真理を求めて

真理を求めて

2004.07.12
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論理矛盾というのは、書かれている事実が間違っているということではない。たとえば昨日の日記では、彼の主張の中の、

「定住者資格は、血統主義だけを取っている為に日系2世や3世の帰国に対して、出生地主義の国家が付与した国籍との関係から発行される場合と、難民認定された人が祖国に帰還するまでの間、日本国内に滞在する為に発行される場合に限られている。」

という部分に関して、「限られている」という部分は、事実の間違いだと僕は指摘した。その根拠として、

「定住者ビザというのは、もともと曖昧さのある入管法上のビザないし在留資格の中でも最も曖昧なビザと言えましょう。すなわち、実際には、明確な基準はまだあまりありません。ただ、法務省告示の形である程度の類型化・定型化もはかられています。但し、上記の告示はいわゆる「例示列挙」であって、「限定列挙」ではないことに留意する必要があります。」
「定住者ビザの法務Q&A 」

というものも挙げておいた。事実の間違いというのは、論理の間違いではない。論理の間違いというのは、そこで展開されている主張の中に、対立する二つの主張が入り込んでいるということなのだ。

これは対立しているので、論理的な矛盾を生じさせる。論理というものが現実をよく反映したものであれば、論理的な矛盾は現実には成立し得ない。論理が現実を反映していなければ、論理に矛盾があっても、現実は違うと言えるかもしれないが、現実を反映しない論理など誰が信用できるだろうか。いずれにしても、論理に矛盾があるというのは、何らかの証明をしたいと思ったらどうしても避けなければならない大事なことだ。

彼が避けられなかった論理矛盾を具体的に分析していこう。

「全く帰化できる望みがないのなら「特例」というのも分かりますが、帰化できる方法がありながら特例というのは無茶と言うものですな。(7月9日16時22分) 」

という言葉に対しては、次のように図式化してみよう。



これとの論理矛盾は、「法治国家で暮らしたいのならば法律に従う、これ常識。 (7月7日11時4分)」という言葉との整合性だ。「全く帰化できる望みがない」のなら、法律ではそれは認められないということだ。それでも特例を認めるというのは、「法律をねじ曲げ」ることにならないのだろうか。「特例」という言葉にしてしまえば、「法律をねじ曲げ」るという言葉とは違うので、論理の矛盾が出てこないと思っているのだろうか。論理の矛盾は、その言葉の意味するところを理解して判断するものだ。字面で判断するものじゃない。

実際には、現実の理解としては、タイ少女が日本で引き続き生活していきたいという希望は、入国管理法という壁があって、このままの状態では希望が叶えられないということだ。だから、法律の機械的な適用ではなく、現実のもっている例外性を考慮して、特例の一つとして、引き続き彼女が日本で生活する許可が欲しいということだと思う。「全く帰化できる望みがないのなら「特例」というのも分かります」という言い方は、望みがないときに限り「特例」を認めるということなのである。

それじゃ、「特例」を認める根拠はどこにあるのか。客観的根拠は何も語っていない。どうやって、その「特例」が法律に則っていることを証明するのだろうか。根拠がないのに認めるというのは「法律をねじ曲げる」ことではないのか。

もう一つの論理矛盾は、法相発言に関するものだ。その発言は報道によると次のようなものだ。

「野沢法相は、東京入管が定住資格を認めなかったことについては「定められた要件に該当するか慎重に判断した結果と聞いているが、本人にとって良い結論が得られる方向で、再検討するよう入管当局に指示した」と述べ、最終的に定住資格を認めることも視野に置いていることを示唆した。」
「<メビサさん>法相が在留資格更新と定住資格の検討を指示 」

この発言を素直に受け取れば、一度下した入管の判断を、人道的な観点から見直して、「本人にとって良い結論が得られる方向で、再検討する」と語っているように読める。この記事の最後には、小泉さんの

「小泉純一郎首相はメビサさんの問題について、「私は人道的配慮がされるべきだと思っています」と述べ、自らの意向を反映させた措置であることを示唆した。」

という言葉も紹介されており、ここではハッキリと「人道的配慮」という言葉まで使われている。つまり、法相も首相も、この少女に関することには、「人道的」な面を優先させて法律を運用することを考えているというふうに読める。これは、少女を支援したいと考えている人たちと同じではないかと思う。

そうすると、某Sくんは、

「「現実の特殊性」や「人道的配慮」という名目で法律をねじ曲げるのは法治国家の精神ではないと言ってるんです。 (7月7日11時4分) 」

と主張しているのだから、論理的な一貫性を保つなら、法相や首相に対しても、「法律をねじ曲げ」ていると批判しなければならないんじゃないかと思う。しかし、なぜか彼は法相と首相に対しては批判の目を向けることが出来ない。こんな回答をしている。



