真理を求めて

真理を求めて

2004.07.16
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今回の選挙結果だけではなく、その前からの傾向として、2大政党制への流れが否定できないものになってきた、と言われている。「マル激トーク・オン・デマンド」の中でも、その点では意見が一致していた。民主党が躍進したというのは、とりあえず非自民の中でのもっとも政権交代可能性のあるところに浮動票が集中したということを示していると解釈できるだろう。

しかし、「マル激」の中では、2大政党制の方が政治的にも望ましいのだという話にはならなかった。とにかく、自民党的な古い体質の政治からの転換を図るためには、一度政権交代がなければどうしようもないだろうから、とりあえず今の時点では2大政党制への流れを世論は期待しているのだという解釈だった。未来永劫にわたって2大政党制を望んでいるかどうかは分からない。そこまで先を見通している世論ではないという感じだ。

そもそも小泉さんがあれだけの人気を博して、高い支持率を獲得したのは、「自民党をぶっ壊す」という言葉に人々が期待したからだ。政権交代が起こらなくても、小泉さんなら自民党を変えてくれると人々が期待したからだ。しかし、現状を見てみると、小泉さんでも自民党を変えられなかったと思っている人々が多くなっただろう。それならば、自民党でない政権にするしかないと考える人が増えたのが、2大政党制への流れにつながっているのだと僕も思う。

2大政党制の利点として、政権交代可能な対抗勢力の存在をあげる人は多い。そういう対抗勢力があればこそ、支持を獲得するための政策論議が深まるという期待をしている人が多い。また、失敗して支持を失うようなら、直ちに政権交代の可能性があれば、失敗に対して慎重にもなるのではないかという期待も出来そうだ。

しかし、現実にはどうだろうか。2大政党制というのは、政権交代という点でしか期待の出来ない、根本的に矛盾をはらんだ構造になっていないだろうかという疑問が僕にはある。2大政党制への流れは、今回のように自民党があれだけひどくなったのにまだ政権交代が出来ないという状況の中でのみ有効な流れなのではないだろうか。これが、常態になってしまったら、それは少数意見の切り捨てということにならないだろうかと僕は感じる。

現実の条件を離れて、2大政党制を抽象的に検討してみようと思う。今回の選挙での比例区の投票というのは、ある意味での民意を反映していると思うので、この結果からいろいろと考えてみたいと思う。報道に寄れば、各党の比例区での得票率は次のようになっている。

民主    21,137,458 (37.79%)
自民    16,797,687 (30.03%)
公明     8,621,265 (15.41%)

社民     2,990,665 ( 5.35%)
女性      989,882 ( 1.77%)
みどり     903,775 ( 1.62%)
新風      128,478 ( 0.23%)

この数字を見ると、民主と自民の両方を逢わせた約68%の人々が2大政党制への流れを支持していると解釈できるだろう。これは多数派ではあるが、「圧倒的」多数派とは言えないかもしれない。この68%は、投票した人の中での割合だが、全体の投票率が57%程度であることを考えると、有権者全体の中では、これは39%ほどになる。つまり、2大政党制への流れを支持すると表に現れた意見は、有権者の4割ほどだということだ。

この表に現れた意見も、今回に限ってそう思ったのか、それとも基本的に2大政党制の方がいいと思ったのかは分からない。選挙制度に小選挙区制が取られたのは、基本的に2大政党制を目指すという構造を選んだということだろうと思う。そういう意味では、民意は2大政党制を選んだとも言える。しかし、2大政党制の問題が実感としてあらわになってくると、この民意も変わってくるだろう。

僕は、一番の根本の問題は、上に表れた数字において、2大政党を支持した人々の意志は政治に反映されるけれども、それ以外の人々の意志が無視されるということにあると感じる。共産党支持の8%、社民党支持の5%という数字は、無視してもやむを得ない数字なのだろうか。

