真理を求めて

真理を求めて

2004.04.03
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カテゴリ: カテゴリ未分類
文春の問題は、裁判所が妥当な判断を示して、間違った判断を訂正して終わった。これで、あの問題は、「表現の自由」を巡る闘いではなく、文春という私企業の私的利益に関する争いの問題に落ち着いたと僕は思っている。「表現の自由」を巡る闘いが起こるとすればこれからだろうと思う。

この文春の騒ぎを前例として、プライバシーの暴露による被害が抑制されるようなら、この騒ぎは大きな意義があったと言えるだろう。また、この騒ぎを利用して、「公人」の概念が、記事の内容との関連で判断されるのではなく、単に「家族」であるという形式で判断されるようにごまかされるようになると、これは「表現の自由」の規制につながってくる。「表現の自由」を巡る闘いになるのは、このような利用のされ方が起こったときなのではないか。

文春は、この騒ぎを「表現の自由」にかかわるものだと考えるのなら、今後も、このことに敏感に注意して、批判的な立場を堅持して欲しいものだと思う。そうなったとき初めて、僕も文春の闘いを「表現の自由」を巡る闘いだと理解するだろう。

さて、文春の事件以上に我々にとって重要だと思われる問題が、筋弛緩剤事件で裁判所が示した判断の問題だ。この事件に関しては、僕も事実というのは分からない。誰が犯人であるかなんてことは分からない。しかし、彼を犯人だとする見方には大いに疑問がある。むしろ、殺人事件であるとする見方そのものに大いに疑問を感じる。この疑問だらけの殺人事件を、殺人事件として裁いたことに僕は問題を感じる。

事実として子供が亡くなったのは確かだ。その子供の死に対して、誰かに責任はあるかもしれない。あるいは、責任を問えない事故なのかもしれない。事実の解釈にはいろいろなものがあるだろう。しかし、これを殺人事件とする解釈にはとうてい賛成できないし、無期懲役の判決が出た被告の犯行だとする判断は間違っていると思う。この判断の間違いは、あの程度の疑わしい証拠で判断すると言うことが間違っていると僕は感じるのだ。

証拠が疑わしいのであるから、これは殺人事件として審理に入ってはいけない問題だと思う。このように疑わしい証拠で殺人事件という重大な事件の犯人にされてしまうのであれば、誰でも疑われれば同じ運命に陥る危険がある。我々庶民にとっては、許してはいけない裁判所の判断の間違いはこっちの方ではないかと思う。

文春の問題は、地裁の間違いを高裁が訂正した。この筋弛緩剤事件も、地裁の判断が間違いであったと高裁に訂正してもらいたいと思う。少なくとも、高裁の判断が下されるまで、新たな確固たる証拠が出てこなければ、地裁の判断は間違いであると判断されなければならないと思う。

岩上安身さんというジャーナリストが、「週刊ポスト」に寄稿した、この事件に関する報告がある。ここには、この事件の証拠がいかにあやふやなものかが報告されている。文春も、この程度の記事で弾圧されるのなら、僕も「表現の自由」に対する弾圧だと言うことで、すぐに支持するんだけれど。あの程度の記事で闘う気にはなれなかった。この記事は、次のところに行くと全文を見ることが出来る。

  http://www.hh.iij4u.or.jp/~iwakami/past.htm



まず弁護団団長の阿部泰雄弁護士の次の言葉を引用しよう。

「検察側は後半を先延ばしにして、証拠開示も行なわない。本当に証拠があるのか、現時点ではきわめて疑わしい。逮捕当初の自白は、強引な取り調べでむりやり強要されたものです。捜査当局は、はじめから守くんを犯人と決めつけて見込み捜査を行ない、逮捕・起訴してしまったため、引っ込みがつかなくなり、次々と容疑事実を拡大して拘留を延長し、彼を精神的に追いつめようとしている。これは、典型的な冤罪事件のパターンです」

僕は、これはとても説得力のある言葉だと思う。被告が当初自白したような形になったのも、このように解釈すれば納得がいく。事実というのは、全体的なつながりに整合性がとれたものが事実である可能性が高いと思う。事実の解釈として上のものは、かなり信憑性が高いものだと思う。