「>小泉さんも、「私は人道的配慮がされるべきだと思っています」と言っているんだけれど、これも「法律をねじ曲げ」ているのかな?
-----
具体的に何か指示しましたか?
別に意見を言うことが悪いことだとは思いませんがね。 (7月9日16時22分) 」

普通の人が「人道的配慮」を要求するのは、「法律をねじ曲げ」ていることになるけれど、法相がやるのなら、「裁量」の範囲内だという解釈は、同じ事柄に対するダブルスタンダード(二重基準)ではないのだろうか。ダブルスタンダードがすべて悪いわけではないが、この場合は果たして正当性を主張できるのだろうか。



実際には、法相が事実を判断して、定住資格を認めることが正しいと判断したら、それを出すことが出来るというのが「裁量」ということの理解だろう。正しいかどうかは、あくまでも論理の問題だ。署名がたくさん集まったのは、その審査もしないで機械的に判断したから、もう一度考えてくれという意味で署名が集まったのである。署名が集まったから認めろという意味ではない。

それから、小泉さんは、その発言を素直に受け取れば、決定に対して「人道的配慮」をするようにということが「自らの意向」であると読める。彼が、批判していたのは、「「現実の特殊性」や「人道的配慮」という名目で法律をねじ曲げる」ということだ。だから、この場合は、「人道的配慮」という名目で「法律をねじ曲げて」いることにならないのかというのを僕は聞いたわけだ。答は、イエスかノーかという二者択一になる。

彼はハッキリとノーとは言わなかったが、「別に意見を言うことが悪いことだとは思いませんがね」と言っている以上、小泉さんの発言は、彼の言っている「法律をねじ曲げて」いることにはなっていないと判断しているわけだ。

そうすると、彼が署名に対して非難をすることがまた論理的に分からなくなってくる。署名の実行力がほとんどないことは、署名というものをしたことのある人間だったら実感として知っている。これこそ、実行力を伴わない「意見」にすぎないものだ。だから、彼の判断からすれば、少しも悪いことではないはずなのに、「温情や署名の多寡で、規定対象外の人に対してルールを捻じ曲げて」と考えるのは、署名というものに実行力があると思っている現状認識の間違いではないかとも思える。

また、小泉さんは、日本国総理大臣なんだから、意見を言うだけで大きな影響力を持つ。それに対して、「具体的に何か指示しましたか?」と、具体的な指示がなければ、責任が生じないと感じる、その責任感覚も普通の感覚ではない。小泉さんなら喜んでその意見を受け入れるだろうが。

実際には、この現実を理解するには、法律というのが、人間社会の矛盾を解決するために作られたものであると了解すればいいだけのことである。その矛盾が、経験済みで、すでに予想されたものであれば、当然法律にその対処が書いてあるだろうが、まだ経験していない矛盾が生じた場合は、その現実をこそ深く分析して、どのように対処するのが正しいのかを判断して法律を書き換えるということをしていくのである。

それを、法律の条文が絶対だと思うような「形而上学的思考」を持っていると、現実にその解釈が出来ない問題にぶつかっても、解釈に詭弁を使って対処するしかなくなるのである。現実を正しく認識しさえすればすむ問題であるのに。

法律の条文に機械的に従うことが法治国家というものであれば、憲法9条に違反しているイラクへの自衛隊派遣は、「法律をねじ曲げて」いることにならないのかどうか、ぜひ聞いてみたい気もするが、論理的にまともな答が返ってくるとは思えない。

論理というのは高度に抽象的なものである。抽象的であるから、対象の属性というものがほとんど捨てられている。つまり、対象の違いによってその適用を変えるということが許されないのである。ダブルスタンダード(二重基準)を当てはめるときは、その論理が、対象の属性のどこを問題にしているのか、その問題そのものが二重性を持っているということを証明して、論理の適用に違いがあることをいわなければならない。

対象の違いを何も語らず、自分に都合のいい結論を出すために論理をかえる(変える?・替える?・換える?)のは、普通の言葉で言うと「詭弁」という。「人道的配慮」をすることを主張することが、少女の支援者と法相・首相で違いがあるというのなら、その違いの根拠を示さないと、論理は破綻するのである。

ボタンの掛け違いのそもそもの始まりは、入管法という法律が、文章解釈をしたものがいつでも正しいという思い込みなのである。現実は文章解釈を越えているのだから、現実を理解して、事実を基に妥当性を考えるというふうにすれば、問題は解決の方向へ向かうのである。しかし、文章解釈が絶対だという思い込みがあれば、どんな事実を見ても分からないだろうな。それが、「形而上学的思考」の限界だものね。





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最終更新日  2004.07.12 00:02:48
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