真理を求めて

真理を求めて

2004.06.22
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批判というと、何でもかんでも文句をつけるというマイナスイメージを持っている人はいないだろうか。イラクへの自衛隊派遣に反対するのも批判の一つなのだが、人質事件の時には、この批判が、国家に対して文句をつけているというふうに受け取った人がたくさんいて、それが不当なバッシングにつながったように感じる。

しかし、批判というのは、民主主義というものが腐っていきそうなときに発する警告の一つでもあるのだ。もし批判を許さないような社会の雰囲気ができあがってくると、民主主義は確実に腐っていく。そして、最後には、制度としての民主主義は残っていても、その民主主義は全く機能しない社会になってしまう。それは歴史を振り返ってみればよく分かるのではないかと思う。

今の日本社会の雰囲気を見ていると、批判を許さないという軍国主義下のものとは違うが、批判が全く力を持たないという無力観というか、絶望的なあきらめを感じるような雰囲気があるのを感じる。批判というのは、権力が暴走しそうになったときに、その暴走に警告を発し、取り返しのつかない失敗につながらないように歯止めをかけるものになるはずだ。しかし、今の日本社会では、まじめな批判がなかなか受け止められず、批判をするような人間が時代遅れのものであるかのようにマイナスのイメージしか持っていないように感じる。

昨日のニュース23では、小泉政権のなし崩し的な手法を「後出しじゃんけん」というような形容とともに批判していた。年金問題において、大事な情報を提出せず、なし崩し的に物事を決定してから、あとで情報を出していくことを「後出しじゃんけん」と呼んでいた。決まってしまったのだから仕方がない、と言うような雰囲気を作って、批判を無力化しているように見える。

イラクにおける多国籍軍への参加も、本来の意味での「人道復興支援」がどういうものであるかという本質的議論がないままに、「人道復興支援」のためなら軍隊を出すのだというなし崩し的な論理で押し通されようとしている。民主党の岡田代表は、「人道復興支援」と、自衛隊を軍事行動を伴う多国籍軍に参加させることとは別に議論しなければならないと、実に真っ当な批判をしていたが、この批判が、「それでは人道復興支援をしなくてもいいのか」というような的はずれの反論で押さえ込まれてしまう。

批判が批判としてちゃんと機能しないと、権力の側にいる者たちは、国民の世論というものをなめてかかるようになるだろう。何をしても自分たちの思い通りだということになってしまう。多国籍軍参加というものに関して、ちゃんとした議論もなく単に政府の意向を伝えるだけで決まってしまうなら、これは何をしても通るというふうに政府の側は思うだろう。何をしても通るのなら、無理を通して道理が引っ込むようになる。権力が腐る過程を今確実にたどっているのだと思う。

批判というものがこれほど無力になったと感じるようになったのは、戦後の歴史の中では初めてだろう。参議院選挙が近づいているが、もしこの選挙で政府与党に対する批判として、反対勢力の方に票が集まらなければ、このように無理を押し通す政府が国民の支持を受けたというふうに解釈されて、ますます無理が通るようになるのだろう。しかし、反対勢力の最大のものである民主党のイメージがあまりにも悪いので、批判票を投じる対象が見つからない感じもする。そうなると、批判が力を持たない状況はまだ続いてしまうのかという絶望的な思いも感じてしまう。たとえ民主党に積極的な支持を感じなくても、批判という意味で反対勢力を支持すると言うことが、今ほど必要なときはないのではないかと僕は感じる。

批判の意味を考える上で、とてもいい例が内部告発者を保護するための法律を考えることなのではないかと思う。神保哲生・宮台真司の「マル激トーク・オン・デマンド」でも、この法律について様々の言及をしていたが、これに対する基本的な認識において、日本の経営者がいかに批判というものに対して間違った認識を持っているかということを語っていた。

日本の経営者の意識では、内部告発をするようなものは、企業にとってはマイナスの影響しか与えないという受け取り方をしているようだ。それは、企業の恥部を暴くものであり、企業の社会的イメージを失墜させ、ひいては企業の競争力をそぎ、そのために企業がつぶれる恐れさえあるかもしれないと感じているようだ。



小さな芽のうちにそれを発見するには、ある種の不正に対して内部告発しやすい環境を作ることが必要だ、と考える人間が近代民主主義精神を身につけた人間だろうと思う。それは、単に不満分子が文句をつけるというだけの現象ではない。初期診断をする医者のための、警告の情報だと考えた方がいい。

宮台氏によれば、この法律は内部告発するものを全く守らないものになっているそうだ。何らかの不正を発見し、企業のためにこの不正を告発しようとしたものがいても、まず企業そのものにそれを知らせないとならない仕組みになっているらしい。企業に都合の悪い情報を、まず企業に知らせなければならないようになっているのだ。もし、知らせた相手が、その不正にかかわっている相手だったら、その告発を握りつぶそうとするだろうし、告発した人間を排除しようとするだろう。告発した人間は全く守られなくなってしまう。

本来ならば、企業を越える機関があって、そこに告発できるようにすべきだろう。そして、その告発によって、告発した人間が企業から不利益を受けないように法律が保障しなければならないだろうと思う。それなしには、公の意識を持って企業を告発しようとする人間は出てこないだろう。もし告発に踏み切るとすれば、告発しなくてももはやその企業にはいられないという条件に陥った人間だけだろうと思う。

今の内部告発者を守る法律は、その精神が尊重されるようには作られていない。だから、企業の不正が明らかになるのは、もはやその企業が回復可能な範囲を超えた深いダメージを受けたときだけになってしまうだろう。欠陥隠しのニュースが次から次へと明らかになっている三菱自動車なども、もし問題が小さいうちに内部告発できるような制度があったら、今のようなダメージを受ける前になんとか手を打てたのではないかと思う。

批判というのは、単に文句を言うだけのものではない。取り返しのつかない失敗を避けるための警告なのである。批判を許す社会は、失敗を正しく処理し、それが小さいうちに軌道修正が出来る社会だ。今の日本を見ていると、批判が力を持たないのだから、失敗の処理がいつまでも先送りにされ、もはや先送りが不可能になった取り返しのつかない状況になってから玉砕するしかないのかなという絶望的な思いがわいてくる。

日本は戦後60年も戦争をしないで平和を保ってきた。しかし、批判が力を持たない状況は、戦前も、戦中も、戦後も変わりなくつながっているのではないか。あからさまな弾圧は見なくなったが、無関心という絶望が蔓延しているような感じがする。

小泉さんが言っていることは単純明快だが、それを批判しようとすると複雑で難しくなる。単純明快さの果てに、いつかは破滅が待っているのだが、それが自分が生きている間に来なければそれで幸せだという感じなんだろうか。破滅を避けるための批判精神を取り戻すために、複雑さと難しさに関心を集めたいものだと思う。すぐれた批判の方法というものをこれからも学びたいものだと思う。





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最終更新日  2004.06.22 09:14:43
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