この記事は、2001年4月27日のものだが、その時点で岩上さんは、次の疑問を提出している。

「まず、犯罪の凶器として使用されたといわれている筋弛緩剤入りの証拠物件の信憑性。筋弛緩剤は患者の血液サンプルや点滴パックなどから検出されたと一部メディアは報じているが、筋弛緩剤の鑑定結果について捜査当局からの公式発表はいまだにない。また、証拠となるサンプルを、誰が、いつ、どこで手に入れ、保存してきたのかについても曖昧な点が多い。混入の現場に関する目撃証言も同様だ。目撃証人は存在するのか、存在するならば誰なのか、判然としない。
 そして決定的なのは犯行の動機だ。守被告が大量殺人に走る動機について、起訴状は一切、触れていないのである。
 これらの謎は、公判の開始とともに次第に明らかにされていくはずだった。しかし、1回目の逮捕から3ヶ月が過ぎた今でも、初公判が開かれるメドはたっていない。」

この疑問がすべて今回の裁判で明らかにされているようには僕には思えない。この疑問が存在する限り、この裁判は、殺人事件として問えないのではないかと思う。

2001年5月4日・11日号では、被告の動機を探っている。まず、初期報道の事実として次のものを挙げる。

「守被告の犯行への関与と動機をほのめかす初期報道は、整理すると以下の8点となる。

<1>守被告が当直の時に、患者の容態が急変する確率が高かったため、「急変の守」と呼ばれていた。

<3>准看護士のため給料が少なく、待遇面に不満があった。
<4>半田郁子元院長(当時副院長)との人間関係がうまくいっておらず、困らせようと目論んでいた。
<5>応急処置ができるかどうか、医師の腕を試そうとした。
<6>人の注目を集めたかった。
<7>白衣を着て、医者気取りだった。


これが、もしも事実でなかったら、深刻な報道被害の問題をはらんでいると思う。この事件は、冤罪という問題の他にも、報道被害という面からも我々庶民には大きな関わりがある問題を含んでいる。

<1>の報道に対して、岩上さんは次のような報告をしている。

「しかし、ある元職員は、「守くんが急変にあたることが多かったのは、別に不思議ではない」と振り返る。
 「患者が夜間に急変することが多いのは、医療の世界では常識です。北陵クリニックには既婚者で子持ちの看護婦が多くて、10名あまりいる看護スタッフのうち、夜勤ができない人も数名いました。
 だから、独身男性の彼に夜勤の割りあてが多くなるのは自然なこと。そして夜勤が多くなれば、急変に出くわす確率も高くなる。それだけのことですよ」」

まさに、事実の解釈はどうにでも出来ると言うことの典型がここにある。被告を犯人にしたいと思う解釈をした場合と、事実を冷静に受け止めて解釈した場合とでは、これだけの解釈の違いが出てくる。初期報道をした報道機関は、この程度のことも調査せずに短絡的に、被告が犯人であるという前提で解釈して記事を垂れ流したのであろうか。

<2>については次のような事実がある。

「患者さんへの態度(<2>)についてですが、歩けない60歳前後のある患者さんに『散歩したら?』といったのは、事実です。でもそれは、ご家族がお見舞いに来ていたので、車椅子を使って屋外に出て、外の空気を吸ってきたら、という意味でいったんですよ。その言葉を『歩けないとわかっているのに、散歩したら、と嫌がらせをいわれた』と、悪く受け取られてしまったんですね。言葉足らずのために、患者さんの気持ちを傷つけてしまったことで、彼はすごく落ち込んでました」

<2>のような事実の解釈は、被告が、殺人というような凶悪犯罪を行うような人格の持ち主であると想像させる要素がある。もし、被告が犯人でなければ、これはひどい人格攻撃であり名誉毀損であると思う。

その他の事柄についても、岩上さんは丁寧に一つずつ、違う解釈が出来るということを事実をもとに証明している。この岩上さんの報告を読むと、被告に対するイメージが全く変わってくるのではないかと思う。この報告は、さらに続くのだが、このあとはまた別の日に考えることにしよう。

