真理を求めて

真理を求めて

2004.06.13
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カテゴリ: カテゴリ未分類
内田さんの本が面白い。これほど心惹かれるのは、内田さんの文章に「ニヒリズム」を感じるからではないかと思う。僕自身も「ニヒリスト」の資質があるので、そこに触れるような箇所に共感をするのだろうと思う。この本でも、最初の部分に次のような文章がある。

「引っ越すときに荷造りがたいへんだから、余り物を持たない。家具は最低限のものしかないし、洋服は2シーズン袖を通さないものは棄てる。本も読み返す予定のないものは棄てる。本と服とパソコンとCDとDVDだけしかないから、家の中はがらんとしています。
 所有しないのが好きなんです。
 こういうことを言うと、悟りすました人間みたいですが、でも、物欲を満たそうと思っていると、もう切りがないでしょう。ひたすら不充足感が募ってゆくばかりで、これ、つらいです。」

この文章が「ニヒリスト」の性格を表していると読みとるのは、深読みのしすぎかもしれないが、「ニヒリスト」をここから感じると言うことで、僕は内田さんに共感してしまう。僕はここまで徹底して「物欲」から離れることが出来ないが、原則的にはこのような生き方をしたいと思っている。

自分のもっている「物」をすべて失っても、なおかつ「物」でない財産が自分の頭の中に残っていれば、それでいいやと思うような心の状態が、「ニヒリスト」の資質の一つかなと僕は思っている。「物」にはその程度の価値しかないんだと軽く見る心と言おうか。「物」をすべて失えば、残念だという気持ちはあるが、それが耐えられないほどのダメージだとは思わない、「物」への執着はその程度にしたいというのが、僕の中の「ニヒリスト」的心情だ。

内田さんは、この文章の続きで、「欲望の充足ラインを低めに設定」すると言うことも語っている。僕は、これにも共感する。僕は「努力」とか「根性」とか言う言葉が嫌いなのだが、これは、今よりも「いい」状態を目標にして、内田さんに言わせると「もう1ランク上の自分」を志向するものだ。そのために、困難や嫌いなものに耐えるという「努力」をすることになる。

僕は、「努力」なんかせずに、好きなことを夢中でやっていたら、いつの間にかいろいろなことが出来るようになっていた、という状態が好きだ。何かを克服するために「根性」なんか必要がない。それが好きだという気持ちを持ち続けることが出来れば、いつの間にか困難も乗り越えてしまっている、というのが好きだ。

「1ランク上の自分」を目指すというのは、その目標になるような「ロールモデル」があるということなのかもしれない。それは、誰かと比較して、その比較の評価が高いことに幸せを感じるという心情だろうか。僕には、そういう心情がほとんどなかったように感じる。僕は、孤独が好きだった若い時代を過ごしたが、孤独が好きだったのは、誰とも比較する気がなかったので、自分一人の世界で充足していたと言うことなのかもしれないと思っている。



僕にとっての「ロールモデル」は三浦つとむさんかもしれないなと最近は思うようになった。僕にとって三浦さんは、師と仰ぐほどの思い入れを感じる人だ。三浦さんの生き方を自分に重ねたくて仕方がないというところがある。三浦さんは、今でもアカデミックな学問の世界からは全く無視されているところがある。しかし、三浦さんはそんなことを全く気にしていなかった。

三浦さんは、自分が関心を持った研究を、いつか発表できる形で残しておくというスタイルをずっと守ってきた。流行に乗ったり、それを発表することで有名になったりと言うことを全く考えなかった人だ。真理がつかめると言うことが三浦さんの充足感・幸せだったと思う。このような生き方が、僕にとっての「ロールモデル」になったのだろうと思う。その著書に思い入れを感じる人は他にもあるが、師と仰ぐほどの思い入れ(生き方そのものへのあこがれ)を感じるのは、三浦つとむさんだけだ。

内田さんのニヒリスト的な感覚を感じる文章をもう少し紹介しよう。

「確かに、そういう「不充足感」をバネにして生きると言うことも堂々たる生き方だとは思います。けれども、僕はもう、そういうのはやめた方がいいんじゃないかと思うんですよ。「向上心、持たなくていいよ」なんて言うと教育者にあるまじき暴言に聞こえるかもしれないけれど、まあいろいろ理由があるわけで。
 僕が学生たちに向かってよく言うことは、「君たちにはほとんど無限の可能性がある。でも、可能性はそれほど無限ではない」と言うことです。
 自分の可能性を信じるのはとても良いことです。でも、可能性を信じすぎて、出来ないことをやろうとするのはよいことではありません。だって、ずっと不充足感に悩み、達成できないというストレスに苦しみ続けることになりますから。」

