫した。その頓挫した理由の解釈は次のものだ。

「ところが、読売改憲試案は不発に終わる。景気対策や行政改革などもっと目先の政治課題が多数あったこともその一因であろう。しかし、95年の沖縄少女暴行事件をきっかけにして国民の間に広がった日米安保条約に対する不信感を前にしながら、日米安保をグローバル規模の軍事同盟へと転換することをもくろむ「日米安保共同宣言」とそれに基づく「新ガイドライン」実施のための法整備(周辺事態法の制定)を実現するためには、時間と手間がかかり、おまけに国民投票というハードルまである憲法改正ではなく、「解釈改憲」ですまそうという便宜的な判断が政府にあったからだと考えられる。」

全くその通りだなと思う。それから、この文章は最後を「考えられる」という言葉で結んでいるが、これは、論理的に考えを進めていけば、そういう結論に至るだろうと、僕もそう確信したときは「考えられる」という言葉を使うことが多い。そこまでの確信が得られないときは「思う」という言葉を使うことが多い。これは、「思う」だけなので反対の考えがあるかもしれないなと感じるときに使う。これは、事実として確かだと思ったら、「思う」も「考える」も使わない。その時は断定するような言葉、たとえば「である」というようなものを使う。

さて、現在の改憲論については愛敬さんはどう書いているだろうか。まず現状認識としての解釈は、

「政治改革の「成果」である小選挙区制の導入、そして社会党の「現実主義」化と凋落は、改憲実現の絶好のチャンスを提供した。このような状況下で改憲派が再び張り切り始めたのが現在の政治状況と言える。」



「00年1月に両院の憲法調査会が活動を開始し、論壇でも改憲論議が再び活発になった。とはいえ、この時期の改憲論は、「改憲さえすれば、世の中が良くなる」式の全く政治的思慮を欠いた議論も少なくなかった(佐柄木俊郎「改憲幻想論」(朝日新聞社)を参照)。」

これも全く同感だ。こういう風に受け止めていた人が多かったせいだろうか、愛敬さんは、「改憲論はしばし休止する」という判断をしている。それはなぜかという解釈が、また共感できるものだ。

「なぜなら「9.11事件」という「千載一遇のチャンス」を利用して自衛隊の戦地への派遣を実現する一方、「テロ」への国民の恐怖が持続するうちに、「防衛秘密」保護規定(自衛隊法96条の2,122条)の導入や「有事」法則の整備をする必要がある以上、9条改定という手間をかけるわけにはいかなかったからだ。」

この解釈を取ると、政府の側の改憲論は、論理的な原理・原則を大事にしたものではなく、手段としての改憲論に過ぎないと言うことも解釈できる。これは政府の立場としてならよく分かる。その方が利益としては大きいだろうから。しかし、これは庶民の利益とは対立するだろう。だから、僕は、そういう軍事的行動の拡大のための手段として使われる憲法「改正」には反対だ。

僕の解釈が事実に近いのではないかと思うのは、愛敬さんの判断も同じような方向にあるからだ。僕よりも、もっと多くの事実から判断できる専門家が、同じような方向を考えているというのは、とても勇気づけられる。次の言葉にそのようなものを感じる。

「繰り返すが、現在の改憲の目的の核心は、9条改定によって、自衛隊を正真正銘の軍隊と認め、さらには集団的自衛権の行使を容認して、海外での軍事行動を可能にする点にある。」

「海外での軍事行動を可能にする」手段として改憲を論じてはいけないのである。その前に、自衛隊を軍隊と認め、集団的自衛権を行使すると言うことの意味を、もっと深く考えなければならないのである。無原則に容認を前提してはいけない。どのようなときに容認し、どのようなときに容認しないかをはっきりさせて原則を確立することの方が先だ。それが出来てから、現実に改憲の方向へ進むべきだ。

現在の改憲論も、「国際貢献」を掲げているように見えるが、一方では、愛敬さんの次のような事実の指摘は、別の解釈を持たせるような感じもする。

「しかし、現代改憲論の特徴としては、経済界からも集団的自衛権に関する政府解釈の変更や9条改定の要求がシリアスなものとして提言されるようになった点を挙げたい。経済同友会の意見書のまとめ役を務めた高坂節三(柴田工業顧問)は、集団的自衛権の行使を熱烈に擁護するが、注目すべきなのは、「グローバル化とは、日本の資本や人材が世界中に広がっていくこと、これを守るためには何らかの方策が必要だ。だから米国と提携するのだが、ここだけは自分がやる、というところがないといざというときも言いたいことが言えない」と述べている点だ(朝日新聞03年5月27日)。「ここだけは自分がやる」というのは、将来、自衛隊をアジア諸国に単独派兵させることの含みさえ疑わせる発言である。」

この方向は、国際貢献とは違うなと僕は感じる。これは、「自衛」という概念の拡大解釈を生じさせる恐れのある考え方だ。海外に存在する「日本(施設的にも人的にも)」を守るために、軍隊を派遣すると言うことも「自衛」に入りかねない。これは、かつて来た道ではないのか。海外に存在する「日本」が損害を受けた場合は、それはまず「犯罪」としてとらえるべきだと思うが、「自衛」にまでエスカレートしてしまうと、「侵略」まではもう一歩行きすぎただけで行ってしまう。現在の改憲論の底に、このような考え方があるとしたら、国民はそれに充分気をつけなければならない。

これは、妄想ではなく、愛敬さんは次の事実を指摘して、現実の話なのだと注意している。



「今、何を考えるべきか」という最終章での愛敬さんの次の主張は、僕も全く同感だ。

「9条改定の是非に関する議論は、このような改憲派のもくろみを踏まえて成されるべきだ。私自身は日本がこのような「普通でない国家」になることに反対だが、国民の多数が日本をそんな国家にしたいのであれば、それも一つの選択だろう。」

「普通でない国家」というのは、「先制的自衛権を行使する国家」のことを指す。そんな国は、世界中でアメリカとイスラエルしかいないのだから、「普通でない国家」だ。また、多数が選択したのなら、その選択は尊重するという姿勢は、民主主義を尊重する姿勢で、これも僕は全く共感するものだ。ただ、国民が重要な選択をするということなら、次のことは大事だろうという愛敬さんの指摘は、多くの人に考えて欲しいと思うものだ。

「そうであるならば、国民はその覚悟を決める必要がある。「とにかく議論をしてみよう」という「改革タブー打破論」や、小泉発言のように「自衛隊が軍隊である事実を認めよう」式の議論は、改憲論の真の目的を隠蔽するための煙幕に過ぎない。この手の9条改定論に安易に乗って、「真の選択」をしないままの選択をしてはならない。」

このあと、愛敬さんは、現在の改憲論の、真の目的を隠蔽している構造をいくつか指摘して、注意を促している。これも大変重要なものなので書き残しておきたいが、今日も充分長くなったので、これは明日に回そう。






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最終更新日  2004.03.15 09:17:18
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