報道被害に関しては、それをずっと追求し続けている同志社大学の浅野健一さんが、自身のホームページにも書いている。

「浜田純一氏に「朝日新聞 報道と人権委」委員辞任を勧告する」
http://www1.doshisha.ac.jp/~kasano/FEATURES/2003/sendai.htm

ここには、仙台弁護士会が出した勧告のことが報告されている。次のものだ。

「[勧告は、21日付の前文にある「生命を預かる医療従事者が点滴を凶器にするといった前代未聞の事件はなぜ起きたのか」との表現について「被疑者が犯人であると前提した表現」であり、犯人視報道だとした。また、記事全体についても、この前文を受け、容疑者が犯行を行ったことを前提に識者の意見を聞いており、読者に容疑者が犯人と受け取らせるなどと指摘し、「犯人視報道であり、人権侵害にあたる」とした。」

浅野さんは、「市民の好奇心に応えることが報道の任務」と言うことを厳しく批判している。報道機関が、このような態度を持っている限り、報道被害は止まらないだろう。このような姿勢までも「表現の自由」の範疇に入れるのなら、僕は、そのような「表現の自由」は否定されるべきだと思っている。「表現の自由」も、無条件に優位にある概念ではないのだ。それが制限されるべき現実的な条件もあり得る。しかし、それはモラルによって制限されるべきもので、決して法律によって制限されるものではない。法律による制限は、どうしても逸脱する可能性があるからだ。だから、モラルに関しては、もっと厳しく批判しなければならないのだと思う。

岩上さんの記事にしても、浅野さんの主張にしても、まだなお語りたいものが多いが、今日も十分長い日記になったので、また明日にしよう。





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最終更新日  2004.04.03 10:47:25
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Re:我々にとって、筋弛緩剤事件の重要性(04/03)  
犯人は守被告だという断定的な報道が出た当時

守さんの写真に「実は悪賢いのか」という感想を持ったことを覚えています。

つくられた冤罪というものが、
歴史の中に存在するのは間違いないですね。
ジャンヌ・ダルクであったり狭山事件であったり
その人の弱いところを突いて裁こうとする。卑怯です。

あるベテラン保育士が、言いました。
「一人を徹底的に叱りなさい」
見せしめということです。
それはおかしいんじゃないかとその時思いましたが
やはりおかしいことなんだと確信しました。

あの子が叱られた。カワイソウ。でも自分は同じことをしたのに叱られなかった。良かった。あんなに叱られたくない。気をつけよう。先生は裁く人なんだなぁ。好きなように裁けるんだなぁ。今度こんなことがあったら「ボクはしてないよ」って言うことにしよう。

「ボクはしてない」から「キミとは違うよ」と、それ以上考えない子にしてしまう。(自分にもそんなところがあってゾッとさせられますが)一人、悪者を作って安心してしまう。そんな社会をつくるお手伝いはしたくないです。

集団を権力で操るような
そういうことがない保育をと思いました。
ただ、「権力に絶対服従」を人間の肌に染み込ませてしまうのは、入園前のもっと幼い頃かもしれません。。 (2004.04.03 17:48:43)

Re[1]:我々にとって、筋弛緩剤事件の重要性(04/03)  
秀0430  さん
とべとべさっちさん

見せしめを作るというのは、支配者として君臨したいときはなかなか役に立つ方法だね。特に、それが便利なのは、支配される側が、自ら支配に身をゆだねるようにし向けるからだ。つまり、支配する側が、常に圧力を加えるための力を使わなくてすむんだね。

見せしめとして役に立つと、みんなそうならないように声をあげなくなるし、逆に、支配者に媚びるようなやつも出てくる。

このように、支配者にとっては役に立つ見せしめだけれど、指導者がこれを利用しようとすると、それは大きな失敗を招く。見せしめは、自分の頭でものを考えようとする人間を育てない。逆に自分の頭で考えるのではなく、支配者が何を望んでいるかを先取りするような忖度をする人間を育てる。

僕もさっちさんも、自分の頭でものを考える人間を育てたいと思っているんだよね。支配者じゃなくて、指導者でありたいと思っているんだよね。

自分の頭でものを考えることを教えるには、積極的な失敗を高く評価するのがいいと僕は思うな。 (2004.04.03 20:47:57)

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