可能性を信じすぎてはいけないという、醒めた見方はニヒリストの見方だろうと思う。僕は、このようなところに共感する。無限の可能性があるというのは、何かを好きになるという可能性においては、それは無限の対象を想定できると言うことで「無限」なのだと思う。好きになりさえすれば、それは「努力」せずともかなりの水準にまで高めることが出来る。そういう意味での可能性はいくらでもある。

しかし、何かを好きになるというのは、自分の資質や条件などによって限定されてしまう。僕は数学を好きになったが、英語や国語や社会は少しも好きにならなかったし、野球は好きだったがバスケットは好きにならなかった。だから、好きになる対象に関しては、その可能性は無限ではないということはよく分かる。

ただ状況が変わればそれも変わってくる。学生の頃は少しも好きでなかった社会科のようなものが、仕事に就いてからは、社会そのものを知りたいという欲求が起こってきて、政治・経済・歴史というものが好きになった。萩原朔太郎の詩の朗読をラジオで聞いてからは、高校生までは全く関心がなかった詩の世界への興味もわいてきた。こういう形で、「無限」の可能性が現実化していくのかなと思った。

僕は、可能性を現実化するために努力しようという気持ちはもっていない。ここら辺は「ニヒリスト」だなと思う。偶然、その現実化が僕に訪れてくれればいいし、訪れなければ、その可能性はなかったのだと受け止めるだけだ。こういう意味で「向上心」などというものを持たない、というふうに考える。

僕は、とりあえず数学教育(公立の中学校だから、大衆教育としての数学教育だ)の専門家だと自分を位置づけている。その立場から、今の数学教育(中学校の)を見ると、数学の専門家にならない人間に対しては、末梢的で必要のない知識が多すぎると思う。それは将来の可能性に備えるというものではないように感じる。それでは、専門家を目指す人間にとっては役に立つかといえば、それは本質を極めるという点で不十分で、とても専門課程の学習に耐えるだけの基礎を作れない。どちらにとっても中途半端な内容になっている。



高校までの大衆教育としての数学教育は、いかにして数学の学習をあきらめさせるかと言うことをねらっているのではないかと思うくらいだ。それが、大学に入って完成するという感じだ。高校までの数学教育に毒されずにいて、しかもそこそこ成績を維持してきた人間が、やっと専門課程の数学の勉強に耐えうる資質を持っていたという感じがする。まことに現実的な可能性そのものは狭いものだ。

もう一つ、耳を傾けたい言葉として、「人間はわりと簡単に壊れる」と言うことを説明した文章を引用しよう。

「私にはあれも出来るはずだ。これも出来るはずだ。といろいろな課題を抱え込んでしまう。確かに、やろうと思えば出来ないことはないんです。でもそれを「一気に」達成するのは無理です。受験勉強のように「ゴール」が見えているプロセスの場合は、短期的に心身の限界を超えるような負荷を自分にかけることは出来ます。でも、それを数年とか十数年に渡って続けることは出来ません。そんなことをしたら、人間、誰だって壊れます。
 人間というのは、強いけれど、弱い。がんばれるけれど、がんばればその分だけ疲れる。無理して先払いしたエネルギーは、必ずあとで帳尻を合わせるために回収される。この当たり前のことを分かっていない人が多すぎると思います。」

がんばるのは、「根性」なんかがあるからがんばってしまうのであると思う。「根性」や「努力」という言葉を嫌いになれば、がんばらなくなるのになと、僕なんかは思ってしまう。内田さんが言うように、「向上心は確かにある方がいい。でも、ありすぎてはいけない」と僕も思う。自分が好きだと思うものにだけ「向上心」を向ければいいのだと思う。



最後に、この章の結びの言葉を引用しよう。「愛情」という言葉に新しい意味を感じるような文章だ。これは解説なしに、そのまま言葉を味わってもらえばいいんじゃないかと思う。

「愛情をずいぶん乱暴にこき使う人がいます。相手が自分のことをどれほど愛しているのか知ろうとして、愛情を「試す」人がいます。無理難題を吹きかけたり、傷つけたり、裏切ったり……様々な「試練」を愛情に与えて、それを生き延びたら、それが「本当の愛情」だ、というようなことを考える。
 でもこれは間違ってますよ。愛情は「試す」ものではありません。「育てる」ものです。
 きちんと水をやって日に当てて肥料を与えて、じっくり育てるものです。
 若芽のうちに、風雨にさらして、踏みつけて、それでもなお生き延びるかどうか実験するというようなことをしても、なんの意味もありません。ほとんどの愛情は、そんなことをすれば、すぐに枯死してしまうでしょう。
 愛情を最大化するためには、愛情にも「命がある」と言うことを知る必要があります。丁寧に慈しんで、育てることによって初めて「風雨に耐える」ほどの強さを持つようにもなるのです。
 僕たちの可能性を殺す者がいるとすれば、それは他の誰でもありません。その可能性にあまりに多くの期待を寄せる僕たち自身なのです。」





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最終更新日  2004.06.13 12:04:13
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