小選挙区で、この得票率しかとれなければ、小選挙区で議席を獲得することはおそらく出来ない。いつまでも圧倒的少数派にとどまるだろう。その圧倒的少数派を無視するという制度は、多数派の失敗につながらないかという恐れはないのだろうか。

物事というのは、多数派には見えにくいが少数派にはよく見えるということがたくさんある。その見えにくいことが、いつでも無視しうるような末梢的なことであればそれほどの問題は生じないが、それを見ないでいたことが取り返しのつかないミスにつながったりはしないだろうか。バブルの頃は、土地に投資しない人間は圧倒的少数派だった。多数派は金儲けに奔走していた。その金儲けが、実体のない空虚なものでいつか終わりがくるというのは、多数派にとっては見えにくい真理だっただろう。

「いつか終わりがくる」というのは、その「いつか」が分からなければ、負け犬の遠吠えのように聞こえるだろう。しかし、実際にはその「いつか」が訪れる日が来る。バブルに踊るという、多数派のミスによるツケは、未だに日本経済に影響を与えている。あの頃、もし少数派によるものの見方をすくい上げる構造があったら、これほどひどい影響を残さないところで歯止めをかけられたかもしれない。

年金財源の無駄遣いも、大規模公共事業による地方財政の破綻も、少数派を活かす構造を持っていれば、あれだけひどくなってから手をつけるという、先送りのミスだけは防げたのではないだろうか。日本でもやっと、内部告発者を守る法律を作ろうという考えが生まれてきたが、これも、少数派の意見に耳を傾けようということだろうと思う。



今後も2大政党という状況が続くのなら、この見えないところをどう見ていくかというのを考えなければならない。内部告発者に対しては、組織に対する裏切り者という見方もまだ日本には根強く残っている。そうではなくて、組織の中の多数派には見えないところを見ている貴重な人間たちというとらえ方をしなければ、内部告発者を本当に守ることは出来ない。内部告発者を本当に守ることが出来なければ、破滅に向かうような大きなミスに事前に気づくことが出来なくなる。少数派を大事にするというのは、単に人道的な配慮というのではなく、きわめて現実的な選択なのだと思う。気分の問題ではないのだ。

2大政党制への流れというのは、今の自民党政治を終わりにしたいという、この閉塞状況を打破するための方便として人々が望んでいるのだと僕は思いたい。そして、その閉塞状況を打開できたあとは、少数派の意見を大事に出来るような構造をもう一度考えるべきだと思っている。そうでなければ、同じ過ちをもう一度繰り返すことになるのではないかと思う。

2大政党制の流れの中で、大きくもなく小さくもない公明党は、その存在の意味を大きくしている。公明党を抱えた勢力がその時点での多数派になるという、いわゆるキャスチング・ボートを握ることになっている。そうすると、圧倒的少数派ではないが、少数派の意志が、多数派を押さえて君臨するということも表れてくる。この少数派の意志に間違いがないのであれば問題は生じないが、もし少数派の個別的利益に資するだけの意志だったら、間違いを生じる恐れがある。2大政党制は、このような矛盾もはらんでいるだろう。多数派の意志が必ずしも実現されないということもあり得る。

少数派であろうとも、正しさが証明される前は、多数派と同じ重さを持った意見を提出できるという制度が欲しいと思う。正しさの証明がされた考えが最終的に決定されるべきだと思う。たとえ少数派の意見であっても、より正しいと思えることが、正しさの証明をする過程で見えてくるような制度を考えるべきだ。そうすれば、多くの人が正しさを理解して、やがてその意見が多数派になっていくという健全な方向が見えてくるだろう。

多数派の利益をもとにして、少数派の意見が殺されてしまう、そのような傾向を2大政党制は持っているように僕は感じる。2大政党制への流れが、今の自民党支配を終わらせたいという願いのもとでのみのものであればと僕は願っている。





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最終更新日  2004.07.16 09:38:05
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