真理を求めて

真理を求めて

2004.06.05
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僕は、いくつかの本を並行して読み進めていることが多いが、今は高遠菜穂子さんの「愛してるって、どう言うの?」という本と、内田樹さんの「寝ながら学べる構造主義」を中心にして読んでいる。この2冊は読み方において大いに違いがあるのを感じながら読んでいる。

高遠さんの本は、理解できないと言う部分はほとんどない。知らないことは細部に渡るイメージを浮かべることは出来ないが、そこで何をし、何を感じたかと言うことは十分想像できる。論理的なつながりをたどらないと、何を言いたいのか分からないと言うことはほとんどない。その意味では理解しやすいと言える。こういう本を読むとき、僕の頭に浮かんでくるのは、そこに書かれている感覚に共感できるかどうかと言うことだ。

前の日記にも書いたが、この本には共感できることが多い。だからこそ僕は高遠さんの活動は、尊敬できるものであって、高遠さん自身に対しても非常に敬意を感じている。たとえば共感する部分は次のようなところだ。

「着いた。あの村に着いた。子供たちがいた。私のことを覚えているという仕草をする子供たちがいた。私たちは、大きな声で村人たちに挨拶をした。覚え立てのグジャラート語で歌と踊りを教え、同じ曲を日本語でも教えた。すると彼らはあっという間に覚えてしまった。新聞紙で作った特大の折り紙で“サムライキャップ”を作ると、収拾がつかないほどの大騒ぎになってしまった。大人たちも遠巻きに子供たちの様子をうかがっている。でも、私は確認したんだ。一人一人の顔を。みんなが笑っていることを。」

上のような文章は、共感できない人にとっては、高遠さんの「自己満足」だというふうに受け取りたくなるだろうと思う。しかし、僕は高遠さんが「確認した」という感性にとても共感を覚える。高遠さんは、自分が専門的知識も技能もない素人ボランティアだと言うことを自覚している。だから、「効率」という面では役に立たないということも自覚している。だからこそ、自分に出来ることは何かと言うことに深い思いを感じている。

その出来ることが、笑顔を感じることなのではないかと手探りでつかみ取っている、その感性に僕は共感する。この感性が、高遠さんのボランティア活動全部に行き渡っているように感じるので、僕は高遠さんの活動に敬意を感じるのだ。

この感性は、僕自身の仕事にも通じるものだと思えるので共感を感じるのかもしれない。僕は数学を教えて生計を立てているのだが、その際に「効率的に教える」ことよりも、「喜びを感じて」学んでくれた方が、僕自身は嬉しいという感性を持っている。板倉さんは、「面白い」と言うことと「分かる」と言うこととの組み合わせで、授業の評価に次のような順位をつけた。

1 面白くてよく分かる。
2 よく分かるとは言えないけれど面白い。

4 面白くないけれど、分かることは分かる。

普通の人の常識から言うと、2から4の順位は違ってくるのではないだろうか。面白さにあまり価値をおかない人は、「分かる」方が価値が高いと見て、4を2番目に置きたくなるかもしれない。しかし、僕は板倉さんが言うように、面白くないのに、嫌々ながらも理解させられてしまうと言うところに、奴隷教育の匂いを感じてしまう。

面白くないものは拒否することが主体性の表れだと僕なんかは思っている。だから、そんなものは理解させられたくないと思う。そういう感性だから、「面白くないけれど分かる」というものは4番目の最低の評価になってしまうわけだ。そして、「分からなくてもとにかく面白い」というものの評価が高くなる。

高遠さんの感覚も、これに近いものを僕は感じる。効率的で、物質的な復興に役立つようなボランティアは、それなりに評価されてもいいだろうと思う。しかし、物質的には豊かになったけれど、心は少しも癒されないと言うような状態では、果たして「幸せ」を感じるだろうか。病気を防いでくれても、人間として扱われていると感じられず、家畜か物のように扱われていると感じたら、たとえ病気になって何も出来なくても、そばにいてただ手を握ってくれているだけの方が幸せだと、そう感じる感性を高遠さんも持っているような気がして、僕はそこに共感する。

事実や思いを記述する文章は理解しやすい。そして、理解の後に共感できるかどうかで、その文章を読んだことの評価が生まれてくるのだろうと思う。僕は、高遠さんの文章を読んで、とても気持ちのいい時間を過ごすことが出来た。それは深い共感を覚えたからだ。

一方で、内田さんの文章のように理論的な文章を読むときは、共感よりも理解の方を僕は求める。思いや事実をそれだけで受け取るのではなく、その間の論理的なつながりを「理解」するように努めて、それに納得がいったときに、共感する文章を読んだときと同じような気持ちの良さを味わうことが出来る。

理論的な結論に対しては、感情的には必ずしも共感できないときもある。それでも、それが納得いくものであれば、その論理の整合性には、気持ちの良さや美しさを感じてしまう。感情が受け入れないから、論理を拒否するという感性は僕にはない。これは、論理に慣れていない人にはなかなか理解できない感性ではないかと思う。

長崎での事件のようにセンセーショナルな事件が起きると、人権を巡って次のような「議論」が聞こえるときがある。加害者の人権ばかりが守られて、被害者の人権が守られていないんじゃないのか、というものだ。これは、感情的に、加害者に対する非難の気持ちがあるため、加害者の人権が多少侵害されても「自業自得」ではないかという思いがあるのではないだろうか。

しかし、人権というのは、どのような立場にいるものであろうとも守られなければならない最低線というものがあるというのが論理的には正しいと僕は思っている。だから、たとえ加害者であろうとも、その最低線はどのような感情的な憤激があろうとも守らなければならない。

被害者は、命を奪われることですでに人権を侵害されている。しかし、これは元に戻すことが出来ない侵害だ。だから、加害者は、それにふさわしい罰を受けることで、この人権侵害を埋め合わせなければならないだろう。これからの人権侵害が起こる可能性に対して、それを出来るだけ防ぐと言うことが大事なので、表面的には加害者の方が守られて、被害者がないがしろにされているというふうに受け取りたくなるが、守るべき人権の内容が違うので、対処の仕方が違うというのが僕の受け取り方だ。

被害者に対しては、事件と関係のないプライバシーの暴露や、たとえ事件と関わりがあろうとも、今の時点で一般に知らせる必要がないものは、その暴露に対して制限を加えると言うことが被害者の人権を守ることになるのではないだろうか。のぞき見的関心を満足させるために「表現の自由」というものがあるのではない。



「ブルジョワとプロレタリアは単に生産手段を持っているか否かという外形的な違いで区別されるだけでなく、その生活のあり方や人間観や世界の見え方そのもを異にしています。
 人間の中心に「人間そのもの」--普遍的人間性--と言うものが宿っているとすれば、それはその人がどんな身分に生まれようと、どんな社会的立場にいようと、男であろうと女であろうと、大人であろうと子供であろうと、変わることはないはずです。マルクスはそのような伝統的な人間観を退けました。人間の個別性を形作るのは、その人が「何ものか」ではなく、「何事をなすか」によって決定される、マルクスはそう考えました。「何ものであるか」というのは、「存在する」ことに軸足を置いた人間の見方であり、「何事をなすか」というのは、「行動すること」に軸足を置いた人間の見方である、と言うふうに言い換えることが出来るかもしれません。」

ブルジョワとプロレタリアというのは、ある意味ではレッテル貼りのように見える。たとえブルジョワであろうとも、ヒューマニズムに溢れた立派な人はいるだろうと思う。個人としてはそうだ。しかし、個人に対して、そのようなレッテル貼りが間違っているとしても、ブルジョワという抽象的な存在に関しては、一般論としては上のようなマルクスの見方が成立することは論理的に納得できる。

また逆に言うと、マルクスは「何事をなすか」にその個人の評価についても重さを置いていると考えられるので、たとえブルジョワに生まれても、何をして生きてきたかでヒューマニストであるかどうかが違ってくるとも言える。

僕は24年間公立学校の教員をしてきている。公立学校の教員は、基本的に法律を守って仕事をするわけだから、国家権力が目指す教育の方向に沿って仕事をすることが基本となる。だから、一般論としてその存在を考えれば、ちょっと言葉はきついが「国家権力の手先」であるという存在になるだろうと思う。それがいやならやめるしかない。僕はやめたくはないので、「国家権力の手先」として振る舞わなければならない場面では、そのように振る舞う。これは不本意ではあるけれど、仕方のないこととして受け入れている。



善意に溢れた人は、自らの存在が「国家権力の手先」であると言うことに感情的に耐えられないという思いが生まれる。しかし、存在の基盤が「国家権力の手先」というものを規定してくるのであるから、それを観念の世界で否定しても、その矛盾はいつまでもついて回る。その時は、たとえ存在の一部でマイナスイメージである「国家権力の手先」というものを受け入れても、それが自分の存在のすべてではないという自覚をすれば、自尊心を守ることはできると思う。

僕はそんな風にして、感情の問題と論理の問題に折り合いをつけている。現実は矛盾に溢れた世界だ。純粋にきれいな生き方ができるとは思わない。表面的にどこかが汚れていようとも、本質が汚れていなければ、誇りある生き方ができると思う。それを「自己満足」と呼ぶ人もいるだろうが、そうでない感性を持っている人と共感できたら、その共感を大事にして僕は生きていきたいと思う。

感性の近い人の文章は、最初から共感できる場合が多いけれど、たとえ感性に違いがあっても、論理的に整合性がとれている文章を書く人には、あとから共感できる人が多いなと思う。





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最終更新日  2004.06.05 11:04:43
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