真理を求めて

真理を求めて

2004.07.09
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「多数決原理」を否定するという牧さんの運動論を紹介したが、これになかなか賛成できない心情というのは、真理はいかにして得られるかという考えに寄っているような気がする。多数決で多数の賛成を得られた考えというのは、必ずしも真理ではないのだが、それに積極的に賛成した人間は、「仮説」であることを忘れて「真理」のように思い込んでしまうのかもしれない。「真理」であれば、押しつけることにためらいがなくなってしまう。

科学の歴史を少し振り返ってみれば、革命的な新発見の真理というのは、たいていは最初の頃は少数派だ。それは当時の常識から見ればあまりにも常識はずれなので、検討することなく真理性を否定されている。コペルニクスの地動説は、その正しさを今は誰も疑う人がいないけれど、彼は死んでからでなければその考えを公にすることが出来なかった。

産褥熱の原因を突き止めて、消毒を徹底させることでそれを防いだゼンメルヴァイスの真理は、立場上の利害が絡んでいたので、多数派を得るのに時間がかかった。患者の死亡の原因が、医者自身が消毒というものに気がつかなかったからだという、医者の責任であるという主張は、消毒というものに気を遣わなかった時代には受け入れがたいものだったのだろう。

多数派に支持される「仮説」というのは、大した影響を持たないものだったら、冷静な判断をしさえすれば、かなりの人が「真理」である「仮説」を支持するようになるだろう。しかし、ある種の利害が絡んでくると、「真理」の判断に「利害」が影響を与えてくる。客観的な観点から「真理」を判断するのではなく、「利害」という観点から、利益をもたらす方を「真理」だと判断する気持ちが働いてくる。

歴史を振り返れば、多数決では真理が判定できないと言うことに気づくだろう。真理の判定には、多数決ではない確かな方法が必要なのである。そして、その確かな方法が見つからない間は、真理は決定しないのであるから、どのような意見であろうと「仮説」の一つに過ぎないのだという認識が必要だと思う。それが、どんなに確からしく見えようと、どんなに権威のある人間が言っていようと。それがマルクスが座右の銘にした「すべてを疑え」と言うことの精神だろう。

僕は、昨日の日記で 「珍獣くえすの書きなぐり日記」 の[2004.7.6]の記述を批判した。それは、

「養子に対して定住者資格を発行するとなると、日本で労働したい人に養子縁組の権利を売るビジネスが可能になる。婚姻の権利を売るビジネスでは、一度に一人しか入国させられないが、養子ならば何十人でも入国させられる。したがって、書類だけの養子に対して定住者資格を発行するようなことは、絶対に認められない。」

という、これ自体では「真理」だと思える文章も批判の対象にした。それは、この文章自体の「真理性」を批判したのではなく、この文章が持っている「真理性」が、他のことの「真理性」の証明に使われているので批判をしたのである。



タイ少女の問題が、「書類だけの養子に対して定住者資格を発行する」という問題であるかどうかは、自明なことではない。書類だけの養子ではないと主張する人がいるので、もっと充分に調べて結論を出して欲しいと言っているのである。むしろ、書類だけで、6歳未満ではないから申請を受け付けないと言うことの方が、現実を無視した形式主義なのではないかと批判しているのである。

「書類だけの養子に対して定住者資格を発行するようなことは、絶対に認められない」というのは、正しい主張であるが、これは、タイ少女の問題が、この真理に当てはまると言うことを証明はしない。タイ少女の問題が、この認められないケースに当てはまると言うことが証明されたとき、定住者資格を発行しないと言うことの正当性が証明されるという、論理的な関係になっているのである。

タイ少女の問題について何らかの証明をしたいのなら、具体的にその問題における事実を用いて証明しなければならないのである。抽象的にあることが証明できるからと言って、それのアナロジー(類推)で真理が証明されるという構造にはなっていない。

真理に対して敏感な人間は、それが確かに証明されているかどうかを気にする。そして、確かな証明がされていないときは、それは誤謬の可能性を残しているという受け取り方をするのだ。

まことに真理の証明は難しいという前置きが長くなったが、それだけに、牧さんが主張する格言として、次のような言葉が有効性を持つことが分かる。

・「べし」「べからず」でやせ細り
・小さな禁止が大きな抑圧

「べし」「べからず」で主張することが出来ることと言うのは、真理であることがハッキリしていることだ。しかし、真理であることがハッキリしていれば、こんな風に力んで主張しなくても、結果として真理が実現するのを余裕を持って見ていればいいとも言える。

真理であることの確信を持っているときは、牧さんが語っているように、「なるほど、うまくいっているときには押しつけないはないなァ」と言うことになって、少数の反対派に押しつけをすることなく運動が進んでいるのだろうと思う。しかし、真理であることの確信が持てないと、押しつけないと誰も動かないという状態になりかねないと心配になってくる。

そうすると、運動は「やせ細り」という状態になっていく。誰も動かないので押しつけるようになり、押しつけるからますます動かなくなると言う悪循環になる。労働組合の衰退などは、この悪循環の結果なのではないだろうか。

この「べし」「べからず」というのは、日本の学校教育の中でも数限りなく存在する。しかし、学校の側が主張する「べし」「べからず」のなかで、それが真理であることが証明されたものは一つもない。いったい誰が、それを押しつけてもいいという正当性を証明した人がいただろうか。



「学校などもそうですね。「べし、べからず」が多すぎます。たとえば学校で決める校則をとってみても、実に細かくいろいろと決めている。一つ一つをとってみると、どうでもいいようなことばかりなんです。髪の毛の長さだとか、靴下の色だとか……それに従ったところでどうと言うこともないようなことがたくさん書き連ねてあります。
 決める方(学校)からすれば「こんなどうでもいいようなことなんだから、学校側の言うことを聞いてくれ」と言うことで、そういう校則を作っちゃう。ところが、決められた方(生徒側)からすれば、逆に、いやもっと深刻に「そんなどうでもいいことでさえ、俺たちの自由にならないのか」となります。これはもうたいへんな抑圧です。人権問題だと僕は思います。
 人殺しや泥棒を禁止されたって、誰も抑圧だなどとは感じません。みんながしてはいけないと思っていることを禁止されたって、抑圧なんかに感じません。「どうでもいいこと」を禁止されるから、ものすごく抑圧に感じるわけです。」

この意見に僕は大いに共感する。学校は、自ら押しつけるものに関して、それが真理であるかどうか証明をしなければならないと思う。そして、証明できないことについては、押しつけをしてはいけないんだと考えなければならないと思う。証明できないことを押しつければ、自らの意に反して従うという奴隷根性を育てることになってしまうのだ。そして、奴隷になりたくない主体性を持った人間は、このような押しつけに対して反発するだろう。

この反発する人間こそが、本当は自ら考え・自ら行動する人間であるはずなのに、真理性に鈍感であると、そういう人間を正しく評価できない。正当な反発を、単なる非行としてしかとらえられなくなる。そして、ますます押しつけを強化するという悪循環に陥る。



民主主義が本当に機能して、大衆の利益を実現するようになるのも、大衆の一人一人が、真理と誤謬に敏感になり、証明された真理だけを信じるというふうになったときに、現実のものになるのではないだろうか。そして、信頼される民主主義になるのではないだろうか。





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最終更新日  2004.07.09 09:24:18
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