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2007.01.05
発想法と科学
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三浦つとむさんに『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)という本がある。三浦さんは弁証法を「科学」と捉えていたのだが、これを板倉さんは批判していた。板倉さんの定義では弁証法は「科学」ではないからだ。
板倉さんは、最初はこの表題を比喩的な表現だと思っていたようだ。弁証法は「科学」ではないが、「科学」の持つ真理性を、嘘やデタラメではないことと言うような比喩的な意味で受け取って、弁証法も嘘やデタラメではなく真理を語っているのだという意味でこの表題がつけられていると思っていたようだ。
しかし、後によくよく考えてみると、三浦さんは本当に弁証法が「科学」だと思っていたようにも感じていたようだ。これは「科学」というものの定義が違い、「仮説実験の論理」によって検証されたもののみを「科学」と呼んだ板倉さんとは判断が違ったようだ。三浦さんは、社会科学は基本的に「仮説実験の論理」には馴染まないと感じていたのかも知れない。だから、よくよく考えて論理的な齟齬を起こさなければ、それは真理として通用すると思ったのかも知れない。そのような真理を「科学」の中にも入れていたのではないかと感じる。
僕は「科学」に関しては板倉さんの定義に同意しそれを支持する。たとえ論理的な齟齬を起こさなくても「科学」ではなかったと確認されたものが科学史においては存在するからだ。もっとも有名なものは天動説だろう。地球が固定されていて、他の天体が地球の周りを回っていると言うことを前提にしても、そこに論理的な齟齬を起こさないような理論を構築することが出来る。視覚的な事実(=真理)に関しては、それを整合的に説明することが出来るのだ。ディーツゲンが指摘したように、視覚的真理に関しては、天動説は真理なのである。
しかし天動説のまずいところは、その理論では説明が出来ない新事実が次々に発見されて、常にそれを修正していかなければならなくなったことだ。惑星のように「惑う星」の動きを説明するには「周点円」という仮定を設定しなければ説明が付かなくなる。複雑な計算値を合わせるためには、この「周点円」をいくつも重ねていかなければならない。これは、誤差を埋めるために関数の次元を上げていかなければならないということなのだろうと思う。
未知なる存在がいつでも理論の修正を要求すると言うことは、実は「任意」の対象に対して成立すると言うことを否定することになる。「任意性」が証明できなくなるのだ。地動説の方が正しく、それが「科学」と呼ばれているのは、その理論は未知なる存在に対しても、理論を修正することなく整合的に当てはめることが出来たからだ。エンゲルスが語ったように、
「コペルニクスの太陽系は、三〇〇年のあいだ仮説であった。それは九分九厘までたしかであったが、やはり一つの仮説であった。しかしルヴェリェ〔一八一一~一八七七、フランスの天文学者〕がコペルニクスの太陽系によってあたえられたデータから、一つの未知の遊星の存在の必然だけでなく、この遊星が天体のなかで占めなければならない位置をも算出したとき、そしてガレ〔一八一二~一九一〇、ドイツの天文学者、1846年に海王星を発見〕がこの遊星〔海王星〕をじっさいに発見したとき、コペルニクスの太陽系は証明されたのである。」
(
「〔弁・抜〕物自体――『フォイエルバッハ論』から」
よりコピー)
しかし、いまでは「科学」は、フロギストンの放出ではなくその反対の、酸素との結合によってものが燃えるという現象を説明する。これは、板倉さんが作った仮説実験授業の「燃焼」という授業では、燃えたあとのものの重さを考え、原子論を基礎にして燃焼の現象を考えることで、酸素との結合の方こそが正しいという認識が得られる。そちらは、未知の現象を正しく言い当てることが出来る。
フロギストン説の方は、フロギストンが放出されるのであるから、原子論を基礎にすればものが燃えたあとは全て軽くならなければならない。しかし、燃えたあとに重くなる物質というものが存在する。これをフロギストン説では整合的に説明することが出来ない。しかし、酸素との結合という考え方を使えば、酸素と結合して気体になって放出されればものは軽くなり、結合した結果が物質的にとどまるならば、それは結合した酸素の分だけ重くなる。現象を整合的に説明することが出来る。
そして、この説明が、未知なる新しい燃焼の現象に対しても、その重さに関する予想がいつでも正しいものを導いてくれるなら、それは「科学」に一歩近づいていっているのである。論理的に整合性のある考えを、実験によって検証することで「科学」が成立する。そして、その実験は、基本的に未知なる存在に対しても予想が100%当たるというものでなければならない。そのことによって「任意性」が証明されると考えるわけだ。
弁証法も任意の対象について考えるのだが、これはその結果が常に正しいと主張するものではない。対象によっては正しくなり、対象によっては正しくならないと言うとらえ方をする。ここが「科学」と決定的に違うところだ。弁証法は、それだけでは全く当たり前のことを語っているだけで、何ら新しい発見をもたらしてくれるものではない。ある時は正しいけれど、ある時は正しくないと言うのは、その「時」を区別できなければ何の積極的な意義を持たないものになる。
たとえば、男と女というのは対立する概念であるから、人間はこの対立する概念が統一された、男であると同時に女であると理解することが正しい、と言われると、何を馬鹿なことを言っているかと思うだろう。僕も、形式論理を勉強していたときに初めて弁証法に接したときは、弁証法はバカげた主張をする間違った形式論理だと思ったものだ。
弁証法は間違った主張もたくさんするので、それを詭弁だと断じている人もいるようだ。「時」を間違えて、正しくないときにも弁証法的な主張をすれば、それは詭弁になるだろう。しかし、これを「発想法」として利用すればこれほど役に立つ道具はないと、板倉さんは指摘する。僕も、それこそが弁証法の神髄だろうと思う。
物事を整合的に捉えるためには形式論理的に考えなければならない。形式論理を真っ向から否定するような理論は、たいていの場合は間違えている。妄想に過ぎないものが多い。だが、対象によっては、その複雑性がどうしても形式論理では表現しきれないものがある。あれかこれかの二項対立的な思考では、どちらにも形式論理的な整合性が取れない場合があるのだ。
こんな時、そこに対立した面を見つけて、その対立がどのような「時」に正しくなるかを考えることで、「時」を分けることで形式論理の正しさを救うという方向が見つけられることがある。
「客観的報道が存在するか」というようなことを考えたとき、それが「ある」と断定すると、記者の主観が介入するのに、それが「客観的報道」だと言えるかということが形式論理的な整合性が取れなくなる。逆に、「客観的報道」はないと断定してしまうと、どの報道も信用するに値しないということになってしまい、これも形式論理的に報道の信頼性を証明できないという結果を招く。
これを解決するためには、どのような「時」あるいは「条件」が「客観性」というものと結びつき、どのような「条件」が「主観性」というものと結びつくかということを正しく区別することによって、「客観性」との結びつきの正当性をもって、たとえ「主観性」があろうともその報道を「客観的」だと判断しようと言う考えがでてくる。これを弁証法的に表現すれば、報道というものは、本質的に「客観的」であり「主観的」でもあり、両者の統一として捉えなければならないということになる。
弁証法は結果的に間違った判断をもたらす場合もある。しかし、それを発想法として使えば、今まで見落としていた「時」や「条件」を強く意識することが出来る。それによって問題を新しい角度から照射することが出来る。それによって思考が発展することが期待できる、と言うことが弁証法の最も重要な有効性ではないだろうか。それを「科学」だと思ってしまうと、間違いに陥ったときにその詭弁性に気づかなくなる。それは「科学」ではなく「発想法」として捉えることが正しいだろうと思う。
観念論や唯物論も、真理を問題にするような「科学」ではなくやはり発想法だろうと思う。それらは、究極的には真理性を確立することは出来ないのではないかと思う。そして、全ての「イズム(=主義)」で語られる言説も、「科学(=真理)」ではなく「発想法」だろうと思う。マルクシズムもフェミニズムも、発想法として受け取ることが正しいだろうと思う。
フェミニズムに関しても、社会的な現象を女性の目から見て捉えた方が正しいこともある、と言う発想法として捉えれば全く問題はないだろう。それが、その方が正しいのだという硬直したドグマになってしまえば詭弁になるのだろうと思う。弁証法が「科学」と同じ真理だと思い込むのと同じ間違いになるだろう。
フェミニズムの発想で捉えれば、正しいこともあり間違っていることもあるというのは、ごく当たり前のことだろう。問題は、どのようなときに正しく、どのようなときに間違っているかを区別することだ。
内田樹さんも、僕も、どちらかというとフェミニズムの発想が間違っているときの方が気になって、そちらの方の指摘ばかりをしたくなるところがある。これは一つの偏見ではあるが、間違いの方を肥大させて、フェミニズムの発想は「全て」間違いだといえば、行き過ぎたことになり、かえってそう主張する方が間違えるだろう。しかし、フェミニズムが正しい「時」も承認して、その前提で間違えているときの指摘をするなら、これは何の問題もないのではないかと思う。それはフェミニズムを発想法だと捉えているだけのことだからだ。
マルクシズムはその間違った面が明らかになったので、行き過ぎて発想法としてのマルクシズムまで否定されかねない状況になっている。フェミニズムの場合は、まだ間違った面を主張することがはばかられる雰囲気もあるように感じる。そのような雰囲気があるときは、内田さんのように皮肉っぽくフェミニズムの間違った面を指摘する言説は必要であり大切なものではないかと僕は思う。誰もがこれを一つの発想法だと認識するようになれば、過度の批判は必要なくなるだろうと思う。
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最終更新日 2007.01.05 10:06